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あら懐かしい。
素敵です。懐かしいこの歌。このような歌、近頃無いですね。
セリフがかわいい!爽やかにもいじらしい女心、sayaさんのきれいな歌声が心に沁みます。
透き通るような情感がたまりません。ありがとうございます🙇♂️
おはようございます🌞水色の手紙💌素晴らしい歌声最高シビレル⚡⚡⚡これからも頑張って✊😃✊応援しています🙂❣️❣️❣️
便箋に綴られた言葉が躍り出るようなsayaさんの歌唱。言葉を本当に大切に思う心の力なのでしょうね。
透き通るようなお声、上品な主人公が浮かび感動しました。情景と心情が見えて、本当にラブリーです🎉❤
Le Coupleの「ひだまりの歌」と同じような歌詞で好きです。アナログな気持ちの伝え方が沁みます。
いつも聞かせてもらっています
あべ静江さん思い出しますね。綺麗なお姉様!
私が中学生の時に流行った曲です。 sayaチャンネルでは、「漂泊の旅路」のようにsayaさん以外の方が何かを語る曲(「漂泊の旅路」の場合は「祝詞」ですが)はありましたが、sayaさん御自身が台詞を語られた曲は初めてですね。sayaさんの語りはとても素敵でした。 もちろん歌の方も素晴らしく、とてもさわやかな気持ちになりました。どうもありがとうございました。
新しい動画お待ちしておりました。曲を届けていただけることには、sayaさんからのお手紙を受け取るような喜びを感じることができ幸せ一杯です。これからも素敵な歌声を届けてくださると嬉しいです。
おべべが斬新!朗らか、健気、ほんの少し見える寂しさ。sayaさんの心情、景色を捉える力はいつも素晴らしい。ありがとうございます。
新動画アップありがとうございます。一日も早く全動画視聴完遂を目指して頑張ります!😅
こんばんは😃🌃お久しぶりです。心が洗われる❗今日もありがとうございます。
おはよう御座います。美しい声に癒させてます。sayaさんの明日への手紙 聞きたいです♪
相変わらず、とても素晴らしい声、そして素晴らしい歌だ。
うひょ〜!懐かしいなぁ〜!さすがsayaさんだね。
絶世の美女のあべの静江さんが蘇ったようだ。見事です❤たまらーん、❤
素敵な歌ですねぇ。
とても良く練習されている声ですね
「逢えなくなって二月」の所が最高ですね。台詞とか、歌声とは違う色んな声ももっと聴きたい、そんな綺麗過ぎる声だからなぁ。Sayaさんも誰かに手紙を書くんだろうか?
非情に優しく良い声ですね。本家のあべ静江さんと互角の勝負が出来るかもしれません。
素敵素晴らしいですね😊😊❤
素敵な声ですね。惚れぽれします
いつも素晴らしい歌声をありがとう。だいぶ昔の歌ですが、「水色のワルツ高木東六作かな?」をリクエストします。ぜひsayaさんの歌声で聞かせてください。
saya さんも、あべ静江さんも綺麗です。あべ晋三さん来てください♪
😭ハートを締め付ける sayaちゃんのクリタルボイス💞 もし冒頭のセリフを 耳元でsayaちゃんに言われたら〜😅このオレは熱にうなされ 3日間は寝込むだろう😅 sayaちゃん❤ 永遠の嫁さん候補NO1〜🎉 🌸夜桜亭タカ🦅
優しい声だね!イタリア人から私😊、桜色舞うころ歌って下さい!❣
高校生の時、少しお姉さんだったあべ静江に憧れました。
❤❤❤
沙耶、歌上手くなったな〜NHKで流れてるのより良い😮
👍
💐全てが超素敵な淑女様ですね!もし許されるならば夢の中だけでも良いよ俺のロイスで一日中ドライブ👍感謝感激感動申し上げます。🙇
元気ないぞい!特に霜が...(=゚ω゚)ノ
感想に代えて「光と風のクリエ」金大偉著 和器出版 2017年7月7日 初版色を見る、色を楽しむ、ルドン、マティス世界の巨匠たちの名画をはじめ、近代絵画の数々を「色彩」をキーワードに紹介する「色を見る、色を楽しむ。」展が9月18日まで、東京・ブリヂストン美術館で開催されている。ルノワールやモネ。ピカソらなどの約170点を公開。マティスの挿絵本「ジャズ」の版画やルドンのグラフ展「「夢想」を中心に、色彩の魅力を感じてもらう企画室となっている。「色」は、その色が刺激になって、観る者にさまざまな内面感情を生む。極めt個人の情感や感覚によって、色彩の認識に対する自由度やあいまい性も高い。またさまざまな内面感情を生む。きわめて両人の情感や感覚によって、色彩の認識に対する自由度やあいまい性も高い、また特有の色彩着では、その国や民族の文化課的条件の中でのみ理解され、適用する。色の意味は、地域の風習によって「自然形成」する場合と、国やシステムによって「強制形成」する場合もある。その約束された色紙の象徴性が広範囲でコミュニケーションに使われることが可能と考えられる。絵画の色彩は、観て楽しむと同時に、作品の存在する意味を伝えるという役割があって、象徴的な約束事が非常に大きな力を発揮する。例えば、赤という色は、激情、相、革命などの象徴性を持つ。使われ方によって、表現する意味がことなるのだ。今回のルドンの「夢想」という作品では、木炭や版画で白と黒の幻想的な世界をつくり、「黒」の画家として評価された彼の色彩観が神秘的な個性を呼び起こす。また色彩の魔術師と言われたマティスは、物体をその固有の色から解放し、自由な色使いで、空間、物体、色彩などすべての絵画的要素を単純化し、さらに抽象化したことによって、彼の独自の色彩世界を生み出したと言える。印象派は、写実主義の行き詰まりを背景に、見たとおりに描くのではなく、光によって変化する色彩の世界を描くとして登場した。これは資格革命と言われて、19世紀後半の色彩概念を変えた芸術運動である。以後、色彩の世界が大きく変化した。また、現代芸術から現在まで、色彩使用において、様々なスタイルと方法が生まれ、無限大な方言自由度が開かれたと言える。さらにCG(コンピューターグラフィック)の色彩表現も無視できない。現代社会はむしろ色彩の洪水であり、構築された色彩の世界である。一方で、色彩は「救い」を意味する。色は、人間にとって感情を表現する言葉である。豊かな色彩を求めて、感情を自由自在に表出する。色は、人間にとって感情を表現する言葉である。豊かな色彩を求めて、感情を自由自在に表出するおとが「生きる」ことにつながり、色彩の喪失は「心の死」と連結するのであろう。色彩は、人々の本能的な部分を覚醒させ、無限な想像力を喚起し、ゆえに「自由」という大きなイメージが生まれる。その力が自己の創造的な視点や方向性を導いてくれる。新しい色の出現は、まさに光のきらめきの中によって調和され、存在するのであろう。(2013年9月1日)
オディロン・ルドン(Odilon Redon、1840年4月20日(4月22日とも) - 1916年7月6日[1])は、19世紀後期から20世紀初期にかけて活動したフランスの画家である。本名はベルトラン=ジャン・ルドン(Bertrand-Jean Redon)。ボルドーで生まれ、同地及び近郊の町で育つ。生涯オディロンは、1840年4月20日、南フランスの大都市ボルドーで生まれた。ファーストネームの第一構成名「ベルトラン」は、父ベルトラン・ルドン(Bertrand Redon))のファーストネームを引き継ぐ形で命名された。しかし、もっぱら用いられたのは母マリーの通称「オディーユ (Odile)」に由来する愛称「オディロン (Odilon)」で、自他ともに終生この名を用いた。裕福な家庭であったが、生後2日目にしてボルドー近郊の町ペイル=ルバード(Peyre-Lebade、シャトー・ペイル=ルバード)へ里子に出され[2]、11歳までの少年期を寂しい田舎の地で親元を離れて過ごしたとされる。病弱で内向的な子供であったという。子供の頃から絵を描き始めるが、父親の意向もあって、建築家となるべくエコール・デ・ボザールの試験を受ける。しかし合格することは叶わず、建築の道は諦めざるを得なかった。なお、弟のガストン・ルドン(英語版)は長じて建築家となり、世に作品を残している。20歳の頃、植物学者アルマン・クラヴォー(Armand Clavaud、1828-90年)と知り合い、顕微鏡下の世界に魅せられるようになる。のちにオディロンが制作した版画には植物学の影響が見られる。版画集『夢の中で』はクラヴォーに捧げたものであった。1864年、パリに出てジャン=レオン・ジェロームに入門するも、数か月でやめ、ボルドーに戻って放浪のボヘミアン画家として知られた銅版画家ロドルフ・ブレダン(英語版)の指導を受ける。また、1878年頃にはアンリ・ファンタン=ラトゥールから石版画(リトグラフ)の指導を受けている。1870年、普仏戦争に従軍。1872年からパリに定住する。1879年、初の石版画集『夢の中で』を刊行した。1880年、若いクレオールの女性カミーユ・ファルテ(Camille Falte)と結婚。1882年には、ル・ゴーロワ(英語版)新聞社で木炭画と版画による個展を開催している。また、ユイスマンスらに注目されている。エドガー・アラン・ポーの作品を意識した2番目の石版画集『エドガー・ポーに』を刊行したのも、この年であった。1886年には待望の長男ジャンが生まれるも僅か半年で夭折し、落胆したオディロンの画風は以前にも増して鬱々としたものになっていった。しかし、3年後の1889年に次男アリが生まれたことで、オディロンの人生模様は一変する。画業についても1890年頃から作風が大きく変化し、豊かな色彩を用いるものになった。1904年、65歳の時には、レジオンドヌール勲章の受章者になった。1913年には、米国のアーモリーショー(米国におけるヨーロッパ現代美術紹介の展示で、マルセル・デュシャンも出品していた)で1室を与えられ、展示した。1916年、第一次世界大戦が激化する中、兵士として招集されていた次男アリが消息不明になってしまい、ルドンは高齢の身をおして各地を探し回ったが、無理が祟って風邪を拗らせ、パリの自宅で死去した。なお、アリはその後生存が確認され、1972年に83歳で死去した。題材と作風オディロン・ルドンは印象派の画家たちと同世代であるが、その作風やテーマは大きく異なっている。光の効果を追求し、都会生活のひとこまやフランスのありふれた風景を主な画題とした印象派の画家たちに対し、ルドンはもっぱら幻想の世界を描き続けた。象徴派の文学者らと交友をもち、象徴主義に分類されることもあるが、19世紀後半から20世紀初頭にかけてという、西洋絵画の歴史のもっとも大きな転換点にあって、独自の道を歩んだ孤高の画家というのがふさわしい。初の石版画集『夢の中で』の頃から当時の生理学や科学が投げかけていた疑問・問題意識である不確かな夢や無意識の世界に踏み込んだ作品を多く発表した。それらは断頭や目玉など、モノクロの版画であることもあって絶望感もある作品群であるが、人間の顔を具えた植物のようなものや動物のような顔で笑う蜘蛛など、どこか愛嬌のある作品も描いた。鮮やかな色彩を用いるようになったのは50歳を過ぎてからのことで、油彩、水彩、パステルのいずれも色彩表現に優れているが、なかでも花瓶に挿した花を非常に鮮烈な色彩で描いた一連のパステル画が知られる。日本国内では岐阜県美術館がルドン作品を数多く所蔵している。代表作眼=気球(1878) ニューヨーク近代美術館蔵自画像(1880)オルセー美術館蔵蜘蛛(1887)岐阜県美術館蔵閉じた眼(1890)オルセー美術館蔵シタ(1893)シカゴ美術館蔵キュクロプス(1898-1900頃)クレラー・ミュラー美術館(オッテルロー)蔵丸い光の中の子供(1900頃)新潟市美術館蔵オフィーリア(1901-02頃)岐阜県美術館蔵仏陀(1904)オルセー美術館蔵オルフェウスの死(1905-10頃)岐阜県美術館蔵ペガサスに乗るミューズ(1907-10頃)群馬県立近代美術館トルコ石色の花瓶の花(1911頃)個人蔵版画集黙示録(1899年)
アンリ・マティス(アンリ・マチス、フランス語: Henri Matisse, 1869年12月31日 - 1954年11月3日)は、フランスの画家。フォーヴィスム(野獣派)のリーダー的存在であり、野獣派の活動が短期間で終わった後も20世紀を代表する芸術家の一人として活動を続けた。自然をこよなく愛し「色彩の魔術師」と謳われ、緑あふれる世界を描き続けた画家であった。彫刻および版画も手がけている[1][2]。生涯マティスの実家のファサード1869年、フランス・ノール県のル・カトー=カンブレジ (フランス語 Le Cateau-Cambrésis) に、豊かな穀物商人の長男として生まれる[3]。その後一家はピカルディ地域圏のボアン=アン=ヴェルマンドワへと移動し、彼はそこで育った。1887年、父の命でカトー=カンブレジの裁判所の管理者の資格を得るためにパリへと出て法律を学び、翌年法科資格試験に合格した。その後しばらくはサン・カンタンの法律事務所の書記として働いた[4]。1889年、盲腸炎の療養中に母から画材を贈られたことで絵画に興味を持った。後に本人のいうところでは「楽園のようなもの」を発見した[5]マティスは、画家に転向する決意をする。この決意は父親を非常に失望させた[6][7]。まず1891年にパリの私立美術学校であるアカデミー・ジュリアンに入学し、絵画を学びつつ官立美術学校であるエコール・デ・ボザールへの入学を目指した。ボザールへの入校は許可されなかったが、熱意を評価した教官ギュスターヴ・モローから特別に個人指導を受ける事ができた。この時、ボザールに入校してモローの指導を受けていたジョルジュ・ルオーとは生涯の友情を結ぶ。1896年に国民美術協会のサロンに4点出品、うち1点は国家買上げとなる[4]。カンブレジ地方の田園風景1898年にはアメリー・パレイルと結婚した。同年、印象派の画家カミーユ・ピサロの勧めを受け、ロンドンでターナーを研究した[4]。マティスの初期の作風は写実的なものを志していたが、次第にポール・セザンヌ、ポール・シニャック、フィンセント・ファン・ゴッホ 、ポール・ゴーギャンら後期印象派の影響を受け、自由な色彩による絵画表現を追究するようになる。『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』(1905年)、『ダンスI』(1909年)など、大胆な色彩を特徴とする作品を次々と発表し、モーリス・ド・ヴラマンク、アンドレ・ドランらと共に野獣派と呼ばれるようになった[8][9]。しかし、フォーヴィスムとしての活動は1905年からの3年ほどで、それ以降は比較的静謐な作品を描くようになる。1910年代に入ると、幾何学的構成による抽象的・構築的傾向が見受けられ、キュビスムの影響や、第一次世界大戦による厳しい内省的感情の反映が見受けられる[4]。1917年から30年ごろにかけては、おもに南フランスのニースを制作の場として活動。この時期、優美で官能的なオダリスクをはじめ、開放的な作品を制作。通常この頃のマティスの活動は「ニース時代」と区分される[4]。アンリ・マティス 1933年線の単純化、色彩の純化を追求した結果、切り絵に到達する。マティスにとってはさみは鉛筆以上に素画に適した道具だったのである。『ジャズ』シリーズなど切り絵の作品を多数残している[注釈 1][10]。晩年、南仏ヴァンスのドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の内装デザイン、上祭服のデザインを担当。この礼拝堂はマティス芸術の集大成とされ[4]、切り紙絵をモチーフにしたステンドグラスや、白タイルに黒の単純かつ大胆な線で描かれた聖母子像などは、20世紀キリスト教美術の代表作と目される。また、緑好きが高じて一風変わったアトリエを作った。テーブルの上に所狭しと並べられた多様な花や、身の丈を越す巨大な観葉植物など、植物園のようであった。さらに大好きな鳥を多い時には300羽も飼っていたと云われている。草花が満ち溢れ、鳥たちが憩うアトリエから数々の傑作を生み出した。巨匠が晩年辿りついた癒しに満ちた世界。名画誕生の舞台となった緑いっぱいのアトリエであった。腸の手術によって体力がなくなっていったマティスは、油絵から「切り紙絵」へと制作手法を変更した。アシスタントに色紙を作ってもらい、はさみで切り抜いて作品を作り上げた。体調の変化で作品にも変化が現れ、自然から受ける感覚、感触をダイレクトに現すようになった。花や植物から感じる安らぎを心の目で見て、はさみを使い生命力を感じさせる原色の切り絵に投影していった。1954年11月3日、アンリ・マティスはニースで心臓発作の為死去した[4](84~85歳没)。日本での展示1951年上野国立博物館で「マティス展」が開かれた。ヴァンス礼拝堂の雛形や下描き、晩年の単純で豊かな絵画など彼の仕事の清華が輝く目覚ましいものだった。 2004年に日本の国立西洋美術館ほかで大規模なアンリ・マティス展が開かれた[11]。作品は初期の絵画から晩年までにわたり、制作作業を収めたドキュメンタリーフィルムも公開されている。代表作詳細は「アンリ・マティスの作品リスト(英語版)」を参照『ブーローニュの森』(1902年)、プーシキン美術館『豪奢、静寂、逸楽』(1904年-1905年)、オルセー美術館『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』(1905年)、コペンハーゲン国立美術館『赤のハーモニー』(1908年)、エルミタージュ美術館『ダンスI』(1909年)、ニューヨーク近代美術館『ダンスII』(1910年)、エルミタージュ美術館『金魚』(1912年)、プーシキン美術館『ナスタチウムと「ダンス」』油絵/カンヴァス(1912年)、メトロポリタン美術館『画家の娘』(1918年)、大原美術館『模様のある背景の装飾的人体』油絵/カンヴァス(1925-26年)、国立近代美術館(ポンピドゥー・センター)『トルコ椅子にもたれるオダリスク』油絵/カンヴァス(1927-28年)、パリ市立近代美術館『音楽』(1939年)『ルーマニアのブラウス』油絵/カンヴァス(1940年)、国立近代美術館(ポンピドゥー・センター)『眠る女と静物』油絵/カンヴァス(1940年)、ナショナル・ギャラリー『夢』(1940年)『ジャズ・サーカス』(1947年)、ニューヨーク近代美術館『赤い室内、青いテーブルの上の静物』油絵/カンヴァス(1947年)、ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館『大きな赤い室内』油絵/カンヴァス(1948年)、国立近代美術館(ポンピドゥー・センター)『エジプトのカーテンのある風景』(1948年)『上祭服』 (1950年頃)、ニューヨーク近代美術館 [12]『ブルー・ヌードII』切り紙絵(1952年)、国立近代美術館(ポンピドゥー・センター)『インコと人魚』切り紙絵(1952年)『スイミング・プール』切り紙絵(1952年)『花と果実』切り紙絵(1952-53年)『舟』切り紙絵(1953年)近年の文献『マティス 画家のノート』二見史郎訳、みすず書房、新版2023年ほか『マティスとルオー 友情の手紙』ジャクリーヌ・マンク編、後藤新治ほか訳、みすず書房、2017年ヒラリー・スパーリング『マティス 知られざる生涯』野中邦子訳、白水社、2012年フランソワーズ・ジロー『マティスとピカソ 芸術家の友情』野中邦子訳、河出書房新社、1993年ハイデン・ヘレーラ『マチスの肖像』天野知香訳、青土社、1997年『アンリ・マティス作品集』米田尚輝解説、東京美術、2023年
あら懐かしい。
素敵です。
懐かしいこの歌。
このような歌、近頃無いですね。
セリフがかわいい!
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透き通るような情感がたまりません。ありがとうございます🙇♂️
おはようございます🌞水色の手紙💌素晴らしい歌声最高シビレル⚡⚡⚡これからも頑張って✊😃✊応援しています🙂❣️❣️❣️
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いつも聞かせてもらっています
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私が中学生の時に流行った曲です。
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もちろん歌の方も素晴らしく、とてもさわやかな気持ちになりました。どうもありがとうございました。
新しい動画お待ちしておりました。曲を届けていただけることには、sayaさんからのお手紙を受け取るような喜びを感じることができ幸せ一杯です。これからも素敵な歌声を届けてくださると嬉しいです。
おべべが斬新!
朗らか、健気、ほんの少し見える寂しさ。sayaさんの心情、景色を捉える力はいつも素晴らしい。
ありがとうございます。
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相変わらず、とても素晴らしい声、そして素晴らしい歌だ。
うひょ〜!懐かしいなぁ〜!さすがsayaさんだね。
絶世の美女のあべの静江さんが蘇ったようだ。見事です❤たまらーん、❤
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とても良く練習されている声ですね
「逢えなくなって二月」の所が最高ですね。
台詞とか、歌声とは違う色んな声ももっと聴きたい、そんな綺麗過ぎる声だからなぁ。
Sayaさんも誰かに手紙を書くんだろうか?
非情に優しく良い声ですね。本家のあべ静江さんと互角の勝負が出来るかもしれません。
素敵素晴らしいですね😊😊❤
素敵な声ですね。惚れぽれします
いつも素晴らしい歌声をありがとう。だいぶ昔の歌ですが、「水色のワルツ高木東六作かな?」をリクエストします。ぜひsayaさんの歌声で聞かせてください。
saya さんも、あべ静江さんも綺麗です。
あべ晋三さん来てください♪
😭ハートを締め付ける sayaちゃんのクリタルボイス💞 もし冒頭のセリフを 耳元でsayaちゃんに言われたら〜😅
このオレは熱にうなされ 3日間は寝込むだろう😅 sayaちゃん❤ 永遠の嫁さん候補NO1〜🎉 🌸夜桜亭タカ🦅
優しい声だね!イタリア人から私😊、桜色舞うころ歌って下さい!❣
高校生の時、少しお姉さんだったあべ静江に憧れました。
❤❤❤
沙耶、歌上手くなったな〜
NHKで流れてるのより良い😮
👍
💐全てが超素敵な淑女様ですね!もし許されるならば夢の中だけでも良いよ俺のロイスで一日中ドライブ👍感謝感激感動申し上げます。🙇
元気ないぞい!特に霜が...
(=゚ω゚)ノ
感想に代えて
「光と風のクリエ」金大偉著 和器出版 2017年7月7日 初版
色を見る、色を楽しむ、ルドン、マティス
世界の巨匠たちの名画をはじめ、近代絵画の数々を「色彩」をキーワードに紹介する「色を見る、色を楽しむ。」展が9月18日まで、東京・ブリヂストン美術館で開催されている。ルノワールやモネ。ピカソらなどの約170点を公開。マティスの挿絵本「ジャズ」の版画やルドンのグラフ展「「夢想」を中心に、色彩の魅力を感じてもらう企画室となっている。
「色」は、その色が刺激になって、観る者にさまざまな内面感情を生む。極めt個人の情感や感覚によって、色彩の認識に対する自由度やあいまい性も高い。またさまざまな内面感情を生む。きわめて両人の情感や感覚によって、色彩の認識に対する自由度やあいまい性も高い、また特有の色彩着では、その国や民族の文化課的条件の中でのみ理解され、適用する。色の意味は、地域の風習によって「自然形成」する場合と、国やシステムによって「強制形成」する場合もある。その約束された色紙の象徴性が広範囲でコミュニケーションに使われることが可能と考えられる。
絵画の色彩は、観て楽しむと同時に、作品の存在する意味を伝えるという役割があって、象徴的な約束事が非常に大きな力を発揮する。例えば、赤という色は、激情、相、革命などの象徴性を持つ。使われ方によって、表現する意味がことなるのだ。
今回のルドンの「夢想」という作品では、木炭や版画で白と黒の幻想的な世界をつくり、「黒」の画家として評価された彼の色彩観が神秘的な個性を呼び起こす。また色彩の魔術師と言われたマティスは、物体をその固有の色から解放し、自由な色使いで、空間、物体、色彩などすべての絵画的要素を単純化し、さらに抽象化したことによって、彼の独自の色彩世界を生み出したと言える。
印象派は、写実主義の行き詰まりを背景に、見たとおりに描くのではなく、光によって変化する色彩の世界を描くとして登場した。これは資格革命と言われて、19世紀後半の色彩概念を変えた芸術運動である。以後、色彩の世界が大きく変化した。また、現代芸術から現在まで、色彩使用において、様々なスタイルと方法が生まれ、無限大な方言自由度が開かれたと言える。さらにCG(コンピューターグラフィック)の色彩表現も無視できない。現代社会はむしろ色彩の洪水であり、構築された色彩の世界である。
一方で、色彩は「救い」を意味する。色は、人間にとって感情を表現する言葉である。豊かな色彩を求めて、感情を自由自在に表出する。色は、人間にとって感情を表現する言葉である。豊かな色彩を求めて、感情を自由自在に表出するおとが「生きる」ことにつながり、色彩の喪失は「心の死」と連結するのであろう。色彩は、人々の本能的な部分を覚醒させ、無限な想像力を喚起し、ゆえに「自由」という大きなイメージが生まれる。その力が自己の創造的な視点や方向性を導いてくれる。新しい色の出現は、まさに光のきらめきの中によって調和され、存在するのであろう。(2013年9月1日)
オディロン・ルドン
(Odilon Redon、1840年4月20日(4月22日とも) - 1916年7月6日[1])は、19世紀後期から20世紀初期にかけて活動したフランスの画家である。本名はベルトラン=ジャン・ルドン(Bertrand-Jean Redon)。ボルドーで生まれ、同地及び近郊の町で育つ。
生涯
オディロンは、1840年4月20日、南フランスの大都市ボルドーで生まれた。ファーストネームの第一構成名「ベルトラン」は、父ベルトラン・ルドン(Bertrand Redon))のファーストネームを引き継ぐ形で命名された。しかし、もっぱら用いられたのは母マリーの通称「オディーユ (Odile)」に由来する愛称「オディロン (Odilon)」で、自他ともに終生この名を用いた。裕福な家庭であったが、生後2日目にしてボルドー近郊の町ペイル=ルバード(Peyre-Lebade、シャトー・ペイル=ルバード)へ里子に出され[2]、11歳までの少年期を寂しい田舎の地で親元を離れて過ごしたとされる。病弱で内向的な子供であったという。子供の頃から絵を描き始めるが、父親の意向もあって、建築家となるべくエコール・デ・ボザールの試験を受ける。しかし合格することは叶わず、建築の道は諦めざるを得なかった。なお、弟のガストン・ルドン(英語版)は長じて建築家となり、世に作品を残している。
20歳の頃、植物学者アルマン・クラヴォー(Armand Clavaud、1828-90年)と知り合い、顕微鏡下の世界に魅せられるようになる。のちにオディロンが制作した版画には植物学の影響が見られる。版画集『夢の中で』はクラヴォーに捧げたものであった。
1864年、パリに出てジャン=レオン・ジェロームに入門するも、数か月でやめ、ボルドーに戻って放浪のボヘミアン画家として知られた銅版画家ロドルフ・ブレダン(英語版)の指導を受ける。また、1878年頃にはアンリ・ファンタン=ラトゥールから石版画(リトグラフ)の指導を受けている。
1870年、普仏戦争に従軍。1872年からパリに定住する。1879年、初の石版画集『夢の中で』を刊行した。
1880年、若いクレオールの女性カミーユ・ファルテ(Camille Falte)と結婚。1882年には、ル・ゴーロワ(英語版)新聞社で木炭画と版画による個展を開催している。また、ユイスマンスらに注目されている。エドガー・アラン・ポーの作品を意識した2番目の石版画集『エドガー・ポーに』を刊行したのも、この年であった。
1886年には待望の長男ジャンが生まれるも僅か半年で夭折し、落胆したオディロンの画風は以前にも増して鬱々としたものになっていった。しかし、3年後の1889年に次男アリが生まれたことで、オディロンの人生模様は一変する。画業についても1890年頃から作風が大きく変化し、豊かな色彩を用いるものになった。
1904年、65歳の時には、レジオンドヌール勲章の受章者になった。1913年には、米国のアーモリーショー(米国におけるヨーロッパ現代美術紹介の展示で、マルセル・デュシャンも出品していた)で1室を与えられ、展示した。
1916年、第一次世界大戦が激化する中、兵士として招集されていた次男アリが消息不明になってしまい、ルドンは高齢の身をおして各地を探し回ったが、無理が祟って風邪を拗らせ、パリの自宅で死去した。なお、アリはその後生存が確認され、1972年に83歳で死去した。
題材と作風
オディロン・ルドンは印象派の画家たちと同世代であるが、その作風やテーマは大きく異なっている。光の効果を追求し、都会生活のひとこまやフランスのありふれた風景を主な画題とした印象派の画家たちに対し、ルドンはもっぱら幻想の世界を描き続けた。象徴派の文学者らと交友をもち、象徴主義に分類されることもあるが、19世紀後半から20世紀初頭にかけてという、西洋絵画の歴史のもっとも大きな転換点にあって、独自の道を歩んだ孤高の画家というのがふさわしい。
初の石版画集『夢の中で』の頃から当時の生理学や科学が投げかけていた疑問・問題意識である不確かな夢や無意識の世界に踏み込んだ作品を多く発表した。それらは断頭や目玉など、モノクロの版画であることもあって絶望感もある作品群であるが、人間の顔を具えた植物のようなものや動物のような顔で笑う蜘蛛など、どこか愛嬌のある作品も描いた。
鮮やかな色彩を用いるようになったのは50歳を過ぎてからのことで、油彩、水彩、パステルのいずれも色彩表現に優れているが、なかでも花瓶に挿した花を非常に鮮烈な色彩で描いた一連のパステル画が知られる。
日本国内では岐阜県美術館がルドン作品を数多く所蔵している。
代表作
眼=気球(1878) ニューヨーク近代美術館蔵
自画像(1880)オルセー美術館蔵
蜘蛛(1887)岐阜県美術館蔵
閉じた眼(1890)オルセー美術館蔵
シタ(1893)シカゴ美術館蔵
キュクロプス(1898-1900頃)クレラー・ミュラー美術館(オッテルロー)蔵
丸い光の中の子供(1900頃)新潟市美術館蔵
オフィーリア(1901-02頃)岐阜県美術館蔵
仏陀(1904)オルセー美術館蔵
オルフェウスの死(1905-10頃)岐阜県美術館蔵
ペガサスに乗るミューズ(1907-10頃)群馬県立近代美術館
トルコ石色の花瓶の花(1911頃)個人蔵
版画集
黙示録(1899年)
アンリ・マティス
(アンリ・マチス、フランス語: Henri Matisse, 1869年12月31日 - 1954年11月3日)は、フランスの画家。フォーヴィスム(野獣派)のリーダー的存在であり、野獣派の活動が短期間で終わった後も20世紀を代表する芸術家の一人として活動を続けた。自然をこよなく愛し「色彩の魔術師」と謳われ、緑あふれる世界を描き続けた画家であった。彫刻および版画も手がけている[1][2]。
生涯
マティスの実家のファサード
1869年、フランス・ノール県のル・カトー=カンブレジ (フランス語 Le Cateau-Cambrésis) に、豊かな穀物商人の長男として生まれる[3]。その後一家はピカルディ地域圏のボアン=アン=ヴェルマンドワへと移動し、彼はそこで育った。1887年、父の命でカトー=カンブレジの裁判所の管理者の資格を得るためにパリへと出て法律を学び、翌年法科資格試験に合格した。その後しばらくはサン・カンタンの法律事務所の書記として働いた[4]。
1889年、盲腸炎の療養中に母から画材を贈られたことで絵画に興味を持った。後に本人のいうところでは「楽園のようなもの」を発見した[5]マティスは、画家に転向する決意をする。この決意は父親を非常に失望させた[6][7]。まず1891年にパリの私立美術学校であるアカデミー・ジュリアンに入学し、絵画を学びつつ官立美術学校であるエコール・デ・ボザールへの入学を目指した。ボザールへの入校は許可されなかったが、熱意を評価した教官ギュスターヴ・モローから特別に個人指導を受ける事ができた。この時、ボザールに入校してモローの指導を受けていたジョルジュ・ルオーとは生涯の友情を結ぶ。1896年に国民美術協会のサロンに4点出品、うち1点は国家買上げとなる[4]。
カンブレジ地方の田園風景
1898年にはアメリー・パレイルと結婚した。同年、印象派の画家カミーユ・ピサロの勧めを受け、ロンドンでターナーを研究した[4]。
マティスの初期の作風は写実的なものを志していたが、次第にポール・セザンヌ、ポール・シニャック、フィンセント・ファン・ゴッホ 、ポール・ゴーギャンら後期印象派の影響を受け、自由な色彩による絵画表現を追究するようになる。『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』(1905年)、『ダンスI』(1909年)など、大胆な色彩を特徴とする作品を次々と発表し、モーリス・ド・ヴラマンク、アンドレ・ドランらと共に野獣派と呼ばれるようになった[8][9]。しかし、フォーヴィスムとしての活動は1905年からの3年ほどで、それ以降は比較的静謐な作品を描くようになる。
1910年代に入ると、幾何学的構成による抽象的・構築的傾向が見受けられ、キュビスムの影響や、第一次世界大戦による厳しい内省的感情の反映が見受けられる[4]。
1917年から30年ごろにかけては、おもに南フランスのニースを制作の場として活動。この時期、優美で官能的なオダリスクをはじめ、開放的な作品を制作。通常この頃のマティスの活動は「ニース時代」と区分される[4]。
アンリ・マティス 1933年
線の単純化、色彩の純化を追求した結果、切り絵に到達する。マティスにとってはさみは鉛筆以上に素画に適した道具だったのである。『ジャズ』シリーズなど切り絵の作品を多数残している[注釈 1][10]。
晩年、南仏ヴァンスのドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の内装デザイン、上祭服のデザインを担当。この礼拝堂はマティス芸術の集大成とされ[4]、切り紙絵をモチーフにしたステンドグラスや、白タイルに黒の単純かつ大胆な線で描かれた聖母子像などは、20世紀キリスト教美術の代表作と目される。
また、緑好きが高じて一風変わったアトリエを作った。テーブルの上に所狭しと並べられた多様な花や、身の丈を越す巨大な観葉植物など、植物園のようであった。さらに大好きな鳥を多い時には300羽も飼っていたと云われている。草花が満ち溢れ、鳥たちが憩うアトリエから数々の傑作を生み出した。巨匠が晩年辿りついた癒しに満ちた世界。名画誕生の舞台となった緑いっぱいのアトリエであった。
腸の手術によって体力がなくなっていったマティスは、油絵から「切り紙絵」へと制作手法を変更した。アシスタントに色紙を作ってもらい、はさみで切り抜いて作品を作り上げた。体調の変化で作品にも変化が現れ、自然から受ける感覚、感触をダイレクトに現すようになった。花や植物から感じる安らぎを心の目で見て、はさみを使い生命力を感じさせる原色の切り絵に投影していった。
1954年11月3日、アンリ・マティスはニースで心臓発作の為死去した[4](84~85歳没)。
日本での展示
1951年上野国立博物館で「マティス展」が開かれた。ヴァンス礼拝堂の雛形や下描き、晩年の単純で豊かな絵画など彼の仕事の清華が輝く目覚ましいものだった。 2004年に日本の国立西洋美術館ほかで大規模なアンリ・マティス展が開かれた[11]。作品は初期の絵画から晩年までにわたり、制作作業を収めたドキュメンタリーフィルムも公開されている。
代表作
詳細は「アンリ・マティスの作品リスト(英語版)」を参照
『ブーローニュの森』(1902年)、プーシキン美術館
『豪奢、静寂、逸楽』(1904年-1905年)、オルセー美術館
『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』(1905年)、コペンハーゲン国立美術館
『赤のハーモニー』(1908年)、エルミタージュ美術館
『ダンスI』(1909年)、ニューヨーク近代美術館
『ダンスII』(1910年)、エルミタージュ美術館
『金魚』(1912年)、プーシキン美術館
『ナスタチウムと「ダンス」』油絵/カンヴァス(1912年)、メトロポリタン美術館
『画家の娘』(1918年)、大原美術館
『模様のある背景の装飾的人体』油絵/カンヴァス(1925-26年)、国立近代美術館(ポンピドゥー・センター)
『トルコ椅子にもたれるオダリスク』油絵/カンヴァス(1927-28年)、パリ市立近代美術館
『音楽』(1939年)
『ルーマニアのブラウス』油絵/カンヴァス(1940年)、国立近代美術館(ポンピドゥー・センター)
『眠る女と静物』油絵/カンヴァス(1940年)、ナショナル・ギャラリー
『夢』(1940年)
『ジャズ・サーカス』(1947年)、ニューヨーク近代美術館
『赤い室内、青いテーブルの上の静物』油絵/カンヴァス(1947年)、ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館
『大きな赤い室内』油絵/カンヴァス(1948年)、国立近代美術館(ポンピドゥー・センター)
『エジプトのカーテンのある風景』(1948年)
『上祭服』 (1950年頃)、ニューヨーク近代美術館 [12]
『ブルー・ヌードII』切り紙絵(1952年)、国立近代美術館(ポンピドゥー・センター)
『インコと人魚』切り紙絵(1952年)
『スイミング・プール』切り紙絵(1952年)
『花と果実』切り紙絵(1952-53年)
『舟』切り紙絵(1953年)
近年の文献
『マティス 画家のノート』二見史郎訳、みすず書房、新版2023年ほか
『マティスとルオー 友情の手紙』ジャクリーヌ・マンク編、後藤新治ほか訳、みすず書房、2017年
ヒラリー・スパーリング『マティス 知られざる生涯』野中邦子訳、白水社、2012年
フランソワーズ・ジロー『マティスとピカソ 芸術家の友情』野中邦子訳、河出書房新社、1993年
ハイデン・ヘレーラ『マチスの肖像』天野知香訳、青土社、1997年
『アンリ・マティス作品集』米田尚輝解説、東京美術、2023年