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元小学校教諭です。お二人が話している姿を見せることこそが教育になるな、当時道徳教育について悩んでいた自分が観たらどう考えるだろうか、と思い巡らせる動画でした。"思うだけ"でいい、の一言で救われる子どもはたくさんいます。これ以上は止まらなくなってしまうので自重しますが、お互いの考えを絶対に否定せず、いろいろな視点で話してくださるロザンの楽屋がだいすきです。
ちょっと話は違いますが、小学校で一番に習った道徳が「部落問題」でした。隣の地区が部落で、そこに住む仲の良い友達も沢山いました。それまで、部落というものの存在すら知らなかった私は、それについて知ったがために、「この人達は可哀想な立場だから守らなくては」との意識が芽生えました。と同時に、「知らなければ何も思わず仲良かったのに」との矛盾も覚えました。昨今ではLGBTなどの問題もありますが、「誰も何も思わないから、それについてわざわざ勉強しなくても良い」環境になるのが、本当の差別がなくなる事だなあと思っています。
その通りですね。
中学校教師です。徳を積むための道(方法)を教えるのが道徳だと思っているので、行動することの大切さを教えているのだと思います。今の子供は夫婦共働きかつ、スマホの普及で人とのやりとりが苦手な生徒が多く、相手の思いを理解できない人が増えていると感じます。道徳を通して人がどう感じるのかを理解し、どう行動していくのが大事なのかを考えることが大切だと思います。社会に出て自己実現するための心を育てる、それが道徳であり、相手を思いやったうえでの行動であれば、席をゆずることも席を開けておくこともどちらも素晴らしい行動だと思います。
小学校で教員をしているものです。菅さんや宇治原さんの話された通り、授業で子ども全員が手を挙げることが良いとする風潮に疑問を持っています。教員の問いかけに対して、瞬時に答えたい子、じっくり頭の中で考えていたい子、書いて整理してから発表したい子等、見渡すと様々な子達がいます。同じタイミングで全員が発表できるということは、よほどのことがない限りないです。自分の場合は、授業を受けて子どもの認識の変容や深まりを大切にしています。深め方には様々な手段があるので、子どもたちには自分にあった学び方を見つけてくれるといいなと思って授業をしています。
「席を譲れないから道徳心が薄いとは思わない」には同意ですが、心の中は見えないので、たとえ道徳心が伴っていなくても席を譲れる方が良いと思います。譲ってもらった方はやはり有り難いでしょうし。私も宇治原さんと一緒で、声をかける勇気が無いので座らない派ですが、子どもができてからは座らないといけない状況が増えたということもあって、子どものお手本になるように勇気を出して席を譲るようにしています。育児と一緒で、心の中でどんなに愛していても、「大好きだよ」とかスキンシップをして愛情を示さないと子どもには伝わらないのと似ているのかなと思います。
完全同意です。
宇治原さんが道徳心を語る回が好きです。謙虚で思慮深いな〜って。誰かが困ってから助ける人より、陰で周りが困らない様に考えて動ける人になれたらなと思いました。
自分の具合が悪い時は相手が何を思ってようが助けてくれた方が有り難いし、そう行動に移してくれるのも(打算的なものが含まれてるとしても)結局道徳の内って気もします
わたしは菅さんと真逆の考えです。行動する延長線上に道徳心が芽生えると思っています。ちょっと話の論点は違ってしまうかもしれないけど、道徳心があろうがなかろうがまわりの人が少しでも救われるなら行動あるのみかなと!
私もそれを思いました。目の前にいる困ってる人を少しでも手助け出来るのであれば行動してしまうと思います。
「やらない善意より、やる偽善」やと思ってるので、たとえみんなに見てほしくて席を譲ってる人が居ても、それは一つ、道徳として正解やと思います。【春蒔秋(あずまあき)】
やらない善よりやる偽善、とはよく言ったものですが勇気がなくてご老人に席どうぞ、と声をかけられない人のためにも(偽善でもいいから)やれる人はどんどんやったらいいと思います。そしたら、勇気がなかった人も「あんな感じでいいんだ」と行動に移せるかもしれないし。でもその場合でも、最初から立ってる宇治原さんタイプの人の善は目立たないですよね。でも多分どこかで誰かが(人間じゃなくても神様仏様ご先祖様)が見てくれてると思いますよ。それで満足できない、誰かに褒められたいならやっぱり行動するしかないと思います😅気持ちとセットで、そこらへんの「世の常」を教えればいいんじゃないでしょうか。【はらぽち】
子供の頃から「イジメ・差別はいけない」と強く思っていました。クラスで弱い立場の子になるべく話しかけたりしていましたが、じゃあイジメの瞬間に立ち会った時庇えたかと言うとそこまではできず、自分を責めたりもしました。「傍観者もイジメの加担者だ」と言いますが、なかなか行動に移すのは難しいと悩む瞬間です。
僕は昔(中学生)いじめられていました。特に体が弱かったわけではなかったのでやり返していたら、そこまで深刻なことにはなっていなかったのかもしれません。ですが、当時から「力でいうことをきかせる」ということに異常なほど抵抗があり(会社においては権力等でしょうか)僕は無抵抗で耐え忍んでいました。いろんな記憶が蘇りますね。今思えば心の中で、僕をいじめていた奴らを人間として「見下していた」んですよ。さて、道徳的にはどうなんでしょうね・・・。σ(^_^;)
@ 他人をイジメる人は、実は何かコンプレックスを持っていたり、余裕がなかったりするものです。それを他人にぶつける事でしか解消できないので、可哀想な人なのでしょうね、きっと。見下していいと思いますよ、私は。
@@MioToyo 同意です🥰
@@psychommunity37458 中盤、なぜそうだったのかわかりませんが、わたしは我慢してやり返さなかったあなたはえらいと思います(わたしは全然ムリだった😇)
@@彌城枝里子 いろいろ、陰湿なのも含めて、あったのですが、、、。思うところは一つで「こいつらと同じことでやり返しても意味が無い」と自分に言い聞かせていました。で、当時の僕は何を考えていたかというと、あと三年くらい堪えてやろうじゃないか。いい高校に行ったらきっと、こういう奴らはいないに決まってる。と、そこそこ勉強したわけです。その甲斐あって、まぁまぁいいところに進学したのですが・・・・・。どこに行っても同じようなのはいましたね。(いじめは受けませんでしたが)ここからは想像になりますが、スマホなどが普及している現代。また違ったいじめの実情があるのだと思います。精神的には今の子供達の方がしんどいんじゃないかなぁ。そう危惧しています。本題の「道徳」については、高校の授業にも取り入れるといいと思います。宗教的な側面は抜きにしても、18歳までは「教育」が大事だと思います。選挙権などが年齢的に引き下げられていますが、「学問」ではなくて「学ぶことの大切さ」が身につくといいですね。きっと社会に出ても役立つはずです。僕は今、介護福祉業界にいます。給料はほんと安いですが、なんとか利用者さんたちの権利擁護ができないかと日々、いろいろな既得権益と闘っています。自分を省みた時に「まだまだだな」と思うことが多いですが、MioToyoさんや彌城枝里子さんにそう言っていただけると救われます。ありがとうございます。m(_ _)m(ちなみに僕は無宗教です)
気持ちはあるけど行動しない人と気持ちはないけど行動はする人その時の状況によっては後者の方が良いとされる事もあるだろうし一概にこっちでよくね?って話でもないかも?
8:00 現在だけでなく、出会っていなかった宇治原さんの過去まで全肯定する菅ちゃん。仲良し。
🥰
でも思ってるだけでは伝わらないので、勇気を出して行動したり言葉にすることは大事だと思います。それが例え偽善だったとしてもそれで助かる人がいるのであれば。宇治原少年の道徳心エピソード、謙虚過ぎて泣けてきます。菅ちゃんに聞いて貰えて報われて良かったです。
菅ちゃんの論点はほんまに面白いそういう考え方もあるかぁってとこの芯を突くような感覚で、毎回楽しませてもらってます。大丈夫、宇治原さんも面白い!
断られるから言えない は自分を守りたいのかなって思うようになった。相手がどう思おうと嬉しいと思うから代わりましょうか?は自然な一言だと思うし、もししんどかったら変わらなくて良いと思う。夫は相手にどう思われるか より自分がどうするかやと話かっけーなと思ったよ
私は、確かに「思うこと」が大事という意見は分かるが、それは心の中で思っている感情であり、目に見えるものではなく、道徳心が無くても「道徳心あります。」と何とでも言えてしまう。言わば、感情は管理することのできないもので、「Aという感情に皆なりなさい。」と教育して、皆がAという感情になるというのは理想論に過ぎない。それに対して、行動について教育すれば、それはやったかやってないか目に見えて、管理できるものなので、行動を教育した方が白黒はっきり物事を分別することが出来ると考えます。(もちろん、感情についての教育も必要ですが…)
私も宇治原さんと全く一緒で 電車は座らない派です。理由は色々ありますが 席を譲るのが気恥ずかしいというのも理由のひとつです。今回40年越しに心の引っかかりを明かすことができてよかったですね😊
ロザン最高のコンビですね!辛かった気持ちを共有できる素敵なお二人です😊。
考えさせられる回でした。道徳が行動を教える時間であってほしくないですね。行動のもとには心があるはずです。その心に種を蒔くような時間が道徳だと思います。お二人が話されているような、親切には色々な形があることや、「思うこと」を負荷のかからない形で話し合えるような、そんな時間になるといいなと思いました。
教えられたことを素直に実践できる子が理想的な良い子になるように教えるのが一番な気がします。実践できなくても思うだけでいいって答えを菅さんが持てたように、教えられたことが納得できなくても自分なりの答えを持てるので、心配することはないです。
現役中学校教員ですが、現在の教科道徳では「行動するように」指導をして、「行ようと思った」ことを文章化して評価をつけていますそもそも授業中に発言させる意図はクラスメイトのためにのみあるので、本人の行動強化のためにそのような声かけをする事はありませんただそれは菅さんのいう「思うだけでいい」からなのではなく、ただの発言は評価の対象として相応しくないからです意図の教員のせいで教科になり、僕やロザンさんが子どもの頃より道徳はだいぶ窮屈になりました話はそれましたが、現代で「思うだけでいい」という事を授業中に言ってしまうと、それは「何もしなくて良い」と誤解される要因になりますなので今は「どんな事なら出来るかを考える」という事を全員が文字に書いて残すという事が全ての授業のゴールです例えば席を譲るという題材であれば、目的は身体にしんどさのある方が優先されれば良いという話なので、宇治原さんのように「はじめから座らない」や、そもそも「歩ける範囲は歩こう」でも、「優先座席を増やす活動をする」でも「席を譲るポスターを駅に貼る」などの、解決しようとするアイデアや、逆に「お年寄りの優先順位は妊娠中の新婦さんより上なのか?」などの問題提起も含めて良いとされていますとにかく教科書に載っていないアイデアを考える過程を重視している気がしますいまだに昔ながらの授業をしている方もいらっしゃいますが、現在の道徳教育の目指すところはそこで、ある意味菅さんのいうように「行動」より「思考」を重視しているんでしょうか?ただ結局は言葉がけだけでも行動してくれないと社会は変わらないので、思うだけで良いのは教員としては残念かなぁと思いますまぁ菅さんがおっしゃってるのは持っと直接的な事象に対する「行動」なんでしょうが…いずれにせよ無駄な長文読ませてしまいすいませんでした。優しい宇治原さんがこれを読んで忙しい菅さんに要約して伝えてくれれば嬉しいです
菅さんのおっしゃるように、行動の結果以前に、人としてどう行動すべきかを主体的に(自分で)考えることが道徳心の第一歩なのではないかと思います。高校では「道徳の時間」はなく、道徳教育は学校の教育活動全体の中で行うものとなっています。
開始3秒で私の思いを語り出してくれた菅さんに乾杯。さすがやでぇ!でも、葛藤する方が道徳心が高いとどこかで見たような…。すぐ譲れるのは当たり前になっているからなのかな
とはいえ、人に感謝されるような事であるなら、行動する人のほうが評価される社会であってほしい。
確かに、差をつけることはしてほしいですよね。行動しない人が悪というのも困りますが😅
深いお話しだと思いました。他人の心は見えませんが、心の中にある道徳心、優しさ、思いやりを理解することはとても大切だと感じました。
少年時代の宇治原さんの報われない気持ち、無二の親友に認めてもらえてよかったですね、感動的😢【はらぽち】
この話聞いて、善と偽善で友達とカフェで永遠と語り合ったのを思い出しました私は思うだけで良い派ですが、意見や行動を他者に受け入れられる体験をたくさんして欲しい〜
今日の菅ちゃんのご提案は現行の道徳科の目標に近い気がしたので、検索して資料読んできました😃道徳科の授業は道徳的な「判断力や心情」を育むものだそうで、指導要領解説には「道徳科の授業では、特定の価値観を児童に押し付けたり、主体性をもたずに言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育の目指す方向の対極にあるものと言わなければならない」とありました😌私自身は健康なら席を譲れというような躾で育ちまして😅座席については三つ子の魂というか習い性のようなものですが、道徳の授業では担任の先生の心情に配慮した薄っぺらい感想を書く子どもでした😂(Jane/ジェーン)
思うだけでいい、なんか気が楽になりました。子どもの学級通信や、学校だよりとか見てると、行動すること、自分に負けるなみたいなことがよく書いてあるので、間違ってないんやけど、なんかよし頑張ろうとなかなか思えない、しっくりこない感じが多かったのですが、お二人の話はすごくしっくりきて、自己肯定感がワンランクアップした気分です。
中学校の国語の教科書に載っていた詩人 吉野弘さんの『夕焼け』という詩が大好きで教生実習で道徳の時間にその詩を教材にして授業をしました道徳心を説くのにピッタリの詩なので興味のある方、検索してみてください😊
おもしろい!教育現場だけでなく、学問的な観点からも、とても興味深いお話でした。
何を言えるかが知性で、何を言わないかが品性、どう伝えるかが人間性ですね。【イカ納豆】
なかなか深いですね自分は道徳心強いほうだと思ってるけどなかなか行動に移せないタイプです。すばらしき世界という映画で「あんたみたいなのが1番何も救わないのよ」っていうセリフがあって、ぐさっときたのを思い出しました😂想ってるだけでも行動にうつせなかったらたしかに何も救えないですもんね
それ、我々が子どもの頃の道徳ですね。今、教材がだいぶ様変わりしてますよ。着地点や気づかせたい点など、ある程度方向性は決めますが、基本的に答えは1つじゃないというスタンスです。『親切の押しつけ系』とか『人それぞれ系』の話だと結構生徒側から辛辣な意見が出て面白いですwwwあと、道徳の授業は細かくわけると20以上の項目に分かれています。モラルについて考えるだけじゃなくて、生命に関すること、文化に関すること、自然に関することなど、1年間でまんべんなく網羅していかなければなりません。【ミスター水割】
へぇ🙄!今はそうなっているのですね!うちの地域はわかりませんが。
このテーマ、切り口好きです。だから、もう何年もロザンのファン。
私は若い頃おじい様に席を譲ったら「そんな年じゃない!」といって立ち去られ取り残されたことがあります。いろーんな思いを通り抜けて結局、人が何を思うのかより、自分の気持ちに正直にしたかったらする。したくなかったらしない。で、なんと思われようが言われようがそれはそれ。自分で自分を評価できることが1番大切だと思います。
すごく面白い回でした!私も譲りたいけど譲れないので、そもそも座らないタイプです。もしくは譲らないけど、立ち上がってその場を去ります笑思うだけでいいという言葉に救われる人はたくさんいそうですね。
子どもの考え方ってそれぞれだと思うので、「"やらないorやりたくない"を選択しても良いんだよ」というのをキチンと伝えてあげることは大事かもしれませんね。あとは哲学みたいに「優しさとは何か」「善悪とは何か」みたいなことを考えるような授業も面白いかもしれませんね!大人にとっても難しい話なので子どもと先生が一緒になって悩むのもまた勉強になりそうですね!
通勤電車でわれ先に座る人で席を譲る人は少ないです。道徳心のある人こそ座っていてほしいと思います。
"だけ"と割り切るのは難しいですが、義務教育の範疇としては概ね賛成です。他者という存在を思えない/考えすらしない という自己オンリーよりは、他者について思えることだけでもまずは扉を開いたかなと。その先をどう進むかは各個人次第ですね💛
上岡龍太郎さんは、座らずに立っているだけで良いと言われてました。いや、言い方が優しかった。実際は、椅子に座んな!って言われてました。上岡さん、宇治原さんの考え方が浸透していれば、譲る譲らない、優先座席云々の会話すら必要ない!
年配の方や妊婦さん、お怪我やご病気をされてる方等々に「席を譲りたい」と言う気持ちは人としてずっと持っていて欲しいし、実際に譲ると言う行為に繋げて欲しいその気持ちは確かに人として持っていて欲しいものですが実際に譲らないと「気持ちだけ」になってしまうので、何とか一歩踏み出してほしいなと思います断られるならまだしも「失礼な!」とか怒鳴る人は少数でしょうが居るので、そう言う人に当たったら気持ちも萎えるだろうなー…とは思いますその優しい気持ちは最初に当たる相手によって育てられもするし萎みもしますよねそして心で悪態をついていようと表面上は親切に、席を譲る人も善の心を持ってると思います善の心が全くなかったら譲らないと思うのでツンデレさん、って思うようにしますw
道徳には、内面的なことと自発的な行動と両面がありますよね。そういえば今年のお正月に母親から一日一善、徳をつみなさいと言われました。もう40やのに。
まさに小学1年生の娘が道徳の授業を面白くないという感想を持っていて、道徳の大切さをどう伝えたらいいか悩んでいました。また機会があれば、道徳をテーマにしていただきたいです😊
私も宇治原少年と同じタイプでした。めっちゃ気持ち分かる……!!!
今の道徳の授業を把握してないので自分の考えだけど、「道徳」の目的って「良い事をしましょう」ではなく「悪い事はしてはいけません」なんじゃないかと思う。電車の席の場合だと「席を譲りましょう」ではなく「足を広げたり荷物を置いたりして2席分占有してはいけません」を教えるのが道徳なんじゃないのかな。菅さんが言ってる「思ってる」人って席は譲れないかもしれないけど、2席占有したり大声で騒いだりとかはしない十分に道徳心のある人だと思う。
宇治原さんの説明しろと言われた話。我が家の長男は宇治原さんと同じように手助けしようとして「うるさい。人の発表の時に邪魔するな」と先生に怒られていました。先生によって考え方も違うのだと思いますが、先生やクラスメイトが話した内容に、雑学を付け足すことが多かった彼は、当てられなくても独り言を話すヤバいやつと認定されることがたまにあり(クラスメイトと担任の考え方で変わる)どうしたものかなぁと思っていました。
知り合いの子供で、若い人が多いバスの中で敢えてシルバーシートに座って、お年寄りや妊婦さんが乗ってきたとき譲るために席を確保しとくという子がいました。彼は席を譲る姿を褒められたいというより、席を譲る気の無い奴等からシルバーシートを守っているつもりだったみたいです(笑)これって道徳的にはどうなんだろう?
私も、宇治原さんと同じタイプです。弱者に席を譲るよりは、事前に、窓際に立っています。でも、ガラガラに席が空いているときは、立っていることが、むしろ、恥ずかしいので、隅っこにチョコンと座ります。
道徳に関しては、同じように思うことが大切だと思います。ただ、意見を言うことに関しては、思うだけではなく表現する力は必要になると思います。その方法は、挙手して発言するだけではなく、ノートに書く、班で話し合うなどさまざまな方法を用いて練習する必要はありますが、グローバル社会において意見を表現する力は、身につけておくべきだと思います。
「思っているけど行動できない子」は道徳とは全く別の問題であって、一緒にする話ではないと思います、年寄りも大人しく譲られとけ、と言う部分の問題も大きい気もしますが。
道徳は人により行動できる、進めるコマは違うと思います。人により障害は様々です。自分の場合、座席で言うなら、自分の中でルールを決めています。デパートの袋を持ってる人とは変わらない。「デパート行く程、元気なんですよね?」ってことです。意地悪かもしれませんが自分のルールです。それぐらいで道徳的な決め事はいいと思います。どれが正しい、悪いぐらいは理解しとけば。そういったことを幼い頃から理解し、自ら耐えてた宇治原さんは素晴らしいと思います。たぶん、みんな何かとルールを持っているはずだと。座席変わる変わらないだけでは道徳は語れない。授業の挙手のように、みんな心では考えがあり、そこからどう行動するかは違う。心の中で何を考えさし、行動さすかを誘導さすことは難しいと思います。
自ら立つことを決めた宇治原さんが、若い方から「席どうぞ」と譲られたら、自分の道徳心と若い方の道徳心の対立が生まれますよね。
菅さんの意見に同意です。道徳心もない行動は意味を理解せずに覚えた公式のようなもので正しい在り方ではないと思います。ただ、テストで公式を丸暗記したのか、意味を理解して使っているのかがわからないように学校という教育機関では行動の部分を評価するしかないのだと思います。たとえ丸暗記の意味のない行動だとしても考えるだけでなにも行動しない零点よりかはましかと思います。
心の部分を育てるってかなりの高等な技術が必要だと思います。だから「とりあえず行動しよう」となるのではないでしょうか。思うに、宇治原さんのように初めから道徳心のある人に道徳の授業はあまり必要ではなくて、道徳心のない人にせめて行動だけでもさせようというのが道徳の授業なのではないでしょうか。
改めて考えると、自分の持ってる道徳心って学校で教わったからってより、漫画やアニメで身に付いたものだと思います。それも、アンパンマンやドラえもんではなく10代〜20代に摂取した作品からの影響が大きいですね。思春期に自我が確立タイミングって、大人の言う事なんか全部否定から入っちゃいますし、テレビドラマでも文学でも、自分に合った作品と出会えるかってのも大事な気がします。
今回の動画は、お2人のおっしゃることには共感するのですが、こと教育となると「思わせる」のが一番難しいと思うし(道徳観って個々が自然に感じるものだと思うので)思ってるかどうかを確認する方法もないので難しいと思います😔あと、後半の意見ある話は言いたくない人の他にほんとになんも意見なくて他の人のを聞いて気づく人もいると思う😇
道徳的な行動できるかどうか、というのは道徳的な心をもっていて、なおかつ自分に余裕があることが条件のように思います余裕がなくて道徳的な行動がとれないことは大した問題ではないと思いますが、道徳的な心が育む機会がないまま経済的に豊かになることは大きな問題のように思います
子どもの頃の宇治原さん、よかったねーの回ですね。(びばびば)
その時は実際に行動に移せなくても道徳心とは何かを学んでいればいつか行動出来る日も来るかと思います。学ばなければ気付かないままのこともあるでしょうし。
思うだけでよいという考えもありだと思います。でもそれは子どものうちだけだと思います。世の中の倫理観を伴う事柄は大小様々ですが、やはり思いを伴った行動ができることが一番だと思います。子どものうちに批判的な自分、思いをもった自分、行動できなかった自分、行動にうつせた自分などたくさんの自分を見つける経験値を積ませておきたいですよね。そんなすべての経験が道徳心を育んで、大人になったとき発揮されるのだと思います。なので、授業の道徳では思うまでで良い。問題は授業で学んだことを現実社会で経験積む機会が少ないこと。だから社会人になってから試行錯誤してる大人がたくさんいるんだと思います。
20歳くらいの時、何を思ったか面接の訓練で…?あえて、電車やバスの優先席に座り、混んできたら譲るという訓練?を少ししていました。(瞬発力的な…?)道徳心の向上のカケラもありません。譲ろうと思って断られたらどうしよう、それを周りの人からどう見られるやろう?などなど色々不安になりながらも、一歩踏み出す訓練を意識していました。
自分は優先席でも座る、自分が座ってさえいれば必要な人に譲ることができるから。譲るために座ることが笑い話になっていたけれど、それでもいい。必要な人が座れるかどうかを他人に委ねるとガッカリすることも多いから、人に任せずに自分でやる。ただ、必要な人を完全には見分けられないのがやはりとても難しい。がんばって観察するしかない。昔は譲るのが恥ずかしくて、電車を降りるふりして隣の車両に移ってた。という自分の意見としては思うだけではちょっと足りてなくて、自分の一番やりやすい方法を模索してほしいかなあ。
是非ロザンのお二人の授業が聞いて見たくなりました。
おもてなしの心もそうですけど道徳も一般常識によって少しずつ変わって行くもののような気がします。相手の常識(道徳)を理解しようとする事。それより先に踏み込むのは難しいですよね。確かに思うだけで精一杯です。
これ言いたい事もの凄い分かるわあ〜!
思ってるだけで充分で、詰めればまだ座れるのに短い足を広げてたり、スマホ見るのに一生懸命な譲る気持ちが一切ない奴らより全然マシだと思います
道徳心や道徳の授業は、『教えるもの』ではなく『考えさせるもの』であるべきだと思います。具体的な行動や考え方の選択肢を提案しあえたり、考えるきっかけを作る場であるといいかなと思います。席を譲ってもらって嬉しい方ももちろんたくさんいらっしゃると思いますが、譲られたことで馬鹿にされた、年寄り扱いされたと思う方も一定数いらっしゃいますし😅
私の祖父は100歳まで元気な人で、90歳位まで電車に乗っており、席を譲られたと怒って帰ってきたり、誰も譲ってくれなかったと、その日の気分で文句を言っていました。私は若い頃に電車で席を譲ったら、年寄り扱いするなと言われてから、電車ではよほどではない限りは座りません。お年寄りや身体の不自由な方が近くに居ると、気にはしますが、どうしたら良いのか分からなくて、申し訳ないですがそのままの時が多いです。最近私は足が痛くなってきて、座りたいと思う事も増えてきましたが、まだ若いつもりでいるのか、何となく座りにくい状況ではあります😅
先日、「道義的責任が何かわからない」と仰った政治家の方がいらっしゃいました。また、巷の各種ハラスメントも制裁されるまでは個人の道徳心によるものだと思います。これらの防止策は学生時代の「道徳」に依るのではないかと思っていました。確かに道徳心を行動として発揮するか否かは個人の自由ですが、社会の中での道徳的行動の発露は必須だと思います。いっそ、テーブルマナーのように、道徳的行動の一律ルールがあれば良いとすら思ってしまいます。
「徳の道」とはなんなのか?「ぎょうにんべん」に十四の心と感じでは書きます。以前、介護福祉の授業で「聞く」と「聴く」の違いについて学びました。「徳」についても、これから考えてみようと思います。
小学生の時の道徳の教科書に、満員列車の席に荷物を置いてる人がいて譲ってもらえなかったお爺さんが、駅に停車した途端に荷物を窓から放り投げて荷物が降りたいと言ってたみたいな事を荷物の持ち主に言い放つ話がありました。どこが道徳やねんって強く反発したのですが、多くの大人の関所を潜り抜けて、それが正義だと判断されたんでしょうね。
結局はどういう理由であれ、良い行いは実行されてこそなんだと思います、心の中は見せられないから、わからないですものね😅
小中学校の道徳の授業で一番印象に残っているのは、「足の不自由な子が転けたときに手助けに行かない選択肢」の話でした。手助けに行こうとした主人公を、たしかお父さんが止めて、転けた子が立ち上がるのを見守る。転けた子を助けてしまうと、一人で立ち上がる練習ができなくなるから。でも、縁もゆかりもない他人だけれども、立ち上がれるか最後まで見守る。動画の主旨とは逸れるんですが、「行動に移さない人が何も思ってないわけではない」と言うことを、クラスで話し合ったことを思い出しました。【春蒔秋(あずまあき)】
道徳教育とは心の教育だと思ってます。菅ちゃんの考えが正しいと思いますね。宇治原さんのように若い頃からの立つ人が「俺は立ってたのに!」と思わないようにしましょう!までが道徳教育なのでは無いでしょうかね?
周りの評価より人助けした後は気分良い。道徳心とか興味ないが、出来る事はするし、無理して何かをしないし、自分の心を歪めない範囲なら助け合いに参加する。
「道徳」として相手に行動するのは一種のプレゼント表現だと思います。エゴの一種で自分自身が気持ち良いから行う。だから、席を譲って断られたら「あっそう」て具合で座ってますし、相手が座ったら「よしよし」と思ってます。
日本の教育は道徳心や善行を奨励し、それを評価対象にしているところがモヤモヤの原因のような気がします。お二人の意見とは異なるのですが、最低限守らなければいけないルールを教えて、行動に気持ちが入り込む余地がないようにするのがいいと思っています。例えば、「優先席は座らない」とか「人が立っていられない状態なら席を譲る」のルールを機械的に守る感じですね。※気持ちの葛藤もないですし、なにより行動が早くなります。
終盤は耳の痛いお話でした。子どもたちが発表せず心のなかで温めている意見や思いもあるはずですね。ただ「評価」の観点からは、発言や発表といった見えるもの、形あるものか求められるのも事実かと思います。
そう思っているはずだ、で成り立つ道徳は信頼に基づくもので、より望ましい形かもしれません。
この話題でコントがかけます。
先日電車内で足の不自由な方に高齢者が席を譲っているのを見かけました。隣には高校生が座っていました。その光景を見た人が『お前がが代われよ』と言わんばかりに高校生を見ながら大きな溜息をついていました。私はなんとも切ない気持ちになりました。
そのため息をついている人の中に立てる状態なのに座ったままの人がいないことを祈ります。
小学生の時の教師の不条理を48歳まで覚えてる宇治原様ww
俺も宇治原さんと同じく座らんけど、そう言う人にフォーカスする道徳であって欲しいとは思いますね。
「道徳心」を育てるのだから、「そう思う心」を教えたらいいなと思います。そのうえで、そう思ったのなら行動を起こせるといいねっていうのもあったほうがいいなと思って。例えば、思いがけず友だちを傷付けて泣かせてしまったときに、「悪いことしたな」っていう気持ちがあってほしいけど、やっぱり行動に移して「ごめん」が伝えられる人であってほしい。私は学生時代、電車の席に座っていて、少し混んできたら立つ人でした。譲るの、恥ずかしいですよね。以前何かのCMだったか、学生さんがおばあさんに席譲ろうと思って、勇気を出して席を立っておばあさんに声をかけていたら、おばちゃんが空いたと思ってその席に座っちゃって、乗ってた女子高生にクスクス笑われるっていうシーンがありました。ああいうの見ると、ああもう無理かもって思う。【すたば】
席を譲れと教えられて席を譲るという行為そのものは実行できても、その人が他の場で応用が効くかどうかが重要な気がします。例えば運動部の子は礼儀正しいとよく言われますが、個人的には部活以外の場で同じ礼儀正しさがあるかどうかが大事と思っていて、それと似てる思いました。
道徳か、どうかはわからないけど、善と偽善と似てるかも?小さな事なら偽善も善となり得ると思います。偽善のはるか先に、善があると思ってます。
よかれと思ってやったことが思わぬ結果を生んでしまった、そんなつもりじゃなかったのに、といったことは人間関係でありがちですね。道徳心とまとめて言っていいのか分からないですが、予測誤差を受け止め、修正していく心の働き?が、そのようなものだと思います。想像で喋ってたことに対して、実際に触れてみたり、会話をしたりして「思ってたんと違う」その誤差が人間を成長させるきっかけとなるんだと思います。
「良き行動」を起こすためには割と大きめのリソースが必要であり、そのリソースの選択肢の中に「育てた道徳心」がある気がします。結局大事なのは「良き行動」が起こることなので、それに至った行動原理とかはむしろ見ないのが正解だと思います。ヤンキーが評価されるのも行動原理を評価に含めてるのが原因。ちなみに私の経験上、ネガティブ感情で支払うよりポジティブ感情で支払った時の方が、精神衛生上のコスパが良かったです。ですから道徳は良いですよ。オススメ。
道徳は「守るべき行為の基準」なので、行動ができる前提のようですね。【イカ納豆】
阪急はいっとき「全座席優先席」にしましたがすぐ元に戻したという話を聞いたことがあります。今はどうなってるのかな?
道徳とは別でいいから、嫌でも元気なら席を譲ってほしい。
釣られました🎣"思うだけでいい"宗派は浄土真宗よりも優しい。学問としてならば思考的にも学びとり実行することを目標として教えます。倫理と宗教も実践がない場合は足りていないと評価されます。学校が教えないからアニメなどの分かりやすいもので伝えられている部分があると考えているため、あの程度の学習で終わる道徳が身に付かないことは自然なことだと考えています。
「席を譲る」等に関しては「道徳心」と「憐れみ」「哀れみ」とを混同している人が多いですね。
ちょっと今回の話の結論とは逆になってしまうけど、2000年公開の「ペイフォワード」っていう映画があって、善意の先送りを描いた映画だった。1人から助けられたら3人を助けるという約束。これにはホームレスや犯罪者など、いわゆる「普通」とは言えないかもしれない人間達も人助けの先送りのリレーをしていて、調べていくと考案した主人公の少年が浮かび上がるみたいな話。世界を変えるムーブメントは、やはり行動が効果的である、内心何を思っていても。みたいな。考えてみると、いわゆる反社であるような人間であっても局所的には日本の美徳を守る行動をしたりするわけで、悪い奴だけど、何らかのルールには従うみたいな認識をさせていく事は結構重要かなとか思ったりします。
道徳心はその子に関わるすべての人によって育まれるもので、決して学校の授業で育まれるものではないと思う。
【やってないこと(行動してないこと)は思ってない事と同じ】と言われたので、私は思ったらやるようにしています。道徳は思う事を教える事で良いと思いますが、道徳心だけでは伝わらない事を教えるのも大事なのかな⁉︎
道徳は「社会生活を営む上で、ひとりひとりが守るべき行為の規準(の総体)。自分の良心によって、善を行い悪を行わないこと。」らしいです。【イカ納豆】
今回の動画の最初は、小中と道徳の時間と言えば戦争か部落差別か在日差別しかやらなかった(人種差別すらやらなかった)地域の人間からすると「???」でした😇
元小学校教諭です。
お二人が話している姿を見せることこそが教育になるな、当時道徳教育について悩んでいた自分が観たらどう考えるだろうか、と思い巡らせる動画でした。"思うだけ"でいい、の一言で救われる子どもはたくさんいます。
これ以上は止まらなくなってしまうので自重しますが、お互いの考えを絶対に否定せず、いろいろな視点で話してくださるロザンの楽屋がだいすきです。
ちょっと話は違いますが、小学校で一番に習った道徳が「部落問題」でした。隣の地区が部落で、そこに住む仲の良い友達も沢山いました。それまで、部落というものの存在すら知らなかった私は、それについて知ったがために、「この人達は可哀想な立場だから守らなくては」との意識が芽生えました。と同時に、「知らなければ何も思わず仲良かったのに」との矛盾も覚えました。昨今ではLGBTなどの問題もありますが、「誰も何も思わないから、それについてわざわざ勉強しなくても良い」環境になるのが、本当の差別がなくなる事だなあと思っています。
その通りですね。
中学校教師です。
徳を積むための道(方法)を教えるのが道徳だと思っているので、行動することの大切さを教えているのだと思います。今の子供は夫婦共働きかつ、スマホの普及で人とのやりとりが苦手な生徒が多く、相手の思いを理解できない人が増えていると感じます。道徳を通して人がどう感じるのかを理解し、どう行動していくのが大事なのかを考えることが大切だと思います。社会に出て自己実現するための心を育てる、それが道徳であり、相手を思いやったうえでの行動であれば、席をゆずることも席を開けておくこともどちらも素晴らしい行動だと思います。
小学校で教員をしているものです。
菅さんや宇治原さんの話された通り、授業で子ども全員が手を挙げることが良いとする風潮に疑問を持っています。教員の問いかけに対して、瞬時に答えたい子、じっくり頭の中で考えていたい子、書いて整理してから発表したい子等、見渡すと様々な子達がいます。同じタイミングで全員が発表できるということは、よほどのことがない限りないです。自分の場合は、授業を受けて子どもの認識の変容や深まりを大切にしています。深め方には様々な手段があるので、子どもたちには自分にあった学び方を見つけてくれるといいなと思って授業をしています。
「席を譲れないから道徳心が薄いとは思わない」には同意ですが、心の中は見えないので、たとえ道徳心が伴っていなくても席を譲れる方が良いと思います。
譲ってもらった方はやはり有り難いでしょうし。
私も宇治原さんと一緒で、声をかける勇気が無いので座らない派ですが、子どもができてからは座らないといけない状況が増えたということもあって、子どものお手本になるように勇気を出して席を譲るようにしています。
育児と一緒で、心の中でどんなに愛していても、「大好きだよ」とかスキンシップをして愛情を示さないと子どもには伝わらないのと似ているのかなと思います。
完全同意です。
宇治原さんが道徳心を語る回が好きです。謙虚で思慮深いな〜って。
誰かが困ってから助ける人より、陰で周りが困らない様に考えて動ける人になれたらなと思いました。
自分の具合が悪い時は相手が何を思ってようが助けてくれた方が有り難いし、そう行動に移してくれるのも(打算的なものが含まれてるとしても)結局道徳の内って気もします
わたしは菅さんと真逆の考えです。行動する延長線上に道徳心が芽生えると思っています。ちょっと話の論点は違ってしまうかもしれないけど、道徳心があろうがなかろうがまわりの人が少しでも救われるなら行動あるのみかなと!
私もそれを思いました。目の前にいる困ってる人を少しでも手助け出来るのであれば行動してしまうと思います。
「やらない善意より、やる偽善」やと思ってるので、たとえみんなに見てほしくて席を譲ってる人が居ても、それは一つ、道徳として正解やと思います。【春蒔秋(あずまあき)】
やらない善よりやる偽善、とはよく言ったものですが
勇気がなくてご老人に席どうぞ、と声をかけられない人のためにも
(偽善でもいいから)やれる人はどんどんやったらいいと思います。
そしたら、勇気がなかった人も「あんな感じでいいんだ」と行動に移せるかもしれないし。
でもその場合でも、最初から立ってる宇治原さんタイプの人の善は
目立たないですよね。
でも多分どこかで誰かが(人間じゃなくても神様仏様ご先祖様)が見てくれてると思いますよ。
それで満足できない、誰かに褒められたいなら
やっぱり行動するしかないと思います😅
気持ちとセットで、そこらへんの「世の常」を教えればいいんじゃないでしょうか。
【はらぽち】
子供の頃から「イジメ・差別はいけない」と強く思っていました。クラスで弱い立場の子になるべく話しかけたりしていましたが、じゃあイジメの瞬間に立ち会った時庇えたかと言うとそこまではできず、自分を責めたりもしました。「傍観者もイジメの加担者だ」と言いますが、なかなか行動に移すのは難しいと悩む瞬間です。
僕は昔(中学生)いじめられていました。
特に体が弱かったわけではなかったので
やり返していたら、そこまで深刻なことにはなっていなかったのかもしれません。
ですが、当時から「力でいうことをきかせる」ということに異常なほど抵抗があり
(会社においては権力等でしょうか)僕は無抵抗で耐え忍んでいました。
いろんな記憶が蘇りますね。
今思えば心の中で、僕をいじめていた奴らを人間として「見下していた」んですよ。
さて、道徳的にはどうなんでしょうね・・・。σ(^_^;)
@ 他人をイジメる人は、実は何かコンプレックスを持っていたり、余裕がなかったりするものです。それを他人にぶつける事でしか解消できないので、可哀想な人なのでしょうね、きっと。見下していいと思いますよ、私は。
@@MioToyo 同意です🥰
@@psychommunity37458 中盤、なぜそうだったのかわかりませんが、わたしは我慢してやり返さなかったあなたはえらいと思います(わたしは全然ムリだった😇)
@@彌城枝里子
いろいろ、陰湿なのも含めて、あったのですが、、、。
思うところは一つで「こいつらと同じことでやり返しても意味が無い」と自分に言い聞かせていました。
で、当時の僕は何を考えていたかというと、あと三年くらい堪えてやろうじゃないか。
いい高校に行ったらきっと、こういう奴らはいないに決まってる。と、そこそこ勉強したわけです。
その甲斐あって、まぁまぁいいところに進学したのですが・・・・・。
どこに行っても同じようなのはいましたね。(いじめは受けませんでしたが)
ここからは想像になりますが、スマホなどが普及している現代。
また違ったいじめの実情があるのだと思います。精神的には今の子供達の方がしんどいんじゃないかなぁ。
そう危惧しています。
本題の「道徳」については、高校の授業にも取り入れるといいと思います。
宗教的な側面は抜きにしても、18歳までは「教育」が大事だと思います。
選挙権などが年齢的に引き下げられていますが、「学問」ではなくて「学ぶことの大切さ」が
身につくといいですね。きっと社会に出ても役立つはずです。
僕は今、介護福祉業界にいます。給料はほんと安いですが、なんとか利用者さんたちの権利擁護ができないかと
日々、いろいろな既得権益と闘っています。
自分を省みた時に「まだまだだな」と思うことが多いですが、MioToyoさんや彌城枝里子さんにそう言っていただけると
救われます。ありがとうございます。m(_ _)m
(ちなみに僕は無宗教です)
気持ちはあるけど行動しない人と
気持ちはないけど行動はする人
その時の状況によっては後者の方が良いとされる事もあるだろうし一概にこっちでよくね?って話でもないかも?
8:00 現在だけでなく、出会っていなかった宇治原さんの過去まで全肯定する菅ちゃん。
仲良し。
🥰
でも思ってるだけでは伝わらないので、勇気を出して行動したり言葉にすることは大事だと思います。それが例え偽善だったとしてもそれで助かる人がいるのであれば。
宇治原少年の道徳心エピソード、謙虚過ぎて泣けてきます。菅ちゃんに聞いて貰えて報われて良かったです。
菅ちゃんの論点はほんまに面白い
そういう考え方もあるかぁってとこの芯を突くような感覚で、毎回楽しませてもらってます。
大丈夫、宇治原さんも面白い!
断られるから言えない は自分を守りたいのかなって思うようになった。
相手がどう思おうと嬉しいと思うから代わりましょうか?は自然な一言だと思うし、もししんどかったら変わらなくて良いと思う。
夫は相手にどう思われるか より自分がどうするかやと話かっけーなと思ったよ
私は、確かに「思うこと」が大事という意見は分かるが、それは心の中で思っている感情であり、目に見えるものではなく、道徳心が無くても「道徳心あります。」と何とでも言えてしまう。言わば、感情は管理することのできないもので、「Aという感情に皆なりなさい。」と教育して、皆がAという感情になるというのは理想論に過ぎない。それに対して、行動について教育すれば、それはやったかやってないか目に見えて、管理できるものなので、行動を教育した方が白黒はっきり物事を分別することが出来ると考えます。(もちろん、感情についての教育も必要ですが…)
私も宇治原さんと全く一緒で 電車は座らない派です。理由は色々ありますが 席を譲るのが気恥ずかしいというのも理由のひとつです。
今回40年越しに心の引っかかりを明かすことができてよかったですね😊
ロザン最高のコンビですね!辛かった気持ちを共有できる素敵なお二人です😊。
考えさせられる回でした。
道徳が行動を教える時間であってほしくないですね。
行動のもとには心があるはずです。その心に種を蒔くような時間が道徳だと思います。
お二人が話されているような、親切には色々な形があることや、「思うこと」を負荷のかからない形で話し合えるような、そんな時間になるといいなと思いました。
教えられたことを素直に実践できる子が理想的な良い子になるように教えるのが一番な気がします。
実践できなくても思うだけでいいって答えを菅さんが持てたように、教えられたことが納得できなくても自分なりの答えを持てるので、心配することはないです。
現役中学校教員ですが、現在の教科道徳では「行動するように」指導をして、「行ようと思った」ことを文章化して評価をつけています
そもそも授業中に発言させる意図はクラスメイトのためにのみあるので、本人の行動強化のためにそのような声かけをする事はありません
ただそれは菅さんのいう「思うだけでいい」からなのではなく、ただの発言は評価の対象として相応しくないからです
意図の教員のせいで教科になり、僕やロザンさんが子どもの頃より道徳はだいぶ窮屈になりました
話はそれましたが、現代で「思うだけでいい」という事を授業中に言ってしまうと、それは「何もしなくて良い」と誤解される要因になります
なので今は「どんな事なら出来るかを考える」という事を全員が文字に書いて残すという事が全ての授業のゴールです
例えば席を譲るという題材であれば、目的は身体にしんどさのある方が優先されれば良いという話なので、宇治原さんのように「はじめから座らない」や、そもそも「歩ける範囲は歩こう」でも、「優先座席を増やす活動をする」でも「席を譲るポスターを駅に貼る」などの、解決しようとするアイデアや、逆に「お年寄りの優先順位は妊娠中の新婦さんより上なのか?」などの問題提起も含めて良いとされています
とにかく教科書に載っていないアイデアを考える過程を重視している気がします
いまだに昔ながらの授業をしている方もいらっしゃいますが、現在の道徳教育の目指すところはそこで、ある意味菅さんのいうように「行動」より「思考」を重視しているんでしょうか?
ただ結局は言葉がけだけでも行動してくれないと社会は変わらないので、思うだけで良いのは教員としては残念かなぁと思います
まぁ菅さんがおっしゃってるのは持っと直接的な事象に対する「行動」なんでしょうが…
いずれにせよ無駄な長文読ませてしまいすいませんでした。優しい宇治原さんがこれを読んで忙しい菅さんに要約して伝えてくれれば嬉しいです
菅さんのおっしゃるように、行動の結果以前に、人としてどう行動すべきかを主体的に(自分で)考えることが道徳心の第一歩なのではないかと思います。
高校では「道徳の時間」はなく、道徳教育は学校の教育活動全体の中で行うものとなっています。
開始3秒で私の思いを語り出してくれた菅さんに乾杯。さすがやでぇ!
でも、葛藤する方が道徳心が高いとどこかで見たような…。すぐ譲れるのは当たり前になっているからなのかな
とはいえ、人に感謝されるような事であるなら、行動する人のほうが評価される社会であってほしい。
確かに、差をつけることはしてほしいですよね。行動しない人が悪というのも困りますが😅
深いお話しだと思いました。
他人の心は見えませんが、心の中にある道徳心、優しさ、思いやりを理解することはとても大切だと感じました。
少年時代の宇治原さんの報われない気持ち、
無二の親友に認めてもらえてよかったですね、感動的😢
【はらぽち】
この話聞いて、善と偽善で友達とカフェで永遠と語り合ったのを思い出しました
私は思うだけで良い派ですが、
意見や行動を他者に受け入れられる体験をたくさんして欲しい〜
今日の菅ちゃんのご提案は現行の道徳科の目標に近い気がしたので、検索して資料読んできました😃道徳科の授業は道徳的な「判断力や心情」を育むものだそうで、指導要領解説には「道徳科の授業では、特定の価値観を児童に押し付けたり、主体性をもたずに言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育の目指す方向の対極にあるものと言わなければならない」とありました😌
私自身は健康なら席を譲れというような躾で育ちまして😅座席については三つ子の魂というか習い性のようなものですが、道徳の授業では担任の先生の心情に配慮した薄っぺらい感想を書く子どもでした😂(Jane/ジェーン)
思うだけでいい、なんか気が楽になりました。
子どもの学級通信や、学校だよりとか見てると、行動すること、自分に負けるなみたいなことがよく書いてあるので、間違ってないんやけど、なんかよし頑張ろうとなかなか思えない、しっくりこない感じが多かったのですが、お二人の話はすごくしっくりきて、自己肯定感がワンランクアップした気分です。
中学校の国語の教科書に載っていた
詩人 吉野弘さんの『夕焼け』という詩が大好きで
教生実習で道徳の時間にその詩を教材にして授業をしました
道徳心を説くのにピッタリの詩なので
興味のある方、検索してみてください😊
おもしろい!教育現場だけでなく、学問的な観点からも、とても興味深いお話でした。
何を言えるかが知性で、何を言わないかが品性、どう伝えるかが人間性ですね。
【イカ納豆】
なかなか深いですね
自分は道徳心強いほうだと思ってるけどなかなか行動に移せないタイプです。
すばらしき世界という映画で「あんたみたいなのが1番何も救わないのよ」っていうセリフがあって、ぐさっときたのを思い出しました😂
想ってるだけでも行動にうつせなかったらたしかに何も救えないですもんね
それ、我々が子どもの頃の道徳ですね。今、教材がだいぶ様変わりしてますよ。着地点や気づかせたい点など、ある程度方向性は決めますが、基本的に答えは1つじゃないというスタンスです。
『親切の押しつけ系』とか『人それぞれ系』の話だと結構生徒側から辛辣な意見が出て面白いですwww
あと、道徳の授業は細かくわけると20以上の項目に分かれています。モラルについて考えるだけじゃなくて、生命に関すること、文化に関すること、自然に関することなど、1年間でまんべんなく網羅していかなければなりません。【ミスター水割】
へぇ🙄!今はそうなっているのですね!うちの地域はわかりませんが。
このテーマ、切り口好きです。
だから、もう何年もロザンのファン。
私は若い頃おじい様に席を譲ったら「そんな年じゃない!」といって立ち去られ取り残されたことがあります。いろーんな思いを通り抜けて結局、人が何を思うのかより、自分の気持ちに正直にしたかったらする。したくなかったらしない。で、なんと思われようが言われようがそれはそれ。自分で自分を評価できることが1番大切だと思います。
すごく面白い回でした!
私も譲りたいけど譲れないので、そもそも座らないタイプです。
もしくは譲らないけど、立ち上がってその場を去ります笑
思うだけでいいという言葉に救われる人はたくさんいそうですね。
子どもの考え方ってそれぞれだと思うので、
「"やらないorやりたくない"を選択しても良いんだよ」
というのをキチンと伝えてあげることは
大事かもしれませんね。
あとは哲学みたいに
「優しさとは何か」「善悪とは何か」
みたいなことを考えるような授業も面白いかもしれませんね!
大人にとっても難しい話なので
子どもと先生が一緒になって悩むのも
また勉強になりそうですね!
通勤電車でわれ先に座る人で席を譲る人は少ないです。
道徳心のある人こそ座っていてほしいと思います。
"だけ"と割り切るのは難しいですが、義務教育の範疇としては概ね賛成です。
他者という存在を思えない/考えすらしない という自己オンリーよりは、他者について思えることだけでもまずは扉を開いたかなと。その先をどう進むかは各個人次第ですね💛
上岡龍太郎さんは、座らずに立っているだけで良いと言われてました。
いや、言い方が優しかった。実際は、椅子に座んな!って言われてました。
上岡さん、宇治原さんの考え方が浸透していれば、譲る譲らない、優先座席云々の会話すら必要ない!
年配の方や妊婦さん、お怪我やご病気をされてる方等々に「席を譲りたい」と言う気持ちは人としてずっと持っていて欲しいし、実際に譲ると言う行為に繋げて欲しい
その気持ちは確かに人として持っていて欲しいものですが実際に譲らないと「気持ちだけ」になってしまうので、何とか一歩踏み出してほしいなと思います
断られるならまだしも「失礼な!」とか怒鳴る人は少数でしょうが居るので、そう言う人に当たったら気持ちも萎えるだろうなー…とは思います
その優しい気持ちは最初に当たる相手によって育てられもするし萎みもしますよね
そして心で悪態をついていようと表面上は親切に、席を譲る人も善の心を持ってると思います
善の心が全くなかったら譲らないと思うのでツンデレさん、って思うようにしますw
道徳には、内面的なことと自発的な行動と両面がありますよね。
そういえば今年のお正月に母親から一日一善、徳をつみなさいと言われました。もう40やのに。
まさに小学1年生の娘が道徳の授業を面白くないという感想を持っていて、道徳の大切さをどう伝えたらいいか悩んでいました。
また機会があれば、道徳をテーマにしていただきたいです😊
私も宇治原少年と同じタイプでした。
めっちゃ気持ち分かる……!!!
今の道徳の授業を把握してないので自分の考えだけど、「道徳」の目的って「良い事をしましょう」ではなく「悪い事はしてはいけません」なんじゃないかと思う。
電車の席の場合だと「席を譲りましょう」ではなく「足を広げたり荷物を置いたりして2席分占有してはいけません」を教えるのが道徳なんじゃないのかな。
菅さんが言ってる「思ってる」人って席は譲れないかもしれないけど、2席占有したり大声で騒いだりとかはしない十分に道徳心のある人だと思う。
宇治原さんの説明しろと言われた話。
我が家の長男は宇治原さんと同じように手助けしようとして
「うるさい。人の発表の時に邪魔するな」
と先生に怒られていました。
先生によって考え方も違うのだと思いますが、
先生やクラスメイトが話した内容に、雑学を付け足すことが多かった彼は、
当てられなくても独り言を話すヤバいやつと認定されることがたまにあり(クラスメイトと担任の考え方で変わる)どうしたものかなぁと思っていました。
知り合いの子供で、若い人が多いバスの中で敢えてシルバーシートに座って、お年寄りや妊婦さんが乗ってきたとき譲るために席を確保しとくという子がいました。彼は席を譲る姿を褒められたいというより、席を譲る気の無い奴等からシルバーシートを守っているつもりだったみたいです(笑)これって道徳的にはどうなんだろう?
私も、宇治原さんと同じタイプです。弱者に席を譲るよりは、事前に、窓際に立っています。でも、ガラガラに席が空いているときは、立っていることが、むしろ、恥ずかしいので、隅っこにチョコンと座ります。
道徳に関しては、同じように思うことが大切だと思います。
ただ、意見を言うことに関しては、思うだけではなく表現する力は必要になると思います。その方法は、挙手して発言するだけではなく、ノートに書く、班で話し合うなどさまざまな方法を用いて練習する必要はありますが、グローバル社会において意見を表現する力は、身につけておくべきだと思います。
「思っているけど行動できない子」は道徳とは全く別の問題であって、一緒にする話ではないと思います、
年寄りも大人しく譲られとけ、と言う部分の問題も大きい気もしますが。
道徳は人により行動できる、進めるコマは違うと思います。
人により障害は様々です。
自分の場合、座席で言うなら、自分の中でルールを決めています。デパートの袋を持ってる人とは変わらない。「デパート行く程、元気なんですよね?」ってことです。意地悪かもしれませんが自分のルールです。それぐらいで道徳的な決め事はいいと思います。どれが正しい、悪いぐらいは理解しとけば。
そういったことを幼い頃から理解し、自ら耐えてた宇治原さんは素晴らしいと思います。たぶん、みんな何かとルールを持っているはずだと。
座席変わる変わらないだけでは道徳は語れない。
授業の挙手のように、みんな心では考えがあり、そこからどう行動するかは違う。
心の中で何を考えさし、行動さすかを誘導さすことは難しいと思います。
自ら立つことを決めた宇治原さんが、若い方から「席どうぞ」と譲られたら、自分の道徳心と若い方の道徳心の対立が生まれますよね。
菅さんの意見に同意です。道徳心もない行動は意味を理解せずに覚えた公式のようなもので正しい在り方ではないと思います。ただ、テストで公式を丸暗記したのか、意味を理解して使っているのかがわからないように学校という教育機関では行動の部分を評価するしかないのだと思います。たとえ丸暗記の意味のない行動だとしても考えるだけでなにも行動しない零点よりかはましかと思います。
心の部分を育てるってかなりの高等な技術が必要だと思います。だから「とりあえず行動しよう」となるのではないでしょうか。
思うに、宇治原さんのように初めから道徳心のある人に道徳の授業はあまり必要ではなくて、
道徳心のない人にせめて行動だけでもさせようというのが道徳の授業なのではないでしょうか。
改めて考えると、自分の持ってる道徳心って学校で教わったからってより、漫画やアニメで身に付いたものだと思います。それも、アンパンマンやドラえもんではなく10代〜20代に摂取した作品からの影響が大きいですね。
思春期に自我が確立タイミングって、大人の言う事なんか全部否定から入っちゃいますし、テレビドラマでも文学でも、自分に合った作品と出会えるかってのも大事な気がします。
今回の動画は、お2人のおっしゃることには共感するのですが、こと教育となると「思わせる」のが一番難しいと思うし(道徳観って個々が自然に感じるものだと思うので)思ってるかどうかを確認する方法もないので難しいと思います😔あと、後半の意見ある話は言いたくない人の他にほんとになんも意見なくて他の人のを聞いて気づく人もいると思う😇
道徳的な行動できるかどうか、というのは道徳的な心をもっていて、なおかつ自分に余裕があることが条件のように思います
余裕がなくて道徳的な行動がとれないことは大した問題ではないと思いますが、道徳的な心が育む機会がないまま経済的に豊かになることは大きな問題のように思います
子どもの頃の宇治原さん、よかったねーの回ですね。
(びばびば)
その時は実際に行動に移せなくても道徳心とは何かを学んでいればいつか行動出来る日も来るかと思います。学ばなければ気付かないままのこともあるでしょうし。
思うだけでよいという考えもありだと思います。でもそれは子どものうちだけだと思います。世の中の倫理観を伴う事柄は大小様々ですが、やはり思いを伴った行動ができることが一番だと思います。子どものうちに批判的な自分、思いをもった自分、行動できなかった自分、行動にうつせた自分などたくさんの自分を見つける経験値を積ませておきたいですよね。そんなすべての経験が道徳心を育んで、大人になったとき発揮されるのだと思います。なので、授業の道徳では思うまでで良い。問題は授業で学んだことを現実社会で経験積む機会が少ないこと。だから社会人になってから試行錯誤してる大人がたくさんいるんだと思います。
20歳くらいの時、何を思ったか面接の訓練で…?あえて、電車やバスの優先席に座り、混んできたら譲るという訓練?を少ししていました。(瞬発力的な…?)
道徳心の向上のカケラもありません。
譲ろうと思って断られたらどうしよう、それを周りの人からどう見られるやろう?などなど色々不安になりながらも、一歩踏み出す訓練を意識していました。
自分は優先席でも座る、自分が座ってさえいれば必要な人に譲ることができるから。
譲るために座ることが笑い話になっていたけれど、それでもいい。
必要な人が座れるかどうかを他人に委ねるとガッカリすることも多いから、人に任せずに自分でやる。
ただ、必要な人を完全には見分けられないのがやはりとても難しい。がんばって観察するしかない。
昔は譲るのが恥ずかしくて、電車を降りるふりして隣の車両に移ってた。
という自分の意見としては思うだけではちょっと足りてなくて、自分の一番やりやすい方法を模索してほしいかなあ。
是非ロザンのお二人の授業が聞いて見たくなりました。
おもてなしの心もそうですけど道徳も一般常識によって少しずつ変わって行くもののような気がします。相手の常識(道徳)を理解しようとする事。それより先に踏み込むのは難しいですよね。確かに思うだけで精一杯です。
これ言いたい事もの凄い分かるわあ〜!
思ってるだけで充分で、
詰めればまだ座れるのに短い足を広げてたり、スマホ見るのに一生懸命な譲る気持ちが一切ない奴らより全然マシだと思います
道徳心や道徳の授業は、『教えるもの』ではなく『考えさせるもの』であるべきだと思います。
具体的な行動や考え方の選択肢を提案しあえたり、考えるきっかけを作る場であるといいかなと思います。
席を譲ってもらって嬉しい方ももちろんたくさんいらっしゃると思いますが、譲られたことで馬鹿にされた、年寄り扱いされたと思う方も一定数いらっしゃいますし😅
私の祖父は100歳まで元気な人で、90歳位まで電車に乗っており、席を譲られたと怒って帰ってきたり、誰も譲ってくれなかったと、その日の気分で文句を言っていました。
私は若い頃に電車で席を譲ったら、年寄り扱いするなと言われてから、電車ではよほどではない限りは座りません。
お年寄りや身体の不自由な方が近くに居ると、気にはしますが、どうしたら良いのか分からなくて、申し訳ないですがそのままの時が多いです。
最近私は足が痛くなってきて、座りたいと思う事も増えてきましたが、まだ若いつもりでいるのか、何となく座りにくい状況ではあります😅
先日、「道義的責任が何かわからない」と仰った政治家の方がいらっしゃいました。また、巷の各種ハラスメントも制裁されるまでは個人の道徳心によるものだと思います。
これらの防止策は学生時代の「道徳」に依るのではないかと思っていました。確かに道徳心を行動として発揮するか否かは個人の自由ですが、社会の中での道徳的行動の発露は必須だと思います。いっそ、テーブルマナーのように、道徳的行動の一律ルールがあれば良いとすら思ってしまいます。
「徳の道」とはなんなのか?
「ぎょうにんべん」に十四の心と感じでは書きます。
以前、介護福祉の授業で「聞く」と「聴く」の違いについて学びました。
「徳」についても、これから考えてみようと思います。
小学生の時の道徳の教科書に、満員列車の席に荷物を置いてる人がいて
譲ってもらえなかったお爺さんが、駅に停車した途端に
荷物を窓から放り投げて
荷物が降りたいと言ってたみたいな事を
荷物の持ち主に言い放つ話がありました。
どこが道徳やねんって強く反発したのですが、
多くの大人の関所を潜り抜けて、それが正義だと判断されたんでしょうね。
結局はどういう理由であれ、良い行いは実行されてこそなんだと思います、心の中は見せられないから、わからないですものね😅
小中学校の道徳の授業で一番印象に残っているのは、「足の不自由な子が転けたときに手助けに行かない選択肢」の話でした。手助けに行こうとした主人公を、たしかお父さんが止めて、転けた子が立ち上がるのを見守る。転けた子を助けてしまうと、一人で立ち上がる練習ができなくなるから。でも、縁もゆかりもない他人だけれども、立ち上がれるか最後まで見守る。
動画の主旨とは逸れるんですが、「行動に移さない人が何も思ってないわけではない」と言うことを、クラスで話し合ったことを思い出しました。【春蒔秋(あずまあき)】
道徳教育とは心の教育だと思ってます。
菅ちゃんの考えが正しいと思いますね。宇治原さんのように若い頃からの立つ人が「俺は立ってたのに!」と思わないようにしましょう!までが道徳教育なのでは無いでしょうかね?
周りの評価より人助けした後は気分良い。
道徳心とか興味ないが、出来る事はするし、無理して何かをしないし、自分の心を歪めない範囲なら助け合いに参加する。
「道徳」として相手に行動するのは一種のプレゼント表現だと思います。
エゴの一種で自分自身が気持ち良いから行う。だから、席を譲って断られたら「あっそう」て具合で座ってますし、相手が座ったら「よしよし」と思ってます。
日本の教育は道徳心や善行を奨励し、それを評価対象にしているところがモヤモヤの原因のような気がします。
お二人の意見とは異なるのですが、最低限守らなければいけないルールを教えて、
行動に気持ちが入り込む余地がないようにするのがいいと思っています。
例えば、「優先席は座らない」とか「人が立っていられない状態なら席を譲る」のルールを機械的に守る感じですね。
※気持ちの葛藤もないですし、なにより行動が早くなります。
終盤は耳の痛いお話でした。子どもたちが発表せず心のなかで温めている意見や思いもあるはずですね。ただ「評価」の観点からは、発言や発表といった見えるもの、形あるものか求められるのも事実かと思います。
そう思っているはずだ、で成り立つ道徳は信頼に基づくもので、より望ましい形かもしれません。
この話題でコントがかけます。
先日電車内で足の不自由な方に高齢者が席を譲っているのを見かけました。隣には高校生が座っていました。その光景を見た人が『お前がが代われよ』と言わんばかりに高校生を見ながら大きな溜息をついていました。
私はなんとも切ない気持ちになりました。
そのため息をついている人の中に立てる状態なのに座ったままの人がいないことを祈ります。
小学生の時の教師の不条理を48歳まで覚えてる宇治原様ww
俺も宇治原さんと同じく座らんけど、そう言う人にフォーカスする道徳であって欲しいとは思いますね。
「道徳心」を育てるのだから、「そう思う心」を教えたらいいなと思います。
そのうえで、そう思ったのなら行動を起こせるといいねっていうのもあったほうがいいなと思って。
例えば、思いがけず友だちを傷付けて泣かせてしまったときに、「悪いことしたな」っていう気持ちがあってほしいけど、やっぱり行動に移して「ごめん」が伝えられる人であってほしい。
私は学生時代、電車の席に座っていて、少し混んできたら立つ人でした。
譲るの、恥ずかしいですよね。
以前何かのCMだったか、学生さんがおばあさんに席譲ろうと思って、勇気を出して席を立っておばあさんに声をかけていたら、おばちゃんが空いたと思ってその席に座っちゃって、乗ってた女子高生にクスクス笑われるっていうシーンがありました。
ああいうの見ると、ああもう無理かもって思う。
【すたば】
席を譲れと教えられて席を譲るという行為そのものは実行できても、その人が他の場で応用が効くかどうかが重要な気がします。例えば運動部の子は礼儀正しいとよく言われますが、個人的には部活以外の場で同じ礼儀正しさがあるかどうかが大事と思っていて、それと似てる思いました。
道徳か、どうかはわからないけど、善と偽善と似てるかも?
小さな事なら偽善も善となり得ると思います。
偽善のはるか先に、善があると思ってます。
よかれと思ってやったことが思わぬ結果を生んでしまった、そんなつもりじゃなかったのに、といったことは人間関係でありがちですね。
道徳心とまとめて言っていいのか分からないですが、予測誤差を受け止め、修正していく心の働き?が、そのようなものだと思います。想像で喋ってたことに対して、実際に触れてみたり、会話をしたりして「思ってたんと違う」その誤差が人間を成長させるきっかけとなるんだと思います。
「良き行動」を起こすためには割と大きめのリソースが必要であり、そのリソースの選択肢の中に「育てた道徳心」がある気がします。
結局大事なのは「良き行動」が起こることなので、それに至った行動原理とかはむしろ見ないのが正解だと思います。
ヤンキーが評価されるのも行動原理を評価に含めてるのが原因。
ちなみに私の経験上、ネガティブ感情で支払うよりポジティブ感情で支払った時の方が、精神衛生上のコスパが良かったです。ですから道徳は良いですよ。オススメ。
道徳は「守るべき行為の基準」なので、行動ができる前提のようですね。
【イカ納豆】
阪急はいっとき「全座席優先席」にしましたが
すぐ元に戻したという話を聞いたことがあります。
今はどうなってるのかな?
道徳とは別でいいから、嫌でも元気なら席を譲ってほしい。
釣られました🎣"思うだけでいい"宗派は浄土真宗よりも優しい。学問としてならば思考的にも学びとり実行することを目標として教えます。倫理と宗教も実践がない場合は足りていないと評価されます。学校が教えないからアニメなどの分かりやすいもので伝えられている部分があると考えているため、あの程度の学習で終わる道徳が身に付かないことは自然なことだと考えています。
「席を譲る」等に関しては「道徳心」と「憐れみ」「哀れみ」とを
混同している人が多いですね。
ちょっと今回の話の結論とは逆になってしまうけど、
2000年公開の「ペイフォワード」っていう映画があって、善意の先送りを描いた映画だった。
1人から助けられたら3人を助けるという約束。
これにはホームレスや犯罪者など、いわゆる「普通」とは言えないかもしれない人間達も人助けの先送りのリレーをしていて、調べていくと考案した主人公の少年が浮かび上がるみたいな話。
世界を変えるムーブメントは、やはり行動が効果的である、内心何を思っていても。みたいな。
考えてみると、いわゆる反社であるような人間であっても局所的には日本の美徳を守る行動をしたりするわけで、悪い奴だけど、何らかのルールには従うみたいな認識をさせていく事は結構重要かなとか思ったりします。
道徳心はその子に関わるすべての人によって育まれるもので、決して学校の授業で育まれるものではないと思う。
【やってないこと(行動してないこと)は思ってない事と同じ】
と言われたので、私は思ったらやるようにしています。
道徳は思う事を教える事で良いと思いますが、道徳心だけでは伝わらない事を教えるのも大事なのかな⁉︎
道徳は「社会生活を営む上で、ひとりひとりが守るべき行為の規準(の総体)。自分の良心によって、善を行い悪を行わないこと。」らしいです。
【イカ納豆】
今回の動画の最初は、小中と道徳の時間と言えば戦争か部落差別か在日差別しかやらなかった(人種差別すらやらなかった)地域の人間からすると「???」でした😇