【キリストの足跡】066_なぜキリストはたとえで話す?

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  • เผยแพร่เมื่อ 21 ธ.ค. 2024
  • 【聖書】マタイの福音書13より抜粋 
    ●たとえで語るキリスト 
    ●たとえで語る理由 
    ●隠されていたこと 
    ●幸いな人たち 
    イエス・キリストの生涯を時間順に追いかけ、66回目となりました。これまでキリストは、様々な奇跡や権威ある言葉を通して、ご自分が旧約聖書で予告されていた救い主であることを示して来られました。ところが、当時の宗教指導者たちは、こうしたキリストの働きを、悪霊の力によるものだと断定し、救い主とは認めませんでした。なので、民衆の多くもそれに倣い、イエス・キリストを救い主とは見做さなくなっていったのです。そこでキリストは、こうした人々を前に、これからの働きを大きく転換します。
    ●たとえで語るキリスト
    【マタイの福音書13より抜粋】
    13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると大勢の群衆がみもとに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな岸辺に立っていた。イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。
    宗教指導者たちがキリストを拒絶したとはいえ、なおも群集は、キリストを見ようと、野次馬のように集まって来たのですね。ところが「イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた」とあります。すなわち、今までは伝えたいことをストレートに語っていたのに、それをやめて「たとえで」語り始めたのです。
    たとえで語るということは、その意味がわかる人には、キリストが本当は何を伝えたいのか、ピンと来るはずですね。でも、わからない人にとっては、何を言っているのだろう、となるわけです。そこで、なぜたとえで話すのか、弟子たちが問いかけます。
    ●たとえで語る理由
    【マタイの福音書13より抜粋】
    13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」と言った。イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです。
    キリストが、「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されて」いて、「持っている人は与えられてもっと豊かに」なる一方、「あの人たちには許されて」なくて、「持っていない人は持っているものまで取り上げられる」と言っていますね。これ、なかなか意味深な言葉です。
    ここで言う「あなたがた」とは、「弟子たち」すなわち、イエス・キリストを救い主と信じて従って来た人たちです。そして、「天の御国の奥義」とは、神の国について、神がまだ私たちに知らせていない事柄を意味します。ということは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰を「持っている」なら、神の国に関して、まだ知らされていないことを知る特権が「与えられ」、その知見が「もっと豊かに」なる、というわけです。
    一方、「大勢の群衆」は、イエス・キリストに興味は抱いても、宗教指導者たちに倣って、救い主とは信じませんでした。なので、信じないなら、「天の御国の奥義を知ることが許され」ず、今持っている聖書の知見さえも無駄になる、というのがここでの真意です。
    なぜなら、聖書の予告どおりに来た救い主を拒むなら、その人は聖書そのものを拒んだのと同じだからです。言い換えれば、聖書の言葉が現実となっても、それを信じる信仰がないなら、その人にとって聖書の言葉は全く意味がありません。それが、「持っていない人は持っているものまで取り上げられる」という言葉の意味するところです。
    とはいえ、集まっていた「大勢の群衆」にたとえで語るのは、ちょっと可愛そうな気がしなくもありませんね。なぜキリストはそうするんでしょう。それについてこう答えます。
    【マタイの福音書13より抜粋】
    13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。
    大変重い言葉が飛び出しました。多くの群集は、キリストを「見てはいるが見ず」、その言葉を「聞いてはいるが聞かず」、救い主だと「悟ることもしないから」たとえで話すのだ、というのです。言い換えれば、彼らに何を見聞きさせても、彼らははじめから信じる気などないと、キリストは見抜いているのです。これは残念ですね。
    でも実は、こうなることも、既に聖書で予告されていたのだ、とキリストは指摘します。こう言っています。
    【マタイの福音書13より抜粋】
    13:14 こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』
    このようにキリストは、イザヤ書という旧約聖書の言葉を引用し、民衆が私を救い主と信じないことは、はるか昔から予告されていて、それが今現実となったのだ、というわけです。一方で、イエス・キリストを救い主と信じる弟子たちには、こう語ります。
    【マタイの福音書13より抜粋】
    13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。
    あなたがたは、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、信じたのだから幸いだというのです。実際、昔の人は、救い主に会いたくても会えなかったわけですから、今直接会っている人は本当に幸いで、それでも信じないのは致命的なことですね。なのでキリストは、信じない彼らにストレートに語るのをやめたのです。
    というわけで、キリストはこれから多くのたとえを語っていかれますが、当時の人々には、その意味するところがほとんど理解できなかったようです。では、キリストはたとえを通して、信じる人たちに何を伝えようとしたのでしょう。それがわかるのが、一連のたとえを語り終えた後の、このくだりです。
    ●隠されていたこと
    【マタイの福音書13より抜粋】
    13:34 イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話された。たとえを使わずには何も話されなかった。それは、預言者を通して語られたことが、成就するためであった。「私は口を開いて、たとえ話を、世界の基が据えられたときから隠されていることを語ろう。」
    すごい言葉が出てきました。キリストが語るたとえは、「世界の基が据えられたときから隠されていること」で、それが「天の御国の奥義」だというのですね。すなわち、神が今まで隠されていた、神の国に関することを、こらからたとえで明かすというわけです。どんな内容なんでしょう。その中身は次回から紐解いて参ります。
    ●幸いな人たち
    以上の事から、当時の人々は、直接キリストを目撃した、恵まれた人々だとわかりました。でも実は、彼ら以上に恵まれているのは、私たちです。なぜなら、私たちには、神が伝えたかった全てのことが、聖書全体を通して、既に知らされているからです。
    なので、私たちが素直に聖書の言葉に耳を傾け、イエス・キリストを救い主と信じるなら、
    【マタイの福音書13より抜粋】
    13:16 あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
    というキリストの言葉は、私たちのものとなります。そうなれば、私たちにも「天の御国の奥義を知ることが許され」、その知見は「もっと豊かに」なるというのが、今日の聖書の約束です。この約束を拠り所として、次回から、今まで隠されていた「天の御国の奥義」とはなんなのか、紐解いていきましょう。
    #キリスト#福音#たとえ#天の御国の奥義
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    ご視聴ありがとうございます。「福音のたね」では、キリスト教が伝える神や、それが書かれた聖書について、1回15分程度でわかりやすくお伝えします。
    ・キリスト教のプロテスタント、その中でも、聖書の言葉を素直に受け止める、福音的な立場に立ってお話しします。
    ・現代の価値観や常識にとらわれず、書かれたことを見聞きした当時の人々の立場や視点に迫れるよう、素直に聖書を読み解きます。
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