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松阪出身のものです。よく知られた話ですが、松阪では、氏郷公を慕い毎年氏郷祭りが行われています。そして私も小さい頃から、氏郷さんは・・・・・という話を聞かされて育ちました。本当にみんな氏郷公を誇りに思っています。
蒲生氏郷の辞世の句がめっちゃ好きです。
氏郷は信長の野望では常に傍において重用してたなぁ、好きな武将のひとりです!正室の冬姫の動画あれば見たいです!
近江日野の出身です。番組で言われている日野城ではなく中野城です。中野城から馬見ヶ丘神社の途中に、氏郷が小さい頃、遊んでいた松の林があります。若松といいます。氏郷が会津にいたころ、その若松を懐かしんで会津若松と名付けたと言われています。また、いまでも日野には、玉受けという地名が残り、この町で日野鉄砲が作られていました。長浜の国友とならぶ、鉄砲の生産ができる城下町でもありました。この町で作られていた漆椀が、後に会津塗椀になったのです。六角氏につかえていたころ、沢山の武将が観音寺から日野中野城に移ってきました。氏郷の妻の結婚した頃の名前は冬姫です。
身近な場所から知り得る情報を有りがとうございます。わくわくしますね。
蒲生氏郷と堀秀政は秀吉の両輪。どちらも短命だったのが惜しまれます。
どちらも秀吉が暗殺したから因果応報。
蒲生風呂の話は良い話。こういう事やられたら「どこまでもついて行きますぜ」ってなるわな。
数少ない文武両道の武将です時代が違っていたら天下を獲っていてもおかしくなかった長生きしていたとしても周辺は徳川、伊達、上杉と有力大名だらけだったので心労がたまり苦労していたのではないか
蒲生氏郷あざっす。一番好きな武将
関ヶ原までこの人が生きていたらどう動いたでしょう。知勇兼備にして文政を識る大才❗二物も三物も与えられながら天命のみ与えられぬとは😢
会津に移封後の蒲生氏郷は、伊達政宗とかなり緊張関係にあったようですが、秀吉家中で「鄙の都人」と称賛された政宗と氏郷は、文化面でもいい勝負だったということですね。尤も、二人とも藤原氏の血筋ですよね。-加賀百万石の城下町金沢は、今でも小京都と称されるくらい、宝生能を初めとする伝統芸能、加賀友禅、輪島塗を初めとする伝統工芸、それに新井白石に「加賀は天下の書庫」と言わしめた充実した文庫と学者陣を擁する文化都市。でも、加賀藩がその文化を誇るようになったのは、江戸時代の利常、綱紀の時代から。藩祖前田利家の文化的教養が政宗、氏郷と張り合えるレヴェルだったかどうかは心もとない。もしかしたら、菅家にあやかって梅鉢紋を借用していた利家は、秀吉時代に政宗や氏郷のような血筋の良い文武両道の武将をみて、太平の世の武将はこうあらねばならないと思ったのかもしれませんね。-でもそれで、徳川300年の太平の世を通じて、副将軍とまでよばれた政宗の伊達藩を凌ぐほどの文化を育てたのが、加賀前田藩の凄さかな?加賀前田藩は、徳川将軍家を除けば、石高でも第一位の裕福な藩で、京都にも近いという利点はあったのでしょうが、海外貿易で栄え、いち早く西洋文化にも触れて幕末で活躍した島津藩などと比べても、伝統文化の奥深さという意味では群を抜いているものね。
信長と稲葉一鉄が夜遅くまで次の戦の作戦を話し合っていた時、まだ13歳の氏郷が小姓として同席していたそうです。その話を一心不乱に聞いている氏郷に一鉄が「ずいぶん熱心に聞いてるけど話の内容を理解できるのか?」と尋ねると、氏郷は「はい。一通りはわかります」と答えだそうです。それを聞いた一鉄は「この子は只者ではない、ひとかどの優れた武将になる」と高く評価してそうですよ。あの秀吉もが恐れたと言われてますから若い時から只者ではなかったんですね。
信長が降将の息子であるにも関わらず娘婿にするくらいですからね。
なんか後世の創作逸話みたいだよな
@@明治大正昭和平成 蒲生美化の逸話の元ネタ見ると常山紀談とか後世の逸話集ばかりだからこれも後世の創作だと思ってる元ネタ不明だし
蒲生を「ガモフ」と呼べば、ウクライナ出身の物理学者になるね。
松坂城のことは三重歴史でも知られた話し
天下人になれる器だったよな長生きしていればなあ
家臣団の統制すらままならなかったのに何が天下人の器だよ過大評価にも程がある長生きしてたら在命時に騒動起きて今より評価下がった可能性すらある
会津統治や家臣団の統率のままならないような武将が天下人とか過大評価にも程がある長生きしてたら評価下がっただけだろう
氏郷は利休の弟子ですね
家臣に優しいエピソードが多く歴史好きから評価が高い蒲生氏郷だが後の蒲生騒動に繋がる家臣団の分裂は氏郷時代から既に始まっててたりする家臣に優しかったのも氏郷の性格以上にそれくらい接待しないといけなかった立場だっただけじゃないかとさえ思ってる
Good job 👍 of Japan 🇯🇵
早死にが惜しまれる。後は息子、孫がマトモなら…
百名城巡りで、松阪城、鶴ヶ城の城主ってことでこの人肖像の絵は覇気無いけど、結構凄いのでは?程度に漠然としか知らなかったので色々知れてよかったです。松阪や会津の街を見ると武勇だけでなく統治者として優秀だったってのが良くわかります。
もう少し長生きしていれば歴史は変わっていたでしょうね。
蒲生氏郷と伊達政宗を、よく対峙して言いますが、会津転付の当時 政宗ファンの方には悪いけど、石高はもちろん武将としての力量、振る舞い、全てにおいて氏郷が勝る。秀吉が、もう少し氏郷側ならば 一揆の責任を負って、政宗は改易になっていてもおかしくなかった。
会津での内政や現地勢力の調整に四苦八苦してて家康にフォローして貰ってたのが当時の蒲生の状況この状況下で伊達を改易なんてさせたら葛西大崎一揆を遥かに超える大規模な一揆が起きる&その後の後始末もしなきゃいけない蒲生の事を思ってるのなら尚更伊達の改易処置は非現実的氏郷も氏郷で伊達の抑えに一杯一杯で家臣団の統率も出来ずに結局子孫の改易招いてる時点で政宗と大差ない過大評価だと思ってる
蒲生4丁目住んでました
蒲生氏郷前田利家が長生きしていたら徳川家康を抑えれたと思ってる
社長の器
語り部がよか
蒲生氏郷、京極高次は浅井長政の家臣だったんじゃないの…違ったかな?浅井長政の元主君が、六角義賢だったように記憶したが…。平将門の乱…に登場する藤原秀郷の子孫という話は、初めて知りました。
蒲生氏は六角家臣、京極氏は浅井の主君筋ですよ。ちなみに浅井が六角に従ったのは、浅井長政の父久政がボンクラだったから。
明智実。明智光秀嫡流だ。動画ほぼ毎日アップしてるので、ご覧ください。明日、岐阜市歴史博物館に(島津分家)中務大輔家久上京日記(国宝)の1575年5月14日、15日の条(明智坂本湖城の記録)を見に行くので、この動画を見た。昔、宮崎市に帰省した女性と遠距離恋愛してて、鶴丸城(鹿児島城)本丸の黎明館(博物館)に、この国宝を見にデートしたことある。明智光秀が日向守を名乗ってたので、研究を兼ねて、宮崎の女性と遠距離恋愛した。鶴丸平城は石垣で、本丸大手には桝形虎口があった。単純な単郭城と思ってたが、2の丸と丘城(展望台)もあるのを知った。本に単郭と書いてたので、そう思ってたが、本がうそついてた(奈良系の本か)。14歳、15歳の頃、クラスにいた学年1の美女(本当は日本1の美女と後で知った)に片想いしてた、平田朋子という。明智光秀の家来衆に平田がいた。超美形の平田は岐阜県の侍と考えてたが、薩摩の士だったようだ、島津家久と来て坂本湖城に住み着き、取次してた。1750年頃、濃尾3川治水で有名な平田かげ負(薩摩藩士、幕命だったが、藩論に反対も多く、工事費が40万両かかり、責任取って自刃したという)がいる。昔、華原「朋」美と名付けて、歌手デビューさせ、有線最優秀新人賞(I BELIEVE)、翌年レコード優秀賞(I’m proud)取らせた。明智実は、3歳の最初の作詞曲からレコード大賞取ってるけど、20歳以上年取った男女にも、名付け(4字書き出し、5字書き出し)て歌手させてる。土岐一族は123いたので、日本の有力な歌手を123(AKB48、SKE48とか)名付けて作った。明智光秀は、西に向かう場合、西に向いて陣張ってる場合に、日向守と書く場合が多い。明智光秀が連歌1なので、明智実は日本国ポップ音楽1をしてる。小室哲哉には、演奏させてたが、ユーロビートで、聞いてて心臓が痛くなる危険さがあったので、休業させる判断し、AKB48(明智、AKCに近い名、東京の地図見てて東京駅の隣駅に秋葉原とあった)に交替した。華原朋美にお久しぶりとメールしたら、すぐ気づいて音楽番組に出だしたが、結婚したいとかしつこい竹田というブサ顔のおっさん(慶応大学のくせにブサ顔)に付きまとわれ出した。華原朋美にまたメールし、竹田は危険だから、止めるよう勧めた。竹田は太平洋戦争まで皇族だったが、GHQに皇族から除籍された(戦犯だからだ)、とTVで言ってた。天皇(大王)は、朝鮮支配を狙い、古墳、奈良時代まで渡来人と混血してた。先祖は、清和天皇(妻は藤原明子で奈良市帯解にずっと住んでたらしい)だけど、藤原にだまされ、断食したり、28歳で死んだ話、子も28歳で死んだ話。天皇、公家については、解りにくいので、麒麟がくるで、珍しく直直に原作して研究してる(大河ドラマ史上最高の出来と高評価されてる、自分に拍手だ)。奈良市帯解近辺の豪族に、筒井(明智光秀の男子が、養嗣子にいた説があるが、反故にされたか、当然男子を持たなかった筒井順慶の一族から養子に入ったとかいう定次が継ぎ、伊賀国に転封され、伊賀忍者に毒殺された、伊賀の土豪を虐殺してた。椿尾上山山城、本丸に土塁無し。)、古市(京都で暴れて衰退した。山城持たずだった)がいた。字数満杯ですが、最後になりましたが、麒麟がくる時代考証者に推薦した小和田哲男さん、岐阜県が誇る美形ユーチューバーの歴ぴーさん、te tuさん、岐阜市在住ユーチューバーの雑学スタジオさん、他のユーチューバーさん、こういう研究内容で、動画作成しててください、動画見てます。文作成に2時間かかった。2020年10月7日夜。
明智実。明智光秀嫡流だ。明智光秀の研究用の計3000本の動画から、精選した動画をアップしてるので、ご覧ください。それとお撮り溜めの中から、世保土岐家が伊勢北半の守護大名をしてたのですが、記録がとぼしく伊勢国では珍しい土岐一族の城である、土岐保々西丘城、土岐梅戸丘城の動画アップを希望します!。お詳しい方なので、伊勢の城についても動画撮影希望します。1584年4月に筒井順慶は、北畠信雄の伊勢松が島海城を落城させたが、7月に煩い、8月11日に病没した。4月4日条(多聞院日記)に、「椿尾討死」、「白土箸尾万歳衆手負云々」と見える。やぶ蚊、蜘蛛の巣、毛虫が嫌いなので、明智光秀の美濃国、近江国の全城(「近州、濃州悉く平均申し付け、覚悟に任せ候」明智光秀書状)、丹波国の全城(丹後丹波両国一篇に申付け」(信長公記)、明智光秀が摂津河内近江に築城した付城ぐらいしか見に行かない。明智光秀と同盟してた、関西西東海の守護、守護代、守護代格の山城ぐらいしか見に行かない。水谷哲也さん、伊勢国の治田山山城、大井田丘城の解り易い動画、ありがとう。北方伊勢48人衆というのは、多過ぎて、誰かのうそかと思います。2020年10月10日。
明智実。明智光秀嫡流だ。動画をアップしてるので、ご覧ください。中島卓偉さん、城の動画面白い、城の見所をよく理解してる、時間が「透明」けたら(できたら)順次見ようと考えてる。先祖が作った明智周山山城の小姓丸の長い石垣の横歩いてるの、面白かった、本丸天主台から離れて、脇道歩くことはないので、役に立った。四条畷市の地元で毛虫山と呼ばれてる飯盛山山城について、山頂尾根道しか歩いたこと無いので、下段の郭の長い石垣(武家屋敷跡)の撮影良かった、木造櫓台の所に下段の郭に行く階段があったのか、役に立った。僕が見晴らしが良くなるよう、芥川山山城の本丸から3の丸まで樹木を伐採させた、中島卓偉さん2の丸まで行って、帰ったみたいだけど、その上に本丸があったよ、気付かなかったみたい、飯盛山山城と連ちゃん撮影で疲れてたか。高槻平城は明智一族の妻木が作った。僕が、大和郡山丘城は、大手門多聞櫓と大手向かい櫓を作らせたよ、明智光秀は大和郡山丘城に人足を送り込み、築城してた記録がある(多聞院日記)、この城も明智光秀が築城主で城の縄張りしてたみたい。狭間の前に寝そべって狭間から覗く撮影、面白かった。明智実が、大和郡山丘城の道路の東向かいに、市立図書館も作らせた。林山山城(大城)本丸の見所の土塁歩き撮影は、僕が昔ユーチューブで希望してたんだね、まだ行ったことない、役に立った。林山山城(大城)と林山山城(小城)はV字山城になってて、大づく山山城(1万5千兵籠城と信長公記に記録あり)と小谷山山城(8千兵籠城)が籠城できるよう柵を1直線に作り清水谷を取り込んだみたいで、現在研究してる。明智光秀の家来だった柴田勝定(1千兵)の一族柴田勝家(4か国支配)の玄蕃尾山山城は4か国支配してた武田勝頼の新府丘城と同程度の大きさの規模で、越前国と北郡(江北)を繋ぐ巨大な国境の山城だな、高い土塁から土塁を走って下って勢いのまま登る渡り撮影、凄く面白く笑ってしまった。明智実が、近所に住んでた女性を中島美嘉と名付けて、10曲程度作詞作曲歌唱同時して、歌手デビューさせ、現在に至ってる、代表曲の雪の華も僕が作詞作曲歌唱同時した、オリオン、STARSを希望して音楽番組で歌ってもらった。文作成に1時間10分かかった。2020年10月20日。
松阪出身のものです。
よく知られた話ですが、
松阪では、氏郷公を慕い毎年氏郷祭りが行われています。
そして私も小さい頃から、氏郷さんは・・・・・
という話を聞かされて育ちました。
本当にみんな氏郷公を誇りに思っています。
蒲生氏郷の辞世の句がめっちゃ好きです。
氏郷は信長の野望では常に傍において重用してたなぁ、好きな武将のひとりです!
正室の冬姫の動画あれば見たいです!
近江日野の出身です。番組で言われている日野城ではなく中野城です。中野城から馬見ヶ丘神社の途中に、氏郷が小さい頃、遊んでいた松の林があります。若松といいます。氏郷が会津にいたころ、その若松を懐かしんで会津若松と名付けたと言われています。また、いまでも日野には、玉受けという地名が残り、この町で日野鉄砲が作られていました。長浜の国友とならぶ、鉄砲の生産ができる城下町でもありました。この町で作られていた漆椀が、後に会津塗椀になったのです。六角氏につかえていたころ、沢山の武将が観音寺から日野中野城に移ってきました。氏郷の妻の結婚した頃の名前は冬姫です。
身近な場所から知り得る情報を有りがとうございます。わくわくしますね。
蒲生氏郷と堀秀政は秀吉の両輪。
どちらも短命だったのが惜しまれます。
どちらも秀吉が暗殺したから因果応報。
蒲生風呂の話は良い話。
こういう事やられたら「どこまでもついて行きますぜ」ってなるわな。
数少ない文武両道の武将です
時代が違っていたら天下を獲っていてもおかしくなかった
長生きしていたとしても周辺は徳川、伊達、上杉と有力大名だらけだったので心労がたまり苦労していたのではないか
蒲生氏郷あざっす。一番好きな武将
関ヶ原までこの人が生きていたらどう動いたでしょう。
知勇兼備にして文政を識る大才❗
二物も三物も与えられながら天命のみ与えられぬとは😢
会津に移封後の蒲生氏郷は、伊達政宗とかなり緊張関係にあったようですが、秀吉家中で「鄙の都人」と称賛された政宗と氏郷は、文化面でもいい勝負だったということですね。尤も、二人とも藤原氏の血筋ですよね。
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加賀百万石の城下町金沢は、今でも小京都と称されるくらい、宝生能を初めとする伝統芸能、加賀友禅、輪島塗を初めとする伝統工芸、それに新井白石に「加賀は天下の書庫」と言わしめた充実した文庫と学者陣を擁する文化都市。
でも、加賀藩がその文化を誇るようになったのは、江戸時代の利常、綱紀の時代から。藩祖前田利家の文化的教養が政宗、氏郷と張り合えるレヴェルだったかどうかは心もとない。
もしかしたら、菅家にあやかって梅鉢紋を借用していた利家は、秀吉時代に政宗や氏郷のような血筋の良い文武両道の武将をみて、太平の世の武将はこうあらねばならないと思ったのかもしれませんね。
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でもそれで、徳川300年の太平の世を通じて、副将軍とまでよばれた政宗の伊達藩を凌ぐほどの文化を育てたのが、加賀前田藩の凄さかな?
加賀前田藩は、徳川将軍家を除けば、石高でも第一位の裕福な藩で、京都にも近いという利点はあったのでしょうが、海外貿易で栄え、いち早く西洋文化にも触れて幕末で活躍した島津藩などと比べても、伝統文化の奥深さという意味では群を抜いているものね。
信長と稲葉一鉄が夜遅くまで次の戦の作戦を話し合っていた時、まだ13歳の氏郷が小姓として同席していたそうです。その話を一心不乱に聞いている氏郷に一鉄が「ずいぶん熱心に聞いてるけど話の内容を理解できるのか?」と尋ねると、氏郷は「はい。一通りはわかります」と答えだそうです。それを聞いた一鉄は「この子は只者ではない、ひとかどの優れた武将になる」と高く評価してそうですよ。あの秀吉もが恐れたと言われてますから若い時から只者ではなかったんですね。
信長が降将の息子であるにも関わらず娘婿にするくらいですからね。
なんか後世の創作逸話みたいだよな
@@明治大正昭和平成 蒲生美化の逸話の元ネタ見ると常山紀談とか後世の逸話集ばかりだからこれも後世の創作だと思ってる
元ネタ不明だし
蒲生を「ガモフ」と呼べば、
ウクライナ出身の物理学者になるね。
松坂城のことは三重歴史でも知られた話し
天下人になれる器だったよな
長生きしていればなあ
家臣団の統制すらままならなかったのに何が天下人の器だよ
過大評価にも程がある
長生きしてたら在命時に騒動起きて今より評価下がった可能性すらある
会津統治や家臣団の統率のままならないような武将が天下人とか過大評価にも程がある
長生きしてたら評価下がっただけだろう
氏郷は利休の弟子ですね
家臣に優しいエピソードが多く歴史好きから評価が高い蒲生氏郷だが後の蒲生騒動に繋がる家臣団の分裂は氏郷時代から既に始まっててたりする
家臣に優しかったのも氏郷の性格以上にそれくらい接待しないといけなかった立場だっただけじゃないかとさえ思ってる
Good job 👍 of Japan 🇯🇵
早死にが惜しまれる。
後は息子、孫がマトモなら…
百名城巡りで、松阪城、鶴ヶ城の城主ってことでこの人肖像の絵は覇気無いけど、結構凄いのでは?程度に漠然としか知らなかったので色々知れてよかったです。松阪や会津の街を見ると武勇だけでなく統治者として優秀だったってのが良くわかります。
もう少し長生きしていれば歴史は変わっていたでしょうね。
蒲生氏郷と伊達政宗を、よく対峙して言いますが、会津転付の当時 政宗ファンの方には悪いけど、石高はもちろん武将としての力量、振る舞い、全てにおいて氏郷が勝る。
秀吉が、もう少し氏郷側ならば 一揆の責任を負って、政宗は改易になっていてもおかしくなかった。
会津での内政や現地勢力の調整に四苦八苦してて家康にフォローして貰ってたのが当時の蒲生の状況
この状況下で伊達を改易なんてさせたら葛西大崎一揆を遥かに超える大規模な一揆が起きる&その後の後始末もしなきゃいけない
蒲生の事を思ってるのなら尚更伊達の改易処置は非現実的
氏郷も氏郷で伊達の抑えに一杯一杯で家臣団の統率も出来ずに結局子孫の改易招いてる時点で政宗と大差ない過大評価だと思ってる
蒲生4丁目住んでました
蒲生氏郷前田利家が長生きしていたら徳川家康を抑えれたと思ってる
社長の器
語り部がよか
蒲生氏郷、京極高次は浅井長政の家臣だったんじゃないの…違ったかな?
浅井長政の元主君が、六角義賢だったように記憶したが…。
平将門の乱…に登場する
藤原秀郷の子孫という話は、初めて知りました。
蒲生氏は六角家臣、京極氏は浅井の主君筋ですよ。
ちなみに浅井が六角に従ったのは、浅井長政の父久政がボンクラだったから。
明智実。明智光秀嫡流だ。動画ほぼ毎日アップしてるので、ご覧ください。明日、岐阜市歴史博物館に(島津分家)中務大輔家久上京日記(国宝)の1575年5月14日、15日の条(明智坂本湖城の記録)を見に行くので、この動画を見た。昔、宮崎市に帰省した女性と遠距離恋愛してて、鶴丸城(鹿児島城)本丸の黎明館(博物館)に、この国宝を見にデートしたことある。明智光秀が日向守を名乗ってたので、研究を兼ねて、宮崎の女性と遠距離恋愛した。鶴丸平城は石垣で、本丸大手には桝形虎口があった。単純な単郭城と思ってたが、2の丸と丘城(展望台)もあるのを知った。本に単郭と書いてたので、そう思ってたが、本がうそついてた(奈良系の本か)。14歳、15歳の頃、クラスにいた学年1の美女(本当は日本1の美女と後で知った)に片想いしてた、平田朋子という。明智光秀の家来衆に平田がいた。超美形の平田は岐阜県の侍と考えてたが、薩摩の士だったようだ、島津家久と来て坂本湖城に住み着き、取次してた。1750年頃、濃尾3川治水で有名な平田かげ負(薩摩藩士、幕命だったが、藩論に反対も多く、工事費が40万両かかり、責任取って自刃したという)がいる。昔、華原「朋」美と名付けて、歌手デビューさせ、有線最優秀新人賞(I BELIEVE)、翌年レコード優秀賞(I’m proud)取らせた。明智実は、3歳の最初の作詞曲からレコード大賞取ってるけど、20歳以上年取った男女にも、名付け(4字書き出し、5字書き出し)て歌手させてる。土岐一族は123いたので、日本の有力な歌手を123(AKB48、SKE48とか)名付けて作った。明智光秀は、西に向かう場合、西に向いて陣張ってる場合に、日向守と書く場合が多い。明智光秀が連歌1なので、明智実は日本国ポップ音楽1をしてる。小室哲哉には、演奏させてたが、ユーロビートで、聞いてて心臓が痛くなる危険さがあったので、休業させる判断し、AKB48(明智、AKCに近い名、東京の地図見てて東京駅の隣駅に秋葉原とあった)に交替した。華原朋美にお久しぶりとメールしたら、すぐ気づいて音楽番組に出だしたが、結婚したいとかしつこい竹田というブサ顔のおっさん(慶応大学のくせにブサ顔)に付きまとわれ出した。華原朋美にまたメールし、竹田は危険だから、止めるよう勧めた。竹田は太平洋戦争まで皇族だったが、GHQに皇族から除籍された(戦犯だからだ)、とTVで言ってた。天皇(大王)は、朝鮮支配を狙い、古墳、奈良時代まで渡来人と混血してた。先祖は、清和天皇(妻は藤原明子で奈良市帯解にずっと住んでたらしい)だけど、藤原にだまされ、断食したり、28歳で死んだ話、子も28歳で死んだ話。天皇、公家については、解りにくいので、麒麟がくるで、珍しく直直に原作して研究してる(大河ドラマ史上最高の出来と高評価されてる、自分に拍手だ)。奈良市帯解近辺の豪族に、筒井(明智光秀の男子が、養嗣子にいた説があるが、反故にされたか、当然男子を持たなかった筒井順慶の一族から養子に入ったとかいう定次が継ぎ、伊賀国に転封され、伊賀忍者に毒殺された、伊賀の土豪を虐殺してた。椿尾上山山城、本丸に土塁無し。)、古市(京都で暴れて衰退した。山城持たずだった)がいた。字数満杯ですが、最後になりましたが、麒麟がくる時代考証者に推薦した小和田哲男さん、岐阜県が誇る美形ユーチューバーの歴ぴーさん、te tuさん、岐阜市在住ユーチューバーの雑学スタジオさん、他のユーチューバーさん、こういう研究内容で、動画作成しててください、動画見てます。文作成に2時間かかった。2020年10月7日夜。
明智実。明智光秀嫡流だ。明智光秀の研究用の計3000本の動画から、精選した動画をアップしてるので、ご覧ください。それとお撮り溜めの中から、世保土岐家が伊勢北半の守護大名をしてたのですが、記録がとぼしく伊勢国では珍しい土岐一族の城である、土岐保々西丘城、土岐梅戸丘城の動画アップを希望します!。お詳しい方なので、伊勢の城についても動画撮影希望します。1584年4月に筒井順慶は、北畠信雄の伊勢松が島海城を落城させたが、7月に煩い、8月11日に病没した。4月4日条(多聞院日記)に、「椿尾討死」、「白土箸尾万歳衆手負云々」と見える。やぶ蚊、蜘蛛の巣、毛虫が嫌いなので、明智光秀の美濃国、近江国の全城(「近州、濃州悉く平均申し付け、覚悟に任せ候」明智光秀書状)、丹波国の全城(丹後丹波両国一篇に申付け」(信長公記)、明智光秀が摂津河内近江に築城した付城ぐらいしか見に行かない。明智光秀と同盟してた、関西西東海の守護、守護代、守護代格の山城ぐらいしか見に行かない。水谷哲也さん、伊勢国の治田山山城、大井田丘城の解り易い動画、ありがとう。北方伊勢48人衆というのは、多過ぎて、誰かのうそかと思います。2020年10月10日。
明智実。明智光秀嫡流だ。動画をアップしてるので、ご覧ください。中島卓偉さん、城の動画面白い、城の見所をよく理解してる、時間が「透明」けたら(できたら)順次見ようと考えてる。先祖が作った明智周山山城の小姓丸の長い石垣の横歩いてるの、面白かった、本丸天主台から離れて、脇道歩くことはないので、役に立った。四条畷市の地元で毛虫山と呼ばれてる飯盛山山城について、山頂尾根道しか歩いたこと無いので、下段の郭の長い石垣(武家屋敷跡)の撮影良かった、木造櫓台の所に下段の郭に行く階段があったのか、役に立った。僕が見晴らしが良くなるよう、芥川山山城の本丸から3の丸まで樹木を伐採させた、中島卓偉さん2の丸まで行って、帰ったみたいだけど、その上に本丸があったよ、気付かなかったみたい、飯盛山山城と連ちゃん撮影で疲れてたか。高槻平城は明智一族の妻木が作った。僕が、大和郡山丘城は、大手門多聞櫓と大手向かい櫓を作らせたよ、明智光秀は大和郡山丘城に人足を送り込み、築城してた記録がある(多聞院日記)、この城も明智光秀が築城主で城の縄張りしてたみたい。狭間の前に寝そべって狭間から覗く撮影、面白かった。明智実が、大和郡山丘城の道路の東向かいに、市立図書館も作らせた。林山山城(大城)本丸の見所の土塁歩き撮影は、僕が昔ユーチューブで希望してたんだね、まだ行ったことない、役に立った。林山山城(大城)と林山山城(小城)はV字山城になってて、大づく山山城(1万5千兵籠城と信長公記に記録あり)と小谷山山城(8千兵籠城)が籠城できるよう柵を1直線に作り清水谷を取り込んだみたいで、現在研究してる。明智光秀の家来だった柴田勝定(1千兵)の一族柴田勝家(4か国支配)の玄蕃尾山山城は4か国支配してた武田勝頼の新府丘城と同程度の大きさの規模で、越前国と北郡(江北)を繋ぐ巨大な国境の山城だな、高い土塁から土塁を走って下って勢いのまま登る渡り撮影、凄く面白く笑ってしまった。明智実が、近所に住んでた女性を中島美嘉と名付けて、10曲程度作詞作曲歌唱同時して、歌手デビューさせ、現在に至ってる、代表曲の雪の華も僕が作詞作曲歌唱同時した、オリオン、STARSを希望して音楽番組で歌ってもらった。文作成に1時間10分かかった。2020年10月20日。