ダンシング・クィア オーケストラのための (向井 航)
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- เผยแพร่เมื่อ 8 ก.ย. 2024
- ・楽曲解説
この作品は、1960年代のヴォーギングなど、アメリカのクィア・コミュニティでのダンスカルチャー及び2016年にフロリダ州オーランドのゲイナイトクラブで起きた銃乱射事件の二つを基に作品を構成している。
オーケストラの中央には、アクティビスト(役)のソリストがメガフォンを持って座り、ヒラリー・クリントンやレディ・ガガなど、著名な政治家やアーティストのクィアの人々に向けた言説から、アート・アクティビズムを行う試みである。
※全文は以下リンクからご覧いただけます
ensemblefree.j...
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作曲:向井 航 (www.watarumuka...)
指揮:浅野 亮介
オーケストラ:アンサンブル・フリーEAST (ensemblefree.jp/)
第17回演奏会 杉並公会堂 大ホール
2022年9月17日(土)
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#WataruMukai #vogue #queer #orchestra
ラジオ小説みたいな感じで聞けば良いんだろうか。
向井氏のクィアをテーマにした作品は香川でも聴いたのだが、同じ印象を得ました。即ち、教条主義的な上から目線による啓蒙に引っ張られ、音楽を楽しめないという問題です。
現代の公の場であれば絶対に批判されないやり方で行う主張は、安全圏からの物言いに聴こえ、少なくとも私は心が打たれませんでした。
社会に対する主張を音楽に入れること自体や、その表現のしかた、主張の内容に反発する人はいるだろう。それならその批判の中身を具体的に筋道を立てて書いてほしい。
あなたのコメントには下記の疑問を覚えた。
●この作品が何をもって「教条主義的な上から目線による啓蒙」と言えるのかよく分からない。納得できるような論拠を教えてほしい。
●「現代の公の場であれば絶対に批判されない」というのはどういう意味か。演奏会場で舞台に向かってブーイングする人は稀だという意味か。しかしこのyoutubeコメント欄だって「現代の公の場」ではないのか。(それともここは私的な場だとお考えなのか?)この場で現にあなたは批判している。どこが「現代の公の場であれば絶対に批判されない」のか。向井氏は社会に主張する自由と引き換えに、こうして他人から批判されるリスクを負っている。どこが「安全圏からの物言い」なのか。
●「啓蒙に引っ張られ音楽を楽しめないという問題」とは何か?主張により音楽の良し悪しが決まるのか。主張が気に入らなければ、必ず音楽も楽しめないものなのか。一面的になるにせよ、この曲において主張(言葉の意味)と音楽は切り離せるだろう。たとえば英語が分からない人がこの曲を聴いて楽しめた場合は?「主張は気に入らないが音楽は楽しめた」という人は存在し得ないのか?
@@dorreng3006
ハッキリ言ってこの程度のレベルの問は問というよりイチャモンとしか思えないので普段なら無視しますが、今は少し余裕があるので答えます。
大雑把に要約すると「差別された歴史がありました。いけないことです。だから闘いました。良いことです」としか言ってないんですよ。そんなものは人権学習を始めとして誰もが同意する公式見解の垂れ流しと変わりがありません。最初に「教条主義的」と書きましたが訂正します。教条主義にすらなれていない、単なる建前です。
安全圏というのはまさしくそういうことで、「正しさ」しか主張していないから、基本的には批判がしようのない構図になってしまっているわけです。
私はそういう構図(をそのまま引き受けてること)そのものを批判するという、公的な場、正しさを装う人たちしかいない場ではできない批判をしています。
そして、そういう「正しさしかない主張」をそのままぶち込むセンスの無さは当然視聴する上でも影響しますし、この曲を聴くような知的水準層をターゲットにしているのだから「英語が分からない」「内容を分からないまま聴く」なんてほぼあり得ない想定ですので、今回の受賞もサムいの一言です。
私は1年以上前にこの手の作品の何が問題であるかを語った動画を配信していますので、私のチャンネルから見て下さい。
そして、この手の主張の何が問題かは千葉雅也氏の最近のツイートを参照のこと。
最後に、そういった凡庸な建前を越えた主張を巧みに作品として昇華した例として梅本佑利作品を参照して下さい。
(リンクを張らないのは、私にケンカ売るのならそれ位自分で調べてみろよ、ということですw)