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動画のご配信有難うございます。
お話を聞くことができて幸運でした。ありがとうございます。観察!内観、心を観察。できるなら恨みの執着を忘れたい。
今日もありがとう御座います。😃👍
長老 はすごい‼️人間 の 本質 に バサッと 鋭く 迫る真実 から ぶれない日本語 も 日本人 より意味 が わかり達人ありがとうございます!道子 ロンドン
本質を突いてるお話だと思います🙇♀️🙇♀️🙇♀️🌈
すごいわかりやすいです!!!
長老のお説法は純粋に聞くだけでも面白いですよ.「明日があるさ明日がある」と信じているから、その歌詞が大ヒットしたことがあります.我々そう信じているからですね。
いつもありがとうございます。お釈迦様の「生きることは苦である」というお言葉の深い意味をを、少しずつ理解できるように導いて頂いています。もっとわかって、日々の暮らしの柱にと願っています。
言語レベルでのメタファーもきちんと理解する事が大事ですね。実直にして爽やかな説法、ウチの住職もこのくらい説いて頂きたい。
但し、私が究極的に求めているのは「死の床に置いて観照者でありたい」ことです。そして、気持ちも落ち着き、何の恐怖もなく、穏やかに静かに死を受け入れることです。それ以外には、仕事のことを除けば興味はないのです。他の人を観ていますと、極論すれば死を避けるべく日々の時間を強迫的に使って、「忘れたふりをしているように見える」ことが確かにあります。そうでない人も勿論いらっしゃいますが・・。
「死の観察は甘くない」その通りでしょうどう考えても、私のような凡人には「自分の死を観照者として眺める」ことは出来っこないと存じます。 仕事がら多くの臨終で看取りましたが、そのような例はなかったし、緩和ケアをしなくても意識レベルがかなり低下していますから、御本人が観照者の立場にいようがない、といった方がよいかも知れません。但し、いかなる緩和ケアをしない状況下で、死の数日前で意識があれば、観照するチャンスはあるかもしれません。死の直前のことでしょうか、それとも死を覚悟していて意識が明瞭な時の事でしょうか??やはり前者ですよね。ある本で、臨終に立ち会った人物が「死に至る自分の経過を眺めなさい」といい、最後は笑顔で亡くなった、という文章を思い出しました。長老のおしゃることは、きっとこのことかと存じます。甘くないのは当然で、それができる人は皆無と言っていいでしょう。凡人が悟れないのと同じくらい私たちはそのように生まれてこなかったからでしょう。 ただ、私は日々観照者である訓練はしてはいますが、その程度では難しいことは自分でも認めざるを得ません(>_
たぶん、本当はもっと長いて詳しい法話であったかと思います。人が死を目前としたときの法話かと邪推していました。
動画のご配信有難うございます。
お話を聞くことができて幸運でした。
ありがとうございます。
観察!内観、心を観察。
できるなら恨みの執着を忘れたい。
今日もありがとう御座います。😃👍
長老 は
すごい‼️
人間 の 本質 に バサッと 鋭く 迫る
真実 から ぶれない
日本語 も 日本人 より
意味 が わかり
達人
ありがとうございます!道子 ロンドン
本質を突いてるお話だと
思います🙇♀️🙇♀️🙇♀️🌈
すごいわかりやすいです!!!
長老のお説法は純粋に聞くだけでも面白いですよ.「明日があるさ明日がある」と信じているから、その歌詞が大ヒットしたことがあります.我々そう信じているからですね。
いつもありがとうございます。お釈迦様の「生きることは苦である」というお言葉の深い意味をを、少しずつ理解できるように導いて頂いています。もっとわかって、日々の暮らしの柱にと願っています。
言語レベルでのメタファーもきちんと理解する事が大事ですね。実直にして爽やかな説法、ウチの住職もこのくらい説いて頂きたい。
但し、私が究極的に求めているのは「死の床に置いて観照者でありたい」ことです。
そして、気持ちも落ち着き、何の恐怖もなく、穏やかに静かに死を受け入れることです。それ以外には、仕事のことを除けば興味はないのです。他の人を観ていますと、極論すれば死を避けるべく日々の時間を強迫的に使って、「忘れたふりをしているように見える」ことが確かにあります。そうでない人も勿論いらっしゃいますが・・。
「死の観察は甘くない」その通りでしょう
どう考えても、私のような凡人には「自分の死を観照者として眺める」ことは出来っこないと存じます。 仕事がら多くの臨終で看取りましたが、そのような例はなかったし、緩和ケアをしなくても意識レベルがかなり低下していますから、御本人が観照者の立場にいようがない、といった方がよいかも知れません。
但し、いかなる緩和ケアをしない状況下で、死の数日前で意識があれば、観照するチャンスはあるかもしれません。死の直前のことでしょうか、それとも死を覚悟していて意識が明瞭な時の事でしょうか??
やはり前者ですよね。ある本で、臨終に立ち会った人物が「死に至る自分の経過を眺めなさい」といい、
最後は笑顔で亡くなった、という文章を思い出しました。長老のおしゃることは、きっとこのことかと存じます。甘くないのは当然で、それができる人は皆無と言っていいでしょう。凡人が悟れないのと同じくらい
私たちはそのように生まれてこなかったからでしょう。 ただ、私は日々観照者である訓練はしてはいますが、その程度では難しいことは自分でも認めざるを得ません(>_
たぶん、本当はもっと長いて詳しい法話であったかと思います。人が死を目前としたときの法話かと邪推していました。