ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
少し早口な気がする... 0.75倍速でもちょうどいいくらいですので早いと感じた方は調整お願いします。1979年の大河津駅の様子はこちらこれを見ると共有部分は50mもなさそう...そして越後交通長岡線の跡地だけ架線柱があるのがおもしろい!!その1senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/1979810_7d58.htmlその2senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/1979810-cbec.html
特に早口には感じないっすけどね?とても聞きやすいですよ。やっぱり大河津駅で検索するとそのサイトですよねwダイヤモンドクロッシングかと思ってたんで、フツーの安全側線付きポイントって知った時はびっくりしました。
@@TatsunaIikase そうですか?よかったです。こちらのブログ様には以前から写真を使用させていただいたりリンクを貼らせていただいていたのですが今回は完全に失念しておりまして作り終わった後で思い出して見てみました。そのため動画内で言っていることとちょっと違うところがあります...本当に貴重な写真ばかりです。
>これを見ると共有部分は50mもなさそう...25mと昔の鉄道雑誌にあったように記憶しています。
@@5kosen そうなんですよね、航空写真や現地に行って見てみたらそれくらいかと思ったのですが、そもそもぼくの定規が間違っているのかもしれませんがそのような雑誌もあったのですね、それは見てみたい...
@@mayunosuke-niigata どの雑誌に載っていたか探したところ、鉄道ファン1973年8月号にありました。瀬古龍雄氏の「一部営業を廃止した越後交通」と題した記事中で次のように記述されています。"この大河津駅の平面交差は越後線が越後鉄道だった頃からの遺物で、今の国鉄ではとうてい認めるはずのない珍しいもの。ダイヤモンドクロスでなく、約25mの共用区間を国鉄の気動車と越後交通の双方が走っていたものである。” なお大河津ー寺泊間は1973年4月に廃止になったわけですが、この間は比較的お客もあったのにこの平面交差のために通行料をとられる上、国鉄のダイヤ改正ごとに遠慮しながら組む必要があったりでめんどうくさいので最初の廃止の対象になった、というようなことも述べていました。
9:38 の壁の公式が気になった方へパっと見は酒屋さんですが、塾も経営されています。
香椎線西鉄貝塚線の和白駅をごぞんじですか?あそこは昔平面交差駅でした。とは言っても元々両方とも博多湾鉄道の路線でしたが。
母親が寺泊出身でした。ものごころが着いた頃から長鉄に乗っていました。母親の実家が【寺泊新道駅】に近かったので、終点の【寺泊駅】まで乗る事はありませんでした。昭和40年頃の【大河津駅】に電車が着くと、JR越後線の列車待ちになり、10〜30分の長い乗り換え待ちが発生していました。そのたびに【大河津】を恨んでいました‼️😭もう一軒寺泊の金山に親戚があり、こちらに遊びに行く時は【寺泊駅】からの乗車・下車をしていました。こちらの親戚の家から長鉄の電車が見えて、本当に嬉しかったです😂
大河津から寺泊までは景色がよかったんだろうなぁと妄想しています。どれくらいの列車本数があったのでしょうか。
@@mayunosuke-niigata さん子供の頃なのでほとんど記憶が無いんですが、40〜60分おきくらいに発車していたような気がします。7.8月の海水浴シーズンは、30分おきくらい頻繁に出ていた気がします。違っていたらごめんなさい🙏
鉄道雑誌で見た事があります。平面交差していると、国鉄のダイヤ変更の度に越後交通線のダイヤも変えなければならないので、廃止になったと書いてありました。
小田急も非電化の国鉄御殿場線に、初代5000形が乗り入れていました。
越後交通は後始末が悪い鉄道で、2000年頃まで与板町あたりでは線路も架線も残ったままだった。田中角栄が地方鉄道より新幹線建設に力を入れた為に、越後交通の鉄道は衰退した。そして田中角栄の力も無くなると後始末も出来ない廃墟だけが残った
今でも現役の北越急行が乗り入れる十日町駅かと思った。
長鉄廃止時のさよなら花電車を沿線で見た記憶があります。
それは1975年の旅客営業廃止の時でしょうか?沿線の方は特に思い入れがあると思いますので廃止の際は複雑な心境で見送るのでしょうね。
@@mayunosuke-niigata 多分そうです。長岡方面〜大河津間の廃止時ですね。
鉄道線があっただけあって今も寺泊から長岡行きのバスが結構出ています寺泊町が長岡市と合併していることからも繋がりの深さが伺えます
1980年代小学生の頃に寺泊へ海水浴へ行く時に寺泊駅近くの踏切や旧踏切を車で渡りました。旧踏切の線路部にブルボンのマイクロバスが止まっていたのがハッキリ覚えているのですが、リンク先のブログの写真に写っていて記憶が正しかったことが証明されました笑寺泊駅とブルボンの工場を結ぶ社員バスだったのかもしれませんね。
1950年代~1960年代東京~寺泊間で長岡~寺泊駅間を夏冬+αよく利用したのを思い出します。
勉強になりました。人に歴史あり、駅に歴史あり、ですね。越後線は20年以上乗ってないです。5月の田植えシーズン、新緑と青空のもと乗るのが夢です。
別々の鉄道会社が線路を共有して運行しているのは、飯田線と名鉄、米坂線と山形鉄道、日田彦山線と平成筑豊鉄道がありますが越後線も越後交通長岡線と平面交差していたのは初めて知りました。越後交通長岡線ですが、信濃川に架橋して西長岡からJR長岡駅に乗り入れていれば、もう少し長く存命してたでしょうか?
幼児の頃長岡市に住んでいた。栃尾電鉄で悠久山公園に出掛けた事もある。長生橋を渡り西長岡から寺泊迄この路線があったが結局乗らず仕舞い😢😢
国鉄と私鉄の平面交差、大変興味深い歴史ですよね。当初民鉄同士だったから出来た方式なわけです。私も現地で、寺泊方の踏切辺りの路盤と架線柱を見て感動しました。
意外と雪が少ないですね
私も家内が和島村の出身でたまたま長鉄の花電車?に出会いました。40数年前のことになるんですか?懐かしいです。いつも楽しく意義のあるお話ありがとうございます。解説が分かり易く楽しく聞けます。声も発音も素晴らしいです。
なんと、こんなにたくさん遺構が残っていたとは〜!😲乗ってみたかった~。😢末端区間がスイッチバックになっていた理由など、動画を作って頂ければ嬉しいです。🙏
7:42「「寺泊新道」→「寺泊」に改称」この寺泊駅から海岸に向かって急な坂になってて、その坂を登っていくためのスイッチバックかと思います。大河津から寺泊駅までの高低差はなだらかですが、そこから海岸までの勾配が汽車にはキツかったんだと思います。
@@Kモンチッチ 様、返信ありがとうございます。なるほど~、そういうことですね。理解しました。ありがとうございました。🙇
新潟には縁も地理感もないのでおすすめに浮かんだときだけ拝見していますが、そのたびにこの地域の鉄道史に驚きます。国鉄千歳線と定山渓鉄道の東札幌あたりも電化がらみでややこしいことになってたみたいですけど、ここまで複雑ではないですもんね。
ありがとうございます。もしかしたらほかにも平面交差している場所もあるのかもしれないのですがこんなに複雑なところはほかにないと思います。
寺泊駅には2度行きましたが、廃線跡があったとは知りませんでした。別会社同士のたった数十mの供用区間、国鉄に関係ない電化設備の管理や線路使用料とかどうなってたのか気になりますね。そもそも細かいこと考えてない時代かもしれませんが。2次関数の解の建物、初めて寺泊駅に行ったときに見て驚いた記憶あります。この道や電車で通学する学生さんに覚えて欲しいため・・・?
小学生が素通りしていくのを見ました。☺
たまに時間がある時に見に行ってます。 平成になった間もない頃はもう少し線路跡がはっきりしてたし、道路にも長鉄の線路がありました。今は大分整理されてなんか寂しく感じます。大河津から与板までも架線や線路も有ったけどもうほとんど無いですね。
与板辺りに廃線跡が歩道になってたな。
長鉄は廃線跡が結構と残っていますよねちなみに旧寺泊新道から旧道に降りた坂道の途中に工場と売場ある「塩たき」という羊羹は塩味が効いてて一風変わった銘菓ですよ
th-cam.com/video/SORqZpBMq3c/w-d-xo.htmlこのMVの40秒あたりの映像もこちらの廃線跡でしょうか
間違いなくそうですね。この坂の上から撮影したものがぼくの動画の18:05くらいです。さらにこのMVの1:19あたりから何回か出てくるコンクリートのアーチ橋も寺泊地内にある長岡線の廃線跡です。ところでこちらの制作者さんはどういった方なのですか?
@今のところは名無しのままで。 音楽、MVの作者さんでいらっしゃったのですね!!すごいですね!!しかも小説まで... 中学生でいろいろなことに挑戦されていて将来が楽しみです。ぼくも夏の緑の豊かな時にも行ってみたいですね。
まあ…長岡線は割と最近まで西長岡~大河津の区間は線路は残っていた…貨物扱い時代に数回訪問西長岡の事務所には田中角栄さんの肖像が😄ELの廃車解体は残念…まあ…才津のデンカの為に存続していた…?
寺泊駅の名前の由来を聞いて納得しました。元々場所が旧大河津村だったんですね。
当時の舟運のメインとは違うルートで鉄道が開通していったおかげで、新潟はそこへ接続するフィーダー路線である中小私鉄の宝庫だったのですね。同様の必要性は各地にあったと想像しますが、建設する資金を支える地元名士や豪商の存在があればこそだったはずですので、そこからもかつての新潟の経済規模の大きさが計り知れます。電化-非電化の交差路線って、たしかに存在しないですね。西武の国分寺線沿線とか立川での南武線・中央線・青梅線のやり取りとかで、歴史上あっても良さそうではあるのですが、開業の順番からすれば「架線の下を蒸気が走る」という当たり前の光景になりそうですし。蛇足ながら、冒頭ご指摘の通り角上魚類はこちら埼玉で大いに賑わっております。年末にはお店先頭で大渋滞が起こるほどに(笑
そうですね、割かし早くから鉄道網が引かれたためまだ舟運が盛んだったところは避けられました。しかし時を経て舟運が衰退してくるとそれを置き換える私鉄が出てきたのでしょう。(あ、これは新たな発見だ、ネタにできるかも...)しかも国鉄が非電化で私鉄が電化、それも新潟の田舎...おもしろいですね。角上魚類は関東のとくに内陸部でにぎわっているようですね。いつか寺泊の本家にも遊びにいらしてください。
定山渓鉄道かと
寺泊駅は何度か行きました。駅に写真があったので、最盛期は大きな駅だったんだろうな、と。越後交通 長岡線の廃線の旅も楽しみにしてます。
少し早口な気がする... 0.75倍速でもちょうどいいくらいですので早いと感じた方は調整お願いします。
1979年の大河津駅の様子はこちら
これを見ると共有部分は50mもなさそう...
そして越後交通長岡線の跡地だけ架線柱があるのがおもしろい!!
その1
senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/1979810_7d58.html
その2
senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/1979810-cbec.html
特に早口には感じないっすけどね?
とても聞きやすいですよ。
やっぱり大河津駅で検索するとそのサイトですよねw
ダイヤモンドクロッシングかと思ってたんで、フツーの安全側線付きポイントって知った時はびっくりしました。
@@TatsunaIikase そうですか?よかったです。
こちらのブログ様には以前から写真を使用させていただいたりリンクを貼らせていただいていたのですが
今回は完全に失念しておりまして作り終わった後で思い出して見てみました。
そのため動画内で言っていることとちょっと違うところがあります...
本当に貴重な写真ばかりです。
>これを見ると共有部分は50mもなさそう...
25mと昔の鉄道雑誌にあったように記憶しています。
@@5kosen そうなんですよね、
航空写真や現地に行って見てみたらそれくらいかと思ったのですが、そもそもぼくの定規が間違っているのかもしれませんが
そのような雑誌もあったのですね、それは見てみたい...
@@mayunosuke-niigata どの雑誌に載っていたか探したところ、鉄道ファン1973年8月号にありました。瀬古龍雄氏の「一部営業を廃止した越後交通」と題した記事中で次のように記述されています。
"この大河津駅の平面交差は越後線が越後鉄道だった頃からの遺物で、今の国鉄ではとうてい認めるはずのない珍しいもの。ダイヤモンドクロスでなく、約25mの共用区間を国鉄の気動車と越後交通の双方が走っていたものである。”
なお大河津ー寺泊間は1973年4月に廃止になったわけですが、この間は比較的お客もあったのにこの平面交差のために通行料をとられる上、国鉄のダイヤ改正ごとに遠慮しながら組む必要があったりでめんどうくさいので最初の廃止の対象になった、というようなことも述べていました。
9:38 の壁の公式が気になった方へ
パっと見は酒屋さんですが、塾も経営されています。
香椎線西鉄貝塚線の和白駅をごぞんじですか?
あそこは昔平面交差駅でした。
とは言っても元々両方とも博多湾鉄道の路線でしたが。
母親が寺泊出身でした。ものごころが着いた頃から長鉄に乗っていました。
母親の実家が【寺泊新道駅】に近かったので、終点の【寺泊駅】まで乗る事はありませんでした。
昭和40年頃の【大河津駅】に電車が着くと、JR越後線の列車待ちになり、10〜30分の長い乗り換え待ちが発生していました。
そのたびに【大河津】を恨んでいました‼️😭
もう一軒寺泊の金山に親戚があり、こちらに遊びに行く時は【寺泊駅】からの乗車・下車をしていました。
こちらの親戚の家から長鉄の電車が見えて、本当に嬉しかったです😂
大河津から寺泊までは景色がよかったんだろうなぁと妄想しています。
どれくらいの列車本数があったのでしょうか。
@@mayunosuke-niigata さん
子供の頃なのでほとんど記憶が無いんですが、40〜60分おきくらいに発車していたような気がします。
7.8月の海水浴シーズンは、30分おきくらい頻繁に出ていた気がします。
違っていたらごめんなさい🙏
鉄道雑誌で見た事があります。平面交差していると、国鉄のダイヤ変更の度に越後交通線のダイヤも変えなければならないので、廃止になったと書いてありました。
小田急も非電化の国鉄御殿場線に、
初代5000形が乗り入れていました。
越後交通は後始末が悪い鉄道で、2000年頃まで与板町あたりでは線路も架線も残ったままだった。田中角栄が地方鉄道より新幹線建設に力を入れた為に、越後交通の鉄道は衰退した。そして田中角栄の力も無くなると後始末も出来ない廃墟だけが残った
今でも現役の北越急行が乗り入れる十日町駅かと思った。
長鉄廃止時のさよなら花電車を沿線で見た記憶があります。
それは1975年の旅客営業廃止の時でしょうか?
沿線の方は特に思い入れがあると思いますので廃止の際は複雑な心境で見送るのでしょうね。
@@mayunosuke-niigata 多分そうです。長岡方面〜大河津間の廃止時ですね。
鉄道線があっただけあって今も寺泊から長岡行きのバスが結構出ています
寺泊町が長岡市と合併していることからも繋がりの深さが伺えます
1980年代小学生の頃に寺泊へ海水浴へ行く時に寺泊駅近くの踏切や旧踏切を車で渡りました。
旧踏切の線路部にブルボンのマイクロバスが止まっていたのがハッキリ覚えているのですが、リンク先のブログの写真に写っていて記憶が正しかったことが証明されました笑
寺泊駅とブルボンの工場を結ぶ社員バスだったのかもしれませんね。
1950年代~1960年代東京~寺泊間で長岡~寺泊駅間を夏冬+αよく利用したのを思い出します。
勉強になりました。
人に歴史あり、駅に歴史あり、ですね。
越後線は20年以上乗ってないです。5月の田植えシーズン、新緑と青空のもと乗るのが夢です。
別々の鉄道会社が線路を共有して運行しているのは、飯田線と名鉄、米坂線と山形鉄道、日田彦山線と平成筑豊鉄道がありますが越後線も越後交通長岡線と平面交差していたのは初めて知りました。
越後交通長岡線ですが、信濃川に架橋して西長岡からJR長岡駅に乗り入れていれば、もう少し長く存命してたでしょうか?
幼児の頃長岡市に住んでいた。栃尾電鉄で悠久山公園に出掛けた事もある。長生橋を渡り西長岡から寺泊迄この路線があったが結局乗らず仕舞い😢😢
国鉄と私鉄の平面交差、大変興味深い歴史ですよね。当初民鉄同士だったから出来た方式なわけです。私も現地で、寺泊方の踏切辺りの路盤と架線柱を見て感動しました。
意外と雪が少ないですね
私も家内が和島村の出身でたまたま長鉄の花電車?に出会いました。40数年前のことになるんですか?懐かしいです。いつも楽しく意義のあるお話ありがとうございます。解説が分かり易く楽しく聞けます。声も発音も素晴らしいです。
なんと、こんなにたくさん遺構が残っていたとは〜!😲
乗ってみたかった~。😢
末端区間がスイッチバックになっていた理由など、動画を作って頂ければ嬉しいです。🙏
7:42「「寺泊新道」→「寺泊」に改称」
この寺泊駅から海岸に向かって急な坂になってて、その坂を登っていくためのスイッチバックかと思います。大河津から寺泊駅までの高低差はなだらかですが、そこから海岸までの勾配が汽車にはキツかったんだと思います。
@@Kモンチッチ 様、
返信ありがとうございます。
なるほど~、そういうことですね。理解しました。ありがとうございました。🙇
新潟には縁も地理感もないのでおすすめに浮かんだときだけ拝見していますが、そのたびにこの地域の鉄道史に驚きます。国鉄千歳線と定山渓鉄道の東札幌あたりも電化がらみでややこしいことになってたみたいですけど、ここまで複雑ではないですもんね。
ありがとうございます。
もしかしたらほかにも平面交差している場所もあるのかもしれないのですが
こんなに複雑なところはほかにないと思います。
寺泊駅には2度行きましたが、廃線跡があったとは知りませんでした。
別会社同士のたった数十mの供用区間、国鉄に関係ない電化設備の管理や線路使用料とかどうなってたのか気になりますね。
そもそも細かいこと考えてない時代かもしれませんが。
2次関数の解の建物、初めて寺泊駅に行ったときに見て驚いた記憶あります。
この道や電車で通学する学生さんに覚えて欲しいため・・・?
小学生が素通りしていくのを見ました。☺
たまに時間がある時に見に行ってます。 平成になった間もない頃はもう少し線路跡がはっきりしてたし、道路にも長鉄の線路がありました。
今は大分整理されてなんか寂しく感じます。大河津から与板までも架線や線路も有ったけどもうほとんど無いですね。
与板辺りに廃線跡が歩道になってたな。
長鉄は廃線跡が結構と残っていますよね
ちなみに旧寺泊新道から旧道に降りた坂道の途中に工場と売場ある「塩たき」という羊羹は塩味が効いてて一風変わった銘菓ですよ
th-cam.com/video/SORqZpBMq3c/w-d-xo.html
このMVの40秒あたりの映像もこちらの廃線跡でしょうか
間違いなくそうですね。この坂の上から撮影したものがぼくの動画の18:05くらいです。
さらにこのMVの1:19あたりから何回か出てくるコンクリートのアーチ橋も寺泊地内にある長岡線の廃線跡です。
ところでこちらの制作者さんはどういった方なのですか?
@今のところは名無しのままで。 音楽、MVの作者さんでいらっしゃったのですね!!
すごいですね!!しかも小説まで... 中学生でいろいろなことに挑戦されていて将来が楽しみです。
ぼくも夏の緑の豊かな時にも行ってみたいですね。
まあ…長岡線は割と
最近まで西長岡~大河津の
区間は線路は残っていた…
貨物扱い時代に数回訪問
西長岡の事務所には
田中角栄さんの肖像が😄
ELの廃車解体は残念…
まあ…才津のデンカの為に
存続していた…?
寺泊駅の名前の由来を聞いて納得しました。
元々場所が旧大河津村だったんですね。
当時の舟運のメインとは違うルートで鉄道が開通していったおかげで、新潟はそこへ接続するフィーダー路線である中小私鉄の宝庫だったのですね。
同様の必要性は各地にあったと想像しますが、建設する資金を支える地元名士や豪商の存在があればこそだったはずですので、そこからもかつての新潟の経済規模の大きさが計り知れます。
電化-非電化の交差路線って、たしかに存在しないですね。
西武の国分寺線沿線とか立川での南武線・中央線・青梅線のやり取りとかで、歴史上あっても良さそうではあるのですが、開業の順番からすれば「架線の下を蒸気が走る」という当たり前の光景になりそうですし。
蛇足ながら、冒頭ご指摘の通り角上魚類はこちら埼玉で大いに賑わっております。
年末にはお店先頭で大渋滞が起こるほどに(笑
そうですね、割かし早くから鉄道網が引かれたためまだ舟運が盛んだったところは避けられました。
しかし時を経て舟運が衰退してくるとそれを置き換える私鉄が出てきたのでしょう。(あ、これは新たな発見だ、ネタにできるかも...)
しかも国鉄が非電化で私鉄が電化、それも新潟の田舎...おもしろいですね。
角上魚類は関東のとくに内陸部でにぎわっているようですね。
いつか寺泊の本家にも遊びにいらしてください。
定山渓鉄道かと
寺泊駅は何度か行きました。駅に写真があったので、最盛期は大きな駅だったんだろうな、と。
越後交通 長岡線の廃線の旅も楽しみにしてます。