暉峻らの貧民窟調査
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- เผยแพร่เมื่อ 7 ก.พ. 2025
- 労働科学研究所の初代所長となる暉峻義等は、1889年兵庫県に生まれました、紆余曲折を経て、1917年東京帝国大学医学部を卒業し、当時、生理学教室の教授であった、永井潜の下で、生理学の研究を行うつもりでした、しかし、永井や高野岩三郎らが、委員をつとめる、内務省保健衛生調査会が、生理学の専門家を求めてきたため、暉峻はそこにいくことになります、暉峻が所属したのは、この委員会の第七部会で、おもに農村の保健衛生を担当していました、保健衛生調査会は国民の保健衛生の実態を調査し、国民の体位の低下を改善することが目的でした、第一部会は、乳幼児、学齢青年の死亡、第二部会は結核、第三部会は花柳病、第四部会は、らい、第五部会は、結核、第六部会は、衣食住、第七部会は、農村衛生、地方病、風土病、第八部会は、統計を、それぞれ受け持ちました