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現代文はロランバルトの著作から出題すべきだな😂
先生、現代文をなくせば、このような事故は無くなります。
今日から世界史の講師できそう
たくさんのご意見やご感想などありがとうございます!!!コメントいただけると本当に嬉しいです!引き続きよろしくお願いします🙇🏻♂️
最近塾で先生の授業を受けた者です!本当にびっくりしました。2時間40分が20分ほどに感じるくらいとても楽しくて引き込まれて興味深かったです!先生の授業を1週間の楽しみとして待ってます!これからも忙しくとは思いますが頑張って下さい!!本当に大好きです😍
素晴らしい視点をありがとうございます。
本当に面白いなーでも、大学の解答と予備校の解答がブレるのは悪問と言わざるを得ないですね
大学と筆者がズレるのはまだ分かるけど、大学と予備校がズレるのは学問として良くないからなー。
筆者と出題者の両方に敬意を払う姿勢がすばらしかったので見習いたいです。私はこれまで、今回のような問題が起きるのは1、出題者の読み間違い2、筆者の論理が書籍全体の中で首尾一貫していないが、主な可能性であると考えていましたが、第3の選択肢が最も説得力あるものとなりました!ありがとうございます♬
幾つかの問題で大学が用意した解答と予備校のそれが違うので、やはり問題が良くなかったのかなという印象です。
「現代文はその文章中に書かれてることだけが正解になる。」ってのは大原則だと思いますがその先の話まで考えたことがありませんでした。大学の学部入試ではなく編入試験の問題はもう既に宗先生が最後に仰ってた形に近いように感じます。(長文→解決策や意見などを論述)
現代文の作問の難しさが改めて難解なものであると改めて思いました😅
慶應義塾が小論文を入試に課すことについても賛否があると思います。正解が定まらないという点や採点基準があいまいになりやすいという点において反対意見があると思うのですが、宗先生のご見解を伺いたいです。
こんな話無料で聞いちゃっていいんてすかね!凄い!
ちょっと違うけど公式が勝手に言ってるだけって言葉は意外と真理を突いていたのかもしれない
興味深く拝見しました。受験とは無縁ですがなぜかおすすめに上がってきたので💦大学受験現代文を通した壮大な文化論になってますね。特にインターネットの普及に伴う「読み手の復権」というのは感銘を受けました。
すごく面白かったです。高校の国語の新カリに言語活動が入ってきた理由が分かったような気がしました。
与えられた文字数での解釈と「で、貴方は?」の問い2つが問われる時代が来ると言うことですね。後者のが大切な気が。語りべ、紙の文字、ネット上と移り変わりまた自由解釈が可能になった。面白い変化ですが作者には辛い?
この動画のお話自体が前近代→近代→現代という現代文の基礎的な構成を成しており、非常に美しいですね。そして未来はどうなるか、どうしていくべきか、ということを自然と考えることが出来るような、引き込まれるお話でした。
話が面白すぎて20分じゃ足りない(笑)社会人向けの『スピーチ力』講座やって下さい
先生、抜群の安定感だわ😊大人向けで落ち着いて、拝聴できますね❗️是非、夏発売の本の宣伝もしていきましょう❗️
おもしろすぎる
文章と書き手の意思とは相互独立した存在だと考えています。
00:00 早稲田大学教育学部vs課題文作者01:24 大学入試の解答は一つなのか02:10 文章の解釈は一つなのか02:53 【読書の歴史】紀元前3000年頃07:50 1450年頃11:50 現代国語教育15:34 現在18:07 【予測】今後の大学入試
現代文の入試問題における作者と出題者、予備校の解答の解答のズレにとどまらず、文学理論・文芸批評における解釈の妥当性、読みの可能性について、一般の人や受験生にもわかりやすく、解説なさろうとしていること、興味深く拝聴いたしました。結局のところ、文学研究でも様々に議論される、解釈の妥当性、読みの自由や決定権がどこにあるのかという難問に通じます。文学を専門に学びたいと人には避けて通れない事柄について問題提起してくださりありがとうございます。参考資料○テリー・イーグルトン「文学とは何か」○ヴォルフガング・イーザー「行為としての読書」○土田知則ほか編「現代文学理論」
作者本人でも気づいていない深層心理が文章に表象されている場合があり、それを読者が見つけ、その解釈を作者にぶつけても、作家自身ですら気づいていない深層心理であるゆえ、作者がその解釈を否定する場合もありうる。解釈学はむずかしいですね。
話が上手すぎます笑
伝言ゲームでまむこを串刺しにしたことになったスサノオ先輩カワイソスwww(古事記より)
ペーパーテストに現代文を除外(あるいは論理性が担保されたデータや資料中心の出題・単なる文章の要約問題で構成されるようになるか)して、授業で言語活動を重視していく方法になるんじゃないですかね
言語活動とは?
国語教育は「嘘」に弱い。情報が一方的で読者が介入する余地はなく問題文は全て真実であると一旦鵜呑みにしなければならない。数学と違って自分で証明もさせてくれない。内容は関係ないからだ。たとえデータが間違っていても問題文以外からのデータや自己の経験の適用は言語能力試験という建前上平等性ゲーム性に欠ける。そこを悪用し社会経験や自己決定経験の浅い学生に対して得点という餌を目の前にたとえ非論理的·非倫理的な内容でもそれ前提で思想を読ませ、大人たちのルサンチマンの捌け口·踏み絵的·思想検疫的に使われている。問題作成者は匿名のくせに立場の弱い絶対に反論してこない相手に一方的に情報を浴びせられる。学生に対する一種のパワハラセクハラでしかない。受験国語に適応すると自分で考えるというフェーズを踏まず他人に言われた通りの結論を出してしまう。縦社会のコミュニケーションはこの国語教育が作ったのではないか?一方的なコミュニケーションしか国語教育になくそれでしか人は通じないと思っているのではないのか?テレビや新聞などの媒体と比べ双方向性という送信側と受信側が相互に通信できるインターネットが生まれ、誰もが発信者になり今まで一方的に読者だった者が介入する余地が生まれた。問題作成者は反論されるなんて想定してなかっただろう。それでもゲームの主催者という絶対的な立場を守るために絶対に間違いを認めない。また誰もが発信者になったことで教科書のように考慮されたオチ·正解がない文章やデマも大量に生まれた。国語教育を真面目に信じた人ほど正解があると思って作者を信じ無駄な時間を費やす。教科書のように読者にメリットのある綺麗な文章の読み方は教わるが、読者にデメリットしかないデマや駄文、誹謗中傷にまで同じ態度で読んでいたら真面目な人ほど人生の貴重な時間を無駄にする。教科書のような文章が一体この世の文章のなん%あるのか。駄文は駄文であると、悪問は悪問であると、言葉は人を不幸にもでき人生は有限であり呪いは切り捨てていいことを国語教育で教えなければならない。そもそも国語教育は生徒の模倣すべきお手本にすらなっていない。文章は書き手の工夫で分かりやすく解釈が1つになるようにすべきものなのに、受験科目という難易度をあげるために分かりづらい文章が選ばれる。現代文に選ばれるということは悪文だといってるようなもの。専門性が高まるほど専門用語の理解が不可欠になって文脈や一般常識当てはめて単語を推測など通用しなくなるのに、国語の問題である以上専門用語をなるべく使わないから素人が一般常識を当てはめて理解した気になるスカッと系みたいな問題文がもてはやされて陰謀論者を量産してる。専門書の専門用語が分からないとき別媒体から調べず前後の文脈から推測し即決するような専門家をだれが信用するか?
たとえネットだとしても読者は文章を変更できないから、変更が簡単になったから作者の権威が目減りしたというロジックは腑に落ちないかも。。どちらかと言えば、一般目線での活字の目的が、啓蒙から消費にほぼシフトし切ったからに思える。。
すご、、
4週間前に同様の点についてコメントしている方がいますが、重複している点については申し訳ございません。もりてつ先生の動画でこの話題について解説されていた時から、違和感があった点についてコメントいたします。一般論として、著者が書いた文章テクストとして読解する場合、「著者の意図」のみが唯一の解釈とは限らず、複数の読み方ができるというのはその通りです。極端な例を言えば、著者の文章が下手であったり、曖昧であったりすると、客観的に見て「著者の意図」がテクストから読み取れないこともあるでしょう。また、国語の問題自体に問題がなくとも、問題の難易度が高いために、著者が誤答することもあると思います。また、予備校講師の宗先生に対して申し上げるのも失礼かもしれませんが、予備校の先生が解答を間違えることもあると思われます。ですから、この動画やもりてつさんの動画での発言のように、テクスト論を解説する題材としてこのニュースを取り扱うという意図は分かります。前置きが長くなりましたが、本題に移ります。この動画の冒頭で国語の問題の解答は一つにするべきだと仰っており、上記のテクスト論に絞って解説しています。先生はすでにお読みになっていると思いますが、著者は自ら入試問題について考察した文章をネット上に発表しています。著者は過去の著書や引用箇所以外の背景知識を踏まえたいわゆる「著者の意図」にあたる解答と、与えられた文章をもとに、一般的な常識の範囲内で解釈した解答を区別して提示しています。したがって、この件に関していうならば、著者はテクスト論は踏まえた上で、著者の意図にこだわっているわけではなく、単なるテクストの読解問題としても公式の解答が最も適切とはいえず、不適切な問題ではなかったか、ということを論点にしています。宗先生はこの件を糧として、建設的な方向で解説しようとしたのではないかと思います。しかし、以下の4点の理由から、この問題を取り上げるのであれば、もう少し核心的な部分に触れて欲しいと思いました。1. たった一問であっても受験生の人生がかかっていること、2. 解答が一つだとしているのは大学側だということ、3. 「著者の意図」や「フーコーについての背景知識」を踏まえた解答肢を除外したとしても、テクストの読解として学部側の解答が最も適切とはいえないこと、4. 出題ミスは致し方ないとしても、大学側が出題ミスを認めておらず、質問状にも解答していないこと
珍しくスーツを召してお話くださるくらい気合が入ってらっしゃるんですね😊お話の内容も、さすがは宋先生、非常に論理的で面白かったです私も設問のあり方は変化していくのではないかと思いますがそういった設問におけるパラダイムシフトが起こった際の「採点基準」がこれまた難しいですねぇ小論文みたい平等性をもっての絶対評価、課題は山盛り😅😅😅
新井紀子さんの「AIvs教科書…」が6年の予習シリーズに出てるんだけど、その切り取られたところがなんか新井さんの主張の本質っぽくないんですよねえ。シンギュラリティは来ないっていう楽観的なところだけ引用されていて。これがほんと受験国語の悪いところやなあ、と思います。
中学くらいから、現代文読解の悪問に何度も出会う。そうして、国語が嫌いになる人もいる。で、国語だけ、ライブで解いてくれない高校教員、私もそうだ。必ずこの矛盾に気が付いている。が、アカデミックにおいて文科省、東大が権威の上にいるので、曖昧なことで答えに合うコンテクストを手作りした授業構成をする。 では、一つの問いを立てたい。中学生や高校生で読書が好きな人が多い、でそれは推奨されるべきで国語教育においても同様だと思う。養老孟子や、斉藤孝、あさのあつこ など、それら多くの著書を読んだこと、好きで熟読した個人がいて、それらの作品の一部が出されたとして、読んだことがある、心躍った体験を忘れ去って(un-learn)して、AI言語処理を個人に期待するのか?点数を取るために、読書という趣味から離れないといけないのか?今の切り取りコンテクストの客観情報処理ではそうなる。 言語はアートであるべきだ。消去法で、選んで正解でドーパミンは出ない。我慢して、高校時代はやったが、やはり大人になって読んでも、おかしい問題に何度か出会う。
作者の意図を解明しようとしても無限に辿り着けない状況とは、ブラックホールに突入する宇宙船を遠方で観測する状況と似てる。一般相対論的には、ブラックホールの外にいる観測者からブラックホールに突入する宇宙船を観測しても、宇宙船はブラックホールとそうでない空間との境界線上に留まっているようにしか見えない。無限の時間かかったとしても。
重田先生、そんなに変な文章書く人じゃないのにね。
解答が割れるなら、それは悪問としか言いようがない気も………。今後、能動的な解釈が主流となるのであれば、部分ではなく全体感を大きく捉えるような、そういった流れになっていってほしいですね。部分を抜き出して、さらに歪ませて解釈してしまう人を今まで多く見てきたので。自説の補強のために著者の権威を笠に着るのであれば、客観的な読解、もしくは、せめて全体感を捉えた解釈であってほしい、と個人的には思います。
以前外国で外国人と魚料理を食べて魚の種類を聞いたら「種類なんか知らない、fishだ、気にしたこともない」みたいなことを言われたことがあります。昔(今もかも)の日本では鳥はカラスとかニワトリって種類を気にしていたけど犬や猿の種類は気にしてなかったんでしょうね。お話すごくおもしろかったです。
30年前も似た話を聞きました。笑うに笑えません。
既に慶應の小論文で実施されてるような・・・
つまらない内容なのに、ケイジの口から述べられるとついつい最後まで見てしまうわ!それでなんでそんな上手いのかと聞いたら、生まれた時からと淡々と流される〜
法律(憲法)でさえ複数の解釈ができちゃうのだからそりゃそうだ
今日もですが、電車、バスの中で、みんなスマホ、ネットの世界に没頭されています。こんな、そんな時代に僕は反抗したいので、僕は電車、バスの中で紙の本を読んでいます。そんなアナログな自分は、たぶん、カッコイイんだと自分に言い聞かせて😂宋先生、いつも貴重な動画配信、ありがとうございます🙏
今日もバス、電車の中で、みんなが服を着ている。そんな中、全裸の俺かっこいいと自分に言い聞かせる今日もありがとう。
ブログにしてもSNSにしても出版にしても、自分の手を離れたら自分が書いたものじゃない気がするんですよね。逆に自分の放ったツイートが巡りめぐって、「なんか面白いもん読んだなあ。。。てか、書いたの俺じゃんwww」ってなることあるね。
質問です。これ結局、現代文は、「その評論や小説を作問者がどのように解釈しているか」を問われているということでしょうか?そしてそれは、「作問者がどう思うか?を学生が問われているということ」自体が読解とは程遠い世界になってしまうのではないでしょうか?以前、オードリーの若林さんの文章が大学入試で使用され、実際に本人が解いた所、全く合わなかったことがありました。確かに、動画で指摘されている通りある程度は仕方ないと思いますが、「全く合わない」というのはそれはそれで釈然としない所もあります。誰だって自分が書いた文章を異なる解釈されたら腹が立つのは当然ですし、それによって他者の人生に大きく影響するなら尚更だと思います。上手く質問出来ているかは不明ですが、よろしくお願いいたします。
3,40年前から入試問題でよく見かける開かれたテクスト論を一席ぶちたい気持ちも推察いたしますが、物語と論説を混同して論じるのは極めて不適切です。個々の読者が文化的背景や教育程度、或いはもっとそのようなコンテクスト性・間主観性を突き詰めて各の人生経験自体によりテクストの受容のされ方が異なるのはその通りなのですが、現実には閉じられたテクストも存在します。また同時に動画内で例示されている史的展開から再話を解説しようとする姿勢も誤解に基づいていることを指摘します。実際は法文を考えればわかりますが、紀元前2000年頃のハンムラビ法典も解釈の余地を許していませんし、前1200年頃の銀の条約の講和条項も一つの解釈を離れることを許してはいません。日本国内でも格式の布告文等で解釈の余地を潰し解釈を統一する試みを行っていますし、法解釈を示す役人を地方に置き伝聞する場合も個人に対して解釈の余地を許していませんでした。この制度設計は古代ギリシア以来中世までのヨーロッパでも当てはまることです。これは現代の裁判形式も同様で法文自体はある程度解釈の余地があっても、要件事実を斟酌し判例により一つの解釈へと収斂させることが法の基本精神です(予測可能性と適正手続を実現させ日本国憲法でも謳われている自由主義を擁護するはたらき)。さて本動画配信の目的たる入試問題(煩瑣になっては宜しくないでしょうから動画内で紹介された設問1のみ)に軸足を移しますが、重田先生の糾弾は極めて真っ当なものであると言わざるを得ません。今回の設問で問題になった部分は、フーコーに関する前提知識があれば1+1というような計算規則レベルで解釈の余地がないテクストであり、フーコー研究者であれば10人中10人が「ハ」を選びます。しかし重田先生が譲歩しているように学部の解答も間違いとは言い切れないですし、問題文だけを抽き出せば予備校の解答が正解であるでしょう。要するに、重田先生は「大学の(想定)正答も予備校の解答も間違いではない」(消去法で絞れない)のにも関わらず、何故大学側の(想定)正答のみが正しいのか説明せよと質問状を送付したのです。つまり作者である重田先生側が開かれた解釈を許容しているのに対して、早稲田大学側がそれを拒否したのです。それに対する宗さんの本動画は、主客を顛倒させてしまっておりはっきり申し上げて状況を「誤読」していると非難されても仕方がないです。或いは参考として自らが挙げた文章にすら目を通していないからこのような頓珍漢な解説動画をアップロードしてしまうのでしょうか?結論としては、今回の事例では早稲田大学の作問ミスであることに疑いの余地はないのです。
解釈がズレる→書き手が悪い と思ってしまいます
なわけねーだろ
テストにするには良くない文章だとは思うけど、テストにしてもらうために書く人なんていないしそれだけで書き手が悪いと評価するのは違うと思いました。
小説なら問題ないけど、評論みたいな情報を読み手に伝えるのが目的の文章なのに読み手によって解釈が変わってしまうのは問題でしょうお二人はアカデミックライティングとか習わなかったんですか?
@@ssusp 理系で論文は書きましたが、学校で習った評論文とは全然違うものと思ってしまいました…でも確かにおっしゃるように、筆者の主張が正しく伝わらなければ本を書く意味が大きく薄れますね。
@@ssusp 問題なのは元の文章を読みにいかないあなただと思うけどな。重田さんの主張を読めば「読み手によって解釈が変わる」なんて言葉は口が裂けても出てこないはずだけど。大学で元の文章に当たる重要性を学ばなかったのですか? リンクが貼ってないので不親切だと思いますが、元記事のタイトルは概要欄にあるわけで、コピペして検索すればすぐに読めますよね。なぜそんなに怠惰なんですか? 自分勝手な思い込みをゼミや卒論で主張したら、担当教官にボコボコにされると思いますけど
単純に、著者の意図を問うのが無意味なだけ。そんな問題を個別学力検査などで出題している大学があるのだとしたら、その作問に関わった人達は愚かです。
活版印刷だとかピントハズレの話をぐだぐだ話してるが、実作者と内包された作者の違いの話。個人的には、入試問題だから、一種のゲームだからと言って、本意でない解釈を正とされるなら実作者はたまったものではないと思う。
執筆者と作問者の間で齟齬が起きてるなら執筆者の技量不足だと俺は思う。作問者だって一端の大学しかも国内最高峰の教授だぞ。その教授が解釈できない論理だったのならそれは執筆者が悪い。
重田先生らしい。
文章を書いた人は、ちゃんと言いたいことを伝えるべく説明責任があると思います。色んな解釈ができる玉虫色の文章を書くことが問題だとされるべきかと思います。
午未申酉戌
現代文はロランバルトの著作から出題すべきだな😂
先生、現代文をなくせば、このような事故は無くなります。
今日から世界史の講師できそう
たくさんのご意見やご感想などありがとうございます!!!
コメントいただけると本当に嬉しいです!
引き続きよろしくお願いします🙇🏻♂️
最近塾で先生の授業を受けた者です!本当にびっくりしました。2時間40分が20分ほどに感じるくらいとても楽しくて引き込まれて興味深かったです!先生の授業を1週間の楽しみとして待ってます!これからも忙しくとは思いますが頑張って下さい!!本当に大好きです😍
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本当に面白いなー
でも、大学の解答と予備校の解答がブレるのは悪問と言わざるを得ないですね
大学と筆者がズレるのはまだ分かるけど、大学と予備校がズレるのは学問として良くないからなー。
筆者と出題者の両方に敬意を払う姿勢がすばらしかったので見習いたいです。
私はこれまで、今回のような問題が起きるのは
1、出題者の読み間違い
2、筆者の論理が書籍全体の中で首尾一貫していない
が、主な可能性であると考えていましたが、第3の選択肢が最も説得力あるものとなりました!ありがとうございます♬
幾つかの問題で大学が用意した解答と予備校のそれが違うので、やはり問題が良くなかったのかなという印象です。
「現代文はその文章中に書かれてることだけが正解になる。」ってのは大原則だと思いますがその先の話まで考えたことがありませんでした。
大学の学部入試ではなく編入試験の問題はもう既に宗先生が最後に仰ってた形に近いように感じます。(長文→解決策や意見などを論述)
現代文の作問の難しさが改めて難解なものであると改めて思いました😅
慶應義塾が小論文を入試に課すことについても賛否があると思います。正解が定まらないという点や採点基準があいまいになりやすいという点において反対意見があると思うのですが、宗先生のご見解を伺いたいです。
こんな話無料で聞いちゃっていいんてすかね!凄い!
ちょっと違うけど公式が勝手に言ってるだけって言葉は意外と真理を突いていたのかもしれない
興味深く拝見しました。受験とは無縁ですがなぜかおすすめに上がってきたので💦
大学受験現代文を通した壮大な文化論になってますね。
特にインターネットの普及に伴う「読み手の復権」というのは感銘を受けました。
すごく面白かったです。
高校の国語の新カリに言語活動が入ってきた理由が分かったような気がしました。
与えられた文字数での解釈と「で、貴方は?」の問い2つが問われる時代が来ると言うことですね。後者のが大切な気が。語りべ、紙の文字、ネット上と移り変わりまた自由解釈が可能になった。面白い変化ですが作者には辛い?
この動画のお話自体が前近代→近代→現代という現代文の基礎的な構成を成しており、非常に美しいですね。そして未来はどうなるか、どうしていくべきか、ということを自然と考えることが出来るような、引き込まれるお話でした。
話が面白すぎて20分じゃ足りない(笑)
社会人向けの『スピーチ力』講座やって下さい
先生、抜群の安定感だわ😊
大人向けで落ち着いて、拝聴できますね❗️
是非、夏発売の本の宣伝もしていきましょう❗️
おもしろすぎる
文章と書き手の意思とは相互独立した存在だと考えています。
00:00 早稲田大学教育学部vs課題文作者
01:24 大学入試の解答は一つなのか
02:10 文章の解釈は一つなのか
02:53 【読書の歴史】紀元前3000年頃
07:50 1450年頃
11:50 現代国語教育
15:34 現在
18:07 【予測】今後の大学入試
現代文の入試問題における作者と出題者、予備校の解答の解答のズレにとどまらず、文学理論・文芸批評における解釈の妥当性、読みの可能性について、一般の人や受験生にもわかりやすく、解説なさろうとしていること、興味深く拝聴いたしました。
結局のところ、文学研究でも様々に議論される、解釈の妥当性、読みの自由や決定権がどこにあるのかという難問に通じます。文学を専門に学びたいと人には避けて通れない事柄について問題提起してくださりありがとうございます。
参考資料
○テリー・イーグルトン「文学とは
何か」
○ヴォルフガング・イーザー「行為としての読書」
○土田知則ほか編「現代文学理論」
作者本人でも気づいていない深層心理が文章に表象されている場合があり、それを読者が見つけ、その解釈を作者にぶつけても、
作家自身ですら気づいていない深層心理であるゆえ、作者がその解釈を否定する場合もありうる。
解釈学はむずかしいですね。
話が上手すぎます笑
伝言ゲームでまむこを串刺しにしたことになったスサノオ先輩カワイソスwww(古事記より)
ペーパーテストに現代文を除外(あるいは論理性が担保されたデータや資料中心の出題・単なる文章の要約問題で構成されるようになるか)して、授業で言語活動を重視していく方法になるんじゃないですかね
言語活動とは?
国語教育は「嘘」に弱い。情報が一方的で読者が介入する余地はなく問題文は全て真実であると一旦鵜呑みにしなければならない。数学と違って自分で証明もさせてくれない。内容は関係ないからだ。たとえデータが間違っていても問題文以外からのデータや自己の経験の適用は言語能力試験という建前上平等性ゲーム性に欠ける。そこを悪用し社会経験や自己決定経験の浅い学生に対して得点という餌を目の前にたとえ非論理的·非倫理的な内容でもそれ前提で思想を読ませ、大人たちのルサンチマンの捌け口·踏み絵的·思想検疫的に使われている。問題作成者は匿名のくせに立場の弱い絶対に反論してこない相手に一方的に情報を浴びせられる。学生に対する一種のパワハラセクハラでしかない。受験国語に適応すると自分で考えるというフェーズを踏まず他人に言われた通りの結論を出してしまう。縦社会のコミュニケーションはこの国語教育が作ったのではないか?一方的なコミュニケーションしか国語教育になくそれでしか人は通じないと思っているのではないのか?テレビや新聞などの媒体と比べ双方向性という送信側と受信側が相互に通信できるインターネットが生まれ、誰もが発信者になり今まで一方的に読者だった者が介入する余地が生まれた。問題作成者は反論されるなんて想定してなかっただろう。それでもゲームの主催者という絶対的な立場を守るために絶対に間違いを認めない。また誰もが発信者になったことで教科書のように考慮されたオチ·正解がない文章やデマも大量に生まれた。国語教育を真面目に信じた人ほど正解があると思って作者を信じ無駄な時間を費やす。教科書のように読者にメリットのある綺麗な文章の読み方は教わるが、読者にデメリットしかないデマや駄文、誹謗中傷にまで同じ態度で読んでいたら真面目な人ほど人生の貴重な時間を無駄にする。教科書のような文章が一体この世の文章のなん%あるのか。駄文は駄文であると、悪問は悪問であると、言葉は人を不幸にもでき人生は有限であり呪いは切り捨てていいことを国語教育で教えなければならない。そもそも国語教育は生徒の模倣すべきお手本にすらなっていない。文章は書き手の工夫で分かりやすく解釈が1つになるようにすべきものなのに、受験科目という難易度をあげるために分かりづらい文章が選ばれる。現代文に選ばれるということは悪文だといってるようなもの。専門性が高まるほど専門用語の理解が不可欠になって文脈や一般常識当てはめて単語を推測など通用しなくなるのに、国語の問題である以上専門用語をなるべく使わないから素人が一般常識を当てはめて理解した気になるスカッと系みたいな問題文がもてはやされて陰謀論者を量産してる。専門書の専門用語が分からないとき別媒体から調べず前後の文脈から推測し即決するような専門家をだれが信用するか?
たとえネットだとしても読者は文章を変更できないから、変更が簡単になったから作者の権威が目減りしたというロジックは腑に落ちないかも。。
どちらかと言えば、一般目線での活字の目的が、啓蒙から消費にほぼシフトし切ったからに思える。。
すご、、
4週間前に同様の点についてコメントしている方がいますが、重複している点については申し訳ございません。もりてつ先生の動画でこの話題について解説されていた時から、違和感があった点についてコメントいたします。
一般論として、著者が書いた文章テクストとして読解する場合、「著者の意図」のみが唯一の解釈とは限らず、複数の読み方ができるというのはその通りです。
極端な例を言えば、著者の文章が下手であったり、曖昧であったりすると、客観的に見て「著者の意図」がテクストから読み取れないこともあるでしょう。また、国語の問題自体に問題がなくとも、問題の難易度が高いために、著者が誤答することもあると思います。また、予備校講師の宗先生に対して申し上げるのも失礼かもしれませんが、予備校の先生が解答を間違えることもあると思われます。
ですから、この動画やもりてつさんの動画での発言のように、テクスト論を解説する題材としてこのニュースを取り扱うという意図は分かります。
前置きが長くなりましたが、本題に移ります。
この動画の冒頭で国語の問題の解答は一つにするべきだと仰っており、上記のテクスト論に絞って解説しています。
先生はすでにお読みになっていると思いますが、著者は自ら入試問題について考察した文章をネット上に発表しています。
著者は過去の著書や引用箇所以外の背景知識を踏まえたいわゆる「著者の意図」にあたる解答と、与えられた文章をもとに、一般的な常識の範囲内で解釈した解答を区別して提示しています。したがって、この件に関していうならば、著者はテクスト論は踏まえた上で、著者の意図にこだわっているわけではなく、単なるテクストの読解問題としても公式の解答が最も適切とはいえず、不適切な問題ではなかったか、ということを論点にしています。
宗先生はこの件を糧として、建設的な方向で解説しようとしたのではないかと思います。しかし、以下の4点の理由から、この問題を取り上げるのであれば、もう少し核心的な部分に触れて欲しいと思いました。
1. たった一問であっても受験生の人生がかかっていること、
2. 解答が一つだとしているのは大学側だということ、
3. 「著者の意図」や「フーコーについての背景知識」を踏まえた解答肢を除外したとしても、テクストの読解として学部側の解答が最も適切とはいえないこと、
4. 出題ミスは致し方ないとしても、大学側が出題ミスを認めておらず、質問状にも解答していないこと
珍しくスーツを召してお話くださるくらい気合が入ってらっしゃるんですね😊
お話の内容も、さすがは宋先生、非常に論理的で面白かったです
私も設問のあり方は変化していくのではないかと思います
が
そういった設問におけるパラダイムシフトが起こった際の「採点基準」がこれまた難しいですねぇ
小論文みたい
平等性をもっての絶対評価、課題は山盛り😅😅😅
新井紀子さんの「AIvs教科書…」が6年の予習シリーズに出てるんだけど、その切り取られたところがなんか新井さんの主張の本質っぽくないんですよねえ。シンギュラリティは来ないっていう楽観的なところだけ引用されていて。
これがほんと受験国語の悪いところやなあ、と思います。
中学くらいから、現代文読解の悪問に何度も出会う。そうして、国語が嫌いになる人もいる。
で、国語だけ、ライブで解いてくれない高校教員、私もそうだ。必ずこの矛盾に気が付いている。
が、アカデミックにおいて文科省、東大が権威の上にいるので、
曖昧なことで答えに合うコンテクストを手作りした授業構成をする。
では、一つの問いを立てたい。
中学生や高校生で読書が好きな人が多い、でそれは推奨されるべきで国語教育においても同様だと思う。
養老孟子や、斉藤孝、あさのあつこ など、
それら多くの著書を読んだこと、好きで熟読した個人がいて、
それらの作品の一部が出されたとして、
読んだことがある、心躍った体験を忘れ去って(un-learn)して、AI言語処理を個人に期待するのか?
点数を取るために、読書という趣味から離れないといけないのか?
今の切り取りコンテクストの客観情報処理ではそうなる。
言語はアートであるべきだ。
消去法で、選んで正解でドーパミンは出ない。
我慢して、高校時代はやったが、やはり大人になって読んでも、おかしい問題に何度か出会う。
作者の意図を解明しようとしても無限に辿り着けない状況とは、ブラックホールに突入する宇宙船を遠方で観測する状況と似てる。
一般相対論的には、ブラックホールの外にいる観測者からブラックホールに突入する宇宙船を観測しても、宇宙船はブラックホールとそうでない空間との境界線上に留まっているようにしか見えない。無限の時間かかったとしても。
重田先生、そんなに変な文章書く人じゃないのにね。
解答が割れるなら、それは悪問としか言いようがない気も………。
今後、能動的な解釈が主流となるのであれば、部分ではなく全体感を大きく捉えるような、そういった流れになっていってほしいですね。
部分を抜き出して、さらに歪ませて解釈してしまう人を今まで多く見てきたので。
自説の補強のために著者の権威を笠に着るのであれば、客観的な読解、もしくは、せめて全体感を捉えた解釈であってほしい、と個人的には思います。
以前外国で外国人と魚料理を食べて魚の種類を聞いたら「種類なんか知らない、fishだ、気にしたこともない」みたいなことを言われたことがあります。昔(今もかも)の日本では鳥はカラスとかニワトリって種類を気にしていたけど犬や猿の種類は気にしてなかったんでしょうね。お話すごくおもしろかったです。
30年前も似た話を聞きました。
笑うに笑えません。
既に慶應の小論文で実施されてるような・・・
つまらない内容なのに、ケイジの口から述べられるとついつい最後まで見てしまうわ!それでなんでそんな上手いのかと聞いたら、生まれた時からと淡々と流される〜
法律(憲法)でさえ複数の解釈ができちゃうのだからそりゃそうだ
今日もですが、電車、バスの中で、みんなスマホ、ネットの世界に没頭されています。
こんな、そんな時代に僕は反抗したいので、僕は電車、バスの中で紙の本を読んでいます。
そんなアナログな自分は、たぶん、カッコイイんだと自分に言い聞かせて😂
宋先生、いつも貴重な動画配信、ありがとうございます🙏
今日もバス、電車の中で、みんなが服を着ている。そんな中、全裸の俺かっこいいと自分に言い聞かせる今日もありがとう。
ブログにしてもSNSにしても出版にしても、自分の手を離れたら自分が書いたものじゃない気がするんですよね。
逆に自分の放ったツイートが巡りめぐって、「なんか面白いもん読んだなあ。。。てか、書いたの俺じゃんwww」ってなることあるね。
質問です。
これ結局、現代文は、「その評論や小説を作問者がどのように解釈しているか」を問われているということでしょうか?
そしてそれは、「作問者がどう思うか?を学生が問われているということ」自体が読解とは程遠い世界になってしまうのではないでしょうか?
以前、オードリーの若林さんの文章が大学入試で使用され、実際に本人が解いた所、全く合わなかったことがありました。
確かに、動画で指摘されている通りある程度は仕方ないと思いますが、「全く合わない」というのはそれはそれで釈然としない所もあります。
誰だって自分が書いた文章を異なる解釈されたら腹が立つのは当然ですし、それによって他者の人生に大きく影響するなら尚更だと思います。
上手く質問出来ているかは不明ですが、よろしくお願いいたします。
3,40年前から入試問題でよく見かける開かれたテクスト論を一席ぶちたい気持ちも推察いたしますが、物語と論説を混同して論じるのは極めて不適切です。
個々の読者が文化的背景や教育程度、或いはもっとそのようなコンテクスト性・間主観性を突き詰めて各の人生経験自体によりテクストの受容のされ方が異なるのはその通りなのですが、現実には閉じられたテクストも存在します。
また同時に動画内で例示されている史的展開から再話を解説しようとする姿勢も誤解に基づいていることを指摘します。
実際は法文を考えればわかりますが、紀元前2000年頃のハンムラビ法典も解釈の余地を許していませんし、前1200年頃の銀の条約の講和条項も一つの解釈を離れることを許してはいません。
日本国内でも格式の布告文等で解釈の余地を潰し解釈を統一する試みを行っていますし、法解釈を示す役人を地方に置き伝聞する場合も個人に対して解釈の余地を許していませんでした。この制度設計は古代ギリシア以来中世までのヨーロッパでも当てはまることです。
これは現代の裁判形式も同様で法文自体はある程度解釈の余地があっても、要件事実を斟酌し判例により一つの解釈へと収斂させることが法の基本精神です(予測可能性と適正手続を実現させ日本国憲法でも謳われている自由主義を擁護するはたらき)。
さて本動画配信の目的たる入試問題(煩瑣になっては宜しくないでしょうから動画内で紹介された設問1のみ)に軸足を移しますが、重田先生の糾弾は極めて真っ当なものであると言わざるを得ません。
今回の設問で問題になった部分は、フーコーに関する前提知識があれば1+1というような計算規則レベルで解釈の余地がないテクストであり、フーコー研究者であれば10人中10人が「ハ」を選びます。
しかし重田先生が譲歩しているように学部の解答も間違いとは言い切れないですし、問題文だけを抽き出せば予備校の解答が正解であるでしょう。
要するに、重田先生は「大学の(想定)正答も予備校の解答も間違いではない」(消去法で絞れない)のにも関わらず、何故大学側の(想定)正答のみが正しいのか説明せよと質問状を送付したのです。
つまり作者である重田先生側が開かれた解釈を許容しているのに対して、早稲田大学側がそれを拒否したのです。
それに対する宗さんの本動画は、主客を顛倒させてしまっておりはっきり申し上げて状況を「誤読」していると非難されても仕方がないです。
或いは参考として自らが挙げた文章にすら目を通していないからこのような頓珍漢な解説動画をアップロードしてしまうのでしょうか?
結論としては、今回の事例では早稲田大学の作問ミスであることに疑いの余地はないのです。
解釈がズレる→書き手が悪い と思ってしまいます
なわけねーだろ
テストにするには良くない文章だとは思うけど、テストにしてもらうために書く人なんていないしそれだけで書き手が悪いと評価するのは違うと思いました。
小説なら問題ないけど、評論みたいな情報を読み手に伝えるのが目的の文章なのに読み手によって解釈が変わってしまうのは問題でしょう
お二人はアカデミックライティングとか習わなかったんですか?
@@ssusp 理系で論文は書きましたが、学校で習った評論文とは全然違うものと思ってしまいました…
でも確かにおっしゃるように、筆者の主張が正しく伝わらなければ本を書く意味が大きく薄れますね。
@@ssusp 問題なのは元の文章を読みにいかないあなただと思うけどな。重田さんの主張を読めば「読み手によって解釈が変わる」なんて言葉は口が裂けても出てこないはずだけど。大学で元の文章に当たる重要性を学ばなかったのですか? リンクが貼ってないので不親切だと思いますが、元記事のタイトルは概要欄にあるわけで、コピペして検索すればすぐに読めますよね。なぜそんなに怠惰なんですか? 自分勝手な思い込みをゼミや卒論で主張したら、担当教官にボコボコにされると思いますけど
単純に、著者の意図を問うのが無意味なだけ。そんな問題を個別学力検査などで出題している大学があるのだとしたら、その作問に関わった人達は愚かです。
活版印刷だとかピントハズレの話をぐだぐだ話してるが、実作者と内包された作者の違いの話。
個人的には、入試問題だから、一種のゲームだからと言って、本意でない解釈を正とされるなら実作者はたまったものではないと思う。
執筆者と作問者の間で齟齬が起きてるなら執筆者の技量不足だと俺は思う。作問者だって一端の大学しかも国内最高峰の教授だぞ。その教授が解釈できない論理だったのならそれは執筆者が悪い。
重田先生らしい。
文章を書いた人は、ちゃんと言いたいことを伝えるべく説明責任があると思います。色んな解釈ができる玉虫色の文章を書くことが問題だとされるべきかと思います。
午未申酉戌