ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
武装や練度は、さして他国と変わらないにも関わらず、上杉謙信が率いると異様に強くなる不思議。思うに、謙信が毘沙門天の化身だと、家臣たちも本気で信じていたからこそ、死をまったく恐れずに突っ込めたのではないかと。
天と地とで上杉軍数万が「オンベイシラマンダラソワカ」と真言を唱えながら霧の中から突如現れる描写はあまりに恐ろしすぎて敵ならおしっこちびる
越後の百姓を束ねた上杉謙信が最強だよ。揚北衆も強かったけど、ねじ伏せた上杉謙信。日本一強いよ。
個人的には、アレクサンダー大王ぽい。カリスマ性があって、戦争に関しては、天才的な予見力と状況判断力があって、しかも自ら先陣を切って動く。兵士からみれば、まさに軍神。
思い半ばで尽きる所も然別ですね
私は日本版「白起」かな
16:35ごろや20:13ごろにあるように「敵軍を前にしたときは鬨の声をあげるまで無言でいること」は上杉軍の定法。川中島戦では妻女山で爪弾く謙信の琵琶の音が海津城の武田陣営まで届いたという。また、その後濃霧に隠されていたとはいえ、信玄本人が率いる武田軍に気付かれずに八幡原まで移動した。「徐かなること林の如く」の武田軍以上の静寂さである。大坂冬の陣で上杉勢が着陣してすぐに将軍秀忠が軍使を送ったが、上杉景勝以下全員無言で応答しなかった。本陣に帰着した軍使の報告を聞いた秀忠が上杉軍の謀反を疑い、手始めに上杉軍への攻撃を命じたところ、そばにいた家康が大慌てで引き留めた。そして「武門の長たるべき征夷大将軍が不識庵以来の陣法を知らぬは恥。(知っているはずの)老臣どもは何を教えていたのか」と、勉強不足の秀忠と秀忠付きの家臣たちを𠮟責した、という話が残っている。秀忠はこの時諸将の前で恥をかかされたのを根に持ったのか、夏の陣では上杉勢に「後軍」として京都居残りを命じている。
七尾城との挟撃というプランを選択させる為に、落とさずに引いて、罠にかけた…って辺り、織田側の長篠での勝利体験をも逆手にとった心理作戦…という気がして面白かったです。
信玄の謙信に対する評価「太刀においては日本無双の名大将」
隣合ったのが信玄の不幸でしたね。
なるほど、七尾城攻めはそのような意図があったのですね。新しい視点でした。武田信玄を決戦に導いた第三回川中島のように織田軍の主力を誘い込み大打撃を与える策略だったとは。
越後が混乱の最中、それまで寺で僧侶の修行をしていた、まだ14歳の謙信は危険なので甲冑を着て父親の葬儀に参列したという。その直後、14歳の少年が城を守り敵をアッというまに撃破してしまう。これには家臣達が腰を抜かすほど驚いただろう。「軍神」の誕生はこうして始まった。19歳で越後の守護大名となるが、彼が関東に進出、戦国武将としてデビューするのは30歳過ぎになってからだ。軍神といわれるが、その活動時期は意外と短い。20歳代の謙信は「軍神」と「僧侶」の間で悶々としていた時期なのではないだろうか? そこが我利我利の他の戦国武将と違う点で謙信の大きな魅力の一つだろう。「軍神」の本質は信仰と秩序の回復を重んじる典型的な中世的価値観をもった武将だと思う。
凄く濃いお話で面白かったです!他の解説者よりUP主の動画好きですね。例えとしてチェーザレ・ボルジア出てきたの驚きましたが納得しました。人間の限界まで能力を引き上げたのは武田信玄だとすると超常現象の上杉謙信というのも面白い例えでしたね。最後に戦術と戦略の違いをボクシングに例えたのは今まで1番しっくりきました。
スゲーだろ!謙信は!神業だよ!手取川は今でも大雨による急な増水でチョー危険なので支流にかかっている橋を渡って思いを馳せているよ。水がエメラルドグリーンで大変美しい。あの辺りは龍神様がいらっしゃる。謙信は龍神様の化身だったのかも。詳しい解説をありがとうございます。感謝してます!
私が新卒で入った会社の一年後に、新潟県出身(高校卒業まで新潟。うろ覚えですが、野坂昭如と同じ高校卒と話していました。大学は東京)の後輩が入社しました。彼は某会社社長の息子さんで、同業でよその地域の会社(当時の私の勤務先の会社)に入り、1から仕事を学ぶ様に父親から言われたのでしょう。会社の独身寮で親しくなり、色んな雑談の中で上杉謙信の話が出ました。「上杉謙信は3度の飯より戦が好きで、天下統一の野望は全く無かったと語っていました」新潟県出身の彼だけでなく、大方の新潟県出身者(地元に暮している方や他県で暮している方含めて)の共通認識かなと思います、
個人的な感想ですが、信長ってちょっと過大評価されてる武将だと思っていたのでたまにはこんな動画もあっていいなと感じましたね。謙信については新たな発見がありました。ありがとうございます。
鉄砲で兵の弱さを補った
「理想の上司ランキング」で信長が上位に来たときは笑ったわ。
@@すぅ-e2n 一番の重臣の光秀に殺されるところまで行く信長が理想の上司とは思えないですね。本能寺の変は不明な点が多くて光秀も本意ではなかったかもしれませんが、それを差し引いても部下から人望が厚かった人とは言えないと思います。道理はあるが人徳がないというイメージです。
そうでもない武将が天下とれそうになる?何かに秀でたからだよ。
@@三角則之 鉄砲を揃える経済力ですね
そもそも織田軍の行軍にはかなり無理があったよ。その証拠に加賀進行中に柴田勝家が信長に対して「行く先々の見分けがつかない。大変困っています」と信長にたいして手紙を出していたらしい。そのうえ秀吉と勝家が喧嘩して秀吉がいなくなった状態で上杉軍とまともに戦える訳がない。
三方ヶ原の後の信玄、手取川の後の謙信がもう少し長生きしてたらどうなってたんだろう…
それなんだけど、あまりにも信長に都合の良すぎるタイミングで亡くなってるんだよね。本当に信玄の病気や、謙信の突発的な疾患が起きたのなら、信長に天が味方した位に強運だが…………どうも暗殺の可能性がちらつく。織田信長にとって、上手く出来すぎている。
対して変わらんと思いますね。信玄、謙信の死は織田信長の幸運と言われていて確かにその通りだけど前者2人にとっても幸運だったと思う。大恥じかく前に死ねたからね
@@特ヲタ 信玄の場合尾張が危なかった
最近の若者は謙信、信玄が長生きしてても、石高と経済力の差で信長に勝てるわけないっていう人多いけど、信長が倍の兵力でも謙信、信玄には絶対に勝てないと思う。
もし信長が最前線にでて謙信と戦おうとしたら、謙信に殺されていただろう。川中島は武田軍団があまりにも強かったので信玄が命拾いしたのだと思う。代わりに多くの有能な武将を信玄は失ってしまった。
いや畿内押さえてて堺と近江、美濃、尾張、伊勢もってる信長に甲斐、信濃、駿河、飛騨一部、上野半国の山ばっかりの信玄じゃさすがに国力に差がありすぎる。確かに信玄の軍略はトップレベルだけど数の差でねじ伏せられて終わると思うわ
兵力、財力が違えども徐々に切り取られたら、どうだろうか?
謙信の天才的な強さはあくまで戦術的レベルだ。野戦は得意だが攻城戦や諸国の大名を味方にするのは苦手だ。つまり戦略レベルでは信長や秀吉に劣る。信長の凄い点は、経済や最新科学への理解が他の大名に比べ群を抜いている点で、中世から脱却するには必要な人物だった。謙信は神仏を強く信仰している点で時代遅れの武将ともいえる。彼では中世からの脱却はできない。
第二次大戦での中国大陸の戦いで日本軍は中国軍に対して士気とかでも勝っていましたが結果は…。だからいずれは押し負けると思います。
…もしも同じ兵数や武装だったら、上杉軍は織田軍を圧倒し歴史も変わってたぐらいの戦闘効率だったのですか。(汗)でも優れた武将も病には勝てなかったと。ありがとうございました!
秀吉が天下を取った後、武田旧臣から川中島の戦いの話を聞いて「武田も上杉も、そんなトロくさい戦ぶりだから天下を取れなかったんだぎゃ」と嘲笑してましたな。手取川の戦いは勝家など織田側の大敗北と言われますが、有名武将は誰も戦死してない。(≧∇≦)b
口先で越後の龍にゃあ太刀打ちできんでよう?
そうだな、三好掃討も関東静謐も武田討伐も口先だけで実現出来なかったなあ、越後の龍は。┐(´д`)┌ヤレヤレ
さすが謙信と思いました信長がもっと謙信の事を情報知ってなだめでしたね
上杉謙信は日本史でも最強の戦人やで、対抗できるのは楠正成くらいですかね。
個人的には武田家が滅びたのは、たまに運が原因とかいう人もいるが、運みたいなよくわからない不確定要素なものじゃなく、長篠設楽原の戦いでの無理いくさを強行し、大敗北を喫しだ事など明らかに勝頼の実力不足だと思う。ただ、謙信が意外と早くに亡くなってしまった事、その後の御館の乱での判断ミスなど、多少は運のなさもあったとは思う。
あれ?確か?秀吉って勝家とケンカして帰ったんだよね?
戦術や戦略の説明などに時間を割きすぎじゃないかな?信長に対して謙信が何をしたのかだけで充分だと思う。
中盤の謙信の戦略に対する部分は非常に面白かったです。ちなみに、謙信の死因は信長が仕掛けた毒殺というのが、信長の性格からもしっくりくると私は思っています。謙信には戦闘では勝てない、であれば、戦闘以外の方法しかない。それを何が何でもやるという信長の性格や思考方法。
フィクションとしては面白い
死因はおそらく酒の飲みすぎによる脳卒中だと思う。とにかく酒が好きだったらしい。というかアル中気味だったのではないだろうか。大事な戦さの前に酒絶ちをしてしていたらしいが、戦さの最中にまた酒を飲んでしまう事もよくしてた。
そりゃ、宇喜多直家ですがな。(≧∇≦)b
謙信の話をしたいのか、信長の話をしたいのかよくわからんな謙信と信長の話をしたいなら、手取川合戦とかいう虚構よりなぜ信長と謙信が手切れになったのかに切り込んだ方が…
まあ、信長公の無礼よね
@@カテジナ 外交で偶に大ポカするのが信長よね…
謙信は三好も倒せず、武田や北条も倒せず、関東静謐も実現してない。織田を倒す実力はないだろうな。(≧∇≦)b
結局は信長を誉めているのか、ディスっているのかよく分からない動画・・・
34:46 お子様ランチ…腑に落ちました。独創的でもなんでもない、いいとこ取りのごっちゃ盛り、これを信長に言ったら図星すぎて血管ブチきれるだろうなぁ。
何より和議をカズヨシと読むパソコンが😂
「こうずけ」を「うえの」
越後一国で300万石とかちょっと酷いなこの動画🥲
@@維新は日本にいらない子 一国ではなく上野国、北信濃、越後、能登、越中全部含めた石高ですね。多く見積もっても250万石ぐらい
16:27 スパイダーウォーク
いや〜、戦略は無いと思う。戦略があると言うなら毎年関東を荒らし回っては支配もせず撤退するのをどんな戦略をもってやっていたのか教えて欲しいです。戦術を練りに練ってたのは認めるけど、戦略的にはイノシシですよ。
そもそもノッブは革新的な革命家でもない運も味方に付ける優秀な戦略家
27:48 何で毘沙門天画像を差し置いてヘブライの神画像を使ってるんですか?
謙信の死については、信長の配下の忍者がやったという説を聞いたことがあります。たしか厠の底でウ〇コの中に潜んでいて、下から槍で突いたとか。。。ありうるかもと思いました。
この人って なんかおかしいんだよなぁ戦国最強論に 島津義弘とか出てくるけど なんか違うんだよなぁ
何だ、後半謙信關係无くなって信長の话ばっかじゃん。タイトル詐欺だぞ!
輝虎としてはその父からの因縁が避け難くあるのが分かる気がします兄の晴景は家督も継げずにどこへ行ったのでしょうかね
まあでも結局政略に優れた信長の方が最終的に上になるんですけどね秦だって単純な武力だけでなく様々な謀略を使ってたし、圧倒的に武力が上だった項羽も何度も戦闘では勝ってた劉邦に最後は負けたわけだし運悪く謙信が病死したからと思うかもしれんけど、信玄もそうだけどそれがあまりにも信長に都合が良いタイミングだし、もしかしたら信長の手による暗殺かもしれないですよね勿論推測でしかなく証拠はないですが
そしたら明智光秀に討たれた信長も同じことが言えるのでは?政略的に優れても本能寺で討たれる様なマヌケが最終的に上と言えるのか甚だ疑問ですねw
信長戦上手という感じはしないな
信長は最終的に勝つので戦争には強い
@@matukawatositane 政略や富国策が優れているので、そこは納得。信長を見ていると、現代の企業経営論を見ているような気がする。そこが人気の秘訣で、現代人にはマッチしやすいだろう。
小谷城攻略・朝倉殲滅戦や、第二次木津川合戦など、なかなか素晴しいものもあるけれども、確かにいつもエライ苦戦して度々負けてますね。幾次にもわたる信長包囲網の打破は、合従策(蘇秦)と連衡策(張儀)のせめぎ合い、連衡策を取る信長が、辛抱強く合従策の鎖を外してゆく姿は、凄いなと思うものの、これは戦ではなく、政戦略の類ですものね。
@@matukawatositane 様信長が強いのは悪運ですね。しかし運も実力のうちといいますから…
和議をかずよしって…
主はよほど信長が嫌いとみえる
謙信については、あのタイミングで病死は怪?信長側の毒殺説も聞いたことあるけど、、色んなこと聞けて楽しかったです。ありゃした!
謙信は、おそらくアル中だったと思う。大名として政治力で国をまとめるのは、戦さをするより謙信にかなりの精神的なストレスを与えていたのだろう。かえって戦さが謙信のストレス解消になっていたのかもしれない。
越後300万石はないな
革命児織田信長の印象から抜け出せずに見て来たかの様に語りますね。まぁいいんだけど
軍神に敵なし。
ところどころ、日本語がオカシイ・・・
尾張の弱兵って言われてたくらいだからなぁ
かずよし😂
越後の石高っていくらなんでも高過ぎじゃない??昔信玄と争っていた頃、信玄と謙信が動員できる兵力に差はなかったと思うけど。川中島の戦い当時の武田領は主に甲斐と信濃で大体80万石程度だったと思うけど、謙信も越後一国で正確な石高は分からないが100万石はなかったはず。何故手取川の戦いの頃の越後の石高が何百万石もあるのかが不思議でならない。
越後は太閤検地の際で38万1770石とされており、謙信晩年の庄内地方や北信濃と佐渡を数えても上杉家は70万石程度しかなかった。後に会津92万石に転封した際に加増と称されたのもそういう事情があり、その際に佐渡等の旧領の一部をそのまま領していたので会津藩は120万石を号した。今日の越後は400万石と言われるけれど、当時の越後は農業に向かない風土(湿地帯)で謙信の力の淵源は佐渡金山と日本海航路にあったとされる。
@@通りすがりの赤い人 謙信の晩年は越中、能登、加賀北部もあるから150万石ほどあったでしょう。会津が加増とされたのは景勝の時は北陸の領土は失っており、関東の領土も失っていたから。それと越後は米は微妙だったけど、湊の収入や青苧、金、銀山で栄えていたので、実際の動員可能兵力は謙信時代の越後だけでも3万以上はいた。川中島に連れて行かなかったのは各地に抑えを残したから。逆に武田は背後は同盟だからほぼ全兵力を川中島に向けれた。
@@abcdefgghcnok 当時の人口動態は推定値になるので断言できないが越後一国(38万人と推定される)で無理のない動員は8000人(人口の2%)くらい。いわゆる総動員だと4万弱(10%)に及ぶが、これは短期間の防衛戦限定で事後に重大な悪影響を招くことになる。
@@通りすがりの赤い人 謙信時代にまだ越中が敵勢力だった頃、3万近い兵力で越中に侵攻したことがある。越中に侵攻した時は武田、東北に対する抑えが必要なので動員可能兵力はそれ以上だと推測できる。仮に越後の動員可能兵力を全て一つの侵攻に使ったら他の敵に対処できなくなるから。3万近く動員して、本庄繁長の乱は招いたけど、それ以外は特に悪影響は無いから、8000が無理のない最大の兵力ということでは無いと思う。
@@通りすがりの赤い人 石高については理解してもらえましたか?
織田信長武田信玄上杉謙信北條家康秀吉この人たちの思考が、世界一経済力世界一の文化の高さそして世界一軍事力お誇ったかつてのローマ帝国との距離が近い国でローマに属する洲であったなら日本の文化はヨーロッパのようなキリスト教国家になっていたでしょうなにも原爆お2発も落とされなかったことでしょう。
うえのじゃないやろw
信長は謙信を評価するもその限界も見切っていたからそんなに脅威としては考えていなかった。謙信も名取川までが限界だと分かっていたのだろうさ。それ以上進出したら殲滅されるだけでなく、一気に越後も失っていただろう事を理解していた様だしね。
手取川
??
それってあなたの主観ですよね。当時の人達は、謙信が織田と戦うとなるや信長を裏切る者がでまくり
軍神とか人を超越するとかいう謙信さん、臼井城で敗れて退却、関東南下失敗。「せや!次は西攻めたろ!」→隣の越中までのみ。なお酒の飲み過ぎ不摂生により死亡。う~ん、これで信長より強いとか戦略的とか言われましても。
臼井城は小説ですから・・
うーん、ちょっと織田を過小評価気味だな
いや、世の中には信長を過大評価気味な人が多過ぎる‼️
うーんでも上杉って略奪、人攫いが特に酷いんでしょ… 『義』なんて立派な言葉使ってますけど、他国の領民からしたら単なる迷惑モノですね。率直な意見すると。
記録が残って無いのに人攫いや掠奪が酷いと言われるのはたまったもんじゃない。全く無いとは言わないけど普通の大名以上のことはしていないでしょう。もししていたら関東から援軍要請なんてされないだろうし北条ももっとプロパガンダをしていたはず。
上杉軍=遊牧民の一面がある。
それは誤解ですね何の情報ですか?
結局領土を拡大しないから恩賞を与えられない。だから戦でのご褒美(乱取り)をさせなきゃもたなかったんでしょうね〜その点信長は上洛に当たって乱取りを禁止にしてるし、自分はやっぱり信長の方に肩入れしちゃうなぁ
@@凸凸凹-x4n さん残されているのは関東諸将に対し乱取りとか捕虜の身代金を制限する触書でした。
あーだこーだ言っても信長以外は敗北者
信長も秀吉も敗北者‼️戦国最後の勝利者は家康、これは事実。
信長と明智と謙信自体ができレースで、秀吉に罪を擦り付けたかったのかもな。
武装や練度は、さして他国と変わらないにも関わらず、上杉謙信が率いると異様に強くなる不思議。
思うに、謙信が毘沙門天の化身だと、家臣たちも本気で信じていたからこそ、死をまったく恐れずに突っ込めたのではないかと。
天と地とで上杉軍数万が「オンベイシラマンダラソワカ」と真言を唱えながら霧の中から突如現れる描写はあまりに恐ろしすぎて敵ならおしっこちびる
越後の百姓を束ねた上杉謙信が最強だよ。揚北衆も強かったけど、ねじ伏せた上杉謙信。日本一強いよ。
個人的には、アレクサンダー大王ぽい。
カリスマ性があって、戦争に関しては、天才的な予見力と状況判断力があって、しかも自ら先陣を切って動く。
兵士からみれば、まさに軍神。
思い半ばで尽きる所も然別ですね
私は日本版「白起」かな
16:35ごろや20:13ごろにあるように
「敵軍を前にしたときは鬨の声をあげるまで無言でいること」は上杉軍の定法。
川中島戦では妻女山で爪弾く謙信の琵琶の音が海津城の武田陣営まで届いたという。また、その後濃霧に隠されていたとはいえ、信玄本人が率いる武田軍に気付かれずに八幡原まで移動した。「徐かなること林の如く」の武田軍以上の静寂さである。
大坂冬の陣で上杉勢が着陣してすぐに将軍秀忠が軍使を送ったが、上杉景勝以下全員無言で応答しなかった。本陣に帰着した軍使の報告を聞いた秀忠が上杉軍の謀反を疑い、手始めに上杉軍への攻撃を命じたところ、そばにいた家康が大慌てで引き留めた。そして「武門の長たるべき征夷大将軍が不識庵以来の陣法を知らぬは恥。(知っているはずの)老臣どもは何を教えていたのか」と、勉強不足の秀忠と秀忠付きの家臣たちを𠮟責した、という話が残っている。
秀忠はこの時諸将の前で恥をかかされたのを根に持ったのか、夏の陣では上杉勢に「後軍」として京都居残りを命じている。
七尾城との挟撃というプランを選択させる為に、落とさずに引いて、罠にかけた…って辺り、
織田側の長篠での勝利体験をも逆手にとった心理作戦…
という気がして面白かったです。
信玄の謙信に対する評価
「太刀においては日本無双の名大将」
隣合ったのが信玄の不幸でしたね。
なるほど、七尾城攻めはそのような意図があったのですね。新しい視点でした。武田信玄を決戦に導いた第三回川中島のように織田軍の主力を誘い込み大打撃を与える策略だったとは。
越後が混乱の最中、それまで寺で僧侶の修行をしていた、まだ14歳の謙信は危険なので甲冑を着て父親の葬儀に参列したという。その直後、14歳の少年が城を守り敵をアッというまに撃破してしまう。これには家臣達が腰を抜かすほど驚いただろう。「軍神」の誕生はこうして始まった。19歳で越後の守護大名となるが、彼が関東に進出、戦国武将としてデビューするのは30歳過ぎになってからだ。軍神といわれるが、その活動時期は意外と短い。20歳代の謙信は「軍神」と「僧侶」の間で悶々としていた時期なのではないだろうか? そこが我利我利の他の戦国武将と違う点で謙信の大きな魅力の一つだろう。「軍神」の本質は信仰と秩序の回復を重んじる典型的な中世的価値観をもった武将だと思う。
凄く濃いお話で面白かったです!他の解説者よりUP主の動画好きですね。例えとしてチェーザレ・ボルジア出てきたの驚きましたが納得しました。
人間の限界まで能力を引き上げたのは武田信玄だとすると超常現象の上杉謙信というのも面白い例えでしたね。
最後に戦術と戦略の違いをボクシングに例えたのは今まで1番しっくりきました。
スゲーだろ!謙信は!神業だよ!手取川は今でも大雨による急な増水でチョー危険なので支流にかかっている橋を渡って思いを馳せているよ。水がエメラルドグリーンで大変美しい。あの辺りは龍神様がいらっしゃる。謙信は龍神様の化身だったのかも。詳しい解説をありがとうございます。感謝してます!
私が新卒で入った会社の一年後に、新潟県出身(高校卒業まで新潟。うろ覚えですが、野坂昭如と同じ高校卒と話していました。大学は東京)の後輩が入社しました。
彼は某会社社長の息子さんで、同業でよその地域の会社(当時の私の勤務先の会社)に入り、1から仕事を学ぶ様に父親から言われたのでしょう。
会社の独身寮で親しくなり、色んな雑談の中で上杉謙信の話が出ました。
「上杉謙信は3度の飯より戦が好きで、天下統一の野望は全く無かったと語っていました」
新潟県出身の彼だけでなく、大方の新潟県出身者(地元に暮している方や他県で暮している方含めて)の共通認識かなと思います、
個人的な感想ですが、信長ってちょっと過大評価されてる武将だと思っていたのでたまにはこんな動画もあっていいなと感じましたね。謙信については新たな発見がありました。ありがとうございます。
鉄砲で兵の弱さを補った
「理想の上司ランキング」で信長が上位に来たときは笑ったわ。
@@すぅ-e2n
一番の重臣の光秀に殺されるところまで行く信長が理想の上司とは思えないですね。本能寺の変は不明な点が多くて光秀も本意ではなかったかもしれませんが、それを差し引いても部下から人望が厚かった人とは言えないと思います。道理はあるが人徳がないというイメージです。
そうでもない武将が天下とれそうになる?何かに秀でたからだよ。
@@三角則之 鉄砲を揃える経済力ですね
そもそも織田軍の行軍にはかなり無理があったよ。その証拠に加賀進行中に柴田勝家が信長に対して「行く先々の見分けがつかない。大変困っています」と信長にたいして手紙を出していたらしい。そのうえ秀吉と勝家が喧嘩して秀吉がいなくなった状態で上杉軍とまともに戦える訳がない。
三方ヶ原の後の信玄、手取川の後の謙信がもう少し長生きしてたらどうなってたんだろう…
それなんだけど、あまりにも信長に都合の良すぎるタイミングで亡くなってるんだよね。
本当に信玄の病気や、謙信の突発的な疾患が起きたのなら、信長に天が味方した位に強運だが…………
どうも暗殺の可能性がちらつく。
織田信長にとって、上手く出来すぎている。
対して変わらんと思いますね。信玄、謙信の死は織田信長の幸運と言われていて確かにその通りだけど前者2人にとっても幸運だったと思う。大恥じかく前に死ねたからね
@@特ヲタ 信玄の場合尾張が危なかった
最近の若者は謙信、信玄が長生きしてても、石高と経済力の差で信長に勝てるわけないっていう人多いけど、信長が倍の兵力でも謙信、信玄には絶対に勝てないと思う。
もし信長が最前線にでて謙信と戦おうとしたら、謙信に殺されていただろう。川中島は武田軍団があまりにも強かったので信玄が命拾いしたのだと思う。代わりに多くの有能な武将を信玄は失ってしまった。
いや畿内押さえてて堺と近江、美濃、尾張、伊勢もってる信長に甲斐、信濃、駿河、飛騨一部、上野半国の山ばっかりの信玄じゃさすがに国力に差がありすぎる。確かに信玄の軍略はトップレベルだけど数の差でねじ伏せられて終わると思うわ
兵力、財力が違えども徐々に切り取られたら、どうだろうか?
謙信の天才的な強さはあくまで戦術的レベルだ。野戦は得意だが攻城戦や諸国の大名を味方にするのは苦手だ。つまり戦略レベルでは信長や秀吉に劣る。信長の凄い点は、経済や最新科学への理解が他の大名に比べ群を抜いている点で、中世から脱却するには必要な人物だった。謙信は神仏を強く信仰している点で時代遅れの武将ともいえる。彼では中世からの脱却はできない。
第二次大戦での中国大陸の戦いで日本軍は中国軍に対して士気とかでも勝っていましたが結果は…。だからいずれは押し負けると思います。
…もしも同じ兵数や武装だったら、上杉軍は織田軍を圧倒し歴史も変わってたぐらいの戦闘効率だったのですか。(汗)でも優れた武将も病には勝てなかったと。ありがとうございました!
秀吉が天下を取った後、武田旧臣から川中島の戦いの話を聞いて「武田も上杉も、そんなトロくさい戦ぶりだから天下を取れなかったんだぎゃ」と嘲笑してましたな。手取川の戦いは勝家など織田側の大敗北と言われますが、有名武将は誰も戦死してない。(≧∇≦)b
口先で越後の龍にゃあ太刀打ちできんでよう?
そうだな、三好掃討も関東静謐も武田討伐も口先だけで実現出来なかったなあ、越後の龍は。┐(´д`)┌ヤレヤレ
さすが謙信と思いました信長がもっと謙信の事を情報知ってなだめでしたね
上杉謙信は日本史でも最強の戦人やで、対抗できるのは楠正成くらいですかね。
個人的には武田家が滅びたのは、たまに運が原因とかいう人もいるが、運みたいなよくわからない不確定要素なものじゃなく、長篠設楽原の戦いでの無理いくさを強行し、大敗北を喫しだ事など明らかに勝頼の実力不足だと思う。ただ、謙信が意外と早くに亡くなってしまった事、その後の御館の乱での判断ミスなど、多少は運のなさもあったとは思う。
あれ?確か?秀吉って勝家とケンカして帰ったんだよね?
戦術や戦略の説明などに時間を割きすぎじゃないかな?
信長に対して謙信が何をしたのかだけで充分だと思う。
中盤の謙信の戦略に対する部分は非常に面白かったです。
ちなみに、謙信の死因は信長が仕掛けた毒殺というのが、信長の性格からもしっくりくると私は思っています。
謙信には戦闘では勝てない、であれば、戦闘以外の方法しかない。それを何が何でもやるという信長の性格や思考方法。
フィクションとしては面白い
死因はおそらく酒の飲みすぎによる脳卒中だと思う。とにかく酒が好きだったらしい。というかアル中気味だったのではないだろうか。大事な戦さの前に酒絶ちをしてしていたらしいが、戦さの最中にまた酒を飲んでしまう事もよくしてた。
そりゃ、宇喜多直家ですがな。
(≧∇≦)b
謙信の話をしたいのか、信長の話をしたいのかよくわからんな
謙信と信長の話をしたいなら、手取川合戦とかいう虚構よりなぜ信長と謙信が手切れになったのかに切り込んだ方が…
まあ、信長公の無礼よね
@@カテジナ 外交で偶に大ポカするのが信長よね…
謙信は三好も倒せず、武田や北条も倒せず、関東静謐も実現してない。織田を倒す実力はないだろうな。(≧∇≦)b
結局は信長を誉めているのか、ディスっているのかよく分からない動画・・・
34:46 お子様ランチ…腑に落ちました。独創的でもなんでもない、いいとこ取りのごっちゃ盛り、これを信長に言ったら図星すぎて血管ブチきれるだろうなぁ。
何より和議をカズヨシと読むパソコンが😂
「こうずけ」を「うえの」
越後一国で300万石とかちょっと酷いなこの動画🥲
@@維新は日本にいらない子
一国ではなく上野国、北信濃、越後、能登、越中全部含めた石高ですね。多く見積もっても250万石ぐらい
16:27 スパイダーウォーク
いや〜、戦略は無いと思う。戦略があると言うなら毎年関東を荒らし回っては支配もせず撤退するのをどんな戦略をもってやっていたのか教えて欲しいです。戦術を練りに練ってたのは認めるけど、戦略的にはイノシシですよ。
そもそもノッブは革新的な革命家でもない
運も味方に付ける優秀な戦略家
27:48 何で毘沙門天画像を差し置いてヘブライの神画像を使ってるんですか?
謙信の死については、信長の配下の忍者がやったという説を聞いたことがあります。たしか厠の底でウ〇コの中に潜んでいて、下から槍で突いたとか。。。ありうるかもと思いました。
この人って なんかおかしいんだよなぁ
戦国最強論に 島津義弘とか出てくるけど なんか違うんだよなぁ
何だ、後半謙信關係无くなって信長の话ばっかじゃん。タイトル詐欺だぞ!
輝虎としてはその父からの因縁が避け難くあるのが分かる気がします
兄の晴景は家督も継げずにどこへ行ったのでしょうかね
まあでも結局政略に優れた信長の方が最終的に上になるんですけどね
秦だって単純な武力だけでなく様々な謀略を使ってたし、圧倒的に武力が上だった項羽も何度も戦闘では勝ってた劉邦に最後は負けたわけだし
運悪く謙信が病死したからと思うかもしれんけど、信玄もそうだけどそれがあまりにも信長に都合が良いタイミングだし、もしかしたら信長の手による暗殺かもしれないですよね
勿論推測でしかなく証拠はないですが
そしたら明智光秀に討たれた信長も同じことが言えるのでは?政略的に優れても本能寺で討たれる様なマヌケが最終的に上と言えるのか甚だ疑問ですねw
信長戦上手という感じはしないな
信長は最終的に勝つので戦争には強い
@@matukawatositane 政略や富国策が優れているので、そこは納得。信長を見ていると、現代の企業経営論を見ているような気がする。そこが人気の秘訣で、現代人にはマッチしやすいだろう。
小谷城攻略・朝倉殲滅戦や、第二次木津川合戦など、なかなか素晴しいものもあるけれども、確かにいつもエライ苦戦して度々負けてますね。幾次にもわたる信長包囲網の打破は、合従策(蘇秦)と連衡策(張儀)のせめぎ合い、連衡策を取る信長が、辛抱強く合従策の鎖を外してゆく姿は、凄いなと思うものの、これは戦ではなく、政戦略の類ですものね。
@@matukawatositane 様
信長が強いのは悪運ですね。
しかし運も実力のうちといいますから…
和議をかずよしって…
主はよほど信長が嫌いとみえる
謙信については、あのタイミングで病死は怪?
信長側の毒殺説も聞いたことあるけど、、
色んなこと聞けて楽しかったです。ありゃした!
謙信は、おそらくアル中だったと思う。大名として政治力で国をまとめるのは、戦さをするより謙信にかなりの精神的なストレスを与えていたのだろう。かえって戦さが謙信のストレス解消になっていたのかもしれない。
越後300万石はないな
革命児織田信長の印象から抜け出せずに見て来たかの様に語りますね。
まぁいいんだけど
軍神に敵なし。
ところどころ、日本語がオカシイ・・・
尾張の弱兵って言われてたくらいだからなぁ
かずよし😂
越後の石高っていくらなんでも高過ぎじゃない??昔信玄と争っていた頃、信玄と謙信が動員できる兵力に差はなかったと思うけど。川中島の戦い当時の武田領は主に甲斐と信濃で大体80万石程度だったと思うけど、謙信も越後一国で正確な石高は分からないが100万石はなかったはず。何故手取川の戦いの頃の越後の石高が何百万石もあるのかが不思議でならない。
越後は太閤検地の際で38万1770石とされており、謙信晩年の庄内地方や北信濃と佐渡を数えても上杉家は70万石程度しかなかった。後に会津92万石に転封した際に加増と称されたのもそういう事情があり、その際に佐渡等の旧領の一部をそのまま領していたので会津藩は120万石を号した。
今日の越後は400万石と言われるけれど、当時の越後は農業に向かない風土(湿地帯)で謙信の力の淵源は佐渡金山と日本海航路にあったとされる。
@@通りすがりの赤い人 謙信の晩年は越中、能登、加賀北部もあるから150万石ほどあったでしょう。
会津が加増とされたのは景勝の時は北陸の領土は失っており、関東の領土も失っていたから。
それと越後は米は微妙だったけど、湊の収入や青苧、金、銀山で栄えていたので、実際の動員可能兵力は謙信時代の越後だけでも3万以上はいた。
川中島に連れて行かなかったのは各地に抑えを残したから。
逆に武田は背後は同盟だからほぼ全兵力を川中島に向けれた。
@@abcdefgghcnok 当時の人口動態は推定値になるので断言できないが越後一国(38万人と推定される)で無理のない動員は8000人(人口の2%)くらい。
いわゆる総動員だと4万弱(10%)に及ぶが、これは短期間の防衛戦限定で事後に重大な悪影響を招くことになる。
@@通りすがりの赤い人 謙信時代にまだ越中が敵勢力だった頃、3万近い兵力で越中に侵攻したことがある。
越中に侵攻した時は武田、東北に対する抑えが必要なので動員可能兵力はそれ以上だと推測できる。
仮に越後の動員可能兵力を全て一つの侵攻に使ったら他の敵に対処できなくなるから。
3万近く動員して、本庄繁長の乱は招いたけど、それ以外は特に悪影響は無いから、8000が無理のない最大の兵力ということでは無いと思う。
@@通りすがりの赤い人 石高については理解してもらえましたか?
織田信長武田信玄上杉謙信北條家康秀吉この人たちの思考が、世界一経済力世界一の文化の高さそして世界一軍事力お誇ったかつてのローマ
帝国との距離が近い国でローマに属する洲であったなら日本の文化はヨーロッパのようなキリスト教国家になっていたでしょうなにも原爆お2発も落とされなかったことでしょう。
うえのじゃないやろw
信長は謙信を評価するもその限界も見切っていたから
そんなに脅威としては考えていなかった。
謙信も名取川までが限界だと分かっていたのだろうさ。
それ以上進出したら殲滅されるだけでなく、
一気に越後も失っていただろう事を理解していた様だしね。
手取川
??
それってあなたの主観ですよね。
当時の人達は、謙信が織田と戦うとなるや信長を裏切る者がでまくり
軍神とか人を超越するとかいう謙信さん、臼井城で敗れて退却、関東南下失敗。「せや!次は西攻めたろ!」→隣の越中までのみ。なお酒の飲み過ぎ不摂生により死亡。
う~ん、これで信長より強いとか戦略的とか言われましても。
臼井城は小説ですから・・
うーん、ちょっと織田を過小評価気味だな
いや、世の中には信長を過大評価気味な人が多過ぎる‼️
うーんでも上杉って略奪、人攫いが特に酷いんでしょ… 『義』なんて立派な言葉使ってますけど、他国の領民からしたら単なる迷惑モノですね。率直な意見すると。
記録が残って無いのに人攫いや掠奪が酷いと言われるのはたまったもんじゃない。
全く無いとは言わないけど普通の大名以上のことはしていないでしょう。
もししていたら関東から援軍要請なんてされないだろうし北条ももっとプロパガンダをしていたはず。
上杉軍=遊牧民の一面がある。
それは誤解ですね
何の情報ですか?
結局領土を拡大しないから恩賞を与えられない。だから戦でのご褒美(乱取り)をさせなきゃもたなかったんでしょうね〜
その点信長は上洛に当たって乱取りを禁止にしてるし、自分はやっぱり信長の方に肩入れしちゃうなぁ
@@凸凸凹-x4n さん
残されているのは関東諸将に対し乱取りとか捕虜の身代金を制限する触書でした。
あーだこーだ言っても信長以外は敗北者
信長も秀吉も敗北者‼️
戦国最後の勝利者は家康、これは事実。
信長と明智と謙信自体ができレースで、秀吉に罪を擦り付けたかったのかもな。