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殿対殿の対談、すごく見応えあります。他の歴史系TH-camrでは絶対出来ない事ですから。今後もいろいろな人との対談を楽しみにしています。殿のおかげで、だんだんと歴史好きになってきました。
凄い!嬉しいコメント👍👍👍いつも有難うございます😊
今週もありがとうございます!!10分があっという間ですね。江戸時代のお話も楽しみにしています!!関ヶ原後の領地のお話は、ともすると徳川方に揺さぶりをかけられたのかなとも思ってしまいました。でもそこを乗り越えてお家を繋いでこられたというのは、やはり元就の遺言(運が良かったからいまこの地位にいる)も大きく影響しているように本日のお話から感じました。来週も楽しみにしております!!!
いつも、お心遣い本当に有難う御座います。全く仰る通りですね。そして、お陰様でやり甲斐アリマス👍
@ いつもコメント返しありがとうございます!
37万石に減らされた後も毛利本家と吉川家が上手く運営されていたと知って、これまでの歴史観が変わりました。貴重なお話を有難うございました。
コメント有難うございます。生の話は、やはり何処か説得力があるのかも知れませんね!
有難うございます。今回も興味深い内容でした。吉川様は、江戸時代は大名として認められなかったものの、逆に廃藩のときは、領地が「私有地」だとの主張が認められて、同じくらいの石高の他の藩主家よりも資産的に有利になったとの話も聞きますね。
コメント有難う御座います!へえ、それは初耳でした😄
いゃぁ~奥が深いですね。関ヶ原の話聞き行ってしまいました。殿、本日もありがとうございました。
こちらこそ!いつも有難うございます😊
徳山様、ご挨拶遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。今年も動画楽しみにしております!ご当主首脳会談シリーズ、とても面白いです。関ヶ原の戦いについては、やはり様々な想いがお有りなんですね。吉川様のお考えも伺えて、また関ヶ原の戦いの捉え方に一味付いた気が致します。やはり歴史って面白いなと感じさせて頂きました。徳山様に感謝です♪
明けましておめでとう御座います㊗️旧年中は本当に有難うございました。またまた、お心遣いまで。そうなんです、やっぱり解って頂けるとやり甲斐を感じますね👍👍
あけましておめでとうございます🎉いつも拝見しております。長府毛利家としては、関ヶ原でもご苦労されて、幕末には元周公がご苦労されてますね。中山卿のこともそうです。毛利様の益々のご発展をお祈りします。敬具
新年早々、嬉しいお言葉ありがとうございます!そして、良くご存知ですね。色々とございました。
猛将元春の子孫が見れるとはすごい時代です 感謝
ですよね👍👍👍
本年は初めて参りました。明けましておめでとうございました。就慶様と重幹様の爽やかにお話されているけれど中味は大変だったご様子伝わります。重幹様の「毛利はラッキーだったのよ。」のお言葉に詰まった戦の歴史や「空弁当」の時間稼ぎ等々の戦術も全てにおいてそれぞれの実力が高いと思いました。昔も今も中々バランスをとるのは難しい事だけれど後世に残して行くとき、せめぎ合うたくさんの感情にも蓋をして守りぬこうとする歴史はやはり大切にしたいですね。次回も楽しみにしています!😊
明けましておめでとうございます㊗️今年も宜しくお願いいたします🙇バランス、、、納得。
殿、投稿お疲れ様です!いつの時代でも、やはり情報が重用されるので、遠隔での戦いっていうのは、どうしても錯綜とした混乱の上で戦わなければならないので、あらかじめの方針を決めて戦うべきだったのかなとは思います。吉川家と毛利家の確執の話も、やはりどこかで何かしらの話の盛りがあったのかもしれませんし、従来言われていたようなことが、今後変わってくる可能性だって十分あります。関ヶ原にての吉川氏・毛利氏の関係についても、また自分でしっかりと調べてみたいと思います。
いつも有難うございます😊情報はいつの世でも大ですね。それにしても、勉強熱心👍
内容の濃い対談だったと思いました。身を乗り出して拝見しました。三子教訓状に対する吉川様の解釈、分かり安く素晴らしいと思いました。
大江さん!そう言って貰えて、嬉しい👍👍
動画おつかれさまですいろんな歴史の本にかかれているのとはまた違った視点になるもんですねーとても興味深く拝聴させていただきました次回も楽しみにしてます
いつも有難うございます😊ご末裔ならではですね!
宰相殿の空弁当 近年は秀秋よりも広家公の方が東軍勝利に貢献したという学説もあるなか、萩築城時の輝元公、秀元公、広家公の関係は複雑怪奇。大阪の陣ではこの三者は全く異なっていたことは間違いないと思います。短期間での様変わりは萩藩草創期で仕方ないですね。前にも記しましたが、輝元公と広家公は屋敷割りや吉川系一門(阿川、大野)の設置をみても優遇していると言えます。秀元公も広家公を最優遇しています。秀元公が輝元公と距離をおいていきますが、そのあとはきっちり吉川広正公が初期藩政のイニシアチブを取った形が見えます。やはり、吉元公以降の吉川公の関係が幕末まで疎遠になっているのが何となく分かる気がしますね。やはり長府憎し?かな。
刀禰さん!なるほど、勲功第一は広家公。それは、言えますね。それと、イニシアチブの話。合点が行きました。そうかあ、吉元公以降がねえ。。。
殿、動画作成お疲れ様でございます。ここら辺の話が一番面白いですね!興奮して聞き入ってしまいました。西国の際大大名を維持してほしかった自分としては最もデリケートな話題です。両川の話は良く出てきて、もう少し両大将が長生きしていればという議論もあろうかと思いますが、逆に、広家公と秀元公が10年くらい歳を重ねて名将として成長していたら、物凄いことになったのではないかと思います。秀元公は朝鮮の易でも最も北上して攻めた日本軍の部隊でしたし、戦の才能は物凄くあったんじゃないかと思います。強いて言えば吉川元春のような立場だったような気がします。いつか長府毛利のご当主との対談も見てみたいです。確か、幕末の敬親公は長府の出身だと思いますが、今でも長府毛利は存続しているのでしょうか?不勉強で恐縮ですがご教授いただけたら幸いです。
面白いですよね👍👍この辺りの歴史はロマンに溢れています。長府のご当主は、今は先代のお嬢様が継がれております。 なかなか、歴史に関しては、、、ただ、私とは血も近いので時々、やり取りはしております。
お疲れさまです。殿×殿トークお二方テンション騰がってきてますね。そりゃ直系のご先祖様が天下分け目の合戦に深く関わったので当然ですね。来週は江戸時代編?ですか楽しみにお待ちしております。
はい!思い出してもら楽しいお話の時間でした👍👍👍
「吉川家に伝わる文書については、他家に裏付けとなる史料が存在していないので‥‥」という重幹様の御発言には感服いたしました。流石、吉川家御当主! 至極、冷静に歴史と向き合われていると感じた次第であります。関ケ原で思い起こしますのは、元就公の遺訓「天下を望むなかれ」であります。事の真偽はさておき、大内家衰退の遠因は応仁の乱に深く関与したことにあるので、毛利家は中央政局とは距離を保てという元就公の思いはあったと考えております。結果論にはなりますが、四境の防備を固めて領国の経営に注力し、天皇家及び九州・四国の戦国大名との友誼を図りつつ中央政局の動きを注視することが最適の選択であったと思います。 徳山毛利公 御座下
林さん!有り難い纏めです。紆余曲折を経て。👍👍👍
ご両人様が語る歴史観考察トーク感無量です。元春公、隆景公が関ケ原まで健在でしたら関ケ原そのものはなかったかもしれませんね。徳川家康公の秀吉公逝去後の暴走はなかったのかも。隆景公は五大老になってましたし、また文禄慶長の役でも重き存在の隆景公。元春公の武威にも名声があった。関ケ原後の毛利一族、一門、家中は辛酸を味わいましたが幕藩体制期の中で最後には広義な意味での領国経営を完成させた藩として未来永劫記憶されるものと。余談になりますが萩藩は領国内の立体地図を作っていたとはそれも完成度の高い立体地図。驚愕しました。通称「防長土図」
フミカミさん!相変わらずの素晴らしい纏め👍👍👍そして、あの立体地図模型を知ってるとは、流石だなあ。
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致しますトップ会談お疲れ様でした。歴史はわからないものですね。だいたい毛利家 吉川家は幕末迄…疎遠であったとか…。吉川家の歴代当主の肖像画が残されていないというのもあります。実はそうではなかった…新鮮なお話しでした。
明けましておめでとうございます㊗️本年も宜しくお願いいたします🙇そうなんです、やはり生の声は貴重ですね。
次は参勤交代か〜😊凄く興味があります。前回私が話をした博物館も宿場町の様子が描かれてたので。(古地図とか)
いつも有難う御座います!なかなか、やはり通ですね(笑)
アップありがとうございます。やはり元就公の「天下は望まず、現状を守れ」がベースなんでしょうね。大河ドラマ「毛利元就」でも厳島合戦後の防長経略で領地配分揉めるシーンがありましたけどね。元春と隆景が生きていれば多分毛利家は完全中立を貫いていたでしょう。徳川家康も五大老の一人のままで豊臣政権が続いていたかもしれませんね。そうなると、今の中央集権体制もなく、緩やかな連邦制国家か道州制になっていたかもです。1/4松江松平家家臣、1/4岩国領領民、1/2宇喜多家家臣の私は生まれていなかったかもですが😅
なるほど、考えさせられますね👍👍おお、素晴らしい血脈!
毛利は天下を狙うべかざる。の事が触れられていましたね。秀元公は当時幅を効かせてたんですねえ。吉川家を陪臣であるとしたのは、かえって吉川家を守ろうとしたのか。次回も楽しみです。
効かせてましたねえ!秀元公(笑)確かに、様々な思惑で吉川家を守ったのかも知れませんね👍👍👍👍
お殿様🫅殿✖殿会談良かったです❤吉川様は積年の思いを吐き出すようなお話でした。輝元公は何故西軍総大将に?🤔ですが、もしかすると…勝ち負けや損得ではなく、弱者から頼られたら断れない方だったのではないかな?織田信長と敵対🤼すると分かってても荒木村重💩、足利義昭、本願寺顕如を庇護したので、そう思いました。
かおママ!お褒めに預かり😄😄😄?輝元公もどこかで、喜んでおります。
新説もありますし、関ヶ原は説によって武将の行動の見解が分かれて面白いですよね
コメント有難うございます!仰る通り、歴史は人それぞれの見解があって面白いです👍
次回江戸時代のお話楽しみにしています。🏹🏹🏹
クボタさん!有難う御座います🙏お心遣いにも心から感謝ですm(_ _)m
お疲れ様です😮仲が良さそうに見えても確執はありますからね。分からないものですね。また次の動画待ってるねー😊
そう。ななかなか、解らない!次週も乞うご期待👍
良くも悪くも吉川家の存在際だつ立場だったことが判るお話ですね!
はい。 確かに。いいえて妙です👍👍
殿 おはようございます🌞今まで私の中で徳川家が株式会社みたいなイメージが強かったですが、毛利さんもなかなか😊吉川の殿様の会社のトップ感がすごいです😅
戦国大名は、大なり小なり会社に例えられますね👍はい。吉川さんボスキャラ😃
毛利家と吉川家も、確執があったんですね...人間関係は難しいというか、それぞれに色々とあって、僕も、相手が僕にとって、嫌な事をして、それで不満を持ってしまい、それを形にすると自己中心的で相手の事を考えずに行動しているとみなされたりして...そうなる度に僕はいつも思ってしました。結局、何がいいのかなって...僕が周りの事を考えずに行動していたら、僕が自己中心的で周りの事を考えていないのか、僕の相手が僕との関わり方が上手くないのか分からなくて...仲良くする事は必要ですが、その為に必要な事って何なのかなと、いつも考えています。
コメント有難う御座います。対人関係は何時の世でも難しいですね。きっと、優しいんでしょうね。そんな中でも、大事な信念を持つこともまた、大事かも知れませんね!
関ケ原後には、毛利家は石高がゼロになってもおかしくなかったんだね。それが36万石になっただけでもよかったねよね。
福島!本当にゼロか有りかでは、大きく違うよね👍明治までなんとか、保ちえました。
吉川家対談シリーズは永久保存版ですね輝元公がどのような考えだったか気になります最初から全力で戦うつもりが有ったのか無かったのか?黒田如水公の様に関ヶ原は長期戦になると考えてて九州や四国に出陣して勢力を拡大させて家康公と対等の和議を結ぶつもりだったのか?それを秀元公や広家公にそれとなく伝えていて行動を制限させてたのか?関ヶ原後の輝元公主導の家臣仕置や領地統制を見たら、多少の遠慮があったとして毛利家当主として関ヶ原以前から実権を持ってたと考えられますので、一門の秀元公や広家公と言えど輝元公の許し無く関ヶ原で勝手に行動出来たとは思えないんですよねその上で広家公は独自に動いてたのか?確かに元春公と隆景公が存命だったら家康公も動けなかったでしょうね歴史は考えるだけで面白いです
如水公も、更に大胆で機智に飛んだ考えでいたんでしょうね👍 本当に歴史は考えるだけで面白い!
元就公の『これ以上望んじゃダメよ』って遺訓は輝元公を直接見ていたでしょうからね。三子教訓状にしても三人(三家)の間の微妙な距離感を感じてのことでしょう。輝元公も減俸のいきさつを毛利家内に少しでも伝えていればいいのになあと思ってしまいました…次回も楽しみにしています!
仰る通りですね👍👍元就公の遺訓は身内に伝わっていても、家中にはなかなか、、、。
こんばんは😊毛利さん。空弁当については秀元公・広家公の一方或いは両者がしていたように描かれていたので🤔真相はどうだったのか?両者共戦には慎重だったという説まであって今回は最新の解答だと思います。2:43 そこの点は先代の「三本の矢」の教訓が次の世代である輝元公、広家公と上手く機能できない部分があったのではないかと...兄弟と従兄弟の違いはあるとは思います。それぞれ毛利という家を残すという想いは一緒だが、手順は違っていたという事なのかもしれませんね。
ヒロさん!その通りかと、毛利を思う気持ちは一緒。
お疲れ様です。前にも書いたのですが輝元公を総大将に担ぎ上げたのは増田や大野の家老衆です。関ヶ原の合戦も近年、学校で習う歴史とは違う事実が続々とでてきており、黒田との密約とかもあるようですし、事実は小説より面白そうです。関ヶ原後も家康が最も恐れた上杉や黒田を抑えるのに西には毛利が必要だったということですね。
やはり、事実は小説より奇なり、、、ですね。
かえすがえすも隆景公の不在が残念です。
はい。確かに👍
殿、お疲れ様です。また他の大名家の殿達との対談もございましたら、よろしくお願い申し上げます。個人的には例えば徳川家広さん辺りなんかが面白いかと…
コメント、リクエストありがとうございます😊かしこまりました! トライしますね👍
@ ちなみになんですが、徳川家広さんは令和徳川チャンネルという、TH-camのチャンネルをお持ちだそうなのでコラボ企画を持ち掛けられてみては如何でしょうか?関ヶ原ばりに東軍・徳川VS西軍・毛利みたいな感じで。
有難うございます!実は、以前にある会合でお願いしたところ、本人からは快諾頂いたんですが、事務所の方のOK待ちなんですね、、、。なかなか、返事が(笑)
今回も興味深く拝見させていただきました。葵三代で南宮山での広家公を演じた、なべおさみさんの迫真の演技も素晴らしかったです‼️ご連絡したいことがございます。LINEをご確認いただけますと幸せます。
先生!有難うございます。了解しました。少しお待ち下さい。連絡しますね!
明けましておめでとうございます😊今年もよろしくおねがいします!価値がものすごくある対談動画です✨
明けましておめでとうございます㊗️こちらこそ宜しくお願いいたします🙇お褒めに預かり光栄です。
同じ血を引いていても、考え方はいろいろですね。
そう思います。やはり、各々の家がありますから。
吉川広家の侘び状を冷ややかに見ておられるのは大変立派だと思う。ただ三子教訓状に「大きくなるな」的な内容は書かれて無いのでは?元就自身が謙遜して成功した不思議を思いつつ隠遁出来ない件は有るものの。この辺は(内容を否定されてる)広家の詫び状と混同されている様子。
コメント有難うございます😊確かに教訓状には書かれていませんね。他からの引用と言うことで。
お疲れ様です。いつも楽しく拝見しています。個人的には関ヶ原の合戦について輝元公は石田三成から7月15日に書状を受け取ってから広島を出発し、19日には大坂城に6万の兵を引き連れて入ったことを考えると事前に相当な準備を行った上での行動と推察します。同時に九州と四国に軍を派遣しています。家臣団は石田派の安国寺恵瓊、秀元公らと徳川派の広家との意思統一が図れていなかったと考えます。当時の人々が大兵力の合戦がまさか1日で決着がつくとは思っていなかったという大誤算だったのではないでしょうか。関ヶ原で両軍睨み合いが続き長期化すれば大坂城の輝元公と大津城攻略の別動隊が合流すれば徳川秀忠公の東軍別動隊が合流しても五分以上の戦いができたように思います。日本豆知識第2段(前回に引き続き)前回官職についての話だったので今回は位階について書きます。四等官制で長官(かみ)、次官(すけ)、判官(じょう)、主典(さかん)の四階級の職責です。それぞれの階級に任命されるには正一位から少初位下までの30段階の相当する位階が必要です。正従一位、正従二位、正従三位、正四位上下、従四位上下…従八位下、大初位上下、少初位上下といった感じです。正四位上参議および従三位以上の官位にある者を公卿とした。有位者は氏の下に「朝臣」の姓を名乗り、さらに名(諱)の下に「卿」の敬称が付され、さらに大臣の任にある者への敬称は「公」とされた。代わりに、四位以上で公卿でない者については、氏と諱の下に「朝臣」を名乗った。従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。公卿・殿上人(昇殿を許された者)を除く官人(地下人、じげにん)のうちで四位・五位の者を指して諸大夫と呼称するようになった。よく先祖や偉人の敬称に公をつけますが厳密には大臣以上の為、戦国時代では三英傑とその一族くらいしかいません。個人的には追贈含む従三位以上の人物には公の敬称をつけても良いと思い敬称をつけています。正四位上以下の人物には公の敬称をつけておりません。
今回も、めちゃくちゃ勉強になりました✨なるほどねえ〜👍👍👍
明治維新後に藩に格上げ、がすべてを語るような。
言いえて妙です👍👍
ん?今回も見逃しちょった?キョロ(・ω・`三′・ω・)キョロ
えええ!駄目バイ😨😨
@ 気がついて見た┬|ω・=)チラッ
今回の動画も非常に面白かったです!以前コメントをさせていただいたのですが、私の先祖が敬親公の小姓役等を勤めていました。先日遺品を管理している親戚の家に尋ねたところ、日本書紀に出てくるような神様?から江戸時代ごろまで?の毛利家の家系図が出てきました!おそらく先祖が業務で纏めたもののようですが、非常に興味深い物でした。手元に実物はありませんが、コピーをいただいたので、ご興味がございましたらぜひご覧いただきたいです!!
吉川家当主(広嘉公以降)は官位はあったのでしょうか。ウィキペディアを見ると官位欄は空欄になっていました。吉川家の家格や石高、幕府における扱い的には官位はあったと考えるのが自然と感じます。一方で正式には立藩していないので無位無官ということならそれはそれで理屈は通る気もします。あるいは喜連川家における左兵衛督のように任官していないが称することが許されたというような位置づけのものだったのでしょうか。
コメント有難うございます!調べてみます。 幕末には監物でしたね。諸侯に列してない間は、家中での非公式な官位だったかもしれません。あくまで推測てす。
他藩大藩外様の家老は数万石の扶持そして従五位下の官職を任官されてるんで吉川様も同様だったのかなと。ただ吉川広家公以後歴代ご当主の肖像画がないのが気になります。幕府からは諸侯待遇?。毛利宗家からは臣下扱いなんで陪臣になるのかなと。複雑ですね。大藩家老と言っても大名並みの格式。
減っても37まんごくばい~(=^・ω・^)σなかなかのサイズだと思うばい
なんか、体重の話みたいバイ(笑)
@ おいら太ってきたばい~(=^・ω・^)σ
バイク乗れんバイね😁
@@mourihistory アメリカンなら乗れるばい~(=^・ω・^)σ乗らんけど
「三矢の訓」としてひろまっているのは「三子教訓状」なのですね😊吉川氏の気さくな話口調に見解 面白いですさて1/20 13時に「はつもみぢ」予約しました徳山の知人とも合流します(年配の男性で殿の知合です😊)
コメント有難う御座います!ええええ?誰でしょう?時間が許せばお邪魔しようかな。
お時間合えば 覗いてみてください!徳山の知人は港近くでお仕事されている社長様です
誰だろう? 了解しました✨
私は吉川元春のエピソードで黒田官兵衛に身体の毒と解っていながら勧めれた鮭料理を断ると失礼にあたるとして食した話は武人として好きだなぁ。(笑)
解ります👍👍私も好きなエピソードです。
隆景が生きていれば輝元を総大将出馬しなかったと思う当時家康と対抗出来る武将は真田昌幸と黒田官兵衛だけ
なるほど、そうかも知れませんね👍👍👍
いくら中国地方の覇者とはいえ、西軍の総大将であれば、最悪改易もあろう立場で、吉川広家公の陰の功績を無視するわけにはいかないでしょう。確執というより、如何に毛利家をより良い形で残すかで、秀元公と広家公で喧々諤々…ならなんか私にもわかるような気がします。ホントは違う可能性もありますが😅いずれにせよかなり複雑な事情経緯ですね。
そうなんです。毛利が生き残れたのは、兎にも角にもですね。歴史はやはり、面白いです。
徳川譜代下級武士の子孫の私にはもったいない話でございまする...
いえいえ、上様のご家来にご覧頂いて👍👍👍👍
家康に勝てる大名はいない、月とスッポン
天下人ですからね。流石です。
個人的には関ヶ原の敗戦の責任はと言われれば、輝元公その人だと思います。なぜならば奉行たちと一緒に家康討伐令に署名したから。😱しかも一番最初に署名しているので首謀者とみなされるのは当然なんですね。広家は徳川との開戦に反対していましたから、スタンスの違いは最初から明確なわけです。😑家康は、おそらく輝元公が家康討伐令に署名したのを知っていたと考えられます。なぜならば大坂方には徳川に情報を流している要人が大勢いたから。😨だけど、家康は知らないふりをして広家をうまく乗せて、輝元公をうまく大坂から退去させた後に広家に命令書を見せて、それを口実に毛利領を削減するのに成功したのですからしたたかとしか言いようがありません。😈つまり輝元公は広家にある種の弱みを握られている格好になり、しかも広家が泥をかぶってくれたため、吉川家を邪険に扱うなんてことは出来ないんですよね。😭広家と秀元の確執は、本人たちもさることながら、実は吉川派と小早川派と言ってもいいある種の派閥が出来上がっており、秀元は小早川隆景派閥を引き継いだ格好になっているからではないでしょうか?🤔元春、隆景は決して仲が悪いわけではないけど、豊臣政権に対するスタンスは大きく違い、両者の後継者たちもその影響を受けたのではないかと。だから元春、隆景がいても両者の意見が食い違えばおそらく結果は同じだと思うんですよね。元春は徳川家康と相性が良さそうなので広家以上の親徳川派になりそうだし、隆景も正面切って徳川と戦うのは反対するでしょうから対徳川対策に関しては意見を一致させる事は可能ではないかとは思いますが・・・😅問題は文禄の役のあたりから輝元公が自分の側近に権力を持たせはじめ、独裁色を強めている点であり、元春、隆景の二人がブレーキ役になれるかどうかですね。これは二人が既に故人となっている以上、分からないとしか言いようがないです。😶🌫広家派と秀元派の争いはかなり後まで尾を引き、輝元公が亡くなった後に秀元が執政になりましたが、このときの領地替えが幕末までの知行を確定させた部分があります。その際に広家派の福原、益田、宍戸家などが知行していた豊かな土地を秀元派の重臣と交換したり、就隆公と組んで独立しようとしたり、ついには幕府との関係を背景に秀就公とまで仲が悪くなるわけですから、そこに吉川広正が求められるのは、ある意味自然な成り行きなんでしょうね・・・🤩
なるほだ。手厳しいところもありながら、納得行きます。勉強になりました!
『葵・德川三代』における吉川広家公を演じた『なべおさみ』さんに吉川家の御当主が似ていると感じる私は不敬でしょうか😅個人的には御当主のお顔を拝見出来て嬉しい動画でした。
@@多羅尾伴内-g1c さま参考までth-cam.com/video/XgYBloNeP3c/w-d-xo.htmlsi=ZSWAIV_YsIy7HUYY
コメント有難う御座います。お優しい顔立ちですよね👍なかなか、貴重な機会を得られたと思います。
@@mourihistory 様ありがとうございます🙇🏻♂️毛利家・吉川家の御当主対談は胸が熱くなりました。TH-cam がなければ到底拝見出来なかったろうと考えますと時代にも感謝です。
嬉しいコメント有難う御座います!
元就公は、賢いし、正しかった。連邦国家のような巨大な国は、武田もありましたが、織田信長が存命だったのもありますが、滅んでしまいました。勢力を拡大しすぎた家は滅んでいると思いました。
コメント有難うございます。なるほど、過ぎたるは、、、ですね。
殿対殿の対談、すごく見応えあります。他の歴史系TH-camrでは絶対出来ない事ですから。今後もいろいろな人との対談を楽しみにしています。殿のおかげで、だんだんと歴史好きになってきました。
凄い!嬉しいコメント👍👍👍
いつも有難うございます😊
今週もありがとうございます!!10分があっという間ですね。江戸時代のお話も楽しみにしています!!
関ヶ原後の領地のお話は、ともすると徳川方に揺さぶりをかけられたのかなとも思ってしまいました。でもそこを乗り越えてお家を繋いでこられたというのは、やはり元就の遺言(運が良かったからいまこの地位にいる)も大きく影響しているように本日のお話から感じました。
来週も楽しみにしております!!!
いつも、お心遣い本当に有難う御座います。
全く仰る通りですね。
そして、お陰様でやり甲斐アリマス👍
@ いつもコメント返しありがとうございます!
37万石に減らされた後も毛利本家と吉川家が上手く運営されていたと知って、これまでの歴史観が変わりました。
貴重なお話を有難うございました。
コメント有難うございます。
生の話は、やはり何処か説得力があるのかも知れませんね!
有難うございます。今回も興味深い内容でした。吉川様は、江戸時代は大名として認められなかったものの、逆に廃藩のときは、領地が「私有地」だとの主張が認められて、同じくらいの石高の他の藩主家よりも資産的に有利になったとの話も聞きますね。
コメント有難う御座います!
へえ、それは初耳でした😄
いゃぁ~奥が深いですね。関ヶ原の話聞き行ってしまいました。殿、本日もありがとうございました。
こちらこそ!
いつも有難うございます😊
徳山様、ご挨拶遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。今年も動画楽しみにしております!
ご当主首脳会談シリーズ、とても面白いです。関ヶ原の戦いについては、やはり様々な想いがお有りなんですね。
吉川様のお考えも伺えて、また関ヶ原の戦いの捉え方に一味付いた気が致します。やはり歴史って面白いなと感じさせて頂きました。
徳山様に感謝です♪
明けましておめでとう御座います㊗️
旧年中は本当に有難うございました。
またまた、お心遣いまで。
そうなんです、やっぱり解って頂けるとやり甲斐を感じますね👍👍
あけましておめでとうございます🎉
いつも拝見しております。
長府毛利家としては、関ヶ原でもご苦労されて、幕末には元周公がご苦労されてますね。中山卿のこともそうです。
毛利様の益々のご発展をお祈りします。敬具
新年早々、嬉しいお言葉ありがとうございます!
そして、良くご存知ですね。
色々とございました。
猛将元春の子孫が見れるとはすごい時代です 感謝
ですよね👍👍👍
本年は初めて参りました。
明けましておめでとうございました。
就慶様と重幹様の爽やかにお話されているけれど中味は大変だったご様子伝わります。
重幹様の「毛利はラッキーだったのよ。」のお言葉に詰まった戦の歴史や「空弁当」の時間稼ぎ等々の戦術も全てにおいてそれぞれの実力が高いと思いました。
昔も今も中々バランスをとるのは難しい事だけれど後世に残して行くとき、せめぎ合うたくさんの感情にも蓋をして守りぬこうとする歴史はやはり大切にしたいですね。
次回も楽しみにしています!😊
明けましておめでとうございます㊗️
今年も宜しくお願いいたします🙇
バランス、、、納得。
殿、投稿お疲れ様です!
いつの時代でも、やはり情報が重用されるので、遠隔での戦いっていうのは、どうしても錯綜とした混乱の上で戦わなければならないので、あらかじめの方針を決めて戦うべきだったのかなとは思います。
吉川家と毛利家の確執の話も、やはりどこかで何かしらの話の盛りがあったのかもしれませんし、従来言われていたようなことが、今後変わってくる可能性だって十分あります。
関ヶ原にての吉川氏・毛利氏の関係についても、また自分でしっかりと調べてみたいと思います。
いつも有難うございます😊
情報はいつの世でも大ですね。
それにしても、勉強熱心👍
内容の濃い対談だったと思いました。身を乗り出して拝見しました。
三子教訓状に対する吉川様の解釈、分かり安く素晴らしいと思いました。
大江さん!
そう言って貰えて、嬉しい👍👍
動画おつかれさまです
いろんな歴史の本にかかれているのとは
また違った視点になるもんですねー
とても興味深く拝聴させていただきました
次回も楽しみにしてます
いつも有難うございます😊
ご末裔ならではですね!
宰相殿の空弁当 近年は秀秋よりも広家公の方が東軍勝利に貢献したという学説もあるなか、萩築城時の輝元公、秀元公、広家公の関係は複雑怪奇。大阪の陣ではこの三者は全く異なっていたことは間違いないと思います。短期間での様変わりは萩藩草創期で仕方ないですね。
前にも記しましたが、輝元公と広家公は屋敷割りや吉川系一門(阿川、大野)の設置をみても優遇していると言えます。秀元公も広家公を最優遇しています。
秀元公が輝元公と距離をおいていきますが、そのあとはきっちり吉川広正公が初期藩政のイニシアチブを取った形が見えます。やはり、吉元公以降の吉川公の関係が幕末まで疎遠になっているのが何となく分かる気がしますね。やはり長府憎し?かな。
刀禰さん!
なるほど、勲功第一は広家公。
それは、言えますね。
それと、イニシアチブの話。合点が行きました。
そうかあ、吉元公以降がねえ。。。
殿、動画作成お疲れ様でございます。
ここら辺の話が一番面白いですね!興奮して聞き入ってしまいました。
西国の際大大名を維持してほしかった自分としては最もデリケートな話題です。
両川の話は良く出てきて、もう少し両大将が長生きしていればという議論もあろうかと思いますが、
逆に、広家公と秀元公が10年くらい歳を重ねて名将として成長していたら、物凄いことになったのではないかと思います。
秀元公は朝鮮の易でも最も北上して攻めた日本軍の部隊でしたし、戦の才能は物凄くあったんじゃないかと思います。
強いて言えば吉川元春のような立場だったような気がします。
いつか長府毛利のご当主との対談も見てみたいです。
確か、幕末の敬親公は長府の出身だと思いますが、今でも長府毛利は存続しているのでしょうか?
不勉強で恐縮ですがご教授いただけたら幸いです。
面白いですよね👍👍
この辺りの歴史はロマンに溢れています。
長府のご当主は、今は先代のお嬢様が継がれております。 なかなか、歴史に関しては、、、
ただ、私とは血も近いので時々、やり取りはしております。
お疲れさまです。
殿×殿トークお二方テンション騰がってきてますね。
そりゃ直系のご先祖様が天下分け目の合戦に深く関わったので当然ですね。
来週は江戸時代編?ですか楽しみにお待ちしております。
はい!
思い出してもら楽しいお話の時間でした👍👍👍
「吉川家に伝わる文書については、他家に裏付けとなる史料が存在していないので‥‥」という重幹様の御発言には感服いたしました。流石、吉川家御当主! 至極、冷静に歴史と向き合われていると感じた次第であります。関ケ原で思い起こしますのは、元就公の遺訓「天下を望むなかれ」であります。事の真偽はさておき、大内家衰退の遠因は応仁の乱に深く関与したことにあるので、毛利家は中央政局とは距離を保てという元就公の思いはあったと考えております。結果論にはなりますが、四境の防備を固めて領国の経営に注力し、天皇家及び九州・四国の戦国大名との友誼を図りつつ中央政局の動きを注視することが最適の選択であったと思います。 徳山毛利公 御座下
林さん!
有り難い纏めです。
紆余曲折を経て。👍👍👍
ご両人様が語る歴史観考察トーク感無量です。
元春公、隆景公が関ケ原まで健在でしたら関ケ原そのものはなかったかもしれませんね。
徳川家康公の秀吉公逝去後の暴走はなかったのかも。
隆景公は五大老になってましたし、また文禄慶長の役でも重き存在の隆景公。
元春公の武威にも名声があった。
関ケ原後の毛利一族、一門、家中は辛酸を味わいましたが幕藩体制期の中で最後には広義な意味での領国経営を完成させた藩として未来永劫記憶されるものと。
余談になりますが萩藩は領国内の立体地図を作っていたとは
それも完成度の高い立体地図。
驚愕しました。
通称「防長土図」
フミカミさん!
相変わらずの素晴らしい纏め👍👍👍
そして、あの立体地図模型を知ってるとは、流石だなあ。
明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い致しますトップ会談お疲れ様でした。
歴史はわからないものですね。だいたい毛利家 吉川家は幕末迄…疎遠であったとか…。吉川家の歴代当主の肖像画が残されていないというのもあります。実はそうではなかった…新鮮なお話しでした。
明けましておめでとうございます㊗️
本年も宜しくお願いいたします🙇
そうなんです、やはり生の声は貴重ですね。
次は参勤交代か〜😊
凄く興味があります。
前回私が話をした博物館も宿場町の様子が描かれてたので。
(古地図とか)
いつも有難う御座います!
なかなか、やはり通ですね(笑)
アップありがとうございます。
やはり元就公の「天下は望まず、現状を守れ」がベースなんでしょうね。大河ドラマ「毛利元就」でも厳島合戦後の防長経略で領地配分揉めるシーンがありましたけどね。
元春と隆景が生きていれば多分毛利家は完全中立を貫いていたでしょう。徳川家康も五大老の一人のままで豊臣政権が続いていたかもしれませんね。そうなると、今の中央集権体制もなく、緩やかな連邦制国家か道州制になっていたかもです。
1/4松江松平家家臣、1/4岩国領領民、1/2宇喜多家家臣の私は生まれていなかったかもですが😅
なるほど、考えさせられますね👍👍
おお、素晴らしい血脈!
毛利は天下を狙うべかざる。の事が触れられていましたね。秀元公は当時幅を効かせてたんですねえ。
吉川家を陪臣であるとしたのは、かえって吉川家を守ろうとしたのか。次回も楽しみです。
効かせてましたねえ!秀元公(笑)
確かに、様々な思惑で吉川家を守ったのかも知れませんね👍👍👍👍
お殿様🫅殿✖殿会談良かったです❤吉川様は積年の思いを吐き出すようなお話でした。
輝元公は何故西軍総大将に?🤔ですが、もしかすると…
勝ち負けや損得ではなく、弱者から頼られたら断れない方だったのではないかな?
織田信長と敵対🤼すると分かってても荒木村重💩、足利義昭、本願寺顕如を庇護したので、そう思いました。
かおママ!
お褒めに預かり😄😄😄?
輝元公もどこかで、喜んでおります。
新説もありますし、関ヶ原は説によって武将の行動の見解が分かれて面白いですよね
コメント有難うございます!
仰る通り、歴史は人それぞれの見解があって面白いです👍
次回江戸時代のお話楽しみにしています。
🏹🏹🏹
クボタさん!
有難う御座います🙏
お心遣いにも心から感謝ですm(_ _)m
お疲れ様です😮
仲が良さそうに見えても確執
はありますからね。分からない
ものですね。
また次の動画待ってるねー😊
そう。
ななかなか、解らない!
次週も乞うご期待👍
良くも悪くも吉川家の存在際だつ立場だったことが判るお話ですね!
はい。 確かに。いいえて妙です👍👍
殿 おはようございます🌞
今まで私の中で徳川家が株式会社みたいなイメージが強かったですが、毛利さんもなかなか😊
吉川の殿様の会社のトップ感がすごいです😅
戦国大名は、大なり小なり会社に例えられますね👍
はい。吉川さんボスキャラ😃
毛利家と吉川家も、確執があったんですね...
人間関係は難しいというか、それぞれに色々とあって、僕も、相手が僕にとって、嫌な事をして、それで不満を持ってしまい、それを形にすると自己中心的で相手の事を考えずに行動しているとみなされたりして...
そうなる度に僕はいつも思ってしました。
結局、何がいいのかなって...
僕が周りの事を考えずに行動していたら、僕が自己中心的で周りの事を考えていないのか、僕の相手が僕との関わり方が上手くないのか分からなくて...
仲良くする事は必要ですが、その為に必要な事って何なのかなと、いつも考えています。
コメント有難う御座います。
対人関係は何時の世でも難しいですね。
きっと、優しいんでしょうね。
そんな中でも、大事な信念を持つこともまた、大事かも知れませんね!
関ケ原後には、毛利家は石高がゼロになってもおかしくなかったんだね。
それが36万石になっただけでもよかったねよね。
福島!
本当にゼロか有りかでは、大きく違うよね👍
明治までなんとか、保ちえました。
吉川家対談シリーズは永久保存版ですね
輝元公がどのような考えだったか気になります
最初から全力で戦うつもりが有ったのか無かったのか?
黒田如水公の様に関ヶ原は長期戦になると考えてて
九州や四国に出陣して勢力を拡大させて家康公と対等の和議を結ぶつもりだったのか?
それを秀元公や広家公にそれとなく伝えていて行動を制限させてたのか?
関ヶ原後の輝元公主導の家臣仕置や領地統制を見たら、多少の遠慮があったとして毛利家当主として関ヶ原以前から実権を持ってたと考えられますので、一門の秀元公や広家公と言えど輝元公の許し無く関ヶ原で勝手に行動出来たとは思えないんですよね
その上で広家公は独自に動いてたのか?
確かに元春公と隆景公が存命だったら家康公も動けなかったでしょうね
歴史は考えるだけで面白いです
如水公も、更に大胆で機智に飛んだ考えでいたんでしょうね👍 本当に歴史は考えるだけで面白い!
元就公の『これ以上望んじゃダメよ』って遺訓は輝元公を直接見ていたでしょうからね。
三子教訓状にしても三人(三家)の間の微妙な距離感を感じてのことでしょう。
輝元公も減俸のいきさつを毛利家内に少しでも伝えていればいいのになあと思ってしまいました…
次回も楽しみにしています!
仰る通りですね👍👍
元就公の遺訓は身内に伝わっていても、家中にはなかなか、、、。
こんばんは😊毛利さん。
空弁当については秀元公・広家公の一方或いは両者がしていたように描かれていたので🤔真相はどうだったのか?両者共戦には慎重だったという説まであって今回は最新の解答だと思います。
2:43 そこの点は先代の「三本の矢」の教訓が次の世代である輝元公、広家公と上手く機能できない部分があったのではないかと...兄弟と従兄弟の違いはあるとは思います。
それぞれ毛利という家を残すという想いは一緒だが、手順は違っていたという事なのかもしれませんね。
ヒロさん!
その通りかと、毛利を思う気持ちは一緒。
お疲れ様です。前にも書いたのですが輝元公を総大将に担ぎ上げたのは増田や大野の家老衆です。
関ヶ原の合戦も近年、学校で習う歴史とは違う事実が続々とでてきており、黒田との密約とかもあるようですし、事実は小説より面白そうです。関ヶ原後も家康が最も恐れた上杉や黒田を抑えるのに西には毛利が必要だったということですね。
やはり、事実は小説より奇なり、、、ですね。
かえすがえすも隆景公の不在が残念です。
はい。確かに👍
殿、お疲れ様です。
また他の大名家の殿達との対談もございましたら、よろしくお願い申し上げます。
個人的には例えば徳川家広さん辺りなんかが面白いかと…
コメント、リクエストありがとうございます😊
かしこまりました! トライしますね👍
@
ちなみになんですが、徳川家広さんは令和徳川チャンネルという、TH-camのチャンネルをお持ちだそうなのでコラボ企画を持ち掛けられてみては如何でしょうか?
関ヶ原ばりに東軍・徳川VS西軍・毛利みたいな感じで。
有難うございます!
実は、以前にある会合でお願いしたところ、本人からは快諾頂いたんですが、事務所の方のOK待ちなんですね、、、。なかなか、返事が(笑)
今回も興味深く拝見させていただきました。葵三代で南宮山での広家公を演じた、なべおさみさんの迫真の演技も素晴らしかったです‼️
ご連絡したいことがございます。LINEをご確認いただけますと幸せます。
先生!有難うございます。
了解しました。少しお待ち下さい。
連絡しますね!
明けましておめでとうございます😊今年もよろしくおねがいします!価値がものすごくある対談動画です✨
明けましておめでとうございます㊗️
こちらこそ宜しくお願いいたします🙇
お褒めに預かり光栄です。
同じ血を引いていても、考え方はいろいろですね。
そう思います。やはり、各々の家がありますから。
吉川広家の侘び状を冷ややかに見ておられるのは大変立派だと思う。ただ三子教訓状に「大きくなるな」的な内容は書かれて無いのでは?元就自身が謙遜して成功した不思議を思いつつ隠遁出来ない件は有るものの。この辺は(内容を否定されてる)広家の詫び状と混同されている様子。
コメント有難うございます😊
確かに教訓状には書かれていませんね。
他からの引用と言うことで。
お疲れ様です。いつも楽しく拝見しています。
個人的には関ヶ原の合戦について輝元公は石田三成から7月15日に書状を受け取ってから広島を出発し、19日には
大坂城に6万の兵を引き連れて入ったことを考えると事前に相当な準備を行った上での行動と推察します。同時に
九州と四国に軍を派遣しています。家臣団は石田派の安国寺恵瓊、秀元公らと徳川派の広家との意思統一が図れて
いなかったと考えます。当時の人々が大兵力の合戦がまさか1日で決着がつくとは思っていなかったという大誤算
だったのではないでしょうか。関ヶ原で両軍睨み合いが続き長期化すれば大坂城の輝元公と大津城攻略の別動隊が
合流すれば徳川秀忠公の東軍別動隊が合流しても五分以上の戦いができたように思います。
日本豆知識第2段(前回に引き続き)
前回官職についての話だったので今回は位階について書きます。
四等官制で長官(かみ)、次官(すけ)、判官(じょう)、主典(さかん)の四階級の職責です。それぞれの階級に
任命されるには正一位から少初位下までの30段階の相当する位階が必要です。正従一位、正従二位、正従三位、
正四位上下、従四位上下…従八位下、大初位上下、少初位上下といった感じです。正四位上参議および従三位以上
の官位にある者を公卿とした。有位者は氏の下に「朝臣」の姓を名乗り、さらに名(諱)の下に「卿」の敬称が
付され、さらに大臣の任にある者への敬称は「公」とされた。代わりに、四位以上で公卿でない者については、
氏と諱の下に「朝臣」を名乗った。従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。公卿・殿上人(昇殿を許
された者)を除く官人(地下人、じげにん)のうちで四位・五位の者を指して諸大夫と呼称するようになった。
よく先祖や偉人の敬称に公をつけますが厳密には大臣以上の為、戦国時代では三英傑とその一族くらいしか
いません。個人的には追贈含む従三位以上の人物には公の敬称をつけても良いと思い敬称をつけています。正四
位上以下の人物には公の敬称をつけておりません。
今回も、めちゃくちゃ勉強になりました✨
なるほどねえ〜👍👍👍
明治維新後に藩に格上げ、がすべてを語るような。
言いえて妙です👍👍
ん?
今回も見逃しちょった?
キョロ(・ω・`三′・ω・)キョロ
えええ!駄目バイ😨😨
@
気がついて見た
┬|ω・=)チラッ
今回の動画も非常に面白かったです!
以前コメントをさせていただいたのですが、私の先祖が敬親公の小姓役等を勤めていました。
先日遺品を管理している親戚の家に尋ねたところ、日本書紀に出てくるような神様?から江戸時代ごろまで?の毛利家の家系図が出てきました!
おそらく先祖が業務で纏めたもののようですが、非常に興味深い物でした。
手元に実物はありませんが、コピーをいただいたので、ご興味がございましたらぜひご覧いただきたいです!!
吉川家当主(広嘉公以降)は官位はあったのでしょうか。ウィキペディアを見ると官位欄は空欄になっていました。吉川家の家格や石高、幕府における扱い的には官位はあったと考えるのが自然と感じます。一方で正式には立藩していないので無位無官ということならそれはそれで理屈は通る気もします。あるいは喜連川家における左兵衛督のように任官していないが称することが許されたというような位置づけのものだったのでしょうか。
コメント有難うございます!
調べてみます。 幕末には監物でしたね。
諸侯に列してない間は、家中での非公式な官位だったかもしれません。あくまで推測てす。
他藩大藩外様の家老は数万石の扶持そして従五位下の官職を任官されてるんで吉川様も同様だったのかなと。
ただ吉川広家公以後歴代ご当主の肖像画がないのが気になります。
幕府からは諸侯待遇?。毛利宗家からは臣下扱いなんで陪臣になるのかなと。
複雑ですね。
大藩家老と言っても大名並みの格式。
減っても37まんごくばい
~(=^・ω・^)σ
なかなかのサイズだと思うばい
なんか、体重の話みたいバイ(笑)
@
おいら太ってきたばい
~(=^・ω・^)σ
バイク乗れんバイね😁
@@mourihistory
アメリカンなら乗れるばい
~(=^・ω・^)σ
乗らんけど
「三矢の訓」としてひろまっているのは「三子教訓状」なのですね😊
吉川氏の気さくな話口調に見解 面白いです
さて
1/20 13時に
「はつもみぢ」予約しました
徳山の知人とも合流します
(年配の男性で殿の知合です😊)
コメント有難う御座います!
ええええ?
誰でしょう?
時間が許せばお邪魔しようかな。
お時間合えば 覗いてみてください!
徳山の知人は港近くでお仕事されている社長様です
誰だろう? 了解しました✨
私は吉川元春のエピソードで
黒田官兵衛に身体の毒と解っていながら勧めれた鮭料理を断ると失礼にあたるとして食した話は武人として好きだなぁ。(笑)
解ります👍👍私も好きなエピソードです。
隆景が生きていれば輝元を総大将出馬しなかったと思う
当時家康と対抗出来る武将は真田昌幸と黒田官兵衛だけ
なるほど、そうかも知れませんね👍👍👍
いくら中国地方の覇者とはいえ、西軍の総大将であれば、最悪改易もあろう立場で、吉川広家公の陰の功績を無視するわけにはいかないでしょう。確執というより、如何に毛利家をより良い形で残すかで、秀元公と広家公で喧々諤々…ならなんか私にもわかるような気がします。ホントは違う可能性もありますが😅
いずれにせよかなり複雑な事情経緯ですね。
そうなんです。
毛利が生き残れたのは、兎にも角にもですね。
歴史はやはり、面白いです。
徳川譜代下級武士の子孫の私にはもったいない話でございまする...
いえいえ、上様のご家来にご覧頂いて👍👍👍👍
家康に勝てる大名はいない、月とスッポン
天下人ですからね。流石です。
個人的には関ヶ原の敗戦の責任はと言われれば、輝元公その人だと思います。なぜならば奉行たちと一緒に家康討伐令に署名したから。😱
しかも一番最初に署名しているので首謀者とみなされるのは当然なんですね。
広家は徳川との開戦に反対していましたから、スタンスの違いは最初から明確なわけです。😑
家康は、おそらく輝元公が家康討伐令に署名したのを知っていたと考えられます。なぜならば大坂方には徳川に情報を流している要人が大勢いたから。😨
だけど、家康は知らないふりをして広家をうまく乗せて、輝元公をうまく大坂から退去させた後に広家に命令書を見せて、それを口実に毛利領を削減するのに成功したのですからしたたかとしか言いようがありません。😈
つまり輝元公は広家にある種の弱みを握られている格好になり、しかも広家が泥をかぶってくれたため、吉川家を邪険に扱うなんてことは出来ないんですよね。😭
広家と秀元の確執は、本人たちもさることながら、実は吉川派と小早川派と言ってもいいある種の派閥が出来上がっており、秀元は小早川隆景派閥を引き継いだ格好になっているからではないでしょうか?🤔
元春、隆景は決して仲が悪いわけではないけど、豊臣政権に対するスタンスは大きく違い、両者の後継者たちもその影響を受けたのではないかと。
だから元春、隆景がいても両者の意見が食い違えばおそらく結果は同じだと思うんですよね。
元春は徳川家康と相性が良さそうなので広家以上の親徳川派になりそうだし、隆景も正面切って徳川と戦うのは反対するでしょうから対徳川対策に関しては意見を一致させる事は可能ではないかとは思いますが・・・😅
問題は文禄の役のあたりから輝元公が自分の側近に権力を持たせはじめ、独裁色を強めている点であり、元春、隆景の二人がブレーキ役になれるかどうかですね。
これは二人が既に故人となっている以上、分からないとしか言いようがないです。😶🌫
広家派と秀元派の争いはかなり後まで尾を引き、輝元公が亡くなった後に秀元が執政になりましたが、このときの領地替えが幕末までの知行を確定させた部分があります。
その際に広家派の福原、益田、宍戸家などが知行していた豊かな土地を秀元派の重臣と交換したり、就隆公と組んで独立しようとしたり、ついには幕府との関係を背景に秀就公とまで仲が悪くなるわけですから、そこに吉川広正が求められるのは、ある意味自然な成り行きなんでしょうね・・・🤩
なるほだ。
手厳しいところもありながら、納得行きます。
勉強になりました!
『葵・德川三代』における吉川広家公を演じた『なべおさみ』さんに吉川家の御当主が似ていると感じる私は不敬でしょうか😅個人的には御当主のお顔を拝見出来て嬉しい動画でした。
@@多羅尾伴内-g1c さま
参考まで
th-cam.com/video/XgYBloNeP3c/w-d-xo.htmlsi=ZSWAIV_YsIy7HUYY
コメント有難う御座います。
お優しい顔立ちですよね👍
なかなか、貴重な機会を得られたと思います。
@@mourihistory 様
ありがとうございます🙇🏻♂️
毛利家・吉川家の御当主対談は胸が熱くなりました。
TH-cam がなければ到底拝見出来なかったろうと考えますと時代にも感謝です。
嬉しいコメント有難う御座います!
元就公は、賢いし、正しかった。
連邦国家のような巨大な国は、武田もありましたが、織田信長が存命だったのもありますが、滅んでしまいました。
勢力を拡大しすぎた家は滅んでいると思いました。
コメント有難うございます。
なるほど、過ぎたるは、、、ですね。