ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
外交に長けた細川家(及び鍋島家)との対立が響いた気もします。後藤又兵衛の引抜はまるで石川数正の出奔(軍事機密)に類似してますし、勃興家の跡継は最上家と同様家臣の大禄と君主権力の確立に苦しむのもお約束かと。関ヶ原の鮮やかな手腕も最近の山中新説と併せ、博多を有する黒田家が警戒されるのは当然で、次代の黒田騒動を乗りきる布石も出来ていて寧ろ名君だと改めて思います。
長政は転封のおりの豊前の年貢先取りで細川氏の取り分を踏み倒したのですよね。毛利家は福島正則に律儀に弁済してます。幕末まで藩経済を圧迫しました。やっぱり長政はあまり好きではない武将ですね。算盤大名のようで好きになれません。
7:16 中津に赤壁のお寺の合元寺と言う寺があり、城井重房の従臣らはこの寺を拠点として黒田長政の手勢と奮戦し最後を遂げた。以来、合元寺は「門前の白壁は幾度塗り替えても血痕が絶えないので、ついに赤色に塗り替えられるようになった」という。また庫裏の大黒柱には当時の刀傷が残っており、生々しい激戦の様子を知ることができる。
18:40 なお、江戸時代の途中で他家から養子を入れているため、幕末〜明治の黒田家は官兵衛、長政の血筋では無くなっている。
黒田家は岡山池田家から長政の女系子孫を養子に入れようとして幕府に邪魔されました。黒田家の養子になりそこねた池田家次男の曾孫が最後の藩主池田章政で、章政の玄孫が細川護熙元首相です。
黒田家の直系が途絶えたのはあの事件の呪いと言われてますね。
関ヶ原の戦いでの長政の活躍が際立ちすぎなのもありますが、関ヶ原後の長政はなんともちぐはぐでよく黒田は生き残ったなと思いました。
ほんとそれな、良く生き残ったと思う
長政の欠点は家来と揉め事を起こす短気な点ですね。有名なのが動画にある後藤基次の追放ですが、他にも水野勝成に操船の手伝いを命じて出奔されたり、母里友信をつまらない事で切り捨てようとしたりしていますから。
父には負けると思いますがダメな2代目が多い戦国武将ですが、長政は優秀なほうだった思います。ただ若干家康に媚びを売っている感は強いですね。彼がいなければ家康が関ヶ原の戦いの勝利も難しかったのでは?
黒田長政自身はそこまで豊臣秀吉の恩顧ってわけじゃないもんな。オヤジさんは秀吉側近だけど。物心ついたら秀吉配下のオヤジがいてそのままオヤジから受け継いだから秀吉恩顧になったし。
多分後世より生きてた時代に高く評価されてた人なんだろな、現在は能力より低く評価されてるように思う。
竹中半兵衛が松寿丸後の長政を匿い、命を救ったことは泣ける話でいろんな大河ドラマでも各々出てくるが、あまり知られていないその後の関ヶ原の戦いで最初は西軍にいた半兵衛の息子を、長政が説得して東軍に引き入れ結果的に命を助けたという話も泣ける
智略を活かして活躍するも主君から疎まれて身を退くのは黒田家の三代続く伝統芸
関ケ原以降の謀反を起こしそうな官兵衛の動向や細川忠興との関係など、どうなっているのかと思いや、やはり問題を抱えていたのですね。大河ドラマではめでたし、めでたしとされていて疑問に思っていたところです。
黒田長政が描かせたとされ、『戦国のゲルニカ』とも言われる『大坂夏の陣図屏風』が現代に残っているのを見ると、長政が大坂城と豊臣家の滅亡に複雑な胸中を抱いていたんだなぁと推察できます😢
「乱妨取り」か。徳川幕府に逆らわなければこのようなことにはならなかったのにな・・・。各藩が、戦後の論功行賞や利益を得るために主導した。江戸時代に残る大阪の民衆は豊臣秀吉の民衆ではなく。ほとんどは徳川恩顧の民衆になってしまった。
秀次事件で明石則実(黒田官兵衛の従弟 母方実家の明石家の者)が処刑されてるのよね この辺も豊臣に愛想をつかした部分もあるんだろうか…石田に激怒したのは長政に子供いなかったから秀頼成人までご丁寧に待ってたら無嗣断絶する恐れもあったからだろうね(忠之誕生は02年、官兵衛の弟も利則以外二条城会見前に死去)
明石との繋がりは強かったみたいですね。関ケ原のあと明石全登を匿ってますし
謀殺に離縁、なかなかヘビーな人生かと思いきや関ヶ原では貴重な一手をうち、多大な功績も上げている。後の苦労はもう不運と言ってもいいのでは?と言いたくなるほどだなあ
長政は 賢かった
又兵衛 に対する奉公構も大坂の陣がなければ そこまで 問題視されなかったと思うけど 豊臣家に味方したいから 又兵衛の仕官を妨害し続けたんだろ って言われただろうね
明石まで匿ってたのばれたしまあ、疑われたんでしょうね笑
織田信長は主君を裏切った家来は信用しなかった。長政は毛利 吉川 小早川を調略したが、基本的に徳川家からは当然警戒された。
「腹立てずの会」ww
笑いそうになるがなかなか出来ることではない。内面のコントロールに長けてたんだろう
社長がよくやる忌憚のない意見を言ってほしいってアレ実際に言ったらヤバいことになるやつ
腹立てずの会にて家臣に『殿の歌が下手すぎて皆対応に困ってます』って言われて青ざめたエピソード好きです。
長政が晒し者にされた三成に陣羽織を羽織らせたエピソード好き
@@asakiyumemisi あくまで三成の武将としてのプライドを守ってあげたんだと思います。
三成は三途の川を渡る迄関ヶ原で調略して裏切った諸将の連絡役黒田として暗躍していたのを知らなかったんだよな吉川も小早川も毛利も丸め込んだと言う腹黒さが良いよね裏切り者筆頭
@@jardins-du-cosmosまあ石田三成が豊臣のために戦ってたのが分かったのは後世の研究だし当時はむしろ三成こそ裏切り者って思われてたから何ともいえぬ…
黒田一成の三奈木黒田家が官兵衛の血統を繋いでるのがアレだね。
蜂須賀家との因縁。徳川の時代でもあるし修復より険悪を選んだんだろうね。
このチャンネル。独特の視点がいいね。
定家直筆の色紙欲しさを治安の名のもとに城井(宇都宮)鎮房を成敗してしまうから血筋が絶えちゃった。
家康に付いたものの関ケ原迄という感じがします。後藤又兵衛の他家への仕官を妨害したのは豊臣家入りをさせるため…これは買いかぶりでしょうか…?
黒田家の血筋は黒田に残ってないんだよね。京極、一橋、島津、藤堂と他家から養子を迎え、確か、秋月家にその血統が残っているだけだったかと。。
はい、分家は血が繋がっております
何で真田信之みたいに正室を側室にして新たに迎え入れるみたいなことしなかったんだろう…?その方がメリット多いと思うんだけど…
真田信之の場合は清音院は真田信綱息女で直系出身。本来傍系である昌幸系統が家督継承の正統性を家中に誇示するには必要不可欠で手放せない。一方黒田家は夫婦仲が次第に悪化した上に、冷遇された豊臣門閥から脱した事を内外にアピールする必要があった。
そうだったんですね…ありがとうございます。
この兜のセンス。どうにも受け入れられん貰い物でも被らんで済ませたいわ
自分の命の恩人の竹中半兵衛がかぶっていた兜ですから、本人としては感慨深かったと思いますよ
本当にお疲れ様人生だったんだな。
黒田、伊達、最上、福島、加藤、浅野、そして小早川結局用済みになれば捨てられたってわけだな
ck3って中世シュミレーションゲームがあるんですけど、主君からみるとデカイ家臣マジで邪魔ですしね…
加藤清正福島正則黒田長政池田輝政浅野幸長細川忠興加藤嘉明藤堂高虎京極高次京極高知田中吉政山内一豊
黒田家は秀吉を見限ったのかな
長政は豊臣家を見限り、官兵衛は警戒していた秀吉と距離を置いたわけで秀吉を見限ったわけではないのでは?
3:05 信長が長政の云々って創作じゃないの?レキショックは新しい史実を大切にするのかと思ってた。
黒田長政も、頑張っていたんですね!
黒田官兵衛の影響の大きさが黒田長政の苦しい後半生に繫がったのは皮肉ですね……最終的に黒田家として生き残る道筋をつけたのは関ヶ原の戦いで大活躍した長政らしいと思います。黒田長政を仮に大河ドラマで取り上げる場合は、4章に分ける場合、大河ドラマ軍師官兵衛との差別化を意識するとこうなると予想します。1章信長時代〜中津移封2章中津移封〜秀吉退場3章五大老五奉行政治〜黒田官兵衛退場4章又兵衛出奔前夜〜黒田長政の生涯終盤
後藤又兵衛の出奔とその後の大坂の陣への参加が、長政にとってはイタかったでしょうね。文字通り痛くもない腹を探られる(W)ようで、豊臣側との密かな内通を徳川に疑われても仕方ない状況です。起請文を4度書いても誤解が溶けず、3人の男子と妻を人質に出したとは、大大名黒田家とは思えない体たらくですね。長政は、秀吉とも父のような信頼関係を築けていないのは、やはり格の違いでしょうか?!
豊臣政権への裏切り 黒田長政は何のために竹中半兵衛が助けた命だったのか 秀吉が、あの世で観ていたら嘆くだろよ
まあ当時は三成の方が裏切り者扱いだったから仕方ない。三成再評価は後世の話だからね。
その竹中重治の嫡男である竹中重門が、関ヶ原の戦いで東軍に寝返ってるのですが。豊臣公儀(奉行衆)が「秀頼さえ手元に置いておけば、秀吉から直接後を頼まれた徳川家康ですらも簡単に罷免できる」という事例を作ってしまった以上、奉行衆と敵対していた東軍諸将は明日は我が身と考えるのは当然のことで、「改易するかもしれないが、秀吉の御恩を貰ってるのだから処遇に納得しろ」と押しつけたところで、納得出来る大名がいるとは思えません。家を残すために、当時の価値観として当然の行動を取っただけでしょう。
死んだ人の事より、石田三成が大嫌いだったからこうなった。
一応、豊臣恩顧の大名が改易とか減封されたのは、徳川幕府の意向とか陰謀とかではなく。単に失政、失策したからだよ。黒田家は当然だけどそういうのが少なかっただけよ。
豊臣恩顧の大名で改易されたのは代表的には福島正則と加藤清正の子忠広。加藤嘉明の家も子の明成が会津騒動を起こして改易になっている。
@@直己-g5v 知ってますよ。黒田家が残ったのは、ほかの豊臣恩顧の大名のような失策や、失政がなかったから。
外交に長けた細川家(及び鍋島家)との対立が響いた気もします。後藤又兵衛の引抜はまるで石川数正の出奔(軍事機密)に類似してますし、勃興家の跡継は最上家と同様家臣の大禄と君主権力の確立に苦しむのもお約束かと。関ヶ原の鮮やかな手腕も最近の山中新説と併せ、博多を有する黒田家が警戒されるのは当然で、次代の黒田騒動を乗りきる布石も出来ていて寧ろ名君だと改めて思います。
長政は転封のおりの豊前の年貢先取りで細川氏の取り分を踏み倒したのですよね。毛利家は福島正則に律儀に弁済してます。幕末まで藩経済を圧迫しました。やっぱり長政はあまり好きではない武将ですね。算盤大名のようで好きになれません。
7:16 中津に赤壁のお寺の合元寺と言う寺があり、城井重房の従臣らはこの寺を拠点として黒田長政の手勢と奮戦し最後を遂げた。以来、合元寺は「門前の白壁は幾度塗り替えても血痕が絶えないので、ついに赤色に塗り替えられるようになった」という。また庫裏の大黒柱には当時の刀傷が残っており、生々しい激戦の様子を知ることができる。
18:40 なお、江戸時代の途中で他家から養子を入れているため、幕末〜明治の黒田家は官兵衛、長政の血筋では無くなっている。
黒田家は岡山池田家から長政の女系子孫を養子に入れようとして幕府に邪魔されました。黒田家の養子になりそこねた池田家次男の曾孫が最後の藩主池田章政で、章政の玄孫が細川護熙元首相です。
黒田家の直系が途絶えたのは
あの事件の呪いと言われてますね。
関ヶ原の戦いでの長政の活躍が際立ちすぎなのもありますが、関ヶ原後の長政はなんともちぐはぐでよく黒田は生き残ったなと思いました。
ほんとそれな、良く生き残ったと思う
長政の欠点は家来と揉め事を起こす短気な点ですね。有名なのが動画にある後藤基次の追放ですが、他にも水野勝成に操船の手伝いを命じて出奔されたり、母里友信をつまらない事で切り捨てようとしたりしていますから。
父には負けると思いますがダメな2代目が多い戦国武将ですが、長政は優秀なほうだった思います。
ただ若干家康に媚びを売っている感は強いですね。彼がいなければ家康が関ヶ原の戦いの勝利も難しかったのでは?
黒田長政自身はそこまで豊臣秀吉の恩顧ってわけじゃないもんな。
オヤジさんは秀吉側近だけど。
物心ついたら秀吉配下のオヤジがいてそのままオヤジから受け継いだから秀吉恩顧になったし。
多分後世より生きてた時代に高く評価されてた人なんだろな、現在は能力より低く評価されてるように思う。
竹中半兵衛が松寿丸
後の長政を匿い、命を救ったことは泣ける話でいろんな大河ドラマでも各々出てくるが、あまり知られていないその後の関ヶ原の戦いで最初は西軍にいた半兵衛の息子を、長政が説得して東軍に引き入れ結果的に命を助けたという話も泣ける
智略を活かして活躍するも主君から疎まれて身を退くのは
黒田家の三代続く伝統芸
関ケ原以降の謀反を起こしそうな官兵衛の動向や細川忠興との関係など、どうなっているのかと思いや、やはり問題を抱えていたのですね。
大河ドラマではめでたし、めでたしとされていて疑問に思っていたところです。
黒田長政が描かせたとされ、『戦国のゲルニカ』とも言われる『大坂夏の陣図屏風』が現代に残っているのを見ると、長政が大坂城と豊臣家の滅亡に複雑な胸中を抱いていたんだなぁと推察できます😢
「乱妨取り」か。徳川幕府に逆らわなければこのようなことにはならなかったのにな・・・。
各藩が、戦後の論功行賞や利益を得るために主導した。
江戸時代に残る大阪の民衆は豊臣秀吉の民衆ではなく。ほとんどは徳川恩顧の民衆になってしまった。
秀次事件で明石則実(黒田官兵衛の従弟 母方実家の明石家の者)が処刑されてるのよね この辺も豊臣に愛想をつかした部分もあるんだろうか…
石田に激怒したのは長政に子供いなかったから秀頼成人までご丁寧に待ってたら無嗣断絶する恐れもあったからだろうね(忠之誕生は02年、官兵衛の弟も利則以外二条城会見前に死去)
明石との繋がりは強かったみたいですね。関ケ原のあと明石全登を匿ってますし
謀殺に離縁、なかなかヘビーな人生かと思いきや関ヶ原では貴重な一手をうち、多大な功績も上げている。
後の苦労はもう不運と言ってもいいのでは?と言いたくなるほどだなあ
長政は 賢かった
又兵衛 に対する奉公構も大坂の陣がなければ そこまで 問題視されなかったと思うけど 豊臣家に味方したいから 又兵衛の仕官を妨害し続けたんだろ って言われただろうね
明石まで匿ってたのばれたしまあ、疑われたんでしょうね笑
織田信長は主君を裏切った家来は信用しなかった。長政は毛利 吉川 小早川を調略したが、基本的に徳川家からは当然警戒された。
「腹立てずの会」ww
笑いそうになるがなかなか出来ることではない。
内面のコントロールに長けてたんだろう
社長がよくやる忌憚のない意見を言ってほしいってアレ
実際に言ったらヤバいことになるやつ
腹立てずの会にて家臣に『殿の歌が下手すぎて皆対応に困ってます』って言われて青ざめたエピソード好きです。
長政が晒し者にされた三成に陣羽織を羽織らせたエピソード好き
@@asakiyumemisi あくまで三成の武将としてのプライドを守ってあげたんだと思います。
三成は三途の川を渡る迄関ヶ原で調略して裏切った諸将の連絡役黒田として暗躍していたのを知らなかったんだよな
吉川も小早川も毛利も丸め込んだ
と言う腹黒さが良いよね
裏切り者筆頭
@@jardins-du-cosmos
まあ石田三成が豊臣のために戦ってたのが分かったのは後世の研究だし当時はむしろ三成こそ裏切り者って思われてたから何ともいえぬ…
黒田一成の三奈木黒田家が官兵衛の血統を繋いでるのがアレだね。
蜂須賀家との因縁。徳川の時代でもあるし修復より険悪を選んだんだろうね。
このチャンネル。独特の視点がいいね。
定家直筆の色紙欲しさを治安の名のもとに城井(宇都宮)鎮房を成敗してしまうから血筋が絶えちゃった。
家康に付いたものの関ケ原迄という感じがします。後藤又兵衛の他家への仕官を妨害したのは豊臣家入りをさせるため…これは買いかぶりでしょうか…?
黒田家の血筋は黒田に残ってないんだよね。京極、一橋、島津、藤堂と他家から養子を迎え、確か、秋月家にその血統が残っているだけだったかと。。
はい、分家は血が繋がっております
何で真田信之みたいに正室を側室にして新たに迎え入れるみたいなことしなかったんだろう…?その方がメリット多いと思うんだけど…
真田信之の場合は清音院は真田信綱息女で直系出身。
本来傍系である昌幸系統が家督継承の正統性を家中に誇示するには必要不可欠で手放せない。
一方黒田家は夫婦仲が次第に悪化した上に、冷遇された豊臣門閥から脱した事を内外にアピールする必要があった。
そうだったんですね…ありがとうございます。
この兜のセンス。どうにも受け入れられん
貰い物でも被らんで済ませたいわ
自分の命の恩人の竹中半兵衛がかぶっていた兜ですから、本人としては感慨深かったと思いますよ
本当にお疲れ様人生だったんだな。
黒田、伊達、最上、福島、加藤、浅野、そして小早川
結局用済みになれば捨てられたってわけだな
ck3って中世シュミレーションゲームがあるんですけど、主君からみるとデカイ家臣マジで邪魔ですしね…
加藤清正
福島正則
黒田長政
池田輝政
浅野幸長
細川忠興
加藤嘉明
藤堂高虎
京極高次
京極高知
田中吉政
山内一豊
黒田家は秀吉を見限ったのかな
長政は豊臣家を見限り、官兵衛は警戒していた秀吉と距離を置いたわけで秀吉を見限ったわけではないのでは?
3:05 信長が長政の云々って創作じゃないの?レキショックは新しい史実を大切にするのかと思ってた。
黒田長政も、頑張っていたんですね!
黒田官兵衛の影響の大きさが黒田長政の苦しい後半生に繫がったのは皮肉ですね……最終的に黒田家として生き残る道筋をつけたのは関ヶ原の戦いで大活躍した長政らしいと思います。
黒田長政を仮に大河ドラマで取り上げる場合は、4章に分ける場合、大河ドラマ軍師官兵衛との差別化を意識するとこうなると予想します。
1章信長時代〜中津移封
2章中津移封〜秀吉退場
3章五大老五奉行政治〜黒田官兵衛退場
4章又兵衛出奔前夜〜黒田長政の生涯終盤
後藤又兵衛の出奔とその後の大坂の陣への参加が、長政にとってはイタかったでしょうね。文字通り痛くもない腹を探られる(W)ようで、豊臣側との密かな内通を徳川に疑われても仕方ない状況です。起請文を4度書いても誤解が溶けず、3人の男子と妻を人質に出したとは、大大名黒田家とは思えない体たらくですね。長政は、秀吉とも父のような信頼関係を築けていないのは、やはり格の違いでしょうか?!
豊臣政権への裏切り 黒田長政は何のために竹中半兵衛が助けた命だったのか 秀吉が、あの世で観ていたら嘆くだろよ
まあ当時は三成の方が裏切り者扱いだったから仕方ない。
三成再評価は後世の話だからね。
その竹中重治の嫡男である竹中重門が、関ヶ原の戦いで東軍に寝返ってるのですが。
豊臣公儀(奉行衆)が「秀頼さえ手元に置いておけば、秀吉から直接後を頼まれた徳川家康ですらも簡単に罷免できる」という事例を作ってしまった以上、奉行衆と敵対していた東軍諸将は明日は我が身と考えるのは当然のことで、「改易するかもしれないが、秀吉の御恩を貰ってるのだから処遇に納得しろ」と押しつけたところで、納得出来る大名がいるとは思えません。
家を残すために、当時の価値観として当然の行動を取っただけでしょう。
死んだ人の事より、
石田三成が大嫌いだったからこうなった。
一応、豊臣恩顧の大名が改易とか減封されたのは、徳川幕府の意向とか陰謀とかではなく。
単に失政、失策したからだよ。
黒田家は当然だけどそういうのが少なかっただけよ。
豊臣恩顧の大名で改易されたのは代表的には福島正則と加藤清正の子忠広。加藤嘉明の家も子の明成が会津騒動を起こして改易になっている。
@@直己-g5v 知ってますよ。
黒田家が残ったのは、ほかの豊臣恩顧の大名のような失策や、失政がなかったから。