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151系を楽しみにしていた当時の子供が、かえだまを見て泣いたという話を聞いたことがありました。
ビュッフェで寿司を食べさせてなだめると。( ノД`)丶(・ω・`) ヨシヨシ
@@クモハ165さん子供は寿司ではダメな上替えだまでは寿司屋は営業されていません。当時の寿司自体基本大人が食べるものとされており、子供が「マグロ」「ハマチ」「タイ」を食べたい、と言っても「これで我慢しとけ!気合いじゃあ!」で大阪寿司(地上で調理したバッテラを切っただけ。これなら別に職人が居なくても出せるが衛生上から当然冷たい)テイクアウトがやっと、寿司コーナーに行ってもせいぜいしんこ巻が食えれば超ご馳走、でしたからね。何より寿司職人の手配がつかない為定期急行でさえ大阪側ビュッフェの寿司コーナーは当時すでに営業されていなかった為遊休化していた事もあります。鉄道ピクトリアルにも寿司店で修行していた元板前を臨時で投入していた話がある位ですので、基本洋食志向で寿司を握った経験0の特急食堂車乗務員では握り寿司は無理。よって貴殿の言う「寿司食いねえ」作戦は不可能です。そこで代案としてサハシ153でも電子レンジ装備改造車(当初電子レンジは未装備で「寿司コーナー」はショボい湯沸かし用電気コンロやトースター、謎に酒かん器はあった、ビュッフェでご飯ものを出すための苦肉の策)を優先投入して寿司コーナーで炊いた(あるいは沿線の供給基地で炊いた)ご飯を用いてカレーライスを、電子レンジをフル活用してハンバーグステーキやスパゲッティを、と言った当時の子供には寿司以上のご馳走を提供して子供を宥める策に出ていたそうです。これこそまさに食い物で釣る子供騙しですw但しそれでもビュッフェの弱点である子供が食事するのに難渋きたす(立ち席故子供がテーブルまで背が届かない)事までは克服できず、修学旅行用155系にヒントを得てビュッフェ車の普通座席間に仮設テーブルを置いて子供専用臨時の食堂にする事までしてますし、この時の経験がサハシ455の一部に座席設置する策に活かされてます。ちなみにその年の秋に開業した新幹線ではこの電子レンジがその威力をフルに発揮、大型車体を活かして窓側に席を設けた事もあって子供には大好評だったそうです。そりゃあ当時最新鋭のフラッグシップ特急にタダで乗れてハンバーグステーキやスパゲッティ、カレーライスと言った子供にとってのご馳走を富士山見ながらこれまたタダで食えるのですから、親の財布が火の玉でも子供は大満足だったでしょうね。まあサハシ153が同じビュッフェでもオシ16の半室を客室にした構造だったら子供にはもっと利用しやすかったのでしょうが。
当時のこどもでこだまに乗れるのは上級国民の子。
大人でも泣きそう
当時のピクトリアルのわざわざ替え玉に乗ったレポートに有ったね。
もしあの時代にTH-camがあったら、「あえて替え玉を選んで乗ってみた」という乗車報告の動画や、「替え玉の通過、何々駅で撮影」という撮り鉄視点の動画が多数投稿されたかもしれない。
そりゃ、鉄道系ユーチューバーの格好の対象とされただろうね。
がみさんと大隅くんの天国地獄旅ネタにも使用されそう
謎さんとかがネタにしてそう
とら猫さん以下略😅
西園寺氏とか鬼ごっこで使って難を逃れそう
そりゃ当時のこだまは利用層が高給ビジネスマンか、富裕層。冷房無しボックスシートになったらVIP席からスタンドに行けと言われてるようなもの。
なお供食設備では、特別ビーフステーキ定食等の豪華な洋食が目玉のサシ151から、国鉄時代後にも先にも例がない立食い寿司コーナーが目玉のサハシ153が連結されたので、代用特急「替え玉」にも社用出張族を中心にファンがいたらしいです。東海道新幹線開業後1年後の1965年10月ダイヤ改正で東京と大阪を直結した153系普通急行電車が、山陽本線などに転属させられてからは、サハシ153も立食い寿司コーナーから立食いそば・うどんコーナーに改装されて、熱心なファンは消えたとか消えなかったとか…。乗車されていた寿司職人さんのお一人は東海道本線沿線の静岡県内でお寿司屋さんを開業されたと書籍で読んだ記憶があります。
静岡市清水区(旧:清水市)にあった「つばめ寿司」ですね、現在はご主人が亡くなられたとかで閉店したそうですよ。
@@原田寛-e3u さま貴重な情報をありがとうございます。JTBパブリッシングの新書本でそのお寿司屋さんの情報は得ていました。ご主人が亡くなられたのですか…一度食してみたいと考えていましたが…。謹んでご主人の哀悼の意を表します。合掌。
山陽新幹線岡山開業まで寿司コーナーは営業してましたよ。その後はビュッフェ自体非営業でした。但し寿司コーナー晩年は寿司よりおにぎり屋的に使われてましたね←信越本線急行でも一時期あった。
“かえだま”は苦肉の策。房総夏ダイヤの遜色急行は確信犯。でも、1960〜70年代の国鉄は、限られた手駒で精一杯需要に応えようとしていたんだと思います。
4月の事故で替え玉をせざるを得なくなったのは、151系の一部編成が新幹線開業後を見越した山陽線での試験運用に入っていたため、すぐに充当しようにもできなかった、という事情もありました。
正確には、九州での被牽引に対応するためだそうです。(連結器や引き通し線の強化など)
@@太田拓也-z9y さんそうですね。九州は交流で電化が進んでましたから、機関車&交流電源車につられての走行でしたからね。
@@jps7155481は完成遅れに関係無く北陸が優先されましたがいきなり山陽に投入して失敗してはいけないというのがあったんでしょうね。
@@太田拓也-z9y その九州乗り入れ対応改造車の一両だったクロ151-7哀れ。
昔の人のネーミングセンスはすごい秀逸だなw
ちなみに、新幹線でひかりとこだま以外になかった時代、小田原・浜松・豊橋・岐阜羽島に止まるひかり号のアダ名はひだま号。
昔からなんJ民みたいなやついたんだな。
「ひだま」は東海道区間が「ひかり」山陽区間が「こだま」で東京〜博多を運転してたからだよ。16両の「ひかり」が姫路で8両の「ウエストひかり」に抜かれていたんだよなぁ…
@@レールスターひかり 国鉄時代から有るあだ名です。ウエストひかりなどと言う最近の話しではありません。単語一つで嘘臭くなるので気を付けましょう。貴方の言う事も誤りでは有りませんが、その列車も国鉄時代から有りますし、ひだまが言われ始めたのはもう少し後です。因みに時系列米原停車の時代:言われて無い。岡山延伸、京都~岡山各停ひかり開始:まだ言われて無い。博多延伸、京都~博多各停開始、ひかりがひかりを抜き始める:まだ言われていない。新横浜、静岡停車開始:まだ言われて無い。東海区間、小田原、浜松、豊橋、岐阜羽島停車開始:この辺から言われ始める。熱海、三島停車開始
@@F-20TS 様「こかり」なんてね^^
153系、単に頼まれて仕事をしてるだけなのにボロカスに文句言われてて気の毒で草
153系も急行編成はなかなか豪華なのに、やはり比べる相手が151系だと分が悪い…
@@buchigirepanda287さんその153系も電子レンジ装備編成(サハシ153-23組み込み)を充当してハンバーグステーキなどお子様憧れのご馳走を出せるようにして子供さんを宥め、寿司コーナーは職人手配の問題で基本営業休止してそこでカレーライス作って提供する努力もしてました。ちなみに電子レンジ非装備編成でも寿司コーナーでカレーライスだけ作って提供して子供さんを宥めたそうです。大人は料金負けてやったら割り切って乗るけど自分で金出さない脛齧りの子供には関係ないからね。
@@古家武史-f5d さんサハシ153と言えば名物は寿司カウンターだったようですが、流石に特急こだま代走の臨時列車にまで寿司職人の手配は出来なかったんですねかえだまにガッカリの子供を宥めるのにはカレーライスはもってこいですね153系電車急行のビュッフェは寿司以外にも電子レンジで加熱して提供出来る軽食類なども充実していたそうですね
@@buchigirepanda287さん東海道本線時代は電子レンジ非装備、ようやく1963年秋頃からまず寿司コーナー非営業だった大阪側から電子レンジ装備改造が開始され、事故当時は東京側の車両にも装備開始されようか、と言う状況。故に東海道本線時代は温かい食事(と言うよりまともな食事)の提供は寿司以外皆無、寿司以外は朝食のトーストぐらいでした。これでも大人だったら特急料金半額だからと割り切って乗りますが、子供は自分で金出さない上にぐずるのが仕事故に当然ごねる。そこでこの替えだま編成には東京側のビュッフェを減車して大阪側の電子レンジ装備車を極力充当し、子供連れを1〜3号車に誘導して2等の大人は弁当で我慢してちょ、状態にしたりもしてますが、それでも電子レンジ非装備車を充当する事があり、子供が泣き喚いたのはこの編成充当時だったようですね。結局使って無い寿司コーナーでご飯炊いてカレーライスを提供したのですが、ルーの解凍には苦労したみたいです。後のボンカレーみたいにレトルトカレーコンロで湯煎して炊き立てご飯にかけて提供する、文字通りの子供騙しが使いにくかったですからね。もし長期化する場合、北陸急行を気動車や客車に置き換えて471系を捻出(或いは早期落成車。実際に準急伊吹に対近鉄特急用の切り札で一時投入された事もある)して替えだまに投入、電子レンジとそばコーナーを活用してカレーライスやハンバーグ、エビフリャー(エビフライ)やカツ丼、ラーメンや茹でたてスパゲッティを提供する子供騙し替え玉、もとい替えだま作戦まで検討されたそうです。
@@古家武史-f5dかと言って当時の客車特急に10系寝台車や10系座席車使ってた遜色特急もあったからな。
今でも九州では「ゆふいんの森」→「ゆふ」「あそぼーい」→「あそ」の替え玉がある。気動車ではあるが
これを言われてはキリが無くなる。だって全国に替え玉がいくらあるかわからないからです、
これとは逆に急行であったのに設備が良いからとそのまま特急にされた例もありましたね。名鉄から国鉄に乗り入れた北アルプスがその一例。
北アルプスのキハ8000系は、性能的にはキハ58系と同等ですけど、車内はパノラマカー7000系と同等の冷房付転換クロスシートでしたので、特急格上げの際はカラーリングの変更だけですみました。
しかも、デビューの〈たかやま〉:下半身ピンクの大阪着発の急行にあらず は、さらにそれよりもランク下の 準急 だったと。
当時は神宮前〜高山の距離だと、準急になる。なお、準急だったのはわずか7ヶ月で、国鉄側の制度変更(準急を急行に統合)で急行になった。
この事故で廃車になったクロ151-7の代替としてサロ150-3から改造されたクロ150-3は、実働期間はたったの3ヶ月だけでした。又翌年の3月にはクハ181-53に改造されたため、かなり短命な形式でした。
台枠以外を全面交換したためか振動が大きかったのも原因らしくS50年の181系廃車開始で最初に除籍された。
昔はエース列車だけど今は地域輸送種別…「つばめ」に通じるなあ
確か替え玉153系に151系のヘッドマーク付いてたのあったような。。
当時の写真を見ましたが151系のヘッドマークに似せた代用品ですね
気動車版では北海道の特急北斗が設定初期に急行型のキハ56で運転されてましたね。
キハ82の車両数が足りなくなり、一年にわたりキハ56だったそうです。平成末期、令和になると宗谷本線や石北本線の特急がキハ40が代用で臨時快速になったことも。
@@TSUYOS185わざわざ乗りに行きました。しかも1両はお座敷でびっくり(笑)
ボッタクリ急行によく使われた、キハ22でなかっただけで幸い。
北斗と同じコースを走る昼間のDC急行「すずらん」、夏の繁忙期だけ予定的に客車列車になる定期列車が有りました。
キハ81の時のはつかりは、故障が多かったのにも関わらず、替え玉みたいなことはなかったようだ。
補足しますと、パーラーカー事故で151系の車両不足になったのは、九州乗り入れ改造で予備車のない状況だったのもありますね。
151系はこだま号での運用を終えた後山陽線の特急に転用されるも、出力不足のためセノハチでEF61 0番台(当時は200番台がまだなかったので0番台車を使用)の後押しが必要になるなど運用効率がいまいちだったこともありましたね。
結局、上越線仕様の161系と統一する形で181系になりましたからね。更に、481系が出るまでのつなぎで、機関車牽引で博多まで乗入れた時代もあります。(電源車としてサヤ420を連結)
東海道新幹線開業後、山陽特急に転用された151系は出力増強して181系に改造されて、早期に瀬野八越えの補機は解消していました。運用に制約があったのは九州乗入れが出来ない直流車両なのと、山陽線では殆んど利用者がないパーラーカー連結の為です。
動画中でも触れられてるけど、戦後に地方は交流電化されちゃったから、東海道本線から撤退すると行く場所が上越線とかに限られるね。
上越線朱鷺は細々と言うような本数ではなく二桁の本数が走っていた。
いつも貴重な列車を紹介いただきありがとうございます。🎉
本来の151系特急型電車の不足の為に153系急行型電車で特急の代走列車とは・・・。“遜色特急”と呼んでも過言では無いでしょうね。
聞いた話なので確かではありませんが、1968年に中央西線に登場したキハ181系の【特急しなの】は車両トラブルなど何らかの事情で車両不足になった時に、同じ走行性能のキハ91系を編成に組み込んで部分代走させていたそうです。
TurbinePowered07さんの動画が参考になるはずです!
両方が名古屋に配置されていたからできた。
@@N--jv3goさんその場合キハ91ー9が指定されてました。
東海道本線特急こだまにも苦難の歴史があったんですね。クロ151パーラーカーの佳き時代ですね。東海道新幹線開業後山陽本線に転じてからはパーラーカーの利用率が良くなく開放室は普通車に改造されクロハ181となり更にその後個室も普通席に改造されクハ181となり最期を迎えました。
鉄道ファンの記事で読みましたが、クハ161も、クハ151の代わりにこだま号の運用に入って、その時のとき号は157系と161系を併結して走ったそうです。 それと、151系と161形式は、1965年頃から181系に統合され、前者は製造番号が40番台を除き、1から99まで、後者は40番台、新造された車両は100番台でした。
161系は上越線の急勾配を走るため、同じく急勾配がある日光専用に開発された157系の駆動系統に151系の車体を乗せた車両。なので151系の最高速は110km/hなのに157系、161系は100km/h。161系は151系の皮をかぶった157系なので、157系とそのまま連結して走らすことが出来ます。
更にその影響で準急「日光」も1両源車したり特急「ひびき」も減便になってます(不定期のみ運休)
@@qzp01467 連結部分の渡り板は何か加工したのだろうか。
何年か前に特急宗谷の代走でキハ40形が使われてましたね
キハ40に特急宗谷やれって、走行性能からいって無茶振りでは… 名寄より北だけならまだしもw
代走時は快速でした。
後の新快速が替え玉
替え玉、確かに間違ってはないかも特急とかライナーを普通車で代走するのは東武とか小田急であったけど、種別変更とか返金はちゃんとするしさすがにエアコンもついてるからなあ…マニアではあるけど、おそらく自分も当時の乗り鉄だったら「ゲッ…エアコンなしかよ…」ってなってたと思うね
末期の替え玉対応ですが、GWが終わって運用減った157系を「とき」にくっつけて捻出したクハ161を「こだま」に連結したそうです。
その煽りで準急「日光」も減車されたりひびきも運休して替わりに臨時急行出したそうです。
当時の東海道線特急こだまに乗ってみたかった。2等でいいけど
この辺りは「国鉄・JR列車名大辞典」の中で詳しく語られていますよね。151系電車が当時予備がなかった事から故障や事故が起こってしまうと代替車が存在しない事から故障・事故に出会ってしまうと日光準急から157系や153系を引っ張って来る以外方法がなく、憧れのこだま号が替え玉だったと言う事で乗車を拒否する子供が多く、ぐずる事が多かった事が書かれていますね。旧国や旧電機愛好家のカミさんによれば踏切事故で151系が運用を書く事がままあり、かの黒澤朗作品の「天国と地獄」に於いて登場する際国鉄に151系を映画撮影の為編成で貸切りたいと言う上申を行った所むちゃくちゃ怒られ、車内の撮影の為に1両借りたいと言う事も無茶を言うんじゃねぇ!!と叱られモックアップを作って撮影し、走行シーンは今も残る多摩川の河原で行われた事で有名にもなりましたね。その当時を知る人からすればこだま号はやはり永遠のヒーローであり、たとえ名前が各駅停車の新幹線に名前が移ってもその栄光は決して消える事はないのではないかと言うのがカミさんの意見だったりします。
当時の特急に乗れるこどもは上級国民のこども、大人運賃取っても良かったのではないかな。
だから石破茂氏が模型大事そうに持ってるんですね。
昔、北海道でもキハ82系特急「北斗」の代走として急行用のキハ56系が使われていたことがあったらしいです。
ビジネス特急こだまの運用開始から6年後の東京オリンピック開催に合わせて東海道新幹線開業したんだよな。
ボロカスに言われた153系「かえだま」だけど、151系と同じダイヤで走れたのは素晴らしいと思うまぁ、ギア比が若干違うだけで最高運転速度は同じ110km/hだから当然ではあるけど
それでも36-10以降なら仮に153系でもロザはリクライニングシートになっていたからまだしも…それ以前だとサハシもなくサロもサロ153=後のサロ110=ではロザ客泣いたかも(^^);ただ、ハザに関しては[かもめ]のハザがナハ11・ナハフ11・オハニ36、ブルトレ化前のあさかぜ・さくら(さちかぜ→平和)・はやぶさにナハ10・11、ナハフ10・11、オハニ36(予備でスハニ32)が使われていたから乗客もまだ理解してくれたかも(青大将編成だととてもじゃないけど6時間台の運転は不可)。
客車では6時間30分運転自体不可能。EF66の性能があって初めて可能
シートがバリカタorハリガネだったからですね…替え玉だけに。
誰が上手い事を言えとw
@@おしげ-b6kさんで471系を使っていたらラーメンや茹でたてスパゲッティで釣る替え玉、もとい替えだま子供騙し作戦の完成w
替え玉は特急料金を半額に値引きして運転したから。まあ少しは配慮したのかと。
後子供がぐずらない様にサハシ153ー23組み込み編成(当時サハシ153唯一の電子レンジ装備編成)を充当してハンバーグステーキ屋スパゲッティと言った子供にとって寿司よりもはるかに楽しみなご馳走を提供する餌で釣る子供騙し作戦までやってました。替えだま編成も充当可能車両が限られていて苦労したので、これ以降大阪側のビュッフェを外してまで電子レンジ搭載改造を行ってます。又サハシ165へは電子レンジ非搭載車から改造してます。
今の時代より設備が良かったと思います。1人掛けの車両なんざ現在のグランクラスより上、国鉄の底力ですね❗
NEXの253系クロもよく似たレイアウトだったが何故か高級感を感じさせない車両だった。
グランクラスって飛行機のファーストクラスを意識とされてるけど、151のパーラーカーを中途半端に模倣した結果に思えてくる。そして利用率はさっぱりだとか。JR東は意識改革が必要。サービス向上を考えるなら検討すべきは個室だろう
新幹線博多開業までは,臨時客車特急の運転の際,14系座席車で運転できない場合,12系で運転していました。その場合,「特急料金は100円引きです」と時刻表に明記されていました。確実に知っているのは「しおじ」ですが,「つばさ」もそうだったのではないかと思います。
そもそも14系でさえ「食堂車が無い」「客車なので遅い」ので遜色特急、なぜ最初から12系の急行にしなかった!
昭和48年夏のつばさ51号は12系客車で、キハ181系に乗れると思っていたのにガッカリした覚えがあります 。翌49年は14系でしたがまたしてもキハ181じゃなくガッカリしました。今思えば貴重な体験でしたね
@@おしげ-b6kさんスハフに乗ればエンジン音は堪能できたかと。(ヽ´ω`)
@@太田拓也-z9y 夜行だと14系のすぐ戻るバッタンシートよりピッチが少し広い12系の方が快適。
ちなみに「こだま」以外の特急が代替車で運転されたことはなかったのでしょうか。イメージ「つばめ」→153系「替えつばめ」「富士」→153系「替え富士」「はと」→153系「替えばと」
本当に「かえだま」という愛称で運転すればよかったのに。いや、割とマジで。
それこそ新幹線開業後に、従来の"在来線版こだま"そのままのダイヤを継続したうえでやってほしかった…ただし、この場合の運用車輌は153系そのままではさすがに酷なので、そちらを冷房化&クロスシートに改造するか157系を充当させるといった方法が妥当だっただろう。そうすることで、新幹線よりも料金が安くなおかつボックスシート型の急行車よりも快適に、東阪間を移動できたに違いない。。。
@@鈴木元-b7n新幹線開業したら撮りに来る人はいても、乗りに来る人はいないだろうね
@@鈴木元-b7n 台湾は 新幹線と在来線がうまく両立してますね 在来線には特急も急行も走っている、休日とかには指定席が取れないことも多々ある別会社ということもあるけど 新幹線(高鉄)の駅は郊外にあるところがあり不便なせいもあるのだろう
153系の替え玉って一応当時の急行型でもビュッフェ程度の設備を持った食堂車があったと思うけど、付属した編成だったんでしょうか?
急行用はビュッフェ車2両連結の12両編成だったのを、特急の11両編成に合わせてビュッフェ車を1両減らしてたようです。
153系は元々準急用で特ロとビュッフェは少し後で登場したので。
@@tw1119oskさん編成を合わせたのとビュッフェ車自体電子レンジ装備改造工事中で運用カツカツだったのが原因。遊休化していた4号車寿司コーナーもカレーライス製造基地でフル稼働してましたし、電子レンジ装備編成では東海道線急行ビュッフェでは提供されていなかったハンバーグステーキやスパゲッティを提供して急行との差別化と替え玉に乗せられて愚図る子供を宥めてました。後153系特急運用時は4号車ビュッフェ担当職員は大変だったそうです。
@@古家武史-f5d 電子レンジ装備改造の事は知りませんでした。当時の貴重な営業状況も教えて頂き、ありがとうございます。
直接関係ない話ですが、1990年頃のブルートレイン「みずほ」は東京−大阪を6時間41分で走破しており、機関車牽引の客車列車でありながら、運転開始当初の電車特急「こだま」の6時間50分を上回る隠れた高速列車でした。現在、九州新幹線の最速列車になっている「みずほ」ですが、実は寝台特急の時代も、知られざる高速列車だった訳です。
うろ覚えですが山陽本線(JR神戸線)で特急はまかぜかスーパーはくとの車両故障による代走で姫路以東がなんと新快速に種別変更の上223系になったという話があったような?
でも停車駅は特急に準じます
@@QU0623 さんちなみに新快速に乗ってて芦屋で遅れのスーパーはくとに抜かされた事あります。逆に181時代のはまかぜ末期は遅れたら新快速を退避してダイヤへの影響を極力抑えましたね。
パノラマシートは1等運賃(昭和35年に、特急つばめ・はとの展望車がなくなった時点で、従来の2等を1等、そして3等を2等になり1,2等の2等級制に変わっている。)別料金が必要です。だから1等料金だけでは乗れません。ところで、のちに特急北斗の増発におけるキハ82系不足のときや、臨時特急しおじや、つばさ、ゆうづるなどで12系が使用されていたときには特急料金100円引があった。特急北斗のときには、キハ56系の普通車ボックス席に座席カバーをかけて急行との違いをしていたそうです。またヘッドマークも掲げていました。
151系が成功する前は電車の地位がとても低かったからね。電車は短距離輸送程度しか出来ないと…
電車は自動扉だったので 安全でしたね客車から転落死した宮城道雄(盲目だったのでトイレと間違えたとも)、東映・大川社長のご子息(修学旅行中に転落)など
@@asaichban9842さんこの大川社長ジュニアの死が155系開発のキッカケになった
昔の特急こだま号の運行期間短くない?
東武でもDRCの代走で5700系で運転されたことがあった。ファンは大喜びでも一般利用客にとっては、転換クロス、冷房なし、コイルバネ台車で乗り心地も悪く不評だったでしょう。
こだまのパーラーカーにも、つばめガールが乗車してたのでしょうか?
この「第一富士」の事故当日、大阪→宇野に第一富士のダイヤでの臨時特急とその折り返しになる宇野→大阪の「うずしお」にはなんと80系が充当されています。吊掛電車が特急に充当されたのは後にも先にもこれだけです。なお、157系はこの頃には冷房改造が完了し、既に特急「ひびき」に充当されていました。
戦後(1950年代)、阪和線には京阪神区間から転用された流線形モハ52系が「特急」と称して天王寺ー和歌山間を結んだ事が知られていますが、モハ80系の「特急」とはまさに前代未聞です。それで、その特急料金の扱いは如何だったのかも興味をそそられますね。「特急」というには余りにも・・・・・・・・という車輌でしたから。
@@maironef その頃なら、電車で運転される急行、特急は料金不要ですよ。新快速の先祖とも言われる、モハ52系も「急電」こと京阪神間の急行用として制作されたものですから。京阪神間は1957年、阪和線は58年にこれらの急行電車は「快速」等に変更されています。モハ80系使用の準急などが運転されるようになったので整合性を取るためです。
ボックスシート特急とか今やったら100%叩かれますねwww
253系「」
アコモ改造前の185系電車も評判は良くなかったですね。何せ普通の転換クロスでしたから。
583系
でも、特急料金て速達に対する加算だから…
113系を特急にするようなものですかねwww
中央本線の急行かいじは115系で運転されたことがあったよ。常磐線の急行ときわも415系で運転されたらしい。多分、ロングシート部にも座席番号があるのは、指定席の名残でしょうね。現在の特急料金の払い戻しの対象として、冷房装置の故障時も対象になるそうです。近鉄のしまかぜやひのとりが一般車両で代走された場合、特急料金は一般車両料金になるらしいです。
指定券を買ったら割り当てがロングシート部分だったということもあるということなのかな。
一時スカ色に塗られたサロ165があったとか
反面、当時は急行型が普通列車に充当されることもありましたから、アタリ列車もあったのでは。ただ、ラッシュ時に165系の高崎線普通が遅延し、暴動が起きたりもしたみたいですが…。
猛暑の中で非冷房の特急では死にますね、夏の大船の事故ではG車に乗ってた人はたまらなかったですね。
ブルートレインさくら号も20系時代事故で一部編成が旧型客車を連結したことも当然旧型客車から20系に車内移動出来なかったから食堂車も利用できず
この列車は「うばざくら」と呼ばれたそうです。
681系のはくたかの代走が、489系というのはかなり遜色感がありました。683系4000番代の増備により解消されましたが。
昔何度か489系の代走に当たったのですが、ほくほく線内で160km/hで走れず大きく遅れました。1度はさらに窓ガラスがわれたとかでほくほく線内60km/h走行というとんでも低速走行ということもありました。
サンダーバードも昔はスーパー雷鳥編成や白山編成、ボンネット編成の替え玉があったなはくたかもボンネットでの替え玉があった
485系ソニックは?
@@山中達雄-j3p例のウソニックか…
富士が衝突→替えだま発生→ときは161+153の連結運用→うずしおは80系で代走うーんカオス( ̄▽ ̄;)
当日代走「富士うずしお」は300番台なのかな?
ときの代走は161+157では?
@@103jnrさん、その通りで、鉄道ファンの161系の記事に書いてありました。
ちなみに準急「日光」もその影響でサハ1両減車してます。
@@103jnr そうです。車両捻出の為1、特急ひびき(不定期便)を運休させて多客期臨時急行運行2、準急日光を減車してこだまに充当してます。結果的に九州乗り入れ対応工事が早期に終了した事と新潟地震でときが運休した為この代走運用は早期に終了、修学旅行列車用155系別途臨時急行案もしなくて済んだのですが。
代走とか替え玉とかではないのだが、昭和40年代に海水浴客を意識した房総快速「さざなみ」が103系ということがあったわ。さすがに失望感大きかっただろうな。せめて、セミクロスシートは期待しただろうに。車両のやりくり上、そうせざるを得なかったのだろうが。
昭和30〜40年代前半の内房線や外房線は、車両不足が理由でロングシートの臨時急行なんてのもあったそうです。
@@gingaexpress6539昭和時代は「房総夏ダイヤ」という特別態勢が取られていて快速用の113系が急行に充てられることがありました。当時の113系にロングシート車はなかったもののセミクロスシートのドア脇にも座席番号がちゃんと降ってありましたね。
房総の臨時快速運用はカナリヤの101系だったと思います
昔の映像で、内房線か外房線の気動車時代の臨時急行を見たことがあるのですが、各車両とも形式がバラバラで、ロングシートの形式も混ざっていたそうです。時代的に余剰車がなく、寄せ集めで対応せざるを得なかったんでしょうね。「遜色急行」とも呼ばれていたそうです。
52豪雪か58号豪雪か忘れたが 特急・雷鳥の車両のやりくりがつかず 12系客車で走らせたことがあった
こだま用予備車が無かったからだろうね。運用に余裕無かったからとも言える。だからこそ新幹線の開業が望まれた訳だし。 最近のJRでも時折見掛けるような。
モハ20系って名前だったのも紹介して欲しかった💦
うちも、つやまを特急にすべきでした。J西
高度成長期,485系特急[しおじ](大阪⇔下関)と共に12系臨時[しおじ]が運転された。(特急料金100円引き)
さくらが事故で車両不足の際に出来たうばざくら編成を!
それは、20系客車と10系客車の併結でしたね。
国鉄車両技師長だったかの、星晃氏の雑誌回想録では、何度目かの「替えだま」でナンボか特急料金を値引いたような記述があったと思うが…。その記事で、急行形電車に「こだま」のヘッドマークをつけていた写真には笑った。それはさておき、走行性能の異なる車両なのに、同じダイヤで走れたんですかね?
151系と153系は共に営業運転上の最高速度は110km/hだったからね。停車駅数は非常少ないから加速度の違いは問題になるレベルではなかったと思う。
@@まじんはひまじん-n1yさんそれでもビュッフェ車を1両減車し、更にビュッフェ車は極力サハシ153ー23組み込み編成を使ってました。
急行型のボックスシートは固定クロスより優秀だと思うな。当時の青いモケットの固定クロスシートって座り心地良くなかったよ。シートピッチも狭かったし。
急行形のボックスシートはゆったりしてて良かった昔、和歌山駅で165系から113系の初期車に乗り換えた時に痛感しました
夜行だと、空いていれば、14系座席車よりも12系の方が良かったという人もいますな。(・ε・` )
急行型ボックスシートを4人使用で7時間はさすがにキツいですよ。
@@buchigirepanda287 さん平成始めに115系の上諏訪夜行に乗った時は、普段乗っていた1000番台よりも明らかに窮屈でしたな。(ヽ´ω`)
@@クモハ165 さん上諏訪夜行は豊田電車区のスカ色115系での運転でしたね確か豊田電車区の115系はシートピッチの狭い0番台か300番台しか居なかったような気がします長野車はシートピッチ拡大の1000番台が多数でしたが
151系は、161系〜181系に、改造されて、特急『あずさ』や『とき』で使われてから、廃車になりました。グリーン車を、485系から改造されたりして、話題になりました。確か、先頭車を改造して、九州特急の先頭車になった車両が有ったと思います。
485系からの改造ではなくて、181系として新造(サロ181 1100番台)しましたが、既に上越新幹線の開業の目処がついていたので、485系への改造前提でサロ481 1000番台の設計を流用しており、上越新幹線開業後に予定通りサロ481 1500番代に改造されています。
@@N--T 混同してました。パーラーカーは、乗ってみたかった車両ですね!?『とき』の最後の方で、見た事が有りますが、結局、乗らなかったです。
サロ181-1051~1053は鹿児島に居たサロ481-26~28からの改造です。その他1100番台は将来485系編入のため485系の設計を踏襲して新製されました。
晩年の特急【とき】はサロ181だけ車高が高くて飛び上がったような不恰好さが目立ちましたが、サロの2両は改造を重ねてリゾートやまどりの制御車として、令和まで生き延びたのは幸運でしたな。(*´ω`*)
@@motirow6475さん更にそのうち2両は113系グリーン車に改造されてます。
113・115の急行内房もありました、
パーラーカー豪華だな映画のワンシーンの様だ
1980年代、客車の有明とか繁忙期に走ってとよね。
今思うと151系の代走をキハ82でやれなかったのだろうか?
1:49 日帰り出来ねぇよ。
姥桜かと思ったw
こだまでしょうか、いいえ、替え玉。
昔の特急って1号ではなく第1〇〇みたいな言い方して良いですよね。なんか違いとかあるんですかね?
今と違い「上りも下りも第1」から始まるのだ。 だがそれ以外は「言い方・表示方法」以外何の違いもない。
元々愛称付の優等列車が極一部の幹線にしかなくしかも同じ愛称の列車が複数本数運転されることもなかったのでそれが出来た当時取敢えず[第1○○][第2○○]と名付けた由。その後特急など指定席主体の列車は[第1●●]、自由席主体の列車は[○○1号]な感じになったけれど多分43-10までには[○○1号]に統一された筈。尚新幹線は最初から[ひかり1号][こだま2号]等~号呼称。これは[第100ひかり]だの[第55こだま]では語呂も悪いからとのこと。尚新幹線は開業当初から下り奇数上り偶数だったけれど在来線では長く上下とも[~1号]で、新幹線と同じく下り奇数上り偶数になったのは53-10から。
@@SleeperExpressJNR さんこれによって、8時ちょうどのあずさ2号 がなくなりました。
第一第二…はしおじやしおかぜなどにヨンサントオまで使われていました。指定席主体なら第一、自由席主体なら一号…とよく言われます。新幹線に名を譲る前の九州循環準急ひかりは、第一が全席指定だから該当するのですが、第二は自由席主体なんですよね…。準急東海の全席指定バージョンは第一東海とは名乗らずに新東海なので規則性はよくわかりません。
当時は、指定席がある列車は「第一、第二」、ない列車は「○号」とつけられていたそうです。なので、特急・急行は「第一、第二」でしたけど、準急は列車によって違っていて、東海道新幹線開業直前の東京駅発だと、準急「東海」(名古屋・大垣ゆき)と「はまな」(浜松・豊橋ゆき)は○号でしたが、「いでゆ」(修善寺・伊東ゆき)は「第一、第二」でした。
静岡に住んでました。
151系は早々に消えた筈です。モーターを強化して次々に181系になった。上越線の『とき』は181系です。
こだま号は山陽新幹線でもボコられたな。東京〜博多間ひかり号のうち、京都以遠が各駅停車になるタイプ〜ひだま〜
青いひかり
ありましたね。京都以遠で同じ名称の「ひかり」に何回抜かれることやら…。
まだ300系が出て間もない頃、300系が「ひかり」の運用に入ると「ひぞみ」と言われていたような気がします。
クロ151特別一等車は、紳士淑女の社交場でしたね✨
テロップとコメントが少し間違ってますね称号改正前、151形となる前は20系特急電車と呼称されていた時期があります新幹線開業後、151系と上越線用の161系は統合されて、181形にまとめられましたこれは特急用車両には、キハ80系や485系と合わせて、8の番号をあてるように変更されたためですその後も181系として新製されたグループも存在していますちょっと編集で内容を端折り過ぎではないかと思います
阪急京都線特急9300以外だったら替え玉特急?
157、良かったな。負けっぱなしじゃなくて。
つばめやはとに使われた客車をもう少し予備として残した方が良かったと思う。
残そうにも置き場所が無かったかと
さすがに、ロングシートで特急の代走はないだろう…
深澤がやりそうな気がする。
替え玉w
当然料金は急行んでしょうね?
大破しても犠牲者は出なかった?→151系は優秀。
但し結構外国の大物が負傷して外交問題にもなったそうです
特急料金は無論、急行料金もとったらいかんね?
東海道がかえだまなら東北ハがっかり東武モかえだまがあった
最近で言うと、新幹線のこだまで700系か300系が来ると思っていたら、500系が来たときの心境みたいなものかな?正直あれは勘弁してほしかった。100系に乗ったほうが遥かに快適だったから。
上越新幹線もE2、4が来るとがっかりしたな。200系の方がよかった。二階は揺れるし、シートの作りが悪いし、一階はシートはいいが穴蔵だし、最悪だった。
500系は見た目は格好良いけど、居住性は犠牲にしているもんな。
替えだまは知っているけど、175系〈東京→伊東・修善寺〉の筈だけどな?踏切事故で先頭車を175系の先頭車に入れ替えたのは知っているけどな?隣の駅だったから見に行ったよ。135系の替だまはニュース時でも見なかったけどな? 雑誌に載っていたかな?知らないよ。
鉄道用語の基礎知識という書籍があったら…特急かえだま必ず項目掲載されるだろうwwwwこの言葉を聞くたびに鉄ちゃん芸人の持ちネタ一言ギャグにしか聞こえなくなる!wwww
なぜ日本経済の成長が止まったのかも考えていきたい。外国は成長を続けているのに なぜ日本だけ・・・
こにゃ?😜
151系を楽しみにしていた当時の子供が、かえだまを見て泣いたという話を聞いたことがありました。
ビュッフェで寿司を食べさせてなだめると。
( ノД`)丶(・ω・`) ヨシヨシ
@@クモハ165さん
子供は寿司ではダメな上替えだまでは寿司屋は営業されていません。当時の寿司自体基本大人が食べるものとされており、子供が「マグロ」「ハマチ」「タイ」を食べたい、と言っても「これで我慢しとけ!気合いじゃあ!」で大阪寿司(地上で調理したバッテラを切っただけ。これなら別に職人が居なくても出せるが衛生上から当然冷たい)テイクアウトがやっと、寿司コーナーに行ってもせいぜいしんこ巻が食えれば超ご馳走、でしたからね。
何より寿司職人の手配がつかない為定期急行でさえ大阪側ビュッフェの寿司コーナーは当時すでに営業されていなかった為遊休化していた事もあります。
鉄道ピクトリアルにも寿司店で修行していた元板前を臨時で投入していた話がある位ですので、基本洋食志向で寿司を握った経験0の特急食堂車乗務員では握り寿司は無理。
よって貴殿の言う「寿司食いねえ」作戦は不可能です。
そこで代案としてサハシ153でも電子レンジ装備改造車(当初電子レンジは未装備で「寿司コーナー」はショボい湯沸かし用電気コンロやトースター、謎に酒かん器はあった、ビュッフェでご飯ものを出すための苦肉の策)を優先投入して寿司コーナーで炊いた(あるいは沿線の供給基地で炊いた)ご飯を用いてカレーライスを、電子レンジをフル活用してハンバーグステーキやスパゲッティを、と言った当時の子供には寿司以上のご馳走を提供して子供を宥める策に出ていたそうです。これこそまさに食い物で釣る子供騙しですw
但しそれでもビュッフェの弱点である
子供が食事するのに難渋きたす(立ち席故子供がテーブルまで背が届かない)事までは克服できず、修学旅行用155系にヒントを得てビュッフェ車の普通座席間に仮設テーブルを置いて子供専用臨時の食堂にする事までしてますし、この時の経験がサハシ455の一部に座席設置する策に活かされてます。
ちなみにその年の秋に開業した新幹線ではこの電子レンジがその威力をフルに発揮、大型車体を活かして窓側に席を設けた事もあって子供には大好評だったそうです。そりゃあ当時最新鋭のフラッグシップ特急にタダで乗れてハンバーグステーキやスパゲッティ、カレーライスと言った子供にとってのご馳走を富士山見ながらこれまたタダで食えるのですから、親の財布が火の玉でも子供は大満足だったでしょうね。
まあサハシ153が同じビュッフェでもオシ16の半室を客室にした構造だったら子供にはもっと利用しやすかったのでしょうが。
当時のこどもでこだまに乗れるのは上級国民の子。
大人でも泣きそう
当時のピクトリアルのわざわざ替え玉に乗ったレポートに有ったね。
もしあの時代にTH-camがあったら、「あえて替え玉を選んで乗ってみた」という乗車報告の動画や、「替え玉の通過、何々駅で撮影」という撮り鉄視点の動画が多数投稿されたかもしれない。
そりゃ、鉄道系ユーチューバーの格好の対象とされただろうね。
がみさんと大隅くんの天国地獄旅ネタにも使用されそう
謎さんとかがネタにしてそう
とら猫さん以下略😅
西園寺氏とか鬼ごっこで使って難を逃れそう
そりゃ当時のこだまは利用層が高給ビジネスマンか、富裕層。
冷房無しボックスシートになったらVIP席からスタンドに行けと言われてるようなもの。
なお供食設備では、特別ビーフステーキ定食等の豪華な洋食が目玉のサシ151から、国鉄時代後にも先にも例がない立食い寿司コーナーが目玉のサハシ153が連結されたので、代用特急「替え玉」にも社用出張族を中心にファンがいたらしいです。東海道新幹線開業後1年後の1965年10月ダイヤ改正で東京と大阪を直結した153系普通急行電車が、山陽本線などに転属させられてからは、サハシ153も立食い寿司コーナーから立食いそば・うどんコーナーに改装されて、熱心なファンは消えたとか消えなかったとか…。乗車されていた寿司職人さんのお一人は東海道本線沿線の静岡県内でお寿司屋さんを開業されたと書籍で読んだ記憶があります。
静岡市清水区(旧:清水市)にあった「つばめ寿司」ですね、現在はご主人が亡くなられたとかで閉店したそうですよ。
@@原田寛-e3u さま
貴重な情報をありがとうございます。JTBパブリッシングの新書本でそのお寿司屋さんの情報は得ていました。ご主人が亡くなられたのですか…一度食してみたいと考えていましたが…。謹んでご主人の哀悼の意を表します。合掌。
山陽新幹線岡山開業まで寿司コーナーは営業してましたよ。
その後はビュッフェ自体非営業でした。
但し寿司コーナー晩年は寿司よりおにぎり屋的に使われてましたね←信越本線急行でも一時期あった。
“かえだま”は苦肉の策。房総夏ダイヤの遜色急行は確信犯。でも、1960〜70年代の国鉄は、限られた手駒で精一杯需要に応えようとしていたんだと思います。
4月の事故で替え玉をせざるを得なくなったのは、151系の一部編成が新幹線開業後を見越した山陽線での試験運用に入っていたため、すぐに充当しようにもできなかった、という事情もありました。
正確には、九州での被牽引に対応するためだそうです。(連結器や引き通し線の強化など)
@@太田拓也-z9y さん
そうですね。九州は交流で電化が進んでましたから、機関車&交流電源車につられての走行でしたからね。
@@jps7155
481は完成遅れに関係無く北陸が優先されましたがいきなり山陽に投入して失敗してはいけないというのがあったんでしょうね。
@@太田拓也-z9y その九州乗り入れ対応改造車の一両だったクロ151-7哀れ。
昔の人のネーミングセンスはすごい秀逸だなw
ちなみに、新幹線でひかりとこだま以外になかった時代、小田原・浜松・豊橋・岐阜羽島に止まるひかり号のアダ名はひだま号。
昔からなんJ民みたいなやついたんだな。
「ひだま」は東海道区間が「ひかり」山陽区間が「こだま」で東京〜博多を運転してたからだよ。
16両の「ひかり」が姫路で8両の「ウエストひかり」に抜かれていたんだよなぁ…
@@レールスターひかり
国鉄時代から有るあだ名です。
ウエストひかりなどと言う最近の話しではありません。
単語一つで嘘臭くなるので気を付けましょう。
貴方の言う事も誤りでは有りませんが、その列車も国鉄時代から有りますし、ひだまが言われ始めたのはもう少し後です。
因みに時系列
米原停車の時代:言われて無い。
岡山延伸、京都~岡山各停ひかり開始:まだ言われて無い。
博多延伸、京都~博多各停開始、ひかりがひかりを抜き始める:まだ言われていない。
新横浜、静岡停車開始:まだ言われて無い。
東海区間、小田原、浜松、豊橋、岐阜羽島停車開始:この辺から言われ始める。
熱海、三島停車開始
@@F-20TS 様
「こかり」なんてね^^
153系、単に頼まれて仕事をしてるだけなのにボロカスに文句言われてて気の毒で草
153系も急行編成はなかなか豪華なのに、やはり比べる相手が151系だと分が悪い…
@@buchigirepanda287さん
その153系も電子レンジ装備編成(サハシ153-23組み込み)を充当してハンバーグステーキなどお子様憧れのご馳走を出せるようにして子供さんを宥め、寿司コーナーは職人手配の問題で基本営業休止してそこでカレーライス作って提供する努力もしてました。
ちなみに電子レンジ非装備編成でも寿司コーナーでカレーライスだけ作って提供して子供さんを宥めたそうです。
大人は料金負けてやったら割り切って乗るけど
自分で金出さない脛齧りの子供には関係ないからね。
@@古家武史-f5d さん
サハシ153と言えば名物は寿司カウンターだったようですが、流石に特急こだま代走の臨時列車にまで寿司職人の手配は出来なかったんですね
かえだまにガッカリの子供を宥めるのにはカレーライスはもってこいですね
153系電車急行のビュッフェは寿司以外にも電子レンジで加熱して提供出来る軽食類なども充実していたそうですね
@@buchigirepanda287さん
東海道本線時代は電子レンジ非装備、ようやく1963年秋頃からまず寿司コーナー非営業だった大阪側から電子レンジ装備改造が開始され、事故当時は東京側の車両にも装備開始されようか、と言う状況。
故に東海道本線時代は温かい食事(と言うよりまともな食事)の提供は寿司以外皆無、寿司以外は朝食のトーストぐらいでした。
これでも大人だったら特急料金半額だから
と割り切って乗りますが、子供は自分で金出さない上にぐずるのが仕事故に当然ごねる。
そこでこの替えだま編成には東京側のビュッフェを減車して大阪側の電子レンジ装備車を極力充当し、子供連れを1〜3号車に誘導して2等の大人は弁当で我慢してちょ、状態にしたりもしてますが、それでも電子レンジ非装備車を充当する事があり、子供が泣き喚いたのはこの編成充当時だったようですね。
結局使って無い寿司コーナーでご飯炊いてカレーライスを提供したのですが、ルーの解凍には苦労したみたいです。
後のボンカレーみたいにレトルトカレーコンロで湯煎して炊き立てご飯にかけて提供する、文字通りの子供騙しが使いにくかったですからね。
もし長期化する場合、北陸急行を気動車や客車に置き換えて471系を捻出(或いは早期落成車。実際に準急伊吹に対近鉄特急用の切り札で一時投入された事もある)して替えだまに投入、電子レンジとそばコーナーを活用してカレーライスやハンバーグ、エビフリャー(エビフライ)やカツ丼、ラーメンや茹でたてスパゲッティを提供する子供騙し替え玉、もとい替えだま作戦まで検討されたそうです。
@@古家武史-f5d
かと言って当時の客車特急に10系寝台車や10系座席車使ってた遜色特急もあったからな。
今でも九州では
「ゆふいんの森」→「ゆふ」
「あそぼーい」→「あそ」
の替え玉がある。
気動車ではあるが
これを言われてはキリが無くなる。だって全国に替え玉がいくらあるかわからないからです、
これとは逆に急行であったのに設備が良いからとそのまま特急にされた例もありましたね。
名鉄から国鉄に乗り入れた北アルプスがその一例。
北アルプスのキハ8000系は、性能的にはキハ58系と同等ですけど、車内はパノラマカー7000系と同等の冷房付転換クロスシートでしたので、特急格上げの際はカラーリングの変更だけですみました。
しかも、デビューの〈たかやま〉:下半身ピンクの大阪着発の急行にあらず は、さらにそれよりもランク下の 準急 だったと。
当時は神宮前〜高山の距離だと、準急になる。なお、準急だったのはわずか7ヶ月で、国鉄側の制度変更(準急を急行に統合)で急行になった。
この事故で廃車になったクロ151-7の代替としてサロ150-3から改造されたクロ150-3は、実働期間はたったの3ヶ月だけでした。又翌年の3月にはクハ181-53に改造されたため、かなり短命な形式でした。
台枠以外を全面交換したためか振動が大きかったのも原因らしくS50年の181系廃車開始で最初に除籍された。
昔はエース列車だけど今は地域輸送種別…「つばめ」に通じるなあ
確か替え玉153系に151系のヘッドマーク付いてたのあったような。。
当時の写真を見ましたが151系のヘッドマークに似せた代用品ですね
気動車版では北海道の特急北斗が設定初期に急行型のキハ56で運転されてましたね。
キハ82の車両数が足りなくなり、一年にわたりキハ56だったそうです。
平成末期、令和になると宗谷本線や石北本線の特急がキハ40が代用で臨時快速になったことも。
@@TSUYOS185わざわざ乗りに行きました。しかも1両はお座敷でびっくり(笑)
ボッタクリ急行によく使われた、キハ22でなかっただけで幸い。
北斗と同じコースを走る昼間のDC急行「すずらん」、夏の繁忙期だけ予定的に客車列車になる定期列車が有りました。
キハ81の時のはつかりは、故障が多かったのにも関わらず、替え玉みたいなことはなかったようだ。
補足しますと、パーラーカー事故で151系の車両不足になったのは、九州乗り入れ改造で予備車のない状況だったのもありますね。
151系はこだま号での運用を終えた後山陽線の特急に転用されるも、
出力不足のためセノハチでEF61 0番台(当時は200番台がまだなかったので0番台車を使用)の
後押しが必要になるなど運用効率がいまいちだったこともありましたね。
結局、上越線仕様の161系と統一する形で181系になりましたからね。
更に、481系が出るまでのつなぎで、機関車牽引で博多まで乗入れた時代もあります。
(電源車としてサヤ420を連結)
東海道新幹線開業後、山陽特急に転用された151系は出力増強して181系に改造されて、早期に瀬野八越えの補機は解消していました。
運用に制約があったのは九州乗入れが出来ない直流車両なのと、山陽線では殆んど利用者がないパーラーカー連結の為です。
動画中でも触れられてるけど、戦後に地方は交流電化されちゃったから、東海道本線から撤退すると行く場所が上越線とかに限られるね。
上越線朱鷺は細々と言うような本数ではなく二桁の本数が走っていた。
いつも貴重な列車を紹介いただきありがとうございます。🎉
本来の151系特急型電車の不足の為に153系急行型電車で特急の代走列車とは・・・。“遜色特急”と呼んでも過言では無いでしょうね。
聞いた話なので確かではありませんが、1968年に中央西線に登場したキハ181系の【特急しなの】は車両トラブルなど何らかの事情で車両不足になった時に、同じ走行性能のキハ91系を編成に組み込んで部分代走させていたそうです。
TurbinePowered07さんの動画が参考になるはずです!
両方が名古屋に配置されていたからできた。
@@N--jv3goさん
その場合キハ91ー9が指定されてました。
東海道本線特急こだまにも苦難の歴史があったんですね。クロ151パーラーカーの佳き時代ですね。東海道新幹線開業後山陽本線に転じてからはパーラーカーの利用率が良くなく開放室は普通車に改造されクロハ181となり更にその後個室も普通席に改造されクハ181となり最期を迎えました。
鉄道ファンの記事で読みましたが、クハ161も、クハ151の代わりにこだま号の運用に入って、その時のとき号は157系と161系を併結して走ったそうです。
それと、151系と161形式は、1965年頃から181系に統合され、前者は製造番号が40番台を除き、1から99まで、後者は40番台、新造された車両は100番台でした。
161系は上越線の急勾配を走るため、同じく急勾配がある日光専用に開発された157系の駆動系統に
151系の車体を乗せた車両。なので151系の最高速は110km/hなのに157系、161系は100km/h。
161系は151系の皮をかぶった157系なので、157系とそのまま連結して走らすことが出来ます。
更にその影響で準急「日光」も1両源車したり
特急「ひびき」も減便になってます(不定期のみ運休)
@@qzp01467 連結部分の渡り板は何か加工したのだろうか。
何年か前に特急宗谷の代走でキハ40形が使われてましたね
キハ40に特急宗谷やれって、走行性能からいって無茶振りでは… 名寄より北だけならまだしもw
代走時は快速でした。
後の新快速が替え玉
替え玉、確かに間違ってはないかも
特急とかライナーを普通車で代走するのは東武とか小田急であったけど、種別変更とか返金はちゃんとするしさすがにエアコンもついてるからなあ…
マニアではあるけど、おそらく自分も当時の乗り鉄だったら「ゲッ…エアコンなしかよ…」ってなってたと思うね
末期の替え玉対応ですが、
GWが終わって運用減った157系を「とき」にくっつけて捻出したクハ161を「こだま」に連結したそうです。
その煽りで準急「日光」も減車されたり
ひびきも運休して替わりに臨時急行出したそうです。
当時の東海道線特急こだまに乗ってみたかった。2等でいいけど
この辺りは「国鉄・JR列車名大辞典」の中で詳しく語られていますよね。
151系電車が当時予備がなかった事から故障や事故が起こってしまうと代替車が存在しない事から故障・事故に出会ってしまうと日光準急から157系や153系を引っ張って来る以外方法がなく、憧れのこだま号が替え玉だったと言う事で乗車を拒否する子供が多く、ぐずる事が多かった事が書かれていますね。
旧国や旧電機愛好家のカミさんによれば踏切事故で151系が運用を書く事がままあり、かの黒澤朗作品の「天国と地獄」に於いて登場する際国鉄に151系を映画撮影の為編成で貸切りたいと言う上申を行った所むちゃくちゃ怒られ、車内の撮影の為に1両借りたいと言う事も無茶を言うんじゃねぇ!!と叱られモックアップを作って撮影し、走行シーンは今も残る多摩川の河原で行われた事で有名にもなりましたね。
その当時を知る人からすればこだま号はやはり永遠のヒーローであり、たとえ名前が各駅停車の新幹線に名前が移ってもその栄光は決して消える事はないのではないかと言うのがカミさんの意見だったりします。
当時の特急に乗れるこどもは上級国民のこども、大人運賃取っても良かったのではないかな。
だから石破茂氏が模型大事そうに持ってるんですね。
昔、北海道でもキハ82系特急「北斗」の代走として急行用のキハ56系が使われていたことがあったらしいです。
ビジネス特急こだまの運用開始から6年後の東京オリンピック開催に合わせて東海道新幹線開業したんだよな。
ボロカスに言われた153系「かえだま」だけど、151系と同じダイヤで走れたのは素晴らしいと思う
まぁ、ギア比が若干違うだけで最高運転速度は同じ110km/hだから当然ではあるけど
それでも36-10以降なら仮に153系でもロザはリクライニングシートになっていたからまだしも…それ以前だとサハシもなくサロもサロ153=後のサロ110=ではロザ客泣いたかも(^^);ただ、ハザに関しては[かもめ]のハザがナハ11・ナハフ11・オハニ36、ブルトレ化前のあさかぜ・さくら(さちかぜ→平和)・はやぶさにナハ10・11、ナハフ10・11、オハニ36(予備でスハニ32)が使われていたから乗客もまだ理解してくれたかも(青大将編成だととてもじゃないけど6時間台の運転は不可)。
客車では6時間30分運転自体不可能。
EF66の性能があって初めて可能
シートがバリカタorハリガネだったからですね…替え玉だけに。
誰が上手い事を言えとw
@@おしげ-b6kさん
で471系を使っていたらラーメンや茹でたてスパゲッティで釣る
替え玉、もとい替えだま子供騙し作戦の完成w
替え玉は特急料金を半額に値引きして運転したから。まあ少しは配慮したのかと。
後子供がぐずらない様にサハシ153ー23組み込み編成(当時サハシ153唯一の電子レンジ装備編成)を充当してハンバーグステーキ屋スパゲッティと言った子供にとって寿司よりもはるかに楽しみなご馳走を提供する
餌で釣る子供騙し作戦
までやってました。
替えだま編成も充当可能車両が限られていて苦労したので、これ以降大阪側のビュッフェを外してまで電子レンジ搭載改造を行ってます。
又サハシ165へは電子レンジ非搭載車から改造してます。
今の時代より設備が良かったと思います。1人掛けの車両なんざ現在のグランクラスより上、国鉄の底力ですね❗
NEXの253系クロもよく似たレイアウトだったが何故か高級感を感じさせない車両だった。
グランクラスって飛行機のファーストクラスを意識とされてるけど、151のパーラーカーを中途半端に模倣した結果に思えてくる。そして利用率はさっぱりだとか。
JR東は意識改革が必要。サービス向上を考えるなら検討すべきは個室だろう
新幹線博多開業までは,臨時客車特急の運転の際,14系座席車で運転できない場合,12系で運転していました。その場合,「特急料金は100円引きです」と時刻表に明記されていました。確実に知っているのは「しおじ」ですが,「つばさ」もそうだったのではないかと思います。
そもそも14系でさえ「食堂車が無い」「客車なので遅い」ので遜色特急、なぜ最初から12系の急行にしなかった!
昭和48年夏のつばさ51号は12系客車で、キハ181系に乗れると思っていたのにガッカリした覚えがあります 。翌49年は14系でしたがまたしてもキハ181じゃなくガッカリしました。今思えば貴重な体験でしたね
@@おしげ-b6kさん
スハフに乗ればエンジン音は堪能できたかと。(ヽ´ω`)
@@太田拓也-z9y 夜行だと14系のすぐ戻るバッタンシートよりピッチが少し広い12系の方が快適。
ちなみに「こだま」以外の特急が代替車で運転されたことはなかったのでしょうか。
イメージ
「つばめ」→153系「替えつばめ」
「富士」→153系「替え富士」
「はと」→153系「替えばと」
本当に「かえだま」という愛称で運転すればよかったのに。
いや、割とマジで。
それこそ新幹線開業後に、従来の"在来線版こだま"そのままのダイヤを継続したうえでやってほしかった…
ただし、この場合の運用車輌は153系そのままではさすがに酷なので、そちらを冷房化&クロスシートに改造するか157系を充当させるといった方法が妥当だっただろう。
そうすることで、新幹線よりも料金が安くなおかつボックスシート型の急行車よりも快適に、東阪間を移動できたに違いない。。。
@@鈴木元-b7n
新幹線開業したら撮りに来る人はいても、乗りに来る人はいないだろうね
@@鈴木元-b7n
台湾は 新幹線と在来線がうまく両立してますね 在来線には特急も急行も走っている、休日とかには指定席が取れないことも多々ある
別会社ということもあるけど 新幹線(高鉄)の駅は郊外にあるところがあり不便なせいもあるのだろう
153系の替え玉って一応当時の急行型でもビュッフェ程度の設備を持った食堂車があったと思うけど、付属した編成だったんでしょうか?
急行用はビュッフェ車2両連結の12両編成だったのを、特急の11両編成に合わせてビュッフェ車を1両減らしてたようです。
153系は元々準急用で特ロとビュッフェは少し後で登場したので。
@@tw1119oskさん
編成を合わせたのとビュッフェ車自体電子レンジ装備改造工事中で運用カツカツだったのが原因。
遊休化していた4号車寿司コーナーもカレーライス製造基地でフル稼働してましたし、電子レンジ装備編成では東海道線急行ビュッフェでは提供されていなかったハンバーグステーキやスパゲッティを提供して急行との差別化と替え玉に乗せられて愚図る子供を宥めてました。
後153系特急運用時は4号車ビュッフェ担当職員は大変だったそうです。
@@古家武史-f5d 電子レンジ装備改造の事は知りませんでした。当時の貴重な営業状況も教えて頂き、ありがとうございます。
直接関係ない話ですが、1990年頃のブルートレイン「みずほ」は東京−大阪を6時間41分で走破しており、機関車牽引の客車列車でありながら、運転開始当初の電車特急「こだま」の6時間50分を上回る隠れた高速列車でした。
現在、九州新幹線の最速列車になっている「みずほ」ですが、実は寝台特急の時代も、知られざる高速列車だった訳です。
うろ覚えですが山陽本線(JR神戸線)で特急はまかぜかスーパーはくとの車両故障による代走で姫路以東がなんと新快速に種別変更の上223系になったという話があったような?
でも停車駅は特急に準じます
@@QU0623 さん
ちなみに新快速に乗ってて芦屋で遅れのスーパーはくとに抜かされた事あります。
逆に181時代のはまかぜ末期は遅れたら新快速を退避してダイヤへの影響を極力抑えましたね。
パノラマシートは1等運賃(昭和35年に、特急つばめ・はとの展望車がなくなった時点で、従来の2等を1等、そして3等を2等になり1,2等の2等級制に変わっている。)別料金が必要です。だから1等料金だけでは乗れません。ところで、のちに特急北斗の増発におけるキハ82系不足のときや、臨時特急しおじや、つばさ、ゆうづるなどで12系が使用されていたときには特急料金100円引があった。特急北斗のときには、キハ56系の普通車ボックス席に座席カバーをかけて急行との違いをしていたそうです。またヘッドマークも掲げていました。
151系が成功する前は電車の地位がとても低かったからね。
電車は短距離輸送程度しか出来ないと…
電車は自動扉だったので 安全でしたね
客車から転落死した宮城道雄(盲目だったのでトイレと間違えたとも)、東映・大川社長のご子息(修学旅行中に転落)など
@@asaichban9842さん
この大川社長ジュニアの死が155系開発のキッカケになった
昔の特急こだま号の運行期間短くない?
東武でもDRCの代走で5700系で運転されたことがあった。
ファンは大喜びでも一般利用客にとっては、転換クロス、冷房なし、コイルバネ台車で乗り心地も悪く不評だったでしょう。
こだまのパーラーカーにも、つばめガールが乗車してたのでしょうか?
この「第一富士」の事故当日、大阪→宇野に第一富士のダイヤでの臨時特急とその折り返しになる宇野→大阪の「うずしお」にはなんと80系が充当されています。吊掛電車が特急に充当されたのは後にも先にもこれだけです。
なお、157系はこの頃には冷房改造が完了し、既に特急「ひびき」に充当されていました。
戦後(1950年代)、阪和線には京阪神区間から転用された流線形モハ52系が「特急」と称して天王寺ー和歌山間を結んだ事が知られていますが、モハ80系の「特急」とはまさに前代未聞です。それで、その特急料金の扱いは如何だったのかも興味をそそられますね。「特急」というには余りにも・・・・・・・・という車輌でしたから。
@@maironef
その頃なら、電車で運転される急行、特急は料金不要ですよ。
新快速の先祖とも言われる、モハ52系も「急電」こと京阪神間の急行用として制作されたものですから。
京阪神間は1957年、阪和線は58年にこれらの急行電車は「快速」等に変更されています。モハ80系使用の準急などが運転されるようになったので整合性を取るためです。
ボックスシート特急とか今やったら100%叩かれますねwww
253系「」
アコモ改造前の185系電車も評判は良くなかったですね。何せ普通の転換クロスでしたから。
583系
でも、特急料金て速達に対する加算だから…
113系を特急にするようなものですかねwww
中央本線の急行かいじは115系で運転されたことがあったよ。
常磐線の急行ときわも415系で運転されたらしい。
多分、ロングシート部にも座席番号があるのは、指定席の名残でしょうね。
現在の特急料金の払い戻しの対象として、冷房装置の故障時も対象になるそうです。
近鉄のしまかぜやひのとりが一般車両で代走された場合、特急料金は一般車両料金になるらしいです。
指定券を買ったら割り当てがロングシート部分だったということもあるということなのかな。
一時スカ色に塗られたサロ165があったとか
反面、当時は急行型が普通列車に充当されることもありましたから、アタリ列車もあったのでは。ただ、ラッシュ時に165系の高崎線普通が遅延し、暴動が起きたりもしたみたいですが…。
猛暑の中で非冷房の特急では死にますね、夏の大船の事故ではG車に乗ってた人はたまらなかったですね。
ブルートレインさくら号も20系時代事故で一部編成が旧型客車を連結したことも
当然旧型客車から20系に車内移動出来なかったから食堂車も利用できず
この列車は「うばざくら」と呼ばれたそうです。
681系のはくたかの代走が、489系というのはかなり遜色感がありました。683系4000番代の増備により解消されましたが。
昔何度か489系の代走に当たったのですが、ほくほく線内で160km/hで走れず大きく遅れました。
1度はさらに窓ガラスがわれたとかでほくほく線内60km/h走行というとんでも低速走行ということもありました。
サンダーバードも昔はスーパー雷鳥編成や白山編成、ボンネット編成の替え玉があったな
はくたかもボンネットでの替え玉があった
485系ソニックは?
@@山中達雄-j3p例のウソニックか…
富士が衝突→替えだま発生→
ときは161+153の連結運用→
うずしおは80系で代走
うーんカオス( ̄▽ ̄;)
当日代走「富士うずしお」は300番台なのかな?
ときの代走は161+157では?
@@103jnrさん、その通りで、鉄道ファンの161系の記事に書いてありました。
ちなみに準急「日光」もその影響でサハ1両減車してます。
@@103jnr そうです。
車両捻出の為
1、特急ひびき(不定期便)を運休させて多客期臨時急行運行
2、準急日光を減車してこだまに充当
してます。
結果的に九州乗り入れ対応工事が早期に終了した事と新潟地震でときが運休した為この代走運用は早期に終了、修学旅行列車用155系別途臨時急行案もしなくて済んだのですが。
代走とか替え玉とかではないのだが、昭和40年代に海水浴客を意識した房総快速「さざなみ」が103系ということがあったわ。
さすがに失望感大きかっただろうな。
せめて、セミクロスシートは期待しただろうに。
車両のやりくり上、そうせざるを得なかったのだろうが。
昭和30〜40年代前半の内房線や外房線は、車両不足が理由でロングシートの臨時急行なんてのもあったそうです。
@@gingaexpress6539
昭和時代は「房総夏ダイヤ」という特別態勢が取られていて快速用の113系が急行に充てられることがありました。当時の113系にロングシート車はなかったもののセミクロスシートのドア脇にも座席番号がちゃんと降ってありましたね。
房総の臨時快速運用はカナリヤの101系だったと思います
昔の映像で、内房線か外房線の気動車時代の臨時急行を見たことがあるのですが、各車両とも形式がバラバラで、ロングシートの形式も混ざっていたそうです。
時代的に余剰車がなく、寄せ集めで対応せざるを得なかったんでしょうね。
「遜色急行」とも呼ばれていたそうです。
52豪雪か58号豪雪か忘れたが 特急・雷鳥の車両のやりくりがつかず 12系客車で走らせたことがあった
こだま用予備車が無かったからだろうね。運用に余裕無かったからとも言える。だからこそ新幹線の開業が望まれた訳だし。
最近のJRでも時折見掛けるような。
モハ20系って名前だったのも紹介して欲しかった💦
うちも、つやまを特急にすべきでした。J西
高度成長期,485系特急[しおじ](大阪⇔下関)と共に12系臨時[しおじ]が運転された。
(特急料金100円引き)
さくらが事故で車両不足の際に出来たうばざくら編成を!
それは、20系客車と10系客車の併結でしたね。
国鉄車両技師長だったかの、星晃氏の雑誌回想録では、何度目かの「替えだま」でナンボか特急料金を値引いたような記述があったと思うが…。その記事で、急行形電車に「こだま」のヘッドマークをつけていた写真には笑った。
それはさておき、走行性能の異なる車両なのに、同じダイヤで走れたんですかね?
151系と153系は共に営業運転上の最高速度は110km/hだったからね。
停車駅数は非常少ないから加速度の違いは問題になるレベルではなかったと思う。
@@まじんはひまじん-n1yさん
それでもビュッフェ車を1両減車し、更にビュッフェ車は極力サハシ153ー23組み込み編成を使ってました。
急行型のボックスシートは固定クロスより優秀だと思うな。当時の青いモケットの固定クロスシートって座り心地良くなかったよ。シートピッチも狭かったし。
急行形のボックスシートはゆったりしてて良かった
昔、和歌山駅で165系から113系の初期車に乗り換えた時に痛感しました
夜行だと、空いていれば、14系座席車よりも12系の方が良かったという人もいますな。(・ε・` )
急行型ボックスシートを4人使用で7時間はさすがにキツいですよ。
@@buchigirepanda287 さん
平成始めに115系の上諏訪夜行に乗った時は、普段乗っていた1000番台よりも明らかに窮屈でしたな。(ヽ´ω`)
@@クモハ165 さん
上諏訪夜行は豊田電車区のスカ色115系での運転でしたね
確か豊田電車区の115系はシートピッチの狭い0番台か300番台しか居なかったような気がします
長野車はシートピッチ拡大の1000番台が多数でしたが
151系は、161系〜181系に、改造されて、特急『あずさ』や『とき』で使われてから、廃車になりました。
グリーン車を、485系から改造されたりして、話題になりました。
確か、先頭車を改造して、九州特急の先頭車になった車両が有ったと思います。
485系からの改造ではなくて、181系として新造(サロ181 1100番台)しましたが、既に上越新幹線の開業の目処がついていたので、485系への改造前提でサロ481 1000番台の設計を流用しており、上越新幹線開業後に予定通りサロ481 1500番代に改造されています。
@@N--T
混同してました。
パーラーカーは、乗ってみたかった車両ですね!?
『とき』の最後の方で、見た事が有りますが、結局、乗らなかったです。
サロ181-1051~1053は鹿児島に居たサロ481-26~28からの改造です。その他1100番台は将来485系編入のため485系の設計を踏襲して新製されました。
晩年の特急【とき】はサロ181だけ車高が高くて飛び上がったような不恰好さが目立ちましたが、サロの2両は改造を重ねてリゾートやまどりの制御車として、令和まで生き延びたのは幸運でしたな。(*´ω`*)
@@motirow6475さん
更にそのうち2両は113系グリーン車に改造されてます。
113・115の急行内房もありました、
パーラーカー豪華だな映画のワンシーンの様だ
1980年代、客車の有明とか繁忙期に走ってとよね。
今思うと151系の代走をキハ82でやれなかったのだろうか?
1:49 日帰り出来ねぇよ。
姥桜かと思ったw
こだまでしょうか、いいえ、替え玉。
昔の特急って1号ではなく第1〇〇みたいな言い方して良いですよね。
なんか違いとかあるんですかね?
今と違い「上りも下りも第1」から始まるのだ。 だがそれ以外は「言い方・表示方法」以外何の違いもない。
元々愛称付の優等列車が極一部の幹線にしかなくしかも同じ愛称の列車が複数本数運転されることもなかったのでそれが出来た当時取敢えず[第1○○][第2○○]と名付けた由。その後特急など指定席主体の列車は[第1●●]、自由席主体の列車は[○○1号]な感じになったけれど多分43-10までには[○○1号]に統一された筈。尚新幹線は最初から[ひかり1号][こだま2号]等~号呼称。これは[第100ひかり]だの[第55こだま]では語呂も悪いからとのこと。尚新幹線は開業当初から下り奇数上り偶数だったけれど在来線では長く上下とも[~1号]で、新幹線と同じく下り奇数上り偶数になったのは53-10から。
@@SleeperExpressJNR さん
これによって、8時ちょうどのあずさ2号 がなくなりました。
第一第二…はしおじやしおかぜなどにヨンサントオまで使われていました。
指定席主体なら第一、自由席主体なら一号…とよく言われます。新幹線に名を譲る前の九州循環準急ひかりは、第一が全席指定だから該当するのですが、第二は自由席主体なんですよね…。
準急東海の全席指定バージョンは第一東海とは名乗らずに新東海なので規則性はよくわかりません。
当時は、指定席がある列車は「第一、第二」、ない列車は「○号」とつけられていたそうです。
なので、特急・急行は「第一、第二」でしたけど、準急は列車によって違っていて、東海道新幹線開業直前の東京駅発だと、準急「東海」(名古屋・大垣ゆき)と「はまな」(浜松・豊橋ゆき)は○号でしたが、「いでゆ」(修善寺・伊東ゆき)は「第一、第二」でした。
静岡に住んでました。
151系は早々に消えた筈です。
モーターを強化して次々に181系になった。
上越線の『とき』は181系です。
こだま号は山陽新幹線でもボコられたな。
東京〜博多間ひかり号のうち、京都以遠が各駅停車になるタイプ〜ひだま〜
青いひかり
ありましたね。
京都以遠で同じ名称の「ひかり」に何回抜かれることやら…。
まだ300系が出て間もない頃、300系が「ひかり」の運用に入ると「ひぞみ」と言われていたような気がします。
クロ151特別一等車は、紳士淑女の社交場でしたね✨
テロップとコメントが少し間違ってますね
称号改正前、151形となる前は20系特急電車と呼称されていた時期があります
新幹線開業後、151系と上越線用の161系は統合されて、181形にまとめられました
これは特急用車両には、キハ80系や485系と合わせて、8の番号をあてるように変更されたためです
その後も181系として新製されたグループも存在しています
ちょっと編集で内容を端折り過ぎではないかと思います
阪急京都線特急9300以外だったら替え玉特急?
157、良かったな。負けっぱなしじゃなくて。
つばめやはとに使われた客車をもう少し予備として残した方が良かったと思う。
残そうにも置き場所が無かったかと
さすがに、ロングシートで特急の代走はないだろう…
深澤がやりそうな気がする。
替え玉w
当然料金は急行んでしょうね?
大破しても犠牲者は出なかった?→151系は優秀。
但し結構外国の大物が負傷して外交問題にもなったそうです
特急料金は無論、急行料金もとったらいかんね?
東海道がかえだまなら東北ハがっかり
東武モかえだまがあった
最近で言うと、新幹線のこだまで700系か300系が来ると思っていたら、500系が来たときの心境みたいなものかな?
正直あれは勘弁してほしかった。100系に乗ったほうが遥かに快適だったから。
上越新幹線もE2、4が来るとがっかりしたな。200系の方がよかった。二階は揺れるし、シートの作りが悪いし、一階はシートはいいが穴蔵だし、最悪だった。
500系は見た目は格好良いけど、居住性は犠牲にしているもんな。
替えだまは知っているけど、175系〈東京→伊東・修善寺〉の筈だけどな?
踏切事故で先頭車を175系の先頭車に入れ替えたのは知っているけどな?隣の駅だったから見に行ったよ。135系の替だまはニュース時でも見なかったけどな? 雑誌に載っていたかな?知らないよ。
鉄道用語の基礎知識という書籍があったら…
特急かえだま
必ず項目掲載されるだろうwwww
この言葉を聞くたびに
鉄ちゃん芸人の持ちネタ一言ギャグにしか聞こえなくなる!wwww
なぜ日本経済の成長が止まったのかも考えていきたい。
外国は成長を続けているのに なぜ日本だけ・・・
こにゃ?😜