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神戸市民です。震災当時43歳でした。兵庫区の自宅で家族と被災しました。語れば尽きない苦労や苦悩 迷い 怒りが有ります が、今生かされて居ます。これを感謝します。貴重な映像記録に感謝します。これが後世に継承(警鐘)される事を願います。😢
生き残ってくれてありがとうございます。「生かされて居ます」私もこの言葉を胸に一生懸命生きます。お互い頑張りましょう。ちなみに私は石川県民です。
叔父さんが亡くなって30年。39歳になった私にも家族ができた。あまり口にはしてこなかったが、テレビで死者の一覧テロップに叔父さんの名前が出てきた時には子供ながらに衝撃だった。天災とはいえ本当に辛い出来事だった。南海トラフが切迫していると言われる近年、家族を守るためにできる限りの備えをしておこう。たくさんの命が奪われた。同地震で亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
サンテレビさん、あの時は本当に地域に密着した細かな情報を伝えてくれていました。ネットもない時代においてローカル局の底力とありがたさを感じました。
鉄道や高速道路が予想よりはるかに早く復旧してるのはすごいことですねそれだけ不眠不休で頑張ってくれた方々が多くいたということを忘れてはいけないと改めて思います
本編はもちろん、初めに視聴の注意を十分に示している点もとてもよいと思いました視聴者をしっかり意識した丁寧な番組作りをされてるのがよく伝わりました繰り返し見せないと、この時代に生まれてなかった世代には伝わらないでしょうから、こういうコンテンツは大切ですねもう30年、復興してきれいになってよかったけど、震災を感じる部分がほとんどなくなったのは少し寂しいなぁ
現在は海外在住ですが、震災当時は富山県で揺れを感じました。発災後すぐにニュースを見ると神戸の震度が入って来ず、大変な事になったのだなというのを覚えています。今回の番組に読み仮名を付けて頂き、ありがとうございます。漢字が読めない外国出身や識字障害の皆さんにも解りやすいですね。情報弱者を減らそうという意識の高さに感謝です。
文字テロップに徹底してフリガナを振っているのは「漢字を読めない大震災を知らない子供達」への映像教材として残したいというサンテレビの強い思いを感じるその一方であの大震災でかけがえのないものを失いそのトラウマを今でも引きずっている視聴者への最大の配慮として番組冒頭から「当時の様子を見てストレスを感じる方は見ないでください」という、番組製作者としての最大の矛盾を敢えて促すという姿勢に当事者達が特に多い地場のテレビ局として最大の配慮を行おうとする姿勢を見られる
母が当時神戸に住んでいました。私自身は2001年に母の地元静岡で産まれた為、当時の事も神戸の事も母の話以外は知りませんでしたが、何が起こっていて、母が当時何を見ていたのかが鮮明に分かる映像でした。避けられない自然災害に備える事の重要さ、犠牲になった方々の事を胸に刻みます。本当にありがとうございます。
ありがとうございます。何十年経ってもこの映像を流して下さい
当時一切の赤ちゃんがいるママでした。水が出ずミルクもてに入れられず大変困ったことを記憶しています。トイレも大変でした。この映像を見れば呑気に「南海トラフが来ても避難所に行くから良い。救援物資が届けられるから大丈夫でしょ!?」そんなことを言ってる人達、、本当に困ることになります。こんな状況でどこからどうやって救援物資が届けられますか?避難所なんて人が溢れて入れませんよ。自分や家族の身は自分達で守らなければ。普段の贅沢を控えめにしてでも自分達の分の備えはしっかりして欲しいです。何の備えもせずいざとなると「政府が何とかしてくれる、何とかしろ」なんて絶対言わないで欲しいです。政府が備えをするのは当然ですが、これだけ備蓄、安全対策を言われてるんだから、、普段から意識して備えをしてほしいです。人任せにしないで。助けてる人たちだって被災してるんですよ!
@@psiloveyoumayumayu2262全くもって、 同感です
そうなんですよ⁉️すぐ助けてくれる訳がない‼️((/_;)/)自分自身の運命他人任せか?( ;゚皿゚)ノシ
今は液体ミルクや携帯トイレ等、便利なものが沢山ありますが備えてないとなんの意味もないですね我が家は備えておりますが、被災した際に赤ちゃんのいる家庭のために少しでも役立てたらと余裕があるときにプラス備蓄をしていますあなた様並びにご家族様が二度と被災者になられないことを祈ります
それに政府が直ぐに助けに来てくれるとも限らないこの時兵庫県知事がそうだったように
@@コメ活をしている暇人 知事がどうとかでなく政府も村山政権で自衛隊の出動が遅れたと思う。
貴重な映像をありがとうございました。いざという時の備えとしてしっかり刻みます。
地震やら自然災害はいつどこで何が起きるか分からないのでお互いに備えておきましょうね‼️
地震で祖母を瓦礫の中から助け出したが、もう手遅れだった。まさか建物があんなにもろいものとは思わなかった。自衛隊の人が祖母の亡くなったことっを聞いてみんなで瓦礫の前で手を合わせてくれた。あの時は人間のやさしさ、いいところ、人間の嫌なところすべて見たような気がします。いまこうやって振り返ると涙が止まりません。これからもこの出来事は忘れずに生きていきたい。。。
当時二十代で3交代勤務で甲番勤務(7時~15時)でした、起きてテレビつけたら震災映像が流れてて、朝から何のドラマやってるんだ?って記憶してました、実際に起きてることだと認識したとき、背筋が薄ら寒くなった思いがあります、災害に備える大切さを再度思い出しました
ここまでのダメージを受けみんなが力を合わせた事でここまで復旧したんだなぁーと日本人の凄さを感じる。南海トラフはあって欲しくないけど何があっても、私達なら必ず復活出来ると思わせてくれる動画。
都心部だからですこれから震災が起きても過疎地は見捨てられます更にそこに住み続けるのは自己責任、移住しろよ、等とネットで温かいご声援を頂けます2024年の能登半島地震で実証されています
復興の力すごい。日本に感謝。
横のつながりがあって助かった人がいたんだろうなと感じる
当時4歳で県北、豊岡に住んでました。木造家屋でしたので揺れました。両親は私たち兄弟の安全を確保してテレビをつけましたが、想像を超える凄まじい映像がどんどん入ってくる。自分たちに出来ることはないかと、日用品、僕たち兄弟の子供用品などを、支援物資として贈る両親。みんなが助け合って生きていく事の大切さをみに沁みました。災害大国なので日常的に備えないといけないと考えさせられます。
あの朝から、もう30年ですかぁ……。同じ関西の人間として、忘れられません。凄い揺れで、飛び起きました。当時は未だ現在のように、携帯電話はありませんでした。阪神間に住む知人に連絡が取れない状態で、メチャ心配しました😱。
当時15歳。大阪に住んでました。もう‥忘れられない。人生観が変わったのを覚えています。
当时刚过12岁,在电视新闻看到报道。前一年的美国西海岸洛杉矶旧金山地震是我第一次知道地震这种灾害,但1995年年初的阪神大地震让我第一次知道地震这种灾害对人类的伤害有多大。岁月飞逝,已经30年了。2009、2016年秋曾去大阪旅行。今年还想去大阪看看万国博。
大阪万博に来られる時は南海トラフ地震、断層地震が来る恐れが有るかも?知れない😅
@@城池敦子 谢谢告知。天哪,希望不要发生啊。😅
あの被害かつ高架が落ちたのに全線復旧160日ってドン引きするぐらい凄いわ。
当時3歳、明石にいました。真っ暗な街をどうにか抜けて姫路へ逃げました。親戚の家で、朝のニュースの焼ける街を見た衝撃。私の一番古い記憶です。大人になってから野島断層保存館で揺れの体験をしましたが、一気に記憶がフラッシュバックして…体は覚えているものですね。一生忘れられない。
人々の力って凄いなと思いました。苦しいけど前を向いて復興したんだと。
大変な作業をして頂いた皆様に感謝しております。
伊丹出身ですが、駅ビル倒壊で警察官が殉職されたのは知ってましたが、22人もなくなられてたとは知りませんでした。
なかなか神戸以外の映像は貴重です。さすがサンテレビさん。ありがとうございます。
1994年8月に初めて神戸を訪れ、震災を挟んで翌95年8月にも訪れました。96年夏から数年ですが大阪に住むようになり、毎晩21時半からの「ニュースアイランド」を見ていました。ほとんど他局では震災報道が減っていたなかでも、サンテレビさんは地道に被災者の方々のお声を取材され、毎晩放送されていたことが強く印象に残り、記録の大事さを学びました。その後、地元の関東に戻り、東日本大震災など、相次ぐ震災や豪雨災害の記録をノートに記し続けています(阪神淡路発災の日は日記を付けていました)。以来、記録をし、記録を見返すことが私にとっての“忘れない”実践になりました。
阪神淡路大震災の頃、私は生後1ヶ月だったので当時の記憶は全くないのですが、震災のことは学校や成人式で聞いてきました南海トラフもいつ来るかわからない引き続き備えるのみ
私は西宮市民です震災当日は28歳でしたガスが出なくてお風呂入ることが出来なくて寒さと余震で寝ることができませんでしたが家潰れなくて良かったのですが地震で家潰れ人たちを思うと痛まれなくてなりません震災から30年なっても今でも思っています震災知らない人にサンテレビがモデルとした映画を作成して全国の映画かんで上映してほしいですかんじがフリガナ打っているのでわかりやすいです
どの映像も見覚えがあるなあ中学の頃、神戸万博に行ったんだ ピカピカの未来都市に見えたポートピアが、裂けて砕けて泥水を吹き出してる様に、目の前が真っ暗になった生まれて初めて見る、大震災だった 生涯忘れられない
被災者や当時を知らない世代、全てに対しての配慮が丁寧でビックリした。振り返る事と知る事を無理はせずに、けど確実に事実を伝いたい信念が伝わる。
当時四国在住、小学校低学年でしたが、祖父母親類が北大阪や西兵庫に住んでるのは理解していて、何かとんでもないことが近親者の地域で起きているというのは認識していましたなのに両親は私には学校に行きなさいと送り出し、両親と年の離れた当時中学生の兄は学校を休み、一人だけ疎外されたさびしさを感じていました学校から帰って、崩れた阪神高速に引っかかったバスの映像は覚えているものの、常にあんたは関係ないと遠ざけられていましたその後ひたすら『大震災にあった子どもたち』というシリーズを読んで、当時何があったのか理解しようと努めていたことを小学生の間の記憶として覚えています大人が子どもの精神を守りたいというのは理解できるけど、できれば対話という形を取ってほしい伝えることを躊躇しないで、恐ろしい自然災害があったことを共有してほしい
当時は横浜市在住の小学生でした。日に日に増えていく死者数に、子ども心にショックを覚えたのを今でも思い出します。遠い地から見守ることしかできませんでしたが、その週には通っていた小学校で募金活動が始まり、私も小銭で協力しました。
県北で当時5歳でインフルで兄と1階に過ごし、おばあちゃんが食器棚を押さえて母は私達を守ってて、テレビをつければ神戸がめちゃくちゃになってたと聞きます。あの日は忘れてはならないと改めて思いました。
当時5歳。震災の記憶はほとんどないけれど、毎年この日が近づくと学校で震災の映像を観て黙祷していたのを思い出します。
30年たちいまだにこぐ最近の出来事のように思い出されます。地震大国とはいえ、起きて欲しくないですね。南海トラフ地震が起きたらこんなもんですまないと思うと怖いです。
当時隣県の小学生の私にはこころがドキドキして苦しい時間がしばらく続きました、30年たっても大きなトラウマです。おばあちゃんのお家に行く時に使ってた阪神高速が倒れてる映像、長田や須磨、灘区の火災や1階や2階が押しつぶされて倒壊してるビルやマンション。連日テレビで流されて鬱気味でした。
何よりビックリしたのは、宝塚劇場が復興の兆しの為に早く始めて…状況が見たくて行ってみたらチケットに並ぶ中の人が芦屋の奥様で…「隣の家にうちの家がたおれちゃってw」って大笑いしてたこと。大変な人もいるのに、同じ所でもこんな余裕の人もいるんだなぁ…って。
阪神淡路の災害時は、ニュースで、詳しいことが分かる度に、心が痛くなります友達が、新居🏠️🆕✨を建てていた時でした
3:34 あの日のあの後に、あんなに車が走ってたんですね。
震災当時9歳で篠山に住んでました。近くの県道は自衛隊車両がひっきりなしに走ってました。当時のニュースは衝撃の一言でした。
今より足りてなかったけど、今より優しい日本だった。フェイクニュース(SNS)で愉しむ輩も見かけなかったし…アメリカみたいな火事場泥棒も見かけなかった…
自然災害で人命、財産等無くされ悲しい思いされた方々沢山います、最近感じるのは阪神淡路大震災から30年少し身近な人々だけに薄れてきてる様に見えます。例えば終戦80年その時の日本中の都市、200ヶ所超えガ空襲で被災されてると思います、昨年は空襲関連のニュースなど、殆ど在りません終戦80年自然災害依り、はるかに多い人命消失面積を知っている方が少なく成りますもっと報道関連が薄れない様にしてほしいです
倒壊した建物からのアスベスト被害がこれから神戸で増加しそうです。新しい建物を建てるだけでなく災害後の問題解決の模範となるような対応をしてほしい。
当時小学校5年生でした揺れた瞬間は両親と寝てましたが、揺れで目を覚ましすぐ家族で避難しました。元町に住んでいたので、道路から三宮方面に倒れたビルを見た衝撃は今も覚えてます。
当時ツレが住んでた長田ではガソリンスタンドに火が回らないように全力でそこだけ消火したって言ってましたね
自分は2009年の生まれで阪神・淡路大震災のことは自分のお母さんと高校の地理の先生から話を聞いたことがありますお母さんはその時寝ていたそうですがお父さん(自分からみておじいちゃん)が「起きろ!揺れてるぞ!」とお母さんを起こしたそうです。その後自分のおじいちゃんは電気工事士をやっているので現場を見に行ったそうです。そこから余震もあったそうですがその度にこたつの中に入って急場をしのいだそうです。高校の地理の先生はその時大阪に住んでいて神戸の方に救援物資をリュックに詰め込んで向かったそうですが、恐らく鉄道の復旧前で行路の大多数を徒歩で向かったそうです。三ノ宮で見た光景は地獄そのものだったと教えていただきました、ビルは倒れそれによって空気は淀んだりなど……
震源地から結構離れた京都府北部に住んでたのに、揺れで目が覚めたくらい大きく揺れたのを今でも覚えています。そのあと見たテレビの映像が恐ろしくて恐ろしくて。もう30年も経つんですね。あの日の恐怖は30年経っても思い出せます。
淡路の連携強いな
奈良もめっちゃゆれた、、小学5年やったけど凄い揺れで一瞬で目を覚ました、隣のオトンがタンスを必死に押さえてて5年前に亡くなったじーちゃんは飼ってた三毛猫を必死に守ってた、、今までの人生で体験した一番の揺れやった、これから南海トラフもくるしあの記憶を活かししっかり備える!!
翌日にビルが倒れるというのも怖いですね。。
地震の瞬間、そのビルのエレベーターに男の人が居たと仰天ニュースでやってました。倒れる前に自力で逃げ出せたようです。
わたしは、淡路大震災の時は、平野区に住んでいましたが、明け方の5時46分に、淡路大震災の揺れが大きくて、怖かったです。😱
当時は1歳で埼玉県に住んでいました。私の母親のママ友が神戸出身でした。車で埼玉から神戸に救援に行ったという話をききました。
奈良で経験しました。地鳴りで目が覚めて大きな長い揺れがきました。コンビニで店員さんとお客さんが同じ方向を見ているのは、地鳴りがしたからでしょうね。ポートアイランドが陸の孤島になり、ガスタンクが引火爆発するかもしれない。と通常CM中の間も『避難勧告!○○(方角)へ逃げてください。』と大きい文字が出ていたこと。夜中は焼け野原になり、まだ燃えている画像が延々流れ死亡が確認された方々のお名前と年齢が繰り返し放送されていました。この動画の『ただいまCM中です。』の静止画像がそれを思い出させます。半年間ずっとACのCMばかりでしたね。当時の家族である母と愛猫はもうこの世にいませんが、放送見ていたらあの時に引き戻されます。
後世に伝えるための映像なので当たり前かもしれませんが、西宮や宝塚の被害も入っていてほっとしました。阪神淡路大震災を振り返る他の番組などでは、一切流れてこないので。西宮では地すべりで34人もの人が亡くなっているのに、あの震災の映像で流れてくるのはいつも神戸の火災や阪神高速が倒れた映像ばかり。他の番組などでも、盛り土の土地が被害に遭っていて、多くの人が亡くなっていたことなども、きちんと伝えていってほしいです。
15:48病院の階がつぶれたが、ベッドのおかげで生存者が救助されたと当時の報道。それにしてもビル崩壊にともなうアスベストの飛散被害はどうだったのか知りたい。
街を直してくれたみなさん、みなさんありがとう。
6:34 中央区宮本通5丁目6(現タイムズ宮本通)付近6:44 中央区日暮通1丁目5−7付近20:46 JR六甲道北にある現在ローソンの横付近を西に移動21:39 灘区神ノ木通3丁目6-18(現・灘消防署)
こちら側NHKのみしか流されなかったです。忘れてはいけないことなのに。。。
大きな地震が、いつ来てもいいように覚悟と、備えを万全にして起きましょう
私は当日4歳だったので記憶はありません😢バスがギリギリ停まってる状態は小学校の教科書に載っていたのは覚えています😔今の教科書は東日本大震災かもしくは能登になるのかな?って😵段々、阪神・淡路大震災は忘れられていくんですかね😔関西に住んでるのでいつ南海巨大地震が来るかも不安のまま生活しているのでこういう絵面になるのかな?と感じてます💦
あれから30年か。俺は、地元で被災したけれども、あの時は、下から突き上げる感じだった。あの時の感触は今でも忘れられない。
小学3年の頃担任の先生からの話や過去の実際の映像のDVDから阪神淡路大震災を知りました。結構長い時間その映像を見ていたと思います。その話を聞いたのが東日本大震災の1年後だったので多分東日本大震災から、過去にも大きな地震が自分の住んでる街にもあったことを伝えようと担任の先生は思ったのだと個人的に思いました。
この震災で今でも不思議に思っていることがあります。私は家具の下敷きになり、動けない状態で夜明けをむかえ、部屋を見渡したとき、部屋中(1ルーム)はぐちゃぐちゃなのに、お仏壇だけは位置も変わらず、そのまんまの状態で動いていませんでした。お仏壇の一画だけが何もなかったように、ろうそくも、お線香も、チンとするあの棒も、すべてが動いていなかったのです。私はホッとしたあと、なんとか瓦礫の中から出て、お仏壇を見たとき、何事もなくて良かったと思う反面、もっとお仏壇を大切にしないといけないのかな、と思いました。でも、チョットのケガで助かったのは、お仏壇(ご先祖様)が助けてくださったのだと今も思っています。
凄いよな、レスキュー隊の技術力とJRや街の復興力
繁華街のビルが倒れるって、相当恐ろしいね。出勤後のビルに人が集まってる時間じゃなくてよかったとも思ったりする。
此のとき、浜松のカプセルに居た。揺れを感じて、多くの宿泊客がロビーに出てきたのを覚えている。
当時13歳。北海道は冬休み中で、亡き母に地震だ!と起こされました。地震?揺れてないよ、としぶしぶ起きたら神戸でした。私はこの地震を体験してはいませんが、いまだに忘れません。亡き母に起こされたぐらいなので、なにごとかと見たら、壊滅的で、ぐちゃぐちゃでした。現在も北海道に住んでいます。両親亡くなり1人暮らしに。1人暮らしになったからこそ、怖いです。当時すぐにテープを回し、NHKの放送を録画。DVDにうつしてあるので、今でも見られます。たまに見ますよ。
小学生~高校生までは9月1日の始業式に震災学習して年齢に合わせて段階的に学ぶのが大切だろうなぁもちろん事前にお手紙で心理的に無理な家庭は別室で違うことするようしにして……
阪神高速が横倒しになる前日にそこを通って自宅のある岡山市内に帰ったので、寝耳に水でしたね。親は、長田区にあった取引先に1日遅れで行ってなにもなくなったと嘆いていましたが・・
六甲道駅近くにいたので、当日、六甲道が落ちているのを見て呆然としました。 震源地は明石海峡で、大橋をかけるのに海底にすごい杭を打つのか、地鳴りがするほどの工事をやっていました。それについて、テレビでも何も言わないけど、震源地に局地的に雲が出た報道はあったようです。。。
悲しい💧
やはり阪神高速道路倒壊のインパクトは絶大、、、
阪急西宮北口駅の道端で、たこ焼きの屋台がズラリと並んでいて段ボールに「地震に遭われた皆様温かいたこ焼きをどうぞ」の貼り紙。でも次の一文「五百円」には怒りを覚えました…。
命からがら避難して、お金を持ち出すことができなかった人たちもいっぱいいるのに、普段の祭りか何かの時と同じ値段で売ろうという魂胆に無性に腹が立ちました。もちろん、買う人はいませんでした。
この状況でマスクしてる人がほとんどいないことに、時代を感じる。
また、どんなに教訓としてこういう動画とかを使って諭したとしても、結局は本当の意味でちゃんと備えるのは一度震災を身を以て体験した人ばっかりよ
当時はまだ小学校6年生で、あの早朝にまさかの神戸での『地震』という自然災害があったなどという信じられない悲しくとてもじゃないけど言葉が出ないぐらいビックリしました😢あのときはホンマにすでに神奈川県横浜市に在住だったから良かったものの、奇跡的にも『九死に一生』は免れたのも束の間悲しい出来事やったなぁって憶えてます🥺あの災害に僕が遭われてたら…‼️😱🫣天変地異は非常に末恐ろしいものです、心より寄り添いたいなぁと思いますm(_ _)m‼️🙏🙇🙋
母が鷹取に住んでて、あの時母がもし死んでたら私は生まれてなかった。
復興なった神戸・・・今、同じ規模の地震が襲っても、6千人を超える犠牲は出ないだろう。では、亡くなった6千人とは一体、何の犠牲だったのだろう? 壊滅的なダメージを受けてから、危険を伴う救出や困難な復興をはたす位なら、ダメージを受ける前に備える事が、何故、出来なかったのだろう。 神戸に限らず、地震国・日本には何処でも同じ危険を抱えた地域が沢山ある。 最も効果的な自助とは、庶民の生命を最も優先する政治を選ぶ事では無いだろうか・・・
経験あっての改善。教科書だけでは何も解決できないのです。そして自然災害は似て非なるもの。全てが違う。絶対に計算通りにはならない。だから分からない。我々人間は永久に耐え忍び学び続ける他に手段は無いのです。今の神戸の改善は6000名の犠牲の上に立っている。決して無駄ではない。
都会に暮らして被災すると大変だ 余り集中するのは良くない。田舎も見直すべきだな
ん~どの報道番組も毎年この震災を似たような内容で報道してるけど、ちゃんと後世に伝えるだの教訓だのと言うのなら、闇の部分も報道すべきだと思うんだけどね。自衛隊が被災者に貸し出したテントが、多数返却されずに盗まれた件や、ボランティアで来た女性や被災者の女性達が、被災者男性やボランティアの男性に性的暴行事件が起きていた事や優先車両のみに発行されていた通行証を、多数コピーされて交通障害が増加した件もちゃんと報道してよ。本当に後世に伝えると言うのならば、闇の部分もちゃんと報道して
しかし新長田の再開発は失敗に終わっているという現実もある
ご高齢の方を助けるかどうかも考えておくべき。ROSCした後のことも考えるべき。DNARを事前に考える勉強会をしても良いと思う。私は自身のアナムネや保険証にDNARを記載し、かかりつけのカルテにもDNARと書いて貰っている。国は、ジェネリックを希望しますシールを保険証に貼るキャンペーンをしていたが、DNARシールを作ってはどうだろうか!?
これ日中に地震起こったらもっと犠牲者出てただろうな。
@@ミルクの国-c8d さんうちのお母さん、すでに起きてお弁当作ってくれてました。卵焼きを焼いていたみたいで必死で食器棚の扉を押さえつつ、ガスのスイッチを切ってくれました。今でもすごく大切にしていたお皿がたくさん割れたと悲しそうに話しています。
南海地震で答えが出るよ
どうですかね、火災が広がったのは朝の朝食準備をしてた方が多かったんでは?と思います。あと寝たまま逃げる事できずに倒壊した家屋の下敷きの方が多かった。
全く逆です。阪神淡路大震災では亡くなった方の8割が家屋倒壊による圧死及び窒息死であり、これはまだ朝の暗い時間帯で眠っている人が多かったことから犠牲者が増えました。
火災保険でと火を付けた事が大火災になり、結果保険が効かなかったと聞いたが…
今晩は平成7年1月17日阪神大震災淡路追悼式は
津波が来なかっただけ幸いだ
@okutann1128 何がさいわいじゃ○○
@ゆん-p1n 津波が来てたらどれだけ苦しんでいたことか…
でも炎に飲まれて行くのを見ていくしかないのもまたキツイしつらいよ
津波も辛いけど、生きたまま炎の波に飲み込まれるのも辛いことですよ。実際に炎の飲み込まれた人達を見た人々は今もトラウマだと言っています。
阪神淡路と東日本は時代も違えばタイプも違う。けれどどっちも辛く悲しい出来事なのは共通してる。
もうええて
@@xxxc2359 何が?
神戸市民です。震災当時43歳でした。兵庫区の自宅で家族と被災しました。語れば尽きない苦労や苦悩 迷い 怒り
が有ります が、今
生かされて居ます。これを感謝します。貴重な映像記録に感謝します。これが後世に継承
(警鐘)される事を願います。😢
生き残ってくれてありがとうございます。
「生かされて居ます」
私もこの言葉を胸に一生懸命生きます。
お互い頑張りましょう。
ちなみに私は石川県民です。
叔父さんが亡くなって30年。
39歳になった私にも家族ができた。
あまり口にはしてこなかったが、テレビで死者の一覧テロップに叔父さんの名前が出てきた時には子供ながらに衝撃だった。
天災とはいえ本当に辛い出来事だった。
南海トラフが切迫していると言われる近年、家族を守るためにできる限りの備えをしておこう。
たくさんの命が奪われた。
同地震で亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
サンテレビさん、あの時は本当に地域に密着した細かな情報を伝えてくれていました。ネットもない時代においてローカル局の底力とありがたさを感じました。
鉄道や高速道路が予想よりはるかに早く復旧してるのはすごいことですね
それだけ不眠不休で頑張ってくれた方々が多くいたということを忘れてはいけないと改めて思います
本編はもちろん、初めに視聴の注意を十分に示している点もとてもよいと思いました
視聴者をしっかり意識した丁寧な番組作りをされてるのがよく伝わりました
繰り返し見せないと、この時代に生まれてなかった世代には伝わらないでしょうから、こういうコンテンツは大切ですね
もう30年、復興してきれいになってよかったけど、震災を感じる部分がほとんどなくなったのは少し寂しいなぁ
現在は海外在住ですが、震災当時は富山県で揺れを感じました。発災後すぐにニュースを見ると神戸の震度が入って来ず、大変な事になったのだなというのを覚えています。
今回の番組に読み仮名を付けて頂き、ありがとうございます。漢字が読めない外国出身や識字障害の皆さんにも解りやすいですね。情報弱者を減らそうという意識の高さに感謝です。
文字テロップに徹底してフリガナを振っているのは「漢字を読めない大震災を知らない子供達」への映像教材として残したいというサンテレビの強い思いを感じる
その一方であの大震災でかけがえのないものを失いそのトラウマを今でも引きずっている視聴者への最大の配慮として番組冒頭から「当時の様子を見てストレスを感じる方は見ないでください」という、番組製作者としての最大の矛盾を敢えて促すという姿勢に当事者達が特に多い地場のテレビ局として最大の配慮を行おうとする姿勢を見られる
母が当時神戸に住んでいました。
私自身は2001年に母の地元静岡で産まれた為、当時の事も神戸の事も母の話以外は知りませんでしたが、何が起こっていて、母が当時何を見ていたのかが鮮明に分かる映像でした。
避けられない自然災害に備える事の重要さ、犠牲になった方々の事を胸に刻みます。
本当にありがとうございます。
ありがとうございます。
何十年経ってもこの映像を流して下さい
当時一切の赤ちゃんがいるママでした。水が出ずミルクもてに入れられず大変困ったことを記憶しています。トイレも大変でした。この映像を見れば呑気に「南海トラフが来ても避難所に行くから良い。救援物資が届けられるから大丈夫でしょ!?」そんなことを言ってる人達、、本当に困ることになります。こんな状況でどこからどうやって救援物資が届けられますか?避難所なんて人が溢れて入れませんよ。自分や家族の身は自分達で守らなければ。普段の贅沢を控えめにしてでも自分達の分の備えはしっかりして欲しいです。何の備えもせずいざとなると「政府が何とかしてくれる、何とかしろ」なんて絶対言わないで欲しいです。政府が備えをするのは当然ですが、これだけ備蓄、安全対策を言われてるんだから、、普段から意識して備えをしてほしいです。人任せにしないで。助けてる人たちだって被災してるんですよ!
@@psiloveyoumayumayu2262全くもって、 同感です
そうなんですよ⁉️すぐ助けてくれる訳がない‼️((/_;)/)自分自身の運命他人任せか?( ;゚皿゚)ノシ
今は液体ミルクや携帯トイレ等、便利なものが沢山ありますが備えてないとなんの意味もないですね
我が家は備えておりますが、被災した際に赤ちゃんのいる家庭のために少しでも役立てたらと余裕があるときにプラス備蓄をしています
あなた様並びにご家族様が二度と被災者になられないことを祈ります
それに政府が直ぐに助けに来てくれるとも限らない
この時兵庫県知事がそうだったように
@@コメ活をしている暇人 知事がどうとかでなく政府も村山政権で自衛隊の出動が遅れたと思う。
貴重な映像をありがとうございました。いざという時の備えとしてしっかり刻みます。
地震やら自然災害はいつどこで何が起きるか分からないのでお互いに備えておきましょうね‼️
地震で祖母を瓦礫の中から助け出したが、もう手遅れだった。まさか建物があんなにもろいものとは思わなかった。自衛隊の人が祖母の亡くなったことっを聞いてみんなで瓦礫の前で手を合わせてくれた。あの時は人間のやさしさ、いいところ、人間の嫌なところすべて見たような気がします。いまこうやって振り返ると涙が止まりません。これからもこの出来事は忘れずに生きていきたい。。。
当時二十代で3交代勤務で甲番勤務(7時~15時)でした、起きてテレビつけたら震災映像が流れてて、朝から何のドラマやってるんだ?って記憶してました、実際に起きてることだと認識したとき、背筋が薄ら寒くなった思いがあります、災害に備える大切さを再度思い出しました
ここまでのダメージを受け
みんなが力を合わせた事で
ここまで復旧したんだなぁーと
日本人の凄さを感じる。
南海トラフはあって欲しくないけど
何があっても、私達なら必ず復活出来る
と思わせてくれる動画。
都心部だからです
これから震災が起きても過疎地は見捨てられます
更にそこに住み続けるのは自己責任、移住しろよ、等とネットで温かいご声援を頂けます
2024年の能登半島地震で実証されています
復興の力すごい。日本に感謝。
横のつながりがあって助かった人がいたんだろうなと感じる
当時4歳で県北、豊岡に住んでました。木造家屋でしたので揺れました。
両親は私たち兄弟の安全を確保してテレビをつけましたが、想像を超える凄まじい映像がどんどん入ってくる。
自分たちに出来ることはないかと、日用品、僕たち兄弟の子供用品などを、支援物資として贈る両親。
みんなが助け合って生きていく事の大切さをみに沁みました。
災害大国なので日常的に備えないといけないと考えさせられます。
あの朝から、もう30年ですかぁ……。同じ関西の人間として、忘れられません。凄い揺れで、飛び起きました。当時は未だ現在のように、携帯電話はありませんでした。阪神間に住む知人に連絡が取れない状態で、メチャ心配しました😱。
当時15歳。大阪に住んでました。
もう‥忘れられない。
人生観が変わったのを覚えています。
当时刚过12岁,在电视新闻看到报道。前一年的美国西海岸洛杉矶旧金山地震是我第一次知道地震这种灾害,但1995年年初的阪神大地震让我第一次知道地震这种灾害对人类的伤害有多大。岁月飞逝,已经30年了。2009、2016年秋曾去大阪旅行。今年还想去大阪看看万国博。
大阪万博に来られる時は南海トラフ地震、断層地震が来る恐れが有るかも?知れない😅
@@城池敦子 谢谢告知。天哪,希望不要发生啊。😅
あの被害かつ高架が落ちたのに全線復旧160日ってドン引きするぐらい凄いわ。
当時3歳、明石にいました。
真っ暗な街をどうにか抜けて姫路へ逃げました。
親戚の家で、朝のニュースの焼ける街を見た衝撃。
私の一番古い記憶です。
大人になってから野島断層保存館で揺れの体験をしましたが、一気に記憶がフラッシュバックして…体は覚えているものですね。一生忘れられない。
人々の力って凄いなと思いました。苦しいけど前を向いて復興したんだと。
大変な作業をして頂いた皆様に感謝しております。
伊丹出身ですが、駅ビル倒壊で警察官が殉職されたのは知ってましたが、22人もなくなられてたとは知りませんでした。
なかなか神戸以外の映像は貴重です。
さすがサンテレビさん。
ありがとうございます。
1994年8月に初めて神戸を訪れ、震災を挟んで翌95年8月にも訪れました。96年夏から数年ですが大阪に住むようになり、毎晩21時半からの「ニュースアイランド」を見ていました。ほとんど他局では震災報道が減っていたなかでも、サンテレビさんは地道に被災者の方々のお声を取材され、毎晩放送されていたことが強く印象に残り、記録の大事さを学びました。その後、地元の関東に戻り、東日本大震災など、相次ぐ震災や豪雨災害の記録をノートに記し続けています(阪神淡路発災の日は日記を付けていました)。以来、記録をし、記録を見返すことが私にとっての“忘れない”実践になりました。
阪神淡路大震災の頃、私は生後1ヶ月だったので当時の記憶は全くないのですが、震災のことは学校や成人式で聞いてきました
南海トラフもいつ来るかわからない
引き続き備えるのみ
私は西宮市民です震災当日は28歳でしたガスが出なくてお風呂入ることが出来なくて寒さと余震で寝ることができませんでしたが家潰れなくて良かったのですが地震で家潰れ人たちを思うと痛まれなくてなりません震災から30年なっても今でも思っています震災知らない人にサンテレビがモデルとした映画を作成して全国の映画かんで上映してほしいですかんじがフリガナ打っているのでわかりやすいです
どの映像も見覚えがあるなあ
中学の頃、神戸万博に行ったんだ ピカピカの未来都市に見えたポートピアが、裂けて砕けて泥水を吹き出してる様に、目の前が真っ暗になった
生まれて初めて見る、大震災だった 生涯忘れられない
被災者や当時を知らない世代、全てに対しての配慮が丁寧でビックリした。
振り返る事と知る事を無理はせずに、けど確実に事実を伝いたい信念が伝わる。
当時四国在住、小学校低学年でしたが、祖父母親類が北大阪や西兵庫に住んでるのは理解していて、何かとんでもないことが近親者の地域で起きているというのは認識していました
なのに両親は私には学校に行きなさいと送り出し、両親と年の離れた当時中学生の兄は学校を休み、一人だけ疎外されたさびしさを感じていました
学校から帰って、崩れた阪神高速に引っかかったバスの映像は覚えているものの、常にあんたは関係ないと遠ざけられていました
その後ひたすら『大震災にあった子どもたち』というシリーズを読んで、当時何があったのか理解しようと努めていたことを小学生の間の記憶として覚えています
大人が子どもの精神を守りたいというのは理解できるけど、できれば対話という形を取ってほしい
伝えることを躊躇しないで、恐ろしい自然災害があったことを共有してほしい
当時は横浜市在住の小学生でした。日に日に増えていく死者数に、子ども心にショックを覚えたのを今でも思い出します。遠い地から見守ることしかできませんでしたが、その週には通っていた小学校で募金活動が始まり、私も小銭で協力しました。
県北で当時5歳でインフルで兄と1階に過ごし、おばあちゃんが食器棚を押さえて母は私達を守ってて、テレビをつければ神戸がめちゃくちゃになってたと聞きます。
あの日は忘れてはならないと改めて思いました。
当時5歳。震災の記憶はほとんどないけれど、毎年この日が近づくと学校で震災の映像を観て黙祷していたのを思い出します。
30年たちいまだにこぐ最近の出来事のように思い出されます。
地震大国とはいえ、起きて欲しくないですね。
南海トラフ地震が起きたらこんなもんですまないと思うと怖いです。
当時隣県の小学生の私にはこころがドキドキして苦しい時間がしばらく続きました、30年たっても大きなトラウマです。
おばあちゃんのお家に行く時に使ってた阪神高速が倒れてる映像、長田や須磨、灘区の火災や1階や2階が押しつぶされて倒壊してるビルやマンション。連日テレビで流されて鬱気味でした。
何よりビックリしたのは、宝塚劇場が復興の兆しの為に早く始めて…
状況が見たくて行ってみたらチケットに並ぶ中の人が芦屋の奥様で…
「隣の家にうちの家がたおれちゃってw」
って大笑いしてたこと。
大変な人もいるのに、同じ所でもこんな余裕の人もいるんだなぁ…って。
阪神淡路の災害時は、
ニュースで、詳しいことが分かる度に、心が痛くなります
友達が、新居🏠️🆕✨を建てていた時でした
3:34 あの日のあの後に、あんなに車が走ってたんですね。
震災当時9歳で篠山に住んでました。
近くの県道は自衛隊車両がひっきりなしに走ってました。
当時のニュースは衝撃の一言でした。
今より足りてなかったけど、今より優しい日本だった。
フェイクニュース(SNS)で愉しむ輩も見かけなかったし…
アメリカみたいな火事場泥棒も見かけなかった…
自然災害で人命、財産等無くされ悲しい思いされた方々沢山います、最近感じるのは阪神淡路大震災から30年少し身近な人々だけに薄れてきてる様に見えます。例えば終戦80年その時の日本中の都市、200ヶ所超えガ空襲で被災されてると思います、昨年は空襲関連のニュースなど、殆ど在りません終戦80年自然災害依り、はるかに多い人命消失面積を知っている方が少なく成りますもっと報道関連が薄れない様にしてほしいです
倒壊した建物からのアスベスト被害がこれから神戸で増加しそうです。
新しい建物を建てるだけでなく災害後の問題解決の模範となるような対応をしてほしい。
当時小学校5年生でした
揺れた瞬間は両親と寝てましたが、揺れで目を覚ましすぐ家族で避難しました。
元町に住んでいたので、道路から三宮方面に倒れたビルを見た衝撃は今も覚えてます。
当時ツレが住んでた長田ではガソリンスタンドに火が回らないように全力でそこだけ消火したって言ってましたね
自分は2009年の生まれで阪神・淡路大震災のことは自分のお母さんと高校の地理の先生から話を聞いたことがあります
お母さんはその時寝ていたそうですがお父さん(自分からみておじいちゃん)が「起きろ!揺れてるぞ!」とお母さんを起こしたそうです。その後自分のおじいちゃんは電気工事士をやっているので現場を見に行ったそうです。そこから余震もあったそうですがその度にこたつの中に入って急場をしのいだそうです。
高校の地理の先生はその時大阪に住んでいて神戸の方に救援物資をリュックに詰め込んで向かったそうですが、恐らく鉄道の復旧前で行路の大多数を徒歩で向かったそうです。三ノ宮で見た光景は地獄そのものだったと教えていただきました、ビルは倒れそれによって空気は淀んだりなど……
震源地から結構離れた京都府北部に住んでたのに、揺れで目が覚めたくらい大きく揺れたのを今でも覚えています。そのあと見たテレビの映像が恐ろしくて恐ろしくて。もう30年も経つんですね。あの日の恐怖は30年経っても思い出せます。
淡路の連携強いな
奈良もめっちゃゆれた、、
小学5年やったけど凄い揺れで一瞬で目を覚ました、
隣のオトンがタンスを必死に押さえてて5年前に亡くなったじーちゃんは飼ってた三毛猫を必死に守ってた、、
今までの人生で体験した一番の揺れやった、
これから南海トラフもくるしあの記憶を活かししっかり備える!!
翌日にビルが倒れるというのも怖いですね。。
地震の瞬間、そのビルのエレベーターに男の人が居たと仰天ニュースでやってました。倒れる前に自力で逃げ出せたようです。
わたしは、淡路大震災の時は、平野区に
住んでいましたが、明け方の5時46分に、
淡路大震災の揺れが大きくて、怖かったです。
😱
当時は1歳で埼玉県に住んでいました。
私の母親のママ友が神戸出身でした。
車で埼玉から神戸に救援に行ったという話をききました。
奈良で経験しました。地鳴りで目が覚めて大きな長い揺れがきました。コンビニで店員さんとお客さんが同じ方向を見ているのは、地鳴りがしたからでしょうね。ポートアイランドが陸の孤島になり、ガスタンクが引火爆発するかもしれない。と通常CM中の間も『避難勧告!○○(方角)へ逃げてください。』と大きい文字が出ていたこと。夜中は焼け野原になり、まだ燃えている画像が延々流れ死亡が確認された方々のお名前と年齢が繰り返し放送されていました。この動画の『ただいまCM中です。』の静止画像がそれを思い出させます。半年間ずっとACのCMばかりでしたね。当時の家族である母と愛猫はもうこの世にいませんが、放送見ていたらあの時に引き戻されます。
後世に伝えるための映像なので当たり前かもしれませんが、西宮や宝塚の被害も入っていてほっとしました。
阪神淡路大震災を振り返る他の番組などでは、一切流れてこないので。
西宮では地すべりで34人もの人が亡くなっているのに、あの震災の映像で流れてくるのはいつも神戸の火災や阪神高速が倒れた映像ばかり。
他の番組などでも、盛り土の土地が被害に遭っていて、多くの人が亡くなっていたことなども、きちんと伝えていってほしいです。
15:48
病院の階がつぶれたが、ベッドのおかげで生存者が救助されたと当時の報道。
それにしてもビル崩壊にともなうアスベストの飛散被害はどうだったのか知りたい。
街を直してくれたみなさん、みなさんありがとう。
6:34 中央区宮本通5丁目6(現タイムズ宮本通)付近
6:44 中央区日暮通1丁目5−7付近
20:46 JR六甲道北にある現在ローソンの横付近を西に移動
21:39 灘区神ノ木通3丁目6-18(現・灘消防署)
こちら側NHKのみしか流されなかったです。忘れてはいけないことなのに。。。
大きな地震が、いつ来てもいいように覚悟と、備えを万全にして起きましょう
私は当日4歳だったので記憶はありません😢
バスがギリギリ停まってる状態は小学校の教科書に載っていたのは覚えています😔
今の教科書は東日本大震災かもしくは能登になるのかな?って😵
段々、阪神・淡路大震災は忘れられていくんですかね😔
関西に住んでるのでいつ南海巨大地震が来るかも不安のまま生活しているのでこういう絵面になるのかな?と感じてます💦
あれから30年か。
俺は、地元で被災したけれども、あの時は、下から突き上げる感じだった。
あの時の感触は今でも忘れられない。
小学3年の頃担任の先生からの話や過去の実際の映像のDVDから阪神淡路大震災を知りました。結構長い時間その映像を見ていたと思います。その話を聞いたのが東日本大震災の1年後だったので多分東日本大震災から、過去にも大きな地震が自分の住んでる街にもあったことを伝えようと担任の先生は思ったのだと個人的に思いました。
この震災で今でも不思議に思っていることがあります。
私は家具の下敷きになり、動けない状態で夜明けをむかえ、部屋を見渡したとき、部屋中(1ルーム)はぐちゃぐちゃなのに、お仏壇だけは位置も変わらず、そのまんまの状態で動いていませんでした。
お仏壇の一画だけが何もなかったように、ろうそくも、お線香も、チンとするあの棒も、すべてが動いていなかったのです。
私はホッとしたあと、なんとか瓦礫の中から出て、お仏壇を見たとき、何事もなくて良かったと思う反面、もっとお仏壇を大切にしないといけないのかな、と思いました。
でも、チョットのケガで助かったのは、お仏壇(ご先祖様)が助けてくださったのだと今も思っています。
凄いよな、レスキュー隊の技術力とJRや街の復興力
繁華街のビルが倒れるって、相当恐ろしいね。出勤後のビルに人が集まってる時間じゃなくてよかったとも思ったりする。
此のとき、浜松のカプセルに居た。揺れを感じて、多くの宿泊客がロビーに出てきたのを覚えている。
当時13歳。北海道は冬休み中で、亡き母に地震だ!と起こされました。
地震?揺れてないよ、としぶしぶ起きたら神戸でした。
私はこの地震を体験してはいませんが、いまだに忘れません。亡き母に起こされたぐらいなので、なにごとかと見たら、壊滅的で、ぐちゃぐちゃでした。
現在も北海道に住んでいます。
両親亡くなり1人暮らしに。1人暮らしになったからこそ、怖いです。
当時すぐにテープを回し、NHKの放送を録画。DVDにうつしてあるので、今でも見られます。たまに見ますよ。
小学生~高校生までは9月1日の始業式に震災学習して年齢に合わせて段階的に学ぶのが大切だろうなぁ
もちろん事前にお手紙で心理的に無理な家庭は別室で違うことするようしにして……
阪神高速が横倒しになる前日にそこを通って自宅のある岡山市内に帰ったので、寝耳に水でしたね。
親は、長田区にあった取引先に1日遅れで行ってなにもなくなったと嘆いていましたが・・
六甲道駅近くにいたので、当日、六甲道が落ちているのを見て呆然としました。 震源地は明石海峡で、大橋をかけるのに海底にすごい杭を打つのか、地鳴りがするほどの工事をやっていました。それについて、テレビでも何も言わないけど、震源地に局地的に雲が出た報道はあったようです。。。
悲しい💧
やはり阪神高速道路倒壊のインパクトは絶大、、、
阪急西宮北口駅の道端で、たこ焼きの屋台がズラリと並んでいて段ボールに「地震に遭われた皆様温かいたこ焼きをどうぞ」の貼り紙。でも次の一文「五百円」には怒りを覚えました…。
命からがら避難して、お金を持ち出すことができなかった人たちもいっぱいいるのに、普段の祭りか何かの時と同じ値段で売ろうという魂胆に無性に腹が立ちました。もちろん、買う人はいませんでした。
この状況でマスクしてる人がほとんどいないことに、時代を感じる。
また、どんなに教訓としてこういう動画とかを使って諭したとしても、結局は本当の意味でちゃんと備えるのは一度震災を身を以て体験した人ばっかりよ
当時はまだ小学校6年生で、あの早朝にまさかの神戸での『地震』という自然災害があったなどという信じられない悲しくとてもじゃないけど言葉が出ないぐらいビックリしました😢あのときはホンマにすでに神奈川県横浜市に在住だったから良かったものの、奇跡的にも『九死に一生』は免れたのも束の間悲しい出来事やったなぁって憶えてます🥺あの災害に僕が遭われてたら…‼️😱🫣天変地異は非常に末恐ろしいものです、心より寄り添いたいなぁと思いますm(_ _)m‼️🙏🙇🙋
母が鷹取に住んでて、あの時母がもし死んでたら私は生まれてなかった。
復興なった神戸・・・今、同じ規模の地震が襲っても、6千人を超える犠牲は出ないだろう。では、亡くなった6千人とは一体、何の犠牲だったのだろう? 壊滅的なダメージを受けてから、危険を伴う救出や困難な復興をはたす位なら、ダメージを受ける前に備える事が、何故、出来なかったのだろう。 神戸に限らず、地震国・日本には何処でも同じ危険を抱えた地域が沢山ある。 最も効果的な自助とは、庶民の生命を最も優先する政治を選ぶ事では無いだろうか・・・
経験あっての改善。
教科書だけでは何も解決できないのです。
そして自然災害は似て非なるもの。
全てが違う。
絶対に計算通りにはならない。
だから分からない。
我々人間は永久に耐え忍び学び続ける他に手段は無いのです。
今の神戸の改善は6000名の犠牲の上に立っている。
決して無駄ではない。
都会に暮らして被災すると大変だ 余り集中するのは良くない。田舎も見直すべきだな
ん~どの報道番組も毎年この震災を似たような内容で報道してるけど、ちゃんと後世に伝えるだの教訓だのと言うのなら、闇の部分も報道すべきだと思うんだけどね。自衛隊が被災者に貸し出したテントが、多数返却されずに盗まれた件や、ボランティアで来た女性や被災者の女性達が、被災者男性やボランティアの男性に性的暴行事件が起きていた事や優先車両のみに発行されていた通行証を、多数コピーされて交通障害が増加した件もちゃんと報道してよ。本当に後世に伝えると言うのならば、闇の部分もちゃんと報道して
しかし新長田の再開発は失敗に終わっているという現実もある
ご高齢の方を助けるかどうかも考えておくべき。
ROSCした後のことも考えるべき。
DNARを事前に考える勉強会をしても良いと思う。
私は自身のアナムネや保険証にDNARを記載し、かかりつけのカルテにもDNARと書いて貰っている。
国は、ジェネリックを希望しますシールを保険証に貼るキャンペーンをしていたが、DNARシールを作ってはどうだろうか!?
これ日中に地震起こったらもっと犠牲者出てただろうな。
@@ミルクの国-c8d さん
うちのお母さん、すでに起きてお弁当作ってくれてました。
卵焼きを焼いていたみたいで必死で食器棚の扉を押さえつつ、ガスのスイッチを切ってくれました。
今でもすごく大切にしていたお皿がたくさん割れたと悲しそうに話しています。
南海地震で答えが出るよ
どうですかね、火災が広がったのは朝の朝食準備をしてた方が多かったんでは?と思います。
あと寝たまま逃げる事できずに倒壊した家屋の下敷きの方が多かった。
全く逆です。阪神淡路大震災では亡くなった方の8割が家屋倒壊による圧死及び窒息死であり、これはまだ朝の暗い時間帯で眠っている人が多かったことから犠牲者が増えました。
火災保険でと火を付けた事が大火災になり、結果保険が効かなかったと聞いたが…
今晩は平成7年1月17日阪神大震災淡路追悼式は
津波が来なかっただけ幸いだ
@okutann1128 何がさいわいじゃ○○
@ゆん-p1n 津波が来てたらどれだけ苦しんでいたことか…
でも炎に飲まれて行くのを見ていくしかないのもまたキツイしつらいよ
津波も辛いけど、生きたまま炎の波に飲み込まれるのも辛いことですよ。実際に炎の飲み込まれた人達を見た人々は今もトラウマだと言っています。
阪神淡路と東日本は時代も違えばタイプも違う。けれどどっちも辛く悲しい出来事なのは共通してる。
もうええて
@@xxxc2359 何が?