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慈悲と利他に歓びを持てることが幸せな心境です。その心を持てることが、一番の安穏で感謝です。
長老かっこいい🥰精進します🙏✨
まさに今,日本人に必要な講義。
聖書が神の言葉でそれを信仰実践すると救いにはいれる。ずーっと学んで問題だと想うい何故その様に、、、。自分なりに結論が出ました。
老師のお話を心の傷口にメンタームの様に良く良くすり込んでおく、傷が治りますように
ほんと、信仰は危険です信じてはいけない騙せられるだけですあなたがただ、日々の生活を淡々と誰にも依存することなく行うことを願います
有り難うございます。繰り返し繰り返し…。有り難うございます。お言葉全て納得させて頂きました。
自分もまあ高齢で、今までの社会生活の中いろいろな疑問理不尽な事に対する怒り、…などいろいろ感じるところがあり、40年間いろんな宗教の教えも、読み漁りその疑問や腑に落ちない事について調べてみましたが、いろんな宗教の方に聞くとすぐに、信じる、とか信心、とかそんな事を軽々しく勧めてきます、宗教についても他に言いたいことはたくさんありますが今回は世間で言う教義など、何かというとすぐに言う「信じなさい」・と言うが・そこについて思う事・・・・・まず、自分たちにとって都合のいい事、を(信じたい)と言う習性が有りますだから、信じると言う事であって、大きな観点から俯瞰して・・信じるに足るものか??を客観的に観て整合性、妥当性について深く考えれば納得のいくものではない事が多いです、ほとんどは今の自分にとって都合がいいから信じるのですそしてだいたい来世とかジョウブツとか証明のしようのないものを基盤にしてそのうえで、の理論で説明します例えば「見たことないので信じられません」と言うと「見えないものにも存在するものは有ります」・・・と言う・ので反論しにくい・しかし・自分はいつも思う・・一理あるようだが正しい説明にはならない低い可能性がある・・ただそれだけで見えないが、そこに有る(存在する)と言うことの証明には全くなっていないなのに皆、見えないけどある、かもしれないという心があると・そこで胡麻化される・・「かも知れない」は証明したことにはならない見えないものには存在しないものの方が多い・・と可能性の多い方から論ずるべきである・・とまあ人間なんて言うものは、自分にとって都合のいいことを信じたいものであり、変てこな理屈をこねて、深く考える事を面倒がり、努力しないで楽して善人になれる事、何かに悪さをされない事、出来るだけ楽しいところで永遠に居たいし行きたい、そんな勝手な希望を、叶えてくれそうなちょうどいい言葉だけかき集めて組み立てて正当化する理論で悦に入ってそれを「信じて」るというそう言う動物です・・極論すると。例えば金を貸した相手に、自分への返済について「私はあなたを信じている」・・・と言うが・・きれいな言葉のように聞こえるがある意味身勝手な所が多い言葉・・・みんな全ての人は、その時々の自分の都合が一番大切なのです、いくら信じてもらってもその時の状態が返せない状態なら返すことは出来ませんだいたい足りなくて苦しいから借るのであって予定通り返せる見込みがあるんなら最初から借らないよそれが合理的で妥当で正しい理論です「信じてやったのにろくなもんじゃない」と言う前に貸した時から返って来ないかもしれない事は覚悟し準備しておくこと、貸したじゃなくって、やった、と思っていた方がいい、それが賢明な人の考える事だ、嫌なら貸さない事だ「信じる」なんて意味のない罪作りな奇麗ごとを言わないで済む世の中一寸先は何がおこるか解りません、有ってはならない事が必ず有るのが現実で世の習いですまあ「信じる」なんてものはそんなもんだと思っています
これはジョークでなくピッタリの題材であり大罪ですね。仏教心で人を愛し人を信じ切る無償の愛で無心に尽くすのが当たり前 だった人生から変容。 ブッタの「人を愛するな」に出会い「信じれば騙される」に出会い その意図は...分かるまでになりました。
面白いな でも俯瞰して実践するほどサイコパスと言われそうで そうならないように慈悲があって社会と価値の均衡を図るのかな
同感。
信じて、騙されたくないです。見抜ける方法あります。本当の事話して、相手と向き合えばいいと思います。信じる事、信じる心は無くさないで、前に進みたいです。
悪い奴らは天使の顔して心で爪をといでるものさ
親鸞聖人は信に二つの信が有り、一つは自分自身の心で信ずる即ち自力の信。もう一つは阿弥陀様から直接頂く他力の信(誠の心)の二つが有り、他力の信心を頂いたらこの世の究極の喜びを頂く事が出来ると言われた。私自身仏法を聞いて行くうち、有るとき自分程罪の者は無いとどん底に落とされたと同時に心の奥底から言う事の出来ない程の喜びが沸き上がって着ました。それから15年程通勤電車に乗っている時、阿弥陀様の事をふと思い出すと、喜びの涙と鼻水が出て困った事がしょっちゅう有りました。今は落ち着いていますが。
「信じる者は騙される」というよりも、「騙されて信じる」が実態ではないかと思う。信仰(信じる)ということについて、先日わたしが考えたことは、「あなたに、何か啓示がありましたか?」ということは最低限考えてみたほうが良いのではないかということでした。「啓示」とは、「お招き」ということだと考えています。神を信じるというのであれば、「神様から何かお招きがありましたか?」と訊いてみればよいし、仏を信じるというのであれば、「どこで仏に会いましたか?」と訊いてみれば良い。そこで、出家と自称する長老さまに訊いてみたいのが、「あなたは仏の心に縁がありましたか?」ということです。
私は自分の心が理解する仏の心にここでご縁がありました
信じていいと思います。もし、自分が出来ない事なら、断る。理由は、ちゃんと相手に伝える。そういう断り方が良いのかもしれません。でも、相手は、信じたいですし、信じます。大事にしたいから、信じたいです。
34:50秒 個人の責任感が薄れていく。いくら頑張っても駄目と思ってしまう。39:00 業って言ってなかったけ?54:00 やはり神々の概念はある様だ。
「神」とか「阿弥陀仏」とかいうのがそもそも実は存在できないのは数学の論理では「証明」できますし、一般の人々もそれを知り始めておりますのでこれからはこのお坊様のような話がメインの潮流となりましょう。
それマジですか?😳ちょっと詳しく教えてください😳
お坊様カワ(・∀・)イイ!!
慈悲と利他に歓びを持てることが幸せな心境です。
その心を持てることが、一番の安穏で感謝です。
長老かっこいい🥰
精進します🙏✨
まさに今,日本人に必要な講義。
聖書が神の言葉でそれを信仰実践すると救いにはいれる。ずーっと学んで問題だと想う
い何故その様に、、、。自分なりに結論が出ました。
老師のお話を心の傷口にメンタームの様に良く良くすり込んでおく、傷が治りますように
ほんと、信仰は危険です
信じてはいけない
騙せられるだけです
あなたがただ、日々の生活を
淡々と誰にも依存することなく
行うことを願います
有り難うございます。繰り返し繰り返し…。有り難うございます。お言葉全て納得させて頂きました。
自分もまあ高齢で、今までの社会生活の中いろいろな疑問
理不尽な事に対する怒り、…などいろいろ
感じるところがあり、40年間いろんな宗教の教えも、読み漁り
その疑問や腑に落ちない事について
調べてみましたが、いろんな宗教の方に聞くと
すぐに、信じる、とか信心、とかそんな事を
軽々しく勧めてきます、宗教についても他に
言いたいことはたくさんありますが
今回は
世間で言う教義など、何かというとすぐに言う
「信じなさい」・と言うが・そこについて思う事・・・・・
まず、自分たちにとって都合のいい事、を(信じたい)と言う習性が有ります
だから、信じると言う事であって
、大きな観点から俯瞰して・・信じるに足るものか??を
客観的に観て整合性、妥当性について深く考えれば
納得のいくものではない事が多いです、ほとんどは
今の自分にとって都合がいいから信じるのです
そしてだいたい来世とかジョウブツとか証明のしようのないものを基盤にして
そのうえで、の理論で説明します
例えば「見たことないので信じられません」と言うと
「見えないものにも存在するものは有ります」・・・
と言う・ので反論しにくい・しかし・自分はいつも思う・・
一理あるようだが正しい説明にはならない
低い可能性がある・・ただそれだけで
見えないが、そこに有る(存在する)と言う
ことの証明には全くなっていない
なのに皆、見えないけどある、かもしれないという心がある
と・そこで胡麻化される・・「かも知れない」は
証明したことにはならない
見えないものには存在しないものの方が多い・・と
可能性の多い方から論ずるべきである・・と
まあ人間なんて言うものは、自分にとって都合のいいことを
信じたいものであり、変てこな理屈をこねて、
深く考える事を面倒がり、努力しないで楽して
善人になれる事、何かに悪さをされない事、出来るだけ楽しいところで永遠に居たいし行きたい、
そんな勝手な希望を、叶えてくれそうな
ちょうどいい言葉だけかき集めて組み立てて
正当化する理論で悦に入ってそれを「信じて」るという
そう言う動物です・・
極論すると。例えば
金を貸した相手に、自分への返済について
「私はあなたを信じている」・・・と言うが
・・きれいな言葉のように聞こえるが
ある意味身勝手な所が多い言葉・・・みんな全ての人は、
その時々の自分の都合が一番大切なのです、いくら信じてもらってもその時の状態が返せない状態なら返すことは出来ません
だいたい足りなくて苦しいから借るのであって
予定通り返せる見込みがあるんなら最初から借らないよ
それが合理的で妥当で正しい理論です
「信じてやったのにろくなもんじゃない」と言う前に
貸した時から返って来ないかもしれない事は覚悟し
準備しておくこと、貸したじゃなくって、
やった、と思っていた方がいい、
それが賢明な人の考える事だ、嫌なら貸さない事だ
「信じる」なんて意味のない罪作りな奇麗ごとを言わないで済む
世の中一寸先は何がおこるか解りません、
有ってはならない事が必ず有るのが現実で世の習いです
まあ「信じる」なんてものはそんなもんだと思っています
これはジョークでなくピッタリの題材であり大罪ですね。仏教心で人を愛し人を信じ切る無償の愛で無心に尽くすのが当たり前 だった人生から変容。 ブッタの「人を愛するな」に出会い「信じれば騙される」に出会い その意図は...分かるまでになりました。
面白いな でも俯瞰して実践するほどサイコパスと言われそうで そうならないように慈悲があって社会と価値の均衡を図るのかな
同感。
信じて、騙されたくないです。
見抜ける方法あります。本当の事話して、相手と向き合えばいいと思います。
信じる事、信じる心は
無くさないで、前に進みたいです。
悪い奴らは天使の顔して心で爪をといでるものさ
親鸞聖人は信に二つの信が有り、一つは自分自身の心で信ずる即ち自力の信。もう一つは
阿弥陀様から直接頂く他力の信(誠の心)の二つが有り、他力の信心を頂いたらこの世の
究極の喜びを頂く事が出来ると言われた。
私自身仏法を聞いて行くうち、有るとき自分程罪の者は無いとどん底に落とされたと同時に
心の奥底から言う事の出来ない程の喜びが沸き上がって着ました。
それから15年程通勤電車に乗っている時、阿弥陀様の事をふと思い出すと、喜びの涙と鼻水が出て困った事がしょっちゅう有りました。今は落ち着いていますが。
「信じる者は騙される」というよりも、「騙されて信じる」が実態ではないかと思う。
信仰(信じる)ということについて、先日わたしが考えたことは、
「あなたに、何か啓示がありましたか?」ということは最低限考えてみたほうが良いのではないかということでした。
「啓示」とは、「お招き」ということだと考えています。
神を信じるというのであれば、「神様から何かお招きがありましたか?」と訊いてみればよいし、仏を信じるというのであれば、「どこで仏に会いましたか?」と訊いてみれば良い。
そこで、出家と自称する長老さまに訊いてみたいのが、
「あなたは仏の心に縁がありましたか?」ということです。
私は自分の心が理解する仏の心にここでご縁がありました
信じていいと思います。
もし、自分が出来ない事なら、断る。
理由は、
ちゃんと相手に伝える。
そういう断り方が良いのかもしれません。
でも、相手は、信じたいですし、
信じます。
大事にしたいから、信じたいです。
34:50秒 個人の責任感が薄れていく。いくら頑張っても駄目と思ってしまう。
39:00 業って言ってなかったけ?
54:00 やはり神々の概念はある様だ。
「神」とか「阿弥陀仏」とかいうのがそもそも実は存在できないのは数学の論理では「証明」できますし、一般の人々もそれを知り始めておりますのでこれからはこのお坊様のような話がメインの潮流となりましょう。
それマジですか?😳ちょっと詳しく教えてください😳
お坊様カワ(・∀・)イイ!!