/●/2023年📸京都市洛中「繁昌神社⛩️奥の院🪨班女塚🌳御神木」様の🍂四季移り変わり模様🤳記録🎞️スライドショー📺★BGM:おじいさんの古時計🕰️ 2023年📺横長 画面\●\
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- เผยแพร่เมื่อ 7 ก.พ. 2025
- ★私の日課である🚶🏻洛中 ウォーキング🚶🏻♂️コース途中にある…知る人ぞ知る 「班女塚」様の 御神木様 の様相を iPhone📱で撮りためた 📸ショット からの抜粋で、 iPhone📱のデフォルト「写真」アプリのスライドショーを画面録画後、iPhone📱のiMovieアプリを使い〜2画面動画化しました。
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★ 「班女(はんにょ)塚」様 の謂れ
今は昔〜平安京の頃、この辺りには「藤原」氏 の邸宅があり、庭には 「功徳の池」という大きな池がありました。
延喜年間( 901〜922年)、その 功徳の池 の中島に
「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」、
「田心姫命(たごりひめのみこと)」、
「湍津姫命(たぎつひめのみこと)」
の「三女神」(市杵島姫命 は、仏教で言う 弁財天)を勧請したのが、「班女の宮」の始まりと伝わります。
かつて、この町は「オハンニョ町」と称し、皆でお宮を守り、お宮に守られながら暮らした町衆の歴史があります。
時代は移り、一帯が商業の中心になった 江戸時代中期 に、「繁昌(はんじょう)宮」と改名され、町名も「繁昌町」と呼ばれるようになりました。
鎌倉時代 の逸話集「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」第三章の「長門前司」の娘の話の舞台は、この地に符合することから、少なくともそれよりかなり古くから神が鎮座されて、「繁昌宮実伝記」にも残る 姫の不遇談 が誇張されて物語りとなったことが伺えます。
「豊臣秀吉」公が、この神霊を 東山佐女牛(ひがしやまさめがい、京都市東山区にある 左女牛八幡宮=若宮八幡宮社) へ移そうとしたところが、怪奇に見舞われて断念したという記録も残ります。
その後は、現在地の 高辻通室町西入る北側にある「繁昌神社」と共に 神宮寺 として 真言宗 の僧に依って管理されていましたが、明治政府の「神仏分離令」を受けて、現在の形を残すことになりました。
いにしえ人の暮らしと信仰に思いを馳せ、今また、繁昌町内氏子で「繁昌神社奥の院」として守っておられます。