【第5回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2022年11月8日(火)
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- เผยแพร่เมื่อ 1 ธ.ค. 2024
- 「建学の精神」である禅仏教による人格の陶冶をテーマに、「禅・仏教講座」として開設しています。
禅の世界をあらゆる角度から捉え感得するため総長、学長、仏教学科教員を中心に授業を展開し、その他、いす坐禅・読経など実践を行います。
「知識としての禅」から「感じとる禅」への転換をテーマとし、「自分だけにしかないいのちを生きる」ことを目標とした講義です。
※新型コロナウイルスの感染の拡大にともない、花園大学は、ご来場の皆さまの健康と安全の確保、また感染拡大防止の観点から、今年度(2022年度)の「禅とこころ」は、公開講座として一般の方の聴講は、ご遠慮いただく事にいたしました。
なお、学生向けに配信している総長講義のみ、順次公開させていただきます。
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花園大学 禅とこころ 般若心経に学ぶ 令和四年十一月八日
花園大学総長 横田南嶺
無苦集滅道
無智亦無得
以無所得故
菩提薩埵依般若波羅蜜多故
心無罣礙
苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に。心に罣礙なし。
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。
(岩波文庫『般若心経 金剛般若経』より)
四諦
苦(く)諦・集(じっ)諦・滅(めっ)諦・道(どう)諦という四種の真理のこと。
岩波書店『仏教辞典』
<苦諦>とは、迷いの生存は苦であるという真理であり、その代表として、生老病死(しょうろうびょうし)などのいわゆる四苦八苦が挙げられる。
<集諦>とは、苦の生起する原因についての真理であり、その原因は、再生をもたらし、喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求める渇愛(かつあい)にあるとされる。<滅諦>とは、苦の止滅についての真理であり、それは、渇愛が完全に捨て去られた状態をいう。<道諦>とは、苦の止滅に到る道筋についての真理であり、正見(しょうけん)・正思惟(しょうしゆい)などのいわゆる八正道(はっしょうどう)として示される。
四諦説は肉体の病気を治す治病の原理にも喩えられる(雑阿含経(ぞうあごんぎょう)など)。すなわち、苦は病状に、集は病因に、滅は病気の回復に、道は治療に各々相当するというのである。
八正道
一、正見(しょうけん)(正しい見解)、
二、正思(しょうし)(正しい思惟(しゆい))、
三、正語(しょうご)(正しい言葉)、
四、正業(しょうごう)(正しい行い)、
五、正命(しょうみょう)(正しい生活)、
六、正精進(しょうしょうじん)(正しい努力)、
七、正念(しょうねん)(正しい思念)、
八、正定(しょうじょう)(正しい精神統一)
『臨済録』(岩波文庫『臨済録』より)
問う、如何なるか是れ西来意。師云く、若し意有らば、自救不了。云く、既に意無くんば、云何が二祖は法を得たる。師云く、得とは是れ不得なり。云く、既若不得ならば、云何が是れ不得底の意。師云く、你の一切処に向いて馳求の心歇むこと能わざるが為に、所以(ゆえ)に祖師言く、咄哉丈夫、頭を将って頭を覓むとと。你言下に便ち自ら回光返照して、更に別に求めず、身心の祖仏と別ならざるを知って、当下に無事なるを、方に得法と名づく。
問い、「初祖が西からやって来た意図は何ですか。」師、「もし何かの意図があったとしたら、自分をさえ救うこともできぬ。」 「なんの意図もないのでしたら、どうして二祖は法を得たのですか。」師、「得たというのは、得なかったということなのだ。」「得なかったのでしたら、その得なかったということの意味は何でしょうか。」師は言った、「君たちがあらゆるところへ求めまわる心を捨てきれぬから〔そんな質問をする〕のだ。だから祖師も言った、『こらっ!立派な男が何をうろたえて、頭があるのにさらに頭を探しまわるのだ』と。この一言に、君たちが自らの光を内に差し向けて、もう外に求めることをせず、自己の身心はそのまま祖仏と同じであると知って、即座に無事大安楽になることができたら、それが法を得たというものだ。
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