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大変興味深く拝見させていただきました。切ないですね。1962年生まれなのでリアルタイムではニュースに接していませんが授業で教わりました。当時の炭鉱労働者の苦労を伝える歌として先生が言った「姉ちゃん芸者で妹女郎」という節が耳に残っています。無策な国政に振り回された人々の悲しみは如何ばかりか、一酸化炭素中毒で植物状態になった方もおられたと聞いています。むやみに労働者の権利を擁護しろとは言いませんがパソナをはじめとする派遣業は現在の搾取にほかならないと思います。今も昔も政治屋と資本の癒着はどうしようもないですね。長文失礼いたしました。
この事故、最初は東京のテレビでも放送されていたのですが、夜にはもう放送打ち切られてます。理由は放送中に鶴見事故が起きて全局がそっちに切り替えた為。
23歳の頃くらいに大牟田松屋で肉屋で店長してましたが、この動画を拝見して、愕然としましたね‥過疎化が凄い‥私がいたころ、27年前くらいにはまだゆめタウンもなく、商店街も、ギリ維持されていましたし、買い物したり、古い喫茶店で飲食したり、懐かしいです炭鉱跡の再開発は完全に失敗ですね、市もお金もないし、企業誘致もそもそも難しいですよね〜若い時に住んでた街が過疎しちゃうのは悲しい、また、知らない炭鉱のお話し勉強になりました炭鉱はやはり大変なお仕事ですね〜
隣町に住んでますけど、借金がなく財政破綻した夕張よりはマシな程度でして、企業誘致も色々と試してはいたみたいですが上手くいかず、高校を卒業しても地元で仕事にありつけないありさまです。今の大牟田市の人口は約11万で、たぶんもう減る事はないと思いますが、この先どうなるか?は不透明なままですよ。ウチの親父が四ツ山坑で働いてましたし、同年代の子供達も炭鉱関係者の家族が多くて、比較的寡黙な親父で多くは語りませんでしたが、体力的にも精神的にも辛い仕事だった模様でして、酒でまぎらわせてたのが祟ったのか?体調を崩して、亡くなる5~6年まえは地上勤務にまわされましたがね。高校の時に動脈瘤でポックリ亡くなりましたけど、後で聞いた話では俺と一緒に酒を飲みたかったとか言ってたそうで、あまり酒癖は良くなかったから俺がなだめスカさなきゃダメだったでしょうな?
大量の失業者を食わせるためにとった夕張市の行動は、国と企業の無策を思えば同情するしかないんだろうなあ・・・。
動画を拝見し、昨日、横浜から、宮原坑と石炭産業科学館に行ってきました。宮原坑では、ボランティアの、方に大変丁寧にご説明をいただき理解も深まりました。厳しい時代を生きた諸先輩方には頭が下がります。
宮原抗のボランティアの方々の解説はとても分かりやすいですよね。何といっても大牟田愛を感じますね😊
事故後、遺族が葬式の為に坊さんを取り合い、お経を唱え終わったら次の家の家族が攫うように坊さんを抱えて自分とこの葬式に連れて行くというあまりの忙しさに坊さんが過労死してしまったと爺さんに聞いたなぁあと、三池争議は会社についた者の家庭と労働者側の家庭とでご近所でも戦いが発生し、令和になった今でも老人たちの爪痕になってる
そうなんですね。仲良く暮らして欲しいですね。
小さい頃、父親から聞いたが曾祖父さんがたまたま助かったけど助けんと!と助けに戻って亡くなった亡くなった方々は皆肌がピンク色だったらしい。大牟田、荒尾は炭鉱とギャンブルと893の町治安が悪い土地だった。今は落ち着いて錆びれてるけどね
大牟田市出身です。父親が、三井化学に勤務していました。東京オリンピック最後の日に、名古屋に転勤になり引越しました。この三井化学の転勤にも運、不運がありました。私は中学一年生でした。友達の一家は、三井化学川崎に転勤して行きました。だけど、数年後川崎工場は閉鎖され首切りになったそうです。父親の実家が桜町にあり、子供の頃、細いトンネルをくぐって万田公園、万田池に行った記憶があります。松屋デパート、倉掛のいちまる館の安い映画、東洋一だと聞いた延命プール。懐かしさが募りました。
12歳のとし、塾から帰宅中のバスの中でこの事故をしりました。
大牟田付近の風景や三井三池炭鉱の遺構の映像を見せていただきながら、日本の近現代史の、あまりに悲惨な負の側面を垣間見る思いでした。政府と石炭産業の繋がりが最終的に史上最悪の炭鉱事故を招いたことを、作業現場の安全を確かなものとするための教訓としてこれからも語り継がれて行くことを願っています。
大牟田は好きな街や
三井三池炭鉱の在り方と問題点と、さらにその背景までもが手に取るようにわかる、貴重な動画でした。補助金目当ての企業活動は、最早経営とは言えません。一方、企業が「目先の利益を追求しがちな振る舞い」をすることはどの分野の産業にもみられる悲しい現実です。会社からの理不尽な命令を理不尽とは思わず(思えず)、「会社が困っとるんやから」と言って唯々諾々と受け止め黙々と勤務する方々は、今でも数多くいます。こういう方々は総じて、人柄が清廉だったり、若い頃に偉業を達成したことのあるひとかどの人物であったりします。そのような人々が発するこのような言動に接した時などには、悲哀を感じずにはいられません。独り言ですが、「どうにかならないものでしょうか。」三池炭鉱の被害に遭われた方々や後遺症に苦しむ方々及びそのご家族の皆様には何と言ったらよいのか、言葉が見つかりません。動画UPに感謝致します。
良い動画でした。末端で働く人にも大事な家族が居る。なのに働く人々の安全を考えない補助金欲しさの経営…仲間助ける為に死んでいき後遺症に苦しむ人々の話を聞くと、最後には、残念ながら感情的になりますよ😢話はずれますが、他のドキュメント動画で拝見しましたが、大牟田市に元禄と言う炭鉱マンが集っていたセンベロ焼き鳥屋があるらしく、そこには炭鉱歴史がありそうなのでゴンチャンさんも行ってみてはいかがでしょうか?私も一度行ってみたいです😊
お久しぶりです。宮原坑には数年前行ってボランティアガイドさんに案内してもらいました。三池坑の粉塵爆発事故は、行ってはないですが、自分で勉強してアメブロで紹介しました。久しく大牟田には行ってないので、三池坑行きたいです。
こちらこそ、いつもありがとうございます。ブログ頑張っているんですね。いつか拝見させてください。大牟田市は見どころいっぱいありますよ😊
旦那の従兄弟さんがこの事故で亡くなつたそうですまだ20代だつたそうですがご遺体のお顔がピンク色で美しかつたとのことです😢吸い込んだガスのせいだつたみたいです
切ないお話です😢🙏
ウチの親父は炭鉱の坑内で働いてましたけど、組合がらみで胸くそ悪い事をされたり理不尽な言いがかりを言われたりしましたけど、もう高校生になると体格的にもヒケはとらないから、言っても聞かない奴らはブン殴ったりしてましたがね。まぁ~いつの世にも政治家と癒着してる変な奴らは腐るほど居るもんで、さんざんぱら小さいウチから人間の嫌な面を見せつけられましたし、もうこれ以上は御免こうむりたいもんです。
幼少期、自宅周辺は炭鉱マンが生活している長屋の社宅が沢山並び各家庭からは煙のたち登る煙突が出ていました。まだ、ほとんどの家庭がガスでは無く石炭を使い風呂を沸かしていましたね学校ではこの事件についても教えられましたが、詳細までは知らなかった為、今回の動画は非常に興味深く拝見致しましたありがとうございます
炭鉱の共同風呂は子供心によく覚えています。
炭坑節を思い出します
これは頭のどこかにあったなあ。テレビを買った頃に起きた事故だなぁ。ただこの事故。毎年10人以上の死者を出しながら、安全に石炭を掘るということをしてないと思いつつなぁ。確かに国内の石炭より安い石油があったのは事実。ここらを含めてどうするか考えるべき。そこには閉山もあったかもしれんがなぁ。これは多分採算性が極めて悪かったのではないかと思う。私は保育園で石炭ストーブを思い出してなあ。その石炭が燃えた後を捨てているのもなあ。これが1960年だと思う。丁度変わり目だなぁ。石炭から石油になあ。発熱量でも石炭より石油が安い。石炭火力発電よりも石油火力発電、中でも安いと言われていたのが、原油をそのまま燃やすやら方。これが1960年代に行われたこと。おそらく石炭火力発電は既存の発電所に日本の国内炭を運んでいたのではないかと思う。石油ショック(1973年)後に再び石炭火力発電が見直されるが、すでに多くは海外炭になぁ。海外炭は露天掘りが多いから安い。そういう意味で日本のように薄く深い炭鉱は辞める方向になあ。現実に多くは1960年代に辞めていったと思う。三井三池炭鉱は割と遅くまでやっていたと思いつつなあ。あれだけの事故を起こしてもやっていけたのが不思議だなあ。死者が400人以上だからなあ。補償だけでもかなりなあ。いずれにしても安全に気を付けずにやっていたなぁ。それと労働組合が強かったなあ。九州は強かった感じ。私のところも九州はとても労働組合が強かったなぁ。まぁ、あんまり組合活動しても国民に与える影響はなかったからなあ。最近は携帯電話時代で異なっているがなあ。短波の時代はハッキリ行って国民は電波を使うことはほぼない時代。この頃は荒れたなあ。これは全電波30年の歩みという中にあるもの。第3章 60年安保から沖縄復帰の戦いへ の1に、歴史的な安保・三池の大闘争 というのがなあ。三池闘争としてなあ。全電波を支援しているなあ。いずれにしてもここにもあるが、コスト高いの石炭を石油エネルギーに全面的に切り替える方針を決め、従来年産計画5500万トンを一挙に年産4800万トンに減少、炭鉱労働者11万人の首斬り合理化を行うことを明らかにした。これは政府の方針としてなあ。電波関係も大きく変わった。短波の時代は例えば都城に監視部がなあ。雑音の少ない田舎になあ。中国には米子とかにもなあ。これらの監視要因も都市部に移転しないといけない。彼らは家も建てて住んでいる。そうした人は四国にも来たなあ。米子、福岡、都城等なぁ。多くは廃止されて、熊本、広島、松山等になあ。当然にそれ以外のところにもなあ。これは石炭も価格的に石油が安いから敵わなくなった。監視部も短波からVHF帯以上に主力が移りなぁ。そのままではどうにもならない。日本では電波を一般の人には使わせない政策だなぁ。私はそれを感じてなあ。エネルギーも詳しいからなあ。それは原発等なぁ。安いエネルギーとは何かを考えることだなぁ。例えば今は太陽光発電が非常に安い。これは電力会社は嫌うがなあ。例えば普通の家に太陽光発電装置をつけて、例えば電気自動車やプラグインハイブリット車等を充電したらどうなるかなあ。こういうことを考えてしまう。私の家にも9.55kwの太陽光発電装置がある。2009年に備え付けたもの。今はかなり使っても電気代は安いなあ。四国電力が買いつとっても、1kw時が8円(特別に1円高く買ってもらっている。)だなぁ。でも買い取った電気は隣の家に1kw時が30円以上で売れるからなぁ。でもみんなこれをやったら電力会社がどうなるかなぁ。こうしたことを考えることだなあ。今後も益々安くなる太陽光発電装置だなぁ。それに蓄電池もなあ。据付型で良い。ナトリウム型とかマグネシウム型等安い物もあるのではないかと思うけど研究する気がないのだろうなあ。原発原発と叫んでなあ。あんなに改修費用がかかる1機3000億円なあ。本当に採算に合っているかと思いつつなあ。石炭を国内炭で賄っていたのと変わらんと思いつつなあ。海外炭は安い石炭も多い。オーストラリア炭とか、インドネシア炭も安いのではないかと思う。そういうところに目をつけたらなあ。日本で石炭を掘る意味を考えないといけない。それが1960年を境になあ。石炭5500万トンでは1億人が住む日本では足りない。こうしたこともなあ。国民一人当たり年間に0.55トンしかない。工業用も含めてなあ。急速に工業化進む1960年代だなぁ。私は電波関係でも人よこせばかりなあ。少し合理化したならなぁ。例えば携帯電話なぁ。あれほぼ手間をあんまりかけない。でもおそらく2億5000万契約位なあ。国民一人当たり2契約。私は声高々に携帯電話をなあ。安く作って国民に提供しないといけないと書いたがみんな嫌がったなあ。その論文は行きがかり上、韓国に渡ったなあ。韓国は私の論文を読んだら携帯電話を作るとなあ。日本が捨てたものを拾ったのは韓国政府だなぁ。私は出世しなかったが満足している。送ったのは1995年3月末だなぁ。丁度携帯電話が立ち上がった時期だなぁ。満足して見ている。日本は自分のことしか考えない国。国家公務員が辞めた後の天下りしか考えない国はこうなるみたいな例だなあ。労働組合員も辞める前には課長等の管理職になって辞めて行く。辞めた後は外郭団体の地方支部長等に天下る。これをやりたいためになあ。今携帯電話が普及して、外郭団体は減って、給料を安くなっているはず。高い無線機(通話だけの高い無線機 一台が20万円以上なあ。防災行政無線等は一台40万円位なあ)を売ってもらい外郭団体にお金が落ちるようになあ。こんなことができなくなりつつなあ。日本は携帯電話を嫌がったが、世界中ではどうだったかなあ。固定電話があんまりない発展途上国の人々にも携帯電話やスマホを行き渡りなあ。日本は携帯電話やスマホを作る会社は少ない。8割方輸入だなぁ。なぜそうなったか見ないとなあ。私は1991年6月24日の郵政論文には、パングラテッシュを例になあ。1990年にバングラデッシュを襲った台風がなあ。死者や行方不明が10万人だなぁ。もしここに防災行政無線や携帯電話があれば情報を得られるとなあ。やっぱりそういうことを考えてなあ。当然に韓国政府は携帯電話を作りこうした国にも輸出したと思うからなあ。固定電話は1世帯1契約。携帯電話は個々の1人ひとりに契約をなぁ。ここが違うということになあ。やっぱり数も携帯電話はこんなに多くなるとはなぁ。これを喜んだのは日本ではない。日本企業はあんまり作ってない。Apple社やサムスン等なぁ。中国でも華為技術(ファーエイ)等なぁ。日本は輸入品だなぁ。貿易赤字になったのもこれが原因だなぁ。だった2000人の役所が嫌月だことがなあ。因みになあ。死んだ奴ではあるが、長く委員長していたのは同期の人。やっぱり九州のもの(出身地が九州からどうかは知らない)がなあ。彼とおそらく1995年5月連休だと思う。20周年記念でみんな集まった。彼には携帯電話をどうするのか事前になあ。彼曰く「携帯電話は、我々を檻に詰めて周りから鉄砲で撃つようなもの」となあ。私はキチンと覚えているということだなあ。労働組合が強いし、それに上も管理職も似たようなもの。天下りするということがなあ。こういうことを書いて置くかなあ。
動画ができそうなくらいの情報量ですね、ありがとうございます。
ひさしぶりの動画 ゴンちゃんさん いつもありがとうございます 須惠 志免 宇美 糟屋 なども おしえてください。
夕張がかわいそう
原因に関しては、労組側の一方的な論であり、三池炭鉱の側の話を聞かないと何とも言えない。ただ世界的に露天掘りの時代になっており、日本の様な坑内掘りでは保安コストも嵩み、全く価格競争力がなかった。当時、それでも労組側は「国家が補助金を出して存続させるべきだ」と言っていたが、「その補助金は国民が出すものだろうに」と当時の自分は感じていた。
大変興味深く拝見させていただきました。切ないですね。
1962年生まれなのでリアルタイムではニュースに接していませんが授業で教わりました。当時の炭鉱労働者の苦労を伝える歌として
先生が言った「姉ちゃん芸者で妹女郎」という節が耳に残っています。
無策な国政に振り回された人々の悲しみは如何ばかりか、一酸化炭素中毒で植物状態になった方もおられたと聞いています。
むやみに労働者の権利を擁護しろとは言いませんがパソナをはじめとする派遣業は現在の搾取にほかならないと思います。
今も昔も政治屋と資本の癒着はどうしようもないですね。長文失礼いたしました。
この事故、最初は東京のテレビでも放送されていたのですが、夜にはもう放送打ち切られてます。
理由は放送中に鶴見事故が起きて全局がそっちに切り替えた為。
23歳の頃くらいに大牟田松屋で肉屋で店長してましたが、この動画を拝見して、愕然としましたね‥過疎化が凄い‥私がいたころ、27年前くらいにはまだゆめタウンもなく、商店街も、ギリ維持されていましたし、買い物したり、古い喫茶店で飲食したり、懐かしいです
炭鉱跡の再開発は完全に失敗ですね、市もお金もないし、企業誘致もそもそも難しいですよね〜若い時に住んでた街が過疎しちゃうのは悲しい、また、知らない炭鉱のお話し勉強になりました
炭鉱はやはり大変なお仕事ですね〜
隣町に住んでますけど、借金がなく財政破綻した夕張よりはマシな程度でして、企業誘致も色々と試してはいたみたいですが上手くいかず、高校を卒業しても地元で仕事にありつけないありさまです。
今の大牟田市の人口は約11万で、たぶんもう減る事はないと思いますが、この先どうなるか?は不透明なままですよ。
ウチの親父が四ツ山坑で働いてましたし、同年代の子供達も炭鉱関係者の家族が多くて、比較的寡黙な親父で多くは語りませんでしたが、体力的にも精神的にも辛い仕事だった模様でして、酒でまぎらわせてたのが祟ったのか?体調を崩して、亡くなる5~6年まえは地上勤務にまわされましたがね。
高校の時に動脈瘤でポックリ亡くなりましたけど、後で聞いた話では俺と一緒に酒を飲みたかったとか言ってたそうで、あまり酒癖は良くなかったから俺がなだめスカさなきゃダメだったでしょうな?
大量の失業者を食わせるためにとった夕張市の行動は、国と企業の無策を思えば同情するしかないんだろうなあ・・・。
動画を拝見し、昨日、横浜から、宮原坑と石炭産業科学館に行ってきました。宮原坑では、ボランティアの、方に大変丁寧にご説明をいただき理解も深まりました。
厳しい時代を生きた諸先輩方には頭が下がります。
宮原抗のボランティアの方々の解説はとても分かりやすいですよね。何といっても大牟田愛を感じますね😊
事故後、遺族が葬式の為に坊さんを取り合い、お経を唱え終わったら次の家の家族が攫うように坊さんを抱えて自分とこの葬式に連れて行くというあまりの忙しさに坊さんが過労死してしまったと爺さんに聞いたなぁ
あと、三池争議は会社についた者の家庭と労働者側の家庭とでご近所でも戦いが発生し、令和になった今でも老人たちの爪痕になってる
そうなんですね。仲良く暮らして欲しいですね。
小さい頃、父親から聞いたが
曾祖父さんがたまたま助かったけど
助けんと!と
助けに戻って亡くなった
亡くなった方々は皆肌がピンク色だったらしい。
大牟田、荒尾は炭鉱とギャンブルと893の町
治安が悪い土地だった。
今は落ち着いて錆びれてるけどね
大牟田市出身です。
父親が、三井化学に勤務していました。
東京オリンピック最後の日に、名古屋に転勤になり引越しました。
この三井化学の転勤にも運、不運がありました。
私は中学一年生でした。
友達の一家は、三井化学川崎に転勤して行きました。
だけど、数年後川崎工場は閉鎖され首切りになったそうです。
父親の実家が桜町にあり、子供の頃、細いトンネルをくぐって
万田公園、万田池に行った記憶があります。
松屋デパート、倉掛のいちまる館の安い映画、東洋一だと聞いた
延命プール。
懐かしさが募りました。
12歳のとし、塾から帰宅中のバスの中でこの事故をしりました。
大牟田付近の風景や三井三池炭鉱の遺構の映像を見せていただきながら、日本の近現代史の、あまりに悲惨な負の側面を垣間見る思いでした。政府と石炭産業の繋がりが最終的に史上最悪の炭鉱事故を招いたことを、作業現場の安全を確かなものとするための教訓としてこれからも語り継がれて行くことを願っています。
大牟田は好きな街や
三井三池炭鉱の在り方と問題点と、
さらにその背景までもが手に取るようにわかる、
貴重な動画でした。
補助金目当ての企業活動は、最早経営とは言えません。
一方、
企業が「目先の利益を追求しがちな振る舞い」をすることは
どの分野の産業にもみられる悲しい現実です。
会社からの理不尽な命令を理不尽とは思わず(思えず)、
「会社が困っとるんやから」と言って唯々諾々と受け止め
黙々と勤務する方々は、今でも数多くいます。
こういう方々は総じて、
人柄が清廉だったり、
若い頃に偉業を達成したことのあるひとかどの人物であったりします。
そのような人々が発するこのような言動に接した時などには、
悲哀を感じずにはいられません。
独り言ですが、「どうにかならないものでしょうか。」
三池炭鉱の被害に遭われた方々や
後遺症に苦しむ方々及びそのご家族の皆様には
何と言ったらよいのか、言葉が見つかりません。
動画UPに感謝致します。
良い動画でした。末端で働く人にも大事な家族が居る。なのに働く人々の安全を考えない補助金欲しさの経営…仲間助ける為に死んでいき後遺症に苦しむ人々の話を聞くと、最後には、残念ながら感情的になりますよ😢
話はずれますが、他のドキュメント動画で拝見しましたが、大牟田市に元禄と言う炭鉱マンが集っていたセンベロ焼き鳥屋があるらしく、そこには炭鉱歴史がありそうなのでゴンチャンさんも行ってみてはいかがでしょうか?私も一度行ってみたいです😊
お久しぶりです。宮原坑には数年前行ってボランティアガイドさんに案内してもらいました。三池坑の粉塵爆発事故は、行ってはないですが、自分で勉強してアメブロで紹介しました。久しく大牟田には行ってないので、三池坑行きたいです。
こちらこそ、いつもありがとうございます。ブログ頑張っているんですね。いつか拝見させてください。大牟田市は見どころいっぱいありますよ😊
旦那の従兄弟さんがこの事故で亡くなつたそうですまだ20代だつたそうですがご遺体のお顔がピンク色で美しかつたとのことです😢吸い込んだガスのせいだつたみたいです
切ないお話です😢🙏
ウチの親父は炭鉱の坑内で働いてましたけど、組合がらみで胸くそ悪い事をされたり理不尽な言いがかりを言われたりしましたけど、もう高校生になると体格的にもヒケはとらないから、言っても聞かない奴らはブン殴ったりしてましたがね。
まぁ~いつの世にも政治家と癒着してる変な奴らは腐るほど居るもんで、さんざんぱら小さいウチから人間の嫌な面を見せつけられましたし、もうこれ以上は御免こうむりたいもんです。
幼少期、自宅周辺は炭鉱マンが生活している長屋の社宅が沢山並び各家庭からは煙のたち登る煙突が出ていました。
まだ、ほとんどの家庭がガスでは無く石炭を使い風呂を沸かしていましたね
学校ではこの事件についても教えられましたが、詳細までは知らなかった為、今回の動画は非常に興味深く拝見致しました
ありがとうございます
炭鉱の共同風呂は子供心によく覚えています。
炭坑節を思い出します
これは頭のどこかにあったなあ。テレビを買った頃に起きた事故だなぁ。
ただこの事故。毎年10人以上の死者を出しながら、安全に石炭を掘るということをしてないと思いつつなぁ。
確かに国内の石炭より安い石油があったのは事実。ここらを含めてどうするか考えるべき。
そこには閉山もあったかもしれんがなぁ。これは多分採算性が極めて悪かったのではないかと思う。
私は保育園で石炭ストーブを思い出してなあ。その石炭が燃えた後を捨てているのもなあ。
これが1960年だと思う。丁度変わり目だなぁ。石炭から石油になあ。発熱量でも石炭より石油が安い。
石炭火力発電よりも石油火力発電、中でも安いと言われていたのが、原油をそのまま燃やすやら方。これが1960年代に行われたこと。
おそらく石炭火力発電は既存の発電所に日本の国内炭を運んでいたのではないかと思う。
石油ショック(1973年)後に再び石炭火力発電が見直されるが、すでに多くは海外炭になぁ。海外炭は露天掘りが多いから安い。
そういう意味で日本のように薄く深い炭鉱は辞める方向になあ。
現実に多くは1960年代に辞めていったと思う。三井三池炭鉱は割と遅くまでやっていたと思いつつなあ。
あれだけの事故を起こしてもやっていけたのが不思議だなあ。死者が400人以上だからなあ。
補償だけでもかなりなあ。いずれにしても安全に気を付けずにやっていたなぁ。
それと労働組合が強かったなあ。九州は強かった感じ。私のところも九州はとても労働組合が強かったなぁ。
まぁ、あんまり組合活動しても国民に与える影響はなかったからなあ。最近は携帯電話時代で異なっているがなあ。
短波の時代はハッキリ行って国民は電波を使うことはほぼない時代。この頃は荒れたなあ。
これは全電波30年の歩みという中にあるもの。
第3章 60年安保から沖縄復帰の戦いへ の1に、歴史的な安保・三池の大闘争 というのがなあ。
三池闘争としてなあ。全電波を支援しているなあ。
いずれにしてもここにもあるが、コスト高いの石炭を石油エネルギーに全面的に切り替える方針を決め、従来年産計画5500万トンを一挙に年産4800万トンに減少、炭鉱労働者11万人の首斬り合理化を行うことを明らかにした。
これは政府の方針としてなあ。
電波関係も大きく変わった。短波の時代は例えば都城に監視部がなあ。雑音の少ない田舎になあ。
中国には米子とかにもなあ。これらの監視要因も都市部に移転しないといけない。彼らは家も建てて住んでいる。
そうした人は四国にも来たなあ。米子、福岡、都城等なぁ。
多くは廃止されて、熊本、広島、松山等になあ。当然にそれ以外のところにもなあ。
これは石炭も価格的に石油が安いから敵わなくなった。監視部も短波からVHF帯以上に主力が移りなぁ。
そのままではどうにもならない。日本では電波を一般の人には使わせない政策だなぁ。
私はそれを感じてなあ。エネルギーも詳しいからなあ。それは原発等なぁ。
安いエネルギーとは何かを考えることだなぁ。例えば今は太陽光発電が非常に安い。これは電力会社は嫌うがなあ。
例えば普通の家に太陽光発電装置をつけて、例えば電気自動車やプラグインハイブリット車等を充電したらどうなるかなあ。
こういうことを考えてしまう。私の家にも9.55kwの太陽光発電装置がある。2009年に備え付けたもの。
今はかなり使っても電気代は安いなあ。四国電力が買いつとっても、1kw時が8円(特別に1円高く買ってもらっている。)だなぁ。
でも買い取った電気は隣の家に1kw時が30円以上で売れるからなぁ。でもみんなこれをやったら電力会社がどうなるかなぁ。
こうしたことを考えることだなあ。今後も益々安くなる太陽光発電装置だなぁ。それに蓄電池もなあ。据付型で良い。ナトリウム型とかマグネシウム型等安い物もあるのではないかと思うけど研究する気がないのだろうなあ。
原発原発と叫んでなあ。あんなに改修費用がかかる1機3000億円なあ。
本当に採算に合っているかと思いつつなあ。石炭を国内炭で賄っていたのと変わらんと思いつつなあ。
海外炭は安い石炭も多い。オーストラリア炭とか、インドネシア炭も安いのではないかと思う。
そういうところに目をつけたらなあ。日本で石炭を掘る意味を考えないといけない。それが1960年を境になあ。
石炭5500万トンでは1億人が住む日本では足りない。こうしたこともなあ。国民一人当たり年間に0.55トンしかない。工業用も含めてなあ。
急速に工業化進む1960年代だなぁ。
私は電波関係でも人よこせばかりなあ。少し合理化したならなぁ。
例えば携帯電話なぁ。あれほぼ手間をあんまりかけない。でもおそらく2億5000万契約位なあ。国民一人当たり2契約。
私は声高々に携帯電話をなあ。安く作って国民に提供しないといけないと書いたがみんな嫌がったなあ。
その論文は行きがかり上、韓国に渡ったなあ。韓国は私の論文を読んだら携帯電話を作るとなあ。
日本が捨てたものを拾ったのは韓国政府だなぁ。私は出世しなかったが満足している。
送ったのは1995年3月末だなぁ。丁度携帯電話が立ち上がった時期だなぁ。満足して見ている。
日本は自分のことしか考えない国。国家公務員が辞めた後の天下りしか考えない国はこうなるみたいな例だなあ。
労働組合員も辞める前には課長等の管理職になって辞めて行く。辞めた後は外郭団体の地方支部長等に天下る。これをやりたいためになあ。
今携帯電話が普及して、外郭団体は減って、給料を安くなっているはず。
高い無線機(通話だけの高い無線機 一台が20万円以上なあ。防災行政無線等は一台40万円位なあ)を売ってもらい外郭団体にお金が落ちるようになあ。
こんなことができなくなりつつなあ。日本は携帯電話を嫌がったが、世界中ではどうだったかなあ。
固定電話があんまりない発展途上国の人々にも携帯電話やスマホを行き渡りなあ。日本は携帯電話やスマホを作る会社は少ない。8割方輸入だなぁ。
なぜそうなったか見ないとなあ。私は1991年6月24日の郵政論文には、パングラテッシュを例になあ。1990年にバングラデッシュを襲った台風がなあ。死者や行方不明が10万人だなぁ。もしここに防災行政無線や携帯電話があれば情報を得られるとなあ。
やっぱりそういうことを考えてなあ。当然に韓国政府は携帯電話を作りこうした国にも輸出したと思うからなあ。
固定電話は1世帯1契約。携帯電話は個々の1人ひとりに契約をなぁ。ここが違うということになあ。やっぱり数も携帯電話はこんなに多くなるとはなぁ。
これを喜んだのは日本ではない。日本企業はあんまり作ってない。Apple社やサムスン等なぁ。中国でも華為技術(ファーエイ)等なぁ。
日本は輸入品だなぁ。貿易赤字になったのもこれが原因だなぁ。
だった2000人の役所が嫌月だことがなあ。因みになあ。死んだ奴ではあるが、長く委員長していたのは同期の人。
やっぱり九州のもの(出身地が九州からどうかは知らない)がなあ。彼とおそらく1995年5月連休だと思う。
20周年記念でみんな集まった。彼には携帯電話をどうするのか事前になあ。彼曰く「携帯電話は、我々を檻に詰めて周りから鉄砲で撃つようなもの」となあ。
私はキチンと覚えているということだなあ。労働組合が強いし、それに上も管理職も似たようなもの。天下りするということがなあ。
こういうことを書いて置くかなあ。
動画ができそうなくらいの情報量ですね、ありがとうございます。
ひさしぶりの動画 ゴンちゃんさん いつもありがとうございます 須惠 志免 宇美 糟屋 なども おしえてください。
夕張がかわいそう
原因に関しては、労組側の一方的な論であり、三池炭鉱の側の話を聞かないと何とも言えない。ただ世界的に露天掘りの時代になっており、日本の様な坑内掘りでは保安コストも嵩み、全く価格競争力がなかった。当時、それでも労組側は「国家が補助金を出して存続させるべきだ」と言っていたが、「その補助金は国民が出すものだろうに」と当時の自分は感じていた。