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【動画の目次】安国寺恵瓊ガクブルの秀吉の調略! 00:40毛利氏重臣の内応は事実 02:05秀吉は本能寺の変の勃発を予期していた? 03:37内応と本能寺の変対策に毛利氏は敗北した 05:02毛利氏は天下が欲しくないの? 06:21戦国時代ライターkawausoの独り言 07:34あなたは中国大返しの真実についてどう思いますか?💟参考になった皆様の考察・歴史感をコメント欄に固定化させていただきます。※あなたの考察やご意見をコメント欄までお待ちしています。
毛利氏はもともと天下を狙わず守りに徹する考えなので、リスクのある行為をすることはない自分の領地さえ安堵してくれたら、誰であろうと従属する道を選んでいたと思う
毛利氏並びに、吉川元春が途絶えていたら、吉川晃司も生まれてませんねでしたよね。
中国地方の超大国毛利。無理して天下を狙う必要もなかった。
zahhatorute 超大国って程でもないような
元就は毛利が天下を取るべきで無いと言ってるもんね
信長は毛利を潰す気だったから当然抵抗した。秀吉は結果論だが毛利を残した。つまりはそういうことか。
毛利としては京に将軍家もなく石山本願寺が信長と和睦したので上洛する必然性もなく、秀吉が持ちかけた和睦は好都合だったのだと思います。安国寺恵瓊が1573年の段階で足利義昭の処遇について秀吉と話し合って、ある程度の信頼関係を築いていたのも要因の1つでしょうね。
寝返りの件は秀吉のブラフの可能性が高い。毛利(小早川隆景)が追撃しなかったのは講和した後、誓紙が乾かないうちにすぐに追撃するのは信義にももとると止めたのと秀吉が追撃の可能性があったので大返しの前に堰を切って両軍の間に超えられない水の壁を作ったのが本当の理由。
これも「新書太閤記」の中では、明智方から毛利家に当てて信長公を討ち取った旨の密書を携えた伝令が数人放たれたが、秀吉は徹底した山狩りを行い一人として毛利家に密書を届けた者はいない、とされていますが、いくらなんでもそれは不可能と思われるので、何らかの密約が秀吉と毛利家にあったのは間違いないと思います。
確かに秀吉の山狩りは不審過ぎる行動なんだよな。高松は水攻めで沈めて野戦はしていないから警戒するものが無い中での山狩りだからな。
安国寺恵瓊は信長について本能寺の変の9年も前に、「高ころびに、あおのけに転ばれ候ずる」と予言している。時期はちょっと外れたが。こう言う人物が秀吉から「信長は死んだ」と聞いたら、先ず間違いなく、秀吉を討って毛利家安泰を図るだろう。と言うことで、秀吉はこのような機密はバラしていないだろう。
背後の大友や龍造寺も気になっていたと思う。
本能寺の変秀吉黒幕説?
安国寺恵瓊が信長について本能寺の変の9年前に、「高ころびに、あおのけに転ばれ候ずる」と予言しているのは事実ですが、同時に「藤吉郎さりとてはの者にて候」とこのころから秀吉を高く評価している。本能寺の変のまでか、あるいはこの時に恵瓊は秀吉に調略されていたと思う。
あの天下取りの速さは異常。人をその気にさせるウマさがあったのでしょうな。そんな人でないと天下は取れないと・・・。それから知恵が回りアクションの手数の多さではマシンガン級ですね。我々も仕事で応用したいものです。
秀吉の政治力はすごい。
毛利輝元は信長を木津川口で撃ち破る軍略の才能と父親譲りの知略はあっても平和主義者だから清水宗治が命を掛けて得た和睦を反故にはしたくなかったのかもしれない。
光秀じゃなくても、あの信長についていくのは大変だっただろうから、謀反は誰でも心の隅にあったんじゃないかと思う。謀反じゃなくても、離反したいと思った人は結構いたんじゃないかな。けしかけたのは誰だろう?って思う。光秀が個人的に一人で義昭とかの策に乗るのかちょっと疑問。秀吉が大返しが出来たのは、多分信長の身辺を絶えず情報収集していたからだと思う。
コーエーの信長の野望のどれかの公式攻略本の冒頭絵巻で「騙された!。元春は武をもって迫撃せんと欲するも、隆景は知をもってこれを許す」というくだりがあって、かっけーと思ったもんですが、そんな単純な話じゃなかったのですね('ω')秀吉は危機管理が上手だったのかもしれんですけど('ω')
背後の大友や水攻めの堤、1580年ごろから毛利家の出陣要請に地侍達が応じなくなり兵が思ったように集まらなくなるなど複数の要因がありますね
巻物におしりかゆいって書いてるの草
おそるべき秀吉。それで毛利は追わなかったんですね。デキレースだったのですよ!❗信長も光秀も秀吉にまんまと喰わされたのです。
何故追撃しなかったのかって対織田戦で劣勢で防衛ラインも下がったうえで敗北同然の講和を結んどいて撤退した相手に攻撃する方が不自然では?
元就は大内義興が上洛して大内家中が大変な思いしたのを見てるからねえ(*´・ω・)<大内を反面教師にした?
大風呂敷の可能性は、なきにしもあらずだが、黙って囲んで訳じゃないですよね?、
漢字の変換と武将の名前の読み間違えを訂正願います。
もし毛利が信長が死んでいることを知っていたならば、信長没後の織田家臣の内紛に巻き込まれたくないと考えるでしょう。とりあえず日和見して勝ち馬に乗るのが確実ですから。で、秀吉があそこまで一気に勝ち上がったのは想定外だったのではないでしょうか。明智を討たれた後は朝廷工作とか陰での支援はしたでしょうね。
備中高松城における和睦条件(織田家へ5か国割譲から3カ国に減、城主、清水宗治の切腹を条件に城兵の助命)が、劣勢の毛利側にとって破格と言えるほどの譲歩されたものであり、それを反故にすれば後々事態が悪化すると毛利側は踏んだのだろう。
光秀をそそのかしたのは家庸、それを秀吉が得意のじょうほうりょくをいかしてすでにしっていたとおもう。
本能寺は家康は白に近く、当時堺見物をしていた家康には都合が悪い。伊勢越えをしても混乱する機内に溢れた賊の襲撃を避けれず、岡崎までは遥か遠い道のりだった為に三河入りをして軍を編成し終え、天下取りに名乗りをあげた頃には秀吉が明智討伐を終えてしまってた為に野望が破綻したと言う話があるしな。
ただ単に中国地方から撤退したから追撃しなかっただけでは?毛利は中国地方だけ守ってればいいみたいな考えの人達ですし。
それもないとは言えませんが追い討ちをして敵戦力を減らしておかないとまた攻められる可能性もありますし…
毛利には自国防衛と言うのが念頭にあっても京からは上洛して京の治安維持を頼まれていたから上洛は本気だったけど、高松戦のあと和睦交渉と陣退きが軽やかだった羽柴軍を見た毛利側では追撃をするように進言する家臣達が多かったけど、安国寺恵瓊や毛利輝元は、「逃げる丸腰の敵将を背後から襲っては毛利の名を傷付けるし今は無闇に上洛を強行するより疲弊した国内安堵が優先」とした事で明智討伐を終えた秀吉に毛利が盟友として秀吉の仲間入りをするんだよな。
秀吉がなぜ、早く動けたのか?おそらく、秀吉は信長の動きを注視していたのでしょう、ずっと見張っていて、何か動きがかれば連絡するようにしていたのでしょう。と言うか、1日に何度か情報を得ていたのかな?だから早く動きができた。信長をこちらへ呼んでますから特に、気にしてたのでしょう。なぜ、秀吉を追撃しなかった?きた九州の大名が気になかったのでしょう。もしかしたら長宗我部もどう動くかわからない、それに秀吉に恩を売っておけば、後々いいと考えたのかもね。
秀吉は情報のプロですから色んな土地から情報が集まってたからすぐ知ることができたのかもしれませんね
輝元公の祖父である、元就は息子である隆元に家督を譲る予定でしたが…隆元は(急死)しました。隆元の息子の輝元にお鉢が回りましたが、元就は(輝元の器は、小さい。これ以上の毛利家の拡大は無理だ)と考えたと思います。家の存続を考えて、隆景、元春に(現状の領地の経営には専念せよ!)遺訓を両川に命じたのでは。情報戦に強い秀吉に(恩)を売り、その後の擁護を得たのでは。…隆景が元春の(追撃しよう!)に同意して、早期追撃に出てたら…進撃の輝元軍だっただろうなぁと思いたいです。(輝元公贔屓な野郎です)
元就は隆元に家督は譲っています。その後、隆元は急死します。
天下の 声は 明智に悔しい であったと思います しかも秀吉が哀れで 織田方が、 があわれで つい見逃してしまった。たらこ 毛利は 後で後悔したと思います。
仮に羽柴秀吉と柴田勝家の位置を交換して羽柴秀吉が上杉攻めをしていたとしても秀吉は明智光秀の謀反に対していち早く戻れたと思う…でも滝川一益と位置を交換したら、流石に無理ゲーだったと思うw
滝川一益はどこにいったけ?
@@黒瀬亮治 滝川一益が本能寺を知ったのは変の5日後で、武田を滅ぼし今の群馬県(上野)で、武田の滅亡に乗じて進軍してきた北条とにらみ合っていた状態で、引けば背後を突かれるという動くに動けない状況で、開戦に反対する部下の反対を押し切って北条側に神流川で戦いを挑み敗れ、清須会議に出席できず没落したが、秀吉なら破格の譲歩をしてでも北条側と和睦を急いだはずであり、少なくとも一益のように決戦を挑んで敗れるような没落はしなかったのではと思う。
関東勢は本能寺を知るのが5日後と遅れただけでなく、本能寺の前後上方で一度降伏した北条が不穏な動きをして管領となっていた滝川一益に反逆の謀反を起こした事で神流川で一進一退の攻防戦をした事で織田側は関東を放棄しなければならなかっただけでなく、北条に大打撃を与えられ帰参する事となった為に帰参した頃には明智討伐の人員が足りずに足止めを食らって秀吉の活躍を見ることしかできなかったんだよなぁ…
輝元がもとなり読みになってますよ
毛利には背後に大友、長宗我部がすきを伺っていたまた前面には宇喜多1万があり兵站も伸びて追撃は無理秀吉はたまたま信長を迎え入れるため街道整備や兵站を整えていたのでそれを利用して大返しが出来た
5大老になってるくらいだから、関係は悪くはなかっただろうな関ヶ原では先見の明がなかったみたいだが
毛利輝元自身、関ヶ原では人望の無い三成自身から総大将を依頼されて受けてるだけ。当時の毛利輝元も家康の独断専行を許しては無かったから西軍に付いたと言う見方もできるけれど…
ちょっと違うかもしれんが天下の流れ、織田→豊臣→徳川。普通はここで止まるが続きがあり、後に長州(毛利)薩摩(島津)が天下統一を果たしたとも言えるのではないか?豊臣と徳川にイジメられた毛利(長州)が後に徳川に復讐・・・的な
個人的な考えだけど中国大返しは10日間かかったというのが定説だけど本当かな?今と違って時計が正確な時間がわからないし時間に対する感覚も違うから実際はもっとかかったと思う。
大返しをする際に高松戦に駆り出した人員をそのまま総動員するだけでなく、途中途中の城に駐在する兵も加えたあと、姫路城によって宝物庫の財宝を兵達に散財して士気の低下だけでなく脱走も防いだと言った話もあるし、当時の兵達って鎧兜を身に付けて走れる体力と速力の持ち主達だからな。中国大返しは「金の力ってスゲー!!当時の兵ってスゲー!!」って話なんじゃ?とワイは思う。
全ての戦国大名が天下取りを目指していたわけではなかったとは意外
当時の「天下」は、京都周辺の畿内を意味していた。だから、三好長慶すら天下人だった。
上杉謙信や武田信玄も上洛は目指しても天下取りに意欲の無い人物だし、人ってみんなが無能って訳じゃ無いし、人間50年と言う時代に人生を掛けて全国を走り回る戦をしたいとは思わなかったんじゃないかな?
完全に発音をJKに寄せてて草
安国寺恵瓊を通じて、小早川隆景が秀吉と既にグルだったのよ。その後の2人の出世を見れば…
安国寺恵瓊と小早川隆景は秀吉の台頭を高松戦後の軽やかな陣退きを見て予見しただけでなく、彼等の才能を考えれば秀吉に胡麻をすらなくても秀吉が才能を評価できる人物なら出世はできる。それにそれを言うなら、五大老の1人となる毛利輝元も豊臣政権で出世してるからな。
@@tikokun あなたはとある勢力の、数多存在する秀吉擁護要員ですか?これはそれら方々が放つ、火消しですか?そうなのでしたら、反論せずに捨置きます。
光秀は突発的に謀反起こしたわけじゃなかったんだな。
秀吉の絵がなんとかならんか。。
いくらなんでも秀吉に有利に働き過ぎでしょ。普通に考えれば得をしたものが一番怪しい。秀吉が信長暗殺を企てて光秀をそそのかしたってのが一番しっくりくるけどね。
利口者の秀吉は関西地方に忍者を置いて京の状況を休みなく報告させていたにちがいない。その結果、明智に怪しい動きありとの判断で毛利と講和して西へ向かった。
>パーフラ実際、「諸説あり」という番組でその見解も取り上げられてますね。秀吉が積極的に加担していないとしても、謀反が起こることを予期していて、あらかじめ引き返す態勢を整えておいて軍勢の行軍する街道や休憩所を整備して上手く活用した(→快適に中国大返しを完遂した)可能性も低くないでしょうね。彼は賤ヶ岳の戦いでも似たような感じで電撃戦を展開してますし。
dry cool 街道の整備は方面軍司令官の仕事らしいので道が整備されていたおかげでスムーズに大返しができたのかも知れませんね
秀吉、光秀、家康、義昭の共謀で光秀が口封じに消されたとも
秀吉あだ名は人たらし、即ち人を取り込む。味方を増やすこと。
毛利はヘタレやから無理。
ヘタレとはちがうだろ?信長に木津川口で勝利を納めた数少ない人物だし、父親譲りの軍略もあり、治国の才もある。要は毛利輝元って平和主義者なんだよな。秀吉の盟友になるのもずいぶん早いうちからだし。
毛利輝元(もうり てるもと)
水攻めもされたあとだけどね
秀吉が本能寺を知った直後に毛利の名将・清水宗治とその主・毛利輝元宛に書いた和睦の書状があまりにも丁寧だったから、清水宗治は自分の命だけで城兵と毛利が安堵できるならと…自身の自決を和睦条件にして欲しいと申し出をしたという話もある。
一度、武将や国名、地名をしっかり確認してから投稿した方が良いのでは? せっかく面白いコンテンツでも歴史的事実の武将や国名が違っては不正確でもったいないので。
小早川隆景が秀吉から大層気に入られ、主家の毛利と同格の五大老になったのは何でですかね?
普通に考えればたいそう有能な隆景を人材マニアの秀吉が見逃さなかったと思うのですが、自分の甥(血はつながってませんが)の秀秋を養子に送り込んだので義父の隆景を偉い位置にしとけば、義理の甥の小早川秀秋が当主になった時に強力な味方ができるという目論見もあったんじゃないでしょうかね('ω')血がつながっていないからなのか、後に予測しえない最悪の事態になりましたが('ω')
本当は輝元を大老にしようとしたんだけど無能だったからやめた(一説には輝元が自分より隆景の方が良いと秀吉に推挙したらしいが)
このとき、吉川元治はなくなってたのかな。
@@黒瀬亮治 吉川元春は本能寺の時は生きてる。羽柴の軍勢の陣退きがあまりにも早すぎる!!追撃をしよう!!と主張をしていた側だったからな。
@@滝沢優-y6l 秀秋はそもそも「輝元の養子に」という話を持ち掛けられたのを隆景が「輝元にはすでに養子の秀元がいるので」と自身の養子にしたんじゃなかったっけ?
毛利さん、あらら新鮮だわ、そりゃ調略ぐらいはしてだろうが、
「備前岡山城」の読みが「えちぜんおかやまじょう」になっててフイタ
しかも岡山は備中が正解だし。
@@個人ああえ1 岡山城は備前で合ってますよ。ほとんど備中寄りですけど
ガクブルの「暗黒JK」とな?
小早川隆景な
ちょっと盛り過ぎな感じもするなぁ身自鏡
この【秀吉だけスポッと抜ける】手口と【信長の防衛網の抜け穴】の共通点……。これに凄く見覚えがあるんだよなぁ😅具体的には三好長慶の人事。手持ちの人材の任地や役職をクルクルと廻してゆくと、いつの間にか穴が埋まったり、戦力が捻出出来る…という彼の特技😅なので【本能寺の変】のシナリオは彼の愛弟子:松永久秀が書いたとしか?😅となると、信長も承知の筈なんだよねぇ。つまり【本能寺の変】は故松永久秀のペーパープランを使った信長の極秘作戦を上手く利用した秀吉の謀略が正体だったと。恐らく、信長は黒幕の正体にも気付いた筈PS:松永久秀に三好長慶の技が再現出来たか⁉️については、戻ってくるのを秀吉軍ではなく、秀吉と側近にしてしまえば難易度が下げられる。これは信長自身が【伝桶狭間の戦い】や【金ヶ崎の退き口】でも使った手口…ここらにも信長の癖が出る。
毛利とぐるになって本能寺の変を裏で操り光秀を謀反人に仕立てた上で自分が天下を乗っ取ったのは秀吉だよ
みどりマキバオー 根拠は?
光秀の裏切予知してたら信長に知らせて一緒に中国地方で戦えばよかったじゃん光秀を他の遠征に当てれば良かったじゃん
イヤホンで画像見ずに聞いてたからアンコクJKって聞こえた笑
【動画の目次】
安国寺恵瓊ガクブルの秀吉の調略! 00:40
毛利氏重臣の内応は事実 02:05
秀吉は本能寺の変の勃発を予期していた? 03:37
内応と本能寺の変対策に毛利氏は敗北した 05:02
毛利氏は天下が欲しくないの? 06:21
戦国時代ライターkawausoの独り言 07:34
あなたは中国大返しの真実についてどう思いますか?
💟参考になった皆様の考察・歴史感をコメント欄に固定化させていただきます。
※あなたの考察やご意見をコメント欄までお待ちしています。
毛利氏はもともと天下を狙わず守りに徹する考えなので、リスクのある行為をすることはない
自分の領地さえ安堵してくれたら、誰であろうと従属する道を選んでいたと思う
毛利氏並びに、吉川元春が途絶えていたら、吉川晃司も生まれてませんねでしたよね。
中国地方の超大国毛利。無理して天下を狙う必要もなかった。
zahhatorute 超大国って程でもないような
元就は毛利が天下を取るべきで無いと言ってるもんね
信長は毛利を潰す気だったから当然抵抗した。
秀吉は結果論だが毛利を残した。
つまりはそういうことか。
毛利としては京に将軍家もなく石山本願寺が信長と和睦したので
上洛する必然性もなく、秀吉が持ちかけた和睦は好都合だったのだと思います。
安国寺恵瓊が1573年の段階で足利義昭の処遇について秀吉と話し合って、
ある程度の信頼関係を築いていたのも要因の1つでしょうね。
寝返りの件は秀吉のブラフの可能性が高い。毛利(小早川隆景)が追撃しなかったのは講和した後、誓紙が乾かないうちにすぐに追撃するのは信義にももとると止めたのと秀吉が追撃の可能性があったので大返しの前に堰を切って両軍の間に超えられない水の壁を作ったのが本当の理由。
これも「新書太閤記」の中では、明智方から毛利家に当てて信長公を討ち取った旨の密書を携えた伝令が数人放たれたが、秀吉は徹底した山狩りを行い一人として毛利家に密書を届けた者はいない、とされていますが、いくらなんでもそれは不可能と思われるので、何らかの密約が秀吉と毛利家にあったのは間違いないと思います。
確かに秀吉の山狩りは不審過ぎる行動なんだよな。
高松は水攻めで沈めて野戦はしていないから警戒するものが無い中での山狩りだからな。
安国寺恵瓊は信長について本能寺の変の9年も前に、「高ころびに、あおのけに転ばれ候ずる」と予言している。時期はちょっと外れたが。こう言う人物が秀吉から「信長は死んだ」と聞いたら、先ず間違いなく、秀吉を討って毛利家安泰を図るだろう。と言うことで、秀吉はこのような機密はバラしていないだろう。
背後の大友や龍造寺も気になっていたと思う。
本能寺の変秀吉黒幕説?
安国寺恵瓊が信長について本能寺の変の9年前に、「高ころびに、あおのけに転ばれ候ずる」と予言しているのは事実ですが、同時に「藤吉郎さりとてはの者にて候」とこのころから秀吉を高く評価している。
本能寺の変のまでか、あるいはこの時に恵瓊は秀吉に調略されていたと思う。
あの天下取りの速さは異常。人をその気にさせるウマさがあったのでしょうな。そんな人でないと天下は取れないと・・・。それから知恵が回りアクションの手数の多さではマシンガン級ですね。我々も仕事で応用したいものです。
秀吉の政治力はすごい。
毛利輝元は信長を木津川口で撃ち破る軍略の才能と父親譲りの知略はあっても平和主義者だから清水宗治が命を掛けて得た和睦を反故にはしたくなかったのかもしれない。
光秀じゃなくても、あの信長についていくのは大変だっただろうから、謀反は誰でも心の隅にあったんじゃないかと思う。謀反じゃなくても、離反したいと思った人は結構いたんじゃないかな。けしかけたのは誰だろう?って思う。光秀が個人的に一人で義昭とかの策に乗るのかちょっと疑問。秀吉が大返しが出来たのは、多分信長の身辺を絶えず情報収集していたからだと思う。
コーエーの信長の野望のどれかの公式攻略本の冒頭絵巻で
「騙された!。元春は武をもって迫撃せんと欲するも、隆景は知をもってこれを許す」
というくだりがあって、かっけーと思ったもんですが、そんな単純な話じゃなかったのですね('ω')
秀吉は危機管理が上手だったのかもしれんですけど('ω')
背後の大友や水攻めの堤、1580年ごろから毛利家の出陣要請に地侍達が応じなくなり兵が思ったように集まらなくなるなど複数の要因がありますね
巻物におしりかゆいって書いてるの草
おそるべき秀吉。それで毛利は追わなかったんですね。デキレースだったのですよ!❗信長も光秀も秀吉にまんまと喰わされたのです。
何故追撃しなかったのかって対織田戦で劣勢で防衛ラインも下がったうえで敗北同然の講和を結んどいて撤退した相手に攻撃する方が不自然では?
元就は大内義興が上洛して大内家中が大変な思いしたのを見てるからねえ(*´・ω・)<大内を反面教師にした?
大風呂敷の可能性は、なきにしもあらずだが、黙って囲んで訳じゃないですよね?、
漢字の変換と武将の名前の読み間違えを訂正願います。
もし毛利が信長が死んでいることを知っていたならば、信長没後の織田家臣の内紛に巻き込まれたくないと考えるでしょう。とりあえず日和見して勝ち馬に乗るのが確実ですから。で、秀吉があそこまで一気に勝ち上がったのは想定外だったのではないでしょうか。明智を討たれた後は朝廷工作とか陰での支援はしたでしょうね。
備中高松城における和睦条件(織田家へ5か国割譲から3カ国に減、城主、清水宗治の切腹を条件に城兵の助命)が、劣勢の毛利側にとって破格と言えるほどの譲歩されたものであり、それを反故にすれば後々事態が悪化すると毛利側は踏んだのだろう。
光秀をそそのかしたのは家庸、それを秀吉が得意のじょうほうりょくをいかしてすでにしっていたとおもう。
本能寺は家康は白に近く、当時堺見物をしていた家康には都合が悪い。
伊勢越えをしても混乱する機内に溢れた賊の襲撃を避けれず、岡崎までは遥か遠い道のりだった為に三河入りをして軍を編成し終え、天下取りに名乗りをあげた頃には秀吉が明智討伐を終えてしまってた為に野望が破綻したと言う話があるしな。
ただ単に中国地方から撤退したから追撃しなかっただけでは?毛利は中国地方だけ守ってればいいみたいな考えの人達ですし。
それもないとは言えませんが追い討ちをして敵戦力を減らしておかないとまた攻められる可能性もありますし…
毛利には自国防衛と言うのが念頭にあっても京からは上洛して京の治安維持を頼まれていたから上洛は本気だったけど、高松戦のあと和睦交渉と陣退きが軽やかだった羽柴軍を見た毛利側では追撃をするように進言する家臣達が多かったけど、安国寺恵瓊や毛利輝元は、「逃げる丸腰の敵将を背後から襲っては毛利の名を傷付けるし今は無闇に上洛を強行するより疲弊した国内安堵が優先」とした事で明智討伐を終えた秀吉に毛利が盟友として秀吉の仲間入りをするんだよな。
秀吉がなぜ、早く動けたのか?
おそらく、秀吉は信長の動きを注視していたのでしょう、ずっと見張っていて、何か動きがかれば連絡するようにしていたのでしょう。
と言うか、1日に何度か情報を得ていたのかな?だから早く動きができた。信長をこちらへ呼んでますから特に、気にしてたのでしょう。
なぜ、秀吉を追撃しなかった?
きた九州の大名が気になかったのでしょう。もしかしたら長宗我部もどう動くかわからない、それに秀吉に恩を売っておけば、後々いいと考えたのかもね。
秀吉は情報のプロですから色んな土地から情報が集まってたからすぐ知ることができたのかもしれませんね
輝元公の祖父である、元就は息子である隆元に家督を譲る予定でしたが…隆元は(急死)しました。隆元の息子の輝元にお鉢が回りましたが、元就は(輝元の器は、小さい。これ以上の毛利家の拡大は無理だ)と考えたと思います。家の存続を考えて、隆景、元春に(現状の領地の経営には専念せよ!)遺訓を両川に命じたのでは。情報戦に強い秀吉に(恩)を売り、その後の擁護を得たのでは。…隆景が元春の(追撃しよう!)に同意して、早期追撃に出てたら…進撃の輝元軍だっただろうなぁと思いたいです。(輝元公贔屓な野郎です)
元就は隆元に家督は譲っています。その後、隆元は急死します。
天下の 声は 明智に悔しい であったと思います しかも秀吉が哀れで
織田方が、 があわれで つい見逃してしまった。たらこ 毛利は 後で後悔したと思います。
仮に羽柴秀吉と柴田勝家の位置を交換して羽柴秀吉が上杉攻めをしていたとしても
秀吉は明智光秀の謀反に対していち早く戻れたと思う
…でも滝川一益と位置を交換したら、流石に無理ゲーだったと思うw
滝川一益はどこにいったけ?
@@黒瀬亮治 滝川一益が本能寺を知ったのは変の5日後で、武田を滅ぼし今の群馬県(上野)で、武田の滅亡に乗じて進軍してきた北条とにらみ合っていた状態で、引けば背後を突かれるという動くに動けない状況で、開戦に反対する部下の反対を押し切って北条側に神流川で戦いを挑み敗れ、清須会議に出席できず没落したが、秀吉なら破格の譲歩をしてでも北条側と和睦を急いだはずであり、少なくとも一益のように決戦を挑んで敗れるような没落はしなかったのではと思う。
関東勢は本能寺を知るのが5日後と遅れただけでなく、本能寺の前後上方で一度降伏した北条が不穏な動きをして管領となっていた滝川一益に反逆の謀反を起こした事で神流川で一進一退の攻防戦をした事で織田側は関東を放棄しなければならなかっただけでなく、北条に大打撃を与えられ帰参する事となった為に帰参した頃には明智討伐の人員が足りずに足止めを食らって秀吉の活躍を見ることしかできなかったんだよなぁ…
輝元がもとなり読みになってますよ
毛利には背後に大友、長宗我部がすきを伺っていた
また前面には宇喜多1万があり兵站も伸びて追撃は無理
秀吉はたまたま信長を迎え入れるため街道整備や兵站を整えていたのでそれを利用して大返しが出来た
5大老になってるくらいだから、関係は悪くはなかっただろうな
関ヶ原では先見の明がなかったみたいだが
毛利輝元自身、関ヶ原では人望の無い三成自身から総大将を依頼されて受けてるだけ。
当時の毛利輝元も家康の独断専行を許しては無かったから西軍に付いたと言う見方もできるけれど…
ちょっと違うかもしれんが天下の流れ、織田→豊臣→徳川。普通はここで止まるが続きがあり、後に長州(毛利)薩摩(島津)が天下統一を果たしたとも言えるのではないか?豊臣と徳川にイジメられた毛利(長州)が後に徳川に復讐・・・的な
個人的な考えだけど中国大返しは10日間かかったというのが定説だけど本当かな?今と違って時計が正確な時間がわからないし時間に対する感覚も違うから実際はもっとかかったと思う。
大返しをする際に高松戦に駆り出した人員をそのまま総動員するだけでなく、途中途中の城に駐在する兵も加えたあと、姫路城によって宝物庫の財宝を兵達に散財して士気の低下だけでなく脱走も防いだと言った話もあるし、当時の兵達って鎧兜を身に付けて走れる体力と速力の持ち主達だからな。
中国大返しは「金の力ってスゲー!!当時の兵ってスゲー!!」って話なんじゃ?とワイは思う。
全ての戦国大名が天下取りを目指していたわけではなかったとは意外
当時の「天下」は、京都周辺の畿内を意味していた。だから、三好長慶すら天下人だった。
上杉謙信や武田信玄も上洛は目指しても天下取りに意欲の無い人物だし、人ってみんなが無能って訳じゃ無いし、人間50年と言う時代に人生を掛けて全国を走り回る戦をしたいとは思わなかったんじゃないかな?
完全に発音をJKに寄せてて草
安国寺恵瓊を通じて、小早川隆景が秀吉と既にグルだったのよ。その後の2人の出世を見れば…
安国寺恵瓊と小早川隆景は秀吉の台頭を高松戦後の軽やかな陣退きを見て予見しただけでなく、彼等の才能を考えれば秀吉に胡麻をすらなくても秀吉が才能を評価できる人物なら出世はできる。
それにそれを言うなら、五大老の1人となる毛利輝元も豊臣政権で出世してるからな。
@@tikokun
あなたはとある勢力の、数多存在する秀吉擁護要員ですか?これはそれら方々が放つ、火消しですか?
そうなのでしたら、反論せずに捨置きます。
光秀は突発的に謀反起こしたわけじゃなかったんだな。
秀吉の絵がなんとかならんか。。
いくらなんでも秀吉に有利に働き過ぎでしょ。
普通に考えれば得をしたものが一番怪しい。
秀吉が信長暗殺を企てて光秀をそそのかしたってのが一番しっくりくるけどね。
利口者の秀吉は関西地方に忍者を置いて京の状況を休みなく報告させていたにちがいない。その結果、明智に怪しい動きありとの判断で毛利と講和して西へ向かった。
>パーフラ
実際、「諸説あり」という番組でその見解も取り上げられてますね。
秀吉が積極的に加担していないとしても、謀反が起こることを予期していて、あらかじめ引き返す態勢を整えておいて軍勢の行軍する街道や休憩所を整備して上手く活用した(→快適に中国大返しを完遂した)可能性も低くないでしょうね。彼は賤ヶ岳の戦いでも似たような感じで電撃戦を展開してますし。
dry cool 街道の整備は方面軍司令官の仕事らしいので道が整備されていたおかげでスムーズに大返しができたのかも知れませんね
秀吉、光秀、家康、義昭の共謀で光秀が口封じに消されたとも
秀吉あだ名は人たらし、即ち人を取り込む。味方を増やすこと。
毛利はヘタレやから無理。
ヘタレとはちがうだろ?
信長に木津川口で勝利を納めた数少ない人物だし、父親譲りの軍略もあり、治国の才もある。
要は毛利輝元って平和主義者なんだよな。
秀吉の盟友になるのもずいぶん早いうちからだし。
毛利輝元(もうり てるもと)
水攻めもされたあとだけどね
秀吉が本能寺を知った直後に毛利の名将・清水宗治とその主・毛利輝元宛に書いた和睦の書状があまりにも丁寧だったから、清水宗治は自分の命だけで城兵と毛利が安堵できるならと…自身の自決を和睦条件にして欲しいと申し出をしたという話もある。
一度、武将や国名、地名をしっかり確認してから投稿した方が良いのでは? せっかく面白いコンテンツでも歴史的事実の武将や国名が違っては不正確でもったいないので。
小早川隆景が秀吉から大層気に入られ、主家の毛利と同格の五大老になったのは何でですかね?
普通に考えればたいそう有能な隆景を人材マニアの秀吉が見逃さなかったと思うのですが、
自分の甥(血はつながってませんが)の秀秋を養子に送り込んだので義父の隆景を
偉い位置にしとけば、義理の甥の小早川秀秋が当主になった時に強力な味方ができるという
目論見もあったんじゃないでしょうかね('ω')
血がつながっていないからなのか、後に予測しえない最悪の事態になりましたが('ω')
本当は輝元を大老にしようとしたんだけど
無能だったからやめた
(一説には輝元が自分より隆景の方が良いと秀吉に推挙したらしいが)
このとき、吉川元治はなくなってたのかな。
@@黒瀬亮治 吉川元春は本能寺の時は生きてる。
羽柴の軍勢の陣退きがあまりにも早すぎる!!追撃をしよう!!と主張をしていた側だったからな。
@@滝沢優-y6l 秀秋はそもそも「輝元の養子に」という話を持ち掛けられたのを隆景が「輝元にはすでに養子の秀元がいるので」と自身の養子にしたんじゃなかったっけ?
毛利さん、あらら新鮮だわ、そりゃ調略ぐらいはしてだろうが、
「備前岡山城」の読みが「えちぜんおかやまじょう」になっててフイタ
しかも岡山は備中が正解だし。
@@個人ああえ1 岡山城は備前で合ってますよ。ほとんど備中寄りですけど
ガクブルの「暗黒JK」とな?
小早川隆景な
ちょっと盛り過ぎな感じもするなぁ身自鏡
この【秀吉だけスポッと抜ける】手口と【信長の防衛網の抜け穴】の共通点……。
これに凄く見覚えがあるんだよなぁ😅
具体的には三好長慶の人事。
手持ちの人材の任地や役職をクルクルと廻してゆくと、いつの間にか穴が埋まったり、戦力が捻出出来る…という彼の特技😅
なので【本能寺の変】のシナリオは彼の愛弟子:松永久秀が書いたとしか?😅
となると、信長も承知の筈なんだよねぇ。
つまり【本能寺の変】は故松永久秀のペーパープランを使った信長の極秘作戦を上手く利用した秀吉の謀略が正体だったと。
恐らく、信長は黒幕の正体にも気付いた筈
PS:松永久秀に三好長慶の技が再現出来たか⁉️については、戻ってくるのを秀吉軍ではなく、秀吉と側近にしてしまえば難易度が下げられる。
これは信長自身が【伝桶狭間の戦い】や【金ヶ崎の退き口】でも使った手口…ここらにも信長の癖が出る。
毛利とぐるになって本能寺の変を裏で操り光秀を謀反人に仕立てた上で自分が天下を乗っ取ったのは秀吉だよ
みどりマキバオー 根拠は?
光秀の裏切予知してたら信長に知らせて一緒に中国地方で戦えばよかったじゃん光秀を他の遠征に当てれば良かったじゃん