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南部側の人間ですが、この動画の内容はちょっと南部側に寄り過ぎてる気がしますね😅当時の南部家は宗家(いちおう三戸南部家。八戸が宗家という説もあります)が跡継ぎ問題等でごたごたしていたこともあって統率力がなく、分家同士や宗家と分家間の内紛が絶えなかったようです。おそらく為信は、そのごたごたに付け込んだということもあるでしょうが、それ以上に自分たちの家や領地を守るため頼りにならない南部家を見限っただけでしょう。結局、南部家は最後まで自分たちだけでは内紛を解決することができず、秀吉に頼んで反抗的な分家をみんな成敗してもらったわけですが、先手を打って秀吉に取り入っていた為信だけは手出しできなかったので禍根が残り、南部側でいろんな話に尾ひれがついて極悪人扱いされているのではないかと思います。たとえば藤代御前の話も、為信の強引な求愛を断るために自害した…というところまでは事実だとしても、体を切り刻んで食べたとか、彼女の怨霊が祟りを起こした等というのはいかにも作り話っぽいですし、藤代御前の墓の上に菩提寺を建てたのも、じつは為信は本当に藤代御前を愛していて、自分が強引に求愛したせいで彼女が自害してしまったことを後悔しており、御霊を弔うためにしたことだと考えることもできる、というかそのほうが自然な気がします🤔
自分も南部側ですが、為信公を抜きにしても南部側でゴタゴタが多過ぎます自分の先祖の動きを見ても苦悩を感じます
現在も、青森県を真っ二つにする大問題😅
そうなんですねー!ありがとうございます😊
いま旅先の弘前で見させていただきましたが、複雑な気持ちになりました😅
この両地域の人って今でも密かなライバル心を持ってますよね?
現代でも南部と津軽の確執はあります……😮💨。(間に入り仲裁すんの骨折れたわ……😮💨)
今も、確執があるんですねー!知りませんでした😊
それな((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
わかるぅ
こういう時代になったからでしょう。現在の南部氏と津軽氏の当主は極めて良好な関係だそうです(46代当主南部利文氏談)。
😊良い発言ありがとうございます
青森県の県庁所在地が津軽藩だった青森市に決まった際、南部藩だった八戸市はそれに反発。八戸市は八戸市役所を名乗らず八戸市庁と名乗り県庁所在地ではないにも関わらず青森県庁と対等(本音ではそれより上)であると言わんばかりに八戸市庁を名乗りました。現在も八戸市は八戸市庁と名乗っています。文化も青森県は東西で言葉まで異なり、西の津軽と東の南部とは県民性もかなり異なります。本来ならば青森県の東半分は南部藩である岩手県に編入されるべきだったというのが現在も根強い話になっています。津軽藩は成り上がり者らしく比較的陽気で社交的な人が多く(とは言っても言葉を理解出来るのは周囲の人ばかりだが・・・。)南部藩は家臣に裏切られて苦渋の想いを抱いて過ごしたからか寡黙だけども誇り高い人が多いです。
常陸宮華子さまは旧津軽藩主の津軽伯爵家のご出身ですね。
そのとおりです
南部家がこんなにグダグタだったのは晴政→信直への後継ぎ問題があったのが一番の原因で、そこへ津軽や九戸がここぞとばかりに大きく出たとか…因みに信長の野望のゲーム内では津軽為信を部下にすると、主君が南部だろうがほぼ天下人状態の豊臣や徳川だろうがすぐ裏切ったり独立したがるので警戒して使っていました。能力が高いだけに裏切られるのが凄く勿体なかったのを思い出します。ある意味今回の解説で納得しました。
江戸幕府ですら参勤交代に配慮したのに小南部(八戸藩)含む南部藩の北側と津軽藩を合併させて新たな県を作った明治政府には底意地の悪さを感じる
底意地の悪さ?懲罰の意味もあったのではないでしょうか會津ゆかりの者ですが....
@@hshtsh1213 八戸を盛岡と一緒にしたら経済的に成り立たないから豊かな津軽と一緒にしたと習いました。
鍛冶町と書いて津軽はかじまち南部はかじちょう下組町と書いて南部はしもくみちょう下土手町と書いて津軽はしたどてまち
津軽平野は昔から南部藩の年貢の隠し領地。中央には内緒で年貢米を隠していたとも聞きます。その後ろめたさを利用して津軽藩が独立。南部側も表立って大合戦できなかったとも聞きます。南部藩の領地はお米の生産性があまり良くないので、かなり悔しかったと思います。噂ですけどね。
まぁ生き残るためには卑劣や卑怯と言われても生き残ることこそ重要なのです!
初めて知りました。同じ東北諸藩で関ヶ原 幕末を過ごしているのに…もったいない…。今でも仲悪いのかな…。
悪いよ
刺し子は津軽のこぎん刺しは奇数で目を拾うから縦長の菱形南部菱刺は偶数で目を拾うから横長の菱形津軽で横長の刺し子を着ていたらな、南部でねが❔南部で縦長の刺し子を着ていたらおめ、津軽衆だべ知ってたァ❔
次第点にもなりません。石川高信は信直の父です。それを出さないのは変、そして政信は高信の息子であり、信直の弟です。浪岡城は北畠氏の城で政信が城主だったことは有りません。また、父を殺された政信がわざわざ為信の妹を妻として娶る事はあり得ない。ちゃんと関係勉強して
うーむ。さおりさんの声だと最後まであっという間(ヽ´ω`)のめり込む
なんで津軽だけが悪い?時期も相まってそれに才覚もあったからこそ、津軽は独立できたと思う。
😮こんにちは
津軽の人間です。言い方があんまりでは?下克上の時代ですしそれが当たり前の時代、その辺の言い方は考慮して欲しいかなと思います。
同じく津軽の人間です、私もそう思いました。次からまた同じような動画を出す際は気をつけてほしいです。
こいつらの仲の悪さは異常((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
南部側の人間ですが、この動画の内容はちょっと南部側に寄り過ぎてる気がしますね😅
当時の南部家は宗家(いちおう三戸南部家。八戸が宗家という説もあります)が跡継ぎ問題等でごたごたしていたこともあって統率力がなく、分家同士や宗家と分家間の内紛が絶えなかったようです。おそらく為信は、そのごたごたに付け込んだということもあるでしょうが、それ以上に自分たちの家や領地を守るため頼りにならない南部家を見限っただけでしょう。
結局、南部家は最後まで自分たちだけでは内紛を解決することができず、秀吉に頼んで反抗的な分家をみんな成敗してもらったわけですが、先手を打って秀吉に取り入っていた為信だけは手出しできなかったので禍根が残り、南部側でいろんな話に尾ひれがついて極悪人扱いされているのではないかと思います。
たとえば藤代御前の話も、為信の強引な求愛を断るために自害した…というところまでは事実だとしても、体を切り刻んで食べたとか、彼女の怨霊が祟りを起こした等というのはいかにも作り話っぽいですし、藤代御前の墓の上に菩提寺を建てたのも、じつは為信は本当に藤代御前を愛していて、自分が強引に求愛したせいで彼女が自害してしまったことを後悔しており、御霊を弔うためにしたことだと考えることもできる、というかそのほうが自然な気がします🤔
自分も南部側ですが、為信公を抜きにしても南部側でゴタゴタが多過ぎます
自分の先祖の動きを見ても苦悩を感じます
現在も、青森県を真っ二つにする大問題😅
そうなんですねー!ありがとうございます😊
いま旅先の弘前で見させていただきましたが、
複雑な気持ちになりました😅
この両地域の人って今でも密かなライバル心を持ってますよね?
現代でも南部と津軽の確執はあります……😮💨。
(間に入り仲裁すんの骨折れたわ……😮💨)
今も、確執があるんですねー!知りませんでした😊
それな((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
わかるぅ
こういう時代になったからでしょう。現在の南部氏と津軽氏の当主は極めて良好な関係だそうです(46代当主南部利文氏談)。
😊良い発言ありがとうございます
青森県の県庁所在地が津軽藩だった青森市に決まった際、南部藩だった八戸市はそれに反発。
八戸市は八戸市役所を名乗らず八戸市庁と名乗り県庁所在地ではないにも関わらず青森県庁と対等(本音ではそれより上)であると言わんばかりに八戸市庁を名乗りました。
現在も八戸市は八戸市庁と名乗っています。
文化も青森県は東西で言葉まで異なり、西の津軽と東の南部とは県民性もかなり異なります。
本来ならば青森県の東半分は南部藩である岩手県に編入されるべきだったというのが現在も根強い話になっています。
津軽藩は成り上がり者らしく比較的陽気で社交的な人が多く(とは言っても言葉を理解出来るのは周囲の人ばかりだが・・・。)南部藩は家臣に裏切られて苦渋の想いを抱いて過ごしたからか寡黙だけども誇り高い人が多いです。
常陸宮華子さまは
旧津軽藩主の津軽伯爵家のご出身ですね。
そのとおりです
南部家がこんなにグダグタだったのは晴政→信直への後継ぎ問題があったのが一番の原因で、
そこへ津軽や九戸がここぞとばかりに大きく出たとか…
因みに信長の野望のゲーム内では津軽為信を部下にすると、
主君が南部だろうがほぼ天下人状態の豊臣や徳川だろうがすぐ裏切ったり独立したがるので警戒して使っていました。
能力が高いだけに裏切られるのが凄く勿体なかったのを思い出します。
ある意味今回の解説で納得しました。
江戸幕府ですら参勤交代に配慮したのに小南部(八戸藩)含む南部藩の北側と津軽藩を合併させて新たな県を作った明治政府には底意地の悪さを感じる
底意地の悪さ?
懲罰の意味もあったのではないでしょうか
會津ゆかりの者ですが....
@@hshtsh1213
八戸を盛岡と一緒にしたら
経済的に成り立たないから
豊かな津軽と一緒にしたと
習いました。
鍛冶町と書いて
津軽はかじまち
南部はかじちょう
下組町と書いて南部は
しもくみちょう
下土手町と書いて
津軽は
したどてまち
津軽平野は昔から南部藩の年貢の隠し領地。中央には内緒で年貢米を隠していたとも
聞きます。その後ろめたさを利用して津軽藩が独立。南部側も表立って大合戦でき
なかったとも聞きます。南部藩の領地はお米の生産性があまり良くないので、かなり
悔しかったと思います。噂ですけどね。
まぁ生き残るためには卑劣や卑怯と言われても生き残ることこそ重要なのです!
初めて知りました。
同じ東北諸藩で関ヶ原 幕末を過ごしているのに…もったいない…。
今でも仲悪いのかな…。
悪いよ
刺し子は
津軽のこぎん刺しは
奇数で目を拾うから
縦長の菱形
南部菱刺は
偶数で目を拾うから
横長の菱形
津軽で横長の刺し子を着ていたら
な、南部でねが❔
南部で縦長の刺し子を着ていたら
おめ、津軽衆だべ
知ってたァ❔
次第点にもなりません。石川高信は信直の父です。それを出さないのは変、そして政信は高信の息子であり、信直の弟です。浪岡城は北畠氏の城で政信が城主だったことは有りません。また、父を殺された政信がわざわざ為信の妹を妻として娶る事はあり得ない。ちゃんと関係勉強して
うーむ。
さおりさんの声だと最後まであっという間(ヽ´ω`)のめり込む
なんで津軽だけが悪い?時期も相まってそれに才覚もあったからこそ、津軽は独立できたと思う。
😮こんにちは
津軽の人間です。言い方があんまりでは?下克上の時代ですしそれが当たり前の時代、その辺の言い方は考慮して欲しいかなと思います。
同じく津軽の人間です、私もそう思いました。次からまた同じような動画を出す際は気をつけてほしいです。
こいつらの仲の悪さは異常((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル