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数万石規模の大名ならともかく、島津ほどの大藩となったら移封先が無さそう。藩を守るために宝暦治水を黙ってやり遂げたほどの隠忍自重を発揮したので、取り潰しとなったらそれこそ島原の乱どころじゃない大乱になったはず。島津はそっと九州に置いとくのが一番だって幕府もわかっていたでしょうね。
九州は相当の実力者じゃないと治められないからね… 秀吉期でも国人一揆が起きて佐々成政でも統治失敗して官兵衛や加藤清正クラスでやっと鎮圧レベルに地元豪族の実力も発言力も強いし島津でもあんだけ強い強いいわれるのに拡大が遅かった背景でもあり。関ヶ原前に御家騒動起きてたし、誰も行きたくないだろうしなぁ…→薩摩に
九州の大名配置見てごらんよ、黒田と中川以外、ほとんどが戦国大名からの地元起用でしょ。譜代は小笠原と奥平ぐらいと、かなり少なめ。名門細川だって、かなり気を使って入国してきたし、地元の地縁・血縁じゃないとやはり難しいんだろうね。
@@柳家小ゑんざいむQ10 有馬も地元じゃないぞ
有馬は肥前の地元大名でしたよ?龍造寺に反抗してましたし
@@magewizardwarlock002 久留米藩の有馬家は、播磨赤松家の分家。羽柴秀吉の中国地方攻めの時にその傘下に入った播磨の小名の一つ。
毛利と島津は潰そうとしても幕府側も無傷じゃ済まず相当なダメージ負ったと思う。潰したとしてもそれが原因でかえって幕府崩壊が早まっていたと推測できる。
勝てて当然と思われる戦に負けるのは非常にまずい。それゆえに秀吉は小牧・長久手の戦い以降、家康を取り込む方に舵を切ったし、鎌倉幕府滅亡の切っ掛けはいつまで経っても小勢の楠木正成を鎮圧出来なかったが為なので、徳川幕府の判断は正しかったのでしょうね。
敵を滅亡させてしまうと、遺臣の恨みは全て勝った徳川に向いてしまう。宇喜多家家老であった明石全登はその例であろう。滅亡させずに領地を大きく削ると、相手は家中維持のために家臣をリストラすることになる。リストラされた方の中には敵である徳川よりもリストラした主君を恨む者もいたかもしれないし、残った家臣も俸禄は削られる。すると家中に不満がたまりモラルも下がる。せっかく残れたのに他家に出奔したり敵方に寝返りやすくなるかもしれない。かつては抜群の結束を誇った毛利家も、毛利秀元と吉川広家が長く争うようになった。
@@TAIRA_TAKAMORI これぞ分断統治ですね。家康が本願寺に対してした露骨なものよりはマイルドですが…
大藩を動かす場合は、代替地の確保が難しいし、大藩は辺境の地にあるから動かす必要性がない。
基本、外様の大藩は移封するにしても代替地を用意するのが大変なので、幕府も無理に移封・転封が出来なかったと思います。島津は鎌倉時代から薩摩に根付いて独自の支配体制(琉球貿易も含めて)を確立していたので、幕府も島津以外に薩摩は統治出来ないと判断したと思います。
領民からの反発が激しいからな
江戸の隠密(スパイ)が薩摩に潜り込んでも生きて戻れなかったと言われています。
江戸時代の琉球は、日中の二重支配(中国⇒当時は清と薩摩藩)でした。密貿易で黒砂糖など扱いこっそり莫大な資金得ました。幕府の隠密は密貿易の証拠つかんだのですが、幕閣達には不問に付されました。長州藩は正月の藩主の訓示で「関が原を忘れるな」と述べていました。長州藩は三白(お米・和紙・蝋燭)で儲けていたし、高杉晋作が藩の実権握ると、下関港に出入りする船の通行料取っていました。
@@マヤ平 この時点で400年の辺境統治で領民も島津と血縁関係持ってる人が殆どだからね。島津を移転するということは領民含めて全員移転しないと意味ないから無理なのよ。
島津は九州の南端で江戸からも遠いから動かす必要はないし、毛利は西に黒田、東に浅野、池田という大藩があって簡単に動けない幕府は本当に大名をうまく配置している
抑えとなるはずの福岡藩や広島藩が幕末でほんとに空気すぎて…
@@tigeriontigerion9112 幕末の頃になると抑えとなるはずの福岡藩の藩士は薩長同盟の斡旋に尽力し、鳥取藩は藩主が徳川将軍の実の弟でありながら親長州、広島藩に関しては薩長芸の倒幕同盟を結んじゃう有様。(芸州広島藩は土壇場になって出兵を拒んだため歴史に名を残すこと無く知られない存在となりました。逆に権力者である藩主の父が出兵を拒むも藩士が独断で出兵した土佐藩は薩長土肥の一角に与して歴史に名を残した。)
@@tigeriontigerion9112 福岡藩では既に官兵衛・長政の男系血筋は途絶えており、他家から養子を貰っていました。当時の藩主は島津重豪の息子でした。
@@subuya428 幕府側にとって最大の誤算は、家康の遺言により先鋒を務めるはずであった井伊と藤堂が新政府側についたこと。
@@user-tm6ue3nq7e 井伊は譜代だけど遠江から入った訳で、藤堂は乗り換えがあったから、信用してはいけない
幕末では藩政改革等で実高は長州100万石薩摩75万石肥前50万石土佐49万石となっているのでこれらが結束すると弱体化した幕府では押さえ込むのは無理
これに対して京都守護職の会津松平家は北国の陸奥23万石でしかない。経済的にも対抗出来ようはずもなかった。
毛利が外国と取引があったと言うけど、島津も琉球を恭順させてたんで幕府に申し出してる以上には余裕はあったんじゃないかな
👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍
なにかの番組でそのこと言ってました。琉球~アジアの貿易ルートを押さえていたので財政的にはかなり潤っていたと…。藩の収入はなにも領土からだけじゃない…貿易や広大な海域から得られる漁業など…。広大な海域を押さえることの重要性は今も昔も同じだと思います。毛利も元々海、水軍と繋がりが深い家柄だったのでその名残りは残ってても不思議じゃないと思います。
江戸時代末期のロンドン万博には「薩摩琉球国」として出展していたらしいし。
秀吉の時は100万石クラスが結構いたし、全部小さくしたり、移封したりは出来なかった。家康はずっと長生きして多くの大名を移封、減封したし、豊臣を滅ぼしたけど、島津、毛利を移封、更に減封までは出来なかった、何事も順番、程度、限度があるし、ある程度大きい大名を移封、減封するには、大徳川と言えどある程度大義名分もあった方がいいだろうし、人間何事も尊大になって無理を通すと、抵抗、綻びも出るだろうし、そこまで出来なかった(やらなかった)という事じゃないかな、
関ヶ原の戦いで敵対したといえば、上杉もそうなんだけど、上杉が改易にならなかった理由は、徳川家康が、謙信に敬意を抱いていたからではないかと思う。戊辰戦争で上杉が奥羽列藩同盟に加わった理由は、会津のおかげで改易を免れたからである。
毛利の関ヶ原後の石高は過剰申告です。太閤検地で防長2カ国は27万石と出ています。多少は新田開発も有ったのでしょう、関ヶ原後は29万石が実高。53万石は明らかに無理な検地による架空石高で、一揆が頻発しています。この架空石高と実高が合い始めたのが大体1650年頃で、やっと一揆が終息しました
さ
税率
輝元の交渉力も地味にヤバい気がするんだよなぁ。毛利本家は岐阜城落ちた時点で交渉して「安国寺や石田に利用されて担がれてしまった(石田に自分を担がせ西軍結成、大友・河野残党を扇動して豊後伊予荒らす、讃岐阿波にも攻め込んでる口で)」と領土減らしで済んでるのマジで祖父の血というか食えない男というか島津は近衛家と親密な間柄で仲介してくれたってのも大きい
移そうにもこれ以上遠くは存在せず潰そうとすれば相手も死に物狂いできますし出兵すればしてる最中に奥州で伊達が挙兵してしまえば再び泥沼の戦乱へ逆戻りし島津・毛利が手を組んで来るととても厄介だから双方が妥協できる減俸でおとしどころをつけたかんじですね
そうですよね。尼子再興みたいに旧臣や地元豪族の反乱を考えれば、早期混乱を収めるにはそれが良かったんでしょうね
毛利が岐阜城陥落を受けて和議(土下座)外交へスイッチしたのはそこだと考えてます。このまま西軍として全力つっぱすれば勝てる可能性はあるが、負けたら毛利家は完全に終わり。後の浪人みたいに最後の1人まで刈り尽くされる。一方で今のうちから内通しておけば、徳川と言えども自分達ぐらの規模の大名を移封できる場所など無いのだから、あくまで減封止まりで留める筈だと。
本拠地の芸州広島を没収されたのだから、半分移封みたいなものだ
本拠地の没収って痛いですね
上杉も。
@@4月の雨 会津に国替えでしたっけ…?確か…120万石…?
@@Sabrina-wy2dr 伊達氏の元々の本拠地は福島県中通り北部の伊達市、伊達郡のあたりですね。その後伊達晴宗の時代に山形県の米沢に本拠を移し、政宗の時に蘆名氏を滅ぼしたのちに会津の黒川(若松)城へ更に本拠を移してますね。
佐竹氏秋田移封では60万石から20万石に減ったが、家来には普段農作業やってて有事のときだけ武装して出陣する武士が多かったので、移封では上級武士だけ秋田に行って、下級武士は農民に戻ってしまった。(豪農レベル)
何故か佐竹と相馬は関係性があるよね
@@455jj3 養子入れたからだろ
反伊達の盟友で、佐竹は白河結城や岩城に婿を送り込んで傘下に収めていたし。まあ、岩城の方は後に奪還されたが。
がっかり状態で秋田に移封してきたが秋田の肥沃な大地を見て佐竹義宜は大変喜んだらしい。俄然、やる気が満々になったそうな。
素晴らしい分析
確かに徳川幕府はもっと長く続いたかもしれないけど、日本に来る外国に何もできなかっただろう。最悪日本がなくなっているかもしれない。
島津に関しては当時”外国”だった琉球、更には琉球を通じた清の窓口になっていたので移封が不可能だったところがあります。この取次は対馬の宗家も同じで、ノウハウの塊なので幕府が直接外交担当にならないとどうにもなりません。又、外交を直接取ると東アジア特有の国家間の格の問題に直面するので、かえって関係悪化に繋がります。琉球征伐を島津家単独に任せてしまったツケですね毛利家については単に初期を除いて問題を起こさなかった事に尽きるかと。初期の佐野道可事件は間違いなく一発改易ものですが、なぜか首謀者の毛利秀元が異常に幕閣に受けがよく、大した問題にならず済んでいます。まぁ大坂の陣については、他の藩も家臣の一部が大坂城に入城していますので、毛利を糾弾すると他大名も巻き込んだ大問題になり幕府も嫌がったのでしょう。それでも一度は肥後加藤家改易時に肥後への転封が検討されています(永青文庫)。肥後の重要性を再検討して細川家に白羽の矢を立てましたが、この時、移封されたら毛利・島津がお隣となっていたんですね
勝手な推測ですが、琉球攻めに関しては朝鮮の時のように明が出てくる可能性があったから島津1国で攻めさせた可能性もある気がする失敗した時には取り潰せばいいと思っていたのかもしれない本来なら島津が上手く占拠した後、幕府も出てきて貿易の独占化等する必要があったのでしょうけどそれをしなかった(出来なかった)のでしょう
江戸からみて薩摩ほどの僻地はない。だから、移封のしようがなかった。
流石に蝦夷まで飛ばすと言ったら確実に反乱を起こしたでしょうしね。
@@fei8133 特に島津、毛利、伊達といった古くからその土地を治めていると、領主と家臣・領民の結びつきも強くなり、下手に刺激すると収拾不能になりかねない。
@@user-tm6ue3nq7e 伊達と島津は概ねその通りですが、毛利は違うのでは?毛利が安堵された周防と長門は、古くから治めていた土地ではありません。長い間、大内が治めていた土地です。毛利は安芸の国人領主が元就の代に急拡大した勢力ですから、安芸の一部地域を除いてそこまで根を張っていなかったでしょう。本領の安芸をあっさり没収されたことを考えると、見透かされていたと思いますね。
@@mashedpotatoes7006 なるほど、勉強になりました。元就の先祖といえば、某大河ドラマのあの人ですね。
島津八万兵を他の場所に動かして反乱起こされたら困るからな。島津領国削ろうとした徳川軍二万は島津軍八万にぼろ負けしましたしね。
島津・毛利の配置もそうだが、伊達や上杉を牽制させるために会津に藩祖保科正之から将軍家に近い松平家を配置したのもなかなか妙だと思う。秀吉の時も蒲生氏郷や上杉景勝の実力者を配置していたし。
保科正之は徳川家光の異母弟なんでもともと将軍家なんですよ。ただ母親の身分が低かったために家臣の保科家で育てられることになりました。正之の代に「松平」の姓の使用が許されていますが育ての親の保科家への義理を果たすために生涯保科を名乗りました。そして正之の6男が3代目藩主になった時に松平の姓を名乗り始めました。
@@MrYume1 身分はあんまり関係ない歴代の将軍は家光以外は身分が低い母親から生まれている秀忠が恐妻家で認知できなかったからだよ
会津という場所は歴代の統治者が碌な目に逢わない所でもある。蘆名の滅亡を皮切りに蒲生(最終的に断絶)、上杉(関ケ原の敗戦で減移封)、加藤家(御家騒動で改易・後に2万5000石で何とか再興)、最終に松平(保科)幕末の戊辰戦争で幕府のツケを払わされる事に・・・
毛利の本拠は安芸だったから、実質移封じゃないかな。だけど安芸国内の直轄地は少なかったしその他は直接支配とは言い難いから、毛利家としては上意の下に安定した領国経営出来る様に転換出来たんだと思う。
半独立勢力だった村上一族も凋落してしまったし。
280年後、反幕府の急先鋒となる薩摩藩と長州藩になったという皮肉
御三家のひとつ水戸藩が尊王攘夷思想を徳川幕府が始まるころから醸成して幕末の情勢に大きな影響を与え、しかも最後の将軍を輩出した、というのも不思議な縁だな。
密貿易は島津氏の方がバリバリかも。( ´;゚;∀;゚;)国境の都城では寒天の密造工場を作り、中国、ロシアに売りさばいたり、偽金作ったり。いろいろ( ´;゚;∀;゚;)収入の40年分の借財の返済のため、あらゆる事をしてます。まあ、その大きな原因のひとつが徳川が強要した木曽川、揖斐川、長良川の治水です。この治水で島津氏や家臣団の受けた苦しみと忍耐、怒りは薩摩義士の偉業物語と共に鹿児島と岐阜に今も伝わっています。
毛利家は北前船の要衝関門海峡を抑えていた事が打倒德川に繋がったと思う。毛利家が吉川廣家の旧領出雲伯耆&因幡あたりに転封とか、廣島に越前家や尾張家など御家門を配置をしていたら明治維新に繋がったかどうか。長府は本家を継げなかった毛利秀元領、幕府は本家と分家の確執から当分の間は反幕府行動は起こせないと思っていたのでは?島津家にいたっては家光の弟忠長を養子に迎える話があったらしい。1637年には島原の乱、1644年には満洲から北京入城大清帝國が成立し台湾では鄭成功が抵抗を続ける、1689年にはロシアと清との間にネルチンスク条約が結ばれる。北國西國には戦國からの在地の大名をなるべく配置をしたほうがいざという時の戦力となると幕府は考えたのではないか?
毛利も島津も頼朝公の側近の血筋てのが何だかロマンですね
上杉は有名な「直江状」で家康の怒りをストレートに買っていたので、取り潰しになってもおかしくなかったが、伊達への抑えとして、幕府に影響ない程度に減封して残した。 毛利は、宗家と''両川''の連携が取れておらず、あわや取り潰しの大事に至る寸前だったが、黒田長政らもあって「一命」は取り留めた。 今も昔も、「リスクヘッジ」の取り方は、こうした組織の存続を左右する大問題である。どちらかに肩入れし過ぎると全滅するし、無為無策、日和見でも時には勝者から嫌疑をかけられて、結果的に抹殺される。 そういう意味では、島津と真田は上手く立ち回って、家名を上げ、歴史に名を残した。
毛利が裕福になれたのは村田清風の存在が大きい
それを登用した毛利敬親もまたいい判断だったかもね
何故、幕府が毛利に転封を強いなかったかの説明になっていない
またまたタイトルが魅力的だった
将来の脅威を見越した対応してたら……ん…武士の情けが幕末の倒幕へと繋がった。その武士の情けをした本多氏もその後改易されたのですよねぇ… 無常やのう。
変に締めつけすぎると内乱が収まらずに徳川幕府の体力が削がれてしまうから僻地に閉じ込めればなんとかなると思ったかもしれないが、この温情が倒幕のきっかけになったとは家康でも考えが回らなかったかもしれない。
家康も直感的に西側諸国に潜在的な警戒感を持っていたようです。
長州藩と薩摩藩には関ヶ原の借りをいつか返してやる、という気概を腹の底に秘めていたのだろうね。
それが約250年後のクーデターに繋がったと思う。
薩摩の場合、木曽川、揖斐川、長良川の治水の怒りもあります。薩摩義士
毛利は移封や減封されなかったのではなく、「輝元の112万石改易」→「吉川広家に防長2国29万8000石を与える予定」→「広家が固辞し、代わりに輝元の嫡男・秀就に防長2国29万8000石を与えて輝元は隠居」というのが実情のようです。
両方国持ち大名だから替地の用意も大変。しかも最初から中央から離れていて遠隔地に飛ばす意味もない。幕末で西国が西欧との交易上有利な立地になったのは結果論だしね。
毛利は知らないけど、島津がこの戦力で抑えきれないのは秀吉の九州征伐で明らかになってる。島津は隼人の系譜の一つで、隼人は大陸からの侵攻を防ぐ役目を負っていたから、他の隼人系も含めて動かせなかった可能性はありうると思う。だから、黒田に睨ませるのが精一杯だったんじゃなかろうか?
代替地がないのもそうかもしれないけど一番考えられるのは当時の毛利や島津の旧豊臣の大名だからまだ幕府の体制が覚束無い時に移封して万が一江戸に対して反乱を起こされかねないから遠くに留め置いた方が幕府には有利に働いたらからじゃないのかね?
関ケ原直後からしばらくは家康には豊臣家を滅亡させる意思は無い。家康自ら関ケ原終戦報告をするため大坂に参上しているし、後年千姫による婚姻を実行したことでもわかる。また「三成に騙されて西軍大将になってしまった」「主君である秀頼を警護していただけ」と主張する毛利を理論的に追い詰めることができなかった。追い詰めすぎれば豊臣の反感を買い、秀吉子飼いの福島、両加藤、浅野ら(彼らは反三成派という「豊臣家の忠臣」である)、更には前田までがそれに同調する可能性があり、戦後処理にもたつくと伊達や黒田も混乱に乗じる、と危惧したのかもしれない。家康以外の「四大老」のうち宇喜多を改易、上杉を1/4に、毛利を1/3にできた所で本多正信も妥協したのであろう。外様大名は幕府の役職に就くことができない。江戸中期以降の国替えには幕閣内での勢力分布や推移が関係することも増えた。柳沢家や大岡家は大名に昇格したし、水野忠邦は昇進のために唐津25万石から浜松15万石への国替えを希望した。親藩や譜代の国替えが続いた理由にはこういう側面もあるだろう。
6:43 薩摩藩に武士階級がやたらと多かったのは、戦国時代九州統一をしようとして豊臣がそれに待ったをかけてきた時、九州各地の島津に味方した武士たちが薩摩に逃げてきたからです。薩摩では禄が少なく喰っていけないのでまた地元に帰った人も、武士階級のまま大隅の開墾に携わった人もたくさんいます。毛利が関ケ原の後減封されたとき、武士階級の人が農民や商工人になったのと似ています。薩摩が幕末まで恭順を続けた第一の理由は貧乏だったから。調所広郷の改革が行われるまではスーパー貧乏藩でした。次に佐賀藩の軍事力を警戒していたから。意外かもしれませんが、幕末最強は佐賀藩です。薩摩・長州・土佐が幕府と事を構えるに至ったとき、佐賀藩が去就をはっきりしなかったため薩摩藩主導で佐賀藩討伐の勅令を求めたことがあります。
島津氏も 密貿易をしてましたよ実際 間宮林蔵に摘発されてます島津氏は 徳川幕府打倒の野心は無く幕府の中枢に入り発言権をとりたいだけです
…やはり、幕府の機嫌を取る処世術に優れ存続できたのでしょうか。戦の起こらぬ時代は、『そういう強さ』が必要不可欠でその結果が幕府作られた200年以上に答えが出たということでしょうか。いろいろヘビーな話でした。
大大名が反乱を起こしたりしたらかなり面倒になるから財力を使わせるために転封を多くしてもいいと思うけど。
元々江戸から遠いから代替え地が無い。かつ島津は大藩のため移封に従わずにまた戦争やる流れになりかねないから言い出せなかった。毛利はかなり領土を減らされたのでは。
薩長どちらも厄介だったのでしょうね。搦手使おうにも隙を見せないし叩き潰すには色々と足りない。ならシステムに組み込んでしまえ。となった気がします
毛利に関しては輝元が不出馬(大坂城から出ない)のと吉川の内応で本領安堵を確約してしまったからね…これで移封になったら九州勢と組んで反家康同盟でも作られる可能性あったし
吉川広家は輝元の了承の元動いていたから、むしろ安国寺恵瓊の方が内応。
島津は室町時代からずっと薩摩だよね、
正しくは鎌倉時代初めですね。
薩摩藩も密貿易、偽貨幣製造などを行っていました(幕府も知ってたみたいですが…)
琉球支配も任されてて、砂糖の莫大な収入もありましたからね。
関ヶ原の戦いで西軍の総大将である毛利輝元の首を跳ねられなかった徳川家康の甘さが、後々倒幕の火種になるとは草場の陰で家康も歯ぎしりしていた事でしょう。
本来なら徳川幕府主体で緩やかに近代化していく予定でしたが英仏が結託して薩長をけしかけ日本を泥沼の内線状態にして南北戦争で余った武器を薩長と幕府双方に売りまくる予定でしたが土壇場で江戸が無血開城になり多少のいざこざはありましたが国土荒廃は回避されました。明治維新という名のクーデターは薩長史観で描かれていますが徳川幕府の立場から再評価しても良いと思います。
関ヶ原の徳川家の勝利は、動かなかった毛利と島津の両家の態度が実は小早川の寝返りより大きかった様に思います。島津家に至っては、琉球征伐によって減封どころか加増ですからね。幕府も島津の力を削ぐ為に、木曽川の治水工事をやらせたりしましたが、多大な犠牲を強いながら見事やり遂げたり、相次ぐ婚礼による出費などで幕府側も財政赤字を作らせるのですが、巧みな幕府への外交戦略でいつの間にやら外様唯一の将軍の外祖父となっていたりしています。逆手に取って幕末の頃には斉彬は全国の名だたる大名家の殆どが親戚だったりします。天保の藩政改革が薩摩、長州、他の有力外様藩でも成功した事が潰せなかった理由ではないでしょうか?特に薩摩藩は、関ヶ原時には明との密接な関係性を持ち、明滅後は積極的に藩内に囲い港湾河川の土木工業力を蓄えていたりしていたので、天保の改革の頃は国内随一のハイテク王国となっています。藩政改革以降、急激に財政を立て直して、外圧に対抗する軍事力や知識を得ていたように思います。また『薩摩にバカ殿なし』と言った、藩主教育のベースになる帝王学の権化があったのも結果論として幕末を優位に運べた理由かも知れません。
島津はすでに京都から見て左遷の地
毛利家は萩に1/3になった。島津家は攻めていると野心家が出てくるから、せっかくの天下を失う。領土を減らすと牢人が増えて由比正雪の乱が起きたので、末期養子を認めることにした。
経済力、石高の「簿外石高?」への視点は興味深いと思います。土佐藩はどうでしたでしようか。こちらは、表高を無理に上げている可能性を指摘する本もあります。すると、藩財政は厳しかったことになります。こちらも分析頂けると幸いです。
大身組に死ぬ気で反乱されたくなかったろうし、そも外様に対して幕府はかなり気を遣ってるわけで
いつでも周りからは貧しいと思われていて内情は裕福が1番いい状況
移封はなくとも、毛利は大幅に石高を減らされましたし、島津も宝歴治水で大借金を背負わされることになりますから。
毛利は大きな中洲の萩に築城させたとか関ヶ原で徳川に内通した陪臣吉川広家に免じた部分が大きいですね。島津は潰しても実は次に薩摩・大隅・日向に赴任する大名に恨まれる歴史があるから運営できている旨味のない土地でしたから(桜島噴火で全体的に農作物収穫が少ない、材木用の木が育つ山がなかったので漁業が明治までなかった等)。
アプ主さん、国際情勢も視野に入れて考察してください。徳川幕府初期から長崎から国際情勢を知っていた為西洋列強に対抗出来る軍事力を残しておいたのです。討幕運動はアメリカ南北戦争終結で余った兵器を薩長に売却さて内戦をイギリスがけしかけました。
島原の乱がでかい。外国侵略寸前だったけど、オランダがめちゃ弱いから助かったんだよね。大坂の陣の20年後だから、それまででかいとこ取り潰してきたつけがでてきた。オランダは30年戦争中だったからカトリックに対して平気でぶっ放すことができた。あの時は対するスペインも30年戦争中だったし、国内で一戦交えてもおかしくなかった。国内の不穏分子が容易に外国勢力と結びついて内戦に向かわないよう、大藩は残されたんじゃないかな。
島津は琉球との砂糖貿易で幕末までに莫大な富を築いていましたよ😁
まあ、財力はありましたからね。斉彬の代では近代化もやり始めて薩摩切子(ガラス細工)を作らせたり近代化軍隊までやってますからね。
徳川幕府は日本の安定化に寄与したと思う。もし豊臣政権だったら戦争や争いが多発したと思われる。いわば経営学が成功したと考えられる。最後は徳川政権も古くなる。やがて明治となる。時代の流れは興味深いですね。
仙台藩なんて、伊達兵部と原田甲斐の悪巧みから幼君を乳母政岡が守り通す人形浄瑠璃で有名な「伊達騒動」までおこしながら、取り潰されることはなかったのですから、江戸幕府の中頃の幕府の大名統制は、すこぶる穏便だったのかもしれません。
薩摩は琉球を使っての昆布ロードの存在も大きかったんじゃないでしょうか?
島津と毛利の配置はいいと思うよ。島津が動いたら九州で止め、もしも九州勢になれば毛利も合流するから広島辺りで決戦出来るような配置だと思う。岡山、姫路、紀州が加勢に来るから江戸までは上がれんよ
簡単に言うと厄介な大名を江戸や京都の近くに置いたら危ないんだよね。元々中心地から遠く離れてるこれらの有力大名はわざわざ移封、転封して近づけてしまうとむしろ危険だったから下手に動かせなかったし、そのまま捨て置いて本領を任せておいた方が妙な火種を生む事もなく幕府としては都合が良かった。
ナレータさんの声!きれいですね!
広島から萩なんて辺境にやられたってテル以下切れてたんだが。
毛利の場合は移封みたいなもんでしょ本拠地も移転だし減封されてるよね吉川広家や一応小早川秀秋の功績で本家を潰さなかったんでしょこの場合は前田家を解説すべきでは?
確かにそうだね。上杉も移封同然だな。
徳川の天下は黒田と細川のお陰だろ。
日本ハムと同じ。大き過ぎて潰せんかったんよ。
折角、外れの薩摩にいるのを都に近っけちやまずいでしょ。島津の抑えは柳河の立花家、小倉の小笠原家が関門海峡の番人、その他北部九州はアンチ島津の大名配置。
何故移封がなかったかの論点がズレている
毛利と佐竹を入れ替え、毛利は秋田、佐竹は萩にしておけば…とは思う。
佐竹も水軍運用ノウハウは持ってるからあまり意味が無いのでは?というか絶対反乱を起こすだろうし、精々良くても四国の何処かに転封させるので精一杯だったのでは?
どっちも江戸から遠いってのもあったんだろうね。それとこの体制で270年続いたんだから御の字だよね。まあ毛利は青森辺りに飛ばしても良かったんじゃないかとは思うけど。
両家とも松平氏姓を賜っていることからも、それだけ厚遇されていたとは思います。
薩英戦争とか戊辰戦争、西南戦争見てるとやらなくてよかったよね。強すぎてやられて加藤伊達前田まで寝返りそう。
毛利は本拠地の安芸を失っているから移封のようなもんだそれで移封でないなら上杉も移封ではない
薩摩藩は移封転封こそされなかったが、木曽川の治水工事のような賦役を幕府から命じられている
宝暦治水事件ですね。ストーリーを作る方から見たら幕末への因縁の1つとして考えますわな。
家康的には島津・毛利は特に危険視してそう毛利は処罰できそうな気がする理由としては関ヶ原の時に西軍の総大将になっていたのは毛利輝元よって毛利を潰すには絶好の好機だったはずそうすれば藩を作られることもなく江戸幕府は滅びなかったと思う
山口にいた時新田(にった)地名多いな思ったよ後小高い山に田んぼの石垣が山頂近くまで有った百姓大変だな、なるほど百万石
治安問題でしょう。浪人衆の暴発の可能性があり。
長州藩の密貿易とは何でしょうか?幕末に薩摩を介して肥中の港に上海からミニエ銃をまた梅屋などが、銃器等々を密輸しましたが、莫大な利益はあるはずもありません。朝鮮半島との交易も微々たるもので倒幕の資金になるものではない。長州藩の最大の収入源は下関の越荷方の金融業と貸倉庫業であり、つまり商社活動で莫大な資産をつくった。つまり、相場で儲けたのである。密貿易ではなく、全く合法的に蓄財したと思う。 10:48
島津 毛利転封先が他になかったかと。島津が転封していたら奄美の黒糖地獄はなかったかも‥。
殿様の殿様が殿様ではなかったていう主従関係が強い幕藩体制で配置替えはマイナスすぎたからだろ
じゃあ、毛利を飛騨あたりに移封してれば、その後はかなり違った…とも考えられるのか…。
吉川広家が徳川家康と密約を交わしていたから毛利秀元は西軍として徳川家康と戦う気満々だったけど吉川広家が邪魔をした
吉川広家というより、毛利家内の徳川派だね。吉川広家はその代表として徳川と接触してた
薩摩の琉球との密貿易は無視ですか?そうですか・・・
是非とも島津義虎公をお願いします
もう徳川家慶あたりになると島津と完全に親戚です🤔😗😏先代がスケベ過ぎて❤️で、後に島津から徳川にお嫁さんが来る……😗島津が反徳川のイメージがあるのは完全に幕末のせいですね😃
薩摩の場合は「移封されなかった」のは、「それやったら、下級武士が海賊するよ」で、押しきったから。実際に、明船を襲撃しましたから。
浪人が増えると治安が悪化するからね
厳密にいえば毛利氏の居城は元就の頃から安芸国吉田郡山城で御座る。違ったっけ?
元就の孫である輝元は1590年に広島城築城を完成させ、広島城に移りました
その時の島津を本気で潰そうとするなら最低でも20万人の兵力は必要になったと思う。関ヶ原では1500人しかいなかったから国元には最低でも5万はいるかつ鬼島津の義弘が健在だった。島津の撤退戦で徳川四天王の忠勝は落馬して井伊直政はこの時の傷が元で亡くなっている
後の明治維新の遠因
そして幕府に代わり薩長の藩閥が政権をとったのですから幕府から藩閥に変わっただけ。
誰にだってあると思う、うちの隣には来てほしくない家って
島津の場合、領地は最南端だし何処にも移封出来なかったんかもね。個人的に家康は島津に対して思惑あったんだろ。
関ヶ原の島津義弘の敵中突破が島津家存続にも繋がり、幕末へと続くのですね!
話がどんどんずれていく_(:3」z)_
実際は幕末期は両半
銘菓、萩の月ずっと山口県の銘菓だと思ってました。
「あしやドーマン」出版。国会図書館、三重県、広島県、石川県立図書館等に蔵書。
そして島津はモンゴルの偉大な王の引く末裔で義弘であった。
数万石規模の大名ならともかく、島津ほどの大藩となったら移封先が無さそう。藩を守るために宝暦治水を黙ってやり遂げたほどの隠忍自重を発揮したので、取り潰しとなったらそれこそ島原の乱どころじゃない大乱になったはず。島津はそっと九州に置いとくのが一番だって幕府もわかっていたでしょうね。
九州は相当の実力者じゃないと治められないからね… 秀吉期でも国人一揆が起きて佐々成政でも統治失敗して官兵衛や加藤清正クラスでやっと鎮圧レベルに地元豪族の実力も発言力も強いし島津でもあんだけ強い強いいわれるのに拡大が遅かった背景でもあり。関ヶ原前に御家騒動起きてたし、誰も行きたくないだろうしなぁ…→薩摩に
九州の大名配置見てごらんよ、黒田と中川以外、ほとんどが戦国大名からの地元起用でしょ。
譜代は小笠原と奥平ぐらいと、かなり少なめ。
名門細川だって、かなり気を使って入国してきたし、地元の地縁・血縁じゃないとやはり難しいんだろうね。
@@柳家小ゑんざいむQ10
有馬も地元じゃないぞ
有馬は肥前の地元大名でしたよ?龍造寺に反抗してましたし
@@magewizardwarlock002
久留米藩の有馬家は、播磨赤松家の分家。
羽柴秀吉の中国地方攻めの時にその傘下に入った播磨の小名の一つ。
毛利と島津は潰そうとしても幕府側も無傷じゃ済まず相当なダメージ負ったと思う。
潰したとしてもそれが原因でかえって幕府崩壊が早まっていたと推測できる。
勝てて当然と思われる戦に負けるのは非常にまずい。それゆえに秀吉は小牧・長久手の戦い以降、家康を取り込む方に舵を切ったし、鎌倉幕府滅亡の切っ掛けはいつまで経っても小勢の楠木正成を鎮圧出来なかったが為なので、徳川幕府の判断は正しかったのでしょうね。
敵を滅亡させてしまうと、遺臣の恨みは全て勝った徳川に向いてしまう。宇喜多家家老であった明石全登はその例であろう。
滅亡させずに領地を大きく削ると、相手は家中維持のために家臣をリストラすることになる。リストラされた方の中には敵である徳川よりもリストラした主君を恨む者もいたかもしれないし、残った家臣も俸禄は削られる。すると家中に不満がたまりモラルも下がる。せっかく残れたのに他家に出奔したり敵方に寝返りやすくなるかもしれない。かつては抜群の結束を誇った毛利家も、毛利秀元と吉川広家が長く争うようになった。
@@TAIRA_TAKAMORI これぞ分断統治ですね。家康が本願寺に対してした露骨なものよりはマイルドですが…
大藩を動かす場合は、代替地の確保が難しいし、大藩は辺境の地にあるから動かす必要性がない。
基本、外様の大藩は移封するにしても代替地を用意するのが大変なので、幕府も無理に移封・転封が出来なかったと思います。
島津は鎌倉時代から薩摩に根付いて独自の支配体制(琉球貿易も含めて)を確立していたので、幕府も島津以外に薩摩は統治出来ないと判断したと思います。
領民からの反発が激しいからな
江戸の隠密(スパイ)が薩摩に潜り込んでも生きて戻れなかったと言われています。
江戸時代の琉球は、日中の二重支配(中国⇒当時は清と薩摩藩)でした。密貿易で黒砂糖など扱いこっそり莫大な資金得ました。幕府の隠密は密貿易の証拠つかんだのですが、幕閣達には不問に付されました。長州藩は正月の藩主の訓示で「関が原を忘れるな」と述べていました。長州藩は三白(お米・和紙・蝋燭)で儲けていたし、高杉晋作が藩の実権握ると、下関港に出入りする船の通行料取っていました。
@@マヤ平
この時点で400年の辺境統治で領民も島津と血縁関係持ってる人が殆どだからね。島津を移転するということは領民含めて全員移転しないと意味ないから無理なのよ。
島津は九州の南端で江戸からも遠いから動かす必要はないし、毛利は西に黒田、東に浅野、池田という大藩があって簡単に動けない
幕府は本当に大名をうまく配置している
抑えとなるはずの福岡藩や広島藩が幕末でほんとに空気すぎて…
@@tigeriontigerion9112 幕末の頃になると抑えとなるはずの福岡藩の藩士は薩長同盟の斡旋に尽力し、鳥取藩は藩主が徳川将軍の実の弟でありながら親長州、広島藩に関しては薩長芸の倒幕同盟を結んじゃう有様。(芸州広島藩は土壇場になって出兵を拒んだため歴史に名を残すこと無く知られない存在となりました。逆に権力者である藩主の父が出兵を拒むも藩士が独断で出兵した土佐藩は薩長土肥の一角に与して歴史に名を残した。)
@@tigeriontigerion9112 福岡藩では既に官兵衛・長政の男系血筋は途絶えており、他家から養子を貰っていました。当時の藩主は島津重豪の息子でした。
@@subuya428 幕府側にとって最大の誤算は、家康の遺言により先鋒を務めるはずであった井伊と藤堂が新政府側についたこと。
@@user-tm6ue3nq7e 井伊は譜代だけど遠江から入った訳で、藤堂は乗り換えがあったから、信用してはいけない
幕末では藩政改革等で実高は
長州100万石
薩摩75万石
肥前50万石
土佐49万石となっているので
これらが結束すると
弱体化した幕府では押さえ込むのは
無理
これに対して京都守護職の会津松平家は北国の陸奥23万石でしかない。経済的にも対抗出来ようはずもなかった。
毛利が外国と取引があったと言うけど、島津も琉球を恭順させてたんで幕府に申し出してる以上には余裕はあったんじゃないかな
👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍
なにかの番組でそのこと言ってました。
琉球~アジアの貿易ルートを押さえていたので財政的にはかなり潤っていたと…。
藩の収入はなにも領土からだけじゃない…貿易や広大な海域から得られる漁業など…。
広大な海域を押さえることの重要性は今も昔も同じだと思います。
毛利も元々海、水軍と繋がりが深い家柄だったのでその名残りは残ってても不思議じゃないと思います。
江戸時代末期のロンドン万博には「薩摩琉球国」として出展していたらしいし。
秀吉の時は100万石クラスが結構いたし、全部小さくしたり、移封したりは出来なかった。家康はずっと長生きして多くの大名を移封、減封したし、豊臣を滅ぼしたけど、島津、毛利を移封、更に減封までは出来なかった、何事も順番、程度、限度があるし、ある程度大きい大名を移封、減封するには、大徳川と言えどある程度大義名分もあった方がいいだろうし、人間何事も尊大になって無理を通すと、抵抗、綻びも出るだろうし、そこまで出来なかった(やらなかった)という事じゃないかな、
関ヶ原の戦いで敵対したといえば、上杉もそうなんだけど、上杉が改易にならなかった理由は、徳川家康が、謙信に敬意を抱いていたからではないかと思う。
戊辰戦争で上杉が奥羽列藩同盟に加わった理由は、会津のおかげで改易を免れたからである。
毛利の関ヶ原後の石高は過剰申告です。太閤検地で防長2カ国は27万石と出ています。多少は新田開発も有ったのでしょう、関ヶ原後は29万石が実高。53万石は明らかに無理な検地による架空石高で、一揆が頻発しています。この架空石高と実高が合い始めたのが大体1650年頃で、やっと一揆が終息しました
さ
税率
輝元の交渉力も地味にヤバい気がするんだよなぁ。毛利本家は岐阜城落ちた時点で交渉して「安国寺や石田に利用されて担がれてしまった(石田に自分を担がせ西軍結成、大友・河野残党を扇動して豊後伊予荒らす、讃岐阿波にも攻め込んでる口で)」と領土減らしで済んでるのマジで祖父の血というか食えない男というか
島津は近衛家と親密な間柄で仲介してくれたってのも大きい
移そうにもこれ以上遠くは存在せず潰そうとすれば相手も死に物狂いできますし出兵すればしてる最中に奥州で伊達が挙兵してしまえば再び泥沼の戦乱へ逆戻りし島津・毛利が手を組んで来るととても厄介だから双方が妥協できる減俸でおとしどころをつけたかんじですね
そうですよね。尼子再興みたいに旧臣や地元豪族の反乱を考えれば、早期混乱を収めるにはそれが良かったんでしょうね
毛利が岐阜城陥落を受けて和議(土下座)外交へスイッチしたのはそこだと考えてます。
このまま西軍として全力つっぱすれば勝てる可能性はあるが、負けたら毛利家は完全に終わり。後の浪人みたいに最後の1人まで刈り尽くされる。
一方で今のうちから内通しておけば、徳川と言えども自分達ぐらの規模の大名を移封できる場所など無いのだから、あくまで減封止まりで留める筈だと。
本拠地の芸州広島を没収されたのだから、半分移封みたいなものだ
本拠地の没収って痛いですね
上杉も。
@@4月の雨 会津に国替えでしたっけ…?確か…120万石…?
@@Sabrina-wy2dr 伊達氏の元々の本拠地は福島県中通り北部の伊達市、伊達郡のあたりですね。その後伊達晴宗の時代に山形県の米沢に本拠を移し、政宗の時に蘆名氏を滅ぼしたのちに会津の黒川(若松)城へ更に本拠を移してますね。
佐竹氏秋田移封では60万石から20万石に減ったが、家来には普段農作業やってて有事のときだけ武装して出陣する武士が多かったので、移封では上級武士だけ秋田に行って、下級武士は農民に戻ってしまった。(豪農レベル)
何故か佐竹と相馬は関係性があるよね
@@455jj3
養子入れたからだろ
反伊達の盟友で、佐竹は白河結城や岩城に婿を送り込んで傘下に収めていたし。
まあ、岩城の方は後に奪還されたが。
がっかり状態で秋田に移封してきたが秋田の肥沃な大地を見て佐竹義宜は大変喜んだらしい。
俄然、やる気が満々になったそうな。
素晴らしい分析
確かに徳川幕府はもっと長く続いたかもしれないけど、
日本に来る外国に何もできなかっただろう。
最悪日本がなくなっているかもしれない。
島津に関しては当時”外国”だった琉球、更には琉球を通じた清の窓口になっていたので移封が不可能だったところがあります。この取次は対馬の宗家も同じで、ノウハウの塊なので幕府が直接外交担当にならないとどうにもなりません。又、外交を直接取ると東アジア特有の国家間の格の問題に直面するので、かえって関係悪化に繋がります。琉球征伐を島津家単独に任せてしまったツケですね
毛利家については単に初期を除いて問題を起こさなかった事に尽きるかと。初期の佐野道可事件は間違いなく一発改易ものですが、なぜか首謀者の毛利秀元が異常に幕閣に受けがよく、大した問題にならず済んでいます。まぁ大坂の陣については、他の藩も家臣の一部が大坂城に入城していますので、毛利を糾弾すると他大名も巻き込んだ大問題になり幕府も嫌がったのでしょう。それでも一度は肥後加藤家改易時に肥後への転封が検討されています(永青文庫)。肥後の重要性を再検討して細川家に白羽の矢を立てましたが、この時、移封されたら毛利・島津がお隣となっていたんですね
勝手な推測ですが、琉球攻めに関しては朝鮮の時のように明が出てくる可能性があったから島津1国で攻めさせた可能性もある気がする
失敗した時には取り潰せばいいと思っていたのかもしれない
本来なら島津が上手く占拠した後、幕府も出てきて貿易の独占化等する必要があったのでしょうけどそれをしなかった(出来なかった)のでしょう
江戸からみて薩摩ほどの僻地はない。だから、移封のしようがなかった。
流石に蝦夷まで飛ばすと言ったら確実に反乱を起こしたでしょうしね。
@@fei8133 特に島津、毛利、伊達といった古くからその土地を治めていると、領主と家臣・領民の結びつきも強くなり、下手に刺激すると収拾不能になりかねない。
@@user-tm6ue3nq7e 伊達と島津は概ねその通りですが、毛利は違うのでは?
毛利が安堵された周防と長門は、古くから治めていた土地ではありません。長い間、大内が治めていた土地です。毛利は安芸の国人領主が元就の代に急拡大した勢力ですから、安芸の一部地域を除いてそこまで根を張っていなかったでしょう。本領の安芸をあっさり没収されたことを考えると、見透かされていたと思いますね。
@@mashedpotatoes7006 なるほど、勉強になりました。元就の先祖といえば、某大河ドラマのあの人ですね。
島津八万兵を他の場所に動かして反乱起こされたら困るからな。
島津領国削ろうとした徳川軍二万は島津軍八万にぼろ負けしましたしね。
島津・毛利の配置もそうだが、伊達や上杉を牽制させるために会津に藩祖保科正之から将軍家に近い松平家を配置したのもなかなか妙だと思う。秀吉の時も蒲生氏郷や上杉景勝の実力者を配置していたし。
保科正之は徳川家光の異母弟なんでもともと将軍家なんですよ。
ただ母親の身分が低かったために家臣の保科家で育てられることになりました。
正之の代に「松平」の姓の使用が許されていますが育ての親の保科家への義理を果たすために生涯保科を名乗りました。
そして正之の6男が3代目藩主になった時に松平の姓を名乗り始めました。
@@MrYume1
身分はあんまり関係ない
歴代の将軍は家光以外は身分が低い母親から生まれている
秀忠が恐妻家で認知できなかったからだよ
会津という場所は歴代の統治者が碌な目に逢わない所でもある。
蘆名の滅亡を皮切りに蒲生(最終的に断絶)、上杉(関ケ原の敗戦で減移封)、加藤家(御家騒動で改易・後に2万5000石で何とか再興)、最終に松平(保科)幕末の戊辰戦争で幕府のツケを払わされる事に・・・
毛利の本拠は安芸だったから、実質移封じゃないかな。
だけど安芸国内の直轄地は少なかったしその他は直接支配とは言い難いから、毛利家としては上意の下に安定した領国経営出来る様に転換出来たんだと思う。
半独立勢力だった村上一族も凋落してしまったし。
280年後、反幕府の急先鋒となる薩摩藩と長州藩になったという皮肉
御三家のひとつ水戸藩が尊王攘夷思想を徳川幕府が始まるころから醸成して幕末の情勢に大きな影響を与え、しかも最後の将軍を輩出した、というのも不思議な縁だな。
密貿易は島津氏の方がバリバリかも。( ´;゚;∀;゚;)
国境の都城では寒天の密造工場を作り、中国、ロシアに売りさばいたり、偽金作ったり。いろいろ( ´;゚;∀;゚;)
収入の40年分の借財の返済のため、あらゆる事をしてます。
まあ、その大きな原因のひとつが徳川が強要した木曽川、揖斐川、長良川の治水です。
この治水で島津氏や家臣団の受けた苦しみと忍耐、怒りは薩摩義士の偉業物語と共に鹿児島と岐阜に今も伝わっています。
毛利家は北前船の要衝関門海峡を抑えていた事が打倒德川に繋がったと思う。毛利家が吉川廣家の旧領出雲伯耆&因幡あたりに転封とか、廣島に越前家や尾張家など御家門を配置をしていたら明治維新に繋がったかどうか。長府は本家を継げなかった毛利秀元領、幕府は本家と分家の確執から当分の間は反幕府行動は起こせないと思っていたのでは?島津家にいたっては家光の弟忠長を養子に迎える話があったらしい。1637年には島原の乱、1644年には満洲から北京入城大清帝國が成立し台湾では鄭成功が抵抗を続ける、1689年にはロシアと清との間にネルチンスク条約が結ばれる。北國西國には戦國からの在地の大名をなるべく配置をしたほうがいざという時の戦力となると幕府は考えたのではないか?
毛利も島津も頼朝公の側近の血筋てのが何だかロマンですね
上杉は有名な「直江状」で家康の怒りをストレートに買っていたので、取り潰しになってもおかしくなかったが、伊達への抑えとして、幕府に影響ない程度に減封して残した。 毛利は、宗家と''両川''の連携が取れておらず、あわや取り潰しの大事に至る寸前だったが、黒田長政らもあって「一命」は取り留めた。 今も昔も、「リスクヘッジ」の取り方は、こうした組織の存続を左右する大問題である。どちらかに肩入れし過ぎると全滅するし、無為無策、日和見でも時には勝者から嫌疑をかけられて、結果的に抹殺される。 そういう意味では、島津と真田は上手く立ち回って、家名を上げ、歴史に名を残した。
毛利が裕福になれたのは村田清風の存在が大きい
それを登用した毛利敬親もまたいい判断だったかもね
何故、幕府が毛利に転封を強いなかったかの説明になっていない
またまたタイトルが魅力的だった
将来の脅威を見越した対応してたら……
ん…武士の情けが幕末の倒幕へと繋がった。その武士の情けをした本多氏もその後改易されたのですよねぇ… 無常やのう。
変に締めつけすぎると内乱が収まらずに徳川幕府の体力が削がれてしまうから僻地に閉じ込めればなんとかなると思ったかもしれないが、この温情が倒幕のきっかけになったとは家康でも考えが回らなかったかもしれない。
家康も直感的に西側諸国に潜在的な警戒感を持っていたようです。
長州藩と薩摩藩には関ヶ原の借りをいつか返してやる、という気概を腹の底に秘めていたのだろうね。
それが約250年後のクーデターに繋がったと思う。
薩摩の場合、木曽川、揖斐川、長良川の治水の怒りもあります。
薩摩義士
毛利は移封や減封されなかったのではなく、
「輝元の112万石改易」
→「吉川広家に防長2国29万8000石を与える予定」
→「広家が固辞し、代わりに輝元の嫡男・秀就に防長2国29万8000石を与えて輝元は隠居」
というのが実情のようです。
両方国持ち大名だから替地の用意も大変。しかも最初から中央から離れていて遠隔地に飛ばす意味もない。
幕末で西国が西欧との交易上有利な立地になったのは結果論だしね。
毛利は知らないけど、島津がこの戦力で抑えきれないのは秀吉の九州征伐で明らかになってる。
島津は隼人の系譜の一つで、隼人は大陸からの侵攻を防ぐ役目を負っていたから、他の隼人系も含めて動かせなかった可能性はありうると思う。
だから、黒田に睨ませるのが精一杯だったんじゃなかろうか?
代替地がないのもそうかもしれないけど一番考えられるのは当時の毛利や島津の旧豊臣の大名だからまだ幕府の体制が覚束無い時に移封して万が一江戸に対して反乱を起こされかねないから遠くに留め置いた方が幕府には有利に働いたらからじゃないのかね?
関ケ原直後からしばらくは家康には豊臣家を滅亡させる意思は無い。家康自ら関ケ原終戦報告をするため大坂に参上しているし、後年千姫による婚姻を実行したことでもわかる。
また「三成に騙されて西軍大将になってしまった」「主君である秀頼を警護していただけ」と主張する毛利を理論的に追い詰めることができなかった。追い詰めすぎれば豊臣の反感を買い、秀吉子飼いの福島、両加藤、浅野ら(彼らは反三成派という「豊臣家の忠臣」である)、更には前田までがそれに同調する可能性があり、戦後処理にもたつくと伊達や黒田も混乱に乗じる、と危惧したのかもしれない。
家康以外の「四大老」のうち宇喜多を改易、上杉を1/4に、毛利を1/3にできた所で本多正信も妥協したのであろう。
外様大名は幕府の役職に就くことができない。江戸中期以降の国替えには幕閣内での勢力分布や推移が関係することも増えた。柳沢家や大岡家は大名に昇格したし、水野忠邦は昇進のために唐津25万石から浜松15万石への国替えを希望した。
親藩や譜代の国替えが続いた理由にはこういう側面もあるだろう。
6:43 薩摩藩に武士階級がやたらと多かったのは、戦国時代九州統一をしようとして豊臣がそれに待ったをかけてきた時、九州各地の島津に味方した武士たちが薩摩に逃げてきたからです。
薩摩では禄が少なく喰っていけないのでまた地元に帰った人も、武士階級のまま大隅の開墾に携わった人もたくさんいます。
毛利が関ケ原の後減封されたとき、武士階級の人が農民や商工人になったのと似ています。
薩摩が幕末まで恭順を続けた第一の理由は貧乏だったから。調所広郷の改革が行われるまではスーパー貧乏藩でした。次に佐賀藩の軍事力を警戒していたから。意外かもしれませんが、幕末最強は佐賀藩です。薩摩・長州・土佐が幕府と事を構えるに至ったとき、佐賀藩が去就をはっきりしなかったため薩摩藩主導で佐賀藩討伐の勅令を求めたことがあります。
島津氏も 密貿易をしてましたよ
実際 間宮林蔵に摘発されてます
島津氏は 徳川幕府打倒の野心は無く幕府の中枢に入り発言権をとりたいだけです
…やはり、幕府の機嫌を取る処世術に優れ存続できたのでしょうか。戦の起こらぬ時代は、『そういう強さ』が必要不可欠でその結果が幕府作られた200年以上に答えが出たということでしょうか。いろいろヘビーな話でした。
大大名が反乱を起こしたりしたらかなり面倒になるから財力を使わせるために転封を多くしてもいいと思うけど。
元々江戸から遠いから代替え地が無い。かつ島津は大藩のため移封に従わずにまた戦争やる流れになりかねないから言い出せなかった。毛利はかなり領土を減らされたのでは。
薩長どちらも厄介だったのでしょうね。搦手使おうにも隙を見せないし叩き潰すには色々と足りない。ならシステムに組み込んでしまえ。となった気がします
毛利に関しては輝元が不出馬(大坂城から出ない)のと
吉川の内応で本領安堵を確約してしまったからね…
これで移封になったら九州勢と組んで
反家康同盟でも作られる可能性あったし
吉川広家は輝元の了承の元動いていたから、むしろ安国寺恵瓊の方が内応。
島津は室町時代からずっと薩摩だよね、
正しくは鎌倉時代初めですね。
薩摩藩も密貿易、偽貨幣製造などを行っていました(幕府も知ってたみたいですが…)
琉球支配も任されてて、砂糖の莫大な収入もありましたからね。
関ヶ原の戦いで西軍の総大将である毛利輝元の首を跳ねられなかった徳川家康の甘さが、後々倒幕の火種になるとは草場の陰で家康も歯ぎしりしていた事でしょう。
本来なら徳川幕府主体で緩やかに近代化していく予定でしたが英仏が結託して薩長をけしかけ日本を泥沼の内線状態にして南北戦争で余った武器を薩長と幕府双方に売りまくる予定でしたが土壇場で江戸が無血開城になり多少のいざこざはありましたが国土荒廃は回避されました。明治維新という名のクーデターは薩長史観で描かれていますが徳川幕府の立場から再評価しても良いと思います。
関ヶ原の徳川家の勝利は、動かなかった毛利と島津の両家の態度が実は小早川の寝返りより大きかった様に思います。島津家に至っては、琉球征伐によって減封どころか加増ですからね。
幕府も島津の力を削ぐ為に、木曽川の治水工事をやらせたりしましたが、多大な犠牲を強いながら見事やり遂げたり、相次ぐ婚礼による出費などで幕府側も財政赤字を作らせるのですが、巧みな幕府への外交戦略でいつの間にやら外様唯一の将軍の外祖父となっていたりしています。
逆手に取って幕末の頃には斉彬は全国の名だたる大名家の殆どが親戚だったりします。
天保の藩政改革が薩摩、長州、他の有力外様藩でも成功した事が潰せなかった理由ではないでしょうか?
特に薩摩藩は、関ヶ原時には明との密接な関係性を持ち、明滅後は積極的に藩内に囲い港湾河川の土木工業力を蓄えていたりしていたので、天保の改革の頃は国内随一のハイテク王国となっています。藩政改革以降、急激に財政を立て直して、外圧に対抗する軍事力や知識を得ていたように思います。
また『薩摩にバカ殿なし』と言った、藩主教育のベースになる帝王学の権化があったのも結果論として幕末を優位に運べた理由かも知れません。
島津はすでに京都から見て左遷の地
毛利家は萩に1/3になった。島津家は攻めていると野心家が出てくるから、せっかくの天下を失う。領土を減らすと牢人が増えて由比正雪の乱が起きたので、末期養子を認めることにした。
経済力、石高の「簿外石高?」への視点は興味深いと思います。土佐藩はどうでしたでしようか。こちらは、表高を無理に上げている可能性を指摘する本もあります。すると、藩財政は厳しかったことになります。こちらも分析頂けると幸いです。
大身組に死ぬ気で反乱されたくなかったろうし、そも外様に対して幕府はかなり気を遣ってるわけで
いつでも周りからは貧しいと思われていて内情は裕福が1番いい状況
移封はなくとも、毛利は大幅に石高を減らされましたし、島津も宝歴治水で大借金を背負わされることになりますから。
毛利は大きな中洲の萩に築城させたとか関ヶ原で徳川に内通した陪臣吉川広家に免じた部分が大きいですね。島津は潰しても実は次に薩摩・大隅・日向に赴任する大名に恨まれる歴史があるから運営できている旨味のない土地でしたから(桜島噴火で全体的に農作物収穫が少ない、材木用の木が育つ山がなかったので漁業が明治までなかった等)。
アプ主さん、国際情勢も視野に入れて考察してください。徳川幕府初期から長崎から国際情勢を知っていた為西洋列強に対抗出来る軍事力を残しておいたのです。討幕運動はアメリカ南北戦争終結で余った兵器を薩長に売却さて内戦をイギリスがけしかけました。
島原の乱がでかい。外国侵略寸前だったけど、オランダがめちゃ弱いから助かったんだよね。
大坂の陣の20年後だから、それまででかいとこ取り潰してきたつけがでてきた。オランダは
30年戦争中だったからカトリックに対して平気でぶっ放すことができた。あの時は対する
スペインも30年戦争中だったし、国内で一戦交えてもおかしくなかった。国内の不穏分子が
容易に外国勢力と結びついて内戦に向かわないよう、大藩は残されたんじゃないかな。
島津は琉球との砂糖貿易で幕末までに莫大な富を築いていましたよ😁
まあ、財力はありましたからね。斉彬の代では
近代化もやり始めて薩摩切子(ガラス細工)を作らせたり近代化軍隊までやってますからね。
徳川幕府は日本の安定化に寄与したと思う。もし豊臣政権だったら戦争や争いが多発したと思われる。いわば経営学が成功したと考えられる。最後は徳川政権も古くなる。やがて明治となる。時代の流れは興味深いですね。
仙台藩なんて、伊達兵部と原田甲斐の悪巧みから幼君を乳母政岡が守り通す人形浄瑠璃で有名な「伊達騒動」までおこしながら、取り潰されることはなかったのですから、江戸幕府の中頃の幕府の大名統制は、すこぶる穏便だったのかもしれません。
薩摩は琉球を使っての昆布ロードの存在も大きかったんじゃないでしょうか?
島津と毛利の配置はいいと思うよ。
島津が動いたら九州で止め、もしも九州勢になれば毛利も合流するから広島辺りで決戦出来るような配置だと思う。
岡山、姫路、紀州が加勢に来るから江戸までは上がれんよ
簡単に言うと厄介な大名を江戸や京都の近くに置いたら危ないんだよね。
元々中心地から遠く離れてるこれらの有力大名はわざわざ移封、転封して近づけてしまうとむしろ危険だったから下手に動かせなかったし、そのまま捨て置いて本領を任せておいた方が妙な火種を生む事もなく幕府としては都合が良かった。
ナレータさんの声!きれいですね!
広島から萩なんて辺境にやられたってテル以下切れてたんだが。
毛利の場合は移封みたいなもんでしょ
本拠地も移転だし減封されてるよね
吉川広家や一応小早川秀秋の功績で
本家を潰さなかったんでしょ
この場合は前田家を解説すべきでは?
確かにそうだね。上杉も移封同然だな。
徳川の天下は黒田と細川のお陰だろ。
日本ハムと同じ。大き過ぎて潰せんかったんよ。
折角、外れの薩摩にいるのを都に近っけちやまずいでしょ。島津の抑えは柳河の立花家、小倉の小笠原家が関門海峡の番人、その他北部九州はアンチ島津の大名配置。
何故移封がなかったかの論点がズレている
毛利と佐竹を入れ替え、毛利は秋田、佐竹は萩にしておけば…とは思う。
佐竹も水軍運用ノウハウは持ってるからあまり意味が無いのでは?
というか絶対反乱を起こすだろうし、精々良くても四国の何処かに転封させるので精一杯だったのでは?
どっちも江戸から遠いってのもあったんだろうね。
それとこの体制で270年続いたんだから御の字だよね。
まあ毛利は青森辺りに飛ばしても良かったんじゃないかとは思うけど。
両家とも松平氏姓を賜っていることからも、それだけ厚遇されていたとは思います。
薩英戦争とか戊辰戦争、西南戦争見てるとやらなくてよかったよね。強すぎてやられて加藤伊達前田まで寝返りそう。
毛利は本拠地の安芸を失っているから移封のようなもんだ
それで移封でないなら上杉も移封ではない
薩摩藩は移封転封こそされなかったが、木曽川の治水工事のような賦役を幕府から命じられている
宝暦治水事件ですね。ストーリーを作る方から見たら幕末への因縁の1つとして考えますわな。
家康的には島津・毛利は特に危険視してそう毛利は処罰できそうな気がする理由としては関ヶ原の時に西軍の総大将になっていたのは毛利輝元よって毛利を潰すには絶好の好機だったはずそうすれば
藩を作られることもなく江戸幕府は滅びなかったと思う
山口にいた時新田(にった)地名多いな思ったよ後小高い山に田んぼの石垣が山頂近くまで有った百姓大変だな、なるほど百万石
治安問題でしょう。浪人衆の暴発の可能性があり。
長州藩の密貿易とは何でしょうか?幕末に薩摩を介して肥中の港に上海からミニエ銃をまた梅屋などが、銃器等々を密輸しましたが、莫大な利益はあるはずもありません。朝鮮半島との交易も微々たるもので倒幕の資金になるものではない。長州藩の最大の収入源は下関の越荷方の金融業と貸倉庫業であり、つまり商社活動で莫大な資産をつくった。つまり、相場で儲けたのである。密貿易ではなく、全く合法的に蓄財したと思う。 10:48
島津 毛利転封先が他になかったかと。
島津が転封していたら奄美の黒糖地獄はなかったかも‥。
殿様の殿様が殿様ではなかったていう主従関係が強い幕藩体制で配置替えはマイナスすぎたからだろ
じゃあ、毛利を飛騨あたりに移封してれば、その後はかなり違った…とも考えられるのか…。
吉川広家が徳川家康と密約を交わしていたから
毛利秀元は西軍として徳川家康と戦う気満々だったけど吉川広家が邪魔をした
吉川広家というより、毛利家内の徳川派だね。吉川広家はその代表として徳川と接触してた
薩摩の琉球との密貿易は無視ですか?そうですか・・・
是非とも島津義虎公をお願いします
もう徳川家慶あたりになると島津と完全に親戚です🤔😗😏
先代がスケベ過ぎて❤️
で、後に島津から徳川にお嫁さんが来る……😗
島津が反徳川のイメージがあるのは完全に幕末のせいですね😃
薩摩の場合は「移封されなかった」のは、「それやったら、下級武士が海賊するよ」で、押しきったから。実際に、明船を襲撃しましたから。
浪人が増えると治安が悪化するからね
厳密にいえば毛利氏の居城は元就の頃から安芸国吉田郡山城で御座る。違ったっけ?
元就の孫である輝元は1590年に広島城築城を完成させ、広島城に移りました
その時の島津を本気で潰そうとするなら最低でも20万人の兵力は必要になったと思う。関ヶ原では1500人しかいなかったから国元には最低でも5万はいるかつ鬼島津の義弘が健在だった。島津の撤退戦で徳川四天王の忠勝は落馬して井伊直政はこの時の傷が元で亡くなっている
後の明治維新の遠因
そして幕府に代わり薩長の藩閥が政権をとったのですから幕府から藩閥に変わっただけ。
誰にだってあると思う、うちの隣には来てほしくない家って
島津の場合、領地は最南端だし何処にも移封出来なかったんかもね。個人的に家康は島津に対して思惑あったんだろ。
関ヶ原の島津義弘の敵中突破が島津家存続にも繋がり、幕末へと続くのですね!
話がどんどんずれていく_(:3」z)_
実際は幕末期は両半
銘菓、萩の月
ずっと山口県の銘菓だと思ってました。
「あしやドーマン」出版。国会図書館、三重県、広島県、石川県立図書館等に蔵書。
そして島津はモンゴルの偉大な王の引く末裔で義弘であった。