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なぜか室町時代の乱はぐだぐたに長いのが多いですよね。やはり、幕府の基盤が弱いのが痛い
信長が登場するまでは武士がお寺に逃げ込んだらセーフというルールだったので決着がいつまでもつかなかったとのこと。
幕府対反幕府ではなく個々の大名が自分の利益のために戦ったり同じ家の中で当主争いをしたりで統一意思がないんだよね。最終的には畠山家の当主争いだけが残ったがこれが火種になって次の騒動が起きるんだよなあ。
足利義政がしっかりしていれば防げた内戦だよなぁ
結局はどこかで噴出する問題だから無理
@@matukawatositaneんなこたぁない。全国的な争いにまでは発展してないよ
@@de9124 むりむり足利将軍家の伝統的守護制御は有力守護の御家争いに積極的に介入することだものんでそれに幕府宿老間の派閥争いが乗ってきたのが応仁の乱なんだもの…偶々親政志向が高い義政の時に噴出しただけよこれ
@@matukawatositane だから、しっかり制御できてれば全国的な戦乱には発展しないっつてんだろが分かってないならレスしてくんな
@@de9124 制御なんてする気がないんだものって話
一番根本的に対立しているのは畠山義就・政長で、周囲の家督争いもそれに引きずられてしまったのが長引いた原因かと。実際、義就上洛がきっかけで乱が始まり、河内へ去ったら乱は終結したわけだし。義政もそれに気が付いてたらしく、乱の初期に義就へ「悪いようにはしないから京都から出ていってくれ」と、2回書状を送っている。現状認識は割と正確なのに、講じる手段が手紙だけなのがまさに義政。あなた曲がりなりにも将軍なんだから、他に取れる手段が幾らでもあっただろ感がすごい。
途中で西軍と東軍の大将が入れ替わると言う謎の現象起こるよね頭がおかしくなっちゃう
関ヶ原で家康が西軍に行く位カオス。
近衛文麿元首相、来客に伝家の古文書の事を訊かれ「それは戦災で焼けました」「(幕末の)蛤御門の変の時ですか?」「いいえ、応仁の乱です」これ実話だそうです
孫の細川護煕元首相にも 似たような話を聞いたことあります。細川『先日、ウチが火事🔥に遭いましてね…』鳩山由紀夫「それはお見舞いも差し上げず 失礼しました🙇♂️💦💦 お怪我はありませんでしたか❓」細川『いや、応仁の乱の時だから😤』鳩山由紀夫「😳❓❓❓」冗談ではなく 真面目な会話だったと鳩山氏は言ってました🤭
近衛家って時が止まってるのか?
大陸っぽい画像使うの萎えるので辞めてほしい
細かいかも知れませんが、赤松は政秀ではなく政則ですね。
大事。
この時代はお寺に逃げ込んだらセーフのルールだったから、信長が味方するなら寺ごと燃やすまでは、いつまでも決着がつかないのでグダグダになりやすいですね
将軍後継者争い説は最近では否定されてますよ、義視は東軍の総大将になっているし(義視暗殺計画をした伊勢貞親を義政が呼び戻したから西軍に寝返り対立の構図になったけど)、あと義政は関心が無いのではなく、むしろセンスが無いのに政治に介入してややこしくしてます(応仁の乱で動けなかったのは義政の腹心伊勢氏がやらかして文正の政変で失脚したため)
グダグダでいったら30年近く続いた享徳の乱じゃないかね。応仁の乱よりも前からだし、関東での戦国はこの頃すでに始まってたわけで。さらに直後の長享の乱、その後の永正の乱ともうエンドレス状態……
元々の原因は足利幕府の成立過程にある。気前よく領地をばらまく=直轄地の少なさ。のちの世で言われる「小さな政府」(Aスミス「諸国民の富」)っぽい経済政府的な面が大きかった。だから将軍家と家臣たちの絆が深いうちはうまく運ぶが、代が進んで絆が浅くなると、コントロールがきかなくなる。すべては初代尊氏が悪い?
いくらなんでも10年以上前の通説を持ってくるのは・・・義政は応仁の乱前も応仁の乱後も政務をずっとバリバリこなしてましたよ。というより、応仁の乱の原因は義政がやたらと引っ掻き回すからで・・・
関が原は1日で決着したのに。
基本は足利家のお家騒動に有力守護のお家騒動が合成されたもの?
畠山の内紛が発端。足利将軍家は東軍支持で西軍は足利直冬の子孫を捜してたが、義視が東軍から西軍に寝返った事で足利将軍家のお家騒動に進展。でも誰もリスクを負いたがらなかったので戦いそのものはグダグダ。
まーた応仁の乱の話してる…後南朝が出て来るのは幽霊が化けてきた感ある西軍側に大内、畠山、妙椿みたいな大物がいて中々ね…これ義政くん有力守護が争うことで力を失うこと狙ってませんかね?
その割には身内のトラブル(義視)や伊勢氏や日野富子や享徳の乱や斯波氏など予想外の結果を招いている気がするのだが...。
@@55tg いくら守護たちがトラブっても上に君臨すればね
土一揆つちいっき✕どいっき◯
幕府の基盤が弱かったせいで、地方の勢力の力を削いでおく必要がある・・・で、3代 義満が、有力勢力の 当主のすげ替えをやって、地方勢力の削減に成功しているから、義政もやったんですよね。これが、消された方が死んでいれば それまでだったと思うけど、生きてるから 挽回を狙う。それに、恐らく、首謀者2名は、そんなに必死じゃなかったんじゃないかと、細川と山名は 義理の親子ですしねぇ。周りが必死で、上は頑張らざるを得なかったんじゃないかな・・・特に細川は。山名は、細川が 多少痛んでくれれば良かった気がする。とりあえず、初代 尊氏が、しっかり幕府勢力を作ってて 義政の 気まぐれ政治がなければ、ここまでの乱にはならなかったはず。畠山とか、何度 すげ替えたか。。。
応仁の乱って有る意味では信長が義昭追放するまで続いてた気もする位にグダグダやからな~
今もそこそこグダグダかなぁあと、近衛政権もか
なぜか室町時代の乱はぐだぐたに長いのが多いですよね。
やはり、幕府の基盤が弱いのが痛い
信長が登場するまでは武士がお寺に逃げ込んだらセーフというルールだったので決着がいつまでもつかなかったとのこと。
幕府対反幕府ではなく個々の大名が自分の利益のために戦ったり同じ家の中で当主争いをしたりで統一意思がないんだよね。最終的には畠山家の当主争いだけが残ったがこれが火種になって次の騒動が起きるんだよなあ。
足利義政がしっかりしていれば防げた内戦だよなぁ
結局はどこかで噴出する問題だから無理
@@matukawatositaneんなこたぁない。全国的な争いにまでは発展してないよ
@@de9124 むりむり足利将軍家の伝統的守護制御は有力守護の御家争いに積極的に介入することだもの
んでそれに幕府宿老間の派閥争いが乗ってきたのが応仁の乱なんだもの…偶々親政志向が高い義政の時に噴出しただけよこれ
@@matukawatositane だから、しっかり制御できてれば全国的な戦乱には発展しないっつてんだろが
分かってないならレスしてくんな
@@de9124 制御なんてする気がないんだものって話
一番根本的に対立しているのは畠山義就・政長で、周囲の家督争いもそれに引きずられてしまったのが長引いた原因かと。実際、義就上洛がきっかけで乱が始まり、河内へ去ったら乱は終結したわけだし。義政もそれに気が付いてたらしく、乱の初期に義就へ「悪いようにはしないから京都から出ていってくれ」と、2回書状を送っている。現状認識は割と正確なのに、講じる手段が手紙だけなのがまさに義政。あなた曲がりなりにも将軍なんだから、他に取れる手段が幾らでもあっただろ感がすごい。
途中で西軍と東軍の大将が入れ替わると言う謎の現象起こるよね
頭がおかしくなっちゃう
関ヶ原で家康が西軍に行く位カオス。
近衛文麿元首相、来客に伝家の古文書の事を訊かれ
「それは戦災で焼けました」
「(幕末の)蛤御門の変の時ですか?」
「いいえ、応仁の乱です」
これ実話だそうです
孫の細川護煕元首相にも 似たような話を聞いたことあります。
細川『先日、ウチが火事🔥に遭いましてね…』
鳩山由紀夫「それはお見舞いも差し上げず 失礼しました🙇♂️💦💦 お怪我はありませんでしたか❓」
細川『いや、応仁の乱の時だから😤』
鳩山由紀夫「😳❓❓❓」
冗談ではなく 真面目な会話だったと鳩山氏は言ってました🤭
近衛家って時が止まってるのか?
大陸っぽい画像使うの萎えるので辞めてほしい
細かいかも知れませんが、赤松は政秀ではなく政則ですね。
大事。
この時代はお寺に逃げ込んだらセーフのルールだったから、信長が味方するなら寺ごと燃やすまでは、いつまでも決着がつかないのでグダグダになりやすいですね
将軍後継者争い説は最近では否定されてますよ、義視は東軍の総大将になっているし(義視暗殺計画をした伊勢貞親を義政が呼び戻したから西軍に寝返り対立の構図になったけど)、あと義政は関心が無いのではなく、むしろセンスが無いのに政治に介入してややこしくしてます(応仁の乱で動けなかったのは義政の腹心伊勢氏がやらかして文正の政変で失脚したため)
グダグダでいったら30年近く続いた享徳の乱じゃないかね。応仁の乱よりも前からだし、関東での戦国はこの頃すでに始まってたわけで。さらに直後の長享の乱、その後の永正の乱ともうエンドレス状態……
元々の原因は足利幕府の成立過程にある。気前よく領地をばらまく=直轄地の少なさ。のちの世で言われる「小さな政府」(Aスミス「諸国民の富」)っぽい経済政府的な面が大きかった。
だから将軍家と家臣たちの絆が深いうちはうまく運ぶが、代が進んで絆が浅くなると、コントロールがきかなくなる。
すべては初代尊氏が悪い?
いくらなんでも10年以上前の通説を持ってくるのは・・・
義政は応仁の乱前も応仁の乱後も政務をずっとバリバリこなしてましたよ。
というより、応仁の乱の原因は義政がやたらと引っ掻き回すからで・・・
関が原は1日で決着したのに。
基本は足利家のお家騒動に有力守護のお家騒動が合成されたもの?
畠山の内紛が発端。足利将軍家は東軍支持で西軍は足利直冬の子孫を捜してたが、義視が東軍から西軍に寝返った事で足利将軍家のお家騒動に進展。でも誰もリスクを負いたがらなかったので戦いそのものはグダグダ。
まーた応仁の乱の話してる…
後南朝が出て来るのは幽霊が化けてきた感ある
西軍側に大内、畠山、妙椿みたいな大物がいて中々ね…
これ義政くん有力守護が争うことで力を失うこと狙ってませんかね?
その割には身内のトラブル(義視)や伊勢氏や日野富子や享徳の乱や斯波氏など予想外の結果を招いている気がするのだが...。
@@55tg いくら守護たちがトラブっても上に君臨すればね
土一揆
つちいっき✕
どいっき◯
幕府の基盤が弱かったせいで、地方の勢力の力を削いでおく必要がある・・・で、3代 義満が、有力勢力の 当主のすげ替えをやって、地方勢力の削減に成功しているから、義政もやったんですよね。
これが、消された方が死んでいれば それまでだったと思うけど、生きてるから 挽回を狙う。
それに、恐らく、首謀者2名は、そんなに必死じゃなかったんじゃないかと、細川と山名は 義理の親子ですしねぇ。
周りが必死で、上は頑張らざるを得なかったんじゃないかな・・・特に細川は。
山名は、細川が 多少痛んでくれれば良かった気がする。
とりあえず、初代 尊氏が、しっかり幕府勢力を作ってて 義政の 気まぐれ政治がなければ、ここまでの乱にはならなかったはず。
畠山とか、何度 すげ替えたか。。。
応仁の乱って有る意味では信長が義昭追放するまで続いてた気もする位にグダグダやからな~
今もそこそこグダグダかなぁ
あと、近衛政権もか