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昔ですが、天ヶ瀬に住んでいました。集落は9戸ありました。ここは4戸あった記憶があります。私が小学生1年生の時昭和44年くらいは林業が盛んで両親が杉の木を植えるのを小屋で待っていました。確かここに足の悪い寝たきりのおばあちゃんが住んでいて天ヶ瀬の自宅から歩いて遊びに行ってました。もう50年前の話です。懐かしい動画ありがとうございました。
コメントありがとうございます。詳細な情報、助かります。新田は家一軒という情報しかなくて、もっとたくさん家屋があってもおかしくない広さなので、不思議に思っていました。やはり現地の方の情報があると、謎が解けます。天ケ瀬は住民の名前や仕事や離散状況なども、すべて詳細に上北山村の村史に記載があって、かなり詳しく把握しております。今ならあんな書物も、個人情報の関係で出せないかもしれないですね。またなにか気になる点がありましたら、コメントお気軽にどうぞ!
いつもの音楽で一緒に上がろうとおもったらいきなり着いたからピックリでした。私的には前みたいに歩いて目的地に一緒に行きたいです。大変な時期ですが頑張ってくださいね😃
いつもの音楽、今回はいらんかなーと思いましたが、いちおうつけました。全廃村を網羅しようとすると、どうしてもこんな廃村も出てきます。ちなみに、動画やネットでは史上初公開の廃村です。
いつも拝見させていただいています。心が落ち着く感で、感謝してます。アリガトゥネ。
コメントありがとうございます。お気軽にどうぞー。
ご苦労様です楽しみにしてますが、余り無理なさらぬように🤗
今年は月一廃村でがんばってます。ほどほどに回れたらいいなと思います。
広い敷地と畑がひろがってのびのび暮らしていたのかなあと想像しました☆現代の都市生活とは違う豊かさを感じてしまいます。
家族がいて、一軒家でも寂しくなかったのなら良いですね。近い家でも徒歩30分くらいかかりますから。豊かなのは自然だけ、ですね。
シリーズ最短のアクセスですね。舗装道路からいつものように見落としてしまいそうな上り口。いきなり雰囲気のある石垣。さあ今回はどんな道のりかな、と見始めたらえっもう到着?いやーびっくりしました。それにしてもコンクリートの土台といい、写真の様子からも割と最近(大正?昭和?)の家屋に感じられます。一代か二代のごく短命な集落だったのかなぁ。いつもとは別のもの悲しさがありますね。
本当はいつもの音楽は必要ないのですが、みなさんお好きなようなので、一瞬だけ入れてみました。家一軒だけの出張所のような集落で、その割には土台がしっかりしていてと、なにか資料にはない出来事や事実がありそうな気がします。
いきなり着きましたね今回は道から登ってすぐだったのですね。苔に覆われたかまど 雰囲気ありますね。こうやってみな自然に帰ってゆくのですね。ちょっと虚しい。
道のすぐ横とはいえ、行き止まりだし、狭いし、周りには森しかないし、再利用するにも不便なところですから。ミツバチ箱はあったので、いちおう人は来ているのかなーと思う次第です。
いつもながらきれいな映像ですね・・・朽ちた感じがなんとも言えません神奈川のあたりもちゃんと調べるとこんな感じの廃村とかがたくさんあるんだろうなあ
土台だけがここまで残っているのが面白いですね。コンクリでなければ、ほとんどわからなかったでしょう。神奈川はあんまり廃村なさそうですね。大阪がないのは確認できているのですが、それ以外の市町村はあるはず……。
なんだか気軽に行けそうな廃村ですね!
まあ気軽ですね。階段で2mくらいですから。道路もまあまあいいし。
長い一軒家、母屋、納屋、牛等の家畜部屋等が有ったのでしょうか?昔の写真からの想像ですが、写真を撮った位置から大声で呼ぶと誰かが縁側に出て手を振ってくれる…。そんな光景が目に浮かんで来ました。
大きさから言って、家畜小屋もあったのでしょうね。家族か親族まとまって移住したのでしょうか。痕跡を見る限り、あの写真の頃より、建物が多いような気がしました。そういえば、写真を撮影した場所はどこだったのでしょう。対岸の山は、今や杉に覆われて、見通しは悪くなってしまっています。昔は杉もなく、畑が広がっていたのかも知れないですね。
建物はほぼ無くなり土台基礎や石垣が残るのみですね。コンクリの土台が残っている感じを見るとさほど古くないしっかりした建物だったんでしょうね。古い建物基礎は地杭や束石が一般的かと思いますが斜面の石垣造成の平地と何か関係があるんですかね。苔生した土台が良い感じでとても雰囲気がよかったです。
古い建物は普通、束石で上屋は置いているだけですからね。ここはコンクリートの基礎で、かまどや水回りもきちんとしているので、わりと新しい時期に開拓したのでしょう。だとすると、ここに住んでいた期間は、思ったほど長くないのかもしれないですね。
今回は到着するの早いですね。
道路の横ですからね……。こんな場所に廃村があるんですよ、ということで。
アスファルト道路のすぐ側なんですね!それでも生活の痕跡を見ると当時が淋しさと共に偲ばれます。当時の写真は大塔村史からですか?立派なお宅だったでしょうが、人工物は雑草や苔に覆われてしまうと自然の力を思い知らされます。
この写真は『上北山村の地理』からですね。たぶん、新田の写真は世界でこれ一枚しかないのではないでしょうか。たった一軒なので、調べられない人には、ここを見つけても集落だとは特定できないでしょうね。道路は近いですが、集落までは遠い、そんな場所です。
「上北山村の地理」って動画内にありましたね。失礼しました💦
Love the lighting! Seems like a long time ago that this was abandoned? 😊 👍
The base of the house is concrete, so it is relatively new. In Japan, concrete begins to be used as the foundation of a house after the Meiji era (1868-) from the city. However, I do not know when it became unmanned.
@@niwamaru I see, thank you!
↓の方と同じく。よそ見してたら着いてた(笑)あまり山深くなく道路にも近いのに、離村ですか。しかも最後の写真を見るとかなりの裕福さ。当時でコンクリート基礎って、中々ですよね。オープニングミュージック大事😊お疲れさまでした。
よそ見したらもう一度見ましょう。広告も見ましょう(°▽°)ここが無人になったのは、元の集落が近くにあったというのと、一軒しかなかったのが原因でしょうか。一軒なら、簡単に移住を決意できますからね……。
やはり1件で農業林業を維持するのは難しいのでしょうか。謎な集落ですね、にわまるさんが推測しているように、他に何軒か増えていたような…せっかくデジタルデジタルうるさいなら、自治体もこういった廃村廃集落の記録なり伝承口承なりを残すのも日本国民の義務ではないかな。公務員…
ここの集落は、動画やネットに載ったのはこれが初めてなので、いちおうTH-camがある限り、記録は保存されますね。書籍としては、『上北山村の地理』に写真が一枚、情報が数行ある程度です。デジタル……役所という存在がアナログですからね。この国に未来はありません。
人知れず自然に還る、なんだか、寂しいですね。
ここはほとんど知られていない集落ですからね。家一軒の集落跡なんて、見ただけでは倉庫か何かだとしか思えないですからね。人知れず消えていくわけです。
山に還る…山の再生力は凄まじいですね。
家のあったところに木が生えますからね。ここも下からはすでに山のようです。
お疲れ様です!先人達は、ここを切り開き住んでいたんですね、凄いです(^O^)
まあ、家一軒なので、元集落からの出先みたいなものだったのかもしれませんが。
すぐ着いたので驚きましたw新田に行くまでの道が素敵ですね。確かに新田という地名は愛媛にもいくつかありますね、今治には「大新田」なんて地名も。コンクリートの基礎、ということはそこそこ最近まで住まわれていたのかもしれませんね。一軒家の集落、そうなった経緯や他の集落との付き合いとか、なんだか色々と妄想してしまいます。
「今治」自体が「新しく開墾した田畑」の意味ですからね。新田とつく地名はどこでもあるんですが、どこでもあるが故に紛らわしいので改名されやすいみたいです。あと、関東では田舎っぽいと思われて開発の時に改名されます。なんだかなあ。コンクリート基礎がちょっと奈良県の廃村では不思議で、長く住むつもりだったのか、裕福だったのか……。
@@niwamaru さん本当ですね、「今墾」なんて表記もあったようですね、勉強になりました。地名からその地区歴史を類推できるようになると面白くなりますね。そういえば祖父は「いまはる」と呼んでました。「いまばり」と呼ぶようになったのは大正時代に入ってからなんですね。
余談ついでに、針テラスの針も同じ意味です。針テラスにお越しの際は、開墾の痕跡をお探しください。😁
家屋が数軒あったように見えますし基礎がコンクリートであったりと、史料で言及された時代からも集落に変遷があったのかもしれませんね。写真が残っているのは素晴らしいですね!やっぱり明るく開けた感じだったんだなぁ。
コンクリート基礎が残る廃村、しかも、完全にうわものがなくなっているところは、いままでなかった気がします。瀬戸は最近まで更新しながら生活していたし、上津風呂も細峠もかまどなど一部の水周りだけがコンクリートでした。家の基礎前部にコンクリートというのは、ちょっと不思議です。お金持ちだったのか、工事関係者の家だったのか……実はこのあたりに大一という工事関係者が住んだ集落(一時的な?)があったようで、その中の誰かだったのかもしれません。写真があるといいですね。これからも手元にある写真は公開していくことにします。出典を出しておけば問題ないはず。
お疲れ様です!ポツンと残された基礎や水回り跡を当時の写真と照らし合わせ、その様子を思い浮かべるのもまた廃墟探訪の楽しみ方の一つかも知れないと感じました。ひっそりと山に還り行く集落…また一つ、にわまるさんの手で記録に残されましたね。
だんだん廃村動画も洗練されてきた気がしますね。いずれ記録映像として役立つ時が来たらいいなぁ。
なんか今回は珍しくアクセスの良い、陽が入る明るめな土地ですね。たくさん見ていると、だんだん目が肥えて来るのでしょうか。アクセス困難な秘境的なところを期待してしまいます。
アクセス困難なところは「残っています」。というか、困難なので、自分が行きにくくて、大変です。体力も天気も条件がそろわないと行けないので。
コーナーで落ち葉を踏んで転けるのでは・・と、肩に力が入ります。
怖いですよね。動画で見ると、いっそう怖いです。同じような場所というと、【廃村探訪】下番(小坪瀬)もなかなかです。
大家好、我從臺灣來。
こんばんは(^^)
歡迎!
実家の大きなテレビでこの動画を見たら、とても見応えがありました。ちょっとしたドキュメンタリー番組になりそう。建物の敷地の中に、既に大きな幹になりつつある木が生えていて、自然の力時間の経過はすこい…何代ぐらい続いた家だったのでしょうね?
うちも大きなディスプレイで見ていますが、大きいと見やすいですね。今はそれに合わせて動画を作っています。いちおう4Kで作っているので、よければそちらでもどうぞ。この集落というか一軒家は、由来もわかっているので、きっとそんなに長く続いていないと思います。もしかしたら、一代限りだったのかもしれません。
昭和37年(1907)→明治37年では
いま現在ツーリング中のため、資料を確認できません。帰ってからまた調べます……。
確認できました!昭和37年(1962年)が正しいです!間違って明治の西暦年で書いてしまいました。ありがとうございます。
あれは消火器ですか??
すみません、どれのことかわかりませんでした。気づいたら、動画を作るときに書いたと思うんですが……。
@@niwamaru 先生(^^)4:40のところですーー
出先で画質の関係でよくわからないですねw 帰ってから見直してみます。
横レス失礼しますm(__)mほぼ間違いなく消火器かと(^-^;
👍
昔ですが、天ヶ瀬に住んでいました。集落は9戸ありました。ここは4戸あった記憶があります。私が小学生1年生の時昭和44年くらいは林業が盛んで両親が杉の木を植えるのを小屋で待っていました。確かここに足の悪い寝たきりのおばあちゃんが住んでいて天ヶ瀬の自宅から歩いて遊びに行ってました。もう50年前の話です。懐かしい動画ありがとうございました。
コメントありがとうございます。
詳細な情報、助かります。
新田は家一軒という情報しかなくて、もっとたくさん家屋があってもおかしくない広さなので、不思議に思っていました。やはり現地の方の情報があると、謎が解けます。
天ケ瀬は住民の名前や仕事や離散状況なども、すべて詳細に上北山村の村史に記載があって、かなり詳しく把握しております。今ならあんな書物も、個人情報の関係で出せないかもしれないですね。
またなにか気になる点がありましたら、コメントお気軽にどうぞ!
いつもの音楽で一緒に上がろうとおもったらいきなり着いたからピックリでした。私的には前みたいに歩いて目的地に一緒に行きたいです。大変な時期ですが頑張ってくださいね😃
いつもの音楽、今回はいらんかなーと思いましたが、いちおうつけました。
全廃村を網羅しようとすると、どうしてもこんな廃村も出てきます。
ちなみに、動画やネットでは史上初公開の廃村です。
いつも拝見させていただいています。心が落ち着く感で、感謝してます。アリガトゥネ。
コメントありがとうございます。
お気軽にどうぞー。
ご苦労様です
楽しみにしてますが、余り無理なさらぬように🤗
今年は月一廃村でがんばってます。
ほどほどに回れたらいいなと思います。
広い敷地と畑がひろがってのびのび暮らしていたのかなあと想像しました☆現代の都市生活とは違う豊かさを感じてしまいます。
家族がいて、一軒家でも寂しくなかったのなら良いですね。近い家でも徒歩30分くらいかかりますから。豊かなのは自然だけ、ですね。
シリーズ最短のアクセスですね。舗装道路からいつものように見落としてしまいそうな上り口。いきなり雰囲気のある石垣。さあ今回はどんな道のりかな、と見始めたらえっもう到着?いやーびっくりしました。
それにしてもコンクリートの土台といい、写真の様子からも割と最近(大正?昭和?)の家屋に感じられます。一代か二代のごく短命な集落だったのかなぁ。いつもとは別のもの悲しさがありますね。
本当はいつもの音楽は必要ないのですが、みなさんお好きなようなので、一瞬だけ入れてみました。
家一軒だけの出張所のような集落で、その割には土台がしっかりしていてと、なにか資料にはない出来事や事実がありそうな気がします。
いきなり着きましたね
今回は道から登ってすぐだったのですね。苔に覆われたかまど 雰囲気ありますね。こうやってみな自然に帰ってゆくのですね。ちょっと虚しい。
道のすぐ横とはいえ、行き止まりだし、狭いし、周りには森しかないし、再利用するにも不便なところですから。
ミツバチ箱はあったので、いちおう人は来ているのかなーと思う次第です。
いつもながらきれいな映像ですね・・・朽ちた感じがなんとも言えません
神奈川のあたりもちゃんと調べるとこんな感じの廃村とかがたくさんあるんだろうなあ
土台だけがここまで残っているのが面白いですね。コンクリでなければ、ほとんどわからなかったでしょう。
神奈川はあんまり廃村なさそうですね。大阪がないのは確認できているのですが、それ以外の市町村はあるはず……。
なんだか気軽に行けそうな廃村ですね!
まあ気軽ですね。階段で2mくらいですから。道路もまあまあいいし。
長い一軒家、母屋、納屋、牛等の家畜部屋等が有ったのでしょうか?昔の写真からの想像ですが、写真を撮った位置から大声で呼ぶと誰かが縁側に出て手を振ってくれる…。そんな光景が目に浮かんで来ました。
大きさから言って、家畜小屋もあったのでしょうね。家族か親族まとまって移住したのでしょうか。痕跡を見る限り、あの写真の頃より、建物が多いような気がしました。
そういえば、写真を撮影した場所はどこだったのでしょう。対岸の山は、今や杉に覆われて、見通しは悪くなってしまっています。昔は杉もなく、畑が広がっていたのかも知れないですね。
建物はほぼ無くなり土台基礎や石垣が残るのみですね。コンクリの土台が残っている感じを見るとさほど古くないしっかりした建物だったんでしょうね。古い建物基礎は地杭や束石が一般的かと思いますが斜面の石垣造成の平地と何か関係があるんですかね。苔生した土台が良い感じでとても雰囲気がよかったです。
古い建物は普通、束石で上屋は置いているだけですからね。ここはコンクリートの基礎で、かまどや水回りもきちんとしているので、わりと新しい時期に開拓したのでしょう。
だとすると、ここに住んでいた期間は、思ったほど長くないのかもしれないですね。
今回は到着するの早いですね。
道路の横ですからね……。
こんな場所に廃村があるんですよ、ということで。
アスファルト道路のすぐ側なんですね!それでも生活の痕跡を見ると当時が淋しさと共に偲ばれます。
当時の写真は大塔村史からですか?立派なお宅だったでしょうが、人工物は雑草や苔に覆われてしまうと自然の力を思い知らされます。
この写真は『上北山村の地理』からですね。たぶん、新田の写真は世界でこれ一枚しかないのではないでしょうか。
たった一軒なので、調べられない人には、ここを見つけても集落だとは特定できないでしょうね。
道路は近いですが、集落までは遠い、そんな場所です。
「上北山村の地理」って動画内にありましたね。失礼しました💦
Love the lighting! Seems like a long time ago that this was abandoned? 😊 👍
The base of the house is concrete, so it is relatively new. In Japan, concrete begins to be used as the foundation of a house after the Meiji era (1868-) from the city. However, I do not know when it became unmanned.
@@niwamaru I see, thank you!
↓の方と同じく。よそ見してたら着いてた(笑)あまり山深くなく道路にも近いのに、離村ですか。しかも最後の写真を見るとかなりの裕福さ。当時でコンクリート基礎って、中々ですよね。オープニングミュージック大事😊お疲れさまでした。
よそ見したらもう一度見ましょう。広告も見ましょう(°▽°)
ここが無人になったのは、元の集落が近くにあったというのと、一軒しかなかったのが原因でしょうか。一軒なら、簡単に移住を決意できますからね……。
やはり1件で農業林業を維持するのは難しいのでしょうか。謎な集落ですね、にわまるさんが推測しているように、他に何軒か増えていたような…せっかくデジタルデジタルうるさいなら、自治体もこういった廃村廃集落の記録なり伝承口承なりを残すのも日本国民の義務ではないかな。公務員…
ここの集落は、動画やネットに載ったのはこれが初めてなので、いちおうTH-camがある限り、記録は保存されますね。
書籍としては、『上北山村の地理』に写真が一枚、情報が数行ある程度です。
デジタル……役所という存在がアナログですからね。この国に未来はありません。
人知れず自然に還る、なんだか、寂しいですね。
ここはほとんど知られていない集落ですからね。家一軒の集落跡なんて、見ただけでは倉庫か何かだとしか思えないですからね。
人知れず消えていくわけです。
山に還る…山の再生力は凄まじいですね。
家のあったところに木が生えますからね。
ここも下からはすでに山のようです。
お疲れ様です!
先人達は、ここを切り開き
住んでいたんですね、凄いです(^O^)
まあ、家一軒なので、元集落からの出先みたいなものだったのかもしれませんが。
すぐ着いたので驚きましたw
新田に行くまでの道が素敵ですね。
確かに新田という地名は愛媛にもいくつかありますね、今治には「大新田」なんて地名も。
コンクリートの基礎、ということはそこそこ最近まで住まわれていたのかもしれませんね。
一軒家の集落、そうなった経緯や他の集落との付き合いとか、なんだか色々と妄想してしまいます。
「今治」自体が「新しく開墾した田畑」の意味ですからね。新田とつく地名はどこでもあるんですが、どこでもあるが故に紛らわしいので改名されやすいみたいです。あと、関東では田舎っぽいと思われて開発の時に改名されます。なんだかなあ。
コンクリート基礎がちょっと奈良県の廃村では不思議で、長く住むつもりだったのか、裕福だったのか……。
@@niwamaru さん
本当ですね、「今墾」なんて表記もあったようですね、勉強になりました。
地名からその地区歴史を類推できるようになると面白くなりますね。
そういえば祖父は「いまはる」と呼んでました。「いまばり」と呼ぶようになったのは大正時代に入ってからなんですね。
余談ついでに、針テラスの針も同じ意味です。針テラスにお越しの際は、開墾の痕跡をお探しください。😁
家屋が数軒あったように見えますし基礎がコンクリートであったりと、史料で言及された時代からも集落に変遷があったのかもしれませんね。写真が残っているのは素晴らしいですね!やっぱり明るく開けた感じだったんだなぁ。
コンクリート基礎が残る廃村、しかも、完全にうわものがなくなっているところは、いままでなかった気がします。瀬戸は最近まで更新しながら生活していたし、上津風呂も細峠もかまどなど一部の水周りだけがコンクリートでした。家の基礎前部にコンクリートというのは、ちょっと不思議です。お金持ちだったのか、工事関係者の家だったのか……実はこのあたりに大一という工事関係者が住んだ集落(一時的な?)があったようで、その中の誰かだったのかもしれません。
写真があるといいですね。これからも手元にある写真は公開していくことにします。出典を出しておけば問題ないはず。
お疲れ様です!
ポツンと残された基礎や水回り跡を当時の写真と照らし合わせ、その様子を思い浮かべるのもまた廃墟探訪の楽しみ方の一つかも知れないと感じました。
ひっそりと山に還り行く集落…
また一つ、にわまるさんの手で記録に残されましたね。
だんだん廃村動画も洗練されてきた気がしますね。いずれ記録映像として役立つ時が来たらいいなぁ。
なんか今回は珍しくアクセスの良い、陽が入る明るめな土地ですね。たくさん見ていると、だんだん目が肥えて来るのでしょうか。アクセス困難な秘境的なところを期待してしまいます。
アクセス困難なところは「残っています」。
というか、困難なので、自分が行きにくくて、大変です。体力も天気も条件がそろわないと行けないので。
コーナーで落ち葉を踏んで転けるのでは・・と、肩に力が入ります。
怖いですよね。動画で見ると、いっそう怖いです。
同じような場所というと、【廃村探訪】下番(小坪瀬)もなかなかです。
大家好、我從臺灣來。
こんばんは(^^)
歡迎!
実家の大きなテレビでこの動画を見たら、とても見応えがありました。ちょっとしたドキュメンタリー番組になりそう。
建物の敷地の中に、既に大きな幹になりつつある木が生えていて、自然の力時間の経過はすこい…何代ぐらい続いた家だったのでしょうね?
うちも大きなディスプレイで見ていますが、大きいと見やすいですね。今はそれに合わせて動画を作っています。いちおう4Kで作っているので、よければそちらでもどうぞ。
この集落というか一軒家は、由来もわかっているので、きっとそんなに長く続いていないと思います。もしかしたら、一代限りだったのかもしれません。
昭和37年(1907)→明治37年では
いま現在ツーリング中のため、資料を確認できません。
帰ってからまた調べます……。
確認できました!
昭和37年(1962年)が正しいです!
間違って明治の西暦年で書いてしまいました。
ありがとうございます。
あれは消火器ですか??
すみません、どれのことかわかりませんでした。気づいたら、動画を作るときに書いたと思うんですが……。
@@niwamaru 先生(^^)4:40のところですーー
出先で画質の関係でよくわからないですねw 帰ってから見直してみます。
横レス失礼しますm(__)m
ほぼ間違いなく消火器かと(^-^;
👍
👍