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大変楽しく拝聴しています!2年前出雲と大和王朝等何冊か買って、出雲王国に興味津々ですね^_^松江、出雲は何回も行ってますが、不思議な魅力を感じてます!どこか大陸の雰囲気を感じるのは私だけでしょうか?この様な話しを見聞きすると、出雲族なり徐福なりの子孫の残像を探し地元の人達の人間観察をしてしまいますね^_^まだ全てを見てないのでこれからこのチャンネルを参考に悠久の古代の旅をしたいと思っています!
私も出雲富家の口伝伝承の本を読む様になって今までと違う視点で特には出雲ですが、ヤマトも吉備も九州もですが全く違う視点で見れる様になりましたそしたら今まで訪ねた所に再度行ってみたくもなったり表に出ている神社の由来や歴史、また色んな方々の解説が薄っぺらくアホらしくさえなって来ました、勿論オフレコのここだけの話ですがとは言え私もまだまだ勉強不足で後から知る事も多く不完全な動画も有りますがまあ、成長過程も分かってもらえてそれも良いかと思っていますコメントありがとうございましたこれからもよろしくお願いします
前回の野見宿禰の動画、ちょっと忙しくてコメントできなかったのですが、続きが智伊神社〜久奈子神社とお聞きし、楽しみにしておりました。伝承本の記述はとても生々しく、王国滅亡の様子が目に浮かぶようです。久奈子神社からの眺め、ありがとうございました。眼下に広がる出雲平野と、向かい側の島根半島。見たかった景色です。東王家の神魂神社のように、占領軍に没収された王宮ですが、智伊神社は杵築大社の鍵を保管する役割と言われているようなので、物部王朝の衰退とともに、西王家に返してもらえたのでしょう。火継神事に関しては、【出雲と蘇我王国】に詳しく説明されていますから、また、どこかで動画のご紹介、お願いしますね。出雲にありながら、高皇産霊神がご祭神とは、葛城における高天彦神社と同じですね。あそこも西王家系の神社の中に、ポツリと天孫系のご祭神が突然、現れます。村雲をお祀りする神社であろうと理解できたとき、すんなり腑に落ちましたが、こちらも同じでしょう。元々はサイノカミのクナト大神・サイヒメをお祀りしていた王宮であったでしょうが、王国滅亡後は、その血統はヤマト政権に続いていったことを表しているように思えます。村雲は大国主のひ孫であり、立派に西王家の血筋です。比布智神社には【大歳神=五十猛】もおられましたね。大国主の孫です。サイノカミの陰陽石からヤマト政権へと続く歴史の変容が、大河の流れのように淡々と美しく流れてゆくさまが感じられます。王国が滅亡しても、その血統はずっと続いているということです。東王家は事代主の血統が、西王家は大国主の血統が、ヤマト政権を生み出しています。クナト大神とサイヒメがイザナギとイザナミになっても、同じことだったということです。随分と流れを理解されて、とても分かり安い動画になっていますね。【出雲と蘇我王国】は近代まで描かれていて、その雄大な時の流れに圧倒されます。わたしもまだまだ消化できていませんが、これからの楽しみでもあります。第二次東征でしたら、勝友彦氏の【魏志和国の都】がとても詳しく描かれています。こちらもオススメです。【出雲と蘇我王国】には、狭穂姫のエピソードが書かれていませんでしたね。こちらを読むと、正史が何故、【狭穂姫・狭穂彦の乱】を記したのか、その背景が分かります。出雲口伝の凄いところは、あちこち各地の出来事や正史の記述がどんどん繋がってしまうことですね。現場のレポートいつもありがとうございます。
いつもいろいろありがとうございます最近はコメント頂いている内容がほぼ理解できる様になり、やっと足元に及んだ感じで自分自身の成長を感じます第二次物部東征の中で、ヒミコが安芸の宮島で亡くなって宇佐神宮の第二殿に祀られた、と書いてあり、以前からの宇佐神宮の謎が、それこそストンと落ちましたあの方達の本はいつもそうですけどすごい事がサラッと書かれている私にとってはアソコが一番あの本のご利益の様に思います出雲を調べて宇佐が分かるまさに歴史の縦軸と距離フィールドのプラットフォーム、それぞれを立体空間にすれば全てが繋がり交わる面白いものだと再認識させて頂きましたありがとうございましたおススメの本も買います
@@kanji-kun1280さま宇佐公康氏の宇佐家に伝わる口伝でも、「神武天皇と菟狭津媛が東征中に宮島で亡くなった」と記されているんですよ。応神天皇が宇佐家の血統であるというのも一緒ですね。表現は違うのですが、言いたいことが同じなのです。このように別々の伝承が重なってゆくのは面白いですね。
ありがとうございましたその宇佐家に伝わる口伝も読んだ事がなく知りませんでしたやっぱり神武東征は第二次物部東征で良いって事ですね安芸の国での神武天皇は不思議と出雲との関わりのある伝承が多いので不思議に思ってましたスッキリしましたありがとうございました
@@kanji-kun1280さま神武東征とは、第二次物部東征だけではなくて、第一次・第二次東征と、東征しなかった初代大王の背景をしっかり綴っています。紀の川と熊野を通るのが、第一次東征。日向・宇佐・瀬戸内を通るのが第二次東征。描けなかった初代大王の周りの人たちは、東征中に出会う人たちとして綴られています。登場人物、凄いですよ。✱椎根津彦→【天御蔭】 海部家の4代目であり、 村雲の子。 籠神社さんに亀に乗った像が あります。 【海部氏】になります。 倭宿禰命ですね。✱井氷鹿→【伊加里姫】 天御蔭の母であり、 村雲の妃。 尾のはえた人→「尾の有る人」 つまり、尾有り→【尾張氏】✱石押分之子(吉野の国栖の祖) →クズ【葛】=【葛城氏】 初代葛城國造は【剣根命】 村雲のことです。 つまり、葛城氏とは 村雲の子孫を指します。✱贄持之子(阿陀の鵜養の祖) →五瀬命✱八十建(尾の生えた土雲)神武天皇に逆らった土雲たちは、尾の生えた【尾張氏】であり、【天村雲 ⇄ 土雲】村雲の子孫たちです。高天彦神社に蜘蛛窟があるわけです。【八十建】とは、【八千矛・八重波津身】を彷彿させます。✤高倉下→村雲の兄弟 神武天皇に献上する剣は 村雲を暗示させます。 【紀伊国造家】になります。五瀬を除いたら、村雲の子孫たちがしっかり記されているのです。東征軍の前に現れた【土雲】たちの象徴です。東征以前のヤマト政権創設時の重要人物の名を第一次東征に入れて、残してあるのですね。物語は創作ですが、ひとつの言葉に色んな意味をかけ、暗示がしてあるのです。和歌の手法ですね。一人のキャラクターに複数の人物が入れてあったり、反対に一人の人物を複数のキャラで描いたり…縦横無尽に凄い発想で驚くべき世界が展開します。作者の豊かな才能が感じられます。
神武東征は第一次と第二次物部東征のミックスだと読み進むうちに思う様になりましたそしてこの様な物語の作者、松本清張さんを軽く超えてますねやっぱAIの仕業としか考えられない又は不比等君には宇宙人の友達がいたトミーリージョーンズでしょう
最近比布智神社に行ったとき、社のない松尾神社(大山咋の神)の正面を登ると、お稲荷さんがあり、右手を更に進むと広い円形の広場がありました。こっちが本体なのではとおもってますが。神社以前からのことも考えてしまうので、発信したり受信したりする役目が、石とともにあったのかと思いました。智伊神社の大山祇様(社の下の石に十字架が掘られているのもすごい)、大神神社と三島系との関係もこの二社は興味をひきます。信仰の歴史が違う気がします。今回も大元出版様の復習になりました。ありがとうございます。
お稲荷さんまでは私も行きましたが、その奥の広場迄はわかりませんでした神社の裏山は何処も興味深くてついつい覗いてしまいますよね気持ち分かりますまた、覗くと必ず何かがあるんですよねそれが面白いと言うかちょっとした醍醐味でもありますよねコメントありがとうございましたこれからもよろしくお願いします
@@kanji-kun1280 十字架は三輪の方でした。石は上塗りの歴史で、あとは跡地の滝のあたりをみたら何かわかるかもですね。保知石をホチ石と読めば、アメノミナカヌシが浮かび上がって、北辰信仰の跡がこの辺りにはみえますが。出雲古志氏という一族が1570年までいたと、久奈子神社の栗栖山城の跡地の説明文にありました。また、楽しみにしています!
ありがとうございます元の跡地の滝の辺り私もも興味がありますコメントありがとうございました
前3世紀後半、事代主は糸魚川ヒスイ豪族の娘・ヌナカワ姫を妃とする。7代主王・天之冬衣、8代主王・大国主は出雲人を引き連れて河原田川河口の湿地滞(輪島朝市)を開拓した。重蔵神社で二人が祭神として祀られている。 旧 出雲国地でも富家古墳造りにコシの人々が労働力として来ている。彼らが住み着いたところに、「古志原」「越前」「福井」の地名が付いている。4000年以上前は能登半島を経由して出雲族となった。古代から継体天皇へと出雲とコシの人々との継がりは深いと考えられる。
ありがとうございましたさっきたまたま出雲と蘇我王国の本読んでましたら、古志原の事書いてありました、必要なところだけの虫食い読みですので気付きませんでした古志原の人達は古墳作り、出雲の古志町の人達は河川工事の人達は先進地出雲での技能研修のような感じですかね松江市の佐太神社の南の古志町の人達は何の技術集団だったのですかね?気になりますね
6世紀古志里の首長・古志佐与布(こしさよう)は宝塚古墳に埋葬された。また古志氏は代々比布智神社の社家であった。古志家⇒春日家⇒野上家とその血筋は続いている。
そうなんですか古志とは元々は越の国の人達、要するに地名だったのでしょうけどやはり後には人の姓になった訳ですねでも元々越の国では古志の字が当てられていた事があるのですかね?また宝塚が出てきましたが何故宝塚なのですかね?不勉強で申し訳ないですが又ご教示よろしくお願いします
突き出た形の最も高い山を、サルタ彦大神坐す山とし鼻高山(536m)と呼ばれた。遥拝地は久那子ノ丘と大津斎谷の弥生ノ森でした。後者地は、軍事訓練場、後に四隅突出型墳丘墓が築造されたと、伝わる。
島根半島の山はどれも面白そうですね弥山も鼻高山?でしたか、又東の旅伏山でしたか一度登ってみたいと思いながら様子が分からず登れて無いのが心残りですいろいろありがとうございました
弥山、旅伏山は鼻高山より標高低く形も異なります。鼻が突き出た形(サルタ)536mの山で、北山山塊で最も高いと共にサルタ彦大神坐神名備山にふさわしい。
蘇我王朝と三国国造(ソガ家)は出雲に積極的に労働力を送った。その集団長の古墳が安来市飯梨「岩舟古墳」、祀られた神社が宗賀(ソガ)神社です。現在は祭神・スサノオ、奈賀江神社と変わっている。富家次男・彦太殿(後の継体)は、王川河口に大型の貿易船を所有していて栄えた。ソガ家・振姫に婿入りしてからも、貿易船は国内や朝鮮ともフル交易したと考えられる。
そうなんですか大型船での貿易ですか結構進んでいたんですね古代人を軽くみてはいけませんねありがとうございました
6世紀に神門家の古墳造りにコシ国からやって来て大半が住み着いたので、この地方は「古志」の地名となった。サルタ彦大神坐す山は、北山山脈で鼻が突き出た形の最も高い「鼻高山」です。知伊神社境内の比布智神社は、「又比布智社」と元は言い、下古志町比布智神社と共に2社は日淵川源に鎮座していた。比布智神社はイザナミ(サイ姫命)・イザナギ(クナト大神)・オオヒルメムチ神(太陽女神・天照大神)の三柱を祭神として、古代から続く歴史的神社です。
いろいろ詳しい情報ありがとうございます一つ教えてください越の国では古墳技術や河川の堤防作りの技術がそんなに進んでいたのでしょうか土器についてはその線がなくも無い様にも思えますけど又ヒスイとか勾玉作りとの関連もあるでしょうけどだとしたらもう少し東に住むだろうと思いますその辺どうなんでしょうか?よろしければ教えてくださいよろしくお願いします
@@kanji-kun1280 さま横からすいません。越と出雲は親戚なんですよ。なので、出雲の古墳を造るときには越から応援が来て、反対に越に古墳を造るときには、出雲から沢山の人たちがそちらへ移住して手伝ったと記されています。人手が必要だったのでしょうね。四隅突出型墳墓があるのは出雲と越ぐらいだと思います。出雲王家の親族でしょうね。こういう流れがあって、継体天皇へと繋がってゆきます。
@@mayumi3300様ご丁寧に説明頂き助かります多分その様な事でしょう、と私も思いますがもう少し何かが物足りなく思うのは今の話しは出雲市の古志で、松江市にも半島側の佐太神社の南にやはり古志町があり市内の松江東ICの近くに古志原だったか見た事あります同じ時代の事だと考えればややこしいですがヒスイ、勾玉、土器、石組み、と時代毎の特殊技術集団でありその集団は全国からの情報網的役割だった?例えば、平安時代の木地師であったり石組みの穴太衆であったりのような、財筋もそのような組織だったのかどうか分かりませんがそんなかれらの隠れ蓑として古志集団があったのでは無いかと・・・漠然と思ったりしています
@@kanji-kun1280 さま面白いです。ありかもですね。
四隅突出型墳福井にあります。んで 船で交流してたんでしょうね。のちの北前船みたいに 人 物 文化もね
ホツマツタエでは説明していますよ先生、夫婦神はイザナギさまとイザナギさまだけじゃないのにびっくりです
そのようですね記紀神話にも聞いた事無いような神様沢山いるんですね何も出番の無い控え?二軍の神様?忘れられている神様?なんでしょうね
@@kanji-kun1280 先生、僭越ながらホツマツタエは縄文時代からの物部氏や古代神代文字や住吉大社さんは住吉さまなど天照さまを男性神として妻、瀬織津姫さまで朝廷に反乱するハタレなど説明されています。夫婦神がイザナギ、イザナミだけじゃない事説明しています。また宇宙の概念と陰と陽で成り立つ生命や物質説明してました。研究者先生が沢山いました。アワウタや大祓い祝詞やさまざまな祝い祝詞も解説してました
一応、振根は死んだことにしてるけど、八瓜入彦王(八釼入彦大根王)を連れて、茨木県常陸太田の長幡部神社まで逃げてるはずですよ。最終決戦は香取で、生き残りの人の村も残ってます。振根様は、ウィキペディアで調べると11代出雲祭祀になってて、野見宿祢様が13代になってますね。この辺も嘘ですかね?石も、もともとパワーストーンは出雲石ですね。大学の研究所(たぶん奥羽大学)で、成分研究しても、地球上にない物質みたいでしたよ。
私にもよくわかりませんが、あの頃の事はウキペディアはあまり意味がない様に私は思っています、一般的には、と言う程度の位置付けだと思っています振根さんの話し、弁慶とか信長とか明智光秀の様に死んだ事になっているけどみたいに話があると言う事は、結構重要人物だったって事でしょうねいろいろありがとうございましたこれからも楽しい考察よろしくお願いします
家は大国主神門臣家系統なので滅んだ側で同時に阿遅須枳高日子根の子孫でもあるので八咫烏の一族だから、神門振根=(倭健=日本武)の子の神門伊賀曽熊の末子、島津(志摩)国造家の島(直)氏=斯摩宿禰と成りますね。
そうなんですかコメント主様のお家がその様な家系のお家の方だと言う事なのですねやっと理解出来ましたなので、その辺りの事にやたらと詳しすぎてレベルが噛み合って無かったわけですかいろいろありがとうございます今後ともよろしくお願いします
コシ国から来た労働力集団首長・古志左与布は「宝塚古墳」(神門川堤防活用した)に眠るとされています。地名古志の由縁。
宝塚のそこに私は行った事が無いのでそうなんですか、としかお答え出来ずすいませんコメントありがとうございました
伊がつく神社は元は四国羽がつく神社は天皇家
独特の視点からの統計ですか面白いですねその先があれば教えてくださいありがとうございました
大変楽しく拝聴しています!2年前出雲と大和王朝等何冊か買って、出雲王国に興味津々ですね^_^松江、出雲は何回も行ってますが、不思議な魅力を感じてます!どこか大陸の雰囲気を感じるのは私だけでしょうか?この様な話しを見聞きすると、出雲族なり徐福なりの子孫の残像を探し地元の人達の人間観察をしてしまいますね^_^まだ全てを見てないのでこれからこのチャンネルを参考に悠久の古代の旅をしたいと思っています!
私も出雲富家の口伝伝承の本を読む様になって今までと違う視点で
特には出雲ですが、ヤマトも吉備も九州もですが全く違う視点で見れる様になりました
そしたら今まで訪ねた所に再度行ってみたくもなったり
表に出ている神社の由来や歴史、また色んな方々の解説が薄っぺらく
アホらしくさえなって来ました、勿論オフレコのここだけの話ですが
とは言え私もまだまだ勉強不足で後から知る事も多く不完全な動画も有りますが
まあ、成長過程も分かってもらえてそれも良いかと思っています
コメントありがとうございました
これからもよろしくお願いします
前回の野見宿禰の動画、
ちょっと忙しくて
コメントできなかったのですが、
続きが智伊神社〜久奈子神社とお聞きし、
楽しみにしておりました。
伝承本の記述は
とても生々しく、
王国滅亡の様子が目に浮かぶようです。
久奈子神社からの眺め、
ありがとうございました。
眼下に広がる出雲平野と、
向かい側の島根半島。
見たかった景色です。
東王家の神魂神社のように、
占領軍に没収された王宮ですが、
智伊神社は
杵築大社の鍵を保管する役割と
言われているようなので、
物部王朝の衰退とともに、
西王家に返してもらえたのでしょう。
火継神事に関しては、
【出雲と蘇我王国】に
詳しく説明されていますから、
また、どこかで動画のご紹介、
お願いしますね。
出雲にありながら、
高皇産霊神がご祭神とは、
葛城における
高天彦神社と同じですね。
あそこも
西王家系の神社の中に、
ポツリと天孫系のご祭神が
突然、現れます。
村雲をお祀りする神社であろうと
理解できたとき、
すんなり腑に落ちましたが、
こちらも同じでしょう。
元々は
サイノカミの
クナト大神・サイヒメを
お祀りしていた
王宮であったでしょうが、
王国滅亡後は、
その血統はヤマト政権に
続いていったことを
表しているように思えます。
村雲は大国主のひ孫であり、
立派に西王家の血筋です。
比布智神社には
【大歳神=五十猛】も
おられましたね。
大国主の孫です。
サイノカミの陰陽石から
ヤマト政権へと続く歴史の変容が、
大河の流れのように
淡々と美しく
流れてゆくさまが感じられます。
王国が滅亡しても、
その血統は
ずっと続いているということです。
東王家は事代主の血統が、
西王家は大国主の血統が、
ヤマト政権を生み出しています。
クナト大神とサイヒメが
イザナギとイザナミになっても、
同じことだったということです。
随分と流れを理解されて、
とても分かり安い動画に
なっていますね。
【出雲と蘇我王国】は
近代まで描かれていて、
その雄大な時の流れに
圧倒されます。
わたしもまだまだ
消化できていませんが、
これからの楽しみでもあります。
第二次東征でしたら、
勝友彦氏の
【魏志和国の都】が
とても詳しく描かれています。
こちらもオススメです。
【出雲と蘇我王国】には、
狭穂姫のエピソードが
書かれていませんでしたね。
こちらを読むと、
正史が何故、
【狭穂姫・狭穂彦の乱】を
記したのか、
その背景が分かります。
出雲口伝の凄いところは、
あちこち各地の出来事や
正史の記述が
どんどん繋がってしまうことですね。
現場のレポート
いつもありがとうございます。
いつもいろいろありがとうございます
最近はコメント頂いている内容がほぼ理解できる様になり、
やっと足元に及んだ感じで自分自身の成長を感じます
第二次物部東征の中で、ヒミコが安芸の宮島で亡くなって宇佐神宮の第二殿
に祀られた、と書いてあり、以前からの宇佐神宮の謎が、それこそストンと
落ちました
あの方達の本はいつもそうですけど
すごい事がサラッと書かれている
私にとってはアソコが一番あの本のご利益の様に思います
出雲を調べて宇佐が分かる
まさに歴史の縦軸と距離フィールドのプラットフォーム、
それぞれを立体空間にすれば全てが繋がり交わる
面白いものだと再認識させて頂きました
ありがとうございました
おススメの本も買います
@@kanji-kun1280さま
宇佐公康氏の
宇佐家に伝わる口伝でも、
「神武天皇と菟狭津媛が
東征中に宮島で亡くなった」
と記されているんですよ。
応神天皇が
宇佐家の血統であるというのも
一緒ですね。
表現は違うのですが、
言いたいことが同じなのです。
このように
別々の伝承が重なってゆくのは
面白いですね。
ありがとうございました
その宇佐家に伝わる口伝も読んだ事がなく知りませんでした
やっぱり神武東征は第二次物部東征で良いって事ですね
安芸の国での神武天皇は不思議と出雲との関わりのある伝承が多いので
不思議に思ってました
スッキリしました
ありがとうございました
@@kanji-kun1280さま
神武東征とは、
第二次物部東征だけではなくて、
第一次・第二次東征と、
東征しなかった初代大王の背景を
しっかり綴っています。
紀の川と熊野を通るのが、
第一次東征。
日向・宇佐・瀬戸内を通るのが
第二次東征。
描けなかった初代大王の
周りの人たちは、
東征中に出会う人たちとして
綴られています。
登場人物、凄いですよ。
✱椎根津彦→【天御蔭】
海部家の4代目であり、
村雲の子。
籠神社さんに亀に乗った像が
あります。
【海部氏】になります。
倭宿禰命ですね。
✱井氷鹿→【伊加里姫】
天御蔭の母であり、
村雲の妃。
尾のはえた人→「尾の有る人」
つまり、尾有り→【尾張氏】
✱石押分之子
(吉野の国栖の祖)
→クズ【葛】=【葛城氏】
初代葛城國造は【剣根命】
村雲のことです。
つまり、葛城氏とは
村雲の子孫を指します。
✱贄持之子(阿陀の鵜養の祖)
→五瀬命
✱八十建(尾の生えた土雲)
神武天皇に逆らった土雲たちは、
尾の生えた【尾張氏】であり、
【天村雲 ⇄ 土雲】
村雲の子孫たちです。
高天彦神社に蜘蛛窟があるわけです。
【八十建】とは、
【八千矛・八重波津身】を
彷彿させます。
✤高倉下→村雲の兄弟
神武天皇に献上する剣は
村雲を暗示させます。
【紀伊国造家】になります。
五瀬を除いたら、
村雲の子孫たちが
しっかり記されているのです。
東征軍の前に現れた
【土雲】たちの象徴です。
東征以前の
ヤマト政権創設時の
重要人物の名を
第一次東征に入れて、
残してあるのですね。
物語は創作ですが、
ひとつの言葉に色んな意味をかけ、
暗示がしてあるのです。
和歌の手法ですね。
一人のキャラクターに
複数の人物が入れてあったり、
反対に一人の人物を
複数のキャラで描いたり…
縦横無尽に凄い発想で
驚くべき世界が展開します。
作者の豊かな才能が
感じられます。
神武東征は
第一次と第二次物部東征のミックスだと読み進むうちに
思う様になりました
そしてこの様な物語の作者、松本清張さんを軽く超えてますね
やっぱAIの仕業としか考えられない
又は不比等君には宇宙人の友達がいた
トミーリージョーンズでしょう
最近比布智神社に行ったとき、社のない松尾神社(大山咋の神)の正面を登ると、
お稲荷さんがあり、
右手を更に進むと広い円形の広場がありました。
こっちが本体なのではとおもってますが。
神社以前からのことも考えてしまうので、
発信したり受信したりする役目が、石とともにあったのかと思いました。
智伊神社の大山祇様(社の下の石に十字架が掘られているのもすごい)、大神神社と三島系との関係もこの二社は興味をひきます。
信仰の歴史が違う気がします。
今回も大元出版様の復習になりました。
ありがとうございます。
お稲荷さんまでは私も行きましたが、その奥の広場迄はわかりませんでした
神社の裏山は何処も興味深くてついつい覗いてしまいますよね
気持ち分かります
また、覗くと必ず何かがあるんですよね
それが面白いと言うかちょっとした醍醐味でもありますよね
コメントありがとうございました
これからもよろしくお願いします
@@kanji-kun1280
十字架は三輪の方でした。
石は上塗りの歴史で、あとは跡地の滝のあたりをみたら何かわかるかもですね。
保知石をホチ石と読めば、
アメノミナカヌシが浮かび上がって、北辰信仰の跡がこの辺りにはみえますが。
出雲古志氏という一族が1570年までいたと、久奈子神社の栗栖山城の跡地の説明文にありました。
また、楽しみにしています!
ありがとうございます
元の跡地の滝の辺り私もも興味があります
コメントありがとうございました
前3世紀後半、事代主は糸魚川ヒスイ豪族の娘・ヌナカワ姫を妃とする。7代主王・天之冬衣、8代主王・大国主は出雲人を引き連れて河原田川河口の湿地滞(輪島朝市)を開拓した。重蔵神社で二人が祭神として祀られている。 旧 出雲国地でも富家古墳造りにコシの人々が労働力として来ている。彼らが住み着いたところに、「古志原」「越前」「福井」の地名が付いている。4000年以上前は能登半島を経由して出雲族となった。古代から継体天皇へと出雲とコシの人々との継がりは深いと考えられる。
ありがとうございました
さっきたまたま出雲と蘇我王国の本読んでましたら、古志原の事
書いてありました、必要なところだけの虫食い読みですので気付きませんでした
古志原の人達は古墳作り、出雲の古志町の人達は河川工事の人達は
先進地出雲での技能研修のような感じですかね
松江市の佐太神社の南の古志町の人達は何の技術集団だったのですかね?
気になりますね
6世紀古志里の首長・古志佐与布(こしさよう)は宝塚古墳に埋葬された。また古志氏は代々比布智神社の社家であった。古志家⇒春日家⇒野上家とその血筋は続いている。
そうなんですか
古志とは元々は越の国の人達、要するに地名だったのでしょうけどやはり後には人の姓になった訳ですね
でも元々越の国では古志の字が当てられていた事があるのですかね?また宝塚が出てきましたが
何故宝塚なのですかね?
不勉強で申し訳ないですが
又ご教示よろしくお願いします
突き出た形の最も高い山を、サルタ彦大神坐す山とし鼻高山(536m)と呼ばれた。遥拝地は久那子ノ丘と大津斎谷の弥生ノ森でした。後者地は、軍事訓練場、後に四隅突出型墳丘墓が築造されたと、伝わる。
島根半島の山はどれも面白そうですね
弥山も鼻高山?でしたか、又東の旅伏山でしたか
一度登ってみたいと思いながら様子が分からず登れて無いのが心残りです
いろいろありがとうございました
弥山、旅伏山は鼻高山より標高低く形も異なります。鼻が突き出た形(サルタ)536mの山で、北山山塊で最も高いと共にサルタ彦大神坐神名備山にふさわしい。
蘇我王朝と三国国造(ソガ家)は出雲に積極的に労働力を送った。その集団長の古墳が安来市飯梨「岩舟古墳」、祀られた神社が宗賀(ソガ)神社です。現在は祭神・スサノオ、奈賀江神社と変わっている。富家次男・彦太殿(後の継体)は、王川河口に大型の貿易船を所有していて栄えた。ソガ家・振姫に婿入りしてからも、貿易船は国内や朝鮮ともフル交易したと考えられる。
そうなんですか
大型船での貿易ですか
結構進んでいたんですね
古代人を軽くみてはいけませんね
ありがとうございました
6世紀に神門家の古墳造りにコシ国からやって来て大半が住み着いたので、この地方は「古志」の地名となった。サルタ彦大神坐す山は、北山山脈で鼻が突き出た形の最も高い「鼻高山」です。知伊神社境内の比布智神社は、「又比布智社」と元は言い、下古志町比布智神社と共に2社は日淵川源に鎮座していた。比布智神社はイザナミ(サイ姫命)・イザナギ(クナト大神)・オオヒルメムチ神(太陽女神・天照大神)の三柱を祭神として、古代から続く歴史的神社です。
いろいろ詳しい情報ありがとうございます
一つ教えてください
越の国では古墳技術や河川の堤防作りの技術がそんなに進んでいたのでしょうか
土器についてはその線がなくも無い様にも思えますけど
又ヒスイとか勾玉作りとの関連もあるでしょうけど
だとしたらもう少し東に住むだろうと思います
その辺どうなんでしょうか?
よろしければ教えてください
よろしくお願いします
@@kanji-kun1280 さま
横からすいません。
越と出雲は親戚なんですよ。
なので、
出雲の古墳を造るときには
越から応援が来て、
反対に越に古墳を造るときには、
出雲から沢山の人たちが
そちらへ移住して
手伝ったと記されています。
人手が必要だったのでしょうね。
四隅突出型墳墓があるのは
出雲と越ぐらいだと思います。
出雲王家の親族でしょうね。
こういう流れがあって、
継体天皇へと繋がってゆきます。
@@mayumi3300様
ご丁寧に説明頂き助かります
多分その様な事でしょう、と私も思います
がもう少し何かが物足りなく思うのは
今の話しは出雲市の古志で、松江市にも半島側の佐太神社の南にやはり古志町があり
市内の松江東ICの近くに古志原だったか見た事あります
同じ時代の事だと考えればややこしいですが
ヒスイ、勾玉、土器、石組み、と時代毎の特殊技術集団であり
その集団は全国からの情報網的役割だった?
例えば、平安時代の木地師であったり石組みの穴太衆であったり
のような、財筋もそのような組織だったのかどうか分かりませんが
そんなかれらの隠れ蓑として古志集団があったのでは無いかと・・・
漠然と思ったりしています
@@kanji-kun1280 さま
面白いです。
ありかもですね。
四隅突出型墳
福井にあります。んで 船で交流してたんでしょうね。
のちの北前船みたいに 人 物 文化もね
ホツマツタエでは説明していますよ先生、夫婦神はイザナギさまとイザナギさまだけじゃないのにびっくりです
そのようですね
記紀神話にも聞いた事無いような神様沢山いるんですね
何も出番の無い控え?二軍の神様?
忘れられている神様?
なんでしょうね
@@kanji-kun1280
先生、僭越ながらホツマツタエは
縄文時代からの物部氏や古代神代文字や住吉大社さんは住吉さまなど天照さまを男性神として妻、瀬織津姫さまで朝廷に反乱するハタレなど説明されています。夫婦神がイザナギ、イザナミだけじゃない事説明しています。また宇宙の概念と陰と陽で成り立つ生命や物質説明してました。研究者先生が沢山いました。アワウタや大祓い祝詞やさまざまな祝い祝詞も解説してました
一応、振根は死んだことにしてるけど、八瓜入彦王(八釼入彦大根王)を連れて、茨木県常陸太田の長幡部神社まで逃げてるはずですよ。最終決戦は香取で、生き残りの人の村も残ってます。
振根様は、ウィキペディアで調べると11代出雲祭祀になってて、野見宿祢様が13代になってますね。この辺も嘘ですかね?
石も、もともとパワーストーンは出雲石ですね。大学の研究所(たぶん奥羽大学)で、成分研究しても、地球上にない物質みたいでしたよ。
私にもよくわかりませんが、あの頃の事はウキペディアはあまり意味がない様に
私は思っています、一般的には、と言う程度の位置付けだと思っています
振根さんの話し、弁慶とか信長とか明智光秀の様に死んだ事になっているけど
みたいに話があると言う事は、結構重要人物だったって事でしょうね
いろいろありがとうございました
これからも楽しい考察よろしくお願いします
家は大国主神門臣家系統なので滅んだ側で同時に阿遅須枳高日子根の子孫でもあるので
八咫烏の一族だから、神門振根=(倭健=日本武)の子の神門伊賀曽熊の末子、島津(志摩)国造家の島(直)氏=斯摩宿禰と
成りますね。
そうなんですか
コメント主様のお家がその様な家系のお家の方だと言う事なのですね
やっと理解出来ました
なので、その辺りの事にやたらと詳しすぎてレベルが噛み合って無かったわけですか
いろいろありがとうございます
今後ともよろしくお願いします
コシ国から来た労働力集団首長・古志左与布は「宝塚古墳」(神門川堤防活用した)に眠るとされています。地名古志の由縁。
宝塚のそこに私は行った事が無いので
そうなんですか、としかお答え出来ず
すいません
コメントありがとうございました
伊がつく神社は元は四国
羽がつく神社は天皇家
独特の視点からの統計ですか
面白いですね
その先があれば教えてください
ありがとうございました