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12:24 実は、薄口醤油の方が濃口醤油より塩分が多い💦
1日2食というのは食事と定義の問題で、1日2食でも間の時間にものを食べていたりするんです。これを食事としてカウントしていないだけなんですよ。
大正の頃の農家だと、田植え、稲刈りなど、農繁期の頃は朝食と昼食の間に「小昼」、昼食と夕食の間に「中食」と、1日5食の時もあったとか。
豆知識に感涙っすお詳しいですね!
仕事サボって蒸かし芋を食ってる中村主水を思い出した
時間旅行してみたいね〜。宿やに泊まって、朝は宿でホカホカご飯にご飯のお供と味噌汁、昼は定食屋、昼過ぎに鰻とか天ぷらとかちょっとつまんで、夜は居酒屋に行って、帰りにそば屋。
楽しそうですねー😊
米が中心の食事だからどうしても塩味が強くなる。日本食が健康にいいなんてとんだ間違いで、日本人の寿命が延びたのはたんぱく質を十分に摂れるようになった戦後になってから。
健康面かつ栄養的に日本食の完成度が高まったのはここ最近になってから、ということですな。
日本料理の発展て金持ちや王侯貴族の為というよりも購買力のある豊になった庶民が増えたからなんだよな。逆に武士階級や現在でも皇室はとても質素なんだよな。
菜種油も灯火用としては高級品で、庶民の灯りは魚油だったってなんかで読みました。大量にとれるイワシとかの青魚から油を絞って除去して保存性運搬性を高めて金肥として内陸部農村に売って、残った副産物の魚油は庶民の灯火油になったとのことです。
仰るように、庶民が灯火用に使っていたのは、主にイワシの油だったようですね💡✨ただ、イワシ油は菜種油に比べて格段に安いものの、煤がとても多く出るのでよほどの事情がない限り、庶民でもあまり使いたがらなかったようですね😅
@@nusu-nuppori さんいつの時代も火とススは腐れ縁なんですよね
いわゆる「猫が行灯の油を嘗める」ってのも魚油だからですよね。菜種は流石に嘗めない
俺は毎日5合食べるぜ俺は日本人だから白米が主食だ
糖質摂り過ぎ。
私はあなたのスタンスを応援します👍✨
米を多く食べるための食材が佃煮。佃煮とか漬物、梅干しなどの味の濃い物、しょっぱいものを食べてから、白米で中和させる食べ方だったんだよな。
和ロウソクって高級品だから使える人は限られていたんだよな。
洋ロウソクは 蜜蝋、つまり虫に由来するロウソクなので、不殺生を説く 仏事では 使えない……という説があるようです🤔しかし、和ロウソクは ハゼなどの樹木から 原料を採取するため、仏事に使っても問題ない……という事なのだとか。何かのこじつけかもしれませんが、なかなか面白い話だと思っております☺️✨
@@nusu-nuppori 勉強になりました(^^)/
この時代、肉類は(禁令や戒律に抵触するのを回避するための方便として)「薬食い」と言って食事としてではなく、体力や元気をつけるための薬、いわば栄養剤の一種という名目で食されていたようです。
お寿司、蕎麦、鰻など江戸時代の人と私たちが同じものを食べているのはなんか不思議な感じがしますね。
江戸は米を食べる為に味が濃く、大阪は商人の店に丁稚やらが居たから薄味にして米をあまり食べ無い様にしていたそうです
「江戸時代の農民」とか「江戸市中の市民」と一括りに論じるが、私の田舎では農民には大きく分けて四階層あった。①豪農や庄屋②自分の農地を持っていた農民③農地を持っていないで雇われの身の水呑百姓④家すら無い日雇い人。①は白米や各種惣菜は日常に食べていたようです②は冠婚葬祭や節日なんかには白米を食べ、普段は玄米や蕎麦・稗・粟なんかを食べていたが、野菜を自給自足し、余分を販売していた③は普段から少量の玄米や粟や稗に野菜をぶっ込んで食べていたが、冠婚葬祭や災害復旧時なんかには、庄屋や農民から支給された白米を食べた④は玄米ご飯は田畑作業時に支給される昼食だけで、普段は山菜や魚介類を直取りして栄養補給しなければならなかった。これは私の地元に残る記録に記載されています。まぁ地域や藩によって様々でしょうが、四大飢饉時には多数の餓死者が出た地域が多かったことを考えるとあながち違いは小さいかな!
俺の地元では大昔からカノシシって呼んで獣肉を食べまくってたみたい、犬や猫みたいな軍需物資を食べると○されたらしいけど獣肉は対して抵抗が無かったみたい、猪や鹿を○さなかったら農業出来なかっただろうしね。後の天下人が初期から治めてた地域だけど、都市部で無ければそこまで禁忌されては居なかったのかな?
現代人も30分早く寝ると間食しないから1500円だったかの節約になるとか経済学者が言ってた気がする。夜更かしはお金がかかる。
ビタミン不足で江戸患い(脚気)になる人多かったのテレビでやってた気がする
コメントありがとうございます!テレビでもやってたんですね(^^)
@@syoku_history 何気にビタミンと命名したのは外国の人だけど最初にビタミン発見したの日本人と言うのもテレビでやってた気がする
自分の同僚は、パックめしとご飯の友みたいな食事していたら、脚気になりましたね(¯―¯٥)
東京慈恵会医科大学創設者の高木兼寛 が海軍軍医総監(少将相当官。海軍軍医の最高階級)の時に、脚気の撲滅に海軍の食事へ麦飯採用や当時日本の食文化で馴染みの薄かったカレーを脚気の予防として取入れた(海軍カレー)実際に高木が海軍軍医任期中には海軍の脚気は激減しており高木が海軍医を退任後、別の海軍軍医になってからは海軍の脚気は急増している。麦飯を推奨していた高木が再評価されるのは日露戦争後であり、また脚気と食事の関係に着目した取り組みの延長線上にビタミンの発見があった。欧米においては高木の業績に対する評価はきわめて高く、フィラデルフィア医科大学、コロンビア大学、ダラム大学から名誉学位を授与されておりビタミン、栄養学に関する著名な書物の多くで高木の業績が詳しく紹介されている。
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ宮沢賢治
魔理沙、霊夢、久しぶり!あっちが無くなったから声聞けて嬉しいYou Tubeで又会おう!
あれ?薄口醤油の方が塩分高くなかったっけ…?
薄口醤油は濃口醤油よりも塩分濃度が高いのですが、江戸時代は逆だったのですか?
江戸時代にマグロのお寿司……? と思ったら、ヅケで利用していたんですね〜🤔今のような マグロのお寿司を想像してしまったので(あれ? たしか冷凍船の開発で マグロが寿司ネタの常連になったような……)と、なかなか噛み合いませんでした💦江戸前寿司では お魚のネタに比べて、卵は2倍ぐらいの値段が設定されていた事が多かったようですね♪他にも、お醤油やお味噌、お豆腐がやたら高かったり……と、色々と謎な江戸の台所事情ですがお醤油,お味噌,お豆腐が 全て大豆で出来ていることを考えると、基準になった年は 大豆の出来が悪かっただけかも知れませんね〜🤔担ぐ屋台もそうですが、《担ぐ花見弁当セット》も、なかなかテンションが上がりそうですよね😁✨
国民の8割くらいを占めた農民は、米を常食できなかったのでしょう。1日5合を漬物やみそ汁だけでは食べられない。
当時の農民は米を食べることができなかったというのは、実は完全に誤りです。なぜなら、当時の米の生産量(当時の土地は米の生産量を基準として石高として評価されていました。それゆえかなり正確に推定できます。)を武士と町民だけで消費することは不可能で、農民が米を食べなければ消費しきれなかったはずだからです。
原宿の穩田という地名が語るように表向きの収穫高に記載されない田畑もありましたしね。
コメを中心のモノカルチャーの害悪ですね。コメが通貨として通用する社会だったので各藩ともコメ以外の穀物の栽培を奨励しませんでした。そのため救荒植物の栽培も進まず飢饉となったらその被害は甚大なものとなりました。そもそも天候の影響を受けやすいコメを経済基盤とすることが間違っています。しかも幕府は海禁政策を取っていたため海外の技術や学問が制限されていました。大規模建築も禁止されたため建築技術も伸び悩んでいます。また幕府は公共工事にも金を出し惜しみしたため庶民の有志に頼る状態でした。徳川期の経済成長は早くも初期で頭打ちになり、中期からは長い停滞に入っています。最先端のつもりでいつの間にか世界に取り残さている今の日本のようですね。
ちなみに江戸城は火災、地震により多くの建物が失われましたが、再建されませんでした。幕府に金が無かったこともありますが既に多くの建築技術が失われており再建が出来なかったこともあるようです。地方はさらに深刻で、些細な城の修繕も幕府に届け出なければいけなかったため、荒れるに任せたところもあったようです。
海がない内陸部は海産物とか貴重だったんだろうなぁ
メモ📝10:50😊江戸時代の食について…
気持ちは分かるけど9:35は七輪ではなく火鉢ですね(^^;
江戸と地方農村をごっちゃに解説するのはどうなんですかね。江戸って参勤交代の江戸住み武士とかも多くて、かなり歪な都市ですよ。
脚気は玄米食で改善できます。
箱寿司は笹の葉鮨
当時の日本の国内食料自給率は100パーセント、国民人口比率は農漁民合わせて8割ほどと言われています。もし8割近い人たちが雑穀や小麦ばかりを食べて生活していたなら、当時の農村は雑穀畑が広がっていたことでしょう。この辺の誤解は時代劇などの、過酷な年貢で苦しめられている農民、と言う構図からなのだと思います。しかし、不作の年なども収穫量に関係なく同量の年貢を課せられたため大変だったと思います。それに、他2割の町人(都市部生活者)や豪商、もちろん武士に比べたら圧倒的に現金収入が少ないため、生活は楽なものではなかったでしょうね。
琉球では主食用の米はタイ米じゃなかったでしたっけ?
>白米主食化で、カッケが流行。日露戦争中の日本軍でも、同じ現象が発生。軍隊食=白米。それにより、ビタミンBが不足したため。
僕が20ぐらいの頃までは近所の酒屋で日本酒コップ一杯で飲めたよ。ワンカップじゃなくて、普通に一升瓶からコップに注いで。
コメントありがとうございます!そんな時代があったんですね😄
今も角打ちやって酒屋は在る
気になったんだけど、料理屋行った時も御飯は冷めたのが出て来たのかな?🤔温かい御飯が出てくるのは朝だけだったのかなぁ~?🙄
過ぎたるはなお、及ばざるが如し何てな事を申しますなあ。何事もほどほどが良いってな訳でございまして。落語の中で食事や職人の様子が良く出てきますが、こいつがまた巧い話家の手に掛かると、芸術の域にへえるってんだから驚きですなあ。
はっきりと言える事、現代と比べて、幸せでは無かったと言える
白米を江戸時代から一般に食するようになってから明治後期の日露戦争で日本陸軍はたいへんな事態に直面したという。戦死者のおよそ五分の一以上が衰弱死。主な原因は後に判明するのだが脚気で死んだそうだ。海軍は玄米を食べさせていたからそれほどではなかったそうです。
そうなんですね!ご説明ありがとうございます😊
海軍は麦を混入させてたんじゃないかな? で兵士が「白米が食べたい」と要求するから海にレッコ(捨てた)したとかなんとか。
玄米美味しいけどね
ふと思ったんですが農家も十分肉体労働ですよね?それなのに農家はずっと2食だったって農家の人って凄くないですか?
いまだに江戸時代の農民は米を食べられなかったなんて言ってる人がいるのですね・・・
江戸じゃなければ犬猫も食って害獣駆除出来た。いい時代だ。
まっ、大体此度の騒動の原因掴んだが、アメノ逆鉾の理論を守った方が良いと忠告して置く。
基本的におかずは出店で食べてたんだよね!
コメントありがとうございます!そのようですね😊
長過ぎる
今は1日1合しか食べない家庭があるの?😲
今はあるみたいねー普通に夕飯はバターロールとケチャップとかも聞くよ。子供がその方が好きっていうからで笑
@@著著 まじで俺はむっちゃ米好きなんだけど!!
オートミールは食うけど、米は食ってないぞ
@@9wmocg 米は噛まなきゃイケないのが嫌いって人も多いよねー
白米不足で?日本語おかしいのが引っかかるが…(主の学の程度が…となるから知識系やるなら、まぁ…きにしようなw)おかず番付に限らず、江戸期のランキングやチャートは相撲と歌舞伎、後は武士階級になぞらえてがきほんだし。; ̄w ̄)(番付ネタで思い出す、すしずもう…。あれはわさびとガリが仕切ってたかな?w
農民の食事が、当時の隣国の食事と変わらないのでは?
半島は、米を食べるようになったのは、70年代後半くらいからだし、大分違うな
隣国は陸稲で日本人が期待したほど年貢を取れなかったのが敗因だとも聞いた < 朝鮮出兵
あわやひえなんて食えたもんじゃないw喰えばわかるよ
江戸患い
12:24 実は、薄口醤油の方が濃口醤油より塩分が多い💦
1日2食というのは食事と定義の問題で、1日2食でも間の時間にものを食べていたりするんです。これを食事としてカウントしていないだけなんですよ。
大正の頃の農家だと、田植え、稲刈りなど、農繁期の頃は朝食と昼食の間に「小昼」、昼食と夕食の間に「中食」と、1日5食の時もあったとか。
豆知識に感涙っす
お詳しいですね!
仕事サボって蒸かし芋を食ってる中村主水を思い出した
時間旅行してみたいね〜。宿やに泊まって、朝は宿でホカホカご飯にご飯のお供と味噌汁、昼は定食屋、昼過ぎに鰻とか天ぷらとかちょっとつまんで、夜は居酒屋に行って、帰りにそば屋。
楽しそうですねー😊
米が中心の食事だからどうしても塩味が強くなる。日本食が健康にいいなんてとんだ間違いで、日本人の寿命が延びたのはたんぱく質を十分に摂れるようになった戦後になってから。
健康面かつ栄養的に日本食の完成度が高まったのはここ最近になってから、ということですな。
日本料理の発展て金持ちや王侯貴族の為というよりも購買力のある豊になった庶民が
増えたからなんだよな。逆に武士階級や現在でも皇室はとても質素なんだよな。
菜種油も灯火用としては高級品で、庶民の灯りは魚油だったってなんかで読みました。大量にとれるイワシとかの青魚から油を絞って除去して保存性運搬性を高めて金肥として内陸部農村に売って、残った副産物の魚油は庶民の灯火油になったとのことです。
仰るように、庶民が灯火用に使っていたのは、主にイワシの油だったようですね💡✨
ただ、イワシ油は菜種油に比べて格段に安いものの、煤がとても多く出るので
よほどの事情がない限り、庶民でもあまり使いたがらなかったようですね😅
@@nusu-nuppori さん
いつの時代も火とススは腐れ縁なんですよね
いわゆる「猫が行灯の油を嘗める」ってのも魚油だからですよね。菜種は流石に嘗めない
俺は毎日5合食べるぜ
俺は日本人だから白米が主食だ
糖質摂り過ぎ。
私はあなたのスタンスを応援します👍✨
米を多く食べるための食材が佃煮。佃煮とか漬物、梅干しなどの味の濃い物、しょっぱいものを食べてから、白米で中和させる食べ方だったんだよな。
和ロウソクって高級品だから使える人は限られていたんだよな。
洋ロウソクは 蜜蝋、つまり虫に由来するロウソクなので、不殺生を説く 仏事では 使えない……という説があるようです🤔
しかし、和ロウソクは ハゼなどの樹木から 原料を採取するため、仏事に使っても問題ない……という事なのだとか。
何かのこじつけかもしれませんが、なかなか面白い話だと思っております☺️✨
@@nusu-nuppori 勉強になりました(^^)/
この時代、肉類は(禁令や戒律に抵触するのを回避するための方便として)「薬食い」と言って食事としてではなく、体力や元気をつけるための薬、いわば栄養剤の一種という名目で食されていたようです。
お寿司、蕎麦、鰻など江戸時代の人と私たちが同じものを食べているのはなんか不思議な感じがしますね。
江戸は米を食べる為に味が濃く、大阪は商人の店に丁稚やらが居たから薄味にして米をあまり食べ無い様にしていたそうです
「江戸時代の農民」とか「江戸市中の市民」と一括りに論じるが、私の田舎では農民には大きく分けて四階層あった。①豪農や庄屋②自分の農地を持っていた農民③農地を持っていないで雇われの身の水呑百姓④家すら無い日雇い人。①は白米や各種惣菜は日常に食べていたようです②は冠婚葬祭や節日なんかには白米を食べ、普段は玄米や蕎麦・稗・粟なんかを食べていたが、野菜を自給自足し、余分を販売していた③は普段から少量の玄米や粟や稗に野菜をぶっ込んで食べていたが、冠婚葬祭や災害復旧時なんかには、庄屋や農民から支給された白米を食べた④は玄米ご飯は田畑作業時に支給される昼食だけで、普段は山菜や魚介類を直取りして栄養補給しなければならなかった。これは私の地元に残る記録に記載されています。まぁ地域や藩によって様々でしょうが、四大飢饉時には多数の餓死者が出た地域が多かったことを考えるとあながち違いは小さいかな!
俺の地元では大昔からカノシシって呼んで獣肉を食べまくってたみたい、犬や猫みたいな軍需物資を食べると○されたらしいけど獣肉は対して抵抗が無かったみたい、
猪や鹿を○さなかったら農業出来なかっただろうしね。
後の天下人が初期から治めてた地域だけど、
都市部で無ければそこまで禁忌されては居なかったのかな?
現代人も30分早く寝ると間食しないから1500円だったかの節約になるとか経済学者が言ってた気がする。
夜更かしはお金がかかる。
ビタミン不足で江戸患い(脚気)になる人多かったのテレビでやってた気がする
コメントありがとうございます!
テレビでもやってたんですね(^^)
@@syoku_history 何気にビタミンと命名したのは外国の人だけど最初にビタミン発見したの日本人と言うのもテレビでやってた気がする
自分の同僚は、パックめしとご飯の友みたいな食事していたら、脚気になりましたね(¯―¯٥)
東京慈恵会医科大学創設者の高木兼寛 が海軍軍医総監(少将相当官。海軍軍医の最高階級)の時に、脚気の撲滅に海軍の食事へ麦飯採用や当時日本の食文化で馴染みの薄かったカレーを脚気の予防として取入れた(海軍カレー)
実際に高木が海軍軍医任期中には海軍の脚気は激減しており高木が海軍医を退任後、別の海軍軍医になってからは海軍の脚気は急増している。
麦飯を推奨していた高木が再評価されるのは日露戦争後であり、また脚気と食事の関係に着目した取り組みの延長線上にビタミンの発見があった。
欧米においては高木の業績に対する評価はきわめて高く、フィラデルフィア医科大学、コロンビア大学、ダラム大学から名誉学位を授与されておりビタミン、栄養学に関する著名な書物の多くで高木の業績が詳しく紹介されている。
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
宮沢賢治
魔理沙、霊夢、久しぶり!
あっちが無くなったから声聞けて嬉しい
You Tubeで又会おう!
あれ?薄口醤油の方が塩分高くなかったっけ…?
薄口醤油は濃口醤油よりも塩分濃度が高いのですが、江戸時代は逆だったのですか?
江戸時代にマグロのお寿司……? と思ったら、ヅケで利用していたんですね〜🤔
今のような マグロのお寿司を想像してしまったので
(あれ? たしか冷凍船の開発で マグロが寿司ネタの常連になったような……)
と、なかなか噛み合いませんでした💦
江戸前寿司では お魚のネタに比べて、卵は2倍ぐらいの値段が設定されていた事が多かったようですね♪
他にも、お醤油やお味噌、お豆腐がやたら高かったり……と、色々と謎な江戸の台所事情ですが
お醤油,お味噌,お豆腐が 全て大豆で出来ていることを考えると、基準になった年は 大豆の出来が悪かっただけかも知れませんね〜🤔
担ぐ屋台もそうですが、《担ぐ花見弁当セット》も、なかなかテンションが上がりそうですよね😁✨
国民の8割くらいを占めた農民は、米を常食できなかったのでしょう。1日5合を漬物やみそ汁だけでは食べられない。
当時の農民は米を食べることができなかったというのは、実は完全に誤りです。なぜなら、当時の米の生産量(当時の土地は米の生産量を基準として石高として評価されていました。それゆえかなり正確に推定できます。)を武士と町民だけで消費することは不可能で、農民が米を食べなければ消費しきれなかったはずだからです。
原宿の穩田という地名が語るように表向きの収穫高に記載されない田畑もありましたしね。
コメを中心のモノカルチャーの害悪ですね。コメが通貨として通用する社会だったので各藩ともコメ以外の穀物の栽培を奨励しませんでした。そのため救荒植物の栽培も進まず飢饉となったらその被害は甚大なものとなりました。そもそも天候の影響を受けやすいコメを経済基盤とすることが間違っています。
しかも幕府は海禁政策を取っていたため海外の技術や学問が制限されていました。大規模建築も禁止されたため建築技術も伸び悩んでいます。また幕府は公共工事にも金を出し惜しみしたため庶民の有志に頼る状態でした。
徳川期の経済成長は早くも初期で頭打ちになり、中期からは長い停滞に入っています。最先端のつもりでいつの間にか世界に取り残さている今の日本のようですね。
ちなみに江戸城は火災、地震により多くの建物が失われましたが、再建されませんでした。幕府に金が無かったこともありますが既に多くの建築技術が失われており再建が出来なかったこともあるようです。地方はさらに深刻で、些細な城の修繕も幕府に届け出なければいけなかったため、荒れるに任せたところもあったようです。
海がない内陸部は海産物とか貴重だったんだろうなぁ
メモ📝10:50😊江戸時代の食について…
気持ちは分かるけど9:35は七輪ではなく火鉢ですね(^^;
江戸と地方農村をごっちゃに解説するのはどうなんですかね。江戸って参勤交代の江戸住み武士とかも多くて、かなり歪な都市ですよ。
脚気は玄米食で改善できます。
箱寿司は笹の葉鮨
当時の日本の国内食料自給率は100パーセント、国民人口比率は農漁民合わせて8割ほどと言われています。もし8割近い人たちが雑穀や小麦ばかりを食べて生活していたなら、当時の農村は雑穀畑が広がっていたことでしょう。この辺の誤解は時代劇などの、過酷な年貢で苦しめられている農民、と言う構図からなのだと思います。しかし、不作の年なども収穫量に関係なく同量の年貢を課せられたため大変だったと思います。それに、他2割の町人(都市部生活者)や豪商、もちろん武士に比べたら圧倒的に現金収入が少ないため、生活は楽なものではなかったでしょうね。
琉球では主食用の米はタイ米じゃなかったでしたっけ?
>白米主食化で、カッケが流行。
日露戦争中の日本軍でも、同じ現象が発生。軍隊食=白米。それにより、ビタミンBが不足したため。
僕が20ぐらいの頃までは近所の酒屋で日本酒コップ一杯で飲めたよ。ワンカップじゃなくて、普通に一升瓶からコップに注いで。
コメントありがとうございます!
そんな時代があったんですね😄
今も角打ちやって酒屋は在る
気になったんだけど、料理屋行った時も御飯は冷めたのが出て来たのかな?🤔
温かい御飯が出てくるのは朝だけだったのかなぁ~?🙄
過ぎたるはなお、及ばざるが如し何てな事を申しますなあ。何事もほどほどが良いってな訳でございまして。
落語の中で食事や職人の様子が良く出てきますが、こいつがまた巧い話家の手に掛かると、芸術の域にへえるってんだから驚きですなあ。
はっきりと言える事、現代と比べて、幸せでは無かったと言える
白米を江戸時代から一般に食するようになってから明治後期の日露戦争で日本陸軍はたいへんな事態に直面したという。戦死者のおよそ五分の一以上が衰弱死。主な原因は後に判明するのだが脚気で死んだそうだ。海軍は玄米を食べさせていたからそれほどではなかったそうです。
そうなんですね!
ご説明ありがとうございます😊
海軍は麦を混入させてたんじゃないかな? で兵士が「白米が食べたい」と要求するから海にレッコ(捨てた)したとかなんとか。
玄米美味しいけどね
ふと思ったんですが
農家も十分肉体労働ですよね?
それなのに農家はずっと2食だったって
農家の人って凄くないですか?
いまだに江戸時代の農民は米を食べられなかったなんて言ってる人がいるのですね・・・
江戸じゃなければ犬猫も食って害獣駆除出来た。いい時代だ。
まっ、大体此度の騒動の原因掴んだが、アメノ逆鉾の理論を守った方が良いと忠告して置く。
基本的におかずは出店で食べてたんだよね!
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今は1日1合しか食べない家庭があるの?😲
今はあるみたいねー
普通に夕飯はバターロールとケチャップとかも聞くよ。
子供がその方が好きっていうからで笑
@@著著 まじで俺はむっちゃ米好きなんだけど!!
オートミールは食うけど、米は食ってないぞ
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白米不足で?日本語おかしいのが引っかかるが…(主の学の程度が…となるから知識系やるなら、まぁ…きにしようなw)
おかず番付に限らず、江戸期のランキングやチャートは相撲と歌舞伎、後は武士階級になぞらえてがきほんだし。
; ̄w ̄)(番付ネタで思い出す、すしずもう…。あれはわさびとガリが仕切ってたかな?w
農民の食事が、当時の隣国の食事と変わらないのでは?
半島は、米を食べるようになったのは、70年代後半くらいからだし、大分違うな
隣国は陸稲で日本人が期待したほど年貢を取れなかったのが敗因だとも聞いた < 朝鮮出兵
あわやひえなんて食えたもんじゃないw喰えばわかるよ
江戸患い