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私はアマチュアミュージシャンとしてカバーを編曲・演奏する時は、再現性や技術的完成度よりもまず「自分たちがその曲を愛し、理解している」ことが聴く人に伝わるよう努めています。今回の漫画ドラマ化に関する悲しい事件は、原作と原作者に対するドラマ制作側の愛情とリスペクトが著しく欠けていたために起こってしまったと思います。プロのクラシック音楽家は仕事で膨大な数の演奏を行うなかで全て同じ熱量の愛情を注ぐのはもしかしたら難しいのかもしれませんが、たまたまコンサートに行って聴く側としてはその日の演奏で原曲に対する音楽家の愛と理解を感じ取れたらいいなと思います。
今回の題材はテーマだけ見て、オペラの台本の脚色の話題かと思ってしまいました。音楽作品そのものへの尊重のお話だったのですね。吹奏楽のカットの話は、昔、大学の先輩が「ティル」をカットすると、何も悪さをしてないのに処罰されたような音楽になると冗談を言っていたのを思い出します。スコアの改ざんではブルックナーとその弟子たちとの関係が有名ですが、師の曲を普及させるためにオケを知り尽くした弟子たちがとっつきやすくしたとする研究者さんもいらっしゃいます。ただ音源を聴いてもさほど気楽に聴ける感じでもない気もするのでどうなんでしょう?他方、新ウィーン楽派の様々な室内楽編曲は再創造として広く認識されている感もあり、楽譜の書き換えが一概に改悪とならないのは音楽の奥深さとそれを扱う人物の精神なのでしょうかね。
う~ん………。本当に難しい話題ですよね。昔の作曲家は自分が残した作品が後々こんな複雑な問題になるとは誰も思っていなかったのかもしれませんよね。自分の作品の未来に対して無知だったのか無関心だったのか寛容だったのか可能性や再創造される事も理解したうえでの作曲だったのか…。昔から『~の主題による変奏曲』も他人の作曲した旋律を使って自作にしてる大作曲家も沢山いますし…。オケや吹奏楽でもカットやリピートするしない問題がありますし未完成の作品を便宜的に補筆完成させたり無茶に復元版として公表したり演奏されたりと作曲家の遺志はそこには存在せず金銭的な版権のみが残ってるだけなのも再現芸術の在り方がいかに難しいかと再認識させられました。モーッアルトの『レクイエム』は正しいのか?ベートーヴェンの交響曲第10番って??シューベルトやブルックナーやマーラー、チャイコフスキー、グラズノフの未完や遺稿の復元版もしかりですよね。先日、指揮者のクレンペラーがメンデルスゾーンのスコットランド交響曲の最後をクレンペラー自身の信念と解釈で書き直した演奏の録音を聴きましたが大指揮者なら何でも有りなの?と凄く疑問でした。トスカニーニもヴェルディの『諸国民の讃歌』あちこち手直ししてるし、プッチーニの『トューランドット』だってトスカニーニも合意してたようですがアルファーノの補筆完成版はプッチーニの本当の遺志だったのでしょうか???酷いとストーリー迄変わってしまうだけにいまだに疑問が払拭されません。マーラーの10番も未亡人になったアルマがクック版で激昂し大反対していたのに実際に聴いたら『素晴らしい、OK!』と作曲家本人の遺志も全く関係無い形に終わるのも微妙な話です。(確かにクック版は素晴らしい再現ですがね…。)オペラも作曲家の意図が演出に対して何処まで関与していたのか?何処まで関与するべきなのか?最終的には総合芸術としての古今の作品上演に関わる決定権の主体は作曲家?脚本家?演出家?興行主?以前から確かに疑問でした。あまりにも酷い作品の良さを潰すような演出や前衛的意味不明な演出、政治的色合いや歌手に無茶な演技まで要求する演出の内容は集客を遠ざける要因かと思います。先生、そこらへんの本場の詳しい事情是非教えて下さい!!※ 先に先生が提示した原作者と製作者側との問題提起は本当に深刻な問題です。私もその原作作品と放送された番組を観ていたので原作者が死を選んだ些細な制作側との行き違いについては、お互いにもっとよく話し合うべきだったのでは?契約として明確にしておくべきだったのでは?と思うばかりです。今後は作曲家と同じく原作者の繊細でデリケートな精神や感性を製作者側やメディアももっと大事にしてくれていたらと祈るばかりです。
クレンペラーはマーラーの影響があったのでしょうか?他の作曲家の作品に筆を入れる事に対する抵抗や罪悪感がまだ無い時代だったのかな?J・シュトラウスⅡもヴェルディのオペラや他の作曲家の旋律を使ったパラフレーズ作品を書いてますがトラブルにはならなかったのでしょうか???現代は過去の大作曲家の作品をアレンジしたりするのも商業主義優先の再創造なのかな…。古楽や古典派の作品も当時の楽器や編成やピッチ、メトロノーム表記のスピードも異なるし平均律の扱いも厳密に考えれば異なるから現代の楽器による演奏スタイルは芸術の再創造になるのですかね???吹奏楽の切り貼りも酷い話ですが、NHKの『名曲アルバム』って無理矢理5分に伸び縮みさせて編曲してますけど現代の公共放送的には有りって事なんですね。
今回の事件に関しては様々な憶測や意見が飛び交っていますがはっきりした原因や状況は不明であり当事者間でのみしか真実は判っていません。なので多くの漫画関係者や番組制作担当者の意見表記では『些細な』とまでの表現で不確実な事実関係でのお互いへ配慮した形となって報道されています。なので私も同じ判断で記述しました。亡くなられた事に対しては本当に残念ですし由々しき事ですが…。一番は『命』を尊重して欲しい事だと切に願います。
「クラシック」とは実質、契約も著作権ももはやないので、演奏・演出での改変がしやすいことは見逃せないでしょう。楽譜に忠実と称しても、新校訂版が出るようにどれほど確実なのか(ロッシーニのように、研究が進んだから上演がふえたりもする)。シェイクスピアには、自筆原稿も作者公認台本もありません。ガーディナーでしたっけ、「レオノーレ」(初演版?)と「フィデリオ」をともに録音しているのは。「フィデリオ」の曲順をかえた演出家もいますし、シェイクスピアも細かな手入れをして上演は通常のようです。楽譜に忠実な演奏といえば、メトロノームのままのような演奏をブーレーズが軽蔑した口調で批判していたのを思い出します。
先月の動画で教えて頂いた文化マネージメントについてもそうですが、現時点では、著作権や原作の再創造についての各ジャンル別の許容ライン( これが1番難しいですが )について、こうして考える機会に巡り逢わない限り、無知で過ごしてしまう事になるのでしょうか、勉強する機会というものが、自分から知りたいと動かない限り、なかなか無いですね。何か問題が起きて、誰かの犠牲をもってでなければ露呈しない、知られる事が無いだなんて、有ってはならない、何とも悲しい事です…。日本社会にはそんな悲しい事をキッカケに解決に向かった問題が多々有るのも事実ですし、未だ未だ山積み、考え過ぎると目眩がしますが、ジャンル問わず、何かを生み出した方への苦労を慮り敬意を忘れないで行動する事、表現する事と、可能な限り直接のコミュニケーションが大切なのではと思います。にしても、過去の名曲は日常に、身の回りに余りにも溢れすぎていて。その原曲を、生徒や人に教える楽しみも少し有りつつ、曲のイメージが良くにも悪くにも付いてしまう事も致し方無く。トイレの洗剤CMにショパン😢、私の住む地方の某CMでは、モーツァルトのピアノ協奏曲第○番第2楽章のうっとりするメロディーがロック調に再創造されてます…あ~、聴きたく無いよぉ~😞💦
展覧会の絵のように編曲によって広く演奏される曲もあるし、パガニーニの主題のように多くの作曲家によって変奏曲が作られたものもあります。リストによるベートーベンの交響曲の編曲のようにオーケストラで演奏しにくいとことできくことができるというメリットもありました。改変については良しあしを議論するのは難しいと思っています。ただ、シューマンの「献呈」のリスト編曲はよく演奏されてはいますが、クララ・シューマンが好んでいなかったようにシューマンらしくないと思います。マーラ編曲のシューマンの交響曲も個人的には好きではありません。いい、悪いを言っても仕方がないのかな。
生演奏のあるタイプのレストランでツィゴイネルワイゼンをリクエストしたところ、演奏者のバイオリニストが僕のアレンジ版を演奏していいか?と言うのでOKしたところ、原曲の片鱗も感じられない曲だったことがあります😅私達はツィゴイネルワイゼンを楽しむことは出来ませんでしたが、彼のツィゴイネルワイゼンに対する愛情は十二分に伝わってきました。再創造された作品がイマイチでも動機の純粋さが同時に伝わってきた体験でした😊
ピアノの勉強をしています。先生のお話はとても勉強になります。ありがとうございます。そして最後のお茶の時間、私のピアノの先生もとても大事にしている時間で私もレッスンが終わると必ず母がお茶を用意してくれています。
一軒家の建築設計の場合は依頼者の要望を忠実に再現するだけでは基準以下の建物になってしまいます(勉強はしても素人なので)、そこで設計者は要望の延長線上の物を提案するわけですが、そこには依頼者の気持ちを汲み取る心とミーティングが必要不可欠です。件の話はそこを軽視した結果なのでしょうね。偉大な作曲家の延長線上を提案するというのはものすごく困難なことですが、尊重=忠実な再現ではないと思います。
これを今回このコメント欄で言うべきか、と思ってはいるのですが(前置き)……。モーツァルトの『トルコ行進曲🇹🇷』、競うように速くなっていますよね。私は民族音楽にも興味があって、トルコの軍楽隊の動画も時々楽しむのですが、絶対あの超高速テンポでのピアノ演奏は違うと思う‼︎実は、最近ずっと心の中でモヤモヤ考えていたことで、車田先生の『トルコ行進曲』の動画を視聴したのが大きなキッカケです。モーツァルトもビックリ、オスマントルコもビックリ🫢なんじゃないかな。それとも、モーツァルトは250年(かなり大まかに)後の世界で自曲がこんな風に演奏されていることを知ったら、むしろ子供のように無邪気に喜ぶのかな。もっとスゴイことをしてみせてくれたりなんかしたりして……🤭とりとめもないことを書いてしまいましたが、一体いつからあの『トルコ行進曲🇹🇷』は超高速で演奏されるようになったのでしょうか? あのホロビッツが、元のイメージを大切にしたテンポで演奏している動画を視聴しまして、何だかホッとしたのであります🙂
モーツァルトは言うに及ばず、ベートーヴェンの編成さえ小さくなる昨今、マーラー(譜面)、トスカニーニ、フルトヴェングラーの演奏する第九でさえ、ティンパニーの追加、編成の大きさで、隔世の感を感じることが稀にあり。況や、ワルターやベームのモーツァルトなど「もう、こんなスタイルの演奏は出てこないのかな」と遠くをみたり。時代様式・奏法の音楽考古的な意味も解る、その上新しい切り口が見えたりもしますが、19世紀・20世紀的演奏も、排除するべきではないと、頭ではなく、耳がそういっております。
作詞家・川内康範さんと歌手・森進一さんとの間で「おふくろさん」騒動がありました。元の歌詞を尊重しつつも独自にアレンジして歌いたいという欲求はどうしても生じてしまうのでしょう。
シナリオ作家協会の某会員風に語ると、こんな感じでしょうか?「私、作曲家には興味ないんですよ。興味があるのは、あくまでも曲です。その曲に私なりの解釈や表現を加えるので、原曲とは異なる箇所も出てくるのは当然ですね。原曲通りに弾くと、譜面の単なるトレースにしかなりませんから。」どうもこの協会の人達は、自分達の権利については、とても敏感なようです。「再創造」という今回先生が説明された概念は全くなさそうです。。。
先日「皇帝」の時に初めてコメントしました。私は法学を専門とする者ですが、法学にも同じようなことがあります。法律を作る人(立法)とそれを解釈・適用する人(司法)の関係です。司法の仕事は法の解釈・適用ですので、法の「改変」はできませんが、実際は、司法は法の「解釈」を通して法を「創造」しています。
女性のポートレードでも光、影の当て方、表情や服などではっと今まで見えない面、魅力を引き出せることがあります、根幹は変えないが、演奏が記録簿の読み出しでなし、原曲の魅力をひきだし従来にない良さがでるのであればそれは邪道でなく、それも立派な音楽をする、ということになるのだと思っている。
作曲家の意図を深く理解し、それぞれの時代の各演奏家による「再発見こそが再創造」なのだと思っていました。ジャズだと「赤青本」と呼ばれる超シンプルな原曲の譜面くらいしかなく、音調・テンポはもちろん、楽器の選定・アレンジ、フェイクまでまさに「再創造=演奏」ですが、原曲を壊すような独善的なものでは自由は感じられないし、感動もできません。比較的原曲に忠実なクラシックでも、指揮者・演奏者・楽器などの違いでまったく違う音楽になるので飽きません。原曲と作曲家の意図はきちんと記録したうえで、指揮者や演奏者もきっちり明記していただき、心が解き放たれているという意味で自由な演奏を聴かせていただけたら嬉しいです。
考えさせられたお話でした。私はピリオド楽器や当時の編成で「再現」しようとする演奏を否定はしませませんし興味はありますが、近現代の楽器を使う演奏はけして作曲者の思いを蔑ろにするものではないと思っております。きっとバッハはビアノがあったらそれで演奏したでしょう。同様にトラベルソより進んだフルートの音を、ソプラノ合唱なら音楽としては少年を使うより今のような編成(成人女性の声)を望んでいたのてはないかと私は思います。無論楽器の特徴を考えたもの〜例えばリコーダーやオーボエダモーレ等はその楽器を使うべきですが∼∼ オペラの現代的演出は、やはり当時のもの(基本?)を知らなければかなりわかりづらいものになると〜特にオペラには疎い日本人には理解がし辛くなっているのではないかとわたし思います。「作曲者の精神の再現」ということは重く受けとめたいと思います。
難しい問題ですね。個人的に、再創造というのは行っても普及されないで終わってしまう印象を受けます。完成された作品のオーケストレーション改変に至っては、お話にあったようにトスカニーニの改変が原作者プッチーニに受け入れられたというのは稀な例だと感じました。他にも、マーラーがシューマンの交響曲のオーケストレーション変更したり、ショパンの協奏曲のオーケストレーションを変更して演奏したりなど、様々な再創造が行われていると思いますが、どれもそこまで広まっていないなという印象です。本当にその再創造が良いものと判断されていれば、現在でもその再創造したヴァージョンでも演奏されているのでは?とは思います。ぱっと思い浮かぶのはムソルグスキーの『禿山の一夜』でしょうか。リムスキー=コルサコフの再オーケストレーションした版が現在ではよく演奏されていますが、これは再創造が成功した例と言ってもよいのではないでしょうか。他にも編曲が再創造というカテゴリに含まれているなら、例えばラヴェルの編曲した『展覧会の絵』、リストが編曲した『ラ・カンパネラ』など前者はピアノ曲をオーケストラに、後者はヴァイオリン協奏曲をピアノ曲へと再創造し、作品の知名度を高めた貢献は大きいのではないかと思います。作品のカットに関しては、私は否定的な立場です。カットされると作曲者が伝えたかった思い、表現がすべて反映されないようになってしまうと思います。コンクールに演奏時間の制限があることはわかりますが、時間のためにカットするというのは、そこに作品に対する尊重というのはないのではないかと思います。一方で、アルカンは『ピアノ独奏のための協奏曲』の第1楽章をカットしてもよいと公言していました、それは作曲者本人が認めていることなので、カットして演奏するのも、カットしないで演奏するのもどちらでもよいと思います。今回で起こった一連の騒動は、漫画作品をドラマ化するという再創造の失敗例と言えるかもしれません。このような顛末になるなら、ドラマ化なんてしない方がよかったなと感じさせられます。P.S.今回初めてコメントさせていただきましたが、いつも動画を拝見しております。これからも車田先生のお話を楽しませていただきます。
貴方のコメントには、貴重な情報が沢山こめられ、とても勉強になりました。これからも、いろいろ教えてください。ありがとうございました😊😊😊
クラシック音楽の『名曲』というものは、作曲家・演奏家・聴衆、この三者のバランスの中で生まれてくるもの、と考えて良いのでしょうか。作曲家の表現したいもの(主に感情)と、聴衆の聴きたいもの……特に『聴きたいもの』は時代状況など音楽以外の要因で影響されることもあると思うのですが……それがうまくシンクロした時に『遺産』となるのでしょうか。
今回のお話もクラシック初心者には難しいお話でした。初心者あるあるな話で申し訳ありません。メジャーな曲しか聞いたことが無い(例えばカラヤンが指揮した曲)ので、それが正しい曲だと思っていた程度です。そもそもクラシック音楽は楽譜通りに演奏するんだから指揮者なんて誰でもできるもんだと本当に思っていましたら。ましてや勝手に改変したり、創作してるなんて思っても見ませんでした。そんな僕がフルトヴェングラーの1952年11月録音盤「田園」を聴いたときはなにかの冗談かと思ったくらいです。そしてベートーベンとメトロノームの話にたどり着きました。楽譜にはテンポが記載されメトロノームのように正確なものだとばかり思っていたのですが、メトロノームのようにテンポが記載されたのがベートベンの頃からと知りました。楽器を加えるとかは別として、曲の全体的なイメージは指揮者次第でどうにでもなるよなあ。と。日本には「謡」というものがあります。ひらがなの脇にミミズが這った様な傍線が書かれていて、それが抑揚を表しています。「謡」の楽譜はすごくアバウトで、教える人の癖(解釈)でめちゃめちゃ変わりますし、極端な話同じ曲が、地方(藩)によっても違います。クラシックの楽譜は読めませんが、指揮者によって表現が違うのはこの感覚と一緒なのではと感じます。後半のコーヒーソーサーのお話ですが、あの受け皿の起源は、熱い飲み物をカップから移して皿で飲んでいたそうですよ。(カップと同量が入る理由もそこにあります)飲む容器はカップではなく皿でとう習慣のなごりらしいです。そもそもカップ自体に取っ手も無い頃の話です。長々と失礼いたしました。
脇道に入ってしまいますが、ジブリのアニメ、「アリエッタ」や「ハウルの動く城」等は、原作の設定を借りただけで内容はかけ離れたものになっていて、原作を知っている者としては、最初に見た時は騙されたような気がしました。もし私が作家だったら、自分の作品であってそうでないものが独り歩きするのは許せないと思います。原作者や作曲家の気持ちがわかる気がします。(上述のアニメは、原作と切り離して見れば良い作品に仕上がっていると思います。特にグラフィックの緻密さ、美しさは素晴らしいと思います。)
作曲者が存命であれば許可を得ていること、物故者の場合は「〇〇版」のように誰が変えたか明らかにしておくことといったところでしょうか。でも昔の曲はもう無法地帯ですよね。通常聴く「はげ山の一夜」はR=コルサコフのアレンジ版とのことですし、第九はアブネック、ワーグナー、ワインガルトナーなどがいっぱい手を加えて、もはや原型がどうなんだか。。。バーンスタインの「ウェストサイド」シンフォニックダンスも別の人が譜面書いてるわけですし。
原作の改変は、別の作品だと思うことにしています。シューマンのチェロ協奏曲をショスタコーヴィチが編曲して、ヴァイオリン協奏曲にしたCDがあり、オーケストレーションが明瞭になっています。別の作品と考えたら、とても秀逸です。飯守泰次郎さんのベートーヴェン交響曲チクルスも、マルケヴィチ編曲版(改訂版?)はアクセントが強調されて楽しめる演奏です。
アシュケナージがインタビューで語っていたグールドのバッハ、もともとidiosyncraticに過ぎたと思っていたけれど今はそう思わない。フルトヴェングラーのベートーヴェンもそうだけれどエッセンスからそれていないと自分は感じます。フルトヴェングラーにとってベートーヴェンは神だったと彼の奥さんが言っていました。グールドにとってバッハはかけがいのない友だった。自分には彼の演奏を通してバッハの声が聞こえるような気がするします。アシュケナージの晩年に録音したバッハにはグールドの影響があると思います。アシュケナージは、10回くらい実演に接しているのかな?いつも不遜な言い方になりますがたいしたことないなと思っていました。でも素晴らしいバッハですね。
難しい問題ですね。シューマンの交響曲とか手を加えたくなる気持ちはすごく理解できますよね。マーラー版に関しては1番とか出だしからして違和感あるけど3番はものすごくいいと思います。ライン川のイメージが変わってしまいそうですけど、、、ストラヴィンスキーは、カラヤンの春の祭典を酷評していましたけど個人的にはすごい演奏だと思います。でも野趣に欠けていて洗練の極みでストラヴァンキーが酷評したのもわかるような気がします。
なるほどですね。指揮者のカレルアンチェルさんは、僕は、なるべく、楽譜に忠実に演奏するべきだと考えている、それが作曲家に対して、敬意を表するものだからです。と、おっしゃっていたそうです。私は彼の残した録音のレコードからは、その事がよくわかるものが多いです。フルトヴェングラーさんの場合は、彼の言うとおりだし、なかなか凄い演奏だと思うものが多いですね。演奏者もその方の考え方があって、その考え方が、その作品に反映されれば、名演奏が完成されるという事なのでしょうか。うーむ、なかなか難しいですね。私は、その演奏者の気迫が感じられるものがいいですね。
改変というのは、料理でいう味変だと思う。作る人はこれが「私の料理」だから「素の状態」で食べて欲しいと願う。だが、食べる人は、そこに塩や醤油、ソース、胡椒、酢などを付け加えて、「自分の好み」にカスタマイズしてしまう。さて、食べる人のこのカスタマイズを、料理人は批判できるだろうか?ということ。テノールで書かれたシューベルトの冬の旅、ホッターが歌うものに、原作への改変という批判があるだろうか?バスで歌う冬の旅は原作と違うからダメだ、とはならず、世に冬の旅という曲の素晴らしさを伝える芸術として、ほぼ確立している。古楽器主義のバロック音楽も、ほとんど指示のない楽譜から原作はこうであった、と時代考証して再現演奏する人も、厳密にいえば指示のない楽譜の原作に忠実ではなく、あくまで、演奏する人の時代考証と言う考えの味変。味変がダメとなるなら、他人に食べてもらわず、自分のみが味わう料理に徹するしか究極にはない。作曲家も演奏家も聴衆も、自分が自分が、権利が権利が、と言ってたら、社会の中で存在できなくなる。料理人も客に食べてもらっての料理人だし、作曲者も演奏してくれる人や、聴いてくれる人がいてこその作曲者。絶対改変は不可となるなら、作曲者は演奏されることを前提とせず出版もせず、楽譜を自分の机の引き出しにいれて、たまに眺めていればいい、ということになる。それでは、作曲者は生きていけないでしょ?ということに。
現役の世界的指揮者の中にも、楽譜を改変して演奏される方はいらっしゃいます。マーラーやトスカニーニのように楽譜を忠実に再現することに注力されている指揮者ほど逆に変えるべきと思った箇所は変えて演奏されているように感じます。知的財産権については世界的にみてままだまだ不完全であり、同じ知的財産でも、音楽なのか、絵画なのか、文章なのかなどそれぞれ事情が異なり最適なルール作りができていないのが現状かと思います。私は知的財産の国家資格を持っていますが、本当に厄介で難しい問題が多いです。
音楽における改編には、程度の差はあれ良い面も悪い面もあるのではないかと思います。そこに作曲家の意思を汲む姿勢があるのかないのかで良し悪しが変わるのではないかと思います。吹奏楽コンクールにおけるカットや自分勝手な改編に関しては、現場にある身としてカットせざるを得ない事情もよくわかりますが、やはり不快な思いをすることも多々あります。自分勝手な改編については概ね不快です。12分という極々短時間の中で2曲も演奏しなくてはならないとなれば、原曲カットという行動が生まれるのも必然なのかもしれません。課題曲の他に自由曲も演奏することにはもちろん良い面もたくさんあるとは思いますが、コンクールという場においては課題曲のみの演奏で良いのでは?と思っています。
改訂版じゃない原作のブルックナー8番を聞いてみたい。当初はそんな曲は弾けないと楽団につっぱね返されて、しぶしぶ修正して今の8番があるらしい。勝手に弟子が師匠より先に楽譜修正して出してしまうというのもありえないよね。
現存する存在としてのクリエーターの方ならその「意思・意図」を確認することができますが、クラシックの場合は名曲とされる曲を作られた方の殆どが物故されているわけで、演奏者が語る「原作者の意思」も100人解釈者がいれば100通りあって、どれが「正解か」は永遠の謎ですよね^^;;・・・・ただ、あくまで個人的な感覚ですが、吹部にいたとき、管弦楽のアレンジを演奏する時「調が変えられている」時は「なんかイヤ」でした。
僕の場合、ちょっとした改変のなされたある演奏を聴いた時、その曲の魅力に気づき、その作曲家が好きになることがあります。マーラーは自作の楽譜にかなり細かい書き込みをしていますから、あまりいじってほしくなかったんでしょうね。でも、だからなのかベートーベンほどの演奏による多様性はない。難しいものですね。正直なところ、私はピリオド演奏がなかったらバロックの魅力に気づけなかった人なので、若干の改変も含め、芸術的な観点による様々な試みは歓迎です。大切なのは作曲者に対する真のリスペクトではないかと、生意気にも思ったりします。
今日お飲みのマイセンは当時の伝統様式ではなく今風のアレンジされたマイセンですね。今風のオペラと同じですね。
契約が重要なのはよくわかりますが、100ページの契約書をそのたびにチェックすることは相当困難だと思います。標準契約的なものを前提に、個別事情の特約が付くというようなことなのでしょうか。そうでなければ、売れっ子さんは時間をとられて音楽の勉強どころではないでしょう。一般に戻ると、ほとんどの日本人は約款など読まず、パンフレットだけで保険契約をしていると思います。もちろん私も。根拠なく世間を信頼している。
作曲家の意思を尊重するとか、楽譜に忠実にというのは、割と新しい発想で、20世紀初め頃(たぶん録音というものが出る前)までは、楽譜を元にして良い演奏を作る、というのが、演奏家の能力であり、その芸術だったのではないか、という気がします。原作をありがたがるのではなく、作曲家が書いた楽譜は、演奏家が自分の芸術を作るための「手引き」とか「素材」程度の認識だったような気さえします。
難しい問題ですよね😅クラシックの場合は、指揮者や演奏家が真摯に作曲家の精神と向き合った結果として、改変等がされるのであれば、許される場合もあると思います😃(程度と出来映えにもよりますが…)今回の日○レのドラマ問題に関しては、テレビ局側の「お前の作品をテレビドラマ化してやっている」という尊大な姿勢が、見え隠れしていて不快感を覚えます。民放テレビ局は、民間企業ですから、利潤の追及が使命です💰️✨原作者の意志の反映率(?)よりも、視聴率を優先しないと商売にならないですから、原作者もそこを踏まえてドラマ化の諾否を決める必要があると思います📺️
TH-camでクラシックの特集を聴いていた時、ベートーヴェンのピアノ演奏が、どうしたらこんな曲になってしまうのだろう、と、腹立たしい思いになったことがあります。
先生のお話を聞いて、私は真っ先にグレングールドを思い浮かべました。彼の演奏には否定的な意見も少なくないですし。「彼は最大限にバッハを理解し、リスペクトしている」という考えは、グールド肯定派のエゴなのかもしれません。しかしそれでも。私はグールドのバッハが大好きなんです。すみません、とりとめがなくて。
脱線かも知れませんが、ラフマニノフ・パガニーニの主題による狂詩曲は、どの様な扱いになるのでしょうかね?マーラーやトスカニーニによる改変がどの様な感じだったのか?知りませんが、パガニーニラプソディーのレベルに不快感を示す作曲家は想像がつきません。
すぐにホルストの組曲『惑星』のことを連想しました。シンセサイザーでの編曲にあたり、冨田勲氏がご苦心された話が記憶にあります。権利を有するご子孫方に作品を喜ばれたと発売当時にご出演されたFM番組で聞いたと思います。
楽譜の改変もそうですが、今日ワーグナーのオペラでされるような演出をワーグナーが知っていたら一切上演を禁止したでしょうね(笑)。
最悪の演出と思っていたシェローのリングがなんと古典的に見える怖ろしさ、
ネバーエンディングストーリー、めちゃくちゃ懐かしい。
人間が作り出すものには完全なものはありえません。では、作家が作品を完成とする瞬間とは、どこにあるのでしょうか。それは自分の集中力の限界を感じた時であり、その時作家は自分の作品を巷に投げ捨てます。それは自分の裸を世界に向けて曝け出すに等しい行為なのですから、その勇気には奥ゆかしいものがあります。作家はこの瞬間が来る時まで何を見つめて、また自分の疲労の限界に達する程に集中した対象(的)とはどこにあったものなのでしょうか?深淵の底から見え隠れする「光」はとてもパワフルなものですが、危うくも見え隠れするものでもあります。作家の探究心と集中力の限界の瞬間が訪れた直後から、作家は全てを投げ出します。これが完成の瞬間であり、作品に対する作家の思い入れや関心事が失われる瞬間でもあり、それは、忌避(Avoidance)とも言えるかもしれません。その後にたった一つ残されたことは、「世の人々は自分の裸をどのように評価するのだろうか」または、「神の視点からはどのような位置付けとなるのだろうか」という不安感です。作家が世の人々に期待することとは、また、作家にとって安らぎとなることとは、世の人々が自分の疲労感の限界であった自分の作品の延長線上に立って、この「的」に向かって、作家が目撃していた微かな光を引き続き探し続けてもらえることです。鑑賞者や演奏者にはこの視点を正しく引き継いで受け止める責任があります。ここに言い表すことのできない真の感動があり、どこから来るのかわからない喜びの涙が溢れ出ます。世の中には多くの芸術家によって輩出されたこのような作品は、土に埋もれながらも一つの光源からの発せられた閃光を反射すべくダイヤモンドのようにたくさん放置されております。私が思うに、不思議なことに、これらの作品がサーチしている「的」とは、共通の光源であるようにも思えます。ですから、作家も演奏家も鑑賞者も同じ一つの光を追い求めているのであり、この「的」を外していない限り、楽譜も演奏結果も、全ての健全性が保たれているのだと思います。
最近、ずっと欲しかったバッハのカンタータ全集のCDをゲットしました。今までカール・リヒターの25枚の選集しか持っていなかったので、初めて聴くカンタータがたくさんあって楽しいです。カンタータの楽しみの1つは、過去の自身の作品をリフォームした曲やそのモチーフ、断片が散りばめてあるところです。我々が崇め奉るような彼の崇高な作品たちに躊躇なく魔改造が施されている様は、私的にはもうパラダイスですね🤣バッハはビバルディの4つのヴァイオリンのための協奏曲を4台のチェンバロのための協奏曲に編曲していますが、これも魔改造という表現がピッタリだと私は思ってます。ビバルディが好き過ぎたんでしょうね。まぁ、そんなことを考えながら今日のお話を聞いてました。チョコレート、いつも美味しそうに食べますね〜😆どなたかも書かれてましたが、糖尿病には気を付けてくださいね。
基本的には、楽譜は改訂せず、忠実に演奏し、それを後世に伝えていくのが演奏家の仕事じゃないかと思っています。大多数の作曲家はそう思っている(思っていた)のではないでしょうか? ただし、演奏不能の楽譜の場合は変更やむなしだと思います。以前非常に違和感を感じた事がありました、ムソルグスキーの「禿山の一夜」クラウディオ・アバド指揮で原典版を聴いた時です、心がざわざわして聴きにくい思いをしました、「禿山の一夜」は改訂版の方が聴きやすかった。 ムソルグスキーの意図は分かりませんけどね。私がきっと改訂版の方を聴き馴染んでいたからでしょう。どっちが正しい事なのか分からなくなりました。
@@isamich1535 さん コメントありがとうございました。 仰る通り、作曲家、演奏家、聴衆 ひとくくりに考える事は出来ないと思います。 単なる趣味人いち個人の考えとして言ったまでです。
@@伸加藤 さん、コメントありがとうございました。マショー 古すぎて知りませんでした。
カラヤンは、どうだったのでしょうか。お前らー!ベートーヴェンを知らずにベートーヴェンが吹けると思うのか!勉強しろーっ!!(ノ`Д´)と、中学の時、先生に叱られました💧皆で図書館に行って、一生懸命勉強しました。
@@伸加藤 こんにちは〜そぉですか~詳しくご存知なんですね~私は吹奏楽部員で、エグモント序曲を演奏しました指揮者の方ですか?(人 •͈ᴗ•͈)
吹奏楽部員でしたけど、顧問の先生の強烈な影響でN響アワーなど、よく観るようになりました。初めて聴いたN響の演奏、シューマンの“春”でした印象深く覚えています。(人 •͈ᴗ•͈)
@@伸加藤 おはようございます。譜読みが小学校1年生レベルと仰られましたけど、とてもお詳しいのですね。バイオリン、素敵ですね。バイオリンって、良いな!と思います。これからも頑張って下さいね!
@@伸加藤 こんにちは〜私には、教養はありませんよ恩師は素晴らしい方でしたが…小澤征爾さん、本当に素晴らしい指揮者でした。残念です。バイオリン、頑張って下さいね🎼🎻(˘⌣˘ )
こうしてお話を聞くと何が正解なのかわからなくなってきますし、その混乱を楽しみたいとも思いました。あくまで個人的な「好み」でいえばバッハはチェンバロで、モーツァルトやベートーヴェンはフォルテピアノで聴きたいし、吹奏楽のカットの慣習は反対。一方でマーラー版のベートーヴェンやシューマンは「別バージョン」として楽しんで聴いたり、シューベルト、ブルックナーやマーラーの未完成の交響曲は補筆完成版で聴く方が好きで、自分の中でも一貫しておりません(苦笑)すみません何のオチもなくて(笑)
車田先生&視聴者様今日の御投稿は私にとってタイムリー過ぎてびっくりです(^O^)まさに日本人の契約意識の低さと言うよりアレルギー?について語ってみようと思っておりました。島国で、空気を読み、同調圧力の中で守られてきた日本人契約書と言う言葉を出した途端、めんどくさい人のレッテルを貼られここに署名してくださいと言われるだけで緊張します。私自身、契約書がないまま演奏の仕事を受け随分いやな思いをしてきました。オリジナルとは少し論点がずれますが演奏料が支払われず、間にユニオンに入ってもらった事もあります。そもそも仕事の依頼する側に目に見えない音楽という物に対する契約という意識も概念もない場合も多く契約書をこちらから要求したこともあるくらいです。。。オリジナルに関しては、まさに現在抱えている問題で。。。私は、作品について、断然ヴェルディ派?ですが先日、不肖私のチャンネルでも話してみたのですが自分の手を離れた段階で完全にどうなるかをコントロールはできませんしそれは動画の発信をしある意図を持って撮った動画も全く別の視点で視聴されていらっしゃる方々もおられ一旦手を離れた物を特にTH-camの様に、無料で誰でも受け取れ、誰に届いているか確かめようもない物?をどのように利用?消費??視聴???されるかのコントロールは不可能。。。契約という意識と概念が薄い日本でこうした概念が、果たしてそれが受け入れられ実行されること自体正直疑問ではあります。。。SNSの発達で全ての問題が見える化することがいい方に作用することを願ってやみませんm(_ _)m101ページ、流石ドイツ!ドイツ人は鍵も好きですよね~(爆)マイセン、素敵です(*^_^*)現役高校音楽教師ピアニストマユミージュことMayumi
@@伸加藤 コメントありがとうございます!私のチャンネルは「マユミージュ」と申します(^_^)よろしければ検索してご視聴、コメントを頂けたら嬉しいです(*^_^*)現役高校音楽教師ピアニストマユミージュことMayumi
@@伸加藤 コメントありがとうございます!お名前を名乗っておられる方には宛名と自分の名前の署名は礼儀かと思い行っていましたが現役高校音楽教師ピアニストマユミージュことMayumiでは確かにわかりませんね(^_-)大事な気付きをありがとうございます(^_^)学ぶことは楽しいですね(*^_^*)これからも車田先生から色々学ばせていただけたらと思っております(*^O^*)ありがとうございますm(_ _)mマユミージュ(現役高校音楽教師ピアニスMayumi)
入門のため、あるいは映画のためのBGM楽曲編集は 13:33 許されると思いますしかし、コンヴィチュニーが二期会で行った「影のない女」の四分の一カット、しかもエンディングを3幕から2幕に変更は酷すぎます
私は「優れた作品だからこそ、再創造される」と思います。余計な手間ひまをかけずに、他の作品をそのまま演奏しても良いのですから。なので改編を否定ととらえなくても、良いように思います。
昔、吹奏楽コンクールに出る団体からトラを頼まれ。なんの曲をやるの?と聞いてみると、オーケストラ大作の編曲版。。いろいろフラストレーションが溜まりそうなので、お断りした記憶がありますね。。響きの違いは当然なのでいいとして、時間合わせのためのコンクールカットっての、さすがに大人になってから付き合う気にはなれなかったな。。スミマセン。車田先生の話の趣旨とは全く違うレベルでした。。
最初に、勇み足でコメントを書こうとした件が 古い時代?(モーツァルト以前の頃?)の楽器の いくつかが 今でいう古楽器に相当し 忠実な演奏再現自体が難しい状況にあるので・・・と 問題提起のコメントを考えていたところ、後半の解説でその辺の事柄にも触れて説明の一端があったので 良かったです。
契約書101ページはなんというか...ドイツ人気質なんでしょうか...?
労働者が不利にならないように、組合のような組織が定期的に交渉をして、契約書に条項が追加されていきます。
楽譜は優れた記録方法ではあると思いますが同じ楽譜を正確にトレースしてても名演奏とそうでない演奏があります楽譜は音楽の全てを記載してる訳では無い(から面白い)と思いますそうゆう楽譜の揺らぎを過大解釈すると、楽譜(の改変)までに及ぶのかな?とも思います
聴衆の立場としては、原作をもっとよく知ることが求められるわけですね。
ピアノ弾き語りをピアノ独奏に改変するのが嫌で嫌でたまりません。😂
楽譜に全てがあるとも言えるし、楽譜は月を指し示す指先に過ぎないとも言える。歌い手、演奏家の演奏だけでは音が流れているだけ、観客がいなければ成立しない。改変があっても、感動があれば良いのか。それは月を示しているのか。なんとも言えないですね。
@@伸加藤 そうですね。でも、音楽の場合は気楽です。
MUJIの塩キャラメル美味いです。
デザインの好みなんだからまあ何ですが個人的には縁がギザギザと言うか波波なのは苦手かな、マイセンとかトップエンドブランドに多いですけど。小市民の小生は紅茶が中心でウェッジウッドのお手軽な価格帯何種類かを気分で使い分けて特にピオニー型の口当たりが好きで良く使ってますね。同じ柄でもリー型の方がキュートなんで一応ペアで所有してますけど。
私はアマチュアミュージシャンとしてカバーを編曲・演奏する時は、再現性や技術的完成度よりもまず「自分たちがその曲を愛し、理解している」ことが聴く人に伝わるよう努めています。今回の漫画ドラマ化に関する悲しい事件は、原作と原作者に対するドラマ制作側の愛情とリスペクトが著しく欠けていたために起こってしまったと思います。プロのクラシック音楽家は仕事で膨大な数の演奏を行うなかで全て同じ熱量の愛情を注ぐのはもしかしたら難しいのかもしれませんが、たまたまコンサートに行って聴く側としてはその日の演奏で原曲に対する音楽家の愛と理解を感じ取れたらいいなと思います。
今回の題材はテーマだけ見て、オペラの台本の脚色の話題かと思ってしまいました。
音楽作品そのものへの尊重のお話だったのですね。
吹奏楽のカットの話は、昔、大学の先輩が「ティル」をカットすると、
何も悪さをしてないのに処罰されたような音楽になると冗談を言っていたのを思い出します。
スコアの改ざんではブルックナーとその弟子たちとの関係が有名ですが、師の曲を普及させるために
オケを知り尽くした弟子たちがとっつきやすくしたとする研究者さんもいらっしゃいます。
ただ音源を聴いてもさほど気楽に聴ける感じでもない気もするのでどうなんでしょう?
他方、新ウィーン楽派の様々な室内楽編曲は再創造として広く認識されている感もあり、
楽譜の書き換えが一概に改悪とならないのは音楽の奥深さとそれを扱う人物の精神なのでしょうかね。
う~ん………。
本当に難しい話題ですよね。
昔の作曲家は自分が残した作品が後々こんな複雑な問題になるとは誰も思っていなかったのかもしれませんよね。
自分の作品の未来に対して無知だったのか無関心だったのか寛容だったのか可能性や再創造される事も理解したうえでの作曲だったのか…。
昔から『~の主題による変奏曲』も他人の作曲した旋律を使って自作にしてる大作曲家も沢山いますし…。
オケや吹奏楽でもカットやリピートするしない問題がありますし未完成の作品を便宜的に補筆完成させたり無茶に復元版として公表したり演奏されたりと作曲家の遺志はそこには存在せず金銭的な版権のみが残ってるだけなのも再現芸術の在り方がいかに難しいかと再認識させられました。
モーッアルトの『レクイエム』は正しいのか?ベートーヴェンの交響曲第10番って??シューベルトやブルックナーやマーラー、チャイコフスキー、グラズノフの未完や遺稿の復元版もしかりですよね。
先日、指揮者のクレンペラーがメンデルスゾーンのスコットランド交響曲の最後をクレンペラー自身の信念と解釈で書き直した演奏の録音を聴きましたが大指揮者なら何でも有りなの?と凄く疑問でした。トスカニーニもヴェルディの『諸国民の讃歌』あちこち手直ししてるし、プッチーニの『トューランドット』だってトスカニーニも合意してたようですがアルファーノの補筆完成版はプッチーニの本当の遺志だったのでしょうか???酷いとストーリー迄変わってしまうだけにいまだに疑問が払拭されません。
マーラーの10番も未亡人になったアルマがクック版で激昂し大反対していたのに実際に聴いたら『素晴らしい、OK!』と作曲家本人の遺志も全く関係無い形に終わるのも微妙な話です。
(確かにクック版は素晴らしい再現ですがね…。)
オペラも作曲家の意図が演出に対して何処まで関与していたのか?何処まで関与するべきなのか?最終的には総合芸術としての古今の作品上演に関わる決定権の主体は作曲家?脚本家?演出家?興行主?以前から確かに疑問でした。
あまりにも酷い作品の良さを潰すような演出や前衛的意味不明な演出、政治的色合いや歌手に無茶な演技まで要求する演出の内容は集客を遠ざける要因かと思います。
先生、そこらへんの本場の詳しい事情是非教えて下さい!!
※ 先に先生が提示した原作者と製作者側との問題提起は本当に深刻な問題です。私もその原作作品と放送された番組を観ていたので原作者が死を選んだ些細な制作側との行き違いについては、お互いにもっとよく話し合うべきだったのでは?契約として明確にしておくべきだったのでは?と思うばかりです。
今後は作曲家と同じく原作者の繊細でデリケートな精神や感性を製作者側やメディアももっと大事にしてくれていたらと祈るばかりです。
クレンペラーはマーラーの影響があったのでしょうか?
他の作曲家の作品に筆を入れる事に対する抵抗や罪悪感がまだ無い時代だったのかな?
J・シュトラウスⅡもヴェルディのオペラや他の作曲家の旋律を使ったパラフレーズ作品を書いてますがトラブルにはならなかったのでしょうか???
現代は過去の大作曲家の作品をアレンジしたりするのも商業主義優先の再創造なのかな…。
古楽や古典派の作品も当時の楽器や編成やピッチ、メトロノーム表記のスピードも異なるし平均律の扱いも厳密に考えれば異なるから現代の楽器による演奏スタイルは芸術の再創造になるのですかね???
吹奏楽の切り貼りも酷い話ですが、NHKの『名曲アルバム』って無理矢理5分に伸び縮みさせて編曲してますけど現代の公共放送的には有りって事なんですね。
今回の事件に関しては様々な憶測や意見が飛び交っていますがはっきりした原因や状況は不明であり当事者間でのみしか真実は判っていません。なので多くの漫画関係者や番組制作担当者の意見表記では『些細な』とまでの表現で不確実な事実関係でのお互いへ配慮した形となって報道されています。なので私も同じ判断で記述しました。
亡くなられた事に対しては本当に残念ですし由々しき事ですが…。
一番は『命』を尊重して欲しい事だと切に願います。
「クラシック」とは実質、契約も著作権ももはやないので、演奏・演出での改変がしやすいことは見逃せないでしょう。
楽譜に忠実と称しても、新校訂版が出るようにどれほど確実なのか(ロッシーニのように、研究が進んだから上演がふえたりもする)。シェイクスピアには、自筆原稿も作者公認台本もありません。
ガーディナーでしたっけ、「レオノーレ」(初演版?)と「フィデリオ」をともに録音しているのは。
「フィデリオ」の曲順をかえた演出家もいますし、シェイクスピアも細かな手入れをして上演は通常のようです。
楽譜に忠実な演奏といえば、メトロノームのままのような演奏をブーレーズが軽蔑した口調で批判していたのを思い出します。
先月の動画で教えて頂いた文化マネージメントについてもそうですが、現時点では、著作権や原作の再創造についての各ジャンル別の許容ライン( これが1番難しいですが )について、こうして考える機会に巡り逢わない限り、無知で過ごしてしまう事になるのでしょうか、勉強する機会というものが、自分から知りたいと動かない限り、なかなか無いですね。
何か問題が起きて、誰かの犠牲をもってでなければ露呈しない、知られる事が無いだなんて、有ってはならない、何とも悲しい事です…。
日本社会にはそんな悲しい事をキッカケに解決に向かった問題が多々有るのも事実ですし、未だ未だ山積み、考え過ぎると目眩がしますが、
ジャンル問わず、何かを生み出した方への苦労を慮り敬意を忘れないで行動する事、表現する事と、可能な限り直接のコミュニケーションが大切なのではと思います。
にしても、過去の名曲は日常に、身の回りに余りにも溢れすぎていて。その原曲を、生徒や人に教える楽しみも少し有りつつ、曲のイメージが良くにも悪くにも付いてしまう事も致し方無く。
トイレの洗剤CMにショパン😢、
私の住む地方の某CMでは、モーツァルトのピアノ協奏曲第○番第2楽章のうっとりするメロディーがロック調に再創造されてます…
あ~、聴きたく無いよぉ~😞💦
展覧会の絵のように編曲によって広く演奏される曲もあるし、パガニーニの主題のように多くの作曲家に
よって変奏曲が作られたものもあります。リストによるベートーベンの交響曲の編曲のように
オーケストラで演奏しにくいとことできくことができるというメリットもありました。
改変については良しあしを議論するのは難しいと思っています。
ただ、シューマンの「献呈」のリスト編曲はよく演奏されてはいますが、クララ・シューマンが好んで
いなかったようにシューマンらしくないと思います。マーラ編曲のシューマンの交響曲も個人的には
好きではありません。
いい、悪いを言っても仕方がないのかな。
生演奏のあるタイプのレストランでツィゴイネルワイゼンをリクエストしたところ、演奏者のバイオリニストが僕のアレンジ版を演奏していいか?と言うのでOKしたところ、原曲の片鱗も感じられない曲だったことがあります😅私達はツィゴイネルワイゼンを楽しむことは出来ませんでしたが、彼のツィゴイネルワイゼンに対する愛情は十二分に伝わってきました。再創造された作品がイマイチでも動機の純粋さが同時に伝わってきた体験でした😊
ピアノの勉強をしています。先生のお話はとても勉強になります。ありがとうございます。そして最後のお茶の時間、私のピアノの先生もとても大事にしている時間で私もレッスンが終わると必ず母がお茶を用意してくれています。
一軒家の建築設計の場合は依頼者の要望を忠実に再現するだけでは基準以下の建物になってしまいます(勉強はしても素人なので)、そこで設計者は要望の延長線上の物を提案するわけですが、そこには依頼者の気持ちを汲み取る心とミーティングが必要不可欠です。
件の話はそこを軽視した結果なのでしょうね。
偉大な作曲家の延長線上を提案するというのはものすごく困難なことですが、尊重=忠実な再現ではないと思います。
これを今回このコメント欄で言うべきか、と思ってはいるのですが(前置き)……。
モーツァルトの『トルコ行進曲🇹🇷』、競うように速くなっていますよね。私は民族音楽にも興味があって、トルコの軍楽隊の動画も時々楽しむのですが、絶対あの超高速テンポでのピアノ演奏は違うと思う‼︎
実は、最近ずっと心の中でモヤモヤ考えていたことで、車田先生の『トルコ行進曲』の動画を視聴したのが大きなキッカケです。モーツァルトもビックリ、オスマントルコもビックリ🫢なんじゃないかな。それとも、モーツァルトは250年(かなり大まかに)後の世界で自曲がこんな風に演奏されていることを知ったら、むしろ子供のように無邪気に喜ぶのかな。もっとスゴイことをしてみせてくれたりなんかしたりして……🤭
とりとめもないことを書いてしまいましたが、一体いつからあの『トルコ行進曲🇹🇷』は超高速で演奏されるようになったのでしょうか? あのホロビッツが、元のイメージを大切にしたテンポで演奏している動画を視聴しまして、何だかホッとしたのであります🙂
モーツァルトは言うに及ばず、ベートーヴェンの編成さえ小さくなる昨今、マーラー(譜面)、トスカニーニ、フルトヴェングラーの演奏する第九でさえ、ティンパニーの追加、編成の大きさで、隔世の感を感じることが稀にあり。
況や、ワルターやベームのモーツァルトなど「もう、こんなスタイルの演奏は出てこないのかな」と遠くをみたり。
時代様式・奏法の音楽考古的な意味も解る、その上新しい切り口が見えたりもしますが、19世紀・20世紀的演奏も、排除するべきではないと、頭ではなく、耳がそういっております。
作詞家・川内康範さんと歌手・森進一さんとの間で「おふくろさん」騒動がありました。元の歌詞を尊重しつつも独自にアレンジして歌いたいという欲求はどうしても生じてしまうのでしょう。
シナリオ作家協会の某会員風に語ると、こんな感じでしょうか?
「私、作曲家には興味ないんですよ。
興味があるのは、あくまでも曲です。
その曲に私なりの解釈や表現を加えるので、原曲とは異なる箇所も出てくるのは当然ですね。
原曲通りに弾くと、譜面の単なるトレースにしかなりませんから。」
どうもこの協会の人達は、自分達の権利については、とても敏感なようです。
「再創造」という今回先生が説明された概念は全くなさそうです。。。
先日「皇帝」の時に初めてコメントしました。
私は法学を専門とする者ですが、法学にも同じようなことがあります。
法律を作る人(立法)とそれを解釈・適用する人(司法)の関係です。
司法の仕事は法の解釈・適用ですので、法の「改変」はできませんが、
実際は、司法は法の「解釈」を通して法を「創造」しています。
女性のポートレードでも光、影の当て方、表情や服などではっと今まで見えない面、魅力を引き出せることがあります、根幹は変えないが、演奏が記録簿の読み出しでなし、原曲の魅力をひきだし従来にない良さがでるのであればそれは邪道でなく、それも立派な音楽をする、ということになるのだと思っている。
作曲家の意図を深く理解し、それぞれの時代の各演奏家による「再発見こそが再創造」なのだと思っていました。
ジャズだと「赤青本」と呼ばれる超シンプルな原曲の譜面くらいしかなく、音調・テンポはもちろん、楽器の選定・アレンジ、フェイクまでまさに「再創造=演奏」ですが、原曲を壊すような独善的なものでは自由は感じられないし、感動もできません。
比較的原曲に忠実なクラシックでも、指揮者・演奏者・楽器などの違いでまったく違う音楽になるので飽きません。原曲と作曲家の意図はきちんと記録したうえで、指揮者や演奏者もきっちり明記していただき、心が解き放たれているという意味で自由な演奏を聴かせていただけたら嬉しいです。
考えさせられたお話でした。私はピリオド楽器や当時の編成で「再現」しようとする演奏を否定はしませませんし興味はありますが、近現代の楽器を使う演奏はけして作曲者の思いを蔑ろにするものではないと思っております。きっとバッハはビアノがあったらそれで演奏したでしょう。同様にトラベルソより進んだフルートの音を、ソプラノ合唱なら音楽としては少年を使うより今のような編成(成人女性の声)を望んでいたのてはないかと私は思います。無論楽器の特徴を考えたもの〜例えばリコーダーやオーボエダモーレ等はその楽器を使うべきですが∼∼
オペラの現代的演出は、やはり当時のもの(基本?)を知らなければかなりわかりづらいものになると〜特にオペラには疎い日本人には理解がし辛くなっているのではないかとわたし思います。
「作曲者の精神の再現」ということは重く受けとめたいと思います。
難しい問題ですね。
個人的に、再創造というのは行っても普及されないで終わってしまう印象を受けます。完成された作品のオーケストレーション改変に至っては、お話にあったようにトスカニーニの改変が原作者プッチーニに受け入れられたというのは稀な例だと感じました。他にも、マーラーがシューマンの交響曲のオーケストレーション変更したり、ショパンの協奏曲のオーケストレーションを変更して演奏したりなど、様々な再創造が行われていると思いますが、どれもそこまで広まっていないなという印象です。本当にその再創造が良いものと判断されていれば、現在でもその再創造したヴァージョンでも演奏されているのでは?とは思います。ぱっと思い浮かぶのはムソルグスキーの『禿山の一夜』でしょうか。リムスキー=コルサコフの再オーケストレーションした版が現在ではよく演奏されていますが、これは再創造が成功した例と言ってもよいのではないでしょうか。
他にも編曲が再創造というカテゴリに含まれているなら、例えばラヴェルの編曲した『展覧会の絵』、リストが編曲した『ラ・カンパネラ』など前者はピアノ曲をオーケストラに、後者はヴァイオリン協奏曲をピアノ曲へと再創造し、作品の知名度を高めた貢献は大きいのではないかと思います。
作品のカットに関しては、私は否定的な立場です。
カットされると作曲者が伝えたかった思い、表現がすべて反映されないようになってしまうと思います。
コンクールに演奏時間の制限があることはわかりますが、時間のためにカットするというのは、そこに作品に対する尊重というのはないのではないかと思います。
一方で、アルカンは『ピアノ独奏のための協奏曲』の第1楽章をカットしてもよいと公言していました、それは作曲者本人が認めていることなので、カットして演奏するのも、カットしないで演奏するのもどちらでもよいと思います。
今回で起こった一連の騒動は、漫画作品をドラマ化するという再創造の失敗例と言えるかもしれません。このような顛末になるなら、ドラマ化なんてしない方がよかったなと感じさせられます。
P.S.
今回初めてコメントさせていただきましたが、いつも動画を拝見しております。
これからも車田先生のお話を楽しませていただきます。
貴方のコメントには、貴重な情報が沢山こめられ、とても勉強になりました。これからも、いろいろ教えてください。ありがとうございました😊😊😊
クラシック音楽の『名曲』というものは、作曲家・演奏家・聴衆、この三者のバランスの中で生まれてくるもの、と考えて良いのでしょうか。作曲家の表現したいもの(主に感情)と、聴衆の聴きたいもの……特に『聴きたいもの』は時代状況など音楽以外の要因で影響されることもあると思うのですが……それがうまくシンクロした時に『遺産』となるのでしょうか。
今回のお話もクラシック初心者には難しいお話でした。
初心者あるあるな話で申し訳ありません。
メジャーな曲しか聞いたことが無い(例えばカラヤンが指揮した曲)ので、
それが正しい曲だと思っていた程度です。
そもそもクラシック音楽は楽譜通りに演奏するんだから
指揮者なんて誰でもできるもんだと本当に思っていましたら。
ましてや勝手に改変したり、創作してるなんて思っても見ませんでした。
そんな僕がフルトヴェングラーの1952年11月録音盤「田園」を聴いたときは
なにかの冗談かと思ったくらいです。
そしてベートーベンとメトロノームの話にたどり着きました。
楽譜にはテンポが記載されメトロノームのように正確なものだとばかり思っていたのですが、
メトロノームのようにテンポが記載されたのがベートベンの頃からと知りました。
楽器を加えるとかは別として、曲の全体的なイメージは指揮者次第でどうにでもなるよなあ。と。
日本には「謡」というものがあります。
ひらがなの脇にミミズが這った様な傍線が書かれていて、それが抑揚を表しています。
「謡」の楽譜はすごくアバウトで、教える人の癖(解釈)でめちゃめちゃ変わりますし、
極端な話同じ曲が、地方(藩)によっても違います。
クラシックの楽譜は読めませんが、指揮者によって表現が違うのは
この感覚と一緒なのではと感じます。
後半のコーヒーソーサーのお話ですが、
あの受け皿の起源は、熱い飲み物をカップから移して皿で飲んでいたそうですよ。
(カップと同量が入る理由もそこにあります)
飲む容器はカップではなく皿でとう習慣のなごりらしいです。
そもそもカップ自体に取っ手も無い頃の話です。
長々と失礼いたしました。
脇道に入ってしまいますが、ジブリのアニメ、「アリエッタ」や「ハウルの動く城」等は、原作の設定を借りただけで内容はかけ離れたものになっていて、原作を知っている者としては、最初に見た時は騙されたような気がしました。もし私が作家だったら、自分の作品であってそうでないものが独り歩きするのは許せないと思います。原作者や作曲家の気持ちがわかる気がします。(上述のアニメは、原作と切り離して見れば良い作品に仕上がっていると思います。特にグラフィックの緻密さ、美しさは素晴らしいと思います。)
作曲者が存命であれば許可を得ていること、物故者の場合は「〇〇版」のように誰が変えたか明らかにしておくことといったところでしょうか。でも昔の曲はもう無法地帯ですよね。
通常聴く「はげ山の一夜」はR=コルサコフのアレンジ版とのことですし、第九はアブネック、ワーグナー、ワインガルトナーなどがいっぱい手を加えて、もはや原型がどうなんだか。。。バーンスタインの「ウェストサイド」シンフォニックダンスも別の人が譜面書いてるわけですし。
原作の改変は、別の作品だと思うことにしています。シューマンのチェロ協奏曲をショスタコーヴィチが編曲して、ヴァイオリン協奏曲にしたCDがあり、オーケストレーションが明瞭になっています。別の作品と考えたら、とても秀逸です。
飯守泰次郎さんのベートーヴェン交響曲チクルスも、マルケヴィチ編曲版(改訂版?)はアクセントが強調されて楽しめる演奏です。
アシュケナージがインタビューで語っていたグールドのバッハ、もともとidiosyncraticに過ぎたと思っていたけれど今はそう思わない。フルトヴェングラーのベートーヴェンもそうだけれどエッセンスからそれていないと自分は感じます。フルトヴェングラーにとってベートーヴェンは神だったと彼の奥さんが言っていました。グールドにとってバッハはかけがいのない友だった。自分には彼の演奏を通してバッハの声が聞こえるような気がするします。アシュケナージの晩年に録音したバッハにはグールドの影響があると思います。アシュケナージは、10回くらい実演に接しているのかな?いつも不遜な言い方になりますがたいしたことないなと思っていました。でも素晴らしいバッハですね。
難しい問題ですね。シューマンの交響曲とか手を加えたくなる気持ちはすごく理解できますよね。マーラー版に関しては1番とか出だしからして違和感あるけど3番はものすごくいいと思います。ライン川のイメージが変わってしまいそうですけど、、、
ストラヴィンスキーは、カラヤンの春の祭典を酷評していましたけど個人的にはすごい演奏だと思います。でも野趣に欠けていて洗練の極みでストラヴァンキーが酷評したのもわかるような気がします。
なるほどですね。指揮者のカレルアンチェルさんは、僕は、なるべく、楽譜に忠実に演奏するべきだと考えている、それが作曲家に対して、敬意を表するものだからです。と、おっしゃっていたそうです。私は彼の残した録音のレコードからは、その事がよくわかるものが多いです。フルトヴェングラーさんの場合は、彼の言うとおりだし、なかなか凄い演奏だと思うものが多いですね。演奏者もその方の考え方があって、その考え方が、その作品に反映されれば、名演奏が完成されるという事なのでしょうか。うーむ、なかなか難しいですね。私は、その演奏者の気迫が感じられるものがいいですね。
改変というのは、料理でいう味変だと思う。
作る人はこれが「私の料理」だから「素の状態」で食べて欲しいと願う。
だが、食べる人は、そこに塩や醤油、ソース、胡椒、酢などを付け加えて、
「自分の好み」にカスタマイズしてしまう。
さて、食べる人のこのカスタマイズを、料理人は批判できるだろうか?ということ。
テノールで書かれたシューベルトの冬の旅、ホッターが歌うものに、
原作への改変という批判があるだろうか?
バスで歌う冬の旅は原作と違うからダメだ、とはならず、
世に冬の旅という曲の素晴らしさを伝える芸術として、ほぼ確立している。
古楽器主義のバロック音楽も、ほとんど指示のない楽譜から原作はこうであった、
と時代考証して再現演奏する人も、厳密にいえば指示のない楽譜の原作に忠実ではなく、
あくまで、演奏する人の時代考証と言う考えの味変。
味変がダメとなるなら、他人に食べてもらわず、自分のみが味わう料理に徹するしか究極にはない。作曲家も演奏家も聴衆も、自分が自分が、権利が権利が、と言ってたら、
社会の中で存在できなくなる。
料理人も客に食べてもらっての料理人だし、
作曲者も演奏してくれる人や、聴いてくれる人がいてこその作曲者。
絶対改変は不可となるなら、
作曲者は演奏されることを前提とせず出版もせず、楽譜を自分の机の引き出しにいれて、
たまに眺めていればいい、ということになる。
それでは、作曲者は生きていけないでしょ?ということに。
現役の世界的指揮者の中にも、楽譜を改変して演奏される方はいらっしゃいます。マーラーやトスカニーニのように楽譜を忠実に再現することに注力されている指揮者ほど逆に変えるべきと思った箇所は変えて演奏されているように感じます。知的財産権については世界的にみてままだまだ不完全であり、同じ知的財産でも、音楽なのか、絵画なのか、文章なのかなどそれぞれ事情が異なり最適なルール作りができていないのが現状かと思います。私は知的財産の国家資格を持っていますが、本当に厄介で難しい問題が多いです。
音楽における改編には、程度の差はあれ良い面も悪い面もあるのではないかと思います。
そこに作曲家の意思を汲む姿勢があるのかないのかで良し悪しが変わるのではないかと思います。
吹奏楽コンクールにおけるカットや自分勝手な改編に関しては、現場にある身としてカットせざるを得ない事情もよくわかりますが、やはり不快な思いをすることも多々あります。
自分勝手な改編については概ね不快です。
12分という極々短時間の中で2曲も演奏しなくてはならないとなれば、原曲カットという行動が生まれるのも必然なのかもしれません。
課題曲の他に自由曲も演奏することにはもちろん良い面もたくさんあるとは思いますが、コンクールという場においては課題曲のみの演奏で良いのでは?と思っています。
改訂版じゃない原作のブルックナー8番を聞いてみたい。当初はそんな曲は弾けないと楽団につっぱね返されて、しぶしぶ修正して今の8番があるらしい。
勝手に弟子が師匠より先に楽譜修正して出してしまうというのもありえないよね。
現存する存在としてのクリエーターの方ならその「意思・意図」を確認することができますが、クラシックの場合は名曲とされる曲を作られた方の殆どが物故されているわけで、演奏者が語る「原作者の意思」も100人解釈者がいれば100通りあって、どれが「正解か」は永遠の謎ですよね^^;;・・・・ただ、あくまで個人的な感覚ですが、吹部にいたとき、管弦楽のアレンジを演奏する時「調が変えられている」時は「なんかイヤ」でした。
僕の場合、ちょっとした改変のなされたある演奏を聴いた時、その曲の魅力に気づき、その作曲家が好きになることがあります。
マーラーは自作の楽譜にかなり細かい書き込みをしていますから、あまりいじってほしくなかったんでしょうね。でも、だからなのかベートーベンほどの演奏による多様性はない。難しいものですね。正直なところ、私はピリオド演奏がなかったらバロックの魅力に気づけなかった人なので、若干の改変も含め、芸術的な観点による様々な試みは歓迎です。大切なのは作曲者に対する真のリスペクトではないかと、生意気にも思ったりします。
今日お飲みのマイセンは当時の伝統様式ではなく今風のアレンジされたマイセンですね。今風のオペラと同じですね。
契約が重要なのはよくわかりますが、100ページの契約書をそのたびにチェックすることは相当困難だと思います。
標準契約的なものを前提に、個別事情の特約が付くというようなことなのでしょうか。
そうでなければ、売れっ子さんは時間をとられて音楽の勉強どころではないでしょう。
一般に戻ると、ほとんどの日本人は約款など読まず、パンフレットだけで保険契約をしていると思います。もちろん私も。根拠なく世間を信頼している。
作曲家の意思を尊重するとか、楽譜に忠実にというのは、割と新しい発想で、20世紀初め頃(たぶん録音というものが出る前)までは、楽譜を元にして良い演奏を作る、
というのが、演奏家の能力であり、その芸術だったのではないか、という気がします。原作をありがたがるのではなく、作曲家が書いた楽譜は、演奏家が自分の芸術を
作るための「手引き」とか「素材」程度の認識だったような気さえします。
難しい問題ですよね😅
クラシックの場合は、指揮者や演奏家が真摯に作曲家の精神と向き合った結果として、改変等がされるのであれば、許される場合もあると思います😃(程度と出来映えにもよりますが…)
今回の日○レのドラマ問題に関しては、テレビ局側の「お前の作品をテレビドラマ化してやっている」という尊大な姿勢が、見え隠れしていて不快感を覚えます。
民放テレビ局は、民間企業ですから、利潤の追及が使命です💰️✨
原作者の意志の反映率(?)よりも、視聴率を優先しないと商売にならないですから、原作者もそこを踏まえてドラマ化の諾否を決める必要があると思います📺️
TH-camでクラシックの特集を聴いていた時、ベートーヴェンのピアノ演奏が、どうしたらこんな曲になってしまうのだろう、と、腹立たしい思いになったことがあります。
先生のお話を聞いて、私は真っ先にグレングールドを思い浮かべました。
彼の演奏には否定的な意見も少なくないですし。
「彼は最大限にバッハを理解し、リスペクトしている」という考えは、
グールド肯定派のエゴなのかもしれません。
しかしそれでも。
私はグールドのバッハが大好きなんです。
すみません、とりとめがなくて。
脱線かも知れませんが、ラフマニノフ・パガニーニの主題による狂詩曲は、どの様な扱いになるのでしょうかね?マーラーやトスカニーニによる改変がどの様な感じだったのか?知りませんが、パガニーニラプソディーのレベルに不快感を示す作曲家は想像がつきません。
すぐにホルストの組曲『惑星』のことを連想しました。シンセサイザーでの編曲にあたり、冨田勲氏がご苦心された話が記憶にあります。権利を有するご子孫方に作品を喜ばれたと発売当時にご出演されたFM番組で聞いたと思います。
楽譜の改変もそうですが、今日ワーグナーのオペラでされるような演出をワーグナーが知っていたら一切上演を禁止したでしょうね(笑)。
最悪の演出と思っていたシェローのリングがなんと古典的に見える怖ろしさ、
ネバーエンディングストーリー、めちゃくちゃ懐かしい。
人間が作り出すものには完全なものはありえません。では、作家が作品を完成とする瞬間とは、どこにあるのでしょうか。それは自分の集中力の限界を感じた時であり、その時作家は自分の作品を巷に投げ捨てます。それは自分の裸を世界に向けて曝け出すに等しい行為なのですから、その勇気には奥ゆかしいものがあります。作家はこの瞬間が来る時まで何を見つめて、また自分の疲労の限界に達する程に集中した対象(的)とはどこにあったものなのでしょうか?深淵の底から見え隠れする「光」はとてもパワフルなものですが、危うくも見え隠れするものでもあります。作家の探究心と集中力の限界の瞬間が訪れた直後から、作家は全てを投げ出します。これが完成の瞬間であり、作品に対する作家の思い入れや関心事が失われる瞬間でもあり、それは、忌避(Avoidance)とも言えるかもしれません。その後にたった一つ残されたことは、「世の人々は自分の裸をどのように評価するのだろうか」または、「神の視点からはどのような位置付けとなるのだろうか」という不安感です。
作家が世の人々に期待することとは、また、作家にとって安らぎとなることとは、世の人々が自分の疲労感の限界であった自分の作品の延長線上に立って、この「的」に向かって、作家が目撃していた微かな光を引き続き探し続けてもらえることです。鑑賞者や演奏者にはこの視点を正しく引き継いで受け止める責任があります。ここに言い表すことのできない真の感動があり、どこから来るのかわからない喜びの涙が溢れ出ます。世の中には多くの芸術家によって輩出されたこのような作品は、土に埋もれながらも一つの光源からの発せられた閃光を反射すべくダイヤモンドのようにたくさん放置されております。私が思うに、不思議なことに、これらの作品がサーチしている「的」とは、共通の光源であるようにも思えます。ですから、作家も演奏家も鑑賞者も同じ一つの光を追い求めているのであり、この「的」を外していない限り、楽譜も演奏結果も、全ての健全性が保たれているのだと思います。
最近、ずっと欲しかったバッハのカンタータ全集のCDをゲットしました。今までカール・リヒターの25枚の選集しか持っていなかったので、初めて聴くカンタータがたくさんあって楽しいです。カンタータの楽しみの1つは、過去の自身の作品をリフォームした曲やそのモチーフ、断片が散りばめてあるところです。
我々が崇め奉るような彼の崇高な作品たちに躊躇なく魔改造が施されている様は、私的にはもうパラダイスですね🤣
バッハはビバルディの4つのヴァイオリンのための協奏曲を4台のチェンバロのための協奏曲に編曲していますが、これも魔改造という表現がピッタリだと私は思ってます。ビバルディが好き過ぎたんでしょうね。
まぁ、そんなことを考えながら今日のお話を聞いてました。
チョコレート、いつも美味しそうに食べますね〜😆どなたかも書かれてましたが、糖尿病には気を付けてくださいね。
基本的には、楽譜は改訂せず、忠実に演奏し、それを後世に伝えていくのが演奏家の仕事じゃないかと思っています。大多数の作曲家はそう思っている(思っていた)のではないでしょうか? ただし、演奏不能の楽譜の場合は変更やむなしだと思います。以前非常に違和感を感じた事がありました、ムソルグスキーの「禿山の一夜」クラウディオ・アバド指揮で原典版を聴いた時です、心がざわざわして聴きにくい思いをしました、「禿山の一夜」は改訂版の方が聴きやすかった。 ムソルグスキーの意図は分かりませんけどね。私がきっと改訂版の方を聴き馴染んでいたからでしょう。どっちが正しい事なのか分からなくなりました。
@@isamich1535 さん コメントありがとうございました。 仰る通り、作曲家、演奏家、聴衆 ひとくくりに考える事は出来ないと思います。 単なる趣味人いち個人の考えとして言ったまでです。
@@伸加藤 さん、コメントありがとうございました。マショー 古すぎて知りませんでした。
カラヤンは、どうだったのでしょうか。
お前らー!ベートーヴェンを知らずにベートーヴェンが吹けると思うのか!
勉強しろーっ!!(ノ`Д´)
と、中学の時、
先生に叱られました💧
皆で図書館に行って、
一生懸命勉強しました。
@@伸加藤
こんにちは〜
そぉですか~
詳しくご存知なんですね~
私は吹奏楽部員で、
エグモント序曲を演奏しました
指揮者の方ですか?
(人 •͈ᴗ•͈)
吹奏楽部員でしたけど、
顧問の先生の強烈な影響で
N響アワーなど、よく観るようになりました。
初めて聴いたN響の演奏、
シューマンの“春”でした
印象深く覚えています。
(人 •͈ᴗ•͈)
@@伸加藤
おはようございます。
譜読みが小学校1年生レベルと仰られましたけど、とても
お詳しいのですね。
バイオリン、素敵ですね。
バイオリンって、良いな!
と思います。
これからも頑張って下さいね!
@@伸加藤
こんにちは〜
私には、教養はありませんよ
恩師は素晴らしい方でしたが…
小澤征爾さん、本当に素晴らしい指揮者でした。
残念です。
バイオリン、頑張って下さいね
🎼🎻(˘⌣˘ )
こうしてお話を聞くと何が正解なのかわからなくなってきますし、その混乱を楽しみたいとも思いました。
あくまで個人的な「好み」でいえばバッハはチェンバロで、モーツァルトやベートーヴェンはフォルテピアノで聴きたいし、吹奏楽のカットの慣習は反対。一方でマーラー版のベートーヴェンやシューマンは「別バージョン」として楽しんで聴いたり、シューベルト、ブルックナーやマーラーの未完成の交響曲は補筆完成版で聴く方が好きで、自分の中でも一貫しておりません(苦笑)
すみません何のオチもなくて(笑)
車田先生&視聴者様
今日の御投稿は
私にとってタイムリー過ぎてびっくりです(^O^)
まさに
日本人の契約意識の低さと言うよりアレルギー?について
語ってみようと思っておりました。
島国で、空気を読み、同調圧力の中で守られてきた日本人
契約書と言う言葉を出した途端、めんどくさい人のレッテルを貼られ
ここに署名してくださいと言われるだけで緊張します。
私自身、契約書がないまま演奏の仕事を受け随分いやな思いをしてきました。
オリジナルとは少し論点がずれますが
演奏料が支払われず、間にユニオンに入ってもらった事もあります。
そもそも仕事の依頼する側に
目に見えない音楽という物に対する契約という意識も概念もない場合も多く
契約書をこちらから要求したこともあるくらいです。。。
オリジナルに関しては、まさに現在抱えている問題で。。。
私は、作品について、断然ヴェルディ派?ですが
先日、不肖私のチャンネルでも話してみたのですが
自分の手を離れた段階で
完全にどうなるかをコントロールはできませんし
それは動画の発信をし
ある意図を持って撮った動画も
全く別の視点で視聴されていらっしゃる方々もおられ
一旦手を離れた物を
特にTH-camの様に、無料で誰でも受け取れ、誰に届いているか確かめようもない物?を
どのように利用?消費??視聴???されるかのコントロールは不可能。。。
契約という意識と概念が薄い日本で
こうした概念が、果たしてそれが受け入れられ実行されること自体正直疑問ではあります。。。
SNSの発達で
全ての問題が見える化することが
いい方に作用することを願ってやみませんm(_ _)m
101ページ、流石ドイツ!
ドイツ人は鍵も好きですよね~(爆)
マイセン、素敵です(*^_^*)
現役高校音楽教師ピアニストマユミージュことMayumi
@@伸加藤
コメントありがとうございます!
私のチャンネルは
「マユミージュ」と申します(^_^)
よろしければ
検索して
ご視聴、コメントを頂けたら嬉しいです(*^_^*)
現役高校音楽教師ピアニストマユミージュことMayumi
@@伸加藤
コメントありがとうございます!
お名前を名乗っておられる方には
宛名と自分の名前の署名は礼儀かと思い行っていましたが
現役高校音楽教師ピアニストマユミージュことMayumiでは
確かにわかりませんね(^_-)
大事な気付きをありがとうございます(^_^)
学ぶことは楽しいですね(*^_^*)
これからも車田先生から
色々学ばせていただけたらと思っております(*^O^*)
ありがとうございますm(_ _)m
マユミージュ
(現役高校音楽教師ピアニスMayumi)
入門のため、あるいは映画のためのBGM楽曲編集は 13:33 許されると思います
しかし、コンヴィチュニーが二期会で行った「影のない女」の四分の一カット、しかもエンディングを3幕から2幕に変更は酷すぎます
私は「優れた作品だからこそ、再創造される」と思います。余計な手間ひまをかけずに、他の作品をそのまま演奏しても良いのですから。なので改編を否定ととらえなくても、良いように思います。
昔、吹奏楽コンクールに出る団体からトラを頼まれ。なんの曲をやるの?と聞いてみると、オーケストラ大作の編曲版。。いろいろフラストレーションが溜まりそうなので、お断りした記憶がありますね。。響きの違いは当然なのでいいとして、時間合わせのためのコンクールカットっての、さすがに大人になってから付き合う気にはなれなかったな。。スミマセン。車田先生の話の趣旨とは全く違うレベルでした。。
最初に、勇み足でコメントを書こうとした件が 古い時代?(モーツァルト以前の頃?)の楽器の いくつかが 今でいう古楽器に相当し 忠実な演奏再現自体が難しい状況にあるので・・・と
問題提起のコメントを考えていたところ、後半の解説でその辺の事柄にも触れて説明の一端があったので 良かったです。
契約書101ページはなんというか...ドイツ人気質なんでしょうか...?
労働者が不利にならないように、組合のような組織が定期的に交渉をして、契約書に条項が追加されていきます。
楽譜は優れた記録方法ではあると思いますが
同じ楽譜を正確にトレースしてても名演奏とそうでない演奏があります
楽譜は音楽の全てを記載してる訳では無い(から面白い)と思います
そうゆう楽譜の揺らぎを過大解釈すると、楽譜(の改変)までに及ぶのかな?とも思います
聴衆の立場としては、原作をもっとよく知ることが求められるわけですね。
ピアノ弾き語りをピアノ独奏に改変するのが嫌で嫌でたまりません。😂
楽譜に全てがあるとも言えるし、楽譜は月を指し示す指先に過ぎないとも言える。
歌い手、演奏家の演奏だけでは音が流れているだけ、観客がいなければ成立しない。
改変があっても、感動があれば良いのか。
それは月を示しているのか。
なんとも言えないですね。
@@伸加藤 そうですね。でも、音楽の場合は気楽です。
MUJIの塩キャラメル美味いです。
デザインの好みなんだからまあ何ですが個人的には縁がギザギザと言うか波波なのは苦手かな、マイセンとかトップエンドブランドに多いですけど。
小市民の小生は紅茶が中心でウェッジウッドのお手軽な価格帯何種類かを気分で使い分けて特にピオニー型の口当たりが好きで良く使ってますね。
同じ柄でもリー型の方がキュートなんで一応ペアで所有してますけど。