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有難いですね、幼児の頃の朧げな記憶も当時の環境が違えども203高地台座から見た港の想いがフイードバック出来る事に感謝です。84年前の過去を拝見、懐古の情に老けっています。
懐かしいですね🎵
(0:22)(0:29)の203高地の記念碑は、S12年頃の思い「当時4歳ぐらい」とは違いますが、造り変えがされたんでしょうね父は海軍所属で旅順の宿舎に一時住んでいました。
旅順港の風景が美しい!
この歌を聞くと、66年前の高校3年生の時を思い出す。友人の家に集まりこの歌を歌い、夢を語り、いろいろな議論をした。卒業しバラバラになるのを惜しんでいたのだろう。今はだれとも連絡はなく、亡くなった友人も多い。
最初に覚えた歌謡曲。「遠のく」というアクセントが好きだった。
淡々と歌う男声合唱がいい。名曲の名演。背景の画像は旅順かな。ひとこと多いが、某俳優はぞっとするほど崩していた。
身体の調子は如何でしょうかな?。腰巻(コルセット)を購入、頑張っています。(笑)
@@f4802 さん祝、再会! 一病息災です。お互いマイペースで😊この歌、男声合唱が最高ですよね。
@@theyobo4613 さん、便りが無いのは元気な証拠?、と言う様ですがコメントが無いと若しや入院かなと危惧していますよ。(笑)遠い昔の事ですが、旅順港を見ると昨日のことの様に思い出される不思議さを感じています。
203高地から見下ろす「旅順港」、【廣瀬中佐】の歌も知って欲しいですね。何故日本がこの「旅順港」を重要視したのか等、歴史観を記憶してもらえば有難いですね。
轟く砲音(つつおと)、飛び散る弾丸荒波洗ふ デッキの上で闇を貫く 中佐の叫び「杉野は居ずや 杉野は何處(いずこ)?」船内隈なく 尋ぬる三度(三たび)呼べど答へず 姿も見えず船は次第に波間に沈み敵弾いよいよ 辺りに繁し今はとボートに 移れる中佐飛び来る弾丸に たちまち失せて旅順港外 怨みぞ深し軍神廣瀬と その名残れど。
@@theyobo4613 さん、お元気の様子、何よりです。歌詞を読みながら口ずさんでいます、不思議と覚えているんですね。
全くおっしゃるとおり。でも、これを覚えているのはもう日本人の中でわれわれだけかも😊
私も「杉野はいずこ」は覚えていますが、「北帰行」は日露戦争とは関係ないと思いますよ。
@@kennsugi ?、関係は無しですよね。
「北帰行」にはいくつもの歌い方(歌詞の間やメロディ)があるようですが、ここにupされた歌い方が、私が60余年前に新入生として入った大学寮で、先輩からの唱歌指導で歌った「北帰行」と同じです。当時はどこの学寮でもこの歌い方で歌っていたとおもいます。歌謡曲歌手の歌い方は好きません。フォレスタもおかしな歌い方をしています。
ありがとうございます。もともと旅順高等学校の愛唱歌(寮歌)なので、こういう歌い方が正しいと思います。
私も亡父が口ずさんでいたこういう曲調の方が好きです。どうせなら宇田氏のバンカラ原詞で五番まで聞けたら最高。
この当時は日中戦争の真っ最中❗️これからもっと凄い戦争に突入する時代にカフェのメイドさんとデートするとはは本当に自由な発想の出来る人です❗️後にTBSの重役になられたと思います。今こんな度胸の据わった人はいないでしょう❗️是非見習いたいです❗️
恩愛 (おんない)と歌っていたなら、もっと良かったのでは、と思いました。
旅順高等学校は昭和15年(1940)に設置、この年は紀元2600年に当たります。動画の解説[1:28]で、この年に入学後、退学処分とあり、表題では作詞昭和16年と記載があります。同年(昭和16年)12月08日世界第二次大戦勃発です、戦時下の背景から恋愛感情など御法度の状況が伺えますね。私は昭和16年04月に佐世保市立山手国民学校に入学しました。学校は高台にあり佐世保の港は見えました、この様な環境でしたから校庭に集められた私達に、「カメラを持つ不審者の通報」が伝達された記憶は今でも鮮明に思い出されます。学校では手旗信号、モールス信号の教科?が加わり頭の悪い私は恐怖にも似た思いをした者です。昭和20年(1945)敗戦、この様な事から旅順高等学校は時代の流れと共に廃校となった様ですね。
コメントありがとうございます。失礼ですが御年齢に対して「Fチョコ」というような素晴らしいセンスに感服しております。素敵な先輩に「乾杯」です。寒くなりましたので御体調崩されないでくださいね。
@@オサム-v6j 元気を頂く様な返信、ありがとうございます。
戦争中は宇田博氏には生きにくい時代だったのでしょう、それは理解出来ます日本がという国に恨みを持ったまま時を過ごし、許すことが出来ずにいたのでしょう、御気の毒です
いやいや、翌年には一高に合格し、東大に進んでいます。「恨み」は旅順を後にした5月から、長くとも翌年春まででしょう。
旅順港別称、ポート.アーサーでしたっけ。日露戦争の舞台203髙地
有難いですね、幼児の頃の朧げな記憶も当時の環境が違えども203高地台座から見た港の想いがフイードバック出来る事に感謝です。84年前の過去を拝見、懐古の情に老けっています。
懐かしいですね🎵
(0:22)(0:29)の203高地の記念碑は、S12年頃の思い「当時4歳ぐらい」とは違いますが、造り変えがされたんでしょうね
父は海軍所属で旅順の宿舎に一時住んでいました。
旅順港の風景が美しい!
この歌を聞くと、66年前の高校3年生の時を思い出す。友人の家に集まりこの歌を歌い、夢を語り、いろいろな議論をした。卒業しバラバラになるのを惜しんでいたのだろう。
今はだれとも連絡はなく、亡くなった友人も多い。
最初に覚えた歌謡曲。「遠のく」というアクセントが好きだった。
淡々と歌う男声合唱がいい。名曲の名演。背景の画像は旅順かな。
ひとこと多いが、某俳優はぞっとするほど崩していた。
身体の調子は如何でしょうかな?。
腰巻(コルセット)を購入、頑張っています。(笑)
@@f4802 さん
祝、再会! 一病息災です。お互いマイペースで😊
この歌、男声合唱が最高ですよね。
@@theyobo4613 さん、便りが無いのは元気な証拠?、と言う様ですがコメントが無いと若しや入院かなと危惧していますよ。(笑)
遠い昔の事ですが、旅順港を見ると昨日のことの様に思い出される不思議さを感じています。
203高地から見下ろす「旅順港」、【廣瀬中佐】の歌も知って欲しいですね。
何故日本がこの「旅順港」を重要視したのか等、歴史観を記憶してもらえば有難いですね。
轟く砲音(つつおと)、飛び散る弾丸
荒波洗ふ デッキの上で
闇を貫く 中佐の叫び
「杉野は居ずや 杉野は何處(いずこ)?」
船内隈なく 尋ぬる三度(三たび)
呼べど答へず 姿も見えず
船は次第に波間に沈み
敵弾いよいよ 辺りに繁し
今はとボートに 移れる中佐
飛び来る弾丸に たちまち失せて
旅順港外 怨みぞ深し
軍神廣瀬と その名残れど。
@@theyobo4613 さん、お元気の様子、何よりです。
歌詞を読みながら口ずさんでいます、不思議と覚えているんですね。
全くおっしゃるとおり。
でも、これを覚えているのはもう日本人の中でわれわれだけかも😊
私も「杉野はいずこ」は覚えていますが、「北帰行」は日露戦争とは関係ないと思いますよ。
@@kennsugi ?、関係は無しですよね。
「北帰行」にはいくつもの歌い方(歌詞の間やメロディ)があるようですが、ここにupされた歌い方が、私が60余年前に新入生として入った大学寮で、先輩からの唱歌指導で歌った「北帰行」と同じです。当時はどこの学寮でもこの歌い方で歌っていたとおもいます。歌謡曲歌手の歌い方は好きません。フォレスタもおかしな歌い方をしています。
ありがとうございます。もともと旅順高等学校の愛唱歌(寮歌)なので、こういう歌い方が正しいと思います。
私も亡父が口ずさんでいたこういう曲調の方が好きです。どうせなら宇田氏のバンカラ原詞で五番まで聞けたら最高。
この当時は日中戦争の真っ最中❗️これからもっと凄い戦争に突入する時代にカフェのメイドさんとデートするとはは本当に自由な発想の出来る人です❗️後にTBSの重役になられたと思います。今こんな度胸の据わった人はいないでしょう❗️是非見習いたいです❗️
恩愛 (おんない)
と歌っていたなら、もっと良かったのでは、と思いました。
旅順高等学校は昭和15年(1940)に設置、この年は紀元2600年に当たります。
動画の解説[1:28]で、この年に入学後、退学処分とあり、表題では作詞昭和16年と記載があります。
同年(昭和16年)12月08日世界第二次大戦勃発です、戦時下の背景から恋愛感情など御法度の状況が伺えますね。
私は昭和16年04月に佐世保市立山手国民学校に入学しました。
学校は高台にあり佐世保の港は見えました、この様な環境でしたから校庭に集められた私達に、「カメラを持つ不審者の通報」が伝達された記憶は今でも鮮明に思い出されます。
学校では手旗信号、モールス信号の教科?が加わり頭の悪い私は恐怖にも似た思いをした者です。
昭和20年(1945)敗戦、この様な事から旅順高等学校は時代の流れと共に廃校となった様ですね。
コメントありがとうございます。失礼ですが御年齢に対して「Fチョコ」というような素晴らしいセンスに感服しております。素敵な先輩に「乾杯」です。寒くなりましたので御体調崩されないでくださいね。
@@オサム-v6j 元気を頂く様な返信、ありがとうございます。
戦争中は宇田博氏には生きにくい時代だったのでしょう、それは理解出来ます
日本がという国に恨みを持ったまま時を過ごし、許すことが出来ずにいたのでしょう、御気の毒です
いやいや、翌年には一高に合格し、東大に進んでいます。「恨み」は旅順を後にした5月から、長くとも翌年春まででしょう。
旅順港別称、ポート.アーサーでしたっけ。日露戦争の舞台203髙地