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なるほど、一大名、武士ではなく、公家としては、豊臣家を放置できないと言う視点はとても興味深かったです。
海外勢力の利用って視点はすごい納得いく視点ですね、それぞれ的を射た見かたに思えるので複数の要因がある感じしました!内容すごく面白かったので登録しました!
このタイトルだけでこんなに話せる知識があるのって素晴らしいですね
もう一個理由がかけてませんか。関東は湿地帯が多く未開発&地元の荒くれ武士が乱立していた→秀吉によってこの未開な土地に封じられる→封土の治安維持と整備に莫大な費用が必要となる→当時の経済は一旦、売り物を大阪に集め、大阪で取引した後、全国に配送されるようになっていた→関東も例外ではなく、関東で生産された財の収益が大阪に吸収され、お金が関東に残りづらい環境になっていた→関東という封土を治める家康にとっては自衛のために、この経済状況を覆す必要があった→大阪の楽市楽座の利権を壊すためには豊臣を支配下に置くか、滅ぼすというのは自明の理ではないだろうか。
秀頼が二条城会見の時加藤清正は秀頼には付かず家康側にいましたね
謀反の気がなくても、まわりに担ぎ上げられる可能性は十分ある。日本を治めるならば豊臣家を滅ぼしておくほうが争いは少なくて済む。私は冷静な家康公好きだなぁ。性格悪いとか言われるけど、よく考えて目的を果たしている。
どのへんが地上波で放送できない部分だったのでしょうか
秀吉の弟の大和大納言豊臣秀長が長生きしていたら関ヶ原の戦いも豊臣家の呆気ない滅亡も無かったてよく言われてますね、再来年の大河ドラマは豊臣兄弟みたいですね名参謀で誰からも慕われてた豊臣秀長の大河ドラマは嬉しい限りです。今でも奈良県の大和郡山市は秀長さんと呼んで親しみをもってます
堺屋太一さんの小説「豊臣秀長」オススメです
秀長の遺言「唐入りは無謀と知っているが、止めてやるな」内憂外患を早く解決するため、武士たちに犠牲を強いて日本が貧しくなるのも覚悟の上の戦略だった
大阪城をでても家康は絶対に豊臣を滅ぼしたでしょう。
何故でしょうか?
なんで?
地上波では放送できない、というのを見て期待したのですが、放送できないのはどの部分ですかね? 荒唐無稽な珍説を期待したのですが残念!
名を分断するというのは古来から嫌われていて、家康、秀忠、この2名については特に注意を払うべきとこであった。しかし、鐘の件が無くても何か揚げ足はとられていたと思う。
わかりやすい動画ありがとうございます!しっかし秀頼の父親って誰だったんだろう、今後遺骨でも見つかって解明されたりはしないのかな?
浅井の男達は体が大きく、秀頼も180センチ120キロぐらいの体格があったと記録されて、初めて謁見した時に弱々しいイメージをしていた家康が、体格もだが気組みも座り、これは後々脅威になると感じた。と一つの要素だったと言う識者もいますよね。浅井の血筋、宮本武蔵…など180〜90センチで筋骨隆々の武者も体格の記述が残っている武者もいるみたいですね😮
根絶やしにしたのは血筋だけでなく、秀吉が政権を握っていたという痕跡も消していますね。安土桃山時代という名称もボカした表現ですし、夏の陣の後、大阪城の掘だけでなく石垣も埋めています。
戦というものは冷徹にならなければ勝てないという手本ですね。同じ日本人同士で殺戮を繰り返していた事が不思議です。ノーテンキな世代で生きて来られた事に感謝、感謝です。 風神風
大阪城の城攻めは厳しいものがあるから埋めたんでしょうね
@@チャモロ-d9p 徳川の太平の世になってから、わざわざ石垣まで埋める意味がない。
家康は "源氏長者" を朝廷から貰い源氏の家系に連ねてまで征夷大将軍になったくらい肩書き,家格に拘っていたので, 低階層から成り上がり関白にまでなった秀吉を蔑んでいた. 由緒正しい武家の血統のみが正であり, 下剋上でのし上がって来た何処の馬の骨とも分からない者が大名になったり, ましてや天下を獲るなんて信じられなかったのだろう..武家出身の信長は良しとしても, 秀吉が成り上がれる下剋上の世の中を 物凄く嫌悪していのだと思います.🤔
安土桃山時代と言う名称は、徳川家がつけたものではないのでは?(^_^;)大坂城の無力化は、摂津に堅城があっても意味がないからでは?徳川家の本拠地である関東の防衛に役立つならともかく、摂津は関東の防衛には関係ないですし、何より痕跡を消すなら廃城するかと(´∀`; )
織田家が、豊臣・徳川時代でも大名として残ったのは、やはり臣従したということであろう。北条政子・日野富子などのように政治に大きな力を持つ間違えた女子が出てくると家は滅ぼすという例だと思います。秀次や秀長が生きていれば変わる、まだ生き残ることもあると思います。また、彼らがいれば、まだ豊家恩顧の西国大名家もあったでしょう。それらが、時代の流れ・秀吉の衰えが結局、豊臣家の滅亡につながったと思います。
信長はかなり早くから信忠に後継を一本化して他の子供は他家に養子に出してしまってました他家に行けばその家のことをまず考えますからね。信忠も死んだことで織田の天下は終わりましたが統制が取れず各々が保身のために動いたことで家が残ったとも言えます
豊臣家の時代が終わったことを認め大坂城より退き一大名となる 孫娘千姫を妻にし穏やかに過ごす選択もあった秀長 秀次が存命であれば途中選択の誤りを手直しする方もいたかも知れません。会津戦争もそうですが鶴ヶ城 大坂城が幕府勢力 反徳川勢力のよりどころとなり双方の城主もそれを拒まなかった訳ですからそうなれば一大勢力となる訳ですからそれは征伐されます。
秀吉のつくった政権は秀吉と各大名の人間関係で成り立っていたものでしかなく、危うい体制だったと考えられます。各有力大名は力を持ったままでしたし、秀吉が亡くなった後に豊臣の家臣で争いが起こったりし、それでは過去の室町幕府のような不安定なものだったかもしれません。そこまで考えて秀吉が政権を構築しておらず、いっぽう家康はそこまで考えていたと思われます。二度と戦乱が起こらず、天下泰平を維持することまで家康は考えており、その後の政権運営を官僚機構に任せるとまで考える家康にとって、豊臣はまず滅ぼさないといけない存在だったんでしょう。このまま豊臣を残すとまた戦乱が起こると。
家康は源頼朝を尊敬してたので、前例から学習していたのでしょう。また家康は織田の家臣ではなく同盟国という立場だったので、秀吉に従う義理もない。徳川幕府が長く続いたことからも、この判断は正しかったと思います。
もし正室の北政所に男子がいたら、或いは一時は関白にした甥の豊臣秀次を切腹させなければ、豊臣家が滅亡することはなかったかも知れない。いずれにしても秀頼の生母である淀が時代の流れを読み取れなかったこと、淀がもっと自尊心を失ってでも豊臣家を残すことに全力を尽くしていたら、こうはならなかったと思う。彼女は秀吉の子を授かったと嘘をつき、織田から天下を奪った豊臣から織田の血を引く自分が天下を奪い返すという野心に燃えすぎた為、滅びることになったんだと思う。
その通りだとは思います。ただ家康と秀吉の吉野での和歌を比べた時、秀吉は横の広がりのみを愛でましたが、家康は四季の移ろいという、前後すなわち未来を見据えてました。どうなっていたとしても、早晩 家康の天下は不動だったと思います。
伊勢か大和に国替え、江戸に参勤、千姫との子供に家督を継がせるというところまでいけたら残れたかもね。
たらればで豊臣存続を書いてる人がいますが無いです。家康は秀吉死んだら自分が将軍になって幕府開いて豊臣滅ぼす気でしたから。秀長いようが秀次いようが寧々の嫡男いようが家康は全力で滅ぼしました。秀吉が死後も続く強力な豊臣の支配体制を作らなかった事、家康より先に逝った事。この時点で豊臣の命運は尽きました。
豊臣家が旧主織田家を臣下としたのだから淀殿と秀頼はそれに倣うべきだった。すなわち官位を従四位下参議あたりに落とし、10万石程の領地に国替えし、大阪城に蓄えた黄金の大部分を差し出せば逆に徳川幕府からは厚遇されたと思う。淀と大蔵卿局のような女官が豊臣家を大きく誤らせたのは間違いない。
三成が秀吉存命中に家康と話をつけて政権移譲。これなら...いや、淀殿から刺客送られそうだ。
室町時代の守護大名の名家なんかも高家として残してるわけだし織田や今川みたく野望さえ持たなければ豊臣家を従えるなんて将軍家にしても望むところだろうしな。戦国の最後に天下人の子供として戦って滅びるという選択をしただけだろ。最後の最後まで出陣できなかったのは悔いが残るかも知れないけど。
豊臣家が金銀山を抑えていたのと商業の決定権を持っていたので経済的に驚異だったが1番では!
確か歴史群像の豊臣秀吉の本に豊臣国松公と秀頼公は九州に落ち延びて寧々さんの親戚の日出藩木下家に国松公は引き取られ唯之助と名を替えて後に五千石を与えられて旗本になったと日出藩木下家の元子爵のご当主様が歴史群像で語られていた記憶がありますけど。後、もし大坂城の規模が淀川の大半にも総構えの中に入っていたらあんなに簡単に大坂城の堀を埋める事は出来ないと思います。
キレるしかありませんと言うパワーワード
秀吉の視野の狭さが、一族を滅ぼす結果になった気がしてならない。家康の視野の方が広く高い。江戸時代もよくよく見ると、一党独裁時代の為に、かなり他の者達の人生が犠牲になっています。反乱を起こさせない為の様々な弾圧や従属の色々。他国よりマシと言える程度。
そもそも織田信長亡き後に普通なら信長の子を立てて織田家再興をしなきゃいけないはずの豊臣秀吉が織田家を差し置いて関白になってるんだからそりゃ根絶やしにしなきゃヤバいってなるよね
別に普通とは思いません。力の強い者が上に立つのが戦国乱世の習わしですから。ただ自分の主家だった織田家から権力を簒奪して臣下にしてるわけですから、秀吉の死後に家康が豊臣家滅ぼして天下奪っても文句は言えませんよねえ。
秀吉になびく家臣が家康の善意を我が物だから理由は、食べ物が本当にまずい。
見解
秀頼公が臣従しなかったから成敗されたと言われるが、年賀の挨拶の使者を家康に派遣しているし、二条城会見でも家康を立てるなど、協調姿勢に努めている。大坂の街づくりや荒廃した寺社仏閣の復興に熱を入れ、国家安康・君臣豊楽という、平和でみんなが豊かに楽しく生きていける世の中を願っていた秀頼公。死人に口無しでめちゃくちゃに言われ、お気の毒な限りだ。
同意です。
何をしても因縁付けられるとか絶望しかなかったでしょうね
だったらその流れで国替え、参勤交代、淀殿の人質のどれかに応じてほしかった
@@korewakorewa どうだろうね、アノ時代だし秀吉の血筋は結局は謀反の恐れが付き纏うから根絶やしにされてそうですが
秀吉の子じゃない秀頼… 九州に逃げ延びた説もあるね。 真実は如何に?
出自をごまかして盛るのは当時の大名、守護あるある。
たぶん、家康一人の判断では無いと思います。現代人と比較したら、江戸より大坂が儲かっているから大坂を潰せ、が民意の流れだった。
家康さんみたいにタヌキじゃないてすけど力や大きさで相手と対峙するのではなくて、知恵や作戦で勝負する。なにか自分に通ずるものがあり人生訓でもあります。
豊臣にとっちゃお気の毒だけど、後の長く続く平和な時代と各地方で文化が発展したのは徳川のおかげだな。
天下泰平の世を築く為には、わからん奴らは滅ぼすしかなかった。結果、徳川幕府は日本を対外政策も含め、見事に収めた事実がありますよね。
スペイン側からみると、日本を植民地にすることを諦めておらず、豊臣側に入り込み、家光の代位に達成する長期計画を立てていたとか。
イングランドに一敗地にまみれていて、地球の反対側まで艦隊を差し向ける余力はないはず。
@@mtlook0704 英西戦争後もスペインはフィリピンを統治しており、アジア覇権を止めていない。日本と直接戦うのはでなく、内戦で片方に加担して勝利に導き統治に結びつける計画。しかし、それは徳川側に見抜かれており、キリスト教禁教政策の強化とともに、1624年にはスペイン船の来航を禁止。
平家が源氏を残してどうなったか、そして天下をとった源氏もどうなったか、身近に育った家康がよくわかっている。だから御三家も作ってそれでも家は衰退するから御三卿を作った。
それになんと言っても吾妻鏡が愛読書でしたもんね
何言ってんだ御三卿を作ったのは家康じゃないだろ
@@kepler123 どこに御三卿が家康が作ったって書いてる?家三代の興亡だろ
御三卿を設立したのは八代将軍吉宗公。
@@究極の救連皇 家康公スゴッ!と、御三家×三代=9代目で家系が途絶えるの教えにビックリして慌てて吉宗が御三卿をつくる
浪人たちは、豊臣の血筋が残る限りそれを担ぎ上げて幕府に対抗しようとする。その禍根を断つのは家康としては当然のこと。
方広寺鐘銘事件は難癖としては非常に秀逸よくこんなこと思い付いたなと
勝てば官軍。勝ちさえすれば間違った事をしても全て正義になる。都合の悪い事は全て負けた者に擦り付け。
次は、秀頼生存説お願いします。
生きてたら430歳…さすがに無理ある
@@たっちゃん-j4h大坂夏の陣で自害したと言われているが、薩摩で生き延びていたと伝えられている。それについて聞きたいのであって今も生きているなんて思ってないだろ
@@音速丸-h2d …ちょっとしたボケも許されないのかよ
@@たっちゃん-j4hこれが現代日本ですね…シャレにならんのは除いてもこんな冗談すら許されないような風潮ありますからね…自分はこういうボケ好きですが
@@たっちゃん-j4h秀吉って鬼武者のボスになったっけ!?
愛媛城って物は、愛媛県には、ありません。
要するに多くの大名を改易し、それらに対する対策をしなかったために大坂に集まったとも言えます。結局浪人とともに豊臣家を葬った事で一石二鳥だったとも言えるでしょう。
関ヶ原もそうですね土地を与えることで親分子分の関係が成立するのが武士です本来秀吉が決めた国割りを動かすのはかなり難しかったと思うのですが、わざわざ家康に反発する大名を集めてくれたおかげで反対勢力の駆逐と秀吉の定めた国割りの破棄という難事業を一気にやり遂げてしまった
淀殿が見栄を捨てて現実を受け入れていたら豊臣家も公家として細々と続いていたんじゃないかな?と思いますね😢大阪城の中にいれば秀頼の母として絶対女王として君臨出来るけど、大阪城を1歩出れば官位がないただの女として扱われかねませんからね😅官位なんかに興味がなくただ豊臣家の繁栄と存続を願うねねさんとは対称的ですね😮歴史にタラレバはないと思いますけど淀殿にもねねさんに匹敵するくらいの官位を与えてあげて自尊心を満たしてあげていれば、案外あっさりと大阪城を空け渡してくれたのかも?🤔と思ったりもしますね😅
これのどこが地上波で放送できないの?松山城を愛媛城って間違えてるから?
秀頼がキリシタンだったとは思えない
かろうじて生かされた者も出家させられたりと豊臣家の血筋を一滴も残さぬような徹底的な滅ぼし方を見るに、豊臣家がその気がなかったとしても周りの大名が謀反を起こすときのネタにされるのを幕府は一番恐れていたのかもしれませんね。
13・45に出る絵は、何の絵ですか?
最終的に島津、毛利に負けるんだから、西国を警戒していたのは正解だったんですね。
まあ力(軍事力)こそパワー(権力)だからなあ
秀次がいればねえ。
自分で自分の首をしめた
秀次でも同じ結末だったと思う秀長か利家くらいの統率者じゃないと秀頼は守れなかったんじゃないかな
ごく当たり前な話ですねちなみに大和郡山に移封しても難癖つけられて根絶やしにされたと思う。因果応報徳川も薩摩、長州にやられるんだから歴史は面白い
最後の最後まで孫娘を秀頼に与えたままだったし家康のほうが必死で豊臣存続の道模索してるのに秀頼のほうが時流を読めずにそれに気づいてくれないってのはホント家康困っただろうなあ
家康は助けようと思ったけど冷酷な秀忠が許さなかったって話もあるけど秀忠は人質時代に良くしてくれたねねのことを母親のように一生大事に面倒見てるんだよね娘婿を殺したかったはずはない。将軍ともなると自分の感情よりも天下のこと優先しなきゃならないのだろう。
宇喜田が泳いだら関ヶ原勝ってた説好き❤️
家康とねねは最後まで仲良く、もう豊臣潰していい?ねねは、いいよと、言ったとか言わないとか?
武家貴族の前例は平清盛という人物もいますけどね。織田信長に引き続き、この、平清盛型の武家貴族を秀吉が目指した結果ですね。しかし、そのビジネスモデルが、実質、一世一代というのも、これもまた必然。藤原摂関家ではないですからね。
そこに浪人たちが、集まり続けるからですよね。
外面的視点からではなく家康という人間の内面的な視点からですが....。秀吉に対する怨み辛みやっかみだと思います。人間関係は時代を問わず有名人一般人共に永遠ですね😅
家康はそんな小さな男じゃない、じゃなきゃ我欲の塊の旗印が多い中厭離穢土欣求浄土なんて掲げるかよ。
自分の本当の孫娘と結婚させてるし秀忠だってねねのことは死ぬまで大事にしてるし感情では秀頼残してやりたいとは思ってただろうよ。自分の長男さえ切腹させてるように家康は自分の感情で判断誤るような人間じゃないだけ。
宗教からんだら面倒だ。わかる
少し勘違いされていますね。武家と公家の両者のトップなら、秀吉以前に、足利義満が、将軍でありながら、太政大臣に任官されてます。そのことをお忘れなく。
何故、豊臣家は「公家」らしく朝廷にのみ仕えなかった?
「牢人」勉強になりました。
加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・浅野幸長・藤堂高虎・細川忠興・京極高知・田中吉政・蜂須賀家政・加藤嘉明が豊臣方に味方してたら家康は負けたかもね
家康は辛抱強く豊臣恩顧が代替わりをするのを待ってたのかたまたまあのタイミングになったのか
豊臣秀吉も徳川家康も織田信長が願ってやまなかった庶民のための日本の未来を一緒に作っていたとは誰も知らない
武家の長にはなれないから関白なんですよ。家康も同様です。徳川家とは関係ありませんよ。
天下を一度とった家を新たな天下をとった家がどんな理由があれど普通に考えて残さないよね😅それも戦国の世で一世紀近く乱世が続いていた訳でここだ!と言う所だったんでしょう家康公からしたら😮
徳川家は今でも残ってるよ。
織田家も足利も❤
秀頼は豊臣の血筋だったのだろうか?、あり得ないよね、淀君、の豊臣への復讐心は皆無だったといいきれるのか?家康は冷静に淀君を見、判断したんじゃないか?人生は重荷負うて遠き道を征くが如し、急ぐべからず、淀は家康に見透かされてた、所詮女の浅知恵をね、北の政所も解ってたんじゃない?
2:06 義父じゃなくて、義祖父ね。千姫は秀忠の娘ですから。
結果論ですが。秀頼が大坂城(河内)を出て他の国に移ってれば。つまり、改易してれば豊臣家は安泰だったと思います。
私も同感ですな 国替えされようが改易されようが 織田のごとく のらりくらりと躱すべきだった
改易したら豊臣家はなくなるよ⁉︎改易して安泰なのは秀頼の血脈のみだからね。
@@多羅尾伴内-g1cさん無くならんよ国松は家康の曾孫、秀忠の孫なんだから、臣従さえしてればそれなりの地位は保証されたはず
改易というのは領地没収だから大名としての地位はなくなる。家臣はほぼ全員浪人、本人は命は長らえても何処かで捨扶持をもらうか。国変えとは違う。
@@cogito5576 いや、改易ってのは豊臣株式会社がなくなるって意味ですよ❔秀頼・淀殿の一個人は高い地位のまま生きてはいけるでしょうが武家として改易というのは家がなくなるという意味だから。
普段は優秀な才能・DNAは残って欲しいって思えるけど、秀吉の才能は遺伝とかじゃなくてただ本人が凄かっただけって印象が強いし豊臣が残っていたらその子孫がいつか挙兵するリスクが残り続けたから、滅ぼしたのが日本の歴史としては普通に正解なんだろうなただ秀吉はマジで日本史の中でもトップクラスの傑出した大天才で、スペインから日本を護ってくれた英雄 神として祀っても良いレベルだと思うわ
浪人と牢人は全く意味が違います
江戸時代初期まで→牢人それ以降→浪人ちゃんと覚えておこうね。
徳川は織田とは同盟だったけど。五大老として豊臣の家臣だったから、形上クーデターだからその形跡はけしたかったんでない?
でも徳川幕府がなかったらまだ戦国時代で内戦やってるかもよ
秀次事件が酷過ぎました、各方面からの救命の要請も無視して子供たちまで処刑した政権は要りません。
前の与党政権がまだ人望と資金がある、いつか江戸幕府討伐を豊臣に秀頼になくとも誰か煽り重い腰上げたら政権奪われるかもしれないと、家康は考える様になりそして大義名分を探してたで、見つけいちゃもん付けて大阪冬夏の陣が始まった
もし秀吉が信長みたいに子だくさんなら豊臣一族を根絶やしにするのは無理だったろうな
家康は豊臣秀吉に臣従してます。家康は豊臣の家来にあたります。関ヶ原の戦いでは豊臣軍を名乗り豊臣秀頼の家来として上杉討伐に出てます。つまり豊臣家は家来筋の徳川に逆らっても謀反にはなりません家康は将来、豊臣恩顧大名に担ぎ出されて反徳川幕府に動かれた時を考えて豊臣家を根絶やし、男児も処刑、豊臣家の造営した寺社など破却しまくっています。
家康は関白の下についた訳で。時代が移り「征夷大将軍」になって幕府をつくり、日本を任せられたのだから その大将軍に逆らったんだから謀反なのは間違いない。それとも官位を否定するのかね?
秀吉の自業自得、織田家を蔑ろにしたこと日本統一してすぐに戦争してはいけない、案の定高転びしたことなど
豊臣に、運が尽きたんだと思います。
秀頼も淀もバカで無血開城できなかったんだからなんも言えない
ただ、秀頼が秀吉の実子であるか?もし秀吉の実子なら北政所も豊臣側についたのでは?
秀頼の叔父さんでもある秀長が生きていたらね。でも年齢的にむりか。まぁそれでも、御意見番でなだめ役の取次継ぎ役がいなかった時点で詰んでた。
せっかく天下を取ったのに豊臣が大名として残っていたらまた大戦をしなければならないから。当たり前の事しただけ。
たーって伸ばすのが違和感でしかないのは俺だけ?力が抜けるんだが。
家康は秀忠に豊臣家の処分に任せた。
何かの、記事で、豊臣秀頼が自国の領土の統治が出来ず、徳川が、年貢米の徴収など代行してたとか読んだことがありますが、今見つからず、ご存知ありませんか流石に片桐且元とか実務家がいたし、それは無いか
淀君が嫌いだったから‼️秀頼が秀吉の血をひいて、いなかった為‼️
三河塩津三河三谷の蒲郡市だからこれでよい今川領域だから 岡崎市 岡崎城 清須市 清洲城😮🎉
1匹のゴキブリ逃したら、また増えるやろ?そりゃ〜根絶やしにするよね
どうも俺には淀君と大野治長が大戦犯に思えて仕方ないんだけどなあ・・・ ねねを慕ってた連中が三成とかと対立しちゃって豊臣内部が実質ガタガタってのも淀君の存在あっての事って気もするし 大野とかが浪人とかやたら大阪城に集めた結果「秀頼は反徳川の旗印」って事にほぼなっちゃった これじゃ家康が命助けたくても秀忠も「駄目です」って言わざるを得なくもなる気が 最初から殺す気なら可愛い千姫との縁談無かった事にしてる気もするし秀頼自身は大阪城出ても良いと思ってたって説もあるけど周囲がそう出来ない状況つくりまくってる気がしてねえ
浅井の血は家を滅ぼす原因
徳川秀忠の奥方お江の方は浅井長政三女ですが?まぁ、家光は秀忠とお福(春日局)の子でお江の方の実子で弟の忠長は改易されたので滅んだとも言えますが。
豊臣の末裔は大阪にいてますよ
この内容は、地上波で放送出来ないもん?
そもそも何をもって天下人となるかってルールは決まってなかったような。邪魔になりそうな奴は片っ端から排除して負けることがなければって意味ではそれで良いのか?日本神話の“うけい”の頃と今の政府と変わらないか。
豊臣家が崩壊したからこそ石田三成は忠義の臣として名前を残したんじゃないだろうか?真田幸村も同じく。豊臣家が存続してたら無駄死にでしかない。
最終的に幕府は新政府軍に降伏してるんだから、やっぱりの如く復讐があるんだなぁ…
大日本帝国もアメリカに降伏してるからどっこい
みんな頼朝が悪い(アンチ頼朝)。とにかく男は根絶やしにしとかないと危なくてしょうがないと思わせたはず。
やっぱり家康嫌い
家康は一番残酷ですからね。次に秀吉、信長は一番甘かった。
ではなぜ、現在内閣の家門が、豊臣の家門なんですか?徳川が収めてるならにしたなら、葵の御紋で、良くないですか?
五七の桐紋は元々は天皇家の紋で、足利家に下賜されて以降、朝廷から時の為政者に下賜されるような流れになった徳川家は、足利家と袂を分かった新田家の血筋である上に、豊臣家とも敵対したので使わなかった逆に明治に入ると、天皇家の威信を知らしめるために政府が使うようになったというか、ひょっとして歴史の流れがわかってないのか?現在の政府に繋がる明治政府は、徳川幕府を倒した薩長軍が主体になってるんだが今の政府が旧政権である徳川の葵紋なんて使うはずないじゃない
これの③はないのか?
織田信長と明智光秀の同士討ちを計画した人物が羽柴秀吉だったからかもね⁈
豊臣家は武士ではないから、更に豊臣家は武士では無いからな、
「干戈を交える」な
義父は秀忠
それはない。家康がそう思っても、秀忠、家光の時代で必ず豊臣潰されてる。
逆ですよね。臣従しなかったのは家康の方だよね。
なるほど、一大名、武士ではなく、公家としては、豊臣家を放置できないと言う視点はとても興味深かったです。
海外勢力の利用って視点はすごい納得いく視点ですね、それぞれ的を射た見かたに思えるので複数の要因がある感じしました!内容すごく面白かったので登録しました!
このタイトルだけでこんなに話せる知識があるのって素晴らしいですね
もう一個理由がかけてませんか。
関東は湿地帯が多く未開発&地元の荒くれ武士が乱立していた→秀吉によってこの未開な土地に封じられる→封土の治安維持と整備に莫大な費用が必要となる→当時の経済は一旦、売り物を大阪に集め、大阪で取引した後、全国に配送されるようになっていた→関東も例外ではなく、関東で生産された財の収益が大阪に吸収され、お金が関東に残りづらい環境になっていた→関東という封土を治める家康にとっては自衛のために、この経済状況を覆す必要があった→大阪の楽市楽座の利権を壊すためには豊臣を支配下に置くか、滅ぼすというのは自明の理ではないだろうか。
秀頼が二条城会見の時加藤清正は秀頼には付かず家康側にいましたね
謀反の気がなくても、まわりに担ぎ上げられる可能性は十分ある。
日本を治めるならば豊臣家を滅ぼしておくほうが争いは少なくて済む。
私は冷静な家康公好きだなぁ。性格悪いとか言われるけど、よく考えて目的を果たしている。
どのへんが地上波で放送できない部分だったのでしょうか
秀吉の弟の大和大納言豊臣秀長が長生きしていたら関ヶ原の戦いも豊臣家の呆気ない滅亡も無かったてよく言われてますね、再来年の大河ドラマは豊臣兄弟みたいですね
名参謀で誰からも慕われてた豊臣秀長の大河ドラマは嬉しい限りです。
今でも奈良県の大和郡山市は秀長さんと呼んで親しみをもってます
堺屋太一さんの小説「豊臣秀長」オススメです
秀長の遺言「唐入りは無謀と知っているが、止めてやるな」
内憂外患を早く解決するため、武士たちに犠牲を強いて日本が貧しくなるのも覚悟の上の戦略だった
大阪城をでても家康は絶対に豊臣を滅ぼしたでしょう。
何故でしょうか?
なんで?
地上波では放送できない、というのを見て期待したのですが、放送できないのはどの部分ですかね? 荒唐無稽な珍説を期待したのですが残念!
名を分断するというのは
古来から嫌われていて、
家康、秀忠、この2名については特に注意を払うべきとこであった。
しかし、鐘の件が無くても
何か揚げ足はとられていたと思う。
わかりやすい動画ありがとうございます!しっかし秀頼の父親って誰だったんだろう、今後遺骨でも見つかって解明されたりはしないのかな?
浅井の男達は体が大きく、秀頼も180センチ120キロぐらいの体格があったと記録されて、初めて謁見した時に弱々しいイメージをしていた家康が、体格もだが気組みも座り、これは後々脅威になると感じた。と一つの要素だったと言う識者もいますよね。
浅井の血筋、宮本武蔵…など180〜90センチで筋骨隆々の武者も体格の記述が残っている武者もいるみたいですね😮
根絶やしにしたのは血筋だけでなく、秀吉が政権を握っていたという痕跡も消していますね。安土桃山時代という名称もボカした表現ですし、夏の陣の後、大阪城の掘だけでなく石垣も埋めています。
戦というものは冷徹にならなければ勝てないという手本ですね。
同じ日本人同士で殺戮を繰り返していた事が不思議です。ノーテンキな世代で生きて来られた事に感謝、感謝です。 風神風
大阪城の城攻めは厳しいものがあるから埋めたんでしょうね
@@チャモロ-d9p 徳川の太平の世になってから、わざわざ石垣まで埋める意味がない。
家康は "源氏長者" を朝廷から貰い源氏の家系に連ねてまで征夷大将軍になったくらい肩書き,家格に拘っていたので, 低階層から成り上がり関白にまでなった秀吉を蔑んでいた.
由緒正しい武家の血統のみが正であり, 下剋上でのし上がって来た何処の馬の骨とも分からない者が大名になったり, ましてや天下を獲るなんて信じられなかったのだろう..
武家出身の信長は良しとしても, 秀吉が成り上がれる下剋上の世の中を 物凄く嫌悪していのだと思います.🤔
安土桃山時代と言う名称は、徳川家がつけたものではないのでは?(^_^;)
大坂城の無力化は、摂津に堅城があっても意味がないからでは?
徳川家の本拠地である関東の防衛に役立つならともかく、摂津は関東の防衛には関係ないですし、何より痕跡を消すなら廃城するかと(´∀`; )
織田家が、豊臣・徳川時代でも大名として残ったのは、やはり臣従したということであろう。北条政子・日野富子などのように政治に大きな力を持つ間違えた女子が出てくると家は滅ぼすという例だと思います。秀次や秀長が生きていれば変わる、まだ生き残ることもあると思います。また、彼らがいれば、まだ豊家恩顧の西国大名家もあったでしょう。それらが、時代の流れ・秀吉の衰えが結局、豊臣家の滅亡につながったと思います。
信長はかなり早くから信忠に後継を一本化して他の子供は他家に養子に出してしまってました
他家に行けばその家のことをまず考えますからね。信忠も死んだことで織田の天下は終わりましたが統制が取れず各々が保身のために動いたことで家が残ったとも言えます
豊臣家の時代が終わったことを認め大坂城より退き一大名となる 孫娘千姫を妻にし穏やかに過ごす選択もあった
秀長 秀次が存命であれば途中選択の誤りを手直しする方もいたかも知れません。
会津戦争もそうですが鶴ヶ城 大坂城が幕府勢力 反徳川勢力のよりどころとなり双方の城主もそれを拒まなかった訳ですからそうなれば一大勢力となる訳ですからそれは征伐されます。
秀吉のつくった政権は秀吉と各大名の人間関係で成り立っていたものでしかなく、危うい体制だったと考えられます。
各有力大名は力を持ったままでしたし、秀吉が亡くなった後に豊臣の家臣で争いが起こったりし、それでは過去の室町幕府のような不安定なものだったかもしれません。
そこまで考えて秀吉が政権を構築しておらず、いっぽう家康はそこまで考えていたと思われます。
二度と戦乱が起こらず、天下泰平を維持することまで家康は考えており、その後の政権運営を官僚機構に任せるとまで考える家康にとって、豊臣はまず滅ぼさないといけない存在だったんでしょう。
このまま豊臣を残すとまた戦乱が起こると。
家康は源頼朝を尊敬してたので、前例から学習していたのでしょう。
また家康は織田の家臣ではなく同盟国という立場だったので、秀吉に従う義理もない。
徳川幕府が長く続いたことからも、この判断は正しかったと思います。
もし正室の北政所に男子がいたら、或いは一時は関白にした甥の豊臣秀次を切腹させなければ、豊臣家が滅亡することはなかったかも知れない。いずれにしても秀頼の生母である淀が時代の流れを読み取れなかったこと、淀がもっと自尊心を失ってでも豊臣家を残すことに全力を尽くしていたら、こうはならなかったと思う。彼女は秀吉の子を授かったと嘘をつき、織田から天下を奪った豊臣から織田の血を引く自分が天下を奪い返すという野心に燃えすぎた為、滅びることになったんだと思う。
その通りだとは思います。ただ家康と秀吉の吉野での和歌を比べた時、秀吉は横の広がりのみを愛でましたが、家康は四季の移ろいという、前後すなわち未来を見据えてました。
どうなっていたとしても、早晩 家康の天下は不動だったと思います。
伊勢か大和に国替え、江戸に参勤、千姫との子供に家督を継がせるというところまでいけたら残れたかもね。
たらればで豊臣存続を書いてる人がいますが無いです。
家康は秀吉死んだら自分が将軍になって幕府開いて豊臣滅ぼす気でしたから。
秀長いようが秀次いようが寧々の嫡男いようが家康は全力で滅ぼしました。
秀吉が死後も続く強力な豊臣の支配体制を作らなかった事、
家康より先に逝った事。
この時点で豊臣の命運は尽きました。
豊臣家が旧主織田家を臣下としたのだから淀殿と秀頼はそれに倣うべきだった。すなわち官位を従四位下参議あたりに落とし、10万石程の領地に国替えし、大阪城に蓄えた黄金の大部分を差し出せば逆に徳川幕府からは厚遇されたと思う。淀と大蔵卿局のような女官が豊臣家を大きく誤らせたのは間違いない。
三成が秀吉存命中に家康と話をつけて政権移譲。これなら...
いや、淀殿から刺客送られそうだ。
室町時代の守護大名の名家なんかも高家として残してるわけだし
織田や今川みたく野望さえ持たなければ豊臣家を従えるなんて将軍家にしても望むところだろうしな。
戦国の最後に天下人の子供として戦って滅びるという選択をしただけだろ。
最後の最後まで出陣できなかったのは悔いが残るかも知れないけど。
豊臣家が金銀山を抑えていたのと商業の決定権を持っていたので経済的に驚異だったが1番では!
確か歴史群像の豊臣秀吉の本に豊臣国松公と秀頼公は九州に落ち延びて寧々さんの親戚の日出藩木下家に国松公は引き取られ唯之助と名を替えて後に五千石を与えられて旗本になったと日出藩木下家の元子爵のご当主様が歴史群像で語られていた記憶がありますけど。後、もし大坂城の規模が淀川の大半にも総構えの中に入っていたらあんなに簡単に大坂城の堀を埋める事は出来ないと思います。
キレるしかありませんと言うパワーワード
秀吉の視野の狭さが、一族を滅ぼす結果になった気がしてならない。家康の視野の方が広く高い。江戸時代もよくよく見ると、一党独裁時代の為に、かなり他の者達の人生が犠牲になっています。反乱を起こさせない為の様々な弾圧や従属の色々。他国よりマシと言える程度。
そもそも織田信長亡き後に普通なら信長の子を立てて織田家再興をしなきゃいけないはずの豊臣秀吉が織田家を差し置いて関白になってるんだからそりゃ根絶やしにしなきゃヤバいってなるよね
別に普通とは思いません。力の強い者が上に立つのが戦国乱世の習わしですから。ただ自分の主家だった織田家から権力を簒奪して臣下にしてるわけですから、秀吉の死後に家康が豊臣家滅ぼして天下奪っても文句は言えませんよねえ。
秀吉になびく家臣が家康の善意を我が物だから理由は、食べ物が本当にまずい。
見解
秀頼公が臣従しなかったから成敗されたと言われるが、年賀の挨拶の使者を家康に派遣しているし、二条城会見でも家康を立てるなど、協調姿勢に努めている。
大坂の街づくりや荒廃した寺社仏閣の復興に熱を入れ、国家安康・君臣豊楽という、平和でみんなが豊かに楽しく生きていける世の中を願っていた秀頼公。死人に口無しでめちゃくちゃに言われ、お気の毒な限りだ。
同意です。
何をしても因縁付けられるとか絶望しかなかったでしょうね
だったらその流れで国替え、参勤交代、淀殿の人質のどれかに応じてほしかった
@@korewakorewa
どうだろうね、アノ時代だし
秀吉の血筋は結局は謀反の恐れが付き纏うから根絶やしにされてそうですが
秀吉の子じゃない秀頼… 九州に逃げ延びた説もあるね。 真実は如何に?
出自をごまかして盛るのは当時の大名、守護あるある。
たぶん、家康一人の判断では無いと思います。現代人と比較したら、江戸より大坂が儲かっているから大坂を潰せ、が民意の流れだった。
家康さんみたいに
タヌキじゃないてすけど
力や大きさで相手と対峙するのではなくて、知恵や作戦で勝負する。
なにか自分に通ずるものがあり
人生訓でもあります。
豊臣にとっちゃお気の毒だけど、後の長く続く平和な時代と各地方で文化が発展したのは徳川のおかげだな。
天下泰平の世を築く為には、わからん奴らは滅ぼすしかなかった。
結果、徳川幕府は日本を対外政策も含め、見事に収めた事実がありますよね。
スペイン側からみると、日本を植民地にすることを諦めておらず、豊臣側に入り込み、家光の代位に達成する長期計画を立てていたとか。
イングランドに一敗地にまみれていて、地球の反対側まで艦隊を差し向ける余力はないはず。
@@mtlook0704
英西戦争後もスペインはフィリピンを統治しており、アジア覇権を止めていない。日本と直接戦うのはでなく、内戦で片方に加担して勝利に導き統治に結びつける計画。しかし、それは徳川側に見抜かれており、キリスト教禁教政策の強化とともに、1624年にはスペイン船の来航を禁止。
平家が源氏を残してどうなったか、そして天下をとった源氏もどうなったか、身近に育った家康がよくわかっている。
だから御三家も作ってそれでも家は衰退するから御三卿を作った。
それになんと言っても吾妻鏡が愛読書でしたもんね
何言ってんだ御三卿を作ったのは家康じゃないだろ
@@kepler123
どこに御三卿が家康が作ったって書いてる?家三代の興亡だろ
御三卿を設立したのは八代将軍吉宗公。
@@究極の救連皇
家康公スゴッ!と、御三家×三代=9代目で家系が途絶えるの教えにビックリして慌てて吉宗が御三卿をつくる
浪人たちは、豊臣の血筋が残る限り
それを担ぎ上げて幕府に対抗しようとする。
その禍根を断つのは
家康としては当然のこと。
方広寺鐘銘事件は難癖としては非常に秀逸
よくこんなこと思い付いたなと
勝てば官軍。勝ちさえすれば間違った事をしても全て正義になる。都合の悪い事は全て負けた者に擦り付け。
次は、秀頼生存説お願いします。
生きてたら430歳…さすがに無理ある
@@たっちゃん-j4h大坂夏の陣で自害したと言われているが、薩摩で生き延びていたと伝えられている。それについて聞きたいのであって今も生きているなんて思ってないだろ
@@音速丸-h2d
…ちょっとしたボケも許されないのかよ
@@たっちゃん-j4hこれが現代日本ですね…シャレにならんのは除いてもこんな冗談すら許されないような風潮ありますからね…自分はこういうボケ好きですが
@@たっちゃん-j4h秀吉って鬼武者のボスになったっけ!?
愛媛城って物は、愛媛県には、ありません。
要するに多くの大名を改易し、それらに対する対策をしなかったために大坂に集まったとも言えます。
結局浪人とともに豊臣家を葬った事で一石二鳥だったとも言えるでしょう。
関ヶ原もそうですね
土地を与えることで親分子分の関係が成立するのが武士です
本来秀吉が決めた国割りを動かすのはかなり難しかったと思うのですが、わざわざ家康に反発する大名を集めてくれたおかげで反対勢力の駆逐と秀吉の定めた国割りの破棄という難事業を一気にやり遂げてしまった
淀殿が見栄を捨てて現実を受け入れていたら豊臣家も公家として細々と続いていたんじゃないかな?と思いますね😢
大阪城の中にいれば秀頼の母として絶対女王として君臨出来るけど、大阪城を1歩出れば官位がないただの女として扱われかねませんからね😅
官位なんかに興味がなくただ豊臣家の繁栄と存続を願うねねさんとは対称的ですね😮
歴史にタラレバはないと思いますけど淀殿にもねねさんに匹敵するくらいの官位を与えてあげて自尊心を満たしてあげていれば、案外あっさりと大阪城を空け渡してくれたのかも?🤔と思ったりもしますね😅
これのどこが地上波で放送できないの?
松山城を愛媛城って間違えてるから?
秀頼がキリシタンだったとは思えない
かろうじて生かされた者も出家させられたりと豊臣家の血筋を一滴も残さぬような徹底的な滅ぼし方を見るに、豊臣家がその気がなかったとしても周りの大名が謀反を起こすときのネタにされるのを幕府は一番恐れていたのかもしれませんね。
13・45に出る絵は、何の絵ですか?
最終的に島津、毛利に負けるんだから、西国を警戒していたのは正解だったんですね。
まあ力(軍事力)こそパワー(権力)だからなあ
秀次がいればねえ。
自分で自分の首をしめた
秀次でも同じ結末だったと思う
秀長か利家くらいの統率者じゃないと秀頼は守れなかったんじゃないかな
ごく当たり前な話ですね
ちなみに大和郡山に移封しても難癖つけられて根絶やしにされたと思う。
因果応報
徳川も薩摩、長州にやられるんだから歴史は面白い
最後の最後まで孫娘を秀頼に与えたままだったし家康のほうが必死で豊臣存続の道模索してるのに秀頼のほうが時流を読めずにそれに気づいてくれないってのはホント家康困っただろうなあ
家康は助けようと思ったけど冷酷な秀忠が許さなかったって話もあるけど
秀忠は人質時代に良くしてくれたねねのことを母親のように一生大事に面倒見てるんだよね
娘婿を殺したかったはずはない。
将軍ともなると自分の感情よりも天下のこと優先しなきゃならないのだろう。
宇喜田が泳いだら関ヶ原勝ってた説好き❤️
家康とねねは最後まで仲良く、もう豊臣潰していい?ねねは、いいよと、言ったとか言わないとか?
武家貴族の前例は平清盛という人物もいますけどね。
織田信長に引き続き、この、平清盛型の武家貴族を秀吉が目指した結果ですね。
しかし、そのビジネスモデルが、実質、一世一代というのも、これもまた必然。
藤原摂関家ではないですからね。
そこに浪人たちが、集まり続けるからですよね。
外面的視点からではなく家康という人間の内面的な視点からですが....。
秀吉に対する怨み辛みやっかみだと思います。人間関係は時代を問わず有名人一般人共に永遠ですね😅
家康はそんな小さな男じゃない、じゃなきゃ我欲の塊の旗印が多い中厭離穢土欣求浄土なんて掲げるかよ。
自分の本当の孫娘と結婚させてるし
秀忠だってねねのことは死ぬまで大事にしてるし
感情では秀頼残してやりたいとは思ってただろうよ。
自分の長男さえ切腹させてるように家康は自分の感情で判断誤るような人間じゃないだけ。
宗教からんだら面倒だ。わかる
少し勘違いされていますね。
武家と公家の両者のトップなら、秀吉以前に、足利義満が、将軍でありながら、太政大臣に任官されてます。
そのことをお忘れなく。
何故、豊臣家は「公家」らしく朝廷にのみ仕えなかった?
「牢人」勉強になりました。
加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・浅野幸長・藤堂高虎・細川忠興・京極高知・田中吉政・蜂須賀家政・加藤嘉明が豊臣方に味方してたら家康は負けたかもね
家康は辛抱強く豊臣恩顧が代替わりをするのを待ってたのかたまたまあのタイミングになったのか
豊臣秀吉も徳川家康も織田信長が願ってやまなかった庶民のための日本の未来を一緒に作っていたとは誰も知らない
武家の長にはなれないから関白なんですよ。家康も同様です。徳川家とは関係ありませんよ。
天下を一度とった家を新たな天下をとった家がどんな理由があれど普通に考えて残さないよね😅
それも戦国の世で一世紀近く乱世が続いていた訳でここだ!と言う所だったんでしょう家康公からしたら😮
徳川家は今でも残ってるよ。
織田家も足利も❤
秀頼は豊臣の血筋だったのだろうか?、あり得ないよね、淀君、の豊臣への復讐心は皆無だったといいきれるのか?家康は冷静に淀君を見、判断したんじゃないか?人生は重荷負うて遠き道を征くが如し、急ぐべからず、淀は家康に見透かされてた、所詮女の浅知恵をね、北の政所も解ってたんじゃない?
2:06 義父じゃなくて、義祖父ね。千姫は秀忠の娘ですから。
結果論ですが。
秀頼が大坂城(河内)を出て他の国に移ってれば。
つまり、改易してれば豊臣家は安泰だったと思います。
私も同感ですな 国替えされようが改易されようが 織田のごとく のらりくらりと躱すべきだった
改易したら豊臣家はなくなるよ⁉︎
改易して安泰なのは秀頼の血脈のみだからね。
@@多羅尾伴内-g1cさん
無くならんよ
国松は家康の曾孫、秀忠の孫なんだから、臣従さえしてればそれなりの地位は保証されたはず
改易というのは領地没収だから大名としての地位はなくなる。家臣はほぼ全員浪人、本人は命は長らえても何処かで捨扶持をもらうか。国変えとは違う。
@@cogito5576
いや、改易ってのは豊臣株式会社がなくなるって意味ですよ❔
秀頼・淀殿の一個人は高い地位のまま生きてはいけるでしょうが武家として改易というのは家がなくなるという意味だから。
普段は優秀な才能・DNAは残って欲しいって思えるけど、秀吉の才能は遺伝とかじゃなくてただ本人が凄かっただけって印象が強いし
豊臣が残っていたらその子孫がいつか挙兵するリスクが残り続けたから、滅ぼしたのが日本の歴史としては普通に正解なんだろうな
ただ秀吉はマジで日本史の中でもトップクラスの傑出した大天才で、スペインから日本を護ってくれた英雄 神として祀っても良いレベルだと思うわ
浪人と牢人は全く
意味が違います
江戸時代初期まで→牢人
それ以降→浪人
ちゃんと覚えておこうね。
徳川は織田とは同盟だったけど。
五大老として豊臣の家臣だったから、形上クーデターだからその形跡はけしたかったんでない?
でも徳川幕府がなかったらまだ戦国時代で内戦やってるかもよ
秀次事件が酷過ぎました、各方面からの救命の要請も無視して子供たちまで処刑した政権は要りません。
前の与党政権がまだ人望と資金がある、いつか江戸幕府討伐を豊臣に秀頼になくとも誰か煽り重い腰上げたら政権奪われるかもしれないと、家康は考える様になりそして大義名分を探してたで、見つけいちゃもん付けて大阪冬夏の陣が始まった
もし秀吉が信長みたいに子だくさんなら豊臣一族を根絶やしにするのは無理だったろうな
家康は豊臣秀吉に臣従してます。
家康は豊臣の家来にあたります。
関ヶ原の戦いでは豊臣軍を名乗り豊臣秀頼の家来として上杉討伐に出てます。
つまり豊臣家は家来筋の徳川に逆らっても謀反にはなりません家康は将来、豊臣恩顧大名に担ぎ出されて反徳川幕府に動かれた時を考えて豊臣家を根絶やし、男児も処刑、豊臣家の造営した寺社など破却しまくっています。
家康は関白の下についた訳で。時代が移り「征夷大将軍」になって幕府をつくり、日本を任せられたのだから その大将軍に逆らったんだから謀反なのは間違いない。
それとも官位を否定するのかね?
秀吉の自業自得、織田家を蔑ろにしたこと
日本統一してすぐに戦争してはいけない、案の定高転びしたことなど
豊臣に、運が尽きたんだと思います。
秀頼も淀もバカで無血開城できなかったんだから
なんも言えない
ただ、秀頼が秀吉の実子であるか?
もし秀吉の実子なら北政所も豊臣側についたのでは?
秀頼の叔父さんでもある秀長が生きていたらね。
でも年齢的にむりか。
まぁそれでも、御意見番でなだめ役の取次継ぎ役がいなかった時点で詰んでた。
せっかく天下を取ったのに豊臣が大名として残っていたらまた大戦をしなければならないから。当たり前の事しただけ。
たー
って伸ばすのが違和感でしかないのは俺だけ?
力が抜けるんだが。
家康は秀忠に豊臣家の処分に任せた。
何かの、記事で、豊臣秀頼が自国の領土の統治が出来ず、徳川が、年貢米の徴収など代行してたとか読んだことがありますが、今見つからず、ご存知ありませんか
流石に片桐且元とか実務家がいたし、それは無いか
淀君が嫌いだったから‼️秀頼が秀吉の血をひいて、いなかった為‼️
三河塩津三河三谷の蒲郡市だからこれでよい
今川領域だから 岡崎市 岡崎城 清須市 清洲城😮🎉
1匹のゴキブリ逃したら、また増えるやろ?
そりゃ〜根絶やしにするよね
どうも俺には淀君と大野治長が大戦犯に思えて仕方ないんだけどなあ・・・ ねねを慕ってた連中が三成とかと対立
しちゃって豊臣内部が実質ガタガタってのも淀君の存在あっての事って気もするし 大野とかが浪人とかやたら大阪城に
集めた結果「秀頼は反徳川の旗印」って事にほぼなっちゃった これじゃ家康が命助けたくても秀忠も「駄目です」って
言わざるを得なくもなる気が 最初から殺す気なら可愛い千姫との縁談無かった事にしてる気もするし
秀頼自身は大阪城出ても良いと思ってたって説もあるけど周囲がそう出来ない状況つくりまくってる気がしてねえ
浅井の血は家を滅ぼす原因
徳川秀忠の奥方お江の方は浅井長政三女ですが?まぁ、家光は秀忠とお福(春日局)の子でお江の方の実子で弟の忠長は改易されたので滅んだとも言えますが。
豊臣の末裔は大阪にいてますよ
この内容は、地上波で放送出来ないもん?
そもそも何をもって天下人となるかってルールは決まってなかったような。
邪魔になりそうな奴は片っ端から排除して負けることがなければって意味ではそれで良いのか?
日本神話の“うけい”の頃と今の政府と変わらないか。
豊臣家が崩壊したからこそ石田三成は忠義の臣として名前を残したんじゃないだろうか?真田幸村も同じく。豊臣家が存続してたら無駄死にでしかない。
最終的に幕府は新政府軍に降伏してるんだから、やっぱりの如く復讐があるんだなぁ…
大日本帝国もアメリカに降伏してるからどっこい
みんな頼朝が悪い(アンチ頼朝)。とにかく男は根絶やしにしとかないと危なくてしょうがないと思わせたはず。
やっぱり家康嫌い
家康は一番残酷ですからね。次に秀吉、信長は一番甘かった。
ではなぜ、現在内閣の家門が、豊臣の家門なんですか?
徳川が収めてるならにしたなら、葵の御紋で、良くないですか?
五七の桐紋は元々は天皇家の紋で、足利家に下賜されて以降、朝廷から時の為政者に下賜されるような流れになった
徳川家は、足利家と袂を分かった新田家の血筋である上に、豊臣家とも敵対したので使わなかった
逆に明治に入ると、天皇家の威信を知らしめるために政府が使うようになった
というか、ひょっとして歴史の流れがわかってないのか?
現在の政府に繋がる明治政府は、徳川幕府を倒した薩長軍が主体になってるんだが
今の政府が旧政権である徳川の葵紋なんて使うはずないじゃない
これの③はないのか?
織田信長と明智光秀の同士討ちを計画した人物が羽柴秀吉だったからかもね⁈
豊臣家は武士ではないから、更に豊臣家は武士では無いからな、
「干戈を交える」な
義父は秀忠
それはない。家康がそう思っても、秀忠、家光の時代で必ず豊臣潰されてる。
逆ですよね。臣従しなかったのは家康の方だよね。