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こんだけ一緒に過ごしてこんな話を丁度いい距離感というか間合いというか優しさで話せる2人が大好き
ありがとうございます😊嬉しい🥺
@@rozannogakuya いつも楽しく拝見させて頂いてます、これからも更新楽しみにしてますね😊
この議論に関して、菅さんが何を言いたかったのか僕にはあまり理解できませんでした。
個人の中の多様性を理解してないと、『本当の私を見てくれない』『こんなの本当の私じゃない』などの『本当の私』という幻想に囚われるように思います。自分の側面を理解して、使い分けている自分にも気付かないと、他の人の多様性も受け入れられない気がしています。
自分と違う=理解できない=嫌いとなってしまう人が多い。あなたと考え方が違うという事が分かりました。で十分。攻撃する必要ゼロ。
社会学を学んでいて、その中で、ドラマツルギーという言葉がありますが、一個人の中で役割を使い分けている、演じているという概念です 社会においてキャラを演じるといって馬鹿にされがちだと思いますが、人間関係や社会の構成員として、個人が変化することは、とても大事だと認識しておくべきだと思います。
少しズレるかもしれませんが、知人がSNSで「アスリートなど発信力ある人はもっと政治・社会について発信する義務がある」と言っていて私は違和感を覚えました。アスリートは発信することを仕事にしているわけでもない。発信しないことも許容されて然るべきだと思います。
便利な言葉ですね。好き勝手やっても許される免罪符みたいなもの。リスペクトと同じかな。困った時の「多様性」。
多様性を推してくる人が他人の多様性を認めないの見ると結局多様性を認めるなんて幻想なんだなって思う。他人の多様性を「認める」って上から目線に感じる。受け入れなければならないではなく、そこに当たり前に存在するという認識じゃ駄目なのかな。
時折り多様性って相手への都合のいい諦めや当事者の逃げどころなのかなって思う時もあります。
私には電動車椅子に乗っている友人がいます。私から茶化すこともあれば、友人もふざけて電動車椅子で突進して来たりしており、互いに仲良く遊んでいるのですが、彼が障害者としか見えない方々には奇異の目で見られることもあります。宇治原さんの言っていた「普通にしとけばいい」という言葉がすごいよくわかります。
障害者を見る目の普通って何?
@@m-chiko4892 私自身なんと言えばしっくり伝わるか悩むのですが、日常生活で泳げる人と泳げない人を最初に分けて友人付き合いしないことと同じような感覚ですかね…。人と知り合った時に「あぁ、あの人は泳げない人なんだ…。」と重くとる人よりも、「へぇ~」ぐらいに思う人の方が多いと思います。車椅子に関しても変に持ち上げたり過剰な配慮をするのではなく、「へぇ~」ぐらいの気持ちでいることが、普通に見ることだと思います。一般論ではなく私の経験談ですが、ご回答になれば幸いです。長文失礼しました。
@@m-chiko4892 多分、『あの人は車椅子に乗る人なんだ』くらいの認識で良いよってことなんだと思います。失礼しました。
私は難病に指定されている消化器の病気を10代から患っています。(病歴は15年目です。)調子のいい時は見た目にはほとんどわかりませんが、悪化すれば座っていることもできません。私の中で、病気は自分自身のほんの一部です。でも、病気を知った人は私のことを病人として扱う部分がかなり増えます。それは大半は優しさなんですが、でも私の中の割合と全く合わないことが苦しいです。病気だからと甘い評価をされるのも、嫌なものです。「普通にしとけばいい」は、ずっと心の中で叫んできたことだったので、言ってもらえて有り難かったです。
多様性って実に便利な言葉だと思う。それに意図的に隠れる人もいる。多様性の行きつくところ、人類の共通項って人の子である くらいだからね それ以外まったく同じなんてないんだと思う。
人格心理学でいう特性論をベースにして多様性を認めていくという話に聴こえてきました。
感謝しないといけないとか、上司の言うことを聞かないといけないとか、こうでなければいけない、が多すぎ。それは、個人の自由。自然と感謝するし、上司の言うことも自分が従った方が良いと思えば従えば良い。他にも色々あると思う。固定概念が多すぎ。
多様な人たちだけでなく、1人の人も多様な面を持ってるというのは覚えておかなければならないことですね。いつも間違ったこと言うコメンテーターだから何も聞かなくていい、ではなくもしかしたら有益なことを言ってるかもしれないと思って聞かなきゃいかんかなぁ。
無料で貴重なお話ありがとうございます。今の自分に刺さりました。自分の物差しで測りすぎないようにします。合わない人が居ても当たり前ですね。心が楽になりました。
多様性と寛容がセットじゃね。違いを認めた後に、まぁ一緒のとこも有るよねって方が上手く行くと思うが。芸人で一括りにされるが嫌な時もあれば、芸人ってだけで助け合ったりもするでしょ。
多様性で思い出しましたが、前に、人魚姫の実写映画で黒人歌手の女の子が主役に選ばれたニュースを見て、これって多様性なのかなと感じたことがありました。多様性って伝統ある価値観の中に無理に新しい価値観を押し込むことじゃなくて、世界にはこんなに面白い話があるんだよって、マイナーな国の物語を世界に発信していく作業こそが多様性なんじゃないの?って思ったことがありました。で、それを外国語学習アプリのタイムラインで投稿したら、誰かに差別的だと通報されたみたいで、その投稿が削除された経験があります。これについては自分の意見もそこまで固まっていなかったので放っておきましたが…あと、クズとか言い過ぎって仰いますが、一般的な目で見て他人を傷つける言動をしている人は普通にクズだと思います。犯罪やそれに類する行為をしている人を誰かがクズと言ったからって、そもそもその犯罪に多様性など認められないのだから、言われて文句は言えないと思います。
至って当然の話。どんなに猟奇的な無差別犯罪を犯した人でも、歴史的な大悪人と言われている指導者でも、その人がどうしてそうなったのかを考えない限り平行線ですよ。おそらく「この人はこんな人だ」と決めつけることで『余計なこと』を考えないで済む(=必要以上のエネルギーを使わなくて済む)からなんだろうと思うけど。
フランス人のゲイカップルの方々が、意外にも日本の方が過ごしやすいと言っていました。あちらでは解放しようと運動があって実際認められていても、歩いているといきなり後ろから殴られたり罵倒されることがしばしばあるそうで、日本は手を繋いでデートしていてもスルーされるから良いとのこと。日本人は身近に起きていないことは本来どーでもいいのかも。SNSやタレントは身近なものを増やしてしまったのかもしれませんね。
宇治原さんと意見が合わなくてもいいんだなって思う=自分にも意見があるんだなって言う自信になる。
菅さんの話は、いつも納得。わからない言葉をわかりやすく。ありがとう。
分かり過ぎますそこですよね〜❗と頷くばかりでした。自分の物差し…決め付け一部の側面だけ見て気に入らないと叩く認めないみたいな傾向が強いかと思います。寛容さが無い。懐が狭い世知辛い世の中になってしまってるなと感じる事が多くなりました。多様性が変な方向に行ってしまってておかしな世の中にならないか…と心配もあります。日本人が下手というより多様性を声高らかに叫ぶ方々がズレてるかと思います。
少し話がずれますが、『多様性』とセットにして語られる言葉に『分断』があると思います。近頃、あらゆるメディアで『社会の分断』という言葉を聞きますが、その『社会の分断』を引き起こしているのは他人の考えや思想を受け入れられない多様性の無い人達だと思います。多様性が大事だ(他人の価値観を尊重する)という事を分かっていながらも、自分の価値観や常識が絶対に正しいと思い込んでいる人が一定数います。彼等が、『自分と違う考えの人の話にも一理ある(論理的である)』という認識を抱かない限り、多様性の本質には近づいていくことはないと思います。
似非フェミニスト達による炎上問題が昨今肥大化しているけどそういう多様性を認められない人達の行いだと思ってしまう本当のフェミニストなら、多様性を認めらるべきだしそこからも歩み寄りになると思うんですよねぇ……
平野啓一郎さんも同じようなことを提唱されてますね。個人の中にもいろいろな個人がいる。
他のとこでも同じ様な事を書いたけど…もちろん多様性を認めるのは大事な事。でもそれは思想というか個々人の考え方としてあるべきであって法整備したらダメ。何故なら、際限なく多様性を認めてたらキリが無いので、必ず何処かで規制する事になり『多様性を認める』という考えが破綻してしまうから。『◯◯を嫌いになるな』というのは多様性に逆行する考えであり、あるものを『好き』と思うのも多様性、『嫌い』と思うのも多様性。これを法整備なんて不可能だろう。もっと言えば『多様性を認めない』ってのも多様性なんじゃねーの?
多様性の前に多面性ということですかね。ちょっと違うかもやけど、「人間は不可解で矛盾をはらむ」というモームの人間観を思い出しました。
苦手な人がいたら、その人の良い所を探すよう心がけてます
たぶん、そこそこみんな理解はしてるけど面倒なんだと思います。そもそも1フレーズって考えるのもYes/Noでいいし、そこで罵り合うのが楽しいんだと思います。じゃなきゃ、不倫してる人をあれだけ叩けないですよね。今まで言わなかったのですが、個人的に大阪ナオミさんは苦手で応援する気がありません。でもそれは肌の色じゃなくて、あの性格の女性が苦手なんです。でも、そういっても信じない人がほとんだろうと思います。差別だなんだ、応援しないとは非国民か!とか言われると思うんで黙ってました。まぁ、あえて言う必要もないですし。ただ、今回の話として普通でいいというのは、きっと「え? 苦手? そうなんだ」って事で終われる社会なんでしょうね。昭和の時代って徒党を組むのが意外とカッコ悪いという時代でしたからね、他人に興味がないんですよ。「で? だから? あーそうなの?」で済むことが多かった。自分の未来を見て進む人が多かったからなんでしょうね。でも、昭和50年代後半くらいから変わってきた気はします。世間体の中身が。多様性でも多面性でも、どっちも認め合うことができることだと思いますが、どうなんでしょうね・・・。
ロザンのお二人の意見でとてもうなづけるのはネガティヴな事に異を唱えるのはもちろんだけどポジティブな事に対してもちゃんと異を唱えてくれる事だわネガティヴな事に対しては批判するのに一般的にポジティブと思われる事に対して意見の強要というか素晴らしい事なのにいちいち難癖つけるなみたいな事も誹謗中傷と同様にネットの悪癖だと個人的に思う願わくばここのコメント欄でもただただロザンさんマンセーするんじゃなく一意見として違うなと感じる時はそれはロザンさん違うんじゃないですかみたいな事を書けるコメント欄であってほしい
多様性の名の下に考えを押しつける風潮、「ごじゃ言い」がのさばるだけだと思ってます。見えたら(出したら)一発アウトな側面もあると思います。不倫に限らず炎上して干されてる人も含めて、不誠実で軽薄な性格が人として嫌われたんでしょうね。タレントさんだったら目にしたくないですもん。
警察は市民の味方と言われますが、事実として対応していれば起きなかった事件とかがあってその度にこれだから警察はっていう意見を言う人がいたりするのと同じで芸能人の不倫とかも同じ感じで叩いてるのかなーと思います多面性としてみれる部分見えない部分とあるかもしれないですけどそれらがその人の全てだと落とし込みすぎたり、思いすぎるが故に攻撃する流れなのかなと思います駄文ですいません
お話も良くって、毎回、息ぴったりの終わり方がすごい。
宇治原さんがちょくちょく、日本が差別や多様性について上手くいってないように仰ることに違和感があります。宗教的にも文化的にもかなり寛容な国という印象があって、明治以降に取り入れた欧米的な価値観が血肉に馴染む前に、欧米の側から新たな意識改革を求められてあたふたしていると言ったほうが個人的にはしっくりきます。近代以前の日本的な価値観に戻るだけで、現代の価値観に沿った自由で多様な社会になるんじゃないでしょうか。
そう、普通にしとけばええと思います
多様性を主張するのに差別的な人いるよね?
多面性が無い人間が素直とか純粋とか良いように言われがち。だから好きな人は「多面性が無い」であって欲しいって理想が高くなる。粗探しではなく人間性を認める為に多様性を探るようにしたい
何かスゴいわかります。義母がタレントの好き嫌い激しくて「○○はこういうとこがあるから嫌い」とか普通に言うけど、その人直接知っている訳じゃないし、人格否定されたら聞いているこっちが嫌な気持ちになるのに、自分の判断正しいみたいに言うんですよ。嫌われているタレント特別好きではないけど、頑張っているのになって何時もモヤモヤしてます。共働きという価値観も認めていないしなあ。
人と生きてゆくのは自分の心地よいようにばかりにはいかないのですが色んな人いるな、でも私はこの人は好き、この人は嫌い(苦手)そういう所好きそういう所嫌いはあってもいいですよね他の人にその思いを強要したりされなければ多様性を言い過ぎるあまりやらなきゃいけないみたいな感じもなんか変?心を柔軟にして生きていきたいです。
金子みすゞさんのみんな違ってみんな良いの詩を思い出しました。菅さんの今日の提案が1番早く多様性を認めていける社会だなと思います。
多様性の維持ってコストが掛かったり、誰かに負担を強いる形になるので、結局どこで落とし所をつけるかなんですよね。例えばジム等の更衣室ですが、通常は男女のみですが、トランスジェンダーの方に配慮するならば、それだけ室数を増やす必要があります。当然コストがかかります。アメリカの一部ジムでは、トランスジェンダーの方が自分の性自認の更衣室を利用する事が認められていますが、トランス女性がいる事で恐怖を受けたとシス女性が苦情を入れる等のトラブルも発生しているようです。多様性についてのトラブルは、今まではあまり報じられていませんでしたが、ここ最近になって、マジョリティであるシス女性に実害が及ぶ事で一気に顕在化した気がします。トランス女性が陸上の大会で表彰台を独占したのもその例でしょう。ここで問題なのが、その結果として恨まれるのはトランスジェンダーの方々であり、多様性を推し進めた活動家ではない事です。多様性の推進が悪だとは思いませんが、その結果生じたヘイトの全てをマイノリティに押し付ける様な無責任な真似だけはしないで欲しいと思っています。
なるほどです。以前被災した時、慰問に来た芸能人が「皆さん元気なので逆にこちらが元気をもらいました!」と言った時、被災者の空元気を真に受けるな、と心が狭い私はとても腹が立ちました。決まり文句として使わず、受け手の多様性も考えてほしいと思ったものです。
出だしで納得しすぎました。子供の頃、自己矛盾に違和感と少しの罪悪感を感じていた時に、人間は本能で矛盾している、理性で捻じ曲げて筋を通しているだけ、というのを何かで聞いて、なるほどな!これはいいこと聞いた、と思ったものでした。おかげで自己嫌悪に陥りすぎず、人に失望しすぎずにいられてラッキーだなぁと。この手の話題好きです。
車イスに関しては、メディアや◯◯時間テレビが感動ポルノ求めすぎたんやな。昔から普通に助けたり助けなかったりしたんだよなぁ。
多様性というよりは多面性の話のようでしたが、多様性の大切さの想像をすることと、多面性への想像をすることは近いのかもしれませんね。多様性を考えるにあたっては、想像を膨らますことに加えて、色んな価値観の人を実際に知ることも大事なのかもです。想像をする場合、自分の価値観の範囲内で考えてしまいがちなので、両方が必要なのかなと思いました。そして、多様性を認めるという言葉については、認められていないと感じてる人が実際にいてることなので、具体的にその事情や心情を聞いてみることがいいように思いました。ただ、その事情を聞いたときに多面性への配慮ができる人は、多様性を認めやすいのかなと思いました。違うことのようで、似てるようで、考え方もつながってるんだなと感じました。
『人はルービックキューブ』この例え良いと思いました。良い面、悪い面を持ち合わせて人間として生きているんですよね。決めつけたり視野が狭い見方では多様性の社会になるには程遠いですね。
極端な例でいうと、殺人事件とか起きた時に、犯人の知り合いが「こんな事件起こすような人じゃない」とか「真面目だったのに信じられない」みたいなこと言うのも、一人の人間の中の多様性を分かってないなあと思う。自分だって、立場や環境が変われば同じようになったかもしれないんだよと思うことは大事。
同感です。菅さんはそういうことが言いたいのかなと思ってましたが、宇治原さんが自分は人を傷つけるような書き込みをすることは一生ないとおっしゃっていましたので、言いたいことがうまく伝わっていないのかなとモヤモヤしました🙁人間なんて誰でも追いつめられると何をするかわからないと思います。
私は就労継続支援A型事業所(雇用契約をして最低賃金を保証する)障がい者福祉事業所で働いています。一つの仕事をみんなで共有しています。一面だけをみて多様性とは言えない。私達は従業員は障がいがあってもなくてもそう思える社会で共に共存できる社会をめざしてます。菅さんの「尊敬はいい、でも尊敬できない人もおる」その通り。
例えば、同性愛者の方などに配慮して夫とか妻とか言うな!パートナーと言え!!これ多様性ですかね?夫という人がいて、パートナーという人がいて別にそれ気にしなくていい。それが多様性ですよね。受け入れろ!っていう側は相手を排除したくてうずうずしてるようで凄く嫌です。
個性を認めるということと、相手を特別視するということが混同されているところもあるのでしょうか。その人と自らの思いや考えの共通点を探ろうとすると、どうしても受け入れられないところはあるかもしれません。しかし、自分と同じように、その人を大切に思う家族や友人、共に働く仲間がきっといるはずだ、とその人がいる環境や周囲に、思いを至らせることはできそうです。自分と同じだからこそ、自分の知らない面があると気付く、こともあるかもしれないと感じました。
「多用性を認めない」という意見を多用性から排除するのを見てると人間は自分のことしか考えへんのやなぁ。みつを。
多様性を積極的にいう人ほど自分の意見と違う人にきつく迫ったりする傾向があるように感じます。世の中を変えたいと思う人がそういう傾向があります。
👏👏👏
多様性を声高に主張する人ほど自分とは違う意見を絶対認めないどころか排除しがち
仕事上、自分のポリシーに反する、まさに生理的に受け付けない人間と接してるから、本当の意味での多様性を認めることの難しさを痛感させられてる。
人によって態度を変えるのは悪では無く、当然ですよね。
一人の人間は多面的ってすごく優しい考え方。「あなたってこういう人間よね」って言われて嬉しくない理由でもある。
多様性より多面性を先にってのははすごいいい表現だなと思いました自分の場合は一人一人の多様性よりも一つ一つのコミュニティの多様性を尊重する世の中になって欲しいなと思います1つしか居場所がない人を作らないことが大切です今は様々な人を常に全員が受け入れるという、世の中を1つのコミュニティにすることを目指しているような表現が多くて間違ってる気がしますね大事なのはその時その時の自分達がお互いに選べることだと考えていますもののけ姫の答えが好きですねサンは森で、私はタタラ場で暮らそう共に生きよう、会いに行くよ住み分けこそ世界の救いになると想っています
小学生くらいのころ、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉に感銘を受けて色々考えた結果、罪と人格は別であり、悪いことした人にも良い面はあるんだと思うようになりました。そこから転じて、良い人にも悪い面はあってもおかしくは無いんだろうなとも思いました。こう考えた結果、いわゆる嫌いな人というのがいなくなりました。人格や行動の一部が嫌いでも、嫌いじゃない部分があったり、嫌いなところしか知らなくても、その人のすべてを知ってるわけではないので、その人丸々嫌いになるのはおかしいかなと。なので自分は、知らないことがあることを認識することと、知らないことを無視して知っていることだけで決めつけるのはやめることが大事かなと思います。
政治家が不倫して辞職とかもどうかと思うよねー。まぁ情報統制やリスク管理が出来てなかった、って事にはつながるかもしれんけど、不道徳だ!っつって辞職に追い込むのは違うと前から思ってた(^◇^;)
最近見始めました。説明がわかりやすくてすごいなと思いました。どうすればロザンさん達みたいにお話し説明ができるのかなとと思っています。また機会があれば動画を作っていただきたくよろしくお願いします。多様性については最近よく聞く話だとは思っていますが昔からよく最近の若いもんはダメだ的な話を言われてましたがそれも一つの側面、一人の人しか見てないから出てきた言葉なんでしょうね。差別もそのうちの一つですか❓
昔誰かが、「裏切られた」っていうのは自分勝手な発言だと言ってたことを思い出しました。「裏切られた」というのは、自分が相手に対して「この人はこういう人だ」と勝手に決めつけて、相手の本質を理解せず、相手がそれに沿わない事をしたときに、「裏切られた」と感じるだけのことだ。そんな感じの意味でしたが、所謂自分のモノサシで図るという点で、今回のお話と共通するな〜と。とにかく何も決めつけない。それだけは気をつけたいです。
多様性や個人の側面の話は確かに大事なんだけど、不倫など社会や倫理のルールから外れた時点でアウトなんだと思いますが?ある一定のルールがあるから社会生活があるので、多様性を盾に好き放題してるのもなんか違うのではないでしょうか?認める、否定しないことは大事なんだけど、そのあたりがちょっと気になりました。
自分の感情の一貫性のなさを認めることが人間の多面性を実感できる手っ取り早い手段だと思います
子供の頃、よく母が「どんな人の中にも良い心と悪い心があるんだよ」と言ってました。どうしても自分の悪い面や汚い部分って見たくなくて見ないようにしてたんですが、いつからか自分のマイナスな面も認めて受け入れられるようになりました。そしたら、相手のマイナスの面も受け入れられるようになりました。「まあ、私だって完璧じゃないし悪い面もあるしな〜」って。でも自分の悪い面ばかりにフォーカスすると、今度は自信なくして周りをひがむようになるので😅良い面も悪い面も得手不得手も好き嫌いも全部同じくらい自分にとっては大切なものなんだな〜と思います。その上で自分なりに相手を思いやったり、誠実に生きてけばいいんじゃないのかなぁ。人間なんて完璧じゃなくて歪なもの。でもだからこそ、自分のマイナスを補ってくれるプラスを持つ相手に出会えたら、「カチッ」と凸と凹がハマるんじゃないかな。それが人生とか仕事とかでの相性ってやつなのかもと思います。違うことを批判しあわず補い合えばいいと思う。ボケる人がいて、ツッコむ人がいる。だから良い仕事ができる。片方だけだと出来ないですもんね😀
昔に読んだ「バカの壁」という本を思い出しました。個性を伸ばすことが教育ではない、協調性を学ぶことが教育だと。なぜなら人は生まれながらに非常に強い個性を持っているから、そのままでは社会生活には困難な面もある。協調性に不可欠なのは「想像力」それを身に着けるのが教育・・・。この本は私の人生を変えました。多様性とは自分を認めさせることではなく他人を理解することと学びました。
目から鱗のお話でした✨宇治原さんの後輩に対する多様性あるツッコミは是非とも見てみたい。
お二人のお話しを聞いて、『多様性のある社会』の実現には、自らの価値観とかけ離れているもの、特に真逆の価値観への『寛容さ』というものが、とても大事なのだと改めて心に刻みました。
毎回新たな気づきを頂いてますが、今回も深いぃ議題ですね。そのまま道徳の授業に使えそう。いや、学校だけでなく社会人のハラスメントの研修に使って欲しい以前、流行語大賞に『日本◯ね』ろいう言葉が取り上げられました。あの辺りから、公に使っていい言葉なんだ。と勘違いしているのではないでしょうか。嘆かわしいことですが…
「罪を憎んで人を憎まず」ですね。
その人の属する属性に左右されすぎてると思うんですよね。男性だから、女性だから、大人だから、子供だから。それぞれに配慮する必要はあるし、制限されてもいけない。
少しでも政府を擁護するとネトウヨ扱いされる逆もまた然り変な世の中になってまいりました
それは確かに君が代歌ったり、日本国旗掲げるだけでネトウヨガー!極右ガー!とレッテル貼りされるネット社会
私はこのコロナ禍で、まず自分が自分の多様性を認識することが他人の多様性を理解する第一歩かな、と思うようになりました。自分にも色んな側面があるのだから、他人にも色んな側面があるし、一括りにしがちな人達にも色んな人がいるんだよ、と。そう思うようになったのも、そこから思い付いた標語で社内コンテストに入賞できたのも、この楽屋でのお話のおかげだと思います。ありがとうございます🥰
現代思想の重要なキーワードに「実体」と「関係」というものがあります。実体とは他と無関係にそれ自体で独立に存在するものや概念、「関係」とは他との関係性によって生まれるものや概念です。近代以前の哲学では、人間の本質はその人自身に備わっている「実体」だと考えられてきました。しかし、ヘーゲル以降の哲学、マルクス主義、実存主義、構造主義などではそれは他者との関係によって規定される「関係」であるという考えが主流となっています。これはつまり一人の人間に多様な面が内在するのではなく、他者との関係において事後的に本質が規定されるということです。だから多様性を認めるということは自分から見えているその人の本質だと思っている部分が、自分の恣意的な解釈の一つにすぎないのだということを謙虚に認めることなのではないでしょうか。
罪を憎んで人を憎まずって言葉がしっくりくるきがしました。罪の部分の解釈を広げて自分にとって気に入らない事にする感じです。
多様性にしろ、以前お話しされていた同調圧力にしろ、結局他人に強要することが良くないんですよね…😩
多様性は認めさせるものではなく認めるものだと思います。多様性の許容ではなく多様性の強要をしてしまっては本当の意味での多様性から遠ざかっていきますよね。
勝手にコメントしてゴメンなさい。全く同感だったので。2人の伝えたい事も、そう言う事なのかなと。最近、強要に近い流れになってる事にモヤモヤ。
「多様性を阻むのは多様性」つまり、差別を行ってもよいと考える人がいてもその考え方を否定すると、多様性を阻んでいるのと同義になるということです
その物差しも時々で使い分けてる気がします。自分の事も全部わかってないのに、全肯定や全否定するほど人の事がわかるわけない。そう思いつつ、とっても苦手な人もいますけど…😅「多様性を認める練習をする団体」多角的かつ俯瞰的な(面のある)菅さんの主宰なら入会します🙋
面白いけど多様性とはまた違った議論のように思います個人の小さな感覚?の違いというか…本当に均一化してきたなあと思いました
多様性の話になると、そこはかとなく漂う閉塞感はなんなんでしょうか。他者に対して理解を求めすぎて、新しい敵を再生産してるだけにも見えてしまいます。自分の愛情の射程がギリギリ届かない人を頑張って愛していく、というのがキリスト教の隣人愛であり。自分の事はひとまず置いておいて他者目線で考える、というのが仏教の無我だと思っています。要は自分がどこまで感情移入できるかであり、他者に求める事ではないという事だと思います。映画などで主人公以外の人にも意識的に感情移入すると訓練になりそうです。
本当に哲学者か!な、お話でした。多面性(裏表)がない人ほどスマートに見える風潮もあって、自分の多面性はおかしいのか?と思うことがありましたが、「人間って複雑な側面のあるルービックキューブみたいなもんやん?」と言う菅ちゃんに救われた気持ちになりました。
今日の話は、僕が生きてきて、いい流れが来始めたときに、知った考え方だったので、またひとつ自信が持てました。
好き嫌いだけで人や物事を判断しない事、難しいですがとても大切なことだと思います。
未成年はこういうことに結構敏感で、平等だの多様性だのといった錦の御旗が脳内にこびりついて、特に男子(敢えて性別書きます)に、何も言えない人が増えてきてるという印象が強いです。表面上は「無気力で何の夢も持ってない」感じに見えてしまいます。本件については日本のいつもの癖で、「舶来品」にびびっちゃってメーターを一気に100%にしてしまおうとする観があるので、少なくとも未成年への教育しては、段階を踏んでバランスよくという形になるのを期待してます。「別に主観や偏見自体は持っててもいいじゃん、そこからの修正力を鍛えれば」って思う。客観視を過度に重視し、偏見を無理に消し去ろうとすると、思考停止を生むリスクがある。
今回のテーマは「多様性」なのか「多面性」なのか分からなくなりました。
「私○○な人だから」と自身で自身を型にはめる人が多く感じる。個人の中の多様性を認めようにも、世間の向く先は、むしろ自身で多様性を拒否しているように感じる。
僕も多様性を声高に叫ぶ人に限って多様性無いなぁって感じる事がよくある。その多様性を受け入れたくない人や受け入れ難い価値観を持つ人に対して非常に攻撃的になったりする場面をよく目にするからです。僕はこれを多様性のジレンマって呼んでいます。
誰もが生きやすい社会…多様性と共に叫ばれる言葉を見るたびに思うのは『多様性を容れるとは、誰にとってもそこそこ居心地悪い社会と言う事実を容れること』です。誰かの一面を好きな人も嫌いな人も居る。何かを快適に思う一方で、同じものを不快に感じる場合もある。全員を満たす世界を作るには、まだ人類は未熟だし、それを成し得た人類はもはや僕らが認識できる「人類」ではないと思います。
随分前に乙武さんがおっしゃってました。『障がい者がみんないい人ではないです。健常者も色んな人がいるでしょ?障がい者も同じです。』菅さんの“多様性の会”、入会しますよ!(笑)
どこかで、聞いた話ですが車椅子に乗っている障害者が付添人に押されて移動していたときに付添人が「ごめんなさい。車椅子が通りますから、ちょっと動いてもらえますか」と言った。この時、障害者の方は「ごめんなさい」という言葉で「私って邪魔なのかな」と受け止める人もいるそうです。もちろん付添人もやさしさで行動しているし、車椅子の大きさや動く範囲でよけてもらうしかない場合もあります。逆に「車椅子が通るんだから避けろや。おまえらに優しさは無いのか!」と怒鳴ることも間違っている。ここで「普通」が必要になってくると思います。まぁ具体的に「普通」の言い方とはとなると意外と言葉選びが難しい。というか慣れていないと言ったほうが良いのか。
なんだか禅問答みたいになりますね。
多様性って難しいですよね。多様性を認めろーって声のでかい人は多様性を本当に認めてるのかな?って日頃思います。
急に「どお?」って聞いてくるの、思わず吹き出しました。
お話を聞いて、耳が痛かったです。反対意見に絡んでいた自分を猛省。お二人には感謝しかありません。これからも応援して参ります。
最近 本当に多様性について悩んでいたので凄く参考になりました。個人の中の多様性をまず見ていく練習します。→本当に話はそれからだと思いました。ありがとうございます。ちなみに私は仕事柄、尊敬できない、また嫌いな高齢者や障がい者の方が多々います。泣
多様性を認める社会にはなってほしいなとは思うんですが、多様性について大声で言ってるのに、自分と違う意見の人は認めない!って方もいるんですよね…。批判のために利用してる人がいると、なかなか社会で認められなそうだな…とも思っちゃいます。
多様性多様性!多様性が大事!と言いつつ、自分への反対意見(多様な意見の1つ)を認めないダブスタの奴らいますよね 笑
6:17 すっごい深い話をされているのに「ルービックキューブ」を少し噛んじゃうの可愛い〜宇治原さんそれに微妙に反応してる〜とかが気になってすみません。
最近、菅ちゃんがどこで甘噛みするかが密かな楽しみになってきてます😊
@@harapochi さん甘噛かわいい❤️ 子犬?あ、ラーテルだった💦すごく良い話している時に天然出してくるの菅ちゃんぽいですよね。気付きながらスルーしている時のお顔が宇治原さんぽいなとも。
深いです。多様性を認める練習、やります!何回も見直して考えます✨
こんだけ一緒に過ごしてこんな話を丁度いい距離感というか間合いというか優しさで話せる2人が大好き
ありがとうございます😊
嬉しい🥺
@@rozannogakuya いつも楽しく拝見させて頂いてます、これからも更新楽しみにしてますね😊
この議論に関して、菅さんが何を言いたかったのか僕にはあまり理解できませんでした。
個人の中の多様性を理解してないと、『本当の私を見てくれない』『こんなの本当の私じゃない』などの『本当の私』という幻想に囚われるように思います。
自分の側面を理解して、使い分けている自分にも気付かないと、他の人の多様性も受け入れられない気がしています。
自分と違う=理解できない=嫌い
となってしまう人が多い。
あなたと考え方が違うという事が分かりました。で十分。攻撃する必要ゼロ。
社会学を学んでいて、その中で、ドラマツルギーという言葉がありますが、一個人の中で役割を使い分けている、演じているという概念です
社会においてキャラを演じるといって馬鹿にされがちだと思いますが、人間関係や社会の構成員として、個人が変化することは、とても大事だと認識しておくべきだと思います。
少しズレるかもしれませんが、知人がSNSで「アスリートなど発信力ある人はもっと政治・社会について発信する義務がある」と言っていて私は違和感を覚えました。
アスリートは発信することを仕事にしているわけでもない。発信しないことも許容されて然るべきだと思います。
便利な言葉ですね。好き勝手やっても許される免罪符みたいなもの。リスペクトと同じかな。困った時の「多様性」。
多様性を推してくる人が他人の多様性を認めないの見ると結局多様性を認めるなんて幻想なんだなって思う。
他人の多様性を「認める」って上から目線に感じる。受け入れなければならないではなく、そこに当たり前に存在するという認識じゃ駄目なのかな。
時折り多様性って相手への都合のいい諦めや当事者の逃げどころなのかなって思う時もあります。
私には電動車椅子に乗っている友人がいます。
私から茶化すこともあれば、友人もふざけて電動車椅子で突進して来たりしており、互いに仲良く遊んでいるのですが、彼が障害者としか見えない方々には奇異の目で見られることもあります。
宇治原さんの言っていた「普通にしとけばいい」という言葉がすごいよくわかります。
障害者を見る目の普通って何?
@@m-chiko4892 私自身なんと言えばしっくり伝わるか悩むのですが、日常生活で泳げる人と泳げない人を最初に分けて友人付き合いしないことと同じような感覚ですかね…。
人と知り合った時に「あぁ、あの人は泳げない人なんだ…。」と重くとる人よりも、「へぇ~」ぐらいに思う人の方が多いと思います。
車椅子に関しても変に持ち上げたり過剰な配慮をするのではなく、「へぇ~」ぐらいの気持ちでいることが、普通に見ることだと思います。
一般論ではなく私の経験談ですが、ご回答になれば幸いです。長文失礼しました。
@@m-chiko4892 多分、『あの人は車椅子に乗る人なんだ』くらいの認識で良いよってことなんだと思います。
失礼しました。
私は難病に指定されている消化器の病気を10代から患っています。(病歴は15年目です。)
調子のいい時は見た目にはほとんどわかりませんが、悪化すれば座っていることもできません。
私の中で、病気は自分自身のほんの一部です。でも、病気を知った人は私のことを病人として扱う部分がかなり増えます。
それは大半は優しさなんですが、でも私の中の割合と全く合わないことが苦しいです。
病気だからと甘い評価をされるのも、嫌なものです。
「普通にしとけばいい」は、ずっと心の中で叫んできたことだったので、言ってもらえて有り難かったです。
多様性って実に便利な言葉だと思う。
それに意図的に隠れる人もいる。
多様性の行きつくところ、人類の共通項って人の子である くらいだからね それ以外まったく同じなんてないんだと思う。
人格心理学でいう特性論をベースにして多様性を認めていくという話に聴こえてきました。
感謝しないといけないとか、上司の言うことを聞かないといけないとか、こうでなければいけない、が多すぎ。
それは、個人の自由。
自然と感謝するし、上司の言うことも自分が従った方が良いと思えば従えば良い。他にも色々あると思う。
固定概念が多すぎ。
多様な人たちだけでなく、1人の人も多様な面を持ってるというのは覚えておかなければならないことですね。
いつも間違ったこと言うコメンテーターだから何も聞かなくていい、ではなくもしかしたら有益なことを言ってるかもしれないと思って聞かなきゃいかんかなぁ。
無料で貴重なお話ありがとうございます。今の自分に刺さりました。自分の物差しで測りすぎないようにします。合わない人が居ても当たり前ですね。心が楽になりました。
多様性と寛容がセットじゃね。
違いを認めた後に、まぁ一緒のとこも有るよねって方が上手く行くと思うが。
芸人で一括りにされるが嫌な時もあれば、芸人ってだけで助け合ったりもするでしょ。
多様性で思い出しましたが、前に、人魚姫の実写映画で黒人歌手の女の子が主役に選ばれたニュースを見て、これって多様性なのかなと感じたことがありました。多様性って伝統ある価値観の中に無理に新しい価値観を押し込むことじゃなくて、世界にはこんなに面白い話があるんだよって、マイナーな国の物語を世界に発信していく作業こそが多様性なんじゃないの?って思ったことがありました。で、それを外国語学習アプリのタイムラインで投稿したら、誰かに差別的だと通報されたみたいで、その投稿が削除された経験があります。これについては自分の意見もそこまで固まっていなかったので放っておきましたが…
あと、クズとか言い過ぎって仰いますが、一般的な目で見て他人を傷つける言動をしている人は普通にクズだと思います。犯罪やそれに類する行為をしている人を誰かがクズと言ったからって、そもそもその犯罪に多様性など認められないのだから、言われて文句は言えないと思います。
至って当然の話。
どんなに猟奇的な無差別犯罪を犯した人でも、歴史的な大悪人と言われている指導者でも、その人がどうしてそうなったのかを考えない限り平行線ですよ。
おそらく「この人はこんな人だ」と決めつけることで『余計なこと』を考えないで済む(=必要以上のエネルギーを使わなくて済む)からなんだろうと思うけど。
フランス人のゲイカップルの方々が、意外にも日本の方が過ごしやすいと言っていました。あちらでは解放しようと運動があって実際認められていても、歩いているといきなり後ろから殴られたり罵倒されることがしばしばあるそうで、日本は手を繋いでデートしていてもスルーされるから良いとのこと。
日本人は身近に起きていないことは本来どーでもいいのかも。SNSやタレントは身近なものを増やしてしまったのかもしれませんね。
宇治原さんと意見が合わなくてもいいんだなって思う=自分にも意見があるんだなって言う自信になる。
菅さんの話は、いつも納得。
わからない言葉をわかりやすく。
ありがとう。
分かり過ぎますそこですよね〜❗
と頷くばかりでした。
自分の物差し…決め付け
一部の側面だけ見て気に入らないと
叩く認めないみたいな傾向が強いかと
思います。寛容さが無い。懐が狭い
世知辛い世の中になってしまってるな
と感じる事が多くなりました。
多様性が変な方向に行ってしまってて
おかしな世の中にならないか…
と心配もあります。
日本人が下手というより多様性を
声高らかに叫ぶ方々がズレてるかと
思います。
少し話がずれますが、『多様性』とセットにして語られる言葉に『分断』があると思います。
近頃、あらゆるメディアで『社会の分断』という言葉を聞きますが、その『社会の分断』を引き起こしているのは他人の考えや思想を受け入れられない多様性の無い人達だと思います。
多様性が大事だ(他人の価値観を尊重する)という事を分かっていながらも、自分の価値観や常識が絶対に正しいと思い込んでいる人が一定数います。
彼等が、『自分と違う考えの人の話にも一理ある(論理的である)』という認識を抱かない限り、多様性の本質には近づいていくことはないと思います。
似非フェミニスト達による炎上問題が昨今肥大化しているけど
そういう多様性を認められない人達の行いだと思ってしまう
本当のフェミニストなら、多様性を認めらるべきだし
そこからも歩み寄りになると思うんですよねぇ……
平野啓一郎さんも同じようなことを提唱されてますね。個人の中にもいろいろな個人がいる。
他のとこでも同じ様な事を書いたけど…
もちろん多様性を認めるのは大事な事。
でもそれは思想というか個々人の考え方としてあるべきであって法整備したらダメ。
何故なら、際限なく多様性を認めてたらキリが無いので、必ず何処かで規制する事になり
『多様性を認める』という考えが破綻してしまうから。
『◯◯を嫌いになるな』というのは多様性に逆行する考えであり、
あるものを『好き』と思うのも多様性、『嫌い』と思うのも多様性。
これを法整備なんて不可能だろう。
もっと言えば『多様性を認めない』ってのも多様性なんじゃねーの?
多様性の前に多面性ということですかね。
ちょっと違うかもやけど、「人間は不可解で矛盾をはらむ」というモームの人間観を思い出しました。
苦手な人がいたら、その人の良い所を探すよう心がけてます
たぶん、そこそこみんな理解はしてるけど面倒なんだと思います。そもそも1フレーズって考えるのもYes/Noでいいし、そこで罵り合うのが楽しいんだと思います。じゃなきゃ、不倫してる人をあれだけ叩けないですよね。
今まで言わなかったのですが、個人的に大阪ナオミさんは苦手で応援する気がありません。でもそれは肌の色じゃなくて、あの性格の女性が苦手なんです。でも、そういっても信じない人がほとんだろうと思います。
差別だなんだ、応援しないとは非国民か!とか言われると思うんで黙ってました。まぁ、あえて言う必要もないですし。
ただ、今回の話として普通でいいというのは、きっと「え? 苦手? そうなんだ」って事で終われる社会なんでしょうね。
昭和の時代って徒党を組むのが意外とカッコ悪いという時代でしたからね、他人に興味がないんですよ。「で? だから? あーそうなの?」で済むことが多かった。
自分の未来を見て進む人が多かったからなんでしょうね。
でも、昭和50年代後半くらいから変わってきた気はします。世間体の中身が。
多様性でも多面性でも、どっちも認め合うことができることだと思いますが、どうなんでしょうね・・・。
ロザンのお二人の意見でとてもうなづけるのはネガティヴな事に異を唱えるのはもちろんだけどポジティブな事に対してもちゃんと異を唱えてくれる事だわ
ネガティヴな事に対しては批判するのに一般的にポジティブと思われる事に対して意見の強要というか
素晴らしい事なのにいちいち難癖つけるなみたいな事も誹謗中傷と同様にネットの悪癖だと個人的に思う
願わくばここのコメント欄でもただただロザンさんマンセーするんじゃなく
一意見として違うなと感じる時はそれはロザンさん違うんじゃないですかみたいな事を書けるコメント欄であってほしい
多様性の名の下に考えを押しつける風潮、「ごじゃ言い」がのさばるだけだと思ってます。
見えたら(出したら)一発アウトな側面もあると思います。
不倫に限らず炎上して干されてる人も含めて、不誠実で軽薄な性格が人として嫌われたんでしょうね。タレントさんだったら目にしたくないですもん。
警察は市民の味方
と言われますが、事実として対応していれば起きなかった事件とかがあって
その度にこれだから警察はっていう意見を言う人がいたりするのと同じで
芸能人の不倫とかも同じ感じで叩いてるのかなーと思います
多面性としてみれる部分見えない部分とあるかもしれないですけど
それらがその人の全てだと落とし込みすぎたり、思いすぎるが故に攻撃する流れなのかなと思います
駄文ですいません
お話も良くって、毎回、息ぴったりの終わり方がすごい。
宇治原さんがちょくちょく、日本が差別や多様性について上手くいってないように仰ることに違和感があります。
宗教的にも文化的にもかなり寛容な国という印象があって、明治以降に取り入れた欧米的な価値観が血肉に馴染む前に、欧米の側から新たな意識改革を求められてあたふたしていると言ったほうが個人的にはしっくりきます。
近代以前の日本的な価値観に戻るだけで、現代の価値観に沿った自由で多様な社会になるんじゃないでしょうか。
そう、普通にしとけばええと思います
多様性を主張するのに差別的な人いるよね?
多面性が無い人間が素直とか純粋とか良いように言われがち。
だから好きな人は「多面性が無い」であって欲しいって理想が高くなる。粗探しではなく人間性を認める為に多様性を探るようにしたい
何かスゴいわかります。義母がタレントの好き嫌い激しくて「○○はこういうとこがあるから嫌い」とか普通に言うけど、その人直接知っている訳じゃないし、人格否定されたら聞いているこっちが嫌な気持ちになるのに、自分の判断正しいみたいに言うんですよ。嫌われているタレント特別好きではないけど、頑張っているのになって何時もモヤモヤしてます。共働きという価値観も認めていないしなあ。
人と生きてゆくのは自分の心地よいようにばかりにはいかないのですが
色んな人いるな、
でも私はこの人は好き、
この人は嫌い(苦手)
そういう所好き
そういう所嫌い
はあってもいいですよね
他の人にその思いを強要したりされなければ
多様性を言い過ぎるあまり
やらなきゃいけないみたいな感じも
なんか変?
心を柔軟にして生きていきたいです。
金子みすゞさんのみんな違ってみんな良いの詩を思い出しました。
菅さんの今日の提案が1番早く多様性を認めていける社会だなと思います。
多様性の維持ってコストが掛かったり、誰かに負担を強いる形になるので、結局どこで落とし所をつけるかなんですよね。
例えばジム等の更衣室ですが、通常は男女のみですが、トランスジェンダーの方に配慮するならば、それだけ室数を増やす必要があります。当然コストがかかります。
アメリカの一部ジムでは、トランスジェンダーの方が自分の性自認の更衣室を利用する事が認められていますが、トランス女性がいる事で恐怖を受けたとシス女性が苦情を入れる等のトラブルも発生しているようです。
多様性についてのトラブルは、今まではあまり報じられていませんでしたが、ここ最近になって、マジョリティであるシス女性に実害が及ぶ事で一気に顕在化した気がします。トランス女性が陸上の大会で表彰台を独占したのもその例でしょう。
ここで問題なのが、その結果として恨まれるのはトランスジェンダーの方々であり、多様性を推し進めた活動家ではない事です。
多様性の推進が悪だとは思いませんが、その結果生じたヘイトの全てをマイノリティに押し付ける様な無責任な真似だけはしないで欲しいと思っています。
なるほどです。以前被災した時、慰問に来た芸能人が「皆さん元気なので逆にこちらが元気をもらいました!」と言った時、被災者の空元気を真に受けるな、と心が狭い私はとても腹が立ちました。決まり文句として使わず、受け手の多様性も考えてほしいと思ったものです。
出だしで納得しすぎました。
子供の頃、自己矛盾に違和感と少しの罪悪感を感じていた時に、人間は本能で矛盾している、理性で捻じ曲げて筋を通しているだけ、というのを何かで聞いて、なるほどな!これはいいこと聞いた、と思ったものでした。
おかげで自己嫌悪に陥りすぎず、人に失望しすぎずにいられてラッキーだなぁと。この手の話題好きです。
車イスに関しては、メディアや◯◯時間テレビが感動ポルノ求めすぎたんやな。
昔から普通に助けたり助けなかったりしたんだよなぁ。
多様性というよりは多面性の話のようでしたが、多様性の大切さの想像をすることと、多面性への想像をすることは近いのかもしれませんね。
多様性を考えるにあたっては、想像を膨らますことに加えて、色んな価値観の人を実際に知ることも大事なのかもです。
想像をする場合、自分の価値観の範囲内で考えてしまいがちなので、両方が必要なのかなと思いました。
そして、多様性を認めるという言葉については、認められていないと感じてる人が実際にいてることなので、具体的にその事情や心情を聞いてみることがいいように思いました。
ただ、その事情を聞いたときに多面性への配慮ができる人は、多様性を認めやすいのかなと思いました。
違うことのようで、似てるようで、考え方もつながってるんだなと感じました。
『人はルービックキューブ』この例え良いと思いました。良い面、悪い面を持ち合わせて人間として生きているんですよね。決めつけたり視野が狭い見方では多様性の社会になるには程遠いですね。
極端な例でいうと、殺人事件とか起きた時に、犯人の知り合いが
「こんな事件起こすような人じゃない」とか「真面目だったのに信じられない」
みたいなこと言うのも、一人の人間の中の多様性を分かってないなあと思う。
自分だって、立場や環境が変われば同じようになったかもしれないんだよと思うことは大事。
同感です。菅さんはそういうことが言いたいのかなと思ってましたが、宇治原さんが自分は人を傷つけるような書き込みをすることは一生ないとおっしゃっていましたので、言いたいことがうまく伝わっていないのかなとモヤモヤしました🙁
人間なんて誰でも追いつめられると何をするかわからないと思います。
私は就労継続支援A型事業所(雇用契約をして最低賃金を保証する)障がい者福祉事業所で働いています。一つの仕事をみんなで共有しています。一面だけをみて多様性とは言えない。私達は従業員は障がいがあってもなくてもそう思える社会で共に共存できる社会をめざしてます。
菅さんの「尊敬はいい、でも尊敬できない人もおる」その通り。
例えば、同性愛者の方などに配慮して夫とか妻とか言うな!パートナーと言え!!
これ多様性ですかね?
夫という人がいて、パートナーという人がいて別にそれ気にしなくていい。
それが多様性ですよね。
受け入れろ!っていう側は相手を排除したくてうずうずしてるようで凄く嫌です。
個性を認めるということと、相手を特別視するということが混同されているところもあるのでしょうか。
その人と自らの思いや考えの共通点を探ろうとすると、どうしても受け入れられないところはあるかもしれません。
しかし、自分と同じように、その人を大切に思う家族や友人、共に働く仲間がきっといるはずだ、とその人がいる環境や周囲に、思いを至らせることはできそうです。
自分と同じだからこそ、自分の知らない面があると気付く、こともあるかもしれないと感じました。
「多用性を認めない」という意見を多用性から排除するのを見てると人間は自分のことしか考えへんのやなぁ。みつを。
多様性を積極的にいう人ほど自分の意見と違う人にきつく迫ったりする傾向があるように感じます。
世の中を変えたいと思う人がそういう傾向があります。
👏👏👏
多様性を声高に主張する人ほど自分とは違う意見を絶対認めないどころか排除しがち
仕事上、自分のポリシーに反する、まさに生理的に受け付けない人間と接してるから、本当の意味での多様性を認めることの難しさを痛感させられてる。
人によって態度を変えるのは悪では無く、当然ですよね。
一人の人間は多面的ってすごく優しい考え方。
「あなたってこういう人間よね」って言われて嬉しくない理由でもある。
多様性より多面性を先にってのははすごいいい表現だなと思いました
自分の場合は一人一人の多様性よりも一つ一つのコミュニティの多様性を尊重する世の中になって欲しいなと思います
1つしか居場所がない人を作らないことが大切です
今は様々な人を常に全員が受け入れるという、世の中を1つのコミュニティにすることを目指しているような表現が多くて間違ってる気がしますね
大事なのはその時その時の自分達がお互いに選べることだと考えています
もののけ姫の答えが好きですね
サンは森で、私はタタラ場で暮らそう
共に生きよう、会いに行くよ
住み分けこそ世界の救いになると想っています
小学生くらいのころ、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉に感銘を受けて色々考えた結果、罪と人格は別であり、悪いことした人にも良い面はあるんだと思うようになりました。そこから転じて、良い人にも悪い面はあってもおかしくは無いんだろうなとも思いました。
こう考えた結果、いわゆる嫌いな人というのがいなくなりました。人格や行動の一部が嫌いでも、嫌いじゃない部分があったり、嫌いなところしか知らなくても、その人のすべてを知ってるわけではないので、その人丸々嫌いになるのはおかしいかなと。
なので自分は、知らないことがあることを認識することと、知らないことを無視して知っていることだけで決めつけるのはやめることが大事かなと思います。
政治家が不倫して辞職とかもどうかと思うよねー。まぁ情報統制やリスク管理が出来てなかった、って事にはつながるかもしれんけど、不道徳だ!っつって辞職に追い込むのは違うと前から思ってた(^◇^;)
最近見始めました。
説明がわかりやすくてすごいなと思いました。どうすればロザンさん達みたいにお話し説明ができるのかなとと思っています。また機会があれば動画を作っていただきたくよろしくお願いします。
多様性については最近よく聞く話だとは思っていますが昔からよく最近の若いもんはダメだ的な話を言われてましたがそれも一つの側面、一人の人しか見てないから出てきた言葉なんでしょうね。差別もそのうちの一つですか❓
昔誰かが、「裏切られた」っていうのは自分勝手な発言だと言ってたことを思い出しました。
「裏切られた」というのは、自分が相手に対して「この人はこういう人だ」と勝手に決めつけて、相手の本質を理解せず、相手がそれに沿わない事をしたときに、「裏切られた」と感じるだけのことだ。
そんな感じの意味でしたが、所謂自分のモノサシで図るという点で、今回のお話と共通するな〜と。
とにかく何も決めつけない。それだけは気をつけたいです。
多様性や個人の側面の話は確かに大事なんだけど、不倫など社会や倫理のルールから外れた時点でアウトなんだと思いますが?
ある一定のルールがあるから社会生活があるので、多様性を盾に好き放題してるのもなんか違うのではないでしょうか?
認める、否定しないことは大事なんだけど、そのあたりがちょっと気になりました。
自分の感情の一貫性のなさを認めることが人間の多面性を実感できる手っ取り早い手段だと思います
子供の頃、よく母が「どんな人の中にも良い心と悪い心があるんだよ」と言ってました。
どうしても自分の悪い面や汚い部分って見たくなくて見ないようにしてたんですが、いつからか自分のマイナスな面も認めて受け入れられるようになりました。
そしたら、相手のマイナスの面も受け入れられるようになりました。「まあ、私だって完璧じゃないし悪い面もあるしな〜」って。
でも自分の悪い面ばかりにフォーカスすると、今度は自信なくして周りをひがむようになるので😅
良い面も悪い面も得手不得手も好き嫌いも全部同じくらい自分にとっては大切なものなんだな〜と思います。
その上で自分なりに相手を思いやったり、誠実に生きてけばいいんじゃないのかなぁ。
人間なんて完璧じゃなくて歪なもの。
でもだからこそ、自分のマイナスを補ってくれるプラスを持つ相手に出会えたら、「カチッ」と凸と凹がハマるんじゃないかな。それが人生とか仕事とかでの相性ってやつなのかもと思います。違うことを批判しあわず補い合えばいいと思う。
ボケる人がいて、ツッコむ人がいる。だから良い仕事ができる。片方だけだと出来ないですもんね😀
昔に読んだ「バカの壁」という本を思い出しました。個性を伸ばすことが教育ではない、協調性を学ぶことが教育だと。
なぜなら人は生まれながらに非常に強い個性を持っているから、そのままでは社会生活には困難な面もある。
協調性に不可欠なのは「想像力」それを身に着けるのが教育・・・。この本は私の人生を変えました。
多様性とは自分を認めさせることではなく他人を理解することと学びました。
目から鱗のお話でした✨
宇治原さんの後輩に対する多様性あるツッコミは是非とも見てみたい。
お二人のお話しを聞いて、『多様性のある社会』の実現には、自らの価値観とかけ離れているもの、特に真逆の価値観への『寛容さ』というものが、とても大事なのだと改めて心に刻みました。
毎回新たな気づきを頂いてますが、今回も深いぃ議題ですね。
そのまま道徳の授業に使えそう。いや、学校だけでなく社会人のハラスメントの研修に使って欲しい
以前、流行語大賞に『日本◯ね』ろいう言葉が取り上げられました。あの辺りから、公に使っていい言葉なんだ。と勘違いしているのではないでしょうか。嘆かわしいことですが…
「罪を憎んで人を憎まず」ですね。
その人の属する属性に左右されすぎてると思うんですよね。男性だから、女性だから、大人だから、子供だから。それぞれに配慮する必要はあるし、制限されてもいけない。
少しでも政府を擁護するとネトウヨ扱いされる
逆もまた然り
変な世の中になってまいりました
それは確かに
君が代歌ったり、日本国旗掲げるだけで
ネトウヨガー!極右ガー!
とレッテル貼りされるネット社会
私はこのコロナ禍で、まず自分が自分の多様性を認識することが
他人の多様性を理解する第一歩かな、と思うようになりました。
自分にも色んな側面があるのだから、他人にも色んな側面があるし、
一括りにしがちな人達にも色んな人がいるんだよ、と。
そう思うようになったのも、
そこから思い付いた標語で
社内コンテストに入賞できたのも、
この楽屋でのお話のおかげだと思います。
ありがとうございます🥰
現代思想の重要なキーワードに「実体」と「関係」というものがあります。実体とは他と無関係にそれ自体で独立に存在するものや概念、「関係」とは他との関係性によって生まれるものや概念です。近代以前の哲学では、人間の本質はその人自身に備わっている「実体」だと考えられてきました。しかし、ヘーゲル以降の哲学、マルクス主義、実存主義、構造主義などではそれは他者との関係によって規定される「関係」であるという考えが主流となっています。これはつまり一人の人間に多様な面が内在するのではなく、他者との関係において事後的に本質が規定されるということです。だから多様性を認めるということは自分から見えているその人の本質だと思っている部分が、自分の恣意的な解釈の一つにすぎないのだということを謙虚に認めることなのではないでしょうか。
罪を憎んで人を憎まずって言葉がしっくりくるきがしました。罪の部分の解釈を広げて自分にとって気に入らない事にする感じです。
多様性にしろ、以前お話しされていた同調圧力にしろ、結局他人に強要することが良くないんですよね…😩
多様性は認めさせるものではなく認めるものだと思います。
多様性の許容ではなく多様性の強要をしてしまっては本当の意味での多様性から遠ざかっていきますよね。
勝手にコメントしてゴメンなさい。
全く同感だったので。
2人の伝えたい事も、そう言う事なのかなと。
最近、強要に近い流れになってる事にモヤモヤ。
「多様性を阻むのは多様性」
つまり、差別を行ってもよいと考える人がいてもその考え方を否定すると、多様性を阻んでいるのと同義になるということです
その物差しも時々で使い分けてる気がします。
自分の事も全部わかってないのに、全肯定や全否定するほど人の事がわかるわけない。
そう思いつつ、とっても苦手な人もいますけど…😅
「多様性を認める練習をする団体」多角的かつ俯瞰的な(面のある)菅さんの主宰なら入会します🙋
面白いけど多様性とはまた違った議論のように思います
個人の小さな感覚?の違いというか…
本当に均一化してきたなあと思いました
多様性の話になると、そこはかとなく漂う閉塞感はなんなんでしょうか。
他者に対して理解を求めすぎて、新しい敵を再生産してるだけにも見えてしまいます。
自分の愛情の射程がギリギリ届かない人を頑張って愛していく、というのがキリスト教の隣人愛であり。
自分の事はひとまず置いておいて他者目線で考える、というのが仏教の無我だと思っています。
要は自分がどこまで感情移入できるかであり、他者に求める事ではないという事だと思います。
映画などで主人公以外の人にも意識的に感情移入すると訓練になりそうです。
本当に哲学者か!な、お話でした。
多面性(裏表)がない人ほどスマートに見える風潮もあって、自分の多面性はおかしいのか?と思うことがありましたが、
「人間って複雑な側面のあるルービックキューブみたいなもんやん?」
と言う菅ちゃんに救われた気持ちになりました。
今日の話は、僕が生きてきて、いい流れが来始めたときに、知った考え方だったので、またひとつ自信が持てました。
好き嫌いだけで人や物事を判断しない事、難しいですがとても大切なことだと思います。
未成年はこういうことに結構敏感で、平等だの多様性だのといった錦の御旗が脳内にこびりついて、特に男子(敢えて性別書きます)に、何も言えない人が増えてきてるという印象が強いです。表面上は「無気力で何の夢も持ってない」感じに見えてしまいます。
本件については日本のいつもの癖で、「舶来品」にびびっちゃってメーターを一気に100%にしてしまおうとする観があるので、少なくとも未成年への教育しては、段階を踏んでバランスよくという形になるのを期待してます。「別に主観や偏見自体は持っててもいいじゃん、そこからの修正力を鍛えれば」って思う。客観視を過度に重視し、偏見を無理に消し去ろうとすると、思考停止を生むリスクがある。
今回のテーマは「多様性」なのか「多面性」なのか分からなくなりました。
「私○○な人だから」
と自身で自身を型にはめる人が多く感じる。
個人の中の多様性を認めようにも、世間の向く先は、むしろ自身で多様性を拒否しているように感じる。
僕も多様性を声高に叫ぶ人に限って多様性無いなぁって感じる事がよくある。その多様性を受け入れたくない人や受け入れ難い価値観を持つ人に対して非常に攻撃的になったりする場面をよく目にするからです。僕はこれを多様性のジレンマって呼んでいます。
誰もが生きやすい社会…多様性と共に叫ばれる言葉を見るたびに思うのは『多様性を容れるとは、誰にとってもそこそこ居心地悪い社会と言う事実を容れること』です。
誰かの一面を好きな人も嫌いな人も居る。何かを快適に思う一方で、同じものを不快に感じる場合もある。
全員を満たす世界を作るには、まだ人類は未熟だし、それを成し得た人類はもはや僕らが認識できる「人類」ではないと思います。
随分前に乙武さんがおっしゃってました。『障がい者がみんないい人ではないです。健常者も色んな人がいるでしょ?障がい者も同じです。』
菅さんの“多様性の会”、入会しますよ!(笑)
どこかで、聞いた話ですが
車椅子に乗っている障害者が付添人に押されて移動していたときに
付添人が「ごめんなさい。車椅子が通りますから、ちょっと動いてもらえますか」と言った。
この時、障害者の方は「ごめんなさい」という言葉で「私って邪魔なのかな」と受け止める人もいるそうです。
もちろん付添人もやさしさで行動しているし、車椅子の大きさや動く範囲でよけてもらうしかない場合もあります。
逆に「車椅子が通るんだから避けろや。おまえらに優しさは無いのか!」と怒鳴ることも間違っている。
ここで「普通」が必要になってくると思います。
まぁ具体的に「普通」の言い方とはとなると意外と言葉選びが難しい。というか慣れていないと言ったほうが良いのか。
なんだか禅問答みたいになりますね。
多様性って難しいですよね。多様性を認めろーって声のでかい人は多様性を本当に認めてるのかな?って日頃思います。
急に「どお?」って聞いてくるの、思わず吹き出しました。
お話を聞いて、耳が痛かったです。
反対意見に絡んでいた自分を猛省。
お二人には感謝しかありません。
これからも応援して参ります。
最近 本当に多様性について悩んでいたので凄く参考になりました。個人の中の多様性をまず見ていく練習します。→本当に話はそれからだと思いました。ありがとうございます。
ちなみに私は仕事柄、尊敬できない、また嫌いな高齢者や障がい者の方が多々います。泣
多様性を認める社会にはなってほしいなとは思うんですが、多様性について大声で言ってるのに、自分と違う意見の人は認めない!って方もいるんですよね…。
批判のために利用してる人がいると、なかなか社会で認められなそうだな…とも思っちゃいます。
多様性多様性!多様性が大事!
と言いつつ、自分への反対意見(多様な意見の1つ)を認めないダブスタの奴らいますよね 笑
6:17 すっごい深い話をされているのに「ルービックキューブ」を少し噛んじゃうの可愛い〜宇治原さんそれに微妙に反応してる〜とかが気になってすみません。
最近、菅ちゃんがどこで甘噛みするかが密かな楽しみになってきてます😊
@@harapochi さん
甘噛かわいい❤️ 子犬?
あ、ラーテルだった💦
すごく良い話している時に天然出してくるの菅ちゃんぽいですよね。気付きながらスルーしている時のお顔が宇治原さんぽいなとも。
深いです。多様性を認める練習、やります!何回も見直して考えます✨