ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
前面形状といい二階部のドーム型展望室といい当時の経営陣はアメリカ大陸横断列車に憧れを抱いていたんだろうなあ。
2M3Tでの釣り合い速度は120km/hで起動加速度は約2km/h/sです。それでも旧型の2200系より加速度が良く、近鉄のスタッフはギアレシオの選定に苦労したとかでした。😂😂😂
10000系初代ビスタカーは、試作車ゆえに短命でしたが、主要な機器類は、確かクロスシートの一般車2680系に再使用されたはずです。
2680系も冷房試作車で当時は背もたれの低いボックスシート(補助席つき)だった
2680系はその後、鮮魚列車に使用されました。
ボックスシートは2600系とともに2610系並みに改造、のちロングシートになりましたLCカー以外
実際に2680系に再利用されたのは電動車の主制御器と主電動機だけで、台車は新品が採用されました。元の台車や残る電装品は車体共々何れも処分へ。回転式クロスシートの一部が大井川鉄道に売却となりました。ロングシートだった元名古屋鉄道3729−2829編成に、向かい合わせに固定の上設置。ただこの座席は試作品故に座面が非常に固く、長時間座ると身体が痛くなるとの利用客からの不評が相次ぐ事態に。結局1980年代後半に名鉄から再購入した、廃車発生品の転換式クロスシートと差し替えられてしまいました。
@@Series21next2680系はシートピッチは2600系と同じく1320mmでしたが、背もたれは最初からモケットの高いタイプでした。ちょうど転換クロスの背もたれみたいな感じが垂直にたってましたよ。
初代、2代目ビスタカーとも派手な見た目の割に案外運用期間が短かったんだな!その点3代目は40年以上、自分の子供の頃から今も走ってるからすごいな!
2代目も12編成が2000系に生まれ変わり残りは吊り掛け機器流用車の下回りと取り換えられ制御器は30000系に使われたり(現在は18400系等の発生品と取替)
@@Series21next 話がそれて申し訳ありませんが、近鉄も他の私鉄も違う型の車両と連結をすることが多々ありますが、その場合上り下りの先頭となる車両はだいたい決まってますよね(例=旧スナックカーと旧エースカー併結の場合、名古屋方面=スナックカー先頭、難波、賢島方面=エースカー先頭など)。ずっと謎です。自分そこまで詳しくないのでもしご存知であれば教えていただけませんか。
@@やさしい日本語-k9s 号車番号大きい方に古い車両充当してる傾向があった
近鉄10000系、10100系が短命だったのは連接車だったのも一因。連接車は整備などで車体を持ち上げる時に特殊なジャッキが必要らしく、そのジャッキが高安車庫にしか設置されておらず、メンテナンスが面倒だったらしい。小田急でも連接車をやめて久しい。今でも連接車が主力なのは江ノ電くらいだと思われる。
近鉄は10000系で、日本で戦後初の2階建て鉄道車両を誕生させただけでなく、「ビスタコーチ」という2階建てバスも日本で初めて導入し、2階建てのパイオニア的存在といえます!名阪直通が実現した10100系も、ぜひ紹介してほしいです!
7:43 10100系も連接車ですよ
2代目も連接台車ですよね。
如何にも米国的な10000系、続く10100系は優しい和風調
アメリカの車両をモデルにしている為か 先頭部はアメリカの大陸を横断するディーゼル機関車みたいなデザイン。ダブルデッカー部分のデザインも あちらの『ドームカー』と類似していますね。この車両で得られたノウハウが 後の10100系に生かされた訳ですが その10100系も『連接車』ですよ。
10000系の足回りは通勤電車新造に流用していました。
代が進むたび二階席の窓の高さが低くなる感じです
まさに恐るべし近鉄特急の礎を築き上げた10000系初代ビスタカー、初代ビスタカーの意思を受け継ぎ、恐るべし近鉄特急は今日も走り続ける、
10000系と同じ空調システムを投入した旧エースカー(10400系)は後の更新で通勤車両みたいなクーラーに換装されたな。
近鉄は京都は小学生の修学旅行もお伊勢さんですからね 複数の小学校で合同で貸し切りの臨時列車を仕立ててました青空っていう修学旅行専用車も有りましたよね
京都に限らず関西の小学校の修学旅行は伊勢方面が圧倒的に多いですね。私は大阪人ですが、小学校の修学旅行は伊勢でした。あおぞら号、往路で乗りました。帰路は2680系でした。
私鉄電車ガイドブックの写真で初めて見て、その前頭部の強烈なデザインに驚きました。しかし、その時には既に廃車解体後でした・・・・
この電車を造っただけでも金メダルです。
10100系とともに、鉄道博物館に保存して欲しかった一台。どうして残っていないんだ(悲)…
近鉄は基本車両を残さないからなぁ自社で保存したくないならどこかに託せばいいのに、とは思う
10100系に関しては、青山事故で上り列車に連結されていたから遺族感情を考慮して保存は見送ったという説がある。
ほらあんさん近鉄はリアリストやで。映像記録は銭かけて残してはり、その分現物保存は手薄になってるからホンマ。
@@exige4xz買い取って保存してくれる個人なり法人がなかったのだからどうしようもない。
特に私鉄各社は、自社の経営方針として循環型社会の高度化実現を目標理念に掲げていて、基本的にはリサイクルという考え。以下、自分の考えを述べますが金属や樹脂やガラスを多用した鉄道車両というのは、素材資源の塊。特に最近の車両には半導体も使われている。古くなり使えなくった車体を、次世代の鉄道車両へ生まれ変わらせることの何がいけないのか?私がこう言えば、「遺産」やら「文化財的価値」などと言い返す人はいるが鉄道車両に限らず、自動車・船舶・航空機といった輸送デバイスが有形文化財とか遺産として登録されたことはありません。そういうこと。
これ近鉄の中でも一番好きな車両😊
『アーバンライナーNEXT(201020系)』は 架線電圧が若干ダウンしていても 33‰を120km/h近くで駆け上がれるので それを考えると 今の電車は飛躍的に性能が上がっているのがわかります。
インバータ制御車は多少の過負荷も平気ですからね。JR貨物のEF210は、関ケ原の急勾配を過負荷で走行することを前提に設計されていると言われてますね。
近鉄って大阪、名古屋、京都に一応乗り入れているけど、どれも大都市に片足突っ込んでるだけで、ほとんど場末を走る鉄道って感じ。なんか乗客とか、沿線の雰囲気は京急っぽい。
短命のヒーローと言えば小田急50000形、古くは国鉄157系がありますが、近鉄にも短命ヒーローがいたんですね。構造上の不都合が車両の活躍期間を短くしてしまうんですよね。
10000系といえば試作車ゆえ短命だっただけでなく、河内国分駅での事故も不運だった。私の母親が事故直後の現場を見たとよく言ってました(事故の瞬間は見てないそうです)10100系は連接車ですよ!
京阪80系京阪で唯一近畿車輛製 近鉄顔当時の近鉄特急のフォルムを路面電車に注ぎ込んだ名車 吊り掛け駆動ながら空気バネ台車 前面曲線ガラス フォールデングステップ装備スタイリッシュな車両
河内国分の事故は急行ではなくて準急です
冷房装置は旧鉄道省由来の「空気調和装置」KM-7型で、車軸駆動式から電動式に改めたが、さすがに旧式化は否めず、国鉄で同型機を使っていた最後のマロネ40形の引退(1970年)と前後して消えてしまった。
星のように登場して星のように解体されていった.......。そこまで神風をしなくてもよいのに。
大阪線と名古屋線の線路が連結されたときの試運転列車がコレ?だった。学校が線路脇にあり、高い運転台にどでかい車体の突然の出現に驚いたり感激したり。まだ昭和1桁製造の車両も残っていた時代で、未来が一挙に出現。
「近鉄中興の祖」佐伯勇・近畿日本鉄道代表取締役社長が、ちょうど2250系(大阪・山田線/標準軌)・6421系(名古屋線/狭軌)を名阪特急で運用していた頃でしょうか、アメリカへ鉄道視察に渡航していて「ドームカー」を乗車見学したところからヒントを得て、近畿車輛・ブリジストンそれに電機メーカーと共同開発を進めて生まれたのが、試作車だった10000系初代「ビスタカー」だと知りました。スイスから導入したシュリーレン式台車に、世界初のゴムベローズ空気ばね。青山峠での急勾配に、時速100kmで挑める大出力モーターと制御装置。その技術の結晶は、10100系・2代目「ビスタカー」で現実のものになって名阪特急で遺憾なく成果を発揮します。1970年以降に、後継系列にその役目を譲り使命を終えて引退。2680系へ走り装置を移植しましたが、此方も既に歴史の彼方へ。
華々しいデビューを飾った割に、定員が特殊だった為、新しく導入された特急座席予約システムに支障を来す為に引退してしまいましたが、新機軸を数多く採用した初代ビスタカーは、その後に登場した特急車両に生かされてますね。
・10000系の登場時のカラーリングは紺地にオレンジの窓枠でしたが、後にオレンジ地に紺色の窓枠となりました。 このカラーリングの変更は何が切っ掛けなのでしょうか?・近鉄の2階建て車両には旧ビスタカーから新ビスタカーやビスタカーIII世、団体列車の あおぞら号 や 楽 まで 例外なく車体側面に「VISTA CAR」のロゴが入っていますが、しまかぜ のカフェ車両は明らかに2階建てなのに「VISTA CAR」ロゴが入っていません。 この理由はなぜなのでしょうか? 私はロゴを入れて欲しいとずっと思っています。
塗装変更のきっかけは10100系はじめ他の特急車両と共通にするためだそうです。ちなみに変更途中では新旧混色編成でも営業しております。
もし66年の河内国分の事故で10006・10007が廃車になってたら、その後は10001・10002のモーターを出力増強して5連運転を基本にするか、10005の側に12000系や11400系を連結する形が基本になってたのかな?ifを想像してみるのも面白そう
近鉄は、自社線内に、急勾配の区間があるから、JR並みに、車輛の耐久性だけでなく、快適さ、保守の面から、ハイレベルなスペックの車輛が要求される。モーターやシートについては、JRや私鉄他社の教科書とも云える技術がある。だからこそ、大破した前面スタイルは、復元してほしかった。
10000系は「犬顔」でしたが、10100系は「猫顔」でした。因みに「ビスタⅠ世」から「ビスタⅢ世」までのビスタカーの変遷は、まるで「天下餅」みたいです(織田が搗き、羽柴が捏ねし天下餅、座りしままに喰らう徳川)。
カミさんによると幾つか間違いがあるそうで、まず「伊勢への遊山が敬遠されていた」ですがこれは大きく違い国鉄・私鉄問わず天皇家縁のお社への参詣はむしろ国家規模で推奨されており、目の敵と言うのは間違いだそうです。(宮脇俊三氏も伊勢・平安・橿原への参詣を戦中に体験されている)「世界初の2階建て電車」と言う紹介もありますが、この頃にはアメリカのインターアーバンの車両に2階建て車両が存在する事から世界初ではありません。そして最大の間違いは初代ビスタカーは2電動車ではなく4電動車であり、また2階建て車両も中間の1両だけの為、正確には「cM+M:cT+T(ビスタ)+Tc:cM+Mc」と言う編成が正解で、2階建ては1両しか存在しない&電動車が2両は間違いだそうです。ちなみにビスタカーの冷房はcTとTc車から融通をしてもらって1両分を確保していたとの事でした。近鉄の社史等に於いて初代ビスタカーは新しいサービスと革新的機構と言う物を構想して仕上げて行った車両であった事から1編成しか存在しなかったものの、ここで得る事ができたデータは後の2代目に引き継がれ、初代ビスタの2階建てや連接台車構造、増結に対応出来る様に貫通運転台車、走行機器を2両で納めるcM+T+Mcによる3両固定化と言う形に収まったと言う貴重な実績を残しての引退だったそうです。参考までに名古屋線に於ける特急が10400系・11400系エースカーのTc車をビスタカーに増結させる方針があり、実際多客時には2代ビスタと汎用特急車の運用も見られたと言う足跡も残した上で自身のモーターは2680系に引き継がれ現在でも偲ぶ事が出来たりします。
丁寧なご訂正、誠にありがとうございます。このような情報は非常に有益でとても助かります!
「普通鉄道」での2階建て「電車」としては世界初らしいですよ。(路面電車では、大阪市電の5号形が日本初だそうですが。)「また2階建て車両も中間の1両だけの為、正確には…」と「2階建ては1両しか存在しない&電動車が2両は間違いだそうです。」は、どっちが正解なんですか?「間違いだそう」が&の前文に掛かっていないのなら意味がわかりますが。ただ、動画内でもありましたが、10000系の中間車両は「2階建て+平床+2階建て」の3両固定編成なので、2両あるのが正解ですね。
2階建て車両は3号車と5号車の2両です。
>現在でも偲ぶ事が出来たりします2680系(2001年、3代目の鮮魚列車に改造された2683F。2681Fについては2002年8月時点で廃車済:Wikipedia記事より)は2020年5月に廃車されており、現存しない。
9:33 ビスタカーってトビハゼトビーに似てると思う
戦後初の特急車は2250系ですが…
アメリカのディーゼル機関車そっくりでカッコいい。
はじめまして今日チャンネル登録をしましたよろしくお願いいたします
1編成に、連結車と連接車両方で1つの編成を組成させて運用した車両って、今のところ後にも前にもこの、10000系初代ビスタカーONLYだろうな😃✨️この特徴的な先頭の流線型が、当時🎬️「モスラ」の幼虫、ってアダ名だったな😁👍✨️
きんてつより先にアメリカで2階建て車両が走ってたんだな~❗️
あちらは建築限界が大きいから、2階建ても簡単だったと思われる。
この頃の列車のトイレットは垂れ流しじゃなかったか?
近鉄は昭和44年から順次、トイレのタンク式改造を進めて行ったみたいで、この10000系は昭和46年に改造でタンク式になったそうですよ。
昭和45年に2階建て車両3号車の運転台を撤去してタンク式トイレが設置されました。
bgmがモーツァルトのメヌエットなのは何故?
事故復旧は流線型での復旧は時間が掛かるので、急遽あの顔にして復旧する選択の結果なのだが、そこでも失敗が有り、貫通扉の星マークと特急と行先表示が、18200系に比べ窓から100ミリ余分に下がっている為に、だらしない印象になった、これは図面を作る時に間違えての結果だった。
伊勢中川の配線図がウィキからとってきた現在のものを塗りつぶしただけで、ひどいです。阪伊特急の上下と名古屋線の特急は対面乗り換えできるようになっていました。
難波線は、試運転で入っていますよ。
それは、知りませんでした。少し古いですが、近鉄の話では、難波には乗り入れていないと言われました。
連接車などなかったかのように・・・って何いってんだ?
疑問なんですけど、国鉄は日光観光においては東武と曲がりなりにも競合しましたよね(負けはしたけど)。なのに、なんで伊勢観光は始めから近鉄グループに白旗を上げたんだろう? 伊勢参りは上方落語のネタにしばしば挿入されているように、江戸時代から大阪人にとっては定番の観光ルートでした。需要は確実に存在したのにもかかわらず、です。
説明すると、国鉄の関西線(旧関西鉄道)の湊町(現JR難波)から亀山で分岐して参宮線の山田(現伊勢市で伊勢神宮外宮の最寄り駅)【亀山⇔津(関西鉄道)・津⇔山田(参宮鉄道)】で全線非電化で開業(S48湊町⇔奈良電化)、近鉄の大阪線(難波⇔伊勢中川)と山田線(伊勢中川⇔山田【国鉄との共同駅】)で全線電化で開業です。関西線国有化前に、官鉄東海線との間で名古屋⇔大阪の旅客及び貨物の争奪戦を行っており国有化後は、余り線路強化はしませんでした。所要時間・輸送量に開きが有るので白旗を上げる結果に成ました。
関西本線経由の特急あすかを名古屋〜天王寺(回送で大阪環状線を周り特急くろしおと兼任)キハ80系じゃダメかよ
そもそも日本政府が運営する鉄道って地元私鉄にほとんど完敗だった筈ですが。国が鉄道管理することは、良くないことって言うのは第一次世界大戦前に既に言われていたこと。電車大国アメリカですら国営鉄道ってあまりいい話聞かないし、国で鉄道管理したら全国の鉄道網を一つの場所で管理しなきゃだから正直国営鉄道はどの国も必要ないんじゃないかな。私鉄だけの世界の方が、沿線自治体の活性化はし易いです。
🐸この声の人いろんな動画だしてるし頭いい人だよね
間違いが多すぎますもっとちゃんと調べてから動画を製作してください
昔の情報なんです仕方ないですよ
君が作れば?
BGMウルサイ!ヤメよ!
前面形状といい二階部のドーム型展望室といい当時の経営陣はアメリカ大陸横断列車に憧れを抱いていたんだろうなあ。
2M3Tでの釣り合い速度は120km/hで起動加速度は約2km/h/sです。それでも旧型の2200系より加速度が良く、近鉄のスタッフはギアレシオの選定に苦労したとかでした。😂😂😂
10000系初代ビスタカーは、試作車ゆえに短命でしたが、主要な機器類は、確かクロスシートの一般車2680系に再使用されたはずです。
2680系も冷房試作車で当時は背もたれの低いボックスシート(補助席つき)だった
2680系はその後、鮮魚列車に使用されました。
ボックスシートは2600系とともに2610系並みに改造、のちロングシートになりました
LCカー以外
実際に2680系に再利用されたのは電動車の主制御器と主電動機だけで、台車は新品が採用されました。
元の台車や残る電装品は車体共々何れも処分へ。
回転式クロスシートの一部が大井川鉄道に売却となりました。
ロングシートだった元名古屋鉄道3729−2829編成に、向かい合わせに固定の上設置。
ただこの座席は試作品故に座面が非常に固く、長時間座ると身体が痛くなるとの利用客からの不評が相次ぐ事態に。
結局1980年代後半に名鉄から再購入した、廃車発生品の転換式クロスシートと差し替えられてしまいました。
@@Series21next2680系はシートピッチは2600系と同じく1320mmでしたが、背もたれは最初からモケットの高いタイプでした。
ちょうど転換クロスの背もたれみたいな感じが垂直にたってましたよ。
初代、2代目ビスタカーとも派手な見た目の割に案外運用期間が短かったんだな!
その点3代目は40年以上、自分の子供の頃から今も走ってるからすごいな!
2代目も12編成が2000系に生まれ変わり残りは吊り掛け機器流用車の下回りと取り換えられ
制御器は30000系に使われたり(現在は18400系等の発生品と取替)
@@Series21next 話がそれて申し訳ありませんが、近鉄も他の私鉄も違う型の車両と連結をすることが多々ありますが、その場合上り下りの先頭となる車両はだいたい決まってますよね(例=旧スナックカーと旧エースカー併結の場合、名古屋方面=スナックカー先頭、難波、賢島方面=エースカー先頭など)。ずっと謎です。自分そこまで詳しくないのでもしご存知であれば教えていただけませんか。
@@やさしい日本語-k9s
号車番号大きい方に古い車両充当してる傾向があった
近鉄10000系、10100系が短命だったのは連接車だったのも一因。
連接車は整備などで車体を持ち上げる時に特殊なジャッキが必要らしく、そのジャッキが高安車庫にしか設置されておらず、メンテナンスが面倒だったらしい。
小田急でも連接車をやめて久しい。
今でも連接車が主力なのは江ノ電くらいだと思われる。
近鉄は10000系で、日本で戦後初の2階建て鉄道車両を誕生させただけでなく、「ビスタコーチ」という2階建てバスも日本で初めて導入し、2階建てのパイオニア的存在といえます!
名阪直通が実現した10100系も、ぜひ紹介してほしいです!
7:43 10100系も連接車ですよ
2代目も連接台車ですよね。
如何にも米国的な10000系、続く10100系は優しい和風調
アメリカの車両をモデルにしている為か 先頭部はアメリカの大陸を横断するディーゼル機関車みたいなデザイン。
ダブルデッカー部分のデザインも あちらの『ドームカー』と類似していますね。
この車両で得られたノウハウが 後の10100系に生かされた訳ですが その10100系も『連接車』ですよ。
10000系の足回りは通勤電車新造に流用していました。
代が進むたび二階席の窓の高さが低くなる感じです
まさに恐るべし近鉄特急の礎を築き上げた10000系初代ビスタカー、初代ビスタカーの意思を受け継ぎ、恐るべし近鉄特急は今日も走り続ける、
10000系と同じ空調システムを投入した旧エースカー(10400系)は後の更新で通勤車両みたいなクーラーに換装されたな。
近鉄は京都は小学生の修学旅行もお伊勢さんですからね 複数の小学校で合同で貸し切りの臨時列車を仕立ててました
青空っていう修学旅行専用車も有りましたよね
京都に限らず関西の小学校の修学旅行は伊勢方面が圧倒的に多いですね。
私は大阪人ですが、小学校の修学旅行は伊勢でした。
あおぞら号、往路で乗りました。
帰路は2680系でした。
私鉄電車ガイドブックの写真で初めて見て、その前頭部の強烈なデザインに驚きました。
しかし、その時には既に廃車解体後でした・・・・
この電車を造っただけでも
金メダルです。
10100系とともに、鉄道博物館に保存して欲しかった一台。どうして残っていないんだ(悲)…
近鉄は基本車両を残さないからなぁ
自社で保存したくないならどこかに託せばいいのに、とは思う
10100系に関しては、青山事故で上り列車に連結されていたから遺族感情を考慮して保存は見送ったという説がある。
ほらあんさん近鉄はリアリストやで。映像記録は銭かけて残してはり、その分現物保存は手薄になってるからホンマ。
@@exige4xz
買い取って保存してくれる個人なり法人がなかったのだからどうしようもない。
特に私鉄各社は、自社の経営方針として循環型社会の高度化実現を目標理念に掲げていて、基本的にはリサイクルという考え。
以下、自分の考えを述べますが
金属や樹脂やガラスを多用した鉄道車両というのは、素材資源の塊。特に最近の車両には半導体も使われている。
古くなり使えなくった車体を、次世代の鉄道車両へ生まれ変わらせることの何がいけないのか?
私がこう言えば、「遺産」やら「文化財的価値」などと言い返す人はいるが
鉄道車両に限らず、自動車・船舶・航空機といった輸送デバイスが有形文化財とか遺産として登録されたことはありません。そういうこと。
これ近鉄の中でも一番好きな車両😊
『アーバンライナーNEXT(201020系)』は 架線電圧が若干ダウンしていても 33‰を120km/h近くで駆け上がれるので それを考えると 今の電車は飛躍的に性能が上がっているのがわかります。
インバータ制御車は多少の過負荷も平気ですからね。
JR貨物のEF210は、関ケ原の急勾配を過負荷で走行することを前提に設計されていると言われてますね。
近鉄って大阪、名古屋、京都に一応乗り入れているけど、どれも大都市に片足突っ込んでるだけで、ほとんど場末を走る鉄道って感じ。なんか乗客とか、沿線の雰囲気は京急っぽい。
短命のヒーローと言えば小田急50000形、古くは国鉄157系がありますが、
近鉄にも短命ヒーローがいたんですね。
構造上の不都合が車両の活躍期間を短くしてしまうんですよね。
10000系といえば試作車ゆえ短命だっただけでなく、河内国分駅での事故も不運だった。
私の母親が事故直後の現場を見たとよく言ってました(事故の瞬間は見てないそうです)
10100系は連接車ですよ!
京阪80系
京阪で唯一近畿車輛製 近鉄顔
当時の近鉄特急のフォルムを路面電車に注ぎ込んだ名車 吊り掛け駆動ながら空気バネ台車 前面曲線ガラス フォールデングステップ装備スタイリッシュな車両
河内国分の事故は急行ではなくて準急です
冷房装置は旧鉄道省由来の「空気調和装置」KM-7型で、車軸駆動式から電動式に改めたが、さすがに旧式化は否めず、国鉄で同型機を使っていた最後のマロネ40形の引退(1970年)と前後して消えてしまった。
星のように登場して星のように解体されていった.......。そこまで神風をしなくてもよいのに。
大阪線と名古屋線の線路が連結されたときの試運転列車がコレ?だった。学校が線路脇にあり、高い運転台にどでかい車体の突然の出現に驚いたり感激したり。まだ昭和1桁製造の車両も残っていた時代で、未来が一挙に出現。
「近鉄中興の祖」佐伯勇・近畿日本鉄道代表取締役社長が、ちょうど2250系(大阪・山田線/標準軌)・6421系(名古屋線/狭軌)を名阪特急で運用していた頃でしょうか、アメリカへ鉄道視察に渡航していて「ドームカー」を乗車見学したところからヒントを得て、近畿車輛・ブリジストンそれに電機メーカーと共同開発を進めて生まれたのが、試作車だった10000系初代「ビスタカー」だと知りました。
スイスから導入したシュリーレン式台車に、世界初のゴムベローズ空気ばね。
青山峠での急勾配に、時速100kmで挑める大出力モーターと制御装置。
その技術の結晶は、10100系・2代目「ビスタカー」で現実のものになって名阪特急で遺憾なく成果を発揮します。
1970年以降に、後継系列にその役目を譲り使命を終えて引退。
2680系へ走り装置を移植しましたが、此方も既に歴史の彼方へ。
華々しいデビューを飾った割に、定員が特殊だった為、新しく導入された特急座席予約システムに支障を来す為に引退してしまいましたが、新機軸を数多く採用した初代ビスタカーは、その後に登場した特急車両に生かされてますね。
・10000系の登場時のカラーリングは紺地にオレンジの窓枠でしたが、後にオレンジ地に紺色の窓枠となりました。
このカラーリングの変更は何が切っ掛けなのでしょうか?
・近鉄の2階建て車両には旧ビスタカーから新ビスタカーやビスタカーIII世、団体列車の あおぞら号 や 楽 まで
例外なく車体側面に「VISTA CAR」のロゴが入っていますが、しまかぜ のカフェ車両は明らかに2階建てなのに
「VISTA CAR」ロゴが入っていません。
この理由はなぜなのでしょうか? 私はロゴを入れて欲しいとずっと思っています。
塗装変更のきっかけは10100系はじめ他の特急車両と共通にするためだそうです。
ちなみに変更途中では新旧混色編成でも営業しております。
もし66年の河内国分の事故で10006・10007が廃車になってたら、
その後は10001・10002のモーターを出力増強して5連運転を基本にするか、
10005の側に12000系や11400系を連結する形が基本になってたのかな?
ifを想像してみるのも面白そう
近鉄は、自社線内に、急勾配の区間があるから、JR並みに、車輛の耐久性だけでなく、快適さ、保守の面から、ハイレベルなスペックの車輛が要求される。モーターやシートについては、JRや私鉄他社の教科書とも云える技術がある。だからこそ、大破した前面スタイルは、復元してほしかった。
10000系は「犬顔」でしたが、10100系は「猫顔」でした。
因みに「ビスタⅠ世」から「ビスタⅢ世」までのビスタカーの変遷は、まるで「天下餅」みたいです(織田が搗き、羽柴が捏ねし天下餅、座りしままに喰らう徳川)。
カミさんによると幾つか間違いがあるそうで、まず「伊勢への遊山が敬遠されていた」ですがこれは大きく違い国鉄・私鉄問わず天皇家縁のお社への参詣はむしろ国家規模で推奨されており、目の敵と言うのは間違いだそうです。(宮脇俊三氏も伊勢・平安・橿原への参詣を戦中に体験されている)
「世界初の2階建て電車」と言う紹介もありますが、この頃にはアメリカのインターアーバンの車両に2階建て車両が存在する事から世界初ではありません。
そして最大の間違いは初代ビスタカーは2電動車ではなく4電動車であり、また2階建て車両も中間の1両だけの為、正確には「cM+M:cT+T(ビスタ)+Tc:cM+Mc」と言う編成が正解で、2階建ては1両しか存在しない&電動車が2両は間違いだそうです。
ちなみにビスタカーの冷房はcTとTc車から融通をしてもらって1両分を確保していたとの事でした。
近鉄の社史等に於いて初代ビスタカーは新しいサービスと革新的機構と言う物を構想して仕上げて行った車両であった事から1編成しか存在しなかったものの、ここで得る事ができたデータは後の2代目に引き継がれ、初代ビスタの2階建てや連接台車構造、増結に対応出来る様に貫通運転台車、走行機器を2両で納めるcM+T+Mcによる3両固定化と言う形に収まったと言う貴重な実績を残しての引退だったそうです。
参考までに名古屋線に於ける特急が10400系・11400系エースカーのTc車をビスタカーに増結させる方針があり、実際多客時には2代ビスタと汎用特急車の運用も見られたと言う足跡も残した上で自身のモーターは2680系に引き継がれ現在でも偲ぶ事が出来たりします。
丁寧なご訂正、誠にありがとうございます。このような情報は非常に有益でとても助かります!
「普通鉄道」での2階建て「電車」としては世界初らしいですよ。(路面電車では、大阪市電の5号形が日本初だそうですが。)
「また2階建て車両も中間の1両だけの為、正確には…」と「2階建ては1両しか存在しない&電動車が2両は間違いだそうです。」は、どっちが正解なんですか?
「間違いだそう」が&の前文に掛かっていないのなら意味がわかりますが。
ただ、動画内でもありましたが、10000系の中間車両は「2階建て+平床+2階建て」の3両固定編成なので、2両あるのが正解ですね。
2階建て車両は3号車と5号車の2両です。
>現在でも偲ぶ事が出来たりします
2680系(2001年、3代目の鮮魚列車に改造された2683F。2681Fについては2002年8月時点で廃車済:Wikipedia記事より)は2020年5月に廃車されており、現存しない。
9:33 ビスタカーってトビハゼトビーに似てると思う
戦後初の特急車は2250系ですが…
アメリカのディーゼル機関車そっくりでカッコいい。
はじめまして今日チャンネル登録をしましたよろしくお願いいたします
1編成に、連結車と連接車両方で1つの編成を組成させて運用した車両って、
今のところ後にも前にもこの、
10000系初代ビスタカーONLYだろうな😃✨️
この特徴的な先頭の流線型が、
当時🎬️「モスラ」の幼虫、ってアダ名だったな😁👍✨️
きんてつより先にアメリカで2階建て車両が走ってたんだな~❗️
あちらは建築限界が大きいから、2階建ても簡単だったと思われる。
この頃の列車のトイレットは垂れ流しじゃなかったか?
近鉄は昭和44年から順次、トイレのタンク式改造を進めて行ったみたいで、この10000系は昭和46年に改造でタンク式になったそうですよ。
昭和45年に2階建て車両3号車の運転台を撤去してタンク式トイレが設置されました。
bgmがモーツァルトのメヌエットなのは何故?
事故復旧は流線型での復旧は時間が掛かるので、急遽あの顔にして復旧する選択の結果なのだが、そこでも失敗が有り、貫通扉の星マークと特急と行先表示が、18200系に比べ窓から100ミリ余分に下がっている為に、だらしない印象になった、これは図面を作る時に間違えての結果だった。
伊勢中川の配線図がウィキからとってきた現在のものを塗りつぶしただけで、ひどいです。阪伊特急の上下と名古屋線の特急は対面乗り換えできるようになっていました。
難波線は、試運転で入っていますよ。
それは、知りませんでした。少し古いですが、近鉄の話では、難波には乗り入れていないと言われました。
連接車などなかったかのように・・・って何いってんだ?
疑問なんですけど、国鉄は日光観光においては東武と曲がりなりにも競合しましたよね(負けはしたけど)。なのに、なんで伊勢観光は始めから近鉄グループに白旗を上げたんだろう? 伊勢参りは上方落語のネタにしばしば挿入されているように、江戸時代から大阪人にとっては定番の観光ルートでした。需要は確実に存在したのにもかかわらず、です。
説明すると、国鉄の関西線(旧関西鉄道)の湊町(現JR難波)から亀山で分岐して参宮線の山田(現伊勢市で伊勢神宮外宮の最寄り駅)【亀山⇔津(関西鉄道)・津⇔山田(参宮鉄道)】で全線非電化で開業(S48湊町⇔奈良電化)、近鉄の大阪線(難波⇔伊勢中川)と山田線(伊勢中川⇔山田【国鉄との共同駅】)で全線電化で開業です。
関西線国有化前に、官鉄東海線との間で名古屋⇔大阪の旅客及び貨物の争奪戦を行っており国有化後は、余り線路強化はしませんでした。所要時間・輸送量に開きが有るので白旗を上げる結果に成ました。
関西本線経由の特急あすかを
名古屋〜天王寺
(回送で大阪環状線を周り特急くろしおと
兼任)
キハ80系じゃダメかよ
そもそも日本政府が運営する鉄道って地元私鉄にほとんど完敗だった筈ですが。国が鉄道管理することは、良くないことって言うのは第一次世界大戦前に既に言われていたこと。電車大国アメリカですら国営鉄道ってあまりいい話聞かないし、国で鉄道管理したら全国の鉄道網を一つの場所で管理しなきゃだから正直国営鉄道はどの国も必要ないんじゃないかな。私鉄だけの世界の方が、沿線自治体の活性化はし易いです。
🐸この声の人いろんな動画だしてるし頭いい人だよね
間違いが多すぎます
もっとちゃんと調べてから動画を製作してください
昔の情報なんです
仕方ないですよ
君が作れば?
BGMウルサイ!
ヤメよ!