【ゆっくり解説】卑弥呼の墓が判明!?宇佐神宮の秘密とは
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- เผยแพร่เมื่อ 25 ก.ค. 2024
- 世界にはまだ解明されていない事や歴史の謎が眠っています。
そんな不思議で奇妙な雑学をお届けします。
今回の雑学は「卑弥呼の墓が判明!?宇佐神宮の秘密とは」です。
▼目次
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00:00 オープニング
01:41 【卑弥呼とは】
02:28 【宇佐神宮とは】
11:29 【宇佐神宮と卑弥呼の謎】
21:35 【締め】
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#ゆっくり解説 #秘密 #卑弥呼 #邪馬台国 #謎
ごゆっくりお楽しみください。
最近石棺が発見された吉野ヶ里遺跡は涙目ですな。
卑弥呼が役職名は無理がある。卑弥呼の次のトヨも役職名?
『伊勢神宮と飛鳥』
『宇佐神宮と大宰府』
この2者の位置関係(距離・方角)は、大体同じ
線を合わして引いただけ!
自分は国東半島と宇佐神宮の位置と鳥羽を半島で見ての伊勢神宮の位置関係が同じと感じています。現に鳥羽にもくにさきの地名があるから同じ状況を作ったのかもと感じてます
私の説と同様でした。
あれ、ウサじゃん
子供の頃に育った田舎町ですが、八幡総本宮であり、近隣村の遺跡・磨崖仏も
まだ、謎だらけなんです。。 また【御神輿発祥の宮】で有る事も取り上げて頂きたかった。
御神事ですので、担ぎ手は、法被などでは無く、皆 白装束で かなり大きな神輿 なんです。
今も、ど田舎ですが だから ひっそりと残って来たんだ、、とも思います。
巫女で女王、鬼道で誑かすという魏志倭人伝にある卑弥呼の特徴と合致するのは、記紀の中では、田油津媛ですよね。
神功皇后が熊襲征伐したときに、山門郡の女王 田油津媛を討ったとされる時代と卑弥呼の時代は合わないけど、卑弥呼の数代後の巫女女王だとすると、整合性がとれてくる。でも魏志倭人伝に伝える邪馬臺国の特徴と、山門郡(呼び方的にはヤマトが共通)では、いつくか辻褄が合わないので田油津媛(その氏族)=卑弥呼と確定できない。。
いずれにせよ北九州で発掘される史跡、墳墓の中に、田油津媛とその前時代の王、巫女女王、氏族豪族の痕跡は混ざってるでしょうね。
今回紹介された宇佐神宮の下に眠る墳墓もその系列かもですね。
記紀の年代も、人物の信憑性もありません。
百襲姫、百人埋めた姫。ヤマトのモモソ姫
動画、興味深く視聴させていただきました。ちょうど吉野ケ里遺跡の墳墓の発掘で邪馬台国や卑弥呼が取り上げられていますね。
卑弥呼は女王の名前ではなく、太陽神をつかさどる日巫女「ひみこ」ではないかとどちらかのyoutube番組で取り上げていました。
「うさ」と「いせ」は母音交替形で関係のある地名のように思います。もとより太陽神をまつる神宮なのでしょう。
卑弥呼「ひみこ」はあてた字に負のイメージがありますね。中華思想というか周辺国への蔑視がうっすらと感じられます。
卑と日は上代かなづかいではどちらもイ段甲類で同音です。肥前肥後の肥は火と同じでイ段乙類です。
大分県は明治以前は豊前豊後の二国ですが、豊「とよ」の国とすれば卑弥呼の後の女王、台与「とよ」と同じなのも気になります。
そんなことをぼんやり考えていましたので、今回の動画の趣旨にわたしも同意します。
記紀の神話にあるように、この地の勢力が東征を果たして大和王権に発展していくのかもしれません。
長持型石棺という比較的新しい石棺が出たのですから、宇佐神宮の下にあった古墳は古墳時代中期のものなのでは。
たかぎあきみつ氏の邪馬台国宇佐説?
神武記の
行至筑紫國菟狹菟狹者地名也此云宇佐時有菟狹國造祖號曰菟狹津彥菟狹津媛乃於菟狹川上一柱騰宮此云阿斯毗苔徒鞅餓離能宮
ですね。川の川上に今の宇佐の前身があったのかかも?
倭女王の事は、神功記全文読むと理解できますよ。書いてますから。日本書記的には、倭女王は誰?ですけど。(笑)
石棺があっても玄室が無いんだよね どこからか持ってきたと考えるのが違和感ないかな 御許山なんて立ち入る禁止の山も近くにあるし怪しくない?
この話では宇佐八幡宮と石清水八幡宮のどちらが先に成立したのか時系列が良く分かりませんね
そもそも天孫降臨は宮崎の高千穂のはずです
それなら八幡宮は
大分県宇佐
福岡県飯塚
福岡県箱崎
と続いて
京都石清水八幡宮
になるのではと思います
天皇家が実際のところ最高位の祖廟として扱ってたんだから、天照大御神なんでしょう。
絶対に真ん中に祀らないといけないのは天照大御神ですから。
あと宇佐神宮の元宮のひとつとされる薦神社ですが、ここは秦氏降臨の地です。
天皇家の宗廟の宇佐神宮、四拍手、秦氏の元宮、記紀に出てくる宇佐の女王
卑弥呼の死亡年と九州の日食がピッタリ合ってるので
日食時に女王が殺されて古墳建てて祀り、秦氏らは畿内へ~
そんな感じじゃないかなと思います。
宇佐神宮の社が建てられたのは8世紀だし、古墳も造ったのは後になっての可能性もある
例えば祟りを怖れた、とか、伊勢神宮のように天皇の思いつきで移したりとか祀るようになったとか、ですね。
いい話題をありがとうございます。宇佐は隠された古代の秘密が満載です。宇佐神宮に比売大神宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼が祀られています。中央の二の御殿で祀られる八幡比売神です。本殿下の亀山が卑弥呼の墓という伝承がありますが、その前は宇佐市安心院町妻垣神社奥宮一柱謄宮です。卑弥呼の死後の内戦に勝利した大国主久々遅彦が13歳の台与を女王に立てて、魏を後ろ盾にして、狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)を裏切って日本列島の大部分を支配下にしました。一之御殿の八幡大神は元々応神天皇ではなくその父の大国主命のことで、ヤマト王権に国譲りした史実を日本書紀で神話にされましたが、宇佐市安心院町佐田地区が大国主が最初に国造りした場所です。そして三之御殿の神功皇后は大国主の妃で女王台与をモデルにした人物です。魏志倭人伝に書かれた径百余歩の冢は妻垣神社の北側の宮ノ原遺跡三女(さんみょう)神社の西約500mにある三柱山古墳(直径約150mの円墳)です。古墳の周辺には日食を示唆するヒカケという地名が残っており、墓の遥拝所があります。しかし、直接目視できないように土盛りされていますが、そこに横穴が掘られています。天岩戸をイメージしたのだと思います。その他にもいくつも伝承が残されていますので、間違いないと思います。詳しくは「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!(^_-)-☆」「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」「宇佐は記紀が隠した秘密が満載だ」などをご参照ください(#^.^#)
とりあえず天照の伝承はファンタジーとして切り離さないと逆に信憑性低くなる。。
USA!USA!
売れっ子は大変だなー
福岡と大分、徳島と奈良にも墓が在る
子孫は墓参りが大変だ
どれが実家か分からない😅
四国をもっと ほじくって みるべき(疑)
🙄🤔🤨
天照大神=卑弥呼だと時代が合わないと思うけど・・・。
そもそもが卑弥呼が天照のモデルなんだって。
あと欠史八代含めて歴代の天皇と天照から初代天皇までの間の神様が実在した人間として考えた場合、
当時の時代背景から考えられる現実的な寿命で計算して遡っていくと初代天皇から5代前神の天照と卑弥呼がいたとされる年代とほぼ同じになる
そもそもで言ったら、そもそも記紀の信憑性が、、、
卑弥呼は北九州の小国家連合で祭祀を努め神託を伝える巫女頭
宗教上のトップである
現代のローマ法皇の立ち位置
古代ギリシャでもアポロン神殿に神託を伝える巫女がいた
王達が戦い前に必ず神託を聞きに行った
そうなんですよ。記紀神話は江戸時代に作られたって言ったらびっくりしませんか?(^_-)-☆下に書きましたのでご覧ください。卑弥呼が247年3月24日日没前の日食のために伊都国男王難升米(本当の倭国王で帥升の子孫)によって暗殺されたのですよ。詳しくは「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!(^_-)-☆」などをご参照ください( ^)o(^ )
中央の御殿に祀られてるのは、初代女王卑弥呼→二代目女王卑弥呼(台与)→三代目女王卑弥呼(壱与)の三人ではないか?と思います。それならピッタリ合致します!!!
神功皇后説をわたしは、推します。八幡さんとお稲荷さんは同じらしいです。
辛島氏も秦氏もほぼ同じなんですよ。
主な八幡大菩薩を端にしてヒメノオオカミを真ん中なんかおかしくありません?
宇佐神宮はこの前お参りした時に階段や周囲に丹の色が流れてました。形も古墳です。😊
宇佐神宮は、伊勢神宮と同じで
色んな所を移動してます。
今の場所は一番新しい所です。
元宮は、金富神社で祖宮は
薦神社と言われてます。元々
宇佐神宮は、宗像の宮に八幡
をかぶせた可能性があります。
宇佐と邪馬台国の風土は違い
過ぎませんか?
お詳しいですね。わたしも調べましたが、4世紀ごろに辛嶋氏が宇佐市稲積山で卑弥呼を祀っていたようですよ。7世紀末から8世紀初頭にかけて藤原不比等が権力を握り、藤原氏にとって都合の悪い日本建国の史実を隠すために様々な伝承を作っています。日本書紀の神話も不比等が作ったものです。
それよりも前に成立したとされる古事記は実は9世紀の朝廷で日本書紀を講義した学者多人長が突然表に出してきたものです。しかし、正史に古事記の記録がないし、日本書紀も古事記を参照した形跡もないのです。人長が日本書紀で隠された史実を、藤原氏に悟られないように暴露する目的で作られた偽書です。
祭祀に関わる氏族が古事記を参考にしていたようですが、ほとんど読まれておらず、江戸時代に国学者本居宣長が発掘して絶賛したのを平田篤胤が影響を受けて復古神道を作り、幕末の志士に人気になりました。明治政府は記紀神話に基づく国家神道を創設して、学校教育で国史を教えたので、戦後の日本人も何となく記紀が日本の歴史だと思わされています。これに気付けば何故不比等や藤原氏が史実を隠したかを推理すると古代史を解明できますよ。よろしければ刮目天の古代史をご参照ください。日本の神仏習合は卑弥呼や大国主・台与を祀っていることを隠すための藤原氏の発明ですよ(^_-)-☆
卑弥呼の墓は、宇佐で決まりですね。箸墓は、あり得ない。
卑弥呼は、姫御子でしょう。だから、本名ではなく職名か尊称でしょう。
比売大神は、姫大神でしょう。姫御子のことですね。
天照大神も職名か尊称でしょう。饒速日も天照大神だったですね。
卑弥呼と天照大神との関係は、不明です。
邪馬台国、魏志倭人伝を誤記なしで地名を中国語発音で読めば、大分になりますが?
理由は下記です。
道案内の基本は、距離と方角を言い、そのあと、そこまでの行程でかかる時間を言います。
よって不彌國到着で終わりであり、何日かかるは帯方郡からの行程です。
また、魏志は中国の書物であり、国名を日本語漢字読みではなく中国語発音で読むはずです。
末盧國をマツラなどと絶対読みません。ムリュに近い音になります。
詳細を記述したホームページは「5チャンネル 大分に邪馬台国があったらしいけど」の7番に乗せてあります。
アマテラスオオミカミっていうのは恐らく名前ではない
これは、こういう神様っていうような言い方であって、こういえば「あの神様」ってわかるでしょっていう言い方
ヒメノオオカミっていうのも名前では無くて「女性の大きい神さま」って言ってるだけ
漢字は当て字なので読みが重要
八幡神社っていうのはユダヤ教の秦氏が作ったというか信仰したものなので「汝みだりに神の名を唱えるなかれ」が効いてて
主神の本当の名前は頻繁に呼んではいけないのでヒミコって直接言っちゃダメなわけ
卑弥呼なんだけど回りくどい言い方しか駄目だよ!ってわけ
で、なんで卑弥呼=主神なのかというと
これは鬼道を操る巫女だった卑弥呼が神の依代だったのでは
神が依ったらそれは神だからね
御神木とかと同じ
邪馬台国の場所は博多近辺までは分かっていてそこから南東の方角って言うんだから
やっぱり大分~宮崎あたりと思われ
吉野ヶ里遺跡だったら「南」っていうはず
大分は「とよ(卑弥呼の後継者)の国」だし宇佐は豊前で「とよの国」の入り口
良く言われる距離があわないってのは、九州に入ったあと、記述が距離ではなく時間になってるのを無視してるため
急に時間の記述になってるってことは、そこから真っすぐ進めないからで
特に陸路は難所が多く海路も運行頻度と直線的に行き来してなかったものと考えられる
邪馬台国が率いる多くの国があったというのも九州の難地形により分断されていたからだろう
卑弥呼居ましたとして、ヤマト王権と邪馬台国が奈良にないなら。宇佐神宮が創建725年の奈良時代なので神宮の格式を与えないし。
九州の先進性が卑弥呼がいたかもしれない時期に北九州(福岡)でないと女王国は成り立たないし、のちの土蜘蛛扱いされてる田油津媛が拠点にした山門が相変わらず、妹巫女田油津媛と兄統治夏羽で国運営してるのみると、地政学的にも信仰もバッチリ合う。
邪馬台国近畿説の人なら卑弥呼は近畿に墓がないと不思議だし。
宇佐神宮はヤマト王権の勢力範囲の豪族の墓の上にあると言うのが、卑弥呼邪馬台国が、畿内説、九州説両方の説の人にとっていい。
「神聖さが損なわれる」だろ
出雲(いずも)で良いんじゃないですかね。
なるほど、なるほど、…で卑弥呼の邪馬台国特産品、
「朱(丹)」は何処???
卑弥呼は呉の遺民弥生倭人だから、天孫族とは別系統。
中央は戦いの男武装した皇祖神天照大神。
卑弥呼
個人名ではないだろう
勝手に漢字を当てられているが
卑弥呼、ひみこ
姫御子、姫神子ではないだろうか
つまり女王
地位の名であり個人的名ではない…と
魏志倭人伝の記述と距離が合わないのをどうせつめいするの?笑
川を遡るらしいです。人力で舟を引っ張るから、近場でも時間が掛かる。