法話「苦の中で生きるからこそ救われる」真宗大谷派僧侶 高科 修 師20240614
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- เผยแพร่เมื่อ 15 ก.ค. 2024
- 【目次】
00:00 オープニング 「今回の小話の内容は?」
01:32 タイトルコール
01:48「苦の中で生きるからこそ救われる」
13:55 エンディング 恩徳讃
◉効果音:Audiostock - audiostock.jp
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法話「苦の中で生きるからこそ救われる」真宗大谷派僧侶 高科 修 師20240614
『親の背中を見せていればそれで良い』
『子は…親の背中を見て育つ』
そう世の中全体が『認識していた』時代がありました。
その意味は、
人の『生き様』が…
その人の『生きている姿』が…
その生き様・生きている姿に接することによって、それこそ、ありとあらゆる様々な事を学び気づき、育ち教えられると言う意味です。
久しく…
聞くことも、そう語る人もいなくなった昨今でありますが……
人の生き様・生きている姿に接することによって様々な事を学び、気づき、育ち教えられると言うことに間違いはありません。
一人の72歳の男性の…
悲しみと寂しさと辛さの中での生き様が…
浄土真宗の宗を、私に、あらためて気づかせて頂いた『出会い』でありました。
今日の動画(法話)は、この『出会い』のお話しであります。
どうか、最後まで、動画のご視聴を頂きたく、お願い申し上げます。
聞いて良かったと思われましたら、グッドボタン・ご感想などコメントいただけますと、小話動画UPの励みになりますので、よろしくお願いいたします。
チャンネル登録も、よろしくお願いいたします!(^^)!
お坊さんの小話集(法話集)
子供のころ見たり読んだりした映画や小説を、大人になってあらためて見たり読んだりすると、まったく違った感じ方をすることが、しばしばあります。
それは…経験をつんで物事を深く見たり感じたり出来るようになっいるから…また逆に子供の頃の純真さを失っていたりするからと…その理由は様々です。
この『小話』も…繰返し読んでみてください。自分が健康なとき、病気のとき、恋をしているとき、失恋したとき、楽しいとき、怒っているとき、身近な人の死を経験したとき…さまざまなときに読んでみてください。そのたびに、書かれている文章は同じでも、感じ方・捉え方はきっと違ったものになるはずです。
釋 完修
合掌
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#仏教#苦#救い#生きる#法話#浄土真宗
ありがとうございます。大真唯唯南無阿弥陀仏。
井口好一様
ご視聴、コメントありがとうございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
ありがとうございます。人は、生かされて生きているんですね。。。🙏🌹
羊うさぎ様
ご視聴、コメントありがとうございます。
今!を現実に、歯を喰い縛って唇を噛んで、七転八倒しながら生きているのは『自分(私)』です。
その今!を生きている自分を、生きろ!と願い続け、支え続けているのが、先に亡くなった全ての方々=大きな深い願い=仏…です。
生きている私を、生かし続けてくれているのです。
故に…
私は…
あえて自分自身その事を『痛み=感謝』として自覚するために…
先に亡くなられた方々の屍の上に立って生きている!
と表現しております。
その願いを、片時も忘れないために!
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
高科様
いつもありがとうございます。
今回はすごいお話でした。
まさに「機」が熟した瞬間だったのではないでしょうか。
72歳の旦那さんも亡くなられた奥様と共にずっと
仏に育てられ「気付き」を求めてこられたから
マッサージの女性の言葉に心を撃ち抜かれたのでしょう。
私を支えてくれた故人たちの深い願いをこんな形で
気付くことができたのは驚きです。
仏がこんな近くに居てくれたんですね。
南無阿弥陀仏
合掌
しろくま様
ご視聴、コメントありがとうございます。
先に生まれんものは…
後を導き
後に生まれんものは…
先を訪う
まさに…
私たちは、大きな深い願いの中で今!を生きております。
無量寿と呼ばれる、時間と空間の積み重ねの中で………
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
高科先生、本日もありがとうございます。
大切な人を亡くす。
その方との過ごした時間の長短で、その悲しみや、寂しさ、喪失感の度合いは変わものではありません。
亡き人が遺してくれたものは、あちらこちらに散りばめられているように感じます。
それは、ふと見た景色の中であったり、ほのかな香りや、流れる音楽、食べ物‥‥。ふと思い出した亡き人の言葉や行動‥‥。
特別でなく、本当に身近なものにそれはあり、大切な人と関わり過ごした大切な時間を思い起こさせ、その中にこそ、大切な人を亡くしても、生き抜いてゆかねばならない残された者への、叱咤激励があり、いつの日か、自分も胸を張ってお浄土に参ることが出来る道標なのではないかと感じます。
思えば、すぐ傍にいる。
これ以上に、残されても生き抜く者たちへの、揺るがぬ味方、救いはありません。
南無阿弥陀仏。合掌。
ちやんぴー様
ご視聴、コメントありがとうございます。
真摯に…
ちゃんぴー様のコメントの一言一言を、噛みしめながら拝読させて頂きました。
ありがとうございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
考えさせられるお話し、ありがとうございます。
「面々の御はからい(歎異抄)」「救われる」のお話し、繋がっています。
人の想いをどう受け取るか、どう生かすかで、救われるかどうかが決まる。←私には(今は)表面的な内容しか判りません。「救われる」の概念も修正中です。
とても重要な話だと感じました。
A・シキミ様
ご視聴、コメントありがとうございます。
『とても重要な話だと感じました。』とのコメント。
はい。とても重要なお話しです。
『「救われる」の概念も修正中です。』とのコメントですが、その前のご自身の文を、もう一度、読み返して下さい。
『人の想いをどう受け取るか、どう生かすかで、救われるかどうかが決まる。』
『人の想い』の、その『人』は、誰一人として同じ『人』では、ございません。
生まれた境遇、生活環境、年齢、性別、仕事、友人関係、恋人関係、夫婦関係、親子関係、兄弟関係…
『人』の抱えている、悲しみ、寂しさ、辛さも、誰一人として、同じ『苦』では、ございません。
お気づきになりませんか…
『救われる』の共通の概念など、有りえないという事が…
『救い』は、確かにあるのです。
しかしながら、
それぞれが、それぞれに、その時その時に…なのです。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
@@buddhism_japan 本当に難しい・・・。返信ありがとうございました。