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浅田氏には、やっぱり80年代の解説をしてほしい。TV -WARとか。坂本さんとよくつるんでいた時代でないと、やはりワイドショー的なポジショントークになってしまう。
「AIIBのバスに乗り遅れるな!」と騒いでたのが、浅田彰
そう言えば坂本龍一はボレロ風の曲を3曲も書いている。「音楽の95%は引用」と言い切った坂本龍一だけどそれぞれの違いを聴くのも面白い。
・2002年に製作された映画『ファム・ファタール』の曲「Bolerish」・2004年ルイ・ヴィトン150周年を記念して作られた楽曲 「+33」・2014年 青山商事50周年「Blu」
Bolerishとか、ただのパクリじゃん。本人も「あれはアイディアが出なかったから、ラヴェルをぱくった」って言ってたしさ。坂本龍一の戯言、あんまり真に受けない方がいいですよ。
@@jnkjnk506 ブライアン・デ・パルマ監督から「ラヴェルの“ボレロ”に限りなく近いものを書いてくれ」との注文でした。それがあったかどうかは判断できません
@@popneo2007 replicaなんかもボレロっぽいですね。いい曲多いしドビュッシーよりラベルってのはほんとそう感じます
日本で何らかの主張するのが困難な状況で、最も主張できる立場にあるので敢えて何も主張しないという逆説は、浅田彰らしいわ
御託大好き左巻き
西洋クラシカルの歴史がいつからかはともかくピアノという楽器の歴史は世界の音楽史上では短い。まあ坂本龍一氏は極めて現代的な音楽家だったと言えるのではないかな。
シンセサイザーを用いる理由も、歴史や民族性にとらわれなくなるからだと言ってましたね
@@tendenbarabara 抽象力が働いていましたね。ただ坂本龍一個人の力によって普遍性に達していたかどうかは聴き手の判断に委ねられているように思います。
レヴェナントは控えめに言っても十分狂気の映画だと思うけどな。
そうなんです!右翼だ左翼だとかだけではない、日常世界の中での政治介入による無理やりな主導に対して意見を述べられただけの坂本教授だと思います。
カント、ヒルベルト、チューリング、という展開があって、人間とはなにをすることができるかということがあって、チューリングでは人間のモデルとしてコンピュータになった。音楽がそれと重なるときにテクノロジーはポップミュージックになるということならそれをYMOでやってみる。人間の理念の極限みたいなものだけどそれを経験することでまた別のものが見えてくるというのでしょうか。たかが電気ということの意味はシステムもテクノロジーもただの道具に過ぎないということで生身の経験がそれを超えていく。大量の人間たちの経験がメディアを通して流れてきます。原発問題や差別意識、難民問題、地球温暖化問題、日々の生活、自分の身に起こること、はもう歴史の外部ではなくなって普通の人の経験の領域にはいっています。彼の表現や主張はそこにあって日本では、何かとても奇異なことにみえることもありますがそれは現実的なことで感じたり考えていかねばならないことなのが少しはわかってくるならそれは良いことです。坂本さんありがとう。
チャットGPTが登場してチューリングはいなかったことになってますね
「死ぬ気」「狂気」←こういうチープな煽り文句やめませんか
死んだ馬の腸を出して中に入って暖を取るシーンは、CGと作り物でやってますよ。今のハリウッドでは、馬に限らず動物を殺すのはタブーです。馬は特にアメリカ建国の賜物としての使役動物ですので。(どんな動物も愛護団体がシュプレ起こしますし、馬は馬の愛護と愛国系が騒ぎ出します。事故死するとニュースになりますし、馬好きは犬好きと同じくらい愛護に関して熱狂的です)もっと言うと冒頭はじめの馬を撃ち殺すシーンから何からCGです。乗馬以外すべて。少し知識に古さと言うか、映像に騙されがちなところがあるかな、と。勿論熊との格闘シーンもCGです。これはお分かりでしょうし。本筋と関係ないのは重重把握しつつも映画好きなので訂正を記します。坂本さんについては元々『ディスアポイントメント・ハテルマ』というどうしようもないくらい聞き手に陰鬱さを強いる前衛音楽をレコードCDベースで発売したところから始まり、…これは聴くのが辛かった笑。…ベルトリッチとの会話で相当言い争いになり全部の音楽に手触りを要求する監督に対し坂本さんは「だったら弾いてる時の椅子の軋みまでも機械で再現しようか?」と思ったそうです。言ったのかな?『SKMT』という後藤繁雄監修の本で述べてますね。ドビュッシーのサインの真似を何度もしていた写真も笑。その頃から、私的に思うことは、自然の音も機械で取り込む、機械音を【対自然音】でなく、【自然音の中に機械音も入れたかった】かのようなポリシーを感じます。ミュージックコンクレートの手法?のような、いろんな自然の音のピースを楽曲に取り入れ、そこまでならまあ、音響系、電子系にままある流れなのでしょうけど、それと一線を画していたのは対自然としての機械でなく、あるいは電子、AIでなく、(この辺は勝手に演繹してます)自然と両立するものとして電子音楽(AI)を確立していったような手触りを感じます。今の落合陽一さんの主張のような、AIは自然と対立するのでなく、自然に付するものになっていく。こういう考え。環境問題に近接していくのもその辺があったんだろうな、と。言葉で説明していくか、音楽で表現していくか、の違いかなと。彼の音楽の変遷を見ていくと。普通に電子音楽で選んでいった足跡ではないですよね。そこがあるからこそ、グッと捕まれるというか。私らしさなど、ない。と切り捨てながら、1番坂本らしさが溢れてるというか、この逆説も。一度バレットマスキュー辺りでワールド音楽の片鱗と曖昧さの中に潜む、美しい確実なクラシックの音選びになったり、アクアでの水の音から涌き出るように始まるピアノで、祈りのような抽象概念を綴るような静かに感極まる音楽になる。そこからさらに…と。あまりにざっくばらんな書き方は仕方ないですね、色々語りたくなるのですがこの辺で。
浅田さん、何もわかってないのに知ったかぶりしてるだけ。
どのへん?
@@安安十十 I would like to believe you know.
アニメ漫画をガン無視して日本サゲの浅田彰
音楽とビジュアルで得た有名性を利用して自分の政治趣味を披露するでしゃばり。でも東北ユースオーケストラや津波ピアノは評価したい。
浅田氏には、やっぱり80年代の解説をしてほしい。TV -WARとか。坂本さんとよくつるんでいた時代でないと、やはりワイドショー的なポジショントークになってしまう。
「AIIBのバスに乗り遅れるな!」と騒いでたのが、浅田彰
そう言えば坂本龍一はボレロ風の曲を3曲も書いている。「音楽の95%は引用」と言い切った坂本龍一だけどそれぞれの違いを聴くのも面白い。
・2002年に製作された映画『ファム・ファタール』の曲「Bolerish」
・2004年ルイ・ヴィトン150周年を記念して作られた楽曲 「+33」
・2014年 青山商事50周年「Blu」
Bolerishとか、ただのパクリじゃん。本人も「あれはアイディアが出なかったから、ラヴェルをぱくった」って言ってたしさ。坂本龍一の戯言、あんまり真に受けない方がいいですよ。
@@jnkjnk506 ブライアン・デ・パルマ監督から「ラヴェルの“ボレロ”に限りなく近いものを書いてくれ」との注文でした。それがあったかどうかは判断できません
@@popneo2007 replicaなんかもボレロっぽいですね。いい曲多いしドビュッシーよりラベルってのはほんとそう感じます
日本で何らかの主張するのが困難な状況で、最も主張できる立場にあるので敢えて何も主張しないという逆説は、浅田彰らしいわ
御託大好き左巻き
西洋クラシカルの歴史がいつからかはともかくピアノという楽器の歴史は世界の音楽史上では短い。まあ坂本龍一氏は極めて現代的な音楽家だったと言えるのではないかな。
シンセサイザーを用いる理由も、歴史や民族性にとらわれなくなるからだと言ってましたね
@@tendenbarabara 抽象力が働いていましたね。ただ坂本龍一個人の力によって普遍性に達していたかどうかは聴き手の判断に委ねられているように思います。
レヴェナントは控えめに言っても十分狂気の映画だと思うけどな。
そうなんです!
右翼だ左翼だとかだけではない、日常世界の中での政治介入による無理やりな主導に対して意見を述べられただけの坂本教授だと思います。
カント、ヒルベルト、チューリング、という展開があって、人間とはなにをすることができるかということがあって、チューリングでは人間のモデルとしてコンピュータになった。音楽がそれと重なるときにテクノロジーはポップミュージックになるということならそれをYMOでやってみる。人間の理念の極限みたいなものだけどそれを経験することでまた別のものが見えてくるというのでしょうか。たかが電気ということの意味はシステムもテクノロジーもただの道具に過ぎないということで生身の経験がそれを超えていく。大量の人間たちの経験がメディアを通して流れてきます。原発問題や差別意識、難民問題、地球温暖化問題、日々の生活、自分の身に起こること、はもう歴史の外部ではなくなって普通の人の経験の領域にはいっています。彼の表現や主張はそこにあって日本では、何かとても奇異なことにみえることもありますがそれは現実的なことで感じたり考えていかねばならないことなのが少しはわかってくるならそれは良いことです。坂本さんありがとう。
チャットGPTが登場してチューリングはいなかったことになってますね
「死ぬ気」「狂気」←こういうチープな煽り文句やめませんか
死んだ馬の腸を出して中に入って暖を取るシーンは、CGと作り物でやってますよ。
今のハリウッドでは、馬に限らず動物を殺すのはタブーです。馬は特にアメリカ建国の賜物としての使役動物ですので。(どんな動物も愛護団体がシュプレ起こしますし、馬は馬の愛護と愛国系が騒ぎ出します。事故死するとニュースになりますし、馬好きは犬好きと同じくらい愛護に関して熱狂的です)
もっと言うと
冒頭はじめの馬を撃ち殺すシーンから何からCGです。乗馬以外すべて。
少し知識に古さと言うか、映像に騙されがちなところがあるかな、と。勿論熊との格闘シーンもCGです。これはお分かりでしょうし。本筋と関係ないのは重重把握しつつも映画好きなので訂正を記します。
坂本さんについては元々『ディスアポイントメント・ハテルマ』というどうしようもないくらい聞き手に陰鬱さを強いる前衛音楽をレコードCDベースで発売したところから始まり、…これは聴くのが辛かった笑。…
ベルトリッチとの会話で相当言い争いになり全部の音楽に手触りを要求する監督に対し坂本さんは「だったら弾いてる時の椅子の軋みまでも機械で再現しようか?」と思ったそうです。言ったのかな?『SKMT』という後藤繁雄監修の本で述べてますね。ドビュッシーのサインの真似を何度もしていた写真も笑。
その頃から、私的に思うことは、自然の音も機械で取り込む、機械音を【対自然音】でなく、【自然音の中に機械音も入れたかった】かのようなポリシーを感じます。ミュージックコンクレートの手法?のような、いろんな自然の音のピースを楽曲に取り入れ、そこまでならまあ、音響系、電子系にままある流れなのでしょうけど、それと一線を画していたのは対自然としての機械でなく、あるいは電子、AIでなく、(この辺は勝手に演繹してます)
自然と両立するものとして電子音楽(AI)を確立していったような手触りを感じます。
今の落合陽一さんの主張のような、AIは自然と対立するのでなく、自然に付するものになっていく。こういう考え。環境問題に近接していくのもその辺があったんだろうな、と。言葉で説明していくか、音楽で表現していくか、の違いかなと。
彼の音楽の変遷を見ていくと。普通に電子音楽で選んでいった足跡ではないですよね。そこがあるからこそ、グッと捕まれるというか。
私らしさなど、ない。と切り捨てながら、
1番坂本らしさが溢れてるというか、この逆説も。
一度バレットマスキュー辺りでワールド音楽の片鱗と曖昧さの中に潜む、
美しい確実なクラシックの音選びになったり、
アクアでの水の音から涌き出るように始まるピアノで、祈りのような抽象概念を綴るような静かに感極まる音楽になる。そこからさらに…と。あまりにざっくばらんな書き方は仕方ないですね、
色々語りたくなるのですがこの辺で。
浅田さん、何もわかってないのに知ったかぶりしてるだけ。
どのへん?
@@安安十十
I would like to believe you know.
アニメ漫画をガン無視して日本サゲの浅田彰
音楽とビジュアルで得た有名性を利用して自分の政治趣味を披露するでしゃばり。
でも東北ユースオーケストラや津波ピアノは評価したい。