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馬子の墓とされるものだけが丸裸なのは謎ですね。
馬子は値の駒を使って崇峻天皇を暗殺したのが日本書紀に明記されてる。日本で臣下が公然と天皇を暗殺したのは後にも先にもこの事件くらい。日本書紀を読んだ何者達かから、馬子が天皇を暗殺した国賊として、反感を持たれ見せしめにされて、古墳を丸裸にされ遺体を晒し者にされたと思った。シリアかレバノンかで過去の大統領の墓が暴徒によって暴かれ死体が道路に放置され晒された事件があったけど、あれと同じかと。
蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした時、馬子軍の中に13歳の厩戸皇子が初陣を飾っていました。厩戸皇子は蘇我氏一族のひとりだったのですね。
霊夢と魔理沙の台詞の割り振りが混乱してる🙄
聖徳太子の墓と言われている叡福寺の円墳は、後世に孝徳天皇陵であった八角墳を改変し、改葬された可能性があるという学説があります。それでは、真の厩戸王の墓はどこかということになりますが、すぐ近くに葉室塚古墳という方墳があり、これの発掘調査もすべきです。蘇我氏系統の墓はほぼ全員が方墳であるため、厩戸王の墓だけが円墳というのがかなり納得しにくいのです。その他、墓の石室内部構造も時代に合っていないようだというのもあります。いずれにしろ、主な磯長の古墳の発掘調査が終わらないと決定はできないのです。昔からの口コミだけで、あれが聖徳太子の墓のように言ってるだけで、学術的なバックアップは不完全らしいです。
@@前田ひろし それかなり確度の高い説だと思ってます。太子一族を鏖殺した当の本人の墓が太子墓とされているとは歴史の皮肉ですね。
入鹿はともかく、蘇我氏の大臣ともなる者に「蝦夷」と名付け(名乗っ)たのは何故だろう?
勝者側により作られた(捏造された)のでしょう
それは朝廷主流派に歯向かう存在、敵対するもの、属さないモノたちという意味で付けられた隠語と見るほうが良さげ。
奈良時代の貴族の名に参考になる例があり、「佐伯毛人(さえきのえみし)」や「佐伯今毛人(さえきのいまえみし)」です〔『続日本紀』参照〕。そもそも「佐伯氏」は、東北からつれて来られた「浮囚(ふしゅう)」の「蝦夷」を支配する皇別氏族(景行天皇の後裔で、「播磨別(はりまわけ)」から後「佐伯氏」へ。『日本書紀』『播磨国風土記』参照)。つまり、自ら支配する部族集団の名を採っている。一方、時代を遡ると、「葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)」という古墳時代前期~中期で天皇家にも后妃を出し、政権中枢を担った大豪族がおり、やはり皇別氏族です。彼は、盛んに朝鮮半島にも出兵し活躍しているので(『日本書紀』参照)、恐らく南九州に盤踞し遅くまで反抗を続けた「熊襲」征討にも絡み、勇猛な部族集団「襲」の名の一部を採ったものと思えます。以上、ご参考迄。
二子塚古墳 別の動画で石室を映してくれたものがつい最近放映されました。2つあって片方は大きな石をきれいに組んだいかにも蘇我氏の古墳というものでした。二人ぶん入りそうな大きいりっぱな古墳でした。そのあともうひとつ二子塚古墳ということですぐそばの古墳石室が映されましたが、とても同じ豪族?のものとは思えない小さな小さな石室で、せまい入り口から懐中電灯で照らし映すのですが失礼ですが見栄えのしない小さいものでした。馬子と蝦夷を組み合わせたのが最初の広い石室のものなのかそれではもうひとつのせまい、せまい石室のものは誰のもの?と疑問が沸くし、蝦夷、馬子までは安泰だった蘇我氏一族がいっしのへんで暗殺され、それを聞いたもう一人が自殺し、その2人の墓はどうしたのか?稲目と馬子のセットでいっしのへん以降急遽一緒に葬りなおしたのか?そして小さいほうの石室は殺されたものと自殺したものが葬られたのか?それとも飛鳥寺の裏にあった小さい石碑が殺された蘇我氏のものなのか?わからなくなってきます。馬子の古墳は石舞台古墳だとも言われてます。
江戸時代に直したのは、地震とかあったからなのかな?
厩戸王(聖徳太子は称号)は「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏、法隆寺・四天王寺の建立)」など、彼が主体として確実に関与していたという証拠がありません。
@@カエルアンコウ まあ証拠が残るようなものでもないですしね。
18:18聖徳太子の墓に古墳が無いのは普通のこと('ω')?
厩を馬小屋と考えているうちは謎は解けませんよ。古代うまやと言えば駅のことです。駅と考えればなぞはとけます。
古代の駅って、結局、馬や馬車を繋ぐトコじゃん😆
@ 駅は駅伝制でさだめられた国家施設ですよ。早馬で緊急情報を伝える情報機関であるとともに、大陸半島の使者が来た時、都に至るまでの宿舎、迎賓館の役目をします。だから外交文化交流の場でもあったわけです。
@ 語るに落ちましたな。国家施設は、厩伝制とは言わず、駅伝制と言う。つまり、制度的には、厩=駅ではないとの事ですな。他方、漢字からも駅は馬で尺を繋ぐ仕組み、厩は鳥や獣を入れる小屋ですからな。会話では混用されていても、厳密に、制度や語義は、厩=駅ではないですな😆
@@恵口百山 そのまま駅戸皇子としたら意味がすぐ分かっちゃうじゃないですか。分からないようにわざわざ厩戸と変えたんですよ。太子の資養氏族が駅の管理氏族だったと言う事は当時言ってはいけない事だったんです。
@ ちょっと釣ってみただけですm(_ _)m。年も変わるので、この辺で失礼します。
奈良って今より栄えていた?
少なくとも他が邨(むら)規模に対して、瓦葺の寺社仏閣が立ち並び、天皇、貴族、従者階級の住居が整然と立ちならぶ景観を成していたのは確か。難波の湊から奈良へも水路?経路が芦原が一面拡がっている中でのそのような景観が見える様。。。奇怪?奇異?にみえるだろうねぇ。・・・あたかも興福寺を猿沢池の芦原越しに眺めるかのような景観を見るような感じ?。。。ですかね<(==;
法隆寺にも七不思議が伝わっていますが、この御廟にも結界石を張り巡らせているあたりに息子の山背大兄他一族を誅殺された太子の祟りへの畏怖を感じます。
馬子の墓とされるものだけが丸裸なのは謎ですね。
馬子は値の駒を使って崇峻天皇を暗殺したのが日本書紀に明記されてる。日本で臣下が公然と天皇を暗殺したのは後にも先にもこの事件くらい。
日本書紀を読んだ何者達かから、馬子が天皇を暗殺した国賊として、反感を持たれ見せしめにされて、古墳を丸裸にされ遺体を晒し者にされたと思った。
シリアかレバノンかで過去の大統領の墓が暴徒によって暴かれ死体が道路に放置され晒された事件があったけど、あれと同じかと。
蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした時、馬子軍の中に13歳の厩戸皇子が初陣を飾っていました。厩戸皇子は蘇我氏一族のひとりだったのですね。
霊夢と魔理沙の台詞の割り振りが混乱してる🙄
聖徳太子の墓と言われている叡福寺の円墳は、後世に孝徳天皇陵であった八角墳を改変し、改葬された可能性があるという学説があります。
それでは、真の厩戸王の墓はどこかということになりますが、すぐ近くに葉室塚古墳という方墳があり、これの発掘調査もすべきです。
蘇我氏系統の墓はほぼ全員が方墳であるため、厩戸王の墓だけが円墳というのがかなり納得しにくいのです。その他、墓の石室内部構造も時代に合っていないようだというのもあります。いずれにしろ、主な磯長の古墳の発掘調査が終わらないと決定はできないのです。昔からの口コミだけで、あれが聖徳太子の墓のように言ってるだけで、学術的なバックアップは不完全らしいです。
@@前田ひろし それかなり確度の高い説だと思ってます。太子一族を鏖殺した当の本人の墓が太子墓とされているとは歴史の皮肉ですね。
入鹿はともかく、蘇我氏の大臣ともなる者に「蝦夷」と名付け(名乗っ)たのは何故だろう?
勝者側により作られた(捏造された)のでしょう
それは朝廷主流派に歯向かう存在、敵対するもの、属さないモノたちという意味で付けられた隠語と見るほうが良さげ。
奈良時代の貴族の名に参考になる例があり、「佐伯毛人(さえきのえみし)」や「佐伯今毛人(さえきのいまえみし)」です〔『続日本紀』参照〕。そもそも「佐伯氏」は、東北からつれて来られた「浮囚(ふしゅう)」の「蝦夷」を支配する皇別氏族(景行天皇の後裔で、「播磨別(はりまわけ)」から後「佐伯氏」へ。『日本書紀』『播磨国風土記』参照)。つまり、自ら支配する部族集団の名を採っている。一方、時代を遡ると、「葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)」という古墳時代前期~中期で天皇家にも后妃を出し、政権中枢を担った大豪族がおり、やはり皇別氏族です。彼は、盛んに朝鮮半島にも出兵し活躍しているので(『日本書紀』参照)、恐らく南九州に盤踞し遅くまで反抗を続けた「熊襲」征討にも絡み、勇猛な部族集団「襲」の名の一部を採ったものと思えます。以上、ご参考迄。
二子塚古墳 別の動画で石室を映してくれたものがつい最近放映されました。2つあって片方は大きな石をきれいに組んだ
いかにも蘇我氏の古墳というものでした。二人ぶん入りそうな
大きいりっぱな古墳でした。
そのあともうひとつ二子塚古墳
ということですぐそばの古墳石室が映されましたが、とても同じ豪族?のものとは思えない小さな小さな石室で、せまい入り口から懐中電灯で照らし映すの
ですが失礼ですが見栄えのしない小さいものでした。
馬子と蝦夷を組み合わせたのが
最初の広い石室のものなのか
それではもうひとつのせまい、せまい石室のものは誰のもの?
と疑問が沸くし、蝦夷、馬子までは安泰だった蘇我氏一族が
いっしのへんで暗殺され、
それを聞いたもう一人が自殺
し、その2人の墓はどうしたのか?稲目と馬子のセットでいっしのへん以降急遽一緒に葬りなおしたのか?そして小さいほうの石室は殺されたものと自殺したものが葬られたのか?
それとも飛鳥寺の裏にあった小さい石碑が殺された蘇我氏のものなのか?わからなくなってきます。馬子の古墳は石舞台古墳だとも言われてます。
江戸時代に直したのは、地震とかあったからなのかな?
厩戸王(聖徳太子は称号)は「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏、法隆寺・四天王寺の建立)」など、彼が主体として確実に関与していたという証拠がありません。
@@カエルアンコウ まあ証拠が残るようなものでもないですしね。
18:18
聖徳太子の墓に古墳が無いのは普通のこと('ω')?
厩を馬小屋と考えているうちは謎は解けませんよ。古代うまやと言えば駅のことです。駅と考えればなぞはとけます。
古代の駅って、結局、馬や馬車を繋ぐトコじゃん😆
@ 駅は駅伝制でさだめられた国家施設ですよ。早馬で緊急情報を伝える情報機関であるとともに、大陸半島の使者が来た時、都に至るまでの宿舎、迎賓館の役目をします。だから外交文化交流の場でもあったわけです。
@ 語るに落ちましたな。国家施設は、厩伝制とは言わず、駅伝制と言う。つまり、制度的には、厩=駅ではないとの事ですな。他方、漢字からも駅は馬で尺を繋ぐ仕組み、厩は鳥や獣を入れる小屋ですからな。会話では混用されていても、厳密に、制度や語義は、厩=駅ではないですな😆
@@恵口百山 そのまま駅戸皇子としたら意味がすぐ分かっちゃうじゃないですか。分からないようにわざわざ厩戸と変えたんですよ。太子の資養氏族が駅の管理氏族だったと言う事は当時言ってはいけない事だったんです。
@ ちょっと釣ってみただけですm(_ _)m。年も変わるので、この辺で失礼します。
奈良って今より栄えていた?
少なくとも他が邨(むら)規模に対して、瓦葺の寺社仏閣が立ち並び、天皇、貴族、従者階級の住居が整然と立ちならぶ景観を成していたのは確か。
難波の湊から奈良へも水路?経路が芦原が一面拡がっている中でのそのような景観が見える様。。。奇怪?奇異?にみえるだろうねぇ。
・・・あたかも興福寺を猿沢池の芦原越しに眺めるかのような景観を見るような感じ?。。。ですかね<(==;
法隆寺にも七不思議が伝わっていますが、この御廟にも結界石を張り巡らせているあたりに息子の山背大兄他一族を誅殺された太子の祟りへの畏怖を感じます。