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シベリア抑留を生き抜いて、ようやく帰国できた祖父が生前、「闇市で食べたうどんの味が忘れられない」と言っていたのを思い出しましたシベリアでの食事は、毎朝お椀一杯の塩水に小豆が2粒だけそれに比べたら、闇市のうどんは「涙が止まらなかった」極上のごちそうだったとあのうどんをもう一度食べたいと言っていましたが、いわゆる思い出補正などもあったでしょうし何が入っていて、何で出来ているかわからない闇市の料理「そのうどんをもう一度食べさせてあげたかったけど、いろんな意味で再現できんかった」と祖母が言っていました
わかります、縁日の屋台とか雰囲気で美味しい感じるもん!
食べるものがなかったから、余計に美味しく感じたんでしょうね。その後にいくら再現しても、きっとあの時の感動は味わえませんよ。もう一度食べたかったと思うだけでいいんですよ。
そんなん再現出来なくて良かったよ。
どこのチャンネルかは名前出さないけど、別のゆっくりで食べ物解説してる系チャンネルの最近の投稿動画が「○○は危険だった?!」「驚愕!!○○の真実」「○○に騙されるな!!」系のラインナップに変わってきてるから、このチャンネルの食べ物の雑学や歴史を普通に伝えてくれてる姿勢好き
企業とかにチャンネルが買収されてるらしいからクオリティがかわっちゃうらしいよ
本当にそう何年も見てたゆっくり解説チャンネルが、急に業者と同じタイプのゆっくり解説の雰囲気になったのは残念だったなぁ好きで解説してくれてる有志のゆっくりチャンネルもあるというのを知らない人も増えてると思うと残念だし、業者じゃないチャンネルは本当にありがたいです
企業が買い取ると赤字でも動画を早く沢山作るから面白くない動画で再生数も下がっちゃうのが残念、編集者とかも雇うわけだけど当然赤字だから割り当てられる金額が安いからクオリティも下がるし
しかもあれ某世界料理のゆっくり解説のパクリでしたしね...構成もほとんど似てて酷かったです
あの人の歴史系は面白かったんだけどね...
闇市で水餃子ではなく、焼き餃子が良く作られたのは、戦後の小麦粉は質が悪く、長時間茹でると溶けてなくなるようなものも多かったため少量の水でこねて、焼いてしまえば形が崩れない焼き餃子の方が売り易かったという理由のようです
おぉ勉強になります。
勉強になりました!
前半のBGM、最初暗く始まったのに途中で躍動感を感じる展開になるのがなんだか良かったです。戦後の暗い時代に負けなかった人々の活気を感じた...!!量産(業者)ゆっくりばかりになってきてガッカリしていた時にこちらのチャンネルを知ってとても嬉しかったのを覚えています。ダークなテーマを取り上げる時の姿勢も演出も、業者は同じような切り口ばかりだけどこちらのチャンネルはちゃんと人の心を見ているから考えさせられる...。好きです。
ヤミ市の話はマンガや小説、テレビでしか知らないので、ためになります祖父達は物心つく前に亡くなり、祖母達は戦中戦後の話をしてくれなかったので…親族がたくさん亡くなっているので、話したくないことが多かったのだろうとは思いますが
はだしのゲンで屋台の雑炊に箸が立つ!!って客が言ってて、主人公達が羨ましそうにしてるのが可愛そうだったなー
少しBGMが大きく思います内容は凄く興味深く面白かったです!
この世界の片隅にでごった煮の中にラッキーストライクの紙入ってたけど2人が「うまい」って本当に幸せそうな顔して食べてたのが凄い印象に残ってる
残飯を日本人食べるの知ってるのでわざわざ吸殻、コンドームを混ぜていたそうな!😅😅
凄くためになるし面白くて最高です!!
小説を書いてるだけあって説明が、聞き取りやすく復習もかねての説明あるから記憶的に解りやすい
母の思い出話で、甘いものが食べたいと言ったら祖母が闇市で買ってきたサッカリンでぜんざいを作ってくれたというのがありました。砂糖は貴重で買えなかったようですが、美味しかったといってました。
とっても良かったです!!お寿司、結果的に健康的な食べ物になってますよね…!(それだけ、昔からの日本食は健康的って事でもありますが)闇市のお陰で、沢山の人が救われたんでしょうね、お金ないと無理だけど。
おもしろかったー。ありがとうございます!勉強になった!
祖父母が東京の闇市で飴を売ってました、大変儲かったらしく空襲で家が焼けたのに直ぐに再建でき工場まで建てられたそうです。戦争でひどい目にあった方が多い中むしろ得をしてしまったとなると微妙な気にもなりますが...
大変興味深く拝聴いたしました。この世界の片隅にを思い出しました。
ちょっちBGMがデカいかな?(個人的な感想)あっ、ヤミ市で売買されてる内容は前々から興味あったので助かりました!w
第2チャンネルフツーに面白いっす!是非続けて下さい笑
めっちゃ分かる
ヤミ市…残飯料理で言えばアニメの「空手バカ一代」の冒頭で主人公がヤミ市で「水とん」を食べたら、中からタバコの吸殻が出てきて「ベッ!残飯だ!」と吐き出すシーンが印象に残ってます。あれが戦後間も無い頃の食糧事情だったのか、と一発で理解出来るシーンでした。
そんなもんが千円したわけでしょ、現在で言う。
ニコチン煮込んだ雑炊食べて良く死ななかったね( ゚Д゚)y─┛~~
コンドーム(米兵が使い捨てた)が混じってたこともあったとか。
確か米兵が残飯を食べるの知っていてわざと吸殻やとんでもない物混入させていたんだよね
母の実家には終戦直後アメリカ在住の親戚(日系人)から様々な物資が送られてきたそうです。アメリカからの郵便物は日本の郵便局でも一種のアンタッチャブルだったそうで、荷物に異常(破損や中身抜き=盗難)でもあれば、地方のGHQ連合軍最高司令部民政部の係官(米軍将校)の徹底的な調査が郵便局に入いるくらい荷物の取り扱いは厳しかったそうです。アメリカからは食料品始め衣料品や嗜好品挙句の果てには自転車までアメリカから送られ、日本での生活に余裕が出てくる様になると、タバコやお酒、砂糖、紙オムツ、粉ミルク、香水、化粧品等ヤミ市で換金率の高い商品が送られてきて、近所に住むブローカーが大阪などのヤミ市で換金してきてくれたそうです。結構な金額になり、終戦後とても助かったと聞いています。
在米の日系人って、収容されたり財産没収があったと聞くけど、運良く免れたんでしょうかね?それか無理してでも援助したのか
@@くり-k7l さん。親戚はカリフォルニア州に住んでいるので、強制収容所に収監されていました。収容される前日系人たちは全財産処分して借金などもきちんと清算し、また負債が残る者の分も皆で出し合って立て替えて収監されたそうです。親戚も収容所から解放されたばかりですが、日本の方が悲惨だという事で、無理をして物資を送って頂いたそうです。大祖母が生きてみえた時は、クリスマス等季節ごとにお菓子等アメリカの物をよく送ってくださってました。日本にも何度か来られお会いしたことも。
米軍以外の郵便はほぼ開封されて検閲されていたからな。
大変勉強になる動画でした。ありがとう御座いました。
すっげぇ勉強になるし、観る時間が意義深い。
素晴らしい動画をありがとう😉👍️🎶ございます🙇♂️凄い内容で興味深いです…🤔😆👌❤️🛐🤲🙏
甘いものに飢えていた戦後の日本人にとって闇市で手に入る、ブドウ糖やサッカリンは飛ぶように売れるものだったようです。サッカリンを水に溶かして、製氷機などにいれて固めたものを「アイスキャンディー」として売ってたようですね。
メチルアルコールを水で薄めてサッカリンを混ぜて酒として飲ませていたとかね。
とても面白かったです♪が、、、BGMの音量が少しにぎやか過ぎですね。
お好み焼きもヤミ市で広まったそうですね。元々は東京の花街で芸者さんと遊びながら作る遊戯料理が生還した関西の兵から広まったと聞きました。恐らく、小麦粉さえあればあとの具材は気にしなくて良い、文字通り「お好み」で焼けるのが相性が良かったのかと。
私の父は 戦後直ぐに出来た大阪駅前のヤミ市で 三国人が作って売った「フライ饅頭」(今で言うあんドーナツみたいなもの)が食べたくて仕方がないけど 1個50円で 買えなかったと 悔しそうに話してましたね。
時間が無くて、小説は時間ないと読みに行けないから、こんなに面白くてためになるなら貢献したい。広告みたいに手軽で投稿者のお金になることないかなあ🥺
焼き餃子が日本で広まった理由としては、中国からの引き揚げ者の多くが満州から来たからという説があります。満州の地に居た満州族は漢民族と違って、餃子は焼き餃子が主流だったそうです。それを知った日本人が終戦後に引き揚げ、日本で焼き餃子が広まったという説です。
日本の焼き餃子にニンニクが入れられることが多いのは戦後の闇市などで出てきた餃子の肉は、質が悪くにおい消しなどの理由でニンニクを混ぜるようになったという説がありますね。
ちなみに、その満洲に派遣されていた部隊の主力の一つが宇都宮を拠点とする第14師団でした。 それが宇都宮で餃子が名物になった一因とされています。
昔「奥様は魔女」というドラマがあって、主人公の隣に住んでるおばさんは驚いた時に「あいや、まあ!」と言うのが口癖でした(もちろん日本語吹き替え)。私は10年前に(旧満州)大連市に仕事で住んでわかりました。「あいや、まあ!」というのは大連の方言なんですね。とにかく大連人は何かあったら頻繁に「あいや、まあ!」を口にします。「奥様は魔女」の翻訳家さんが旧満州出身なのは間違いないです。
餃子と言えばドラゴンボールのチャオズというキャラが有名ですが、実はチャオズが悟空と話したことは一度もないそうです。
水餃子は日本人の好みではないというのが一番だけどね
ドラム缶で煮込んだ志那そばもご馳走だったらしいです。徳島で聞いた話ですが。
ごった煮スープ、というより「米軍の残飯ぞうすい」は度々マンガやアニメに登場していたらしく、私が知ってるアニメでは「空手バカ一代」と「この世界の片隅に」に出てきます
もしかして:残飯シチュー?
チャンネル運営のあり方についてお悩みなのですね。確かに、ニッチな分野ですが、それ故に貴重なチャンネルだと思います。ちなみに、私は両チャンネルの動画を総て保存していますが何か。動画主様は才能豊かな方とお見受けしますので、新しい展開も楽しみですが。
残飯シチューは、90代の祖父母に聞いたけど、味よりも量が多いのが嬉しかったそうです。
餃子に関して聞いた話だと、避難中の日本人を助けてくれた方の家で食事を振舞われた時に残り物の餃子を焼いてご馳走してくれたのが始まりでこの時の焼き餃子の印象が強く残り、帰国して焼き餃子を広めたとかありましたね。
祖母が戦後、お寺さんの墓守のバイトをしていたそうで、許可を貰ってお墓の脇で野菜を作って門前町の闇市で売っていたと聞いた事があります。すりこぎ棒みたいなキュウリや赤ちゃんの頭位のトマトがバカスカ取れたそうで、飛ぶように売れて、その稼ぎで父や叔父を育てたと。結構な頻度で買い物客から何を肥料に使っているのかとか聞かれたそうですが「内緒(てへぺろ)」で押し切ったそうな。ちなみに当時はまだ土葬だったとの事。いやぁ肥料って大事なんだと。ちなみにガチのヒトダマ(鬼火?)も見た事あるそうで、雷が近いと土盛りが青く燃えて、たまにヒュッと火花のように飛んでいくと言っていました。
やってることは雑っぽいけど、今のスマホの画面が世界の全てのような人間と比べれば、精神的にはずっと豊かだった気がします。
@@田中恵一-x2f 情報が少ないとその少ない情報から多くを察しようとします。寡黙な人からはその表情や姿勢などから多くを洞察しようとします。子供にとって山の景色はだいたい地味で刺激に欠けて退屈だと思うけど、それは森の木々が自己主張しないからです。野生生物にとって目立つような自己主張して得するのは捕食する時と繁殖する時だけ。無暗に目立ってたら天敵に見つかりやすいし獲物にも逃げられる。木も自分一本だけ日光を独占しようと背伸びしてたら台風が来た時に真っ先にへし折られるし、自分だけ背を低くして謙虚にしすぎたら陽が当たらなくて枯れてしまう。それでみんな「仲良く」ではなく「牽制し合って」背の高さを均一に揃えて大人しくしている、それも視覚的には退屈になる要素。でも関心事がその退屈なものにしか許されない環境だと無意識にその中から楽しみを見出そうとするものです。人も出る杭は打たれるし舐められたらとことん虐められるけど少なくとも天敵はいない。人が街に店を出して他の人を捕まえようとでかい看板出して「金よこせー!!」って叫び続ける事はできるけど、野生動物がそんな事したら天敵に「俺を殺せー!」獲物には「俺が来たから逃げろー!」って言ってるようなもの。人は彼らほど大人しくしてなくてもいい事と引き換えに感性が失われたのです。日本なら道東とか他国ならチベットみたいな草原とかアマゾンのような、人口密度がすごく低い場所に数か月居続けてテレビやネットも断ってると、人工的で自己主張の激しい刺激的なものに触れない分自分の五感六感が少ない情報から多くを得ようと敏感になり人のオーラまで強く感じられるようになった事があります。東北と北海道の田舎で三か月車中泊して用事で西日本まで行こうと横浜を通過した時に都会人らしく着飾った現地女性が交差点を渡るのを何気なく見てたら、その人が動物としてのオーラを全く出していない事にも驚かされたしそういう感じ方をした自分自身にも驚きました。言葉で表現しきれるものではないけど田舎の人は生き物として自然なオーラを出しているのに対し日本の都市部の人は家電とかコンクリ建築とか二次元のキャラみたいに何の波動も放ってない。動物が天敵に見つからないように気配を消してるんじゃなく気配を持っていないのです。都市部なら全てがそうとも限らず途上国の都市部はそれなりに人口密度も高く人工的なものに囲まれていてもそれなりにオーラは放ってます。オカルト的な話をするときりがないし否定派にも叩かれるだけなのでこのへんまでにしますが自然の良さというのはそこに浸った人にしか分かりません。チベットの民家に泊まった時に数十年ぶりに快眠できたのも電波がほとんど飛んでないからだったと思ってます。その快眠の心地良さも経験しないと分からない、今60歳以上の人だったらきっと誰でも理解してくれる。分からない人には「今私の家がある都会でも十分気持ち良く寝られてますけど?」ってなってしまう。分母が小さいとそれを超える大きさの分子が想像できない。コメ主さんの「雷が近いと」ってのは単なる物理的に説明のつく現象な気がするけど、人魂みたいな存在は俺は肯定します。俺自身がそれっぽい誰にも信じてもらえない経験をそれなりにしてきたからです。
江戸時代には良い物(肉や魚)を食べている身分の高い人の家の糞尿は高く売れたと言われますね。その一番の理由も油脂でしょう。野菜に比べてカロリーが高い、米麦に比べても1~3倍。遺体は油粕以上の肥料かもしれません。火葬ってわざわざエネルギーでカロリーを廃棄するし焼き畑にも繋げないすごく贅沢な処分法、土葬もそれなりに贅沢。カニバリズムの文化が世界各地に普遍的にあったけどそれは食料資源の有効的な使い方だったし肉食動物はだいたいいざとなったら共食いするんだから全然珍しい事でもないし必要以上に嫌悪感持つ必要も無いと思います。児童虐待のニュースが流れると必ず「こんな残酷な事するの人間だけ!」とか言っては悲劇のヒロイズムに浸りたがる中二病みたいな人が出てくるんだけど、親が子を巣から叩き落とす鳥、自分の子を食う魚、食う訳でもないのに虐めをして仲間を殺すサルや狼、同性愛行為をするキリン、大概の事は他の動物でもしっかり行われている。単に可哀想と思うなら可哀想とだけ言えばいいのに盛らずに居られないのは他人を目一杯下げて自分を相対的に上げたい自己都合でしょう。倫理観に存分に浸ってるようでも実は被害者の事より自分の事考えてる。
@@meroppa1 私も若い頃山の方に住んでいて、不思議な感じを覚えた事は幾度もあるし、色々あって河川敷生活していた時は日が経つほどになんだかニンゲンから外れていくような自覚がありました。その時は大雨の降っている真夜中、物凄い脅迫観念に急き立てられるようにして実家に舞い戻ったのだけど、もう少しで(親が)大変なことになるところでした。こういうのは例えば職場の昼休みに誰かに話しても、分かってはもらえないと思いますけどね。長文の返信、有難うございます。
火葬した方が肥料には向いてそうまぁ火葬の設備がないんだろうが
親戚の伯父さんが若い頃に長距離列車に乗ってヤミ市に魚を卸すバイトをしていたそうです。某日本海側の漁港から某大都市に学生服を着てテンプラ学生(衣だけの偽学生、当時はそう言ったとか)になって、寅さんが持っている様な皮のトランクに下処理済みの鮮魚や干物を入れて運んだそうです。何度か車掌と一緒に回ってくる警官に職質されたそうですが、「中身は本です」と言い張って誤魔化して難を逃れた(今思うと警官も分かってて見逃してくれた?)そうです。バイト料も良かったらしいですが、運び終わった後にヤミ市で振舞ってくれるどぶろくが美味かったので一番の楽しみだったそうです。
滋賀県の大津駅前の闇市で、「うどん」と看板に表示しているのに、実はゼンマイをくたくたに炊いたものもあったようです。
食糧が無かったのではなく、田舎の畑で取れた食い物を送る物流が壊滅的な状況だっただけと祖母が言ってたが……事実八戸で農業やってた祖母の家では取り敢えず食い物は有ったらしい
自分の祖父も岩手の田舎でカボチャや芋しか食べられなかったけど食うに困ったわけじゃないと言ってました。
都会で生活していた人だよな。だから田舎に出向いて手持ちの着物とかと食べ物を農家と物々交換。威張っている農家も多かったらしい、都会の住人はタケノコ生活を強いられた。
船がほぼ全滅、行き場を失った貨物が戦中の酷使で疲弊した鉄道に集まり、そこに石炭不足と来て列車が走れずに輸送が壊滅したので都市部に食べ物がなかった
@@ぴーすけ-u6q 様私のじいちゃんばあちゃん(大正生まれ。両方故人)は、「 芋とカボチャは終戦後にさんざん喰わされたから見たくもない」と言ってましたあと、自分の小学校で給食に麦飯が出た話をしたら「子供にバクシャリなんか喰わすのか‼️」と激怒してたのを覚えてます
@@岩田実-h2f 時代が逆行していってるよな。雑穀米とか麦飯とか
大変楽しく観させて頂きました!バクダンは聞いた事がありましたがどのようなお酒なのか知らなかったので勉強になりました!ありがとうございました。
出だしの挨拶が清々しすぎる
カボチャもサツマイモ同様に代用食で食されたとか。だから当時食糧難で苦しんだ人は、カボチャとサツマイモだけは2度と食べないと言ってた。
介護施設で90前後の方が「一生分食べた、もう見たくもない」と言ってサツマイモとかのおやつとか出てくると嫌がるというのはよくあったようですね
上野の「アメ横」も戦後の闇市が発祥の商店街ですよね。上野は北関東、東北方面への交通の要衝であり、地方から来た行商人もお店も出していたようで、その中でも手軽に食べられる甘味の飴がよく売れたため飴屋が多く、これが「アメヤ横丁」略して「アメ横」と呼ばれる所以になりました(米軍の放出品も多く売られていたため「アメリカ横丁」という意味合いもあるようです)。ちなみに時代の流れで当時の飴屋のほとんどは業種転換していきましたが米軍の放出品を扱っていたお店はミリタリーショップとして現在もいくつか残っています。
>米軍の放出品を扱っていたお店ミリオタやサバゲーマーにはおなじみの中田商店とかですな、よく行きます。
@@九太郎-f4o 中田さん以外にミリタリーショップあったっけ?
@@lemonade6482 松崎商店はアメ横って言うには少し遠いですかね。また、ジャンルとしてはどっちかというとガンショップですがマルゴー(現:Take Five)とか今は亡きNew MGCあたりが古くからあった店ですか。あとは割と新しい御徒町駅近くのファーストとか。(すいません、どっちかというとガンマニアなのでサープラス専門の店は詳しくないのです…)最近は秋葉原~末広町辺りの方がこの手の店は豊富ですね。
凄かった良かったです楽しく見れました
戦後に猟奇やらエロやらを題材にしたゴシップ雑誌が流行るんだが、あまりにも低俗でやたら出版されてたから闇市のカストリ酒とかけて「カストリ焼酎は三合で潰れる、カストリ雑誌は3号で潰れる」って言われてたって爺さんが言ってた。
カストリ雑誌は三丁目の夕日の芥川先生が副業で連載していた気がする。
ああ、聞いた事ある。当時は食うだけで大変な時代だから後に有名作家になる文豪も結構そういうの書いてたらしい。
@@てっちゃん-t1k 様読書狂だった亡父は其れ故にカストリ雑誌の蒐集に力を入れていました。但し自分の事務所の鍵付本棚(特注品)に入れて家族にすら触れさせない有様だったので、父の死後其れ等の処分には苦労させられましたが。
1:11 粉ミルク(1山40円くらい)いかの丸焼き、トンカツ(材料はそこら辺の野良犬)りんごの歌とか
とても面白く拝見させていただきました ただ、BGMがちょっと大きくて声が聞きにくいかなぁ と感じました。
当時のさつま芋は収穫量第一の農林1号で戦後は加工にまわされ、焼酎や飴にいき、上野のアメヤ横丁の始まりのひとつだったらしいね。
闇市と言えば、故人で父方のひいばあさんが汁粉を出して大人気だった。実は元々田舎のお金持ちの人間で、倉に砂糖や小豆が山のように保存していたらしい。戦後、ジリ貧になりそうだとひいばあさん思い奮起。俵を2俵担いで、列車で県庁所在地に向かい、闇市で販売。夜は雑魚寝して、次の日に帰宅を繰り返していたとの話。ところが軍隊から帰還したひいじいさんとじいさんが無類の酒好きで、土地は売るは稼ぎも酒代に変えてしまう。戦後鬱だったのかも知れないが、ひいばあさんの怒りに火をつけてしまった(笑)それはそれは凄い剣幕で、私が幼い頃、優しいひいばあさんが周りから何故恐れられているか理解できなかったが、後々理由が分かって大笑いした。
いつ聞いても面白い。素晴らしいですよ!
スタートから自分のチャンネルディスるスタイル好きですw
残飯シチューのなかからか時々、先端が塞がったゴム風船みたいなのとか、たばこの吸い殻みたいなのも混じっていたそうな。それでもおいしいと食べる当時の人たち。よほど物がなかったことの証左。映像中に出てくる松平氏の著書は、第三国人に関する記述が疑問なところを除くと、当時の記録を残したものとしてとても参考になる内容です。
うp主さんのサブチャンネル、私は好きなんですけどね...伸びて欲しい...
サツマイモは戦中、アルコールにする為の、収量が多いけど味も素っ気もない品種ばかりが作られたと、何かで読んだ記憶。
戦後、46~47年頃は太陽活動に起因して不作・飢饉が起きたから戦中よりも食糧事情が厳しい地域が出たというのもある
使用人が残り物の水餃子を温め直すとふやけるので鍋肌で焼いて食べたのが焼き餃子で中国人に焼き餃子をごちそうしようとすると不機嫌になったり、驚いたりすると聞いたことがある。
BGM大きすぎて聞きづらいです😭
どっちのチャンネルも好きですよー;∀;
BGMが全く合ってないけど面白かったです
5:47 Garbage=「ギャベッジ」よりも「ガーベッジ」の方が、より正確な発音だな。
山田さんが指摘されていたように、進駐軍の残飯を「栄養シチュー」として出していた時は、米兵らの吸殻がかなり混じっていたそうです(小説GHQ、梶山季之より)。
食の歴史学ぶのめっちゃ好き
水あめ+蒸かしイモで芋飴をつくると、水あめと芋より高くなるのでこれで頑張ったって祖父が言ってたなぁ・・
いつの時代も戦争で犠牲になるのは一般市民.......
臓物は配給統制の対象ではなく自由販売だったので警察も何も言わなかったそうです。あと海藻系も。闇市場だけあって値段のすべては需給バランスで決まるので、人気のない火箸とかは公定価格より安かったとか。
すいとん、ラーメン、モツ焼きあたりがメジャーですね。
うp主さま、興味深い動画をどうもありがとうございます!(うぷぬし じゃなくて あっぷしゅ なんですねw)もう少しだけBGM音量下げてくれると嬉しいです。まんじゅうの声が聞き取りにくいところがあるので💦
すみません。リクエストで、琉球王国のご飯のことは解説できますか?
配給の話、配給するときなるべく女の人に行かせた。サツマイモ一個といっても痩せ細ったサツマイモもあれば肥え太って立派なサツマイモもある、女の人だと少し多く貰えたりするらしい。配給するとき意地悪されて潰された野菜を配給されたり配給できるのに無くなったと言って配給券だけ奪われたりと悲惨な話がたくさんあります。配給できる数にも限りがあり仲がいい人が配給側にいるとコネで自分の分を取り置きして取ってもらったりするらしい。
おはこんばんにちはのが語呂いい気がする
食キング過去編でも出てきたサツマイモ汁粉を食べてみたい。
私の祖父が引き上げ時に見た事なのですが駅では日本人じゃない人たちが「わしらは戦勝国民やで!どかんか~い!」と威張っていたそうです。打ちひしがれた日本の婦女子にいたずらをしてゲラゲラ笑っているのを見たそうですよ。
これまた諸説有りですが、寿司のトロはヤミ市発祥という説がありましたね。客があのトロっとした奴と注文するもので、トロと呼ばれるようになったとか。焼き芋は戦後気兼ねなく食べられるようになり平和の味だったという証言と、配給がサツマイモばかりだったので二度と食べたくないという証言両方あって地域差が大きいようです。
近郊の千葉や埼玉でネギ・さつまいも・落花生が特産なのは土地が痩せてて、気候条件とも合わせて育てる事が出来て採算も合うものがそれらに偏っているからで、その影響を都民も受けたんじゃないかと思います。どの地方の人や自治体も地元に対して決してそういう否定的な事言わないけど。例えば千葉では梨が特産である理由として排水性が良い土壌で暖かいからと言ってるけど、暖かければ暖かい程良いならなんで熱帯では作らないんだよって話になるし、排水性も高いほど良いならもっと低緯度の熱帯の火山の麓で作った方が水がすぐ干上がって排水性が良い事になるけどそうは言わない。りんごや桃のようなバラ科果樹は単純に原産地が涼しい所だから暑くてもいけないし寒帯みたいに寒すぎてもいけないし、日本人の味覚は日本の土壌や気候で採れる物の味を必然的に多く食べる事で構成されていて、それが無意識に美味しいと感じるようになっている、だから日本の土壌をも無意識に肯定的に語るだけ。熱帯では農作物が育つのが早いから大味・薄味になりがちだけど現地人はそれを食べる機会が多いからそれが丁度良いと感じる口になっている、日本みたいな一年の半分はろくに農業できないくらい寒い土地ゆっくり時間かけて育ったものはコクがありすぎて重くて気持ち悪いと感じたり、日較差によって糖度が高まっている果物も甘すぎて違和感を持ってたりする。「そんな事ないだろ日本のりんごや梨は香港でも大人気だってテレビでやってるぞ」みたいに反発されやすいけど、例えば反対に台湾のテレビを見てると台湾から輸出された加工食品が東京の輸入食品屋でもたくさん並んでて大人気だみたいな報道をしてる。でも実際にはその店で扱う商品のうち台湾製のは1%くらいでしかないし、東京で輸入食品屋と言えば成城石井とかカルディとかであってそれらの店の棚で台湾商品は0.1%くらいしか占めてない。幸いなのは台湾人はたくさん日本に遊びに来ててそういう実態を知っている、母国礼賛情報には簡単に踊らされない。でも日本人は香港に遊びに行っても日本の商品が実際どれだけ売られてるのかあちこちのスーパーとか市場とか見て把握しようとしない、せいぜい日系デパートに行って日本のものがいくらで売られてるかとかを眺めるだけ。現地デパート全体の中で日系の割合がどれくらいなのかとかもあんまり知ろうとしない。東北で枝豆が特産なのも日本でならどこでも作れそうな大豆以外なかなか育たないからだし、江戸以前からの納豆文化が定着し続けてるのもその影響と思われます(茨城で納豆を作り出したのは明治に入ってからで、山形の納豆ラーメンとか納豆汁とか枝豆納豆みたいな幅広い使い方はしてない)。北海道や長野で蕎麦が有名なのも良い蕎麦が育つからというより環境とコスパから蕎麦くらいしか育てられない地域が多いから。もっと採算の良いものが育てられるなら蕎麦作ってないと思います。自分の親も米と蕎麦の農家出身で子供の頃は蕎麦とみそ汁ばかり食わされたから食べたくないって言う、魚や肉は滅多に食べられなかったとも。でも飢えたとは言わない、付近の他の農家よりも田畑を広めに持ってた方だし。親にとっては蕎麦と味噌は最低限の生存を保証するものであると同時に裕福ではなくて食生活の多様性までは望めなかったものの象徴です。他国生活を経験している俺にとっても今の日本の食生活では多様性の点では物足りず正直息苦しさばかり感じます。何でもかんでも醤油一本槍だし世界で少なくとも10億人は日常的に食べてるパクチーごときで騒ぐし加工食品も何十年も前から似たり寄ったりの商品の小手先を変え続けてはそれを大袈裟に盛って宣伝してるだけ。世間が味覚を変えようとしないし視野も広げようとしないから世界にはまだまだ無限に広いアイディアなり食文化なり食材が存在しても日本では狭く深くのガラパゴス状態をやめようとしない。「日本は世界一食文化に恵まれてる」「日本は世界中のものが何でも食える」「世界一周してみてそれを確信した」ってのはほとんどウソです。隣の台湾のちょっとマニアックな料理(現地国人はそこそこ知ってるけど名物の街に行かないと食べられないレベル、日本で言えばエスカロップとかバスターミナルカレーとか瓦そばくらいの知名度と普及度)を検索しても日本語サイトには全然出て来ない。どの国どの集団でもそうだけどナショナリズム感情に引きずられて自分たちが世界一だとか自分たちの習慣は固有の文化だと思い込みやすい。トルコ人も四季があるのはトルコだけだと思ってるし東南アジアや西アフリカの人々も納豆は世界で自分たちだけの食文化だと思ってる。その台湾も自分たちが世界一食文化に恵まれてるとも思ってるし異文化を独自アレンジするのも世界一得意だと信じてる。日本人が日本が世界一美味しいものが揃ってるって言うのも日本にある食べ物を食べる機会が多くてそれがおふくろの味的に一番美味しく感じる口になってるから。味覚や体質は5年なり10年一か所にとどまり続けないと現地に染まらない、五感も思想もそうです。一週間や一年程度の短期滞在では個人エゴ投影先が母国に集中したままだから何を見聞しても母国基準で減点方式でしか評価しない。日本に30年住んでたならイタリアにも30年住まないと両国の麺料理を公平に評価できないし、「パスタはやっぱり鉱水で茹でないと美味しくないな!」って発想すら湧いてこない。
昔の薩摩芋は🍠「農林一号」で味より量だったので超不味かったと思います。😂
おからの握り寿司って今でもありますよ。「いずみや」というのが愛媛県にあります
おからの握り寿司は今も四国の山間部などで売られてますね。酢締めの白身魚と甘酢混ぜたおからのシャリのやつで...まぁ普通に美味しいですよ。戦後のものと同じ味かは分かりませんが...
BGMの音量が大きくて、聴き取れるけど少し疲れる。内容はとてもおもしろかった!
BGMがでかい…
餃子は満州では鍋貼(コーテル)という焼きタイプも一般的に食べられているというのが一つと中国で一般的な茹で餃子は皮が厚くないと崩れてしまうので皮を薄くして粗悪な肉をニンニクや香味野菜で誤魔化して(中国では中に入れる事はほぼない)提供出来るのであの形になったちなみに油だがまっさらな食用油は高価なので廃油や酷い所では機械油を使っていたりもしたそうな
水餃子だと茹でるためのお湯が必要だったけどそんなもん用意してられなかった とか手に入りやすい鉄板の上で焼けば食べられるのは加工法として望ましかった とかそんな話を上野のガード下の中華屋のおっさんが酒飲みながら鍋降りながら教えてくれました
ホルモン、戦前からあった。近代食文化研究会氏の著作で写真がある。池袋は東武東上線と西武池袋線の終着駅で、江戸時代から沿線の川越周辺は薩摩芋の名産地。西武新宿線方面にも流れるから、新宿マーケットにも流てた。
自分がまだ小学校入りたての辺りは5円で駄菓子が買えた時代。焼き鳥とは名ばかりの豚モツ串は一本10円。鶏ガラなんかは肉屋でタダで貰う物だったな。ヤミ市が全盛の頃は売れない物は無い時代だったんでしょうね。そういえば自分の田舎の古老たちは自主流通米をヤミ米と言ってたなぁ。
鶏ガラも今は値段が付いてるけど、オレがガキの頃は、一羽5円か10円だったな。安藤百福氏も当時安く仕入れられた鶏ガラベースのスープを考えたんだな。
仁義なき戦いの冒頭のシーンに出て来ますね。あと三船敏郎の映画「野良犬」にも
犬の肉や内臓をモツ煮とか言って売ってた日本人外は知ってる。なんとなく分かってて買っていた日本人も知ってる。それがヤミ市の闇。空腹は悲しいし、恐ろしい。しかし、勉強になる動画ですねえ、有難い✨👍✨
「仁義なき戦い」で前田吟さんが菅原文太さんの食事に犬の焼肉出していましたね❕😅
うちの死んだ祖父も食べた事あると言ってしました
実は戦争中は豊作年が続いて農家は物々交換とかでウハウハで農村ではあんまり餓死者が出てなかったらしい疎開してた子供もいつもより食べれてたみたい
ホルモン焼きにマッコリなんて、今でもご馳走で通用しますから凄く良いですよね。
ホルモンの語源は「放るもん」から来ているのは、公式に間違いだと認定されています。詳しくは『近代の食文化史』で紹介されています。
昭和時代に「11PM」という深夜番組で、関西出身の藤本義一がドヤ顔で言ってしまってからその説が定着してしまったのが事実です。時系列ではそれより前の昭和初期に、ビタミンやホルモンの様な栄養素が注目された時に内臓料理でホルモンを取ろうとして命名されました。その頃の一般人は、ホルモンに熱を加えたら死活する事なんか知らなかったでしょうけど。
勝負師伝説哲也とか麻雀放浪記、はじめの一歩の戦後編とかで主人公がヤミ市で銀シャリ食べてるシーンが凄いうまそうに見えて印象的だったんだが、監視が厳しかったということは売ってなかったのかな…もし売ってたならいくら位で食べれたんだろ
戦後の和菓子屋は砂糖が手に入らないから、サッカリンとか使ってお菓子を作っていたそうな。
10:45 そもそも焼鳥は東京発祥で、豚肉のモツを使うのが当時の常識です。無いわけではありませんでしたが、『鶏肉を使った焼鳥』が普及し出すのは昭和30年代位からです。かつて鶏肉は高級な肉でした。豚肉の方が安価でしたので、更に安く手に入るモツを使っていたのです。一応ネーミングがおかしい、と言うツッコミはそれ以前からも有りましたが、大正時代位でもそんな野暮な事を言うなと切り返される程に『焼鳥は鶏肉ではない』と言う周知の事実でした。詳しくは『焼鳥の戦前史』をご覧下さい。
闇市といえば仁義なき戦いの冒頭シーンですね。
ホルモンは60年代を舞台とした大藪春彦の『蘇る金狼』では冒頭でゲテモノ料理として出てくる
オカラ寿司は故・水木しげる氏が自伝「ボクの一生はゲゲゲの楽園だ」で知りました。5個入りで5円だったとのこと
すみません、動画は面白いですがゆっくりのボイスに対してBGMが少し大きくて声が聞き取りづらいので音量を下げることは可能でしょうか?
ここのup主さん、他の人のゆっくりも見たいって心が広いね!
は?
へ?
お米の変わりか?オカラを使った寿司には心当たりがあります子供の頃は酢で〆たイワシの腹にオカラを詰めた 「イワシ寿司」を たまに食べてました(ご馳走でした)ずっと 郷土料理だと思ってましたけど語り継がれないし 検索しても出てこないし今に思うと なれ寿司の代用だったのかも
私の出身地の高知市の闇市は平成20年ぐらいまで存在していました。空襲で焼けなかった場所にあり、立ち退きで無くなるまで、ホルモン屋、焼き鳥屋、食堂、野菜屋さんなどありました。
おから寿司でしたら試作して食べてみた事がありました。ネタは酢締めしたタラとイカ。お腹は膨れるのですが、おから自体に味が無いので、すし飯みたいに酢を入れるかサッカリンを入れないと厳しいと思いました。
ヤミ市で法外な値段というけど、ヤミ市限定でインフレが起こっているというのが正しい気がする。確かに買うだけなら法外ではあるけど、持っているものをヤミ市で売れば相場の数十倍で売れるわけだからね。買い手が売り手になり、売り手が買い手になるのがヤミ市
昔、実家で婆さんがサッカリン使ってた。昭和50年の話。
粕取焼酎も作ってる醸造所も少なくなったな。終戦記念日くらい出して欲しい終戦の味。親父達は粕取焼酎飲みながら未来を語り夢を語ってたらしい。
Bgmの音量がでっかいです
湯豆腐は現代の高級料亭で今だと5800円ぐらいだぜ
シベリア抑留を生き抜いて、ようやく帰国できた祖父が生前、
「闇市で食べたうどんの味が忘れられない」と言っていたのを思い出しました
シベリアでの食事は、毎朝お椀一杯の塩水に小豆が2粒だけ
それに比べたら、闇市のうどんは「涙が止まらなかった」極上のごちそうだったと
あのうどんをもう一度食べたいと言っていましたが、いわゆる思い出補正などもあったでしょうし
何が入っていて、何で出来ているかわからない闇市の料理
「そのうどんをもう一度食べさせてあげたかったけど、いろんな意味で再現できんかった」と
祖母が言っていました
わかります、縁日の屋台とか雰囲気で美味しい感じるもん!
食べるものがなかったから、余計に美味しく感じたんでしょうね。
その後にいくら再現しても、きっとあの時の感動は味わえませんよ。
もう一度食べたかったと思うだけでいいんですよ。
そんなん再現出来なくて良かったよ。
どこのチャンネルかは名前出さないけど、別のゆっくりで食べ物解説してる系チャンネルの最近の投稿動画が「○○は危険だった?!」「驚愕!!○○の真実」「○○に騙されるな!!」系のラインナップに変わってきてるから、このチャンネルの食べ物の雑学や歴史を普通に伝えてくれてる姿勢好き
企業とかにチャンネルが買収されてるらしいからクオリティがかわっちゃうらしいよ
本当にそう
何年も見てたゆっくり解説チャンネルが、急に業者と同じタイプのゆっくり解説の雰囲気になったのは残念だったなぁ
好きで解説してくれてる有志のゆっくりチャンネルもあるというのを知らない人も増えてると思うと残念だし、業者じゃないチャンネルは本当にありがたいです
企業が買い取ると赤字でも動画を早く沢山作るから面白くない動画で再生数も下がっちゃうのが残念、編集者とかも雇うわけだけど当然赤字だから割り当てられる金額が安いからクオリティも下がるし
しかもあれ某世界料理のゆっくり解説のパクリでしたしね...構成もほとんど似てて酷かったです
あの人の歴史系は面白かったんだけどね...
闇市で水餃子ではなく、焼き餃子が良く作られたのは、戦後の小麦粉は質が悪く、長時間茹でると溶けてなくなるようなものも多かったため
少量の水でこねて、焼いてしまえば形が崩れない焼き餃子の方が売り易かったという理由のようです
おぉ勉強になります。
勉強になりました!
前半のBGM、最初暗く始まったのに途中で躍動感を感じる展開になるのがなんだか良かったです。戦後の暗い時代に負けなかった人々の活気を感じた...!!
量産(業者)ゆっくりばかりになってきてガッカリしていた時にこちらのチャンネルを知ってとても嬉しかったのを覚えています。
ダークなテーマを取り上げる時の姿勢も演出も、業者は同じような切り口ばかりだけどこちらのチャンネルはちゃんと人の心を見ているから考えさせられる...。好きです。
ヤミ市の話はマンガや小説、テレビでしか知らないので、ためになります
祖父達は物心つく前に亡くなり、祖母達は戦中戦後の話をしてくれなかったので…
親族がたくさん亡くなっているので、話したくないことが多かったのだろうとは思いますが
はだしのゲンで屋台の雑炊に箸が立つ!!
って客が言ってて、主人公達が羨ましそうにしてるのが可愛そうだったなー
少しBGMが大きく思います
内容は凄く興味深く面白かったです!
この世界の片隅にでごった煮の中にラッキーストライクの紙入ってたけど2人が「うまい」って本当に幸せそうな顔して食べてたのが凄い印象に残ってる
残飯を日本人食べるの知ってるのでわざわざ吸殻、コンドームを混ぜていたそうな!😅😅
凄くためになるし面白くて最高です!!
小説を書いてるだけあって説明が、聞き取りやすく復習もかねての説明あるから記憶的に解りやすい
母の思い出話で、甘いものが食べたいと言ったら祖母が闇市で買ってきたサッカリンでぜんざいを作ってくれたというのがありました。
砂糖は貴重で買えなかったようですが、美味しかったといってました。
とっても良かったです!!
お寿司、結果的に健康的な食べ物になってますよね…!(それだけ、昔からの日本食は健康的って事でもありますが)
闇市のお陰で、沢山の人が救われたんでしょうね、お金ないと無理だけど。
おもしろかったー。ありがとうございます!勉強になった!
祖父母が東京の闇市で飴を売ってました、大変儲かったらしく空襲で家が焼けたのに直ぐに再建でき工場まで建てられたそうです。戦争でひどい目にあった方が多い中むしろ得をしてしまったとなると微妙な気にもなりますが...
大変興味深く拝聴いたしました。この世界の片隅にを思い出しました。
ちょっちBGMがデカいかな?(個人的な感想)
あっ、ヤミ市で売買されてる内容は前々から興味あったので助かりました!w
第2チャンネルフツーに面白いっす!是非続けて下さい笑
めっちゃ分かる
ヤミ市…残飯料理で言えばアニメの「空手バカ一代」の冒頭で主人公がヤミ市で「水とん」を食べたら、中からタバコの吸殻が出てきて「ベッ!残飯だ!」と吐き出すシーンが印象に残ってます。あれが戦後間も無い頃の食糧事情だったのか、と一発で理解出来るシーンでした。
そんなもんが千円したわけでしょ、現在で言う。
ニコチン煮込んだ雑炊食べて良く死ななかったね( ゚Д゚)y─┛~~
コンドーム(米兵が使い捨てた)が混じってたこともあったとか。
確か米兵が残飯を食べるの知っていてわざと吸殻やとんでもない物混入させていたんだよね
母の実家には終戦直後アメリカ在住の親戚(日系人)から様々な物資が送られてきたそうです。アメリカからの郵便物は日本の郵便局でも一種のアンタッチャブルだったそうで、荷物に異常(破損や中身抜き=盗難)でもあれば、地方のGHQ連合軍最高司令部民政部の係官(米軍将校)の徹底的な調査が郵便局に入いるくらい荷物の取り扱いは厳しかったそうです。
アメリカからは食料品始め衣料品や嗜好品挙句の果てには自転車までアメリカから送られ、日本での生活に余裕が出てくる様になると、タバコやお酒、砂糖、紙オムツ、粉ミルク、香水、化粧品等ヤミ市で換金率の高い商品が送られてきて、近所に住むブローカーが大阪などのヤミ市で換金してきてくれたそうです。結構な金額になり、終戦後とても助かったと聞いています。
在米の日系人って、収容されたり財産没収があったと聞くけど、運良く免れたんでしょうかね?
それか無理してでも援助したのか
@@くり-k7l さん。親戚はカリフォルニア州に住んでいるので、強制収容所に収監されていました。収容される前日系人たちは全財産処分して借金などもきちんと清算し、また負債が残る者の分も皆で出し合って立て替えて収監されたそうです。
親戚も収容所から解放されたばかりですが、日本の方が悲惨だという事で、無理をして物資を送って頂いたそうです。
大祖母が生きてみえた時は、クリスマス等季節ごとにお菓子等アメリカの物をよく送ってくださってました。日本にも何度か来られお会いしたことも。
米軍以外の郵便はほぼ開封されて検閲されていたからな。
大変勉強になる動画でした。
ありがとう御座いました。
すっげぇ勉強になるし、観る時間が意義深い。
素晴らしい動画をありがとう😉👍️🎶ございます🙇♂️凄い内容で興味深いです…🤔😆👌❤️🛐🤲🙏
甘いものに飢えていた戦後の日本人にとって闇市で手に入る、ブドウ糖やサッカリンは飛ぶように売れるものだったようです。
サッカリンを水に溶かして、製氷機などにいれて固めたものを「アイスキャンディー」として売ってたようですね。
メチルアルコールを水で薄めてサッカリンを混ぜて酒として飲ませていたとかね。
とても面白かったです♪
が、、、BGMの音量が少しにぎやか過ぎですね。
お好み焼きもヤミ市で広まったそうですね。
元々は東京の花街で芸者さんと遊びながら作る遊戯料理が生還した関西の兵から広まったと聞きました。
恐らく、小麦粉さえあればあとの具材は気にしなくて良い、文字通り「お好み」で焼けるのが相性が良かったのかと。
私の父は 戦後直ぐに出来た大阪駅前のヤミ市で 三国人が作って売った「フライ饅頭」(今で言うあんドーナツみたいなもの)が食べたくて仕方がないけど 1個50円で 買えなかったと 悔しそうに話してましたね。
時間が無くて、小説は時間ないと読みに行けないから、こんなに面白くてためになるなら貢献したい。広告みたいに手軽で投稿者のお金になることないかなあ🥺
焼き餃子が日本で広まった理由としては、中国からの引き揚げ者の多くが満州から来たからという説があります。
満州の地に居た満州族は漢民族と違って、餃子は焼き餃子が主流だったそうです。
それを知った日本人が終戦後に引き揚げ、日本で焼き餃子が広まったという説です。
日本の焼き餃子にニンニクが入れられることが多いのは
戦後の闇市などで出てきた餃子の肉は、質が悪くにおい消しなどの理由でニンニクを混ぜるようになった
という説がありますね。
ちなみに、その満洲に派遣されていた部隊の主力の一つが宇都宮を拠点とする第14師団でした。 それが宇都宮で餃子が名物になった一因とされています。
昔「奥様は魔女」というドラマがあって、主人公の隣に住んでるおばさんは驚いた時に「あいや、まあ!」と言うのが口癖でした(もちろん日本語吹き替え)。私は10年前に(旧満州)大連市に仕事で住んでわかりました。「あいや、まあ!」というのは大連の方言なんですね。とにかく大連人は何かあったら頻繁に「あいや、まあ!」を口にします。
「奥様は魔女」の翻訳家さんが旧満州出身なのは間違いないです。
餃子と言えばドラゴンボールのチャオズというキャラが有名ですが、実はチャオズが悟空と話したことは一度もないそうです。
水餃子は日本人の好みではない
というのが一番だけどね
ドラム缶で煮込んだ志那そばもご馳走だったらしいです。
徳島で聞いた話ですが。
ごった煮スープ、というより「米軍の残飯ぞうすい」は度々マンガやアニメに登場していたらしく、
私が知ってるアニメでは「空手バカ一代」と「この世界の片隅に」に出てきます
もしかして:残飯シチュー?
チャンネル運営のあり方についてお悩みなのですね。
確かに、ニッチな分野ですが、それ故に貴重なチャンネルだと思います。
ちなみに、私は両チャンネルの動画を総て保存していますが何か。
動画主様は才能豊かな方とお見受けしますので、新しい展開も楽しみですが。
残飯シチューは、90代の祖父母に聞いたけど、味よりも量が多いのが嬉しかったそうです。
餃子に関して聞いた話だと、避難中の日本人を助けてくれた方の家で食事を振舞われた時に残り物の餃子を焼いてご馳走してくれたのが始まりでこの時の焼き餃子の印象が強く残り、帰国して焼き餃子を広めたとかありましたね。
祖母が戦後、お寺さんの墓守のバイトをしていたそうで、許可を貰ってお墓の脇で野菜を作って門前町の闇市で売っていたと聞いた事があります。
すりこぎ棒みたいなキュウリや赤ちゃんの頭位のトマトがバカスカ取れたそうで、飛ぶように売れて、その稼ぎで父や叔父を育てたと。結構な頻度で買い物客から何を肥料に使っているのかとか聞かれたそうですが「内緒(てへぺろ)」で押し切ったそうな。ちなみに当時はまだ土葬だったとの事。いやぁ肥料って大事なんだと。
ちなみにガチのヒトダマ(鬼火?)も見た事あるそうで、雷が近いと土盛りが青く燃えて、たまにヒュッと火花のように飛んでいくと言っていました。
やってることは雑っぽいけど、今のスマホの画面が世界の全てのような人間と比べれば、精神的にはずっと豊かだった気がします。
@@田中恵一-x2f 情報が少ないとその少ない情報から多くを察しようとします。寡黙な人からはその表情や姿勢などから多くを洞察しようとします。子供にとって山の景色はだいたい地味で刺激に欠けて退屈だと思うけど、それは森の木々が自己主張しないからです。野生生物にとって目立つような自己主張して得するのは捕食する時と繁殖する時だけ。無暗に目立ってたら天敵に見つかりやすいし獲物にも逃げられる。木も自分一本だけ日光を独占しようと背伸びしてたら台風が来た時に真っ先にへし折られるし、自分だけ背を低くして謙虚にしすぎたら陽が当たらなくて枯れてしまう。それでみんな「仲良く」ではなく「牽制し合って」背の高さを均一に揃えて大人しくしている、それも視覚的には退屈になる要素。でも関心事がその退屈なものにしか許されない環境だと無意識にその中から楽しみを見出そうとするものです。
人も出る杭は打たれるし舐められたらとことん虐められるけど少なくとも天敵はいない。人が街に店を出して他の人を捕まえようとでかい看板出して「金よこせー!!」って叫び続ける事はできるけど、野生動物がそんな事したら天敵に「俺を殺せー!」獲物には「俺が来たから逃げろー!」って言ってるようなもの。人は彼らほど大人しくしてなくてもいい事と引き換えに感性が失われたのです。日本なら道東とか他国ならチベットみたいな草原とかアマゾンのような、人口密度がすごく低い場所に数か月居続けてテレビやネットも断ってると、人工的で自己主張の激しい刺激的なものに触れない分自分の五感六感が少ない情報から多くを得ようと敏感になり人のオーラまで強く感じられるようになった事があります。東北と北海道の田舎で三か月車中泊して用事で西日本まで行こうと横浜を通過した時に都会人らしく着飾った現地女性が交差点を渡るのを何気なく見てたら、その人が動物としてのオーラを全く出していない事にも驚かされたしそういう感じ方をした自分自身にも驚きました。言葉で表現しきれるものではないけど田舎の人は生き物として自然なオーラを出しているのに対し日本の都市部の人は家電とかコンクリ建築とか二次元のキャラみたいに何の波動も放ってない。動物が天敵に見つからないように気配を消してるんじゃなく気配を持っていないのです。都市部なら全てがそうとも限らず途上国の都市部はそれなりに人口密度も高く人工的なものに囲まれていてもそれなりにオーラは放ってます。オカルト的な話をするときりがないし否定派にも叩かれるだけなのでこのへんまでにしますが自然の良さというのはそこに浸った人にしか分かりません。チベットの民家に泊まった時に数十年ぶりに快眠できたのも電波がほとんど飛んでないからだったと思ってます。その快眠の心地良さも経験しないと分からない、今60歳以上の人だったらきっと誰でも理解してくれる。分からない人には「今私の家がある都会でも十分気持ち良く寝られてますけど?」ってなってしまう。分母が小さいとそれを超える大きさの分子が想像できない。コメ主さんの「雷が近いと」ってのは単なる物理的に説明のつく現象な気がするけど、人魂みたいな存在は俺は肯定します。俺自身がそれっぽい誰にも信じてもらえない経験をそれなりにしてきたからです。
江戸時代には良い物(肉や魚)を食べている身分の高い人の家の糞尿は高く売れたと言われますね。その一番の理由も油脂でしょう。野菜に比べてカロリーが高い、米麦に比べても1~3倍。遺体は油粕以上の肥料かもしれません。火葬ってわざわざエネルギーでカロリーを廃棄するし焼き畑にも繋げないすごく贅沢な処分法、土葬もそれなりに贅沢。カニバリズムの文化が世界各地に普遍的にあったけどそれは食料資源の有効的な使い方だったし肉食動物はだいたいいざとなったら共食いするんだから全然珍しい事でもないし必要以上に嫌悪感持つ必要も無いと思います。児童虐待のニュースが流れると必ず「こんな残酷な事するの人間だけ!」とか言っては悲劇のヒロイズムに浸りたがる中二病みたいな人が出てくるんだけど、親が子を巣から叩き落とす鳥、自分の子を食う魚、食う訳でもないのに虐めをして仲間を殺すサルや狼、同性愛行為をするキリン、大概の事は他の動物でもしっかり行われている。単に可哀想と思うなら可哀想とだけ言えばいいのに盛らずに居られないのは他人を目一杯下げて自分を相対的に上げたい自己都合でしょう。倫理観に存分に浸ってるようでも実は被害者の事より自分の事考えてる。
@@meroppa1 私も若い頃山の方に住んでいて、不思議な感じを覚えた事は幾度もあるし、色々あって河川敷生活していた時は日が経つほどになんだかニンゲンから外れていくような自覚がありました。その時は大雨の降っている真夜中、物凄い脅迫観念に急き立てられるようにして実家に舞い戻ったのだけど、もう少しで(親が)大変なことになるところでした。こういうのは例えば職場の昼休みに誰かに話しても、分かってはもらえないと思いますけどね。長文の返信、有難うございます。
火葬した方が肥料には向いてそう
まぁ火葬の設備がないんだろうが
親戚の伯父さんが若い頃に長距離列車に乗ってヤミ市に魚を卸すバイトをしていたそうです。
某日本海側の漁港から某大都市に学生服を着てテンプラ学生(衣だけの偽学生、当時はそう言ったとか)
になって、寅さんが持っている様な皮のトランクに下処理済みの鮮魚や干物を入れて運んだそうです。
何度か車掌と一緒に回ってくる警官に職質されたそうですが、「中身は本です」と言い張って誤魔化し
て難を逃れた(今思うと警官も分かってて見逃してくれた?)そうです。
バイト料も良かったらしいですが、運び終わった後にヤミ市で振舞ってくれるどぶろくが美味かった
ので一番の楽しみだったそうです。
滋賀県の大津駅前の闇市で、「うどん」と看板に表示しているのに、実はゼンマイをくたくたに炊いたものもあったようです。
食糧が無かったのではなく、田舎の畑で取れた食い物を送る物流が壊滅的な状況だっただけと祖母が言ってたが……
事実八戸で農業やってた祖母の家では取り敢えず食い物は有ったらしい
自分の祖父も岩手の田舎でカボチャや芋しか食べられなかったけど食うに困ったわけじゃないと言ってました。
都会で生活していた人だよな。だから田舎に出向いて手持ちの着物とかと食べ物を農家と物々交換。
威張っている農家も多かったらしい、都会の住人はタケノコ生活を強いられた。
船がほぼ全滅、行き場を失った貨物が戦中の酷使で疲弊した鉄道に集まり、そこに石炭不足と来て列車が走れずに輸送が壊滅したので都市部に食べ物がなかった
@@ぴーすけ-u6q 様
私のじいちゃんばあちゃん(大正生まれ。両方故人)は、「 芋とカボチャは終戦後にさんざん喰わされたから見たくもない」と言ってました
あと、自分の小学校で給食に麦飯が出た話をしたら「子供にバクシャリなんか喰わすのか‼️」と激怒してたのを覚えてます
@@岩田実-h2f 時代が逆行していってるよな。雑穀米とか麦飯とか
大変楽しく観させて頂きました!
バクダンは聞いた事がありましたが
どのようなお酒なのか知らなかったので
勉強になりました!
ありがとうございました。
出だしの挨拶が清々しすぎる
カボチャもサツマイモ同様に代用食で食されたとか。
だから当時食糧難で苦しんだ人は、カボチャとサツマイモだけは2度と食べないと言ってた。
介護施設で90前後の方が「一生分食べた、もう見たくもない」と言ってサツマイモとかのおやつとか出てくると嫌がるというのはよくあったようですね
上野の「アメ横」も戦後の闇市が発祥の商店街ですよね。
上野は北関東、東北方面への交通の要衝であり、地方から来た行商人もお店も出していたようで、その中でも手軽に食べられる甘味の飴がよく売れたため飴屋が多く、これが「アメヤ横丁」略して「アメ横」と呼ばれる所以になりました(米軍の放出品も多く売られていたため「アメリカ横丁」という意味合いもあるようです)。
ちなみに時代の流れで当時の飴屋のほとんどは業種転換していきましたが米軍の放出品を扱っていたお店はミリタリーショップとして現在もいくつか残っています。
>米軍の放出品を扱っていたお店
ミリオタやサバゲーマーにはおなじみの中田商店とかですな、よく行きます。
@@九太郎-f4o 中田さん以外にミリタリーショップあったっけ?
@@lemonade6482 松崎商店はアメ横って言うには少し遠いですかね。また、ジャンルとしてはどっちかというとガンショップですがマルゴー(現:Take Five)とか今は亡きNew MGCあたりが古くからあった店ですか。あとは割と新しい御徒町駅近くのファーストとか。(すいません、どっちかというとガンマニアなのでサープラス専門の店は詳しくないのです…)
最近は秋葉原~末広町辺りの方がこの手の店は豊富ですね。
凄かった良かったです楽しく見れました
戦後に猟奇やらエロやらを題材にしたゴシップ雑誌が流行るんだが、あまりにも低俗でやたら出版されてたから闇市のカストリ酒とかけて「カストリ焼酎は三合で潰れる、カストリ雑誌は3号で潰れる」って言われてたって爺さんが言ってた。
カストリ雑誌は三丁目の夕日の芥川先生が副業で連載していた気がする。
ああ、聞いた事ある。当時は食うだけで大変な時代だから
後に有名作家になる文豪も結構そういうの書いてたらしい。
@@てっちゃん-t1k 様
読書狂だった亡父は其れ故にカストリ雑誌の蒐集に力を入れていました。
但し自分の事務所の鍵付本棚(特注品)に入れて家族にすら触れさせない有様だったので、父の死後其れ等の処分には苦労させられましたが。
1:11
粉ミルク(1山40円くらい)いかの丸焼き、トンカツ(材料はそこら辺の野良犬)りんごの歌とか
とても面白く拝見させていただきました ただ、BGMがちょっと大きくて声が聞きにくいかなぁ と感じました。
当時のさつま芋は収穫量第一の農林1号で戦後は加工にまわされ、焼酎や飴にいき、上野のアメヤ横丁の始まりのひとつだったらしいね。
闇市と言えば、故人で父方のひいばあさんが汁粉を出して大人気だった。
実は元々田舎のお金持ちの人間で、倉に砂糖や小豆が山のように保存していたらしい。
戦後、ジリ貧になりそうだとひいばあさん思い奮起。
俵を2俵担いで、列車で県庁所在地に向かい、闇市で販売。夜は雑魚寝して、次の日に帰宅を繰り返していたとの話。
ところが軍隊から帰還したひいじいさんとじいさんが無類の酒好きで、土地は売るは稼ぎも酒代に変えてしまう。
戦後鬱だったのかも知れないが、ひいばあさんの怒りに火をつけてしまった(笑)
それはそれは凄い剣幕で、私が幼い頃、優しいひいばあさんが周りから何故恐れられているか理解できなかったが、後々理由が分かって大笑いした。
いつ聞いても面白い。
素晴らしいですよ!
スタートから自分のチャンネルディスるスタイル好きですw
残飯シチューのなかからか時々、先端が塞がったゴム風船みたいなのとか、たばこの吸い殻みたいなのも混じっていたそうな。それでもおいしいと食べる当時の人たち。よほど物がなかったことの証左。
映像中に出てくる松平氏の著書は、第三国人に関する記述が疑問なところを除くと、当時の記録を残したものとしてとても参考になる内容です。
うp主さんのサブチャンネル、私は好きなんですけどね...伸びて欲しい...
サツマイモは戦中、アルコールにする為の、収量が多いけど味も素っ気もない品種ばかりが作られたと、何かで読んだ記憶。
戦後、46~47年頃は太陽活動に起因して不作・飢饉が起きたから戦中よりも食糧事情が厳しい地域が出たというのもある
使用人が残り物の水餃子を温め直すとふやけるので
鍋肌で焼いて食べたのが焼き餃子で
中国人に焼き餃子をごちそうしようとすると
不機嫌になったり、驚いたりすると聞いたことがある。
BGM大きすぎて聞きづらいです😭
どっちのチャンネルも好きですよー;∀;
BGMが全く合ってないけど面白かったです
5:47 Garbage=「ギャベッジ」よりも「ガーベッジ」の方が、より正確な発音だな。
山田さんが指摘されていたように、進駐軍の残飯を「栄養シチュー」として出していた時は、米兵らの吸殻がかなり混じっていたそうです(小説GHQ、梶山季之より)。
食の歴史学ぶのめっちゃ好き
水あめ+蒸かしイモで芋飴をつくると、水あめと芋より高くなるのでこれで頑張ったって祖父が言ってたなぁ・・
いつの時代も戦争で犠牲になるのは
一般市民.......
臓物は配給統制の対象ではなく自由販売だったので警察も何も言わなかったそうです。あと海藻系も。
闇市場だけあって値段のすべては需給バランスで決まるので、人気のない火箸とかは公定価格より安かったとか。
すいとん、ラーメン、モツ焼きあたりがメジャーですね。
うp主さま、興味深い動画をどうもありがとうございます!
(うぷぬし じゃなくて あっぷしゅ なんですねw)
もう少しだけBGM音量下げてくれると嬉しいです。まんじゅうの声が聞き取りにくいところがあるので💦
すみません。リクエストで、琉球王国のご飯のことは解説できますか?
配給の話、
配給するときなるべく女の人に行かせた。
サツマイモ一個といっても痩せ細ったサツマイモもあれば肥え太って立派なサツマイモもある、女の人だと少し多く貰えたりするらしい。
配給するとき意地悪されて潰された野菜を配給されたり配給できるのに無くなったと言って配給券だけ奪われたりと悲惨な話がたくさんあります。
配給できる数にも限りがあり仲がいい人が配給側にいるとコネで自分の分を取り置きして取ってもらったりするらしい。
おはこんばんにちはのが語呂いい気がする
食キング過去編でも出てきたサツマイモ汁粉を食べてみたい。
私の祖父が引き上げ時に見た事なのですが
駅では日本人じゃない人たちが「わしらは戦勝国民やで!どかんか~い!」と威張っていたそうです。
打ちひしがれた日本の婦女子にいたずらをしてゲラゲラ笑っているのを見たそうですよ。
これまた諸説有りですが、寿司のトロはヤミ市発祥という説がありましたね。客があのトロっとした奴と注文するもので、トロと呼ばれるようになったとか。焼き芋は戦後気兼ねなく食べられるようになり平和の味だったという証言と、配給がサツマイモばかりだったので二度と食べたくないという証言両方あって地域差が大きいようです。
近郊の千葉や埼玉でネギ・さつまいも・落花生が特産なのは土地が痩せてて、気候条件とも合わせて育てる事が出来て採算も合うものがそれらに偏っているからで、その影響を都民も受けたんじゃないかと思います。どの地方の人や自治体も地元に対して決してそういう否定的な事言わないけど。例えば千葉では梨が特産である理由として排水性が良い土壌で暖かいからと言ってるけど、暖かければ暖かい程良いならなんで熱帯では作らないんだよって話になるし、排水性も高いほど良いならもっと低緯度の熱帯の火山の麓で作った方が水がすぐ干上がって排水性が良い事になるけどそうは言わない。りんごや桃のようなバラ科果樹は単純に原産地が涼しい所だから暑くてもいけないし寒帯みたいに寒すぎてもいけないし、日本人の味覚は日本の土壌や気候で採れる物の味を必然的に多く食べる事で構成されていて、それが無意識に美味しいと感じるようになっている、だから日本の土壌をも無意識に肯定的に語るだけ。熱帯では農作物が育つのが早いから大味・薄味になりがちだけど現地人はそれを食べる機会が多いからそれが丁度良いと感じる口になっている、日本みたいな一年の半分はろくに農業できないくらい寒い土地ゆっくり時間かけて育ったものはコクがありすぎて重くて気持ち悪いと感じたり、日較差によって糖度が高まっている果物も甘すぎて違和感を持ってたりする。「そんな事ないだろ日本のりんごや梨は香港でも大人気だってテレビでやってるぞ」みたいに反発されやすいけど、例えば反対に台湾のテレビを見てると台湾から輸出された加工食品が東京の輸入食品屋でもたくさん並んでて大人気だみたいな報道をしてる。でも実際にはその店で扱う商品のうち台湾製のは1%くらいでしかないし、東京で輸入食品屋と言えば成城石井とかカルディとかであってそれらの店の棚で台湾商品は0.1%くらいしか占めてない。幸いなのは台湾人はたくさん日本に遊びに来ててそういう実態を知っている、母国礼賛情報には簡単に踊らされない。でも日本人は香港に遊びに行っても日本の商品が実際どれだけ売られてるのかあちこちのスーパーとか市場とか見て把握しようとしない、せいぜい日系デパートに行って日本のものがいくらで売られてるかとかを眺めるだけ。現地デパート全体の中で日系の割合がどれくらいなのかとかもあんまり知ろうとしない。
東北で枝豆が特産なのも日本でならどこでも作れそうな大豆以外なかなか育たないからだし、江戸以前からの納豆文化が定着し続けてるのもその影響と思われます(茨城で納豆を作り出したのは明治に入ってからで、山形の納豆ラーメンとか納豆汁とか枝豆納豆みたいな幅広い使い方はしてない)。北海道や長野で蕎麦が有名なのも良い蕎麦が育つからというより環境とコスパから蕎麦くらいしか育てられない地域が多いから。もっと採算の良いものが育てられるなら蕎麦作ってないと思います。自分の親も米と蕎麦の農家出身で子供の頃は蕎麦とみそ汁ばかり食わされたから食べたくないって言う、魚や肉は滅多に食べられなかったとも。でも飢えたとは言わない、付近の他の農家よりも田畑を広めに持ってた方だし。親にとっては蕎麦と味噌は最低限の生存を保証するものであると同時に裕福ではなくて食生活の多様性までは望めなかったものの象徴です。他国生活を経験している俺にとっても今の日本の食生活では多様性の点では物足りず正直息苦しさばかり感じます。何でもかんでも醤油一本槍だし世界で少なくとも10億人は日常的に食べてるパクチーごときで騒ぐし加工食品も何十年も前から似たり寄ったりの商品の小手先を変え続けてはそれを大袈裟に盛って宣伝してるだけ。世間が味覚を変えようとしないし視野も広げようとしないから世界にはまだまだ無限に広いアイディアなり食文化なり食材が存在しても日本では狭く深くのガラパゴス状態をやめようとしない。「日本は世界一食文化に恵まれてる」「日本は世界中のものが何でも食える」「世界一周してみてそれを確信した」ってのはほとんどウソです。隣の台湾のちょっとマニアックな料理(現地国人はそこそこ知ってるけど名物の街に行かないと食べられないレベル、日本で言えばエスカロップとかバスターミナルカレーとか瓦そばくらいの知名度と普及度)を検索しても日本語サイトには全然出て来ない。どの国どの集団でもそうだけどナショナリズム感情に引きずられて自分たちが世界一だとか自分たちの習慣は固有の文化だと思い込みやすい。トルコ人も四季があるのはトルコだけだと思ってるし東南アジアや西アフリカの人々も納豆は世界で自分たちだけの食文化だと思ってる。その台湾も自分たちが世界一食文化に恵まれてるとも思ってるし異文化を独自アレンジするのも世界一得意だと信じてる。日本人が日本が世界一美味しいものが揃ってるって言うのも日本にある食べ物を食べる機会が多くてそれがおふくろの味的に一番美味しく感じる口になってるから。味覚や体質は5年なり10年一か所にとどまり続けないと現地に染まらない、五感も思想もそうです。一週間や一年程度の短期滞在では個人エゴ投影先が母国に集中したままだから何を見聞しても母国基準で減点方式でしか評価しない。日本に30年住んでたならイタリアにも30年住まないと両国の麺料理を公平に評価できないし、「パスタはやっぱり鉱水で茹でないと美味しくないな!」って発想すら湧いてこない。
昔の薩摩芋は🍠「農林一号」で味より量だったので超不味かったと思います。😂
おからの握り寿司って今でもありますよ。「いずみや」というのが愛媛県にあります
おからの握り寿司は今も四国の
山間部などで売られてますね。
酢締めの白身魚と甘酢混ぜた
おからのシャリのやつで...
まぁ普通に美味しいですよ。
戦後のものと同じ味かは分かりませんが...
BGMの音量が大きくて、聴き取れるけど少し疲れる。
内容はとてもおもしろかった!
BGMがでかい…
餃子は満州では鍋貼(コーテル)という焼きタイプも一般的に食べられているというのが一つと
中国で一般的な茹で餃子は皮が厚くないと崩れてしまうので皮を薄くして粗悪な肉をニンニクや香味野菜で誤魔化して(中国では中に入れる事はほぼない)提供出来るのであの形になった
ちなみに油だがまっさらな食用油は高価なので廃油や酷い所では機械油を使っていたりもしたそうな
水餃子だと茹でるためのお湯が必要だったけどそんなもん用意してられなかった とか
手に入りやすい鉄板の上で焼けば食べられるのは加工法として望ましかった とか
そんな話を上野のガード下の中華屋のおっさんが酒飲みながら鍋降りながら教えてくれました
ホルモン、戦前からあった。
近代食文化研究会氏の著作で写真がある。
池袋は東武東上線と西武池袋線の終着駅で、江戸時代から沿線の川越周辺は薩摩芋の名産地。
西武新宿線方面にも流れるから、新宿マーケットにも流てた。
自分がまだ小学校入りたての辺りは5円で駄菓子が買えた時代。
焼き鳥とは名ばかりの豚モツ串は一本10円。
鶏ガラなんかは肉屋でタダで貰う物だったな。
ヤミ市が全盛の頃は売れない物は無い時代だったんでしょうね。
そういえば自分の田舎の古老たちは自主流通米をヤミ米と言ってたなぁ。
鶏ガラも今は値段が付いてるけど、オレがガキの頃は、一羽5円か10円だったな。
安藤百福氏も当時安く仕入れられた鶏ガラベースのスープを考えたんだな。
仁義なき戦いの冒頭のシーンに出て来ますね。あと三船敏郎の映画「野良犬」にも
犬の肉や内臓をモツ煮とか言って売ってた日本人外は知ってる。
なんとなく分かってて買っていた日本人も知ってる。
それがヤミ市の闇。
空腹は悲しいし、恐ろしい。
しかし、勉強になる動画ですねえ、有難い✨👍✨
「仁義なき戦い」で前田吟さんが菅原文太さんの食事に犬の焼肉出していましたね❕😅
うちの死んだ祖父も食べた事あると言ってしました
実は戦争中は豊作年が続いて農家は物々交換とかでウハウハで農村ではあんまり餓死者が出てなかったらしい
疎開してた子供もいつもより食べれてたみたい
ホルモン焼きにマッコリなんて、今でもご馳走で通用しますから凄く良いですよね。
ホルモンの語源は「放るもん」から来ているのは、公式に間違いだと認定されています。
詳しくは『近代の食文化史』で紹介されています。
昭和時代に「11PM」という深夜番組で、関西出身の藤本義一がドヤ顔で言ってしまってからその説が定着してしまったのが事実です。
時系列ではそれより前の昭和初期に、ビタミンやホルモンの様な栄養素が注目された時に内臓料理でホルモンを取ろうとして命名されました。その頃の一般人は、ホルモンに熱を加えたら死活する事なんか知らなかったでしょうけど。
勝負師伝説哲也とか麻雀放浪記、はじめの一歩の戦後編とかで主人公がヤミ市で銀シャリ食べてるシーンが凄いうまそうに見えて印象的だったんだが、監視が厳しかったということは売ってなかったのかな…
もし売ってたならいくら位で食べれたんだろ
戦後の和菓子屋は砂糖が手に入らないから、サッカリンとか使ってお菓子を作っていたそうな。
10:45 そもそも焼鳥は東京発祥で、豚肉のモツを使うのが当時の常識です。
無いわけではありませんでしたが、『鶏肉を使った焼鳥』が普及し出すのは昭和30年代位からです。
かつて鶏肉は高級な肉でした。豚肉の方が安価でしたので、更に安く手に入るモツを使っていたのです。
一応ネーミングがおかしい、と言うツッコミはそれ以前からも有りましたが、大正時代位でもそんな野暮な事を言うなと切り返される程に『焼鳥は鶏肉ではない』と言う周知の事実でした。
詳しくは『焼鳥の戦前史』をご覧下さい。
闇市といえば仁義なき戦いの冒頭シーンですね。
ホルモンは60年代を舞台とした大藪春彦の『蘇る金狼』では冒頭でゲテモノ料理として出てくる
オカラ寿司は故・水木しげる氏が自伝「ボクの一生はゲゲゲの楽園だ」で知りました。5個入りで5円だったとのこと
すみません、動画は面白いですがゆっくりのボイスに対してBGMが少し大きくて声が聞き取りづらいので音量を下げることは可能でしょうか?
ここのup主さん、他の人のゆっくりも見たいって心が広いね!
は?
へ?
お米の変わりか?オカラを使った寿司には心当たりがあります
子供の頃は酢で〆たイワシの腹にオカラを詰めた 「イワシ寿司」を たまに食べてました(ご馳走でした)
ずっと 郷土料理だと思ってましたけど
語り継がれないし 検索しても出てこないし
今に思うと なれ寿司の代用だったのかも
私の出身地の高知市の闇市は平成20年ぐらいまで存在していました。
空襲で焼けなかった場所にあり、立ち退きで無くなるまで、ホルモン屋、焼き鳥屋、食堂、野菜屋さんなどありました。
おから寿司でしたら試作して食べてみた事がありました。
ネタは酢締めしたタラとイカ。
お腹は膨れるのですが、おから自体に味が無いので、すし飯みたいに酢を入れるか
サッカリンを入れないと厳しいと思いました。
ヤミ市で法外な値段というけど、ヤミ市限定でインフレが起こっているというのが正しい気がする。
確かに買うだけなら法外ではあるけど、持っているものをヤミ市で売れば相場の数十倍で売れるわけだからね。
買い手が売り手になり、売り手が買い手になるのがヤミ市
昔、実家で婆さんがサッカリン使ってた。昭和50年の話。
粕取焼酎も作ってる醸造所も少なくなったな。
終戦記念日くらい出して欲しい終戦の味。
親父達は粕取焼酎飲みながら未来を語り夢を語ってたらしい。
Bgmの音量がでっかいです
湯豆腐は現代の高級料亭で今だと5800円ぐらいだぜ