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人は誰しも、常に美徳となる行動ができるわけでなく、程度に差はあれど悪徳となる行動をしてしまうものだと思います。ただし、悪徳となる行動をした際には嫌悪感が付き纏ってくるもので、そういった嫌悪感を許してくれる一助にもなる本なのかなと想像しました。読んでみたくなりました。
いつか余華の本が紹介されるのを楽しみにしています。
自分もエログロは大好きなんですけど、実際のところ美徳に溢れた世界で保護された中で悪徳最高!とか言われても困るよなぁ~どうして自分は殺す側であり犯す側であるという立場から妄想を語りだすのか不思議に思うまぁそういう趣味嗜好なんやから仕方ないか・・ でも作品は好き。
もちろん悪徳を実践してみせた人、今もそうしてる方はいらっしゃるでしょうけど、陰でコソコソやってるこそ
@@mhajimern 私も大好きです、悪徳の栄えって、マゾヒズムの事だと思いますですから、私はマゾヒズムに犯されたマゾヒストだからですですから、サディストに責められないと性的満足出来ません、虐められて快感を得る私達、
@@mhajimern それってマゾヒストの事ですか、そうですよ陰てコソコソやってます、
@@mhajimern マゾヒスト趣味でマゾヒズム嗜好の私に罰を与えて下さるのは、サディストなのです、サディズムは有難いです、
澁澤龍彦ではないですか。ちょっと気になりました。
渋澤龍彦さんは、裁判所の椅子が硬い、とか文句を言っていたみたいですね。
式場隆三郎訳が有ります👨『美しき残虐』山本 貢訳 (大和出版 昭和27年10/10)
好きでない物や不快な物にも定期的に触れる事で、心を柔軟に保ったり感性の異なる他者に対してなるべく公平でいられる様にしているという事でしょうか?それにしてもそんな文量と論理性で悪徳に向かうことを説いているとは、発禁にしたくなる側の気持ちも理解出来てしまいますね。
音声大きくしてほしいです。
悪徳の栄えですか?
サディストがいなくては、マゾヒストはストレスかたまって行くので鞭打ったり、ローソク🕯を垂らしたり、浣腸器で浣腸したりして虐めて欲しいのです。
マゾヒストはつまり悪性の性癖ですですから、(悪徳の栄え)ってマゾヒズムのことだと思います、
以前に、サド裁判を取り上げて下さい、とコメントした者です。今回はありがとうございました。倫理・哲学に真正面からぶつかって、ひどい欲求不満と劣等感に苛まれるよりは、サドのような思想にどのように自分は反論できるのだろうか、と考える方がよっぽど実践的ではないかと思います。サドの発想は意外に陳腐であり、さほど冴えたものではないのが、サドの弱点ではないかと思えます。「ア・プリオリ」は、いわば「神様カード」であり、カントみたいな天上人なら許されるかも知れませんが、まず切ってはいけないカードだと考えています。「神学」になってしまうからです。サドが無神論というのならば、神様カードは持っていないはずなので、彼に反論する側もそういうチート無しで正々堂々と対峙して欲しいです。いやしくもキリスト教国に生まれついた人間ならば、誰しも懐に神様カードを忍ばせていると思います。問題は、そのカードを切るのか切らないのか、という所にあると思います。そういう意味で、サドは全く無防備であり、エロ・グロみたいなクズ札しか持っていなかったのに、そんなサドを異様に恐れて虐待したフランスや日本の官憲の態度にこそ、張り子のトラ的な脆弱さと小心性が見えます。そんな裁判を軽蔑していた澁澤さんの態度の方がよっぽど男らしいし、サドの作品に対する深い理解と愛を感じます。(補足)サドの作品にちゃんとしたストーリー展開が無いのは、手持ちの札がクズ札ばかりだからです。行き当たりばったりの出たとこ勝負しかできないからです。そういう意味では一種のゲリラ戦で、たった一人の反逆者だった訳ですが、特攻みたいな悲壮感が無く、むしろ楽天的な威圧感があるのが不思議な魅力だと思います。
解説のみを聴いてですが、異常者と言うよりも幼稚な大人のイメージかな?例えるなら、オムツを替えてもらうオムツプレーな大人程度。別に変態ではないが幼稚な大人。
人は誰しも、常に美徳となる行動ができるわけでなく、程度に差はあれど悪徳となる行動をしてしまうものだと思います。ただし、悪徳となる行動をした際には嫌悪感が付き纏ってくるもので、そういった嫌悪感を許してくれる一助にもなる本なのかなと想像しました。読んでみたくなりました。
いつか余華の本が紹介されるのを楽しみにしています。
自分もエログロは大好きなんですけど、実際のところ美徳に溢れた世界で保護された中で悪徳最高!とか言われても困るよなぁ~
どうして自分は殺す側であり犯す側であるという立場から妄想を語りだすのか不思議に思う
まぁそういう趣味嗜好なんやから仕方ないか・・ でも作品は好き。
もちろん悪徳を実践してみせた人、今もそうしてる方はいらっしゃるでしょうけど、陰でコソコソやってるこそ
@@mhajimern 私も大好きです、悪徳の栄えって、マゾヒズムの事だと思いますですから、私はマゾヒズムに犯されたマゾヒストだからですですから、サディストに責められないと性的満足出来ません、虐められて快感を得る私達、
@@mhajimern それってマゾヒストの事ですか、そうですよ陰てコソコソやってます、
@@mhajimern マゾヒスト趣味でマゾヒズム嗜好の私に罰を与えて下さるのは、サディストなのです、サディズムは有難いです、
澁澤龍彦ではないですか。ちょっと気になりました。
渋澤龍彦さんは、裁判所の椅子が硬い、とか文句を言っていたみたいですね。
式場隆三郎訳が有ります👨
『美しき残虐』山本 貢訳 (大和出版 昭和27年10/10)
好きでない物や不快な物にも定期的に触れる事で、心を柔軟に保ったり感性の異なる他者に対してなるべく公平でいられる様にしているという事でしょうか?
それにしてもそんな文量と論理性で悪徳に向かうことを説いているとは、発禁にしたくなる側の気持ちも理解出来てしまいますね。
音声大きくしてほしいです。
悪徳の栄えですか?
サディストがいなくては、マゾヒストはストレスかたまって行くので鞭打ったり、ローソク🕯を垂らしたり、浣腸器で浣腸したりして虐めて欲しいのです。
マゾヒストはつまり悪性の性癖ですですから、(悪徳の栄え)ってマゾヒズムのことだと思います、
以前に、サド裁判を取り上げて下さい、とコメントした者です。今回はありがとうございました。
倫理・哲学に真正面からぶつかって、ひどい欲求不満と劣等感に苛まれるよりは、サドのような思想にどのように自分は反論できるのだろうか、と考える方がよっぽど実践的ではないかと思います。
サドの発想は意外に陳腐であり、さほど冴えたものではないのが、サドの弱点ではないかと思えます。
「ア・プリオリ」は、いわば「神様カード」であり、カントみたいな天上人なら許されるかも知れませんが、まず切ってはいけないカードだと考えています。「神学」になってしまうからです。
サドが無神論というのならば、神様カードは持っていないはずなので、彼に反論する側もそういうチート無しで正々堂々と対峙して欲しいです。
いやしくもキリスト教国に生まれついた人間ならば、誰しも懐に神様カードを忍ばせていると思います。問題は、そのカードを切るのか切らないのか、
という所にあると思います。
そういう意味で、サドは全く無防備であり、エロ・グロみたいなクズ札しか持っていなかったのに、そんなサドを異様に恐れて虐待したフランスや日本の官憲の態度にこそ、張り子のトラ的な脆弱さと小心性が見えます。
そんな裁判を軽蔑していた澁澤さんの態度の方がよっぽど男らしいし、サドの作品に対する深い理解と愛を感じます。
(補足)サドの作品にちゃんとしたストーリー展開が無いのは、手持ちの札がクズ札ばかりだからです。行き当たりばったりの出たとこ勝負しかできないからです。そういう意味では一種のゲリラ戦で、たった一人の反逆者だった訳ですが、特攻みたいな悲壮感が無く、むしろ楽天的な威圧感があるのが不思議な魅力だと思います。
解説のみを聴いてですが、
異常者と言うよりも幼稚な大人のイメージかな?
例えるなら、
オムツを替えてもらう
オムツプレーな大人程度。
別に変態ではないが幼稚な大人。