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私は黒藤川で育ちました。今も墓参りに行ってますが…赤蔵ヶ池は懐かしいです❤ 『ヌエ退治の絵』は黒藤川中学校の側面に大きく画かれていました(現在は黒藤川小学校跡地で公民館になってます)……色とりどりで素敵だったのですが…取り壊されてしまい残念です。懐かしい映像+知的なお話に感謝しております。今後も楽しみにしております🎉
タイはバンコクからこんにちは🙏はじめまして朝から観行っちゃいました(チャンネル登録済み)道後湯の町生まれで母方の里がグーグルマップに出て来る(旧柳谷村立中津小学校跡 体育館)のある秘境ですw幼いころよく夏休みに帰郷する母に連れられ盆踊り大会に行ったことを思い出しました母親の実家は左上の方にある大宮八幡神社さんに上がっていく手前を左に入った小さな集落ですが夏休みに帰郷したおりラジオ体操へ行ったら誰も居なくて一人でやったのを思い出しました前方の景色は雄大で四国カルストが大きくそびえ立っていましたもしまたの機会がございましたらこちらの久万高原町中津 の方も散策して動画を観られれば嬉しいなと思っています
お母様が中津のご出身なんですね!中津の皆さんには良くしてもらっております。中津地区はすでに何本かは撮影しております。溜まったらまとめてご紹介できたらと思います!
@@shiratsue はい楽しみにしておきます
毎回楽しく見ています。私は伊豫久万の大野家を探索していますので大変勉強になります。三位頼政のヌエ伝説は虚構ですが地元では楽しく語られているようですね。大族美濃土岐家との関連に触れられていますが、w私もそう思います。これからもどんどんUPしてくださいね。
コメントありがとうございます!死んだはずが生きていたパターンがほとんどの中で、出世前に住んでいたという頼政伝説はなぜ発生したのかに興味を持っております。大野家の記録も虚構とされるものが非常に多いので、逆に色々と想像を掻き立てられる、面白いテーマですね!
頼政伝説がどのように生まれたか興味深々ですね。少なくても頼政が従三位になって以降でしょうが、話の出典が源氏物語の底本である、(保元、平治、治承物語)の発刊以降で伊予で源姓賛歌が発生した時期とも言えるでしょうね。となると、源姓美濃土岐家が浮穴郡一帯(上下含む)を領分とした時期かと思われます。これは土岐光定が比定されますね。(~弘安4.1281.8/11)法名定光、興源寺と号す 伊予国荏原村住居す。余談ながら、後に大野通繁の時、興源寺の僧を伴い、大野家親族、土岐美濃守成頼に再興依頼して大野家再興を果たします。美濃土岐家の伊予分領は本国よりも領地は広かったとされますが、河野豫洲家の家来であった平岡氏の侵略により大半が河野家領と化したとされます。美濃土岐家からは親族大野家に平岡の侵略を防ぐようににとの依頼が再三ありましたが、如何せん力不足とされます。大野紀伊守利直(直家)の代で漸く平岡氏をねじ伏せるとします。尚、宇都宮氏支配下の大津(大洲)と大野氏の支配の領地への疑問が呈されていましたが、宇都宮氏が入府するのが、豊房の代で1330年とされますが、伊豫大野家初代の大伴吉良麿(喜)が939年に伊予、粟津郷八多喜へ下向し宇津へ拡大し更に後世、小田まで拡大し最後に久万大除城へ本拠地を構えますが、秀吉に四国征伐で総下城となったとされます。宇都宮氏とは領境は接していたのでしょうが、直接トンパチした形跡は途中ではありません。最後に大野直昌(ナオシゲ)の時に末弟の大野直之(直行)が宇都宮家家老であったが、姫を貰って宇都宮家を継承したとします。ただ、大洲市史は乗っ取りと判断しているようで直之の評判は悪いですね。宮廷でのヌエ退治とよく似た話は「大野系図」にも出てきます。こちらはヌエではなく鬼とされます。また、大野家記録の最大の虚構とされるのは「笹が峠の合戦(大野が原の戦い)」は無かったとされる話ですね。私はこれは虚構ではなく史実と思っています。この話を虚構にしてしまったのは久万町史を書いた伊藤さんですね。伊藤さんは根拠として江戸中期の大野家子孫の大野和五郎直尚が手記で否定しているから間違いないとして他の古文書との考証もせず、町史を書き、周りの町村史はこれを鵜呑み転載し、最後に愛媛県史編纂委員であった同氏は県史でも大野が原の戦いを完全否定してしまったので現在の愛媛県ではこれ説が正史とされてしまいました。そもそも、古くは大野が原の戦いとする表現も無ければ、笹ケ峠の戦いとする表現もなく当初は「一丁原の戦い」の表現が最古であり、次に、小田(太田)から一丁原へ抜ける笹が峠の戦いと表現され、最後に一丁原一帯を大野が原とし「大野が原の戦い」と変化していきましたね。大野和五郎の時代には笹が峠の戦いとされていたらしく、当時、五つあった「笹が峠」を探索して間違った笹が峠を比定して、戦いは無かったと手記に書きました。これを真に受けたのが伊藤氏です。「大野が原の戦い」もUPを予定してくれているようなので、とても楽しみです。長くなりました、ごめんなさい。
大変お詳しいご説明をありがとうございます。とても勉強になりました。大野が原の戦いについて、私もあの時期、一条氏の伊予攻めの直後で疲弊している時期に、土佐統一前とは言え、長宗我部元親が伊予攻めをしなかったとは思えないので、戦いがあった可能性は高いと思っています。ただ、だいぶ脚色されたものが笹ヶ峠の戦いとして残されたのではないかと思っています。特にあの時期の元親が騙し討ちをすると言うのは、あまりにもらしくないです。戸次川の戦い以降なら分かるのですが。
このような山奥にもメガソーラー出来ているのに驚きました。多くは中国の業者ですが、能登の地震もそうでしたが壊れると中国に逃げちゃいます。メガソーラーの寿命が来ると、会社潰して知らんぷりですね。解体は自治体が費用負担で行います。
Googleマップで山を見ていると、年々増えているのが良くわかりますね。山はあっという間に草も伸びますし、ほったらかしにできるわけでもないので、この先どうなるのかしんぱいです。
私は黒藤川で育ちました。今も墓参りに行ってますが…赤蔵ヶ池は懐かしいです❤ 『ヌエ退治の絵』は黒藤川中学校の側面に大きく画かれていました(現在は黒藤川小学校跡地で公民館になってます)……色とりどりで素敵だったのですが…取り壊されてしまい残念です。懐かしい映像+知的なお話に感謝しております。今後も楽しみにしております🎉
タイはバンコクからこんにちは🙏
はじめまして朝から観行っちゃいました(チャンネル登録済み)
道後湯の町生まれで母方の里がグーグルマップに出て来る(旧柳谷村立中津小学校跡 体育館)のある秘境ですw
幼いころよく夏休みに帰郷する母に連れられ盆踊り大会に行ったことを思い出しました
母親の実家は左上の方にある大宮八幡神社さんに上がっていく手前を左に入った小さな集落ですが
夏休みに帰郷したおりラジオ体操へ行ったら誰も居なくて一人でやったのを思い出しました
前方の景色は雄大で四国カルストが大きくそびえ立っていました
もしまたの機会がございましたらこちらの久万高原町中津 の方も散策して動画を観られれば嬉しいなと思っています
お母様が中津のご出身なんですね!
中津の皆さんには良くしてもらっております。
中津地区はすでに何本かは撮影しております。溜まったらまとめてご紹介できたらと思います!
@@shiratsue はい楽しみにしておきます
毎回楽しく見ています。私は伊豫久万の大野家を探索していますので大変勉強になります。三位頼政のヌエ伝説は虚構ですが地元では楽しく語られているようですね。大族美濃土岐家との関連に触れられていますが、w私もそう思います。これからもどんどんUPしてくださいね。
コメントありがとうございます!
死んだはずが生きていたパターンがほとんどの中で、出世前に住んでいたという頼政伝説はなぜ発生したのかに興味を持っております。
大野家の記録も虚構とされるものが非常に多いので、逆に色々と想像を掻き立てられる、面白いテーマですね!
頼政伝説がどのように生まれたか興味深々ですね。
少なくても頼政が従三位になって以降でしょうが、話の出典が源氏物語の底本である、(保元、平治、治承物語)の発刊以降で伊予で源姓賛歌が発生した時期とも言えるでしょうね。となると、源姓美濃土岐家が浮穴郡一帯(上下含む)を領分とした時期かと思われます。これは土岐光定が比定されますね。(~弘安4.1281.8/11)法名定光、興源寺と号す 伊予国荏原村住居す。余談ながら、
後に大野通繁の時、興源寺の僧を伴い、大野家親族、土岐美濃守成頼に再興依頼して大野家再興を果たします。美濃土岐家の伊予分領は本国よりも領地は広かったとされますが、河野豫洲家の家来であった平岡氏の侵略により大半が河野家領と化したとされます。美濃土岐家からは親族大野家に平岡の侵略を防ぐようににとの依頼が再三ありましたが、如何せん力不足とされます。大野紀伊守利直(直家)の代で漸く平岡氏をねじ伏せるとします。
尚、宇都宮氏支配下の大津(大洲)と大野氏の支配の領地への疑問が呈されていましたが、宇都宮氏が入府するのが、豊房の代で1330年とされますが、伊豫大野家初代の大伴吉良麿(喜)が939年に伊予、粟津郷八多喜へ下向し宇津へ拡大し更に後世、小田まで拡大し最後に久万大除城へ本拠地を構えますが、秀吉に四国征伐で総下城となったとされます。宇都宮氏とは領境は接していたのでしょうが、直接トンパチした形跡は途中ではありません。最後に大野直昌(ナオシゲ)の時に末弟の大野直之(直行)が宇都宮家家老であったが、姫を貰って宇都宮家を継承したとします。ただ、大洲市史は乗っ取りと判断しているようで直之の評判は悪いですね。
宮廷でのヌエ退治とよく似た話は「大野系図」にも出てきます。こちらはヌエではなく鬼とされます。
また、大野家記録の最大の虚構とされるのは「笹が峠の合戦(大野が原の戦い)」は無かったとされる話ですね。私はこれは虚構ではなく史実と思っています。この話を虚構にしてしまったのは久万町史を書いた伊藤さんですね。伊藤さんは根拠として江戸中期の大野家子孫の大野和五郎直尚が手記で否定しているから間違いないとして他の古文書との考証もせず、町史を書き、周りの町村史はこれを鵜呑み転載し、最後に愛媛県史編纂委員であった同氏は県史でも大野が原の戦いを完全否定してしまったので現在の愛媛県ではこれ説が正史とされてしまいました。そもそも、古くは大野が原の戦いとする表現も無ければ、笹ケ峠の戦いとする表現もなく
当初は「一丁原の戦い」の表現が最古であり、次に、小田(太田)から一丁原へ抜ける笹が峠の戦いと表現され、最後に一丁原一帯を大野が原とし「大野が原の戦い」と変化していきましたね。大野和五郎の時代には笹が峠の戦いとされていたらしく、当時、五つあった「笹が峠」を探索して間違った笹が峠を比定して、戦いは無かったと手記に書きました。これを真に受けたのが伊藤氏です。
「大野が原の戦い」もUPを予定してくれているようなので、とても楽しみです。
長くなりました、ごめんなさい。
大変お詳しいご説明をありがとうございます。とても勉強になりました。
大野が原の戦いについて、私もあの時期、一条氏の伊予攻めの直後で疲弊している時期に、土佐統一前とは言え、長宗我部元親が伊予攻めをしなかったとは思えないので、戦いがあった可能性は高いと思っています。
ただ、だいぶ脚色されたものが笹ヶ峠の戦いとして残されたのではないかと思っています。
特にあの時期の元親が騙し討ちをすると言うのは、あまりにもらしくないです。戸次川の戦い以降なら分かるのですが。
このような山奥にもメガソーラー出来ているのに驚きました。
多くは中国の業者ですが、能登の地震もそうでしたが壊れると中国に逃げちゃいます。
メガソーラーの寿命が来ると、会社潰して知らんぷりですね。解体は自治体が費用負担で行います。
Googleマップで山を見ていると、年々増えているのが良くわかりますね。
山はあっという間に草も伸びますし、ほったらかしにできるわけでもないので、この先どうなるのかしんぱいです。