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熊本県人としては大変興味深い内容でした ありがとうございます。
5年前に熊本市で免許取りに自動車学校にかよってましたが送迎バスが加藤清正の美少女化のイラストがあるバスでしたな。地元に愛されてるな。
昭和24年に加藤清正の遺骨が山形県鶴岡市の天澤寺というところで発見され話題になったそうですね あくまでも推測なのだそうですが 出羽国丸岡に配流になった忠広が分骨して同地へ持って行ったのではないかと考えられているそうです
加藤家終焉の地には行ったことがあります。鶴岡の丸岡城跡、今は天澤寺となっていて、加藤清正廟があります。忠広がこちらに移された際に持ってきたようです。戦後、清正着用の鎧が見つかったそうです。致道館から少し行ったところに本住寺に加藤忠広とその母、清正の妻の正応院の墓所があります。こちらは清正由来の日蓮宗寺院でした。動画には無かったですが、帰農した一族の末裔が、明治になって、明治天皇に拝謁したという記事を小さい頃に詠んだ記憶があります。ただ、戦争で跡継ぎを失い、平成とともに断絶したと記憶してます。分家があるんだろうとは思いますが。。
江戸、今の東京には清正公の記念碑が在り、清正公橋も確かあった気がします。何時出来たのか?何故遺されたのか、これから調べてみます。
加藤家に限らず急激にお家を拡大した秀吉子飼の家は殆ど2代目のやらかしやら内紛やらが原因で改易されてます。急速なお家拡大に伴う家臣団再編を伴いつつ当主相続や安定した領地経営、外交のノウハウを1代で築くのは困難なんでしょうね。
加藤家の場合は朝鮮出兵や天下普請に対応するための体制がそのまま引き継がれたという点を差し引いても、忠広の判断ミスと愚行の数々(徳川家と繋がる正室と光正への振る舞い、清正代から仕えてた家臣を軽んじお家騒動を起こす、石高の改竄と強制徴収で藩政を破綻、江戸屋敷における悪評、末期では家臣すら意見出来なかったほど荒れてた、改易後も理由すら理解出来ていなかったなど)が酷すぎて改易されて当然としか言いようがないかと。
清正が残した課題も、加藤忠広の治世だけに絞ると早期に解決しています。維持の負担が大きかったと言われてる端城も幕府の介入で清正死去の翌年に半分以上が廃止(ただしこの介入によって牛方馬方の2大派閥が形成されてしまう)、大阪の陣後の一国一城令で麦島城を除き廃城。牛方馬方騒動で牛方が敗訴・追放されたことで当主への権限集中も進んでいました。幕府の力を借りてるとはいえ、当時の大名が直面してた政治的課題(当主への権限集中)を乗り越えてたのに、そのチャンスを活かせなかったというのは、忠広の統治力不足としか言いようがない気がします。同時期に細川忠利が前当主統治下で疲弊してた北九州を建て直してたこと、清正と親交があった成富茂安が治水事業等で佐賀を建て直していたことを考えると、牛方馬方騒動後に忠広に権限が移って改易になるまでの14年間で改易にならないように出来ていたことは多数あったはず。
馬鹿な 子孫 を持った加藤清正公が浮かばれませんね😭
まあ擁護するなら清正死後に、幕府が藤堂高虎を後見として派遣したところ、肥後の国政は全部清正が個人で差配していたので、重役ですら行政をどう動かしていいのか解っていなかったという話はあるようですね…
@@matukawatositane まじですか、それ?!マジで 子孫 終わってますやん🤣
@@キングダムマニア 清正もワンマンすぎて…
@@matukawatositane でも、子孫の馬鹿っぷりを考えると、ワンマンになるのも仕方がないのかなって思いますよ
@@matukawatositane 福島正則にその点突っ込まれてますね
秀忠死の直後家光の弟駿河忠長は改易されている。忠広の姉は紀伊頼宣の正室、また光正の母は頼宣の姉振姫の娘。越前忠直も後付の暴君乱行説で改易されている例もあり、実際には德川一門の身内争いが絡んでいるのでは?子孫たちというと、忠広の子孫には理学博士加藤セチという元祖リケジョといっても良い末裔がいた。
これ位の詳細は、立派。歴史歴代は語り物の宝庫。かしこ^^;^^;^^;^^;^^;^^;。
歴史じっくり紀行
家康は戦功があっても鞍替えした武将は評価していませんでしたね
熊本の英雄・加藤清正
肥後の人たちを虐殺した大悪人だよ!
勝者によって歴史は書き換えられる敗者の愚かさが際立って伝えられている場合、本当かどうか怪しい
そんなアホらしいイタズラをするとは、到底考えられません。ヤラセでっち上げでしょうね。
別説では…3代将軍の座を徳川家光と徳川忠長で争って家光が将軍に就きました。加藤忠広と徳川忠長は親しくしてました。ある日、有力大名の江戸屋敷に怪文書が投げ込まれました。 ↓「家光を廃嫡して駿府大納言・忠長様を新しく将軍職に就いてもらうため、協力をお願いします。成功の暁には希望する国を与える」 という内容でした。先ず、伊達家が幕府に届けで、次に藤堂家が届け、その後 他の大名家も次々に幕府に届けました。しかし、この怪文書は徳川家光と土井利勝が仕組んだもので「どの大名が信頼できるか❓どの大名が信頼できないか❓」を試したやり方でした。届けでがなかったのは…徳川忠長の屋敷、加藤忠広の屋敷だけでした(江戸屋敷にいた加藤光正が怪文書を一読して、馬鹿馬鹿しいと握り潰したとも言われている)その結果、徳川忠長→自刃につながり加藤家→お取り潰しにつながった。どちらにしても、幕府としては、秀吉子飼いの大名の取り潰しを望んでいたのでしょう。
@@畑野よしゆき さまいかにも 有りそうな説ですね。はっきりした理由なく大藩が改易されると、各藩は、少しの落ち度も許されない と緊張したでしょう。加藤家は、徳川家が全国の諸侯を従えるための犠牲になったと思います。
幕府は徳川の親類である加藤家をできる限り潰さないようしたかったのだけどという話もあるそうで
子と孫に、加藤清正は草葉の陰で何を思う。徳川将軍家へと流れる松平家の発端となった家『松平郷松平氏』がとても興味深い家なので、今後取り上げる題材としてリクエスト致します。
次は福島さんちかな😂
こども店長の加藤清四郎くんを子孫と勝手に信じてました
清正晩年は領内が荒れていたような話もあったところでの継承だからなー
領内が荒れていたのなら、あの掟書きの内容も納得ですね
栄光富士という酒を造ってる
清正家系がなくなったのはもったいない!
清正公は、熊本のシンボル、誇りである。
清正の、加藤系は全国に居るわ。うちの会社にも加藤系の人おるで!本人は、名前の由来など気にしないだろうから。先祖の事も興味無さそうやから。
その後、加藤家はお家断絶なのでしょうか?
こんばんは
加藤清正の子孫に徳川吉宗だよ
家康ー頼宣ー光貞ー吉宗で、確かに徳川頼宣の正室は加藤清正の娘ですが、その子光貞の生母は清正娘ではないので吉宗は清正の子孫でないように記憶しています
@@captainfuture3754頼宣と八十姫(清正次女)との間に子供は出来ずに側室の子が子孫を残すのだけれど、正室が八十姫である以上武家社会においては八十姫の子孫、清正の末裔扱いになります。
加藤清正はそもそも、織田、豊臣がいなければ名前すら残らなかった、下っ端の下っ端。家系もどうせ、秀吉親戚の農民の出。信長シンパから言えば、話に出すのも汚らわしい。信長、秀吉がいてよかったね!ラッキーマンよ。たまたまよかったね〜
世の中、運に恵まれる人間は数多いる。しかし、それを掴み取るのは本人次第。
のびさん、加藤清正の先祖は御堂関白藤原北家ですよ。清正の四代前は明智修理大夫忠常の四男明智頼方が養嗣子として入っています。即ち明智光秀の四代前の人です。美濃の鍛冶屋は、仕官先がなかったために鍛冶屋になったのです。農民ではありません。仕官してから、犬山城主で美濃領主斎藤道三に従えたのです。世間に誤解がありますので、敢えていいます。初代は加藤次郎三郎正家(原姓藤原北家当時11代目)が美濃加藤ノ庄に土着して加藤姓になったのです。この系図はあまり世間に出ていないと思います。現在清正公の正系子孫はおりません。傍系の傍系ならいると思います。
まあそうですね。加藤清正は秀吉の親戚で大変に幸運でした。福島正則も。
定説をただ棒読みしてるようではまだまだですな。
熊本県人としては大変興味深い内容でした ありがとうございます。
5年前に熊本市で免許取りに自動車学校にかよってましたが送迎バスが加藤清正の美少女化のイラストがあるバスでしたな。地元に愛されてるな。
昭和24年に加藤清正の遺骨が山形県鶴岡市の天澤寺というところで発見され話題になったそうですね あくまでも推測なのだそうですが 出羽国丸岡に配流になった忠広が分骨して同地へ持って行ったのではないかと考えられているそうです
加藤家終焉の地には行ったことがあります。
鶴岡の丸岡城跡、今は天澤寺となっていて、加藤清正廟があります。忠広がこちらに移された際に持ってきたようです。戦後、清正着用の鎧が見つかったそうです。
致道館から少し行ったところに本住寺に加藤忠広とその母、清正の妻の正応院の墓所があります。こちらは清正由来の日蓮宗寺院でした。
動画には無かったですが、帰農した一族の末裔が、明治になって、明治天皇に拝謁したという記事を小さい頃に詠んだ記憶があります。ただ、戦争で跡継ぎを失い、平成とともに断絶したと記憶してます。分家があるんだろうとは思いますが。。
江戸、今の東京には清正公の記念碑が在り、清正公橋も確かあった気がします。
何時出来たのか?何故遺されたのか、これから調べてみます。
加藤家に限らず急激にお家を拡大した秀吉子飼の家は殆ど2代目のやらかしやら内紛やらが原因で改易されてます。
急速なお家拡大に伴う家臣団再編を伴いつつ当主相続や安定した領地経営、外交のノウハウを1代で築くのは困難なんでしょうね。
加藤家の場合は朝鮮出兵や天下普請に対応するための体制がそのまま引き継がれたという点を差し引いても、忠広の判断ミスと愚行の数々(徳川家と繋がる正室と光正への振る舞い、清正代から仕えてた家臣を軽んじお家騒動を起こす、石高の改竄と強制徴収で藩政を破綻、江戸屋敷における悪評、末期では家臣すら意見出来なかったほど荒れてた、改易後も理由すら理解出来ていなかったなど)が酷すぎて改易されて当然としか言いようがないかと。
清正が残した課題も、加藤忠広の治世だけに絞ると早期に解決しています。維持の負担が大きかったと言われてる端城も幕府の介入で清正死去の翌年に半分以上が廃止(ただしこの介入によって牛方馬方の2大派閥が形成されてしまう)、大阪の陣後の一国一城令で麦島城を除き廃城。牛方馬方騒動で牛方が敗訴・追放されたことで当主への権限集中も進んでいました。
幕府の力を借りてるとはいえ、当時の大名が直面してた政治的課題(当主への権限集中)を乗り越えてたのに、そのチャンスを活かせなかったというのは、忠広の統治力不足としか言いようがない気がします。
同時期に細川忠利が前当主統治下で疲弊してた北九州を建て直してたこと、清正と親交があった成富茂安が治水事業等で佐賀を建て直していたことを考えると、牛方馬方騒動後に忠広に権限が移って改易になるまでの14年間で改易にならないように出来ていたことは多数あったはず。
馬鹿な 子孫 を持った加藤清正公が浮かばれませんね😭
まあ擁護するなら清正死後に、幕府が藤堂高虎を後見として派遣したところ、肥後の国政は全部清正が個人で差配していたので、重役ですら行政をどう動かしていいのか解っていなかったという話はあるようですね…
@@matukawatositane
まじですか、それ?!
マジで 子孫 終わってますやん🤣
@@キングダムマニア 清正もワンマンすぎて…
@@matukawatositane
でも、子孫の馬鹿っぷりを考えると、ワンマンになるのも仕方がないのかなって思いますよ
@@matukawatositane 福島正則にその点突っ込まれてますね
秀忠死の直後家光の弟駿河忠長は改易されている。忠広の姉は紀伊頼宣の正室、また光正の母は頼宣の姉振姫の娘。越前忠直も後付の暴君乱行説で改易されている例もあり、実際には德川一門の身内争いが絡んでいるのでは?子孫たちというと、忠広の子孫には理学博士加藤セチという元祖リケジョといっても良い末裔がいた。
これ位の詳細は、立派。
歴史歴代は語り物の宝庫。
かしこ^^;^^;^^;^^;^^;^^;。
歴史じっくり紀行
家康は戦功があっても鞍替えした武将は評価していませんでしたね
熊本の英雄・加藤清正
肥後の人たちを虐殺した大悪人だよ!
勝者によって歴史は書き換えられる
敗者の愚かさが際立って伝えられている場合、本当かどうか怪しい
そんなアホらしいイタズラをするとは、到底考えられません。ヤラセでっち上げでしょうね。
別説では…
3代将軍の座を徳川家光と徳川忠長で争って家光が将軍に就きました。
加藤忠広と徳川忠長は親しくしてました。
ある日、有力大名の江戸屋敷に怪文書が投げ込まれました。
↓
「家光を廃嫡して駿府大納言・忠長様を新しく将軍職に就いてもらうため、協力をお願いします。成功の暁には希望する国を与える」 という内容でした。
先ず、伊達家が幕府に届けで、次に藤堂家が届け、その後 他の大名家も次々に幕府に届けました。
しかし、この怪文書は徳川家光と土井利勝が仕組んだもので「どの大名が信頼できるか❓どの大名が信頼できないか❓」を試したやり方でした。
届けでがなかったのは…
徳川忠長の屋敷、加藤忠広の屋敷だけでした(江戸屋敷にいた加藤光正が怪文書を一読して、馬鹿馬鹿しいと握り潰したとも言われている)
その結果、徳川忠長→自刃につながり
加藤家→お取り潰しにつながった。
どちらにしても、幕府としては、秀吉子飼いの大名の取り潰しを望んでいたのでしょう。
@@畑野よしゆき さま
いかにも 有りそうな説ですね。
はっきりした理由なく大藩が改易されると、各藩は、少しの落ち度も許されない と緊張したでしょう。
加藤家は、徳川家が全国の諸侯を従えるための犠牲になったと思います。
幕府は徳川の親類である加藤家をできる限り潰さないようしたかったのだけどという話もあるそうで
子と孫に、加藤清正は草葉の陰で何を思う。
徳川将軍家へと流れる松平家の発端となった家『松平郷松平氏』がとても興味深い家なので、今後取り上げる題材としてリクエスト致します。
次は福島さんちかな😂
こども店長の
加藤清四郎くんを子孫と
勝手に信じてました
清正晩年は領内が荒れていたような話もあったところでの継承だからなー
領内が荒れていたのなら、あの掟書きの内容も納得ですね
栄光富士という酒を造ってる
清正家系がなくなったのはもったいない!
清正公は、熊本のシンボル、誇りである。
清正の、加藤系は全国に居るわ。うちの会社にも加藤系の人おるで!本人は、名前の由来など気にしないだろうから。先祖の事も興味無さそうやから。
その後、加藤家はお家断絶なのでしょうか?
こんばんは
加藤清正の子孫に徳川吉宗だよ
家康ー頼宣ー光貞ー吉宗で、確かに徳川頼宣の正室は加藤清正の娘ですが、その子光貞の生母は清正娘ではないので吉宗は清正の子孫でないように記憶しています
@@captainfuture3754
頼宣と八十姫(清正次女)との間に子供は出来ずに側室の子が子孫を残すのだけれど、正室が八十姫である以上武家社会においては八十姫の子孫、清正の末裔扱いになります。
加藤清正はそもそも、
織田、豊臣がいなければ
名前すら残らなかった、
下っ端の下っ端。
家系もどうせ、秀吉親戚の
農民の出。
信長シンパから言えば、
話に出すのも汚らわしい。
信長、秀吉がいてよかったね!
ラッキーマンよ。たまたまよかったね〜
世の中、運に恵まれる人間は数多いる。しかし、それを掴み取るのは本人次第。
のびさん、加藤清正の先祖は御堂関白藤原北家ですよ。清正の四代前は明智修理大夫忠常の四男明智頼方が養嗣子として入っています。即ち明智光秀の四代前の人です。美濃の鍛冶屋は、仕官先がなかったために鍛冶屋になったのです。農民ではありません。仕官してから、犬山城主で美濃領主斎藤道三に従えたのです。世間に誤解がありますので、敢えていいます。初代は加藤次郎三郎正家(原姓藤原北家当時11代目)が美濃加藤ノ庄に土着して加藤姓になったのです。
この系図はあまり世間に出ていないと思います。
現在清正公の正系子孫はおりません。傍系の傍系
ならいると思います。
まあそうですね。加藤清正は秀吉の親戚で大変に幸運でした。福島正則も。
定説をただ棒読みしてるようではまだまだですな。