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自衛隊時代に、鹿児島出身の剣道やってた同期がいましたが、彼が高校の剣道部にいたとき、示現流か自顕流をやっていた人が入ってきたそうです。肩幅の大きさが半端じゃなかったそうですよ笑 「剛」そのものの剣ですよね。 実践では小細工は効かないので、確かにこの剣法でぐいぐい押せば実践では強そうです
教え方が日本にしては珍しく単純明快で納得できる。秘伝なんてない。剣道とは違って逮捕術位で実践練習できるかも。
特攻剣術。戦場で幾千の将兵がこの剣技で襲い掛かって来るかと思うと・・只々、悪夢。
単純にキ○ガイじみた声上げながら刃物掲げて突っ込んでくる集団に立ち向かえ言われた地点で悪夢でしょうねwしかもそのキチ○イ集団が徹底して鍛錬された精強ともなればなおさら……
無数の剣士が猿叫とともに突っ込んで来る。本当に死を覚悟する。
竹刀の試合なら弱いだろうがこれを真剣でやられたらと思うと...実戦そのものの流派だよなぁ
一見単純な横木打ちも考えてみれば理にかなったトレーニングなんですね。打ち下ろしで握力、前腕、上腕、肩、背筋、呼吸も合わさり腹筋、心肺機能も鍛えられるし屈伸で下半身も満遍なく負荷がかかる。これを日に一万以上やったとしたらそりゃ剛の益荒男が効率的に生産できますわ。
練習だけみると弱そうですが、かなり実戦では凄まじく脅威だったみたいですね。薩摩の中村半次郎はこの剣術で、戊辰戦争と西南戦争で無傷で何十人もの兵士を斬り殺したと仲間の証言が残っています
避け先を予想してそこに攻撃するのは優秀だがそれは二流で、相手が反応する前に攻撃を浴びせることができる人が達人。ボクシングとかで「なんか相手の重心が少し変わったとか少し表情が変わった」とか思ったらとりあえず頭を動かせば基本頭への攻撃は全く当たらないんだよ。格闘技やったりすると分かるけど、相手のモーションの変化を確認してから0.2秒後には動き始めるこの時間間隔を理解している。つまり0・2秒間の間でどれだけ体の操作を凝縮できるかの重要性がわかっている分、0.2秒間の間にどれだけの筋収縮動作を凝縮しているかを見る癖ができる。 練習だけ見ると弱そうっていってるけど 実際いいたくないけどそうかもしれない。でも 実際に戦いの場に参じていた薬丸示現流の武士たちの練習風景はこれとはくらべものにならない程凄まじい早さで木刀を振るっていただろうね。だって相手の攻撃を防ぐことを練習で禁じられていたんだから、つまり相手よりも更に素早くに攻撃して反撃できない程の一撃を浴びせないと自分が死ぬんだから。
あるいはこの練習風景を見て弱そうに感じるのは、単に撮影前から何度も木刀を振るっていて疲れているから 振るのが遅くなっているだけだと思いたい
10代の頃よりこの系統の剣術は凄いなぁと思っていたけれど、改めてみても凄いね。小細工を抜きにして奇声を上げて助走を付けて振りかぶるってのが如何に強いかがわかる。そして基本練習をするだけで、心肺機能の向上と筋トレになる。誰にもできる。達人だろうと複数で切りかかり、刀で受けたら最後。 本当に素晴らしい。無知に説明すると笑われるのだけが玉に瑕
鹿児島の黎明館で、生麦事件でもリチャードソンを斬った奈良原喜八郎が寺田屋事件で使ったとされる肥前忠吉を見た事があります。 肥前忠吉はかなり厚みのある刀身なのですが、その刀身がものうちから横ではなく、縦にへし折れてました。薬丸示現流の打ち込みの強さを垣間見ましたね。 馬上のリチャードソンを斬りあげた技も まさに「抜き」ではないですかね
「肥前忠吉が縦にへし折れ」・・・絶句
上に媚びず、下を侮らず、常に全力‼️チェストォーーー‼️
うーむ、示現流の力がのった一撃に勝てるか、というのは時々想定することです。仮想敵の流派の1つとして、いつも示現流はカウントされます。
剣道より、こちらを文化として遺すべき
剣道は戦後、武装解除されたからスポーツですからね。
いや普通に鹿児島の方なら剣道でもこういう稽古しますけど
江戸から剣道の基礎となる流派は多数存在したと思いますけど?
@@副ぶちょー-q9t様 カゴンマでは 撃剣してるんですね❗自分の親父(故人です 海軍復員です)も鹿児島県出水市生まれですが 薬丸流をしてたとか聞きましたわ🙋中村半次郎氏を敬愛してました💦
現代剣道では、「打って反省、打たれて感謝」とか言いますね。打たれて感謝など、平和ボケのスポーツに成り下がっている気がします。打たれたら、死んでしまっている訳ですから。戦国時代や幕末の武士達は、打たれて感謝などとは決して言わなかったと思うのです。
示現流も自顕流の剣士も、絶対に試し切りの動画はアップしないですね。
佐伯泰英さんの「空也十番勝負」では坂崎磐音の息子空也が薩摩に入って野太刀を習いますね
鯉登少尉
武者が良か !! 我が撃つ太刀の血煙を見よ。
斬り殺す為に、見苦しく脚を広げる。軽い竹刀を振り回す剣道では絶対勝てない。
この動画のBGMの引用元があれば知りたいです。凄くカッコいいです。
申し訳ないが、必勝の深い戦略があるものです。古流剣術は。打ってるんですかね。走りこんで打てば斜め上方から突きながら打つことになりますよね。なんで手首が外側を向いてるかにも、深い術理があると想像が付きます。ジゲン流ほどシステマチックな流儀を中国他で知りません。舌の動き(リュウの発音)に間の速さを現そうとしたり、斬撃の速さをキリを紙の上に載せたまま何枚の時間で切り裂くかで時間を現す。最終的な極意の雲光ヘンの曜(ウンヨウ)では紙一枚の刹那で切り終わる。薬丸にも一部は伝わっていると見るべき。
大学のとき、隣が自顕流の部室だった。何が面白いんだろう?と疑問に思っていた。真剣の斬り合いなら強いだろうね。
これって刃筋とか考えてあるのかな
これは怖い。
真の薩摩ホグワーツ伝説。
いや、津本陽の薩南示現流読めば、少し載ってるよ、勝手になのりだしたので、本家の名前を変えたとか。
薩摩藩の武士たちが腰に指していた刀はやはり普通の刀と違い、重ねが厚く、長い刀なのだろうか?誤解を恐れずに言えば江戸期の普通の刀だったら野太刀自顕流の使い方をすれば折れてしまうのでは。しかし重ねを厚くし長い刀身になれば刀自体の重量が増してしまう。九州地方の合戦ではそのような刀こそ喜ばれたとか。彼等と敵対した幕府お抱えの新撰組その母体となった剣術、天然理心流も幕末期の竹刀を使った試合ではあまり強くなかったが、実際の斬り合いでは物凄い強みを発揮したとよく聞きます。その稽古内容も竹刀による打合いもするが寧ろ、木刀を使った組太刀が主流と読んだ記憶があります。木刀も普通の木刀ではなく、かなり太い握りぶとの木刀だったように思います。やはり幕末に恐れられた剣術流派は薩摩藩の野太刀自顕流と天然理心流なんでしょうか。
稽古を見ても一撃ではあるが一発ではない。いわば連撃だ。そして実践では「始め!」はない。不意打ちからの連撃で仕留める。近藤勇の言う初太刀をはずせ、もその意味だろう。要は不意打ちを警戒しろということだ。つまり江戸風の剣術文化はないということ。主要流派では剣術道場風な立ち合いに成りがちだったのではないか。
安易に初太刀をかわせば〜なんて恐らく無理でしょう。銃で言えば間近で45口径ぶっ放されるのと同じですから、相手が外すか怖気付くかしてくれなきゃ避けられません。技術とか熟練度の問題じゃないと思います。初手をかわせ、とは隊士からすればそれ即ち逃げるか抜く前にやれってことじゃないですかね。
初太刀を外せは後世の創作やぞ。
単純だけどなようだけどコレはコレで怖いでしょ何の流派でも その時強いものが勝つ
示現流って稽古風景だけみるとクソ弱そうだよね
考えてご覧。バックギア無し❗️全力で振り下ろす刃。
@@ウズラ-f5b すぐ攻略されそう…
リアルでは、新撰組に、自顕流の初太刀は外せ❗️と言われた剣殺されてから攻略は出来ない。西南の役では、受けた自分の刀の峰で頭蓋骨を陥没させた幕府軍兵士の骨がたまに出土します。
@@見て見てぼくのいれじゅみい その前に死んでます
何処の剣術も型稽古はしっとりした感じでは? 最近流行りの所が踊りのようにして集客方向のような? 戸山流立合とかも派手さ無いです
焼酎会社の宣伝?
最初の一撃をかわせば、慈眼流は二の太刀までは技が余り無いのが特徴ですね〜😭冷静に奇声と威圧的な慈眼流に対処すれば勝算ありですよ!流派沢山有りますからね〜居合抜刀で半次郎が切れたのは、たまたま相手が剣術が修練した侍で無かったと言う事です。相手が剣術修練した侍で有れば、一刀両断には出来ません。 こう言う私は薩摩藩の家臣の末裔で慈眼流を含めて古武道も嗜んでいる鹿児島の田舎の70歳前の爺いです。慈眼流も、二の太刀をもっと研究しないと、相手が剣術の使い手だったら一の太刀を避けられて、簡単には切られませんよ。当時は、慈眼流は門外不出で外には余り知られてませんでしたから、相手が奇声と猪突猛進にびびってやられた可能性大ですけどね〜😭
銃社会のアメリカでも、いざ強盗との銃撃戦となったら2、3秒で決着すると言います。銃であれ剣であれ、いかに早く仕留められるかにかかっており、二手三手先なんて無いのが実戦であり現実なのではないのでしょうか。先手必勝は常識ですから、だからこそこの二の太刀要らずの薩摩の剣は一見理屈が無いようで、実は最高に戦いの理にかなった剣術だったと言えると思います。
なんでそう、やってもいないことを自信満々に語れますかね。私も鹿児島の郷士の末裔ですが、ちょっとどうかと思いますよ。
練習を見てると連続で斬り込んで来るんだよね。2度目3度目・・・。全部さばけるかなぁ。
尊皇も攘夷も剣術そのものとは何の関係もありませんよね。それより東郷重位の示現流との違いはなんなのかを教えて欲しいです。なんか修行の仕方に共通点があって全く無関係とは思えません。
示現流については、津本陽の『薩南示現流』という歴史小説を読むといいかと思います。野太刀自顕流とのちがいは、まず発祥が赤の他人くらいちがいます。野太刀自顕流は大隅を治めた肝付氏の先祖である伴氏が作った「野太刀」が源流とされます。これは平安時代の話です。示現流の開祖である東郷重位は、戦国時代から江戸時代を生きた人です。幕末期になって、それまで抑圧されていた自顕流が正式に流派をたて、システムがシンプルで誰でも学べ、ゆとりのない者は一人でも稽古できることから、下級武士に一気に広まりました。なので、幕末期では城下の上士は示現流を、下級武士や郷士は自顕流をと、例外もあったかもしれませんが、一応は分かれたようです。長い年月の間に、狭い土地で伝わっていったものなので、お互いに関係性は生じたと考えるのが自然でしょう。どちらも「一の太刀を疑わず」は共通しているようですが、示現流の方はより複雑で、師につかないと学べないものであったようです。web上の説明も、この両者を混同しているものが多いですが、Wikipediaはきれいにまとめてあったと思います。
@@BVW996 丁寧な返信恐れ入ります。「薩南示現流」は読了しております。ちなみに生麦事件でリチャードソンに最初の一太刀を浴びせたのは薬丸自顕流の奈良原喜左エ門と言われていますが薬丸自顕流と野太刀自顕流は同じものなのでしょうか?
@@MrJinsuke 幕末の時期においては同じものと考えていいと思います。その時代は、野太刀自顕流が正式の流派名で、通称が「薬丸どんの稽古」「薬丸自顕流」だったようです。長く無視されるというか、正式な流派名をたてることもできなかったのを、薬丸兼義がようやく藩の剣術家として認められ、「野太刀自顕流」と名乗ったのが元治元年(1864)です。薬丸兼義は、何百年もアンダーグラウンドだった野太刀の流派の中興の祖になったという認識でいいと思います。
@@BVW996 ありがとうございます。ところでお名前からバッハのリュート曲を連想してしまうのですが偶然でしょうか?
@@MrJinsuke そうですね。バッハのリュート組曲から『ブーレ』という曲が好きなので、そこからとりました。
🎉😂😂
銃で向かえば役立たず!しょうもない!
銃ですか? そんな話し関係ないのでは銃に機関銃 大砲で向えば役立たずしょうもない?
銃で構えて撃とうとした奴より速く抜刀して、中村半次郎は斬り殺したんですよ。自分の西洋式兵法の師匠を。
しょうもないのはあなたの頭のようだね。
その論理では、ミサイル打てば終い無駄無駄❔
確実に当てるのにフロントサイトいちいち覗かなきゃならないやつらが、何も考えなくても相手が死ぬレベルまでやってる連中をよく嘲けってられるな、恥を知れ!
自衛隊時代に、鹿児島出身の剣道やってた同期がいましたが、彼が高校の剣道部にいたとき、示現流か自顕流をやっていた人が入ってきたそうです。肩幅の大きさが半端じゃなかったそうですよ笑
「剛」そのものの剣ですよね。 実践では小細工は効かないので、確かにこの剣法でぐいぐい押せば実践では強そうです
教え方が日本にしては珍しく単純明快で納得できる。秘伝なんてない。剣道とは違って逮捕術位で実践練習できるかも。
特攻剣術。戦場で幾千の将兵がこの剣技で襲い掛かって来るかと思うと・・只々、悪夢。
単純にキ○ガイじみた声上げながら刃物掲げて突っ込んでくる集団に立ち向かえ言われた地点で悪夢でしょうねw
しかもそのキチ○イ集団が徹底して鍛錬された精強ともなればなおさら……
無数の剣士が猿叫とともに突っ込んで来る。
本当に死を覚悟する。
竹刀の試合なら弱いだろうがこれを真剣でやられたらと思うと...実戦そのものの流派だよなぁ
一見単純な横木打ちも考えてみれば理にかなったトレーニングなんですね。
打ち下ろしで握力、前腕、上腕、肩、背筋、呼吸も合わさり腹筋、心肺機能も鍛えられるし
屈伸で下半身も満遍なく負荷がかかる。
これを日に一万以上やったとしたらそりゃ剛の益荒男が効率的に生産できますわ。
練習だけみると弱そうですが、かなり実戦では凄まじく脅威だったみたいですね。
薩摩の中村半次郎はこの剣術で、戊辰戦争と西南戦争で無傷で何十人もの兵士を斬り殺したと仲間の証言が残っています
避け先を予想してそこに攻撃するのは優秀だがそれは二流で、相手が反応する前に攻撃を浴びせることができる人が達人。ボクシングとかで「なんか相手の重心が少し変わったとか少し表情が変わった」とか思ったらとりあえず頭を動かせば基本頭への攻撃は全く当たらないんだよ。格闘技やったりすると分かるけど、相手のモーションの変化を確認してから0.2秒後には動き始めるこの時間間隔を理解している。つまり0・2秒間の間でどれだけ体の操作を凝縮できるかの重要性がわかっている分、0.2秒間の間にどれだけの筋収縮動作を凝縮しているかを見る癖ができる。 練習だけ見ると弱そうっていってるけど 実際いいたくないけどそうかもしれない。でも 実際に戦いの場に参じていた薬丸示現流の武士たちの練習風景はこれとはくらべものにならない程凄まじい早さで木刀を振るっていただろうね。だって相手の攻撃を防ぐことを練習で禁じられていたんだから、つまり相手よりも更に素早くに攻撃して反撃できない程の一撃を浴びせないと自分が死ぬんだから。
あるいはこの練習風景を見て弱そうに感じるのは、単に撮影前から何度も木刀を振るっていて疲れているから 振るのが遅くなっているだけだと思いたい
10代の頃よりこの系統の剣術は凄いなぁと思っていたけれど、改めてみても凄いね。
小細工を抜きにして奇声を上げて助走を付けて振りかぶるってのが如何に強いかがわかる。
そして基本練習をするだけで、心肺機能の向上と筋トレになる。誰にもできる。
達人だろうと複数で切りかかり、刀で受けたら最後。 本当に素晴らしい。
無知に説明すると笑われるのだけが玉に瑕
鹿児島の黎明館で、生麦事件でもリチャードソンを斬った奈良原喜八郎が寺田屋事件で使ったとされる肥前忠吉を見た事があります。 肥前忠吉はかなり厚みのある刀身なのですが、その刀身がものうちから横ではなく、縦にへし折れてました。薬丸示現流の打ち込みの強さを垣間見ましたね。 馬上のリチャードソンを斬りあげた技も まさに「抜き」ではないですかね
「肥前忠吉が縦にへし折れ」・・・絶句
上に媚びず、下を侮らず、常に全力‼️チェストォーーー‼️
うーむ、示現流の力がのった一撃に勝てるか、というのは時々想定することです。仮想敵の流派の1つとして、いつも示現流はカウントされます。
剣道より、こちらを文化として遺すべき
剣道は戦後、武装解除されたからスポーツですからね。
いや普通に鹿児島の方なら剣道でもこういう稽古しますけど
江戸から剣道の基礎となる流派は多数存在したと思いますけど?
@@副ぶちょー-q9t様 カゴンマでは 撃剣してるんですね❗自分の親父(故人です 海軍復員です)も鹿児島県出水市生まれですが 薬丸流をしてたとか聞きましたわ🙋中村半次郎氏を敬愛してました💦
現代剣道では、「打って反省、打たれて感謝」とか言いますね。
打たれて感謝など、平和ボケのスポーツに成り下がっている気がします。
打たれたら、死んでしまっている訳ですから。
戦国時代や幕末の武士達は、打たれて感謝などとは決して言わなかったと思うのです。
示現流も自顕流の剣士も、絶対に試し切りの動画はアップしないですね。
佐伯泰英さんの「空也十番勝負」では坂崎磐音の息子空也が薩摩に入って野太刀を習いますね
鯉登少尉
武者が良か !! 我が撃つ太刀の血煙を見よ。
斬り殺す為に、見苦しく脚を広げる。軽い竹刀を振り回す剣道では絶対勝てない。
この動画のBGMの引用元があれば知りたいです。凄くカッコいいです。
申し訳ないが、必勝の深い戦略があるものです。古流剣術は。
打ってるんですかね。走りこんで打てば斜め上方から
突きながら打つことになりますよね。
なんで手首が外側を向いてるかにも、
深い術理があると想像が付きます。
ジゲン流ほどシステマチックな流儀を中国他で知りません。
舌の動き(リュウの発音)に間の速さを現そうとしたり、
斬撃の速さをキリを紙の上に載せたまま何枚の時間で切り裂くかで時間を現す。
最終的な極意の雲光ヘンの曜(ウンヨウ)では紙一枚の刹那で切り終わる。
薬丸にも一部は伝わっていると見るべき。
大学のとき、隣が自顕流の部室だった。何が面白いんだろう?と疑問に思っていた。真剣の斬り合いなら強いだろうね。
これって刃筋とか考えてあるのかな
これは怖い。
真の薩摩ホグワーツ伝説。
いや、津本陽の薩南示現流読めば、少し載ってるよ、勝手になのりだしたので、本家の名前を変えたとか。
薩摩藩の武士たちが腰に指していた
刀はやはり普通の刀と違い、
重ねが厚く、長い刀なのだろうか?
誤解を恐れずに言えば江戸期の
普通の刀だったら野太刀自顕流の使い方
をすれば折れてしまうのでは。
しかし重ねを厚くし長い刀身になれば
刀自体の重量が増してしまう。
九州地方の合戦ではそのような刀こそ
喜ばれたとか。
彼等と敵対した幕府お抱えの新撰組
その母体となった剣術、天然理心流も
幕末期の竹刀を使った試合では
あまり強くなかったが、実際の斬り合い
では物凄い強みを発揮したとよく
聞きます。その稽古内容も竹刀による
打合いもするが寧ろ、木刀を使った組太刀
が主流と読んだ記憶があります。
木刀も普通の木刀ではなく、かなり
太い握りぶとの木刀だったように
思います。
やはり幕末に恐れられた剣術流派は
薩摩藩の野太刀自顕流と天然理心流なんでしょうか。
稽古を見ても一撃ではあるが一発ではない。いわば連撃だ。そして実践では「始め!」はない。不意打ちからの連撃で仕留める。近藤勇の言う初太刀をはずせ、もその意味だろう。要は不意打ちを警戒しろということだ。つまり江戸風の剣術文化はないということ。主要流派では剣術道場風な立ち合いに成りがちだったのではないか。
安易に初太刀をかわせば〜なんて恐らく無理でしょう。
銃で言えば間近で45口径ぶっ放されるのと同じですから、相手が外すか怖気付くかしてくれなきゃ避けられません。
技術とか熟練度の問題じゃないと思います。
初手をかわせ、とは隊士からすればそれ即ち逃げるか抜く前にやれってことじゃないですかね。
初太刀を外せは後世の創作やぞ。
単純だけどなようだけど
コレはコレで怖いでしょ
何の流派でも その時強いものが勝つ
示現流って稽古風景だけみるとクソ弱そうだよね
考えてご覧。バックギア無し❗️全力で振り下ろす刃。
@@ウズラ-f5b すぐ攻略されそう…
リアルでは、新撰組に、自顕流の初太刀は外せ❗️と言われた剣
殺されてから攻略は出来ない。
西南の役では、受けた自分の刀の峰で頭蓋骨を陥没させた幕府軍兵士の骨がたまに出土します。
@@見て見てぼくのいれじゅみい その前に死んでます
何処の剣術も型稽古はしっとりした感じでは? 最近流行りの所が踊りのようにして集客方向のような? 戸山流立合とかも派手さ無いです
焼酎会社の宣伝?
最初の一撃をかわせば、慈眼流は二の太刀までは技が余り無いのが特徴ですね〜😭
冷静に奇声と威圧的な慈眼流に対処すれば勝算ありですよ!流派沢山有りますからね〜居合抜刀で半次郎が切れたのは、たまたま相手が剣術が修練した侍で無かったと言う事です。
相手が剣術修練した侍で有れば、一刀両断には出来ません。
こう言う私は薩摩藩の家臣の末裔で慈眼流を含めて古武道も嗜んでいる鹿児島の田舎の70歳前の爺いです。
慈眼流も、二の太刀をもっと研究しないと、相手が剣術の使い手だったら一の太刀を避けられて、簡単には切られませんよ。当時は、慈眼流は門外不出で外には余り知られてませんでしたから、相手が奇声と猪突猛進にびびってやられた可能性大ですけどね〜😭
銃社会のアメリカでも、いざ強盗との銃撃戦となったら2、3秒で決着すると言います。
銃であれ剣であれ、いかに早く仕留められるかにかかっており、二手三手先なんて無いのが実戦であり現実なのではないのでしょうか。
先手必勝は常識ですから、だからこそこの二の太刀要らずの薩摩の剣は一見理屈が無いようで、実は最高に戦いの理にかなった剣術だったと言えると思います。
なんでそう、やってもいないことを自信満々に語れますかね。私も鹿児島の郷士の末裔ですが、ちょっとどうかと思いますよ。
練習を見てると連続で斬り込んで来るんだよね。2度目3度目・・・。全部さばけるかなぁ。
尊皇も攘夷も剣術そのものとは何の関係もありませんよね。
それより東郷重位の示現流との違いはなんなのかを教えて欲しいです。
なんか修行の仕方に共通点があって全く無関係とは思えません。
示現流については、津本陽の『薩南示現流』という歴史小説を読むといいかと思います。野太刀自顕流とのちがいは、まず発祥が赤の他人くらいちがいます。野太刀自顕流は大隅を治めた肝付氏の先祖である伴氏が作った「野太刀」が源流とされます。これは平安時代の話です。示現流の開祖である東郷重位は、戦国時代から江戸時代を生きた人です。幕末期になって、それまで抑圧されていた自顕流が正式に流派をたて、システムがシンプルで誰でも学べ、ゆとりのない者は一人でも稽古できることから、下級武士に一気に広まりました。なので、幕末期では城下の上士は示現流を、下級武士や郷士は自顕流をと、例外もあったかもしれませんが、一応は分かれたようです。長い年月の間に、狭い土地で伝わっていったものなので、お互いに関係性は生じたと考えるのが自然でしょう。どちらも「一の太刀を疑わず」は共通しているようですが、示現流の方はより複雑で、師につかないと学べないものであったようです。web上の説明も、この両者を混同しているものが多いですが、Wikipediaはきれいにまとめてあったと思います。
@@BVW996
丁寧な返信恐れ入ります。「薩南示現流」は読了しております。
ちなみに生麦事件でリチャードソンに最初の一太刀を浴びせたのは薬丸自顕流の奈良原喜左エ門と言われていますが薬丸自顕流と野太刀自顕流は同じものなのでしょうか?
@@MrJinsuke
幕末の時期においては同じものと考えていいと思います。その時代は、野太刀自顕流が正式の流派名で、通称が「薬丸どんの稽古」「薬丸自顕流」だったようです。長く無視されるというか、正式な流派名をたてることもできなかったのを、薬丸兼義がようやく藩の剣術家として認められ、「野太刀自顕流」と名乗ったのが元治元年(1864)です。薬丸兼義は、何百年もアンダーグラウンドだった野太刀の流派の中興の祖になったという認識でいいと思います。
@@BVW996
ありがとうございます。
ところでお名前からバッハのリュート曲を連想してしまうのですが偶然でしょうか?
@@MrJinsuke
そうですね。バッハのリュート組曲から『ブーレ』という曲が好きなので、そこからとりました。
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銃で向かえば役立たず!しょうもない!
銃ですか? そんな話し関係ないのでは
銃に機関銃 大砲で向えば役立たず
しょうもない?
銃で構えて撃とうとした奴より速く抜刀して、中村半次郎は斬り殺したんですよ。自分の西洋式兵法の師匠を。
しょうもないのはあなたの頭のようだね。
その論理では、ミサイル打てば終い無駄無駄❔
確実に当てるのにフロントサイトいちいち覗かなきゃならないやつらが、何も考えなくても相手が死ぬレベルまでやってる連中をよく嘲けってられるな、恥を知れ!