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地元が近くてよく古墳見学に行っていました今思うと贅沢な環境で学生時代過ごせていたんだなと思います。。懐かしいです
目茶苦茶羨ましいですが、住んでいるとそんなものですよね(笑)。
この近くに 高松塚古墳発掘に尽力した元関西大学網干善教の実家「唯称寺」があります、足を運んでみては如何ですか?greeting from toyama city by 68years old man
飛鳥村は大好きですので、飛鳥村の遺跡や古墳の話を聞かせていただけると本当に嬉しいです。有難うございました!
時代の表記などは「飛鳥」ですが村の表記は「明日香」です。昭和の中頃までは「飛鳥村」も存在してました。
@@やまとじ巡礼 そのことはもちろん存じておりますが、up主様が「飛鳥村」とされておりますし、私も歴史ロマン的には「飛鳥」と表記した方が好きなのでそうしました。ご指摘有難うございます。
@@berutonoue さんわざわざ返信いただきありがとうございます。誤解して申し訳ありませんでした。
@@やまとじ巡礼 気にしておりませんので大丈夫です!同じ歴史好きとして、「考古学チャンネル」を一緒に楽しんでまいりましょう!
こちらのほうまで、ありがとうございます。先日桜井市と橿原市の古墳を撮影してきました。明日香村の古墳は自由に入ることのできる古墳があまりなさそうでした。特に真弓鑵子塚古墳は一度見てみたかったので残念です。これから順次アップしていきますので、よろしくお願いします。
石舞台古墳懐かしい、今は中にも入れなくなっていると言うのを知って、一寸ざんねんで、一寸嬉しい‼️。遥か昔3度は、登ったり、巨大な石室に入った記憶があったからだ‼️。
あれっ、そうなんですか? ちょうど1年前に行った時は普通に見れましたよ。最近変わったんですかね?
わかりやすい映像ですね。石舞台は何回か見にいきましたが、規模に圧倒されます。
ありがとうございます。本当に大きい石室ですよね。石室はもちろん素晴らしかったですが、墳丘と周濠も素晴らしかったですよ!
小学生の時にみた本に出ていて、これが古墳かとびっくりした覚えがある。航空写真で見る大仙陵よりインパクトありました。この古墳をまねて庭の造成用の土で墳丘を盛り小石で石室を作ってました。もちろんすぐにおじいさんにこわされました・・・・。かなり危ない小学生でした
おじいさん、壊さなくてもいいじゃないんですかね(;^_^A? かなり古墳好きの少年時代だったんですね!
1000年後には遺跡になるのにもったいない(笑)
歳がバレちゃいますが・・・約40年前に修学旅行で行った際、歩いていた近くのあぜ道から簡単に石舞台へ近づけた記憶があるのですが、周辺も含め、かなり様子がガラッと変わってしまいビックリしています。でも綺麗に残せると云う意味では、今のようにちゃんと管理されている方がイイのでしょうね。
コメントありがとうございます。そうなんですね。石舞台古墳は相当整備が進んでいるんですね。このようにして管理されていけば、後世に伝えられていいですね。
確かに昔は剥き出しのままでした。
ないものねだりですが、これだけの巨大な石室を包み込んだ上部構造はどのようなものだったのかと思ってしまいます。飛鳥寺の造営が着手されても、これだけの石室が構築されたのも不思議な感じがしますね。
上部構造、どうだったんでしょうかね? でもこんな形で石室が残っているというのも、あまりないような気がします。墳丘の盛土だけ取り去ってしまった理由は何だったのか、謎ばかりです。
明日香村にはよく行くので石舞台古墳にも何度か入ったことがありますが間近でみると石の迫力をいつも感じます。祖母が小さい頃(大正から昭和初期)の遊び場でもありました。
ご視聴ありがとうございます。昔の写真を見ると、水田が間近にまで迫っていて、現在とは全く違いますね! 大正から昭和初期でも、中に入れたのですかね?
空から見るととても綺麗です!
ご視聴ありがとうございます。少しでも参考になれば良かったです。
かなり昔、修学旅行でいきました。露出している『石舞台』のかなり近くまで当時は行けた記憶があります。風が吹いていて、喉がイガイガしたこともはっきり覚えています。詳しい説明、感謝いたします。5/15に拝見。
こちらこそご視聴ありがとうございました。
石舞台古墳は何度か訪れた事がありますが、内部を見る事ができるのて貴重な体験ですが、元の規模がどれだけかは、発掘と復元したものでしかわからないのは残念ですが😟素人が勉強するには分かりやすい場所でもありますね。
そうですね。最近は安全のためだと思いますが、中まで入れる横穴式石室が少なくなってきたようですね。これだけでも残っていることを良しとしなければいけないのかもしれませんね。
戦前の石舞台の写真を見てるともっと露出していて迫力あるのですが、なぜここまで埋め戻したか疑問です。
返信が遅れました。コメントありがとうございます。言われて自分でも昔の写真を見返してみたんですが、確かに今より50cm~1mくらい出ているように見えますね。何度か調査されていますので、どこかのタイミングで今のラインまで埋め戻したのでしょうか。
盛り土が無くなって玄室の天井の一枚岩が外からも見れるという意味では非常に参考にもなる古墳ですね。無くなっている途中の天井石は他の古墳や戦国時代に築城用の石垣に流用されたりしたのかなあ。
そうですよね? このような姿で残っている古墳は珍しいのではないでしょうか? 盛土や羨道の天井石がなくなっている理由は、築城用の石垣に転用したくらいしか思いつきませんよね。豊橋市の大塚南古墳も石室が破壊されていて、地元には、吉田城の築城に石を持っていったとの伝承があるそうです。高取城や郡山城の石垣に使われているのでしょうか?
たしか松阪牛で有名な松阪城も古墳の石室と思われる石が石垣に使われていると立て看板に説明がありました。
77tの巨石を3km離れた場所から切り出して運んで積み上げる・・・謎すぎる
石舞台古墳の石も凄いですが、牽牛子塚古墳の石室は、約80トンある1つの巨石をくりぬいて埋葬施設を作ったとされており、さらに約15km離れた二上山から運んで、あんなに高い所まで上げたと考えられているようです。こっちも凄いですよね。
趣き深いですね。
わかりやすい解説ありがとうございます。石舞台古墳の石室が露出しているのは蘇我馬子の没後に誰か(蘇我氏の敵対勢力か)が墳丘を破壊したからという説が濃厚です。
ご教示ありがとうございます。墳丘が削られた事について、何か書かれている文献等をご存知でしたら、ご教示いただけますでしょうか?
@@koukogaku さん過去に図書館で借りて読んだ本なので名称は覚えていないのですが結構古い本だったように思います。石舞台の墳土が存在していない理由をしめす説として1.元から無かった説2.流されて削られた説3.誰がが破壊した説の3つに大きく分けられますがその本は3の説を有力視しており、私も蘇我氏の権力をみるとやはり他の一部の氏族から恨まれていたと考えて勝手にその説を肯定している次第です。
@@やまとじ巡礼 ご教示ありがとうございます。この3つでしたら3番1択ですね。よほど恨まれていたのですかね? 想像が膨らみます。
俺は蘇我氏が日本を侵略しようとした景教勢力で、この盛り土が元はUダヤの六芒星だったのではないかと思います。出エジプト記でもわかるようにその勢力ならば巨石文明の技術を知っていて、トンカラリンなども作る事が出来たと言う事がわかります。しかも大和王権のお墓とは違うものを作っているので、645年の大化の改新前の635年に景教が唐で布教を認められたので、日本は侵略を受けていたのです。その証拠に500年代から蘇我氏の勢力が伸びてくると、朝鮮半島南部の日本勢力圏が無くなって、最終的に日本と関りがあった百済も滅ぼされて白村江に至るからです。
お城の石垣もそうですが、重機もない時代に何トンもの石を運搬、築造する技術に感心します。古墳は60万基、さらには朝鮮半島南部にもあるそうです。さぞかし豊かな時代だったのでしょうね。
40年前に韓国慶州の古墳、石室を見たことを思いだします。むこうの国の王レベルの人間のものでなかに金のかんむりのような装飾品?が収められていたというような説明書と写真があったと思います。蘇我氏は朝鮮半島と交流が深く似たような石室をもつものを作ったのでしょうか。ただ外側は丸い古墳だったと思います。この日本のものは方墳墓のようですが。
@@脇田昭 古墳時代より少し前には朝鮮半島には人が住んでいませんでした。古墳文化は日本からもたらされたと考えるのが自然です。
@@コウダイ-r1v さん古墳時代より少し前朝鮮半島にひとがいなかった、ですか?
@@脇田昭 朝鮮半島には全く遺跡が出ない時代が5000年ぐらいあります。無人だったのです。その後の国、新羅、百済などは倭人(日本人)が建国したようです。新羅の建国は神武天皇の兄弟であり、4代王は倭人だと言われてます。百済の要人は倭国語を話し、通訳がいらなかったそうです。百済は妃を日本の皇室に差し出してます。高句麗に攻められた時は任那(朝鮮半島南部の倭人の国)が戦わずに4県を与えてます。滅亡後は倭国が百済再建のため戦を起こして大敗してます。その時の様子が広開土王碑にも書かれています。任那を認めたくない朝鮮側から日本の捏造だと抗議を受けました。日本が負けた記録にも関わらず(笑)後にもっと古い写しが見つかり捏造説は否定されてます。
小学生の時の遠足スポットやったな。。あと、両面に顔がある岩とか
奈良県の学校は遠足でほとんどの人が行くみたいですね。
石舞台古墳4年前くらいに行きましたがカエルが沢山いて驚きました。
そうなんですね。またその時期に行けたら聞いてみようと思いまする
高度成長期には宅地開発とかでずいぶん古墳も壊されたと思うのですが、飛鳥時代にすでに傍の古墳を壊してまた古墳を造るってどうゆう発想なんだろう?埋葬者の独特な死生観なんですかね?それとも死んだらみんな仏様なんて感覚はむしろ現代人の感覚なのか?興味が尽きませんね。
奈良市にある市庭古墳は、もともと250mくらいの前方後円墳ですが、平城宮を作る時に、前方部が宮域にかかるため削平されています。祟りを信じていた時代の人達が、何故このような罰当たりなことをするのか、本当に不思議ですね。
@@koukogaku 様 そうなのですか。勉強になります。ありがとうございます☺
ご先祖様崇拝は儒教が強く広まった江戸時代以降の説もあり(平安時代の藤原氏の墓さえ不明)現代と違って当時の感覚だと弱小墓なんて、、って感覚だったのかもしれません
@@松浦実玖 様 飛鳥時代の最大級の方墳の小山田古墳は完成後ほどなく破壊されているのですが、莫大な労力を使って作った古墳をなんでまた破壊しているのか?古代史は本当に不思議ですね☺
@@金子宏二 完全な推測の当てずっぽうですが「あいつらヤッパリ気に入らねえeeeee!!!!!!!!」「俺様強い!!」じゃないですかね?大王さえ平気?で殺してた(少なくとも国書?に記載できた)時代ですから
日本最大級は、行橋市郊外に2つありますよ。 規模は、この奈良の石舞台より多きとのことですが、考古学学会では、伏せられているとのことです。 おもしろいですね。一度調べてみてください。明らかになると困る人がたくさんいるようです。
ご教示ありがとうございます。不勉強で、初めて知りました。大変参考になりました。いつか伺ってみたいです。今後ともよろしくお願いいたします。
@@koukogaku 学研的な謙虚さが好感がもてます。 うれしいです。 今後のご報告楽しみにしています。ありがとうございます。
@@chinamukuwana5772 とんでもないです。こちらこそありがとうございます。また機会がありましたらご覧ください。
機械力が無くてよくこんなに大きな石を積み上げることができた・・・イメージが湧かない。人力でどうやって・・・
本当にそう思います。昔の人は凄いですね。
貼石と葺石の違いってなんですか?
葺石は接する石同士が重なっているのに対して、貼石はタイルのように重なっている部分がないんだと思います。
@@koukogaku ありがとうございます!
手塚治虫の火の鳥でのイメージで初めからむき出しの古墳だと思っていましたが、実は土が盛られたきちんとした古墳だったのですね。
全く同じ経験と考えを持ってました。急ごしらえのお墓と思ってたけど、土のお布団もかけられててちょっと古代人の優しさにホッとした感じ…
日曜日に行ったら駐車場が満車。道端では見れないようにされており断念しました。
石舞台古墳は近年では、蘇我馬子の墓ではなく建造途中で放棄された墓とする説が有力と聞いたけどねもし馬子の墓であれば、盛り土をはがされるなどされたのは、蘇我氏が倒された大化の改新の後だろうが
そうなんですか。ただわずかですが副葬品等も出ていた気がしますので、途中で放棄したわけではない気がしますが…。もし文献等ご存じでしたら教えてください。
最大規模って、不思議です。古代中国のどこにでもある村の長老の墓と同じぐらいのサイズかな
種類の違った磐座がさりげなく多数使ってある一個一個の判定も大きいから素晴らしいここの映像は 明暗の強い中よく取れている
ウチは、古墳大好きなので 、バカモンですがお付き合い下さい😊。石舞台古墳ですね。蘇我馬子のお墓という方円墳ですね。新人ですがお付き合い下さい😊⛩️🙏
いえいえこちらこそよろしくお願いします。私も大して知っているわけではないので、ご遠慮なく。上から見てきたらかなりコメントしていただいてますね。ありがとうございます。またちょくちょく遊びに来てくださいね。
石舞台古墳が同地にすでにあった古墳を潰して造られたことは、初めて知りました破壊された古墳は誰のものだったのか、ものすごく気になります判明しているのでしょうか?また、人様の墓を潰してまで自分の墓を造営しても、権力さえあれば当時は問題なかったのかも気になります宗教的な禁忌とかなかったのでしょうかあと、潰された古墳の関係者がものすごく怒りそうです(素人の感想)
最近まで霊魂や祟りが信じられていたのに、どうして古墳を破壊したり、戦国時代の城の石垣に墓石が使ったりしたのか、わからないというか、不思議ですね。石舞台古墳ですら確実な被葬者がわからないので、石舞台古墳築造時に破壊された古墳はなおさらわからないと思います。この地域の有力氏族のものだったのでしょうか。
平城京造営の際にも古墳は破壊されています。
盛り土を剥がす罰当たりな行為をしたの誰なんですかね❓
いつ、だれが、何の目的で盛土を剥がしたのか、何故石室は残したのか、謎は多いですね。
(蘇我馬子だとすれば)崇峻天皇を暗○した張本人ですから…。
お墓?いやお墓ではないの「Pylamid」の不思議に勝る「大和のお墓」を初めて鑑賞致しました。「大和の場合」77トンの石を持ち上げる方法がしりたいです。当時の豪族「蘇我氏一族の霊廟」ですよね「外野」からの見かたなので御免なさい。「Egyptも大和」も両方「あっそだったんですか」って納得したいですね、なかなかむつかしいって聞いてます。「Pylamid」の場合、石棺にしても、何回説明読んでも聞いても「ああそうだろうな」って思って夢がふくらんで楽しいです。どこまでも「たいら」「直角」「直線」美しいです。鑿が刺さんない花崗岩をどやって「平ら」に削る???。地球上の動物は「種類」に分かれて「人種」から「ヒト」になり、集まって「国民」になり、国民は「階級」に分かれるって読んだことありますが、仮にグレードが「ZSABCD六段階」ならZ階級のお墓ってやっぱ、規模の大きさからは今んところ「Pylamid」でしょうか。60トンの石を40個ぐらい45メートル?の高さまで持ち上げるって、いったいどうやったのか???積んだ石の隙間は紙一枚入らない。Z級の「ヒト」ってすごいですホントに。「経国済民」が諮る秩序に拠る!!!
ピラミッドみたいやな
6世紀末の古墳を削って作ったかwおそらく石舞台築造時、削られた被葬者の血縁の人がまだご健在だっただろう。それを考慮しないで破壊して自分の墓を造る人。やっぱり馬子のイメージに極めて近い。
多分景教勢力だったのでダビデの六芒星だったのではないかと思います。
盛土を剥がしたのは興福寺の生臭坊主どもだと思う。
興福寺の僧は、古墳の石室に入って副葬品を持ち去って後に処罰を受けたことがあるそうです。ひょっとしたらひょっとするかもしれませんね。
結論を言います。用明天皇が生前に築造した生前墓/寿陵の桃原陵です。大王/天皇陵、それも当初の彼葬者で在られる用明帝自らが築造を命じた寿陵/生前墓ですから最大規模となるのはある種、当然です。因みに、生前に自分の墓を造ることは大変めでたい(芽出たい)事とされます(現代も)用明天皇は史上初めての仏教を容認して養護派なさった大王/天皇。これが守旧派の急先鋒、弓削(物部)守屋らには耐え難かったことから衆を集め徒党をくんで何と、用明天皇が座す大王宮をネズミ一匹も逃れられないように重包囲して焼き討ちして用明天皇もろとも大王宮は焼け落ちました。(史上初の焼死なさった大王)後日、御子の上宮皇子(太子)はその無惨にも焼亡して灰塵に帰した大王宮から父、用明天皇の焼死なさった遺骸(遺骨)を手ずから拾い挙げて件の、父 用明天皇が造営なさった桃原陵(後世、石舞台古墳)に埋葬しました。若輩者(15歳前後)で未だ大した勢力/権勢をもたなかった上宮皇子(太子)は深く心にリベンジを誓いました。後年、親戚/遠縁でも有った石川大臣麻古(古事記等は卑下して蘇我馬子と改ざん。更に本姓は武内臣(いわゆる武内宿禰の子孫))らと徒党をくんで弓削(物部)守屋大連が滞在中の河内(大坂)の別邸を襲撃して弓削(物部)守屋を殺害。積年の恥辱と恨みを晴らし、溜飲をさげました。
蘇我馬子といえば百済の木羅斤資の末裔?
木羅コンシは倭人と言う説があります
「超古代文明のドルメン(支石墓/巨石構造物)を再利用した古墳墓」という推論のほうが説得力があると思います。現地にある解説板のイラストにあるような運び方「重い巨石を丸太に乗せて数キロも転がしてきた」というのも、実際にその重さの巨石を運べたという検証すらされてないのです。普通に考えて77トンもある巨石を・どうやって丸太に載せた?・載せた時点で丸太が折れるし。。。・巨石の重みで丸太が地面に埋まるぞ!という小学生レベルの素朴な疑問にすら専門家が全く答えていないんですよね。。だから、一番上の説を信じてしまうのです。
日本の考古学者はまだまだ信頼できません。日本の古墳・遺跡は諸外国の考古学チームに調査してほしいです。
中国的な感じがして驚きです。
よろしければ中国的な部分というのがどの辺りに感じられるのか、ご教示ください。
この石舞台古墳と言うのは蘇我氏の墓である事は間違いがなく、俺は盛土がUダヤの六芒星で蘇我氏は仏教ではなく、UダヤのKリスト教による侵略の手ごまだった景教だと思います。九州のトンカラリンなどはエジプトの技術を使っていると言われて、兵庫の生石神社などもありますがそれはUダヤがシルクロードを通った侵略の後だと思います。事実として蘇我氏が勢力を伸ばした500年代から、朝鮮半島南部の日本文明圏が削られていって、任那や加羅は無くなって660年に百済が滅亡してから663年の白村江です。記紀の記録上推古天皇の時代にも朝鮮半島への援軍を出した事になっていますが、聖徳大使には蘇我氏が外交を握っていたので外国に日本の領土を渡したバイコクドの可能性が高いです。
古墳て何? 人の墓か? 何の為に暴く? ピラミッドも、そのままにしていればいいものを。過去の時代に生きた人の究極の住処を、誰の許可を得て、勝手に発掘する? 永遠の眠りを妨げるな。静かに未来永劫まで世代交代で守ろうよ。
古墳は墓なのは間違いないです。古墳時代の終わりには薄葬令という大規模な墓(つまり古墳)を禁止する法令が出たくらいです。現代の視点から見ると貴重な遺構や亡くなった方を敬って欲しいと考えるでしょうけど、バンバン古墳が造られていた当時、さらに敵対する勢力にとっては目障りだったのかもしれません。
まあ確かにいくら調査だとしても、墓を暴くってめちゃくちゃ傲慢?な気がする
中にある宝飾品、副葬品目当てに盗掘するんでしょうね。ただ日本ではあまりないだけではないのでしょう。失脚した人間、憎まれた氏ぐらいではないでしょうか。
地元が近くてよく古墳見学に行っていました
今思うと贅沢な環境で学生時代過ごせていたんだなと思います。。
懐かしいです
目茶苦茶羨ましいですが、住んでいるとそんなものですよね(笑)。
この近くに 高松塚古墳発掘に尽力した元関西大学網干善教の実家「唯称寺」が
あります、足を運んでみては如何ですか?greeting from toyama city by 68
years old man
飛鳥村は大好きですので、飛鳥村の遺跡や古墳の話を聞かせていただけると本当に嬉しいです。
有難うございました!
時代の表記などは「飛鳥」ですが村の表記は「明日香」です。昭和の中頃までは「飛鳥村」も存在してました。
@@やまとじ巡礼 そのことはもちろん存じておりますが、up主様が「飛鳥村」とされておりますし、私も歴史ロマン的には「飛鳥」と表記した方が好きなのでそうしました。ご指摘有難うございます。
@@berutonoue さん
わざわざ返信いただきありがとうございます。誤解して申し訳ありませんでした。
@@やまとじ巡礼 気にしておりませんので大丈夫です!
同じ歴史好きとして、「考古学チャンネル」を一緒に楽しんでまいりましょう!
こちらのほうまで、ありがとうございます。先日桜井市と橿原市の古墳を撮影してきました。明日香村の古墳は自由に入ることのできる古墳があまりなさそうでした。特に真弓鑵子塚古墳は一度見てみたかったので残念です。
これから順次アップしていきますので、よろしくお願いします。
石舞台古墳懐かしい、今は中にも入れなくなっていると言うのを知って、一寸ざんねんで、一寸嬉しい‼️。
遥か昔3度は、登ったり、巨大な石室に入った記憶があったからだ‼️。
あれっ、そうなんですか? ちょうど1年前に行った時は普通に見れましたよ。最近変わったんですかね?
わかりやすい映像ですね。石舞台は何回か見にいきましたが、規模に圧倒されます。
ありがとうございます。本当に大きい石室ですよね。石室はもちろん素晴らしかったですが、墳丘と周濠も素晴らしかったですよ!
小学生の時にみた本に出ていて、これが古墳かとびっくりした覚えがある。航空写真で見る大仙陵よりインパクトありました。この古墳をまねて庭の造成用の土で墳丘を盛り小石で石室を作ってました。もちろんすぐにおじいさんにこわされました・・・・。かなり危ない小学生でした
おじいさん、壊さなくてもいいじゃないんですかね(;^_^A? かなり古墳好きの少年時代だったんですね!
1000年後には遺跡になるのにもったいない(笑)
歳がバレちゃいますが・・・約40年前に修学旅行で行った際、歩いていた近くのあぜ道から簡単に石舞台へ近づけた記憶があるのですが、周辺も含め、かなり様子がガラッと変わってしまいビックリしています。でも綺麗に残せると云う意味では、今のようにちゃんと管理されている方がイイのでしょうね。
コメントありがとうございます。そうなんですね。石舞台古墳は相当整備が進んでいるんですね。このようにして管理されていけば、後世に伝えられていいですね。
確かに昔は剥き出しのままでした。
ないものねだりですが、これだけの巨大な石室を包み込んだ上部構造はどのようなものだったのかと思ってしまいます。飛鳥寺の造営が着手されても、これだけの石室が構築されたのも不思議な感じがしますね。
上部構造、どうだったんでしょうかね? でもこんな形で石室が残っているというのも、あまりないような気がします。墳丘の盛土だけ取り去ってしまった理由は何だったのか、謎ばかりです。
明日香村にはよく行くので石舞台古墳にも何度か入ったことがありますが間近でみると石の迫力をいつも感じます。
祖母が小さい頃(大正から昭和初期)の遊び場でもありました。
ご視聴ありがとうございます。昔の写真を見ると、水田が間近にまで迫っていて、現在とは全く違いますね! 大正から昭和初期でも、中に入れたのですかね?
空から見るととても綺麗です!
ご視聴ありがとうございます。少しでも参考になれば良かったです。
かなり昔、修学旅行でいきました。露出している『石舞台』のかなり近くまで当時は行けた記憶があります。風が吹いていて、喉がイガイガしたこともはっきり覚えています。詳しい説明、感謝いたします。5/15に拝見。
こちらこそご視聴ありがとうございました。
石舞台古墳は何度か訪れた事がありますが、内部を見る事ができるのて貴重な体験ですが、元の規模がどれだけかは、発掘と復元したものでしかわからないのは残念ですが😟素人が勉強するには分かりやすい場所でもありますね。
そうですね。最近は安全のためだと思いますが、中まで入れる横穴式石室が少なくなってきたようですね。これだけでも残っていることを良しとしなければいけないのかもしれませんね。
戦前の石舞台の写真を見てるともっと露出していて迫力あるのですが、なぜここまで埋め戻したか疑問です。
返信が遅れました。コメントありがとうございます。言われて自分でも昔の写真を見返してみたんですが、確かに今より50cm~1mくらい出ているように見えますね。何度か調査されていますので、どこかのタイミングで今のラインまで埋め戻したのでしょうか。
盛り土が無くなって玄室の天井の一枚岩が外からも見れるという意味では
非常に参考にもなる古墳ですね。
無くなっている途中の天井石は他の古墳や戦国時代に築城用の石垣に
流用されたりしたのかなあ。
そうですよね? このような姿で残っている古墳は珍しいのではないでしょうか? 盛土や羨道の天井石がなくなっている理由は、築城用の石垣に転用したくらいしか思いつきませんよね。豊橋市の大塚南古墳も石室が破壊されていて、地元には、吉田城の築城に石を持っていったとの伝承があるそうです。高取城や郡山城の石垣に使われているのでしょうか?
たしか松阪牛で有名な松阪城も古墳の石室と思われる石が石垣に使われていると立て看板に説明がありました。
77tの巨石を3km離れた場所から切り出して運んで積み上げる・・・謎すぎる
石舞台古墳の石も凄いですが、牽牛子塚古墳の石室は、約80トンある1つの巨石をくりぬいて埋葬施設を作ったとされており、さらに約15km離れた二上山から運んで、あんなに高い所まで上げたと考えられているようです。こっちも凄いですよね。
趣き深いですね。
わかりやすい解説ありがとうございます。石舞台古墳の石室が露出しているのは蘇我馬子の没後に誰か(蘇我氏の敵対勢力か)が墳丘を破壊したからという説が濃厚です。
ご教示ありがとうございます。墳丘が削られた事について、何か書かれている文献等をご存知でしたら、ご教示いただけますでしょうか?
@@koukogaku さん
過去に図書館で借りて読んだ本なので名称は覚えていないのですが結構古い本だったように思います。石舞台の墳土が存在していない理由をしめす説として
1.元から無かった説
2.流されて削られた説
3.誰がが破壊した説
の3つに大きく分けられますがその本は3の説を有力視しており、私も蘇我氏の権力をみるとやはり他の一部の氏族から恨まれていたと考えて勝手にその説を肯定している次第です。
@@やまとじ巡礼 ご教示ありがとうございます。この3つでしたら3番1択ですね。よほど恨まれていたのですかね? 想像が膨らみます。
俺は蘇我氏が日本を侵略しようとした景教勢力で、この盛り土が元はUダヤの六芒星だったのではないかと思います。
出エジプト記でもわかるようにその勢力ならば巨石文明の技術を知っていて、トンカラリンなども作る事が出来たと言う事がわかります。
しかも大和王権のお墓とは違うものを作っているので、645年の大化の改新前の635年に景教が唐で布教を認められたので、日本は侵略を受けていたのです。
その証拠に500年代から蘇我氏の勢力が伸びてくると、朝鮮半島南部の日本勢力圏が無くなって、最終的に日本と関りがあった百済も滅ぼされて白村江に至るからです。
お城の石垣もそうですが、重機もない時代に何トンもの石を運搬、築造する技術に感心します。
古墳は60万基、さらには朝鮮半島南部にもあるそうです。
さぞかし豊かな時代だったのでしょうね。
40年前に韓国慶州の古墳、石室を見たことを思いだします。
むこうの国の王レベルの人間のものでなかに金のかんむりのような装飾品?が収められていたというような説明書と写真があったと思います。
蘇我氏は朝鮮半島と交流が深く似たような石室をもつものを作ったのでしょうか。
ただ外側は丸い古墳だったと思います。
この日本のものは方墳墓のようですが。
@@脇田昭
古墳時代より少し前には朝鮮半島には人が住んでいませんでした。
古墳文化は日本からもたらされたと考えるのが自然です。
@@コウダイ-r1v さん
古墳時代より少し前朝鮮半島にひとがいなかった、ですか?
@@脇田昭
朝鮮半島には全く遺跡が出ない時代が5000年ぐらいあります。無人だったのです。
その後の国、新羅、百済などは倭人(日本人)が建国したようです。新羅の建国は神武天皇の兄弟であり、4代王は倭人だと言われてます。
百済の要人は倭国語を話し、通訳がいらなかったそうです。百済は妃を日本の皇室に差し出してます。高句麗に攻められた時は任那(朝鮮半島南部の倭人の国)が戦わずに4県を与えてます。滅亡後は倭国が百済再建のため戦を起こして大敗してます。
その時の様子が広開土王碑にも書かれています。任那を認めたくない朝鮮側から日本の捏造だと抗議を受けました。日本が負けた記録にも関わらず(笑)
後にもっと古い写しが見つかり捏造説は否定されてます。
小学生の時の遠足スポットやったな。。
あと、両面に顔がある岩とか
奈良県の学校は遠足でほとんどの人が行くみたいですね。
石舞台古墳4年前くらいに行きましたがカエルが沢山いて驚きました。
そうなんですね。またその時期に行けたら聞いてみようと思いまする
高度成長期には宅地開発とかでずいぶん古墳も壊されたと思うのですが、飛鳥時代にすでに傍の古墳を壊してまた古墳を造るってどうゆう発想なんだろう?埋葬者の独特な死生観なんですかね?それとも死んだらみんな仏様なんて感覚はむしろ現代人の感覚なのか?興味が尽きませんね。
奈良市にある市庭古墳は、もともと250mくらいの前方後円墳ですが、平城宮を作る時に、前方部が宮域にかかるため削平されています。祟りを信じていた時代の人達が、何故このような罰当たりなことをするのか、本当に不思議ですね。
@@koukogaku 様 そうなのですか。勉強になります。ありがとうございます☺
ご先祖様崇拝は儒教が強く広まった江戸時代以降の説もあり(平安時代の藤原氏の墓さえ不明)現代と違って当時の感覚だと弱小墓なんて、、って感覚だったのかもしれません
@@松浦実玖 様 飛鳥時代の最大級の方墳の小山田古墳は完成後ほどなく破壊されているのですが、莫大な労力を使って作った古墳をなんでまた破壊しているのか?古代史は本当に不思議ですね☺
@@金子宏二
完全な推測の当てずっぽうですが
「あいつらヤッパリ気に入らねえeeeee!!!!!!!!」
「俺様強い!!」
じゃないですかね?
大王さえ平気?で殺してた(少なくとも国書?に記載できた)時代ですから
日本最大級は、行橋市郊外に2つありますよ。 規模は、この奈良の石舞台より多きとのことですが、考古学学会では、
伏せられているとのことです。 おもしろいですね。一度調べてみてください。明らかになると困る人がたくさんいるようです。
ご教示ありがとうございます。不勉強で、初めて知りました。大変参考になりました。いつか伺ってみたいです。今後ともよろしくお願いいたします。
@@koukogaku 学研的な謙虚さが好感がもてます。 うれしいです。 今後のご報告楽しみにしています。ありがとうございます。
@@chinamukuwana5772 とんでもないです。こちらこそありがとうございます。また機会がありましたらご覧ください。
機械力が無くてよくこんなに大きな石を積み上げることができた・・・イメージが湧かない。人力でどうやって・・・
本当にそう思います。昔の人は凄いですね。
貼石と葺石の違いってなんですか?
葺石は接する石同士が重なっているのに対して、貼石はタイルのように重なっている部分がないんだと思います。
@@koukogaku ありがとうございます!
手塚治虫の火の鳥でのイメージで初めからむき出しの古墳だと思っていましたが、実は土が盛られたきちんとした古墳だったのですね。
全く同じ経験と考えを持ってました。
急ごしらえのお墓と思ってたけど、土のお布団もかけられててちょっと古代人の優しさにホッとした感じ…
日曜日に行ったら駐車場が満車。
道端では見れないようにされており断念しました。
石舞台古墳は近年では、蘇我馬子の墓ではなく建造途中で放棄された墓とする説が有力と聞いたけどね
もし馬子の墓であれば、盛り土をはがされるなどされたのは、蘇我氏が倒された大化の改新の後だろうが
そうなんですか。ただわずかですが副葬品等も出ていた気がしますので、途中で放棄したわけではない気がしますが…。もし文献等ご存じでしたら教えてください。
最大規模って、不思議です。古代中国のどこにでもある村の長老の墓と同じぐらいのサイズかな
種類の違った磐座が
さりげなく
多数使ってある
一個一個の判定も
大きいから
素晴らしい
ここの映像は
明暗の強い中
よく取れている
ウチは、古墳大好きなので 、
バカモンですがお付き合い下さい😊。
石舞台古墳ですね。
蘇我馬子のお墓という方円墳ですね。
新人ですがお付き合い下さい😊⛩️🙏
いえいえこちらこそよろしくお願いします。私も大して知っているわけではないので、ご遠慮なく。上から見てきたらかなりコメントしていただいてますね。ありがとうございます。またちょくちょく遊びに来てくださいね。
石舞台古墳が同地にすでにあった古墳を潰して造られたことは、初めて知りました
破壊された古墳は誰のものだったのか、ものすごく気になります
判明しているのでしょうか?
また、人様の墓を潰してまで自分の墓を造営しても、権力さえあれば当時は問題なかったのかも気になります
宗教的な禁忌とかなかったのでしょうか
あと、潰された古墳の関係者がものすごく怒りそうです(素人の感想)
最近まで霊魂や祟りが信じられていたのに、どうして古墳を破壊したり、戦国時代の城の石垣に墓石が使ったりしたのか、わからないというか、不思議ですね。石舞台古墳ですら確実な被葬者がわからないので、石舞台古墳築造時に破壊された古墳はなおさらわからないと思います。この地域の有力氏族のものだったのでしょうか。
平城京造営の際にも古墳は破壊されています。
盛り土を剥がす罰当たりな行為をしたの誰なんですかね❓
いつ、だれが、何の目的で盛土を剥がしたのか、何故石室は残したのか、謎は多いですね。
(蘇我馬子だとすれば)崇峻天皇を暗○した張本人ですから…。
お墓?いやお墓ではないの「Pylamid」の不思議に勝る「大和のお墓」を初めて鑑賞致しました。「大和の場合」77トンの石を持ち上げる方法がしりたいです。当時の豪族「蘇我氏一族の霊廟」ですよね「外野」からの見かたなので御免なさい。「Egyptも大和」も両方「あっそだったんですか」って納得したいですね、なかなかむつかしいって聞いてます。「Pylamid」の場合、石棺にしても、何回説明読んでも聞いても「ああそうだろうな」って思って夢がふくらんで楽しいです。どこまでも「たいら」「直角」「直線」美しいです。鑿が刺さんない花崗岩をどやって「平ら」に削る???。
地球上の動物は「種類」に分かれて「人種」から「ヒト」になり、集まって「国民」になり、国民は「階級」に分かれるって読んだことありますが、仮にグレードが「ZSABCD六段階」ならZ階級のお墓ってやっぱ、規模の大きさからは今んところ「Pylamid」でしょうか。60トンの石を40個ぐらい45メートル?の高さまで持ち上げるって、いったいどうやったのか???積んだ石の隙間は紙一枚入らない。Z級の「ヒト」ってすごいですホントに。「経国済民」が諮る秩序に拠る!!!
ピラミッドみたいやな
6世紀末の古墳を削って作ったかw
おそらく石舞台築造時、削られた被葬者の血縁の人がまだご健在だっただろう。
それを考慮しないで破壊して自分の墓を造る人。
やっぱり馬子のイメージに極めて近い。
多分景教勢力だったのでダビデの六芒星だったのではないかと思います。
盛土を剥がしたのは興福寺の生臭坊主どもだと思う。
興福寺の僧は、古墳の石室に入って副葬品を持ち去って後に処罰を受けたことがあるそうです。ひょっとしたらひょっとするかもしれませんね。
結論を言います。
用明天皇が生前に築造した生前墓/寿陵の桃原陵です。
大王/天皇陵、それも当初の彼葬者で在られる
用明帝自らが築造を命じた寿陵/生前墓ですから
最大規模となるのはある種、当然です。
因みに、生前に自分の墓を造ることは大変めでたい(芽出たい)事とされます(現代も)
用明天皇は史上初めての仏教を容認して養護派なさった大王/天皇。
これが守旧派の急先鋒、弓削(物部)守屋らには耐え難かったことから
衆を集め徒党をくんで
何と、用明天皇が座す大王宮を
ネズミ一匹も逃れられないように重包囲して
焼き討ちして用明天皇もろとも大王宮は焼け落ちました。
(史上初の焼死なさった大王)
後日、御子の上宮皇子(太子)はその無惨にも焼亡して灰塵に帰した大王宮から
父、用明天皇の焼死なさった遺骸(遺骨)を手ずから拾い挙げて
件の、父 用明天皇が造営なさった桃原陵(後世、石舞台古墳)に埋葬しました。
若輩者(15歳前後)で未だ大した勢力/権勢をもたなかった上宮皇子(太子)は
深く心にリベンジを誓いました。
後年、親戚/遠縁でも有った石川大臣麻古(古事記等は卑下して蘇我馬子と改ざん。更に本姓は武内臣(いわゆる武内宿禰の子孫))らと
徒党をくんで
弓削(物部)守屋大連が滞在中の河内(大坂)の別邸を襲撃して弓削(物部)守屋を殺害。
積年の恥辱と恨みを晴らし、溜飲をさげました。
蘇我馬子といえば百済の木羅斤資の末裔?
木羅コンシは倭人と言う説があります
「超古代文明のドルメン(支石墓/巨石構造物)を再利用した古墳墓」
という推論のほうが説得力があると思います。
現地にある解説板のイラストにあるような運び方
「重い巨石を丸太に乗せて数キロも転がしてきた」
というのも、実際にその重さの巨石を運べたという検証すらされてないのです。
普通に考えて77トンもある巨石を
・どうやって丸太に載せた?
・載せた時点で丸太が折れるし。。。
・巨石の重みで丸太が地面に埋まるぞ!
という小学生レベルの素朴な疑問にすら
専門家が全く答えていないんですよね。。
だから、一番上の説を信じてしまうのです。
日本の考古学者はまだまだ信頼できません。
日本の古墳・遺跡は諸外国の考古学チームに調査してほしいです。
中国的な感じがして驚きです。
よろしければ中国的な部分というのがどの辺りに感じられるのか、ご教示ください。
この石舞台古墳と言うのは蘇我氏の墓である事は間違いがなく、俺は盛土がUダヤの六芒星で蘇我氏は仏教ではなく、UダヤのKリスト教による侵略の手ごまだった景教だと思います。
九州のトンカラリンなどはエジプトの技術を使っていると言われて、兵庫の生石神社などもありますがそれはUダヤがシルクロードを通った侵略の後だと思います。
事実として蘇我氏が勢力を伸ばした500年代から、朝鮮半島南部の日本文明圏が削られていって、任那や加羅は無くなって660年に百済が滅亡してから663年の白村江です。
記紀の記録上推古天皇の時代にも朝鮮半島への援軍を出した事になっていますが、聖徳大使には蘇我氏が外交を握っていたので外国に日本の領土を渡したバイコクドの可能性が高いです。
古墳て何? 人の墓か? 何の為に暴く? ピラミッドも、そのままにしていればいいものを。過去の時代に生きた人の究極の住処を、誰の許可を得て、勝手に発掘する? 永遠の眠りを妨げるな。静かに未来永劫まで世代交代で守ろうよ。
古墳は墓なのは間違いないです。
古墳時代の終わりには薄葬令という大規模な墓(つまり古墳)を禁止する法令が出たくらいです。
現代の視点から見ると貴重な遺構や亡くなった方を敬って欲しいと考えるでしょうけど、バンバン古墳が造られていた当時、さらに敵対する勢力にとっては目障りだったのかもしれません。
まあ確かにいくら調査だとしても、墓を暴くってめちゃくちゃ傲慢?な気がする
中にある宝飾品、副葬品目当てに盗掘するんでしょうね。
ただ日本ではあまりないだけではないのでしょう。失脚した人間、憎まれた氏ぐらいではないでしょうか。