徳川頼宣の生涯 家康を人一倍尊敬するも幕府には警戒された武闘派の息子【どうする家康】

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  • เผยแพร่เมื่อ 27 ม.ค. 2025

ความคิดเห็น • 38

  • @rekishock
    @rekishock  ปีที่แล้ว +8

    6:33 日光の位置は群馬→栃木のミスです。
    初歩的なミスでご迷惑おかけし申し訳ありません。

  • @はら大助
    @はら大助 หลายเดือนก่อน

    来年の大河は田沼時代、頼宣の孫吉宗は紀伊から相続も、尾張から宗家相続を出さない為に御三卿を創設して江戸後期は紀伊の血筋でいきました。

  • @MUSASI40
    @MUSASI40 ปีที่แล้ว +13

    何気に家康の気質を一番受け継いでいたのはこの人かな

  • @jodien9913
    @jodien9913 8 วันที่ผ่านมา

    忠長が駿府に55万石を与えられ義直、頼宜に官位でも追いついた時点で「御四家」というべき状態にあったわけではなく、事実上は水戸を除く尾張・紀伊・駿府で「御三家」という形だったのかと思います。その後忠長が改易⇒切腹という運びになったことで水戸を加えた「御三家」になっていったと考えるのが妥当かと。

  • @cancan5892
    @cancan5892 ปีที่แล้ว +15

    生前はあまり重用されなかったようでも、彼の死後吉宗を含めて徳川幕府は、紀州家頼宣の血筋で続いて行くことになったわけで、最後は勝利者ですね!

    • @提督オルタ
      @提督オルタ ปีที่แล้ว +3

      そして家光時代・吉宗時代・家斉時代に渡ってワリを食ってきた尾張家が徳川宗家の息の根を止めるという皮肉な歴史の因果…。

  • @エーラン
    @エーラン ปีที่แล้ว +8

    分かりやすく面倒くさい義直の説得を任されていたりと、義直存命時は『まだ話の分かる身内』扱いなのが笑える

  • @rekishock
    @rekishock  ปีที่แล้ว +24

    御三家は一人ひとりキャラ濃くて面白いですね。
    頼宣は生まれるのが早かったら忠輝と同じ目に遭っていたかもしれません。

  • @提督オルタ
    @提督オルタ ปีที่แล้ว +3

    良く言えば律儀物だが悪く言えば保守的で頑迷な歳の近い叔父の頼宣の存在は“生まれながらの将軍“を自負する家光にとってはさぞかしやり難い存在だったろうな。

  • @中井幸征
    @中井幸征 ปีที่แล้ว +3

    徳川頼亘は、上杉謙信公の戦術を勉強しました。🎵
    吉宗のじいちゃんです🎵
    水戸黄門(徳川光國)のおじちゃんです🎵

  • @badboytv2006
    @badboytv2006 7 หลายเดือนก่อน +1

    この伊予西条藩は最終的には幕末まで存在したんだが、その江戸上屋敷が渋谷にあった
    敷地面積は3万数千坪とかなりの広さだった
    そして明治に入りこの敷地を受け継いだのはあの青山学院、青山学院はその後第二次大戦後まもなくに隣接していた
    東京農大の敷地を譲り受けて都心部で稀有の12万平米という広大なキャンパスとなった

  • @根井仁道
    @根井仁道 ปีที่แล้ว +6

    家康の子供で信康・秀康・忠輝・頼宣の4人は覇気が強いって共通点がある。

    • @rekishock
      @rekishock  ปีที่แล้ว +7

      実は頼宣の影に隠れて義直もこのグループに片足突っ込んでたりします

    • @おやゆび-r1i
      @おやゆび-r1i ปีที่แล้ว +5

      覇気が強いのが松平家の血なのかもね

    • @ひろたかし-w8m
      @ひろたかし-w8m ปีที่แล้ว +4

      @@おやゆび-r1i 清康譲りなんでしょうね。

  • @直己-g5v
    @直己-g5v ปีที่แล้ว +11

    今の徳川家は8代将軍吉宗そしてその祖父である頼宣の血を引いていると言う事になる。

    • @ひろたかし-w8m
      @ひろたかし-w8m ปีที่แล้ว +3

      会津松平(養子が入って血統は水戸)の血ではないんですね?

    • @unoukaihatsu
      @unoukaihatsu ปีที่แล้ว +1

      先代が会津松平家からの養子で、水戸頼房の男系子孫らしい。

  • @用宗東田子の浦-w8p
    @用宗東田子の浦-w8p ปีที่แล้ว +7

    あの三人の中では頼宣よりむしろ忸怩たる思いをしていたのではないかと感じた頼房がどーにも気になってしまう

    • @ひろたかし-w8m
      @ひろたかし-w8m ปีที่แล้ว +3

      生母が一緒だった為に、紀州の分家扱いだった時期もありますからね。

    • @もふもふ-x4p
      @もふもふ-x4p ปีที่แล้ว

      それでも頼房及び以降の水戸家には将軍選定の大役が任されていましたからね

  • @vianeplus
    @vianeplus ปีที่แล้ว +7

    兄の義直も秀忠・家光が病の際、勇み足みたいに江戸に向かっていたなぁ。

  • @ちーきチャンネル
    @ちーきチャンネル ปีที่แล้ว +3

    徳川頼宣は徳川家への忠誠心や主張が強く、軸をしっかり持っていると感じました。
    頼宣の兄である松平忠輝以上に家康から優遇されたのは、相次ぐ兄(武田信吉・松平忠吉・結城秀康)の◯により2代将軍で兄でもある徳川秀忠を支える体制を早期に構築する必要があり、
    秀忠と年齢が離れていた(=対抗勢力になりづらい)のが大きいかなと推察します。
    仮に徳川頼宣が大河ドラマの主人公になる場合、展開はこうなると予想します。
    第1章 徳川家康現役時代
    第2章 八十姫が正室〜徳川秀忠の退場
    第3章 徳川家光の新政〜徳川家光の退場
    第4章 徳川家綱の将軍就任〜徳川家宣の退場

  • @正木茂雄
    @正木茂雄 8 หลายเดือนก่อน

    頼宣の子孫が八代を継いで、弟頼房の子孫が十五代と、後の徳川総家を継いだ。

  • @motoyasushimizu7107
    @motoyasushimizu7107 ปีที่แล้ว +3

    山田風太郎の世界観「南海の龍」のイメージ。

  • @松本悠佐
    @松本悠佐 ปีที่แล้ว

    意外に紀州 尾張などより家格は下だったことに驚きです。でも年を経て周りの縁戚が亡くなっていく中、5代将軍綱吉の代迄、存命し幕府や幕閣に意見していたことを思うと天下の副将軍は過言ではありませんね。

  • @Jdihdhipek
    @Jdihdhipek ปีที่แล้ว

    徳川幕府草創期の御三家配置の事情については、日本史の授業でも資料集でも軽くスルーされがちなので、詳しく取り上げて頂き感謝です。
    子孫が少なければ源氏のように速攻で御家断絶になるし、かといって子供や親戚が多すぎると泥沼の家督争いの御家騒動になる。それを考えると、家康が歴史に学び考え尽くした結果遺した幕府組織体制の緻密さと堅牢さには舌を巻きます。
    あともし頼宣が現代にいたら、やっぱり台湾支援介入を声高に主張するタカ派の政治家だったろうし、当時の幕府と同じく今の日本政府も頼宣への扱いに手を焼いたろうな、なんて妄想しちゃいました。

  • @多羅尾伴内-g1c
    @多羅尾伴内-g1c ปีที่แล้ว +1

    無頼派の頼宣っていうのも戦経験もなく世がほぼ平定された頃、身内にイキってるだけの坊ちゃん大名という感慨しかない。

  • @SamSam-gx5dj
    @SamSam-gx5dj ปีที่แล้ว +3

    おーい。日光が群馬にあるで~
    6:33

    • @rekishock
      @rekishock  ปีที่แล้ว +1

      すみませんズレました。
      ご指摘ありがとうございます。

  • @近藤侑生
    @近藤侑生 ปีที่แล้ว +7

    長男の信康とは43歳離れている‼️

    • @ひろたかし-w8m
      @ひろたかし-w8m ปีที่แล้ว +4

      信康と接した記憶がある兄弟は秀康くらいですもんね。

    • @近藤侑生
      @近藤侑生 ปีที่แล้ว +4

      @@ひろたかし-w8m さん次男の秀康でも信康とは15歳離れていますからね。

  • @muto-kihey
    @muto-kihey ปีที่แล้ว +2

    義直と頼房もお願いします🫶

    • @rekishock
      @rekishock  ปีที่แล้ว +4

      年内投稿予定です!

  • @長続連
    @長続連 ปีที่แล้ว

    ライセン