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この大草城を見て私がびっくりしたの丘の麓でなく丘の中腹それも頂上近くに水堀があった事です。黒鍬の技術力なのでしょうね。
動画越しに見てるだけでも、未完の城とはいえ立派な水堀と土塁ですね。ぜひ現地に訪れてこの目で確かめたいものです!
大草城の遺構は実際に現地で見るととてもよく残っていますよね。曲輪、土塁、堀どれも体感しやすくて、アクセスもしやすい。お城初心者にはオススメですね。私は大草城の展望台からキツネを見ましたよ🦊知多には野生のキツネがいるようなので、運が良ければ出会えるかも😊
キツネですか!見てみたかったです。ついでに展望台も登りたかったです。
近所を通るので知ってましたが、こうしてyoutubeで見るとロマンを感じます。行ってみたいと思いました。
この規模の造成工事をしながら放置するのは現在では考えられ無い事態があったと考えます。水堀の水源は湧き水を利用した上水システムで海外のカナートと同じく地下水道も構築しているはず、発掘すれば地下壕のようなトンネルがあると思いました。一夜城の井戸曲輪のような円形の上水システムは海外の城跡にも見られます
佐治氏が、中部地方支配を目指すうえで、想像以上に重要な一族だったようなのは驚きました。単に「離縁させられてかわいそうな男」というだけではないのですね。
伊藤です。知多の大草城は、自分のご先祖の初代村田(中村)権右衛門重政(1533~1585)普請してました。嬉しいかったので、コメントを、入れました。
伊藤さん、ありがとうございます。
ご先祖が普請にあたったことがわかっているとは驚きです!
@@kainosuke-rekishiさんへ、村田権右衛門で、インターネットで探すと、出て来ますよ。ちなみに、江戸時代は、大野の中村権(源)右衛門で、尾張藩廻船惣庄屋を、やってました。
見てみます
両城の付近に住んでます。大野町には佐治氏の菩提寺である斉年寺があります。斉年寺には佐治氏から雪舟の慧可断臂図(国宝)が奉納されて、現在京都博物館にあるそうです。斉年寺には複製がありますが見たことはありません。
UPお疲れ様です。大草城、立地が良いですね。西は海、南は川、東は谷(おそらく水田)と三方を守られていて、武事に拙い有楽斎とは思えない城地だと思います。城の工事が遅かったのは有楽斎本人が織田家運営スタッフとして実務が多忙だったからでしょうが、有楽斎本人が「どうせ武事は下手なんだから、居城は形だけあればいい」などと思っていたのかもしれませんね。完成していれば立派な城になったと思うので残念wただ、未完成のままキレイに管理されていた先人に感謝々々。次回も楽しみにしています。
コメントありがとうございます。確かに城の東側は水田。国道が低地をまっすぐ突っ切って通っています(国道から大草城があったであろう高まりが右手に見え、迷うことなく城跡にたどり着くことができました)。新しい道ができているということは昔は何もなかった場所なのだと思います。城跡の南側も低い場所はあちこちで水が出ている様子。大草城が完成していれば北に大手を開き、西は海との間の狭い高まりの上の街道(西浦街道?常滑街道)沿いに細長い町並みが構築されたのかと勝手に想像しました。街道を南に進めば谷田川のところで港まですぐ。良い場所にある城でした。ただ堀の水がきれいではなく、藪蚊がすごかったです。
大野城も大草城も未踏の城址です。紹介有り難うございます。遺構を残置させたのは、徳川側として、豊臣への防御意識が大坂の陣/元和偃武まで続いたからなのでしょうか。
大野湊はずっと使われていたようで、そちらの警備の関係かもしれません。ただ大野は家康が本能寺の変で三河に戻るとき立ち寄ったという噂も聞きました。メインではないかもしれませんが、伊勢方面からのルートのひとつを押さえるためなのかなと思いました。
近所なのにあまり知らなかった
佐治氏子孫は大野城付近に住まわれています
Лепота!
Спасибо
伊勢志摩を平定したら、戦略上の意味は無くなるからでしょうかね。その伊勢で、強力な九鬼水軍を引き込めたから影が薄くなっていそうです。東は徳川の壁がありますから。幕府以降は、西からの驚異を削ぐ意味で、休眠させていたのかな。(にしては下に反れ過ぎか)局地的に見ると要所だったのでしょうが、日本単位で見ると辺境に過ぎませんね。若い頃に愛知に長期いた頃、女の子誘って知多半島はいきましたが、流石に歴史モノには触れませんでした(笑
大草城・大野城から先にはいきませんでした。どうせなら知多半島の先まで行けば良かったです。
現在と違い、明治以前には木曽・長良・揖斐川に橋はかけられておらず渡し船でした。また、伊勢には桑名、安濃津、鳥羽などの栄えた港があったのですから、対岸側の大野もそれなりに重要な港だったのでしょう。同盟相手とはいえ、三河湾の三河水軍を増長させないためにも佐治家は織田家に優遇されたのだろうと思います。>西からの驚異を削ぐ意味で、休眠させていたのかな。(にしては下に反れ過ぎか)旧東海道は鈴鹿峠を越えて四日市に出てきます。大坂~奈良~伊賀経由でも同じです。大野は四日市の対岸ですから「下に反れ過ぎ」ているわけでもなさそうです。
コメントありがとうございます。当時の尾張~伊勢へのルートは私が思うより大変なものだったのだと思いました。現代でも木曽三川越えは大変。伊勢湾岸道が通行止めになれば交通はマヒしそうです。同盟相手であってもけん制は必要。独占できればいちばん良いのですね。
@@TAIRA_TAKAMORI 様確かに。無視して侵攻すれば、側面や後背を脅かす存在にはなりそうですね。長島の一向宗も、隣国にあって長年悩みのタネだったから重要性も高かったのでしょうね。
@@pekadon_sevilla2008 様そうですね。西軍が大野港を無視して通過した場合、尾張は陸路が通過しにくいので伊勢湾を押さえておけば前線への補給をかなり妨害することができるでしょう。また、西軍が敗れた時の退路を制限する効果もあります。その場合は大野城や大草城に籠城する必要はなく、沿岸の船を全て海上に出してしまえば良いのです。
この大草城を見て私がびっくりしたの丘の麓でなく丘の中腹それも頂上近くに水堀があった事です。黒鍬の技術力なのでしょうね。
動画越しに見てるだけでも、未完の城とはいえ立派な水堀と土塁ですね。
ぜひ現地に訪れてこの目で確かめたいものです!
大草城の遺構は実際に現地で見るととてもよく残っていますよね。
曲輪、土塁、堀どれも体感しやすくて、アクセスもしやすい。
お城初心者にはオススメですね。
私は大草城の展望台からキツネを見ましたよ🦊
知多には野生のキツネがいるようなので、運が良ければ出会えるかも😊
キツネですか!見てみたかったです。ついでに展望台も登りたかったです。
近所を通るので知ってましたが、こうしてyoutubeで見るとロマンを感じます。行ってみたいと思いました。
この規模の造成工事をしながら放置するのは現在では考えられ無い事態があったと考えます。
水堀の水源は湧き水を利用した上水システムで海外のカナートと同じく地下水道も構築しているはず、発掘すれば地下壕のようなトンネルがあると思いました。一夜城の井戸曲輪のような円形の上水システムは海外の城跡にも見られます
佐治氏が、中部地方支配を目指すうえで、想像以上に重要な一族だったようなのは驚きました。単に「離縁させられてかわいそうな男」というだけではないのですね。
伊藤です。知多の大草城は、自分のご先祖の初代村田(中村)権右衛門重政(1533~1585)普請してました。
嬉しいかったので、コメントを、入れました。
伊藤さん、ありがとうございます。
ご先祖が普請にあたったことがわかっているとは驚きです!
@@kainosuke-rekishiさんへ、村田権右衛門で、インターネットで探すと、出て来ますよ。
ちなみに、江戸時代は、大野の中村権(源)右衛門で、尾張藩廻船惣庄屋を、やってました。
見てみます
両城の付近に住んでます。
大野町には佐治氏の菩提寺である斉年寺があります。
斉年寺には佐治氏から雪舟の慧可断臂図(国宝)が奉納されて、現在京都博物館にあるそうです。斉年寺には複製がありますが見たことはありません。
UPお疲れ様です。
大草城、立地が良いですね。西は海、南は川、東は谷(おそらく水田)と三方を守られていて、武事に拙い有楽斎とは思えない城地だと思います。
城の工事が遅かったのは有楽斎本人が織田家運営スタッフとして実務が多忙だったからでしょうが、有楽斎本人が「どうせ武事は下手なんだから、居城は形だけあればいい」などと思っていたのかもしれませんね。完成していれば立派な城になったと思うので残念w
ただ、未完成のままキレイに管理されていた先人に感謝々々。
次回も楽しみにしています。
コメントありがとうございます。確かに城の東側は水田。国道が低地をまっすぐ突っ切って通っています(国道から大草城があったであろう高まりが右手に見え、迷うことなく城跡にたどり着くことができました)。新しい道ができているということは昔は何もなかった場所なのだと思います。城跡の南側も低い場所はあちこちで水が出ている様子。大草城が完成していれば北に大手を開き、西は海との間の狭い高まりの上の街道(西浦街道?常滑街道)沿いに細長い町並みが構築されたのかと勝手に想像しました。街道を南に進めば谷田川のところで港まですぐ。良い場所にある城でした。ただ堀の水がきれいではなく、藪蚊がすごかったです。
大野城も大草城も未踏の城址です。紹介有り難うございます。遺構を残置させたのは、徳川側として、豊臣への防御意識が大坂の陣/元和偃武まで続いたからなのでしょうか。
大野湊はずっと使われていたようで、そちらの警備の関係かもしれません。ただ大野は家康が本能寺の変で三河に戻るとき立ち寄ったという噂も聞きました。メインではないかもしれませんが、伊勢方面からのルートのひとつを押さえるためなのかなと思いました。
近所なのにあまり知らなかった
佐治氏子孫は大野城付近に住まわれています
Лепота!
Спасибо
伊勢志摩を平定したら、戦略上の意味は無くなるからでしょうかね。
その伊勢で、強力な九鬼水軍を引き込めたから影が薄くなっていそうです。
東は徳川の壁がありますから。
幕府以降は、西からの驚異を削ぐ意味で、休眠させていたのかな。(にしては下に反れ過ぎか)
局地的に見ると要所だったのでしょうが、日本単位で見ると辺境に過ぎませんね。
若い頃に愛知に長期いた頃、女の子誘って知多半島はいきましたが、流石に歴史モノには触れませんでした(笑
大草城・大野城から先にはいきませんでした。どうせなら知多半島の先まで行けば良かったです。
現在と違い、明治以前には木曽・長良・揖斐川に橋はかけられておらず渡し船でした。
また、伊勢には桑名、安濃津、鳥羽などの栄えた港があったのですから、対岸側の大野もそれなりに重要な港だったのでしょう。
同盟相手とはいえ、三河湾の三河水軍を増長させないためにも佐治家は織田家に優遇されたのだろうと思います。
>西からの驚異を削ぐ意味で、休眠させていたのかな。(にしては下に反れ過ぎか)
旧東海道は鈴鹿峠を越えて四日市に出てきます。大坂~奈良~伊賀経由でも同じです。大野は四日市の対岸ですから「下に反れ過ぎ」ているわけでもなさそうです。
コメントありがとうございます。当時の尾張~伊勢へのルートは私が思うより大変なものだったのだと思いました。現代でも木曽三川越えは大変。伊勢湾岸道が通行止めになれば交通はマヒしそうです。同盟相手であってもけん制は必要。独占できればいちばん良いのですね。
@@TAIRA_TAKAMORI 様
確かに。
無視して侵攻すれば、側面や後背を脅かす存在にはなりそうですね。
長島の一向宗も、隣国にあって長年悩みのタネだったから
重要性も高かったのでしょうね。
@@pekadon_sevilla2008 様
そうですね。西軍が大野港を無視して通過した場合、尾張は陸路が通過しにくいので伊勢湾を押さえておけば前線への補給をかなり妨害することができるでしょう。
また、西軍が敗れた時の退路を制限する効果もあります。その場合は大野城や大草城に籠城する必要はなく、沿岸の船を全て海上に出してしまえば良いのです。