【解説】千葉県に「日本最古級の前方後円墳」が存在する謎【神門古墳群】
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名古屋大学【歴史の科学証明】樹木年輪からみた気候と環境の過去・現在・未来/中塚武教授
• 名古屋大学【歴史の科学証明】樹木年輪からみた...
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■参考文献
黒田龍二「纒向から伊勢・出雲へ」
中塚武「気候適応の日本史」
市原古墳群刊行会「上総市原台の光芒─市原古墳群調査と上総国分寺台遺跡調査団─」(2000)
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■目次
00:00 本編
11:02 5号墳撮影記録&市原歴史博物館
市原市民ですが、古墳は身近な存在です。
看板が立ってたり神社になってたりすればまだ良い方で、竹藪をよく見るとこんもり地面が盛り上がってたり、カブトムシ探して雑木林に入ったら人の背丈くらいの土盛りと遭遇したり。知り合いの家なんかは古墳をくり抜いて炭窯を作ってたり🤣
古墳が日常の中にあまりにも何気なく溶け込んでいます。
不思議なんですが、となりの千葉市は少ない気がします。
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たしかに千葉市は加曽利貝塚なんて有名ですが、古墳はあまり聞かないですね。
市原市には国分寺もあったりするので、古代は権力との繋がりが強めの地域だったのかも知れません🤔
神門古墳群の近くに、戸隠神社があります。この戸隠神社の境内には本郷1号墳、本郷2号墳、本郷3号墳と古墳が三基あり、縄文時代の土器の欠片も見つかっています。
千葉県民なので、とても興味深く観させていただきました。あまり無理せずにup して下さい。😅
この動画クオリティ高すぎ
ゆっくり解説系古墳動画の中では今までで最も優れた内容だと思う
なにより、魏志倭人伝の記述に拘らず、21世紀以降の新しい考古学的知見を援用しているのが素晴らしい
纏向遺跡の建物が伊勢神宮に似ているのではないかということについてですが、平安時代初期の『皇太神宮儀式帳』に当時の伊勢神宮の図が残されていて、内宮の神宝を奉納した高床倉を五重の瑞垣で囲っています。考古学調査では各地の発掘で祭祀場跡に高床倉の建物跡が見つかっていて(奈良県秋津遺跡、兵庫県松野遺跡など)、4世紀まで遡れそうだという説もあり、やはり4世紀がこれらを繋ぐミッシングリンクなのかも知れない
形象埴輪には建物を囲う遮蔽物のようなものも出土しており、今後発掘調査が進めばこの空白が埋まっていくことでしょう
神門古墳群はまさに初期の王朝が3世紀前期の段階で関東から九州まで古墳の全国展開を始めていた事を示唆するもので、奈良盆地に強い政治力が集結している事を想像させるに足る、目に見える根拠の一つだと思います
この動画で触れられていないネタとして、新潟県佐渡島の蔵王遺跡から内行花文鏡と一緒に出土した木材の年代測定でも3世紀後半という測定結果があり、3世紀はまさに纒向勢力が台風の目の時代だったと言えるでしょう
千葉に住んでても、この古墳は知らなかった。動画アップありがとうございます。
最近ヤマト朝廷阿波発祥説で賑わってて、それと関連して見ると、今まで不明だった「点」が「線」で繋がって来て全体像が見えて来ている感じがしますね。
これまでと違って古代日本の謎解きが急に進んで来たように思え、とても面白いです。
安房は阿波から来た説もあるので色々と妄想が捗りそうです。
忌部が行く前から 古墳ありますが。
実家の近所にこのような古墳があったんですね。
と言うより古墳だと思わずに脇を通っていました。
市原市は大小様々な古墳が点在してましたが、宅地になって潰されてしまいました。
畑の脇を歩いていると土器のカケラがゴロゴロしてました。
そんな環境を残せなかったのが悔やまれます。
神門古墳群の近くの戸隠神社も古墳です。
千葉県民として、小御門の地を守るものとしても、たいへん興味深く拝見させて頂きました。
今後の動画も、楽しみにしております。
そもそも、縄文時代には東日本の方が人口が多く、千葉県は古墳数全国ランキング4位です。日本の3神宮の一つ、香取神宮もあります。西からやってきたのではなく、もともと大きい勢力があって、西から影響を受けたと思われます。
元々日本の中心は東の方で、それが火山の噴火によって生活できなくなって、西の方に移動して行った。さらに西でも火山の噴火があって. . . . 火山の噴火が日本の歴史を見ていく上で最重要な出来事ではないかと思う。
それと 地球の気温の変化もあったのではないか
私は大陸から多くの人の流入はなかったし文明や文化も基本的には日本の中で進化していったのであって大陸との交流はあるけれど、重要なものではないと考えます。むしろ主に文明,文化は日本からシナや米大陸に伝わったのではないか?
@@nomadkyoto5431その頃に日本の中心という概念は存在しない
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すいません。中心という言葉を. . . .全体が統合し一体化した "中心" という意味ではなく、人口が大きい方とか より発展した方 というくらいの意味で使いました。言葉が雑でした😔
三神宮と言えば 茨城県の鹿島神宮も香取神宮の近くに有ります。
三神宮のうち ニ神宮があの辺りに有るのは 何か理由が有るのでしょうね⁉️
古墳が作られた時期って既に縄文時代からかなりの期間が経過してるし、発掘される遺跡からも縄文時代以前て千葉ってそんな、、、いや何でもないです
千葉県民ですが千葉って陸の島みたいな印象ありますね。
千葉県は利根川と江戸川で関東平野から完全に隔てられた「島」ですよ。
千葉県に出入りするには、橋を渡るか、船で渡るか、飛行機で渡る?か泳いで渡るかしか無いんです。
それもそうですが、その昔、海抜がもっと内陸側にあって、千葉県は島になっていたんです。当然江戸(東京)はまだ海の底。
縄文海進の時、九十九里平野が海の底だったのにはビビりました。
@@user-mn6nr5pj1o いや、一つ忘れてます。都営新宿線で 地下もぐって本八幡まで来る手があります。
成田あたりの古墳群は行ったことあるんですが市原は知りませんでした。帰郷したら行ってみたい!自分の苗字が生まれたのもこの地方なので。
ここからはにわかの推察です。
この当時から鹿島/香取がかなり重要な場所だったのは間違いありません。そして西日本から鹿島へ行くには武蔵の国を通るのでは無く、今の横須賀あたりから富津あたりまで船で渡るのが一般ルートだったみたいです。これはヤマトタケルの話でも出てきます。(お妃が荒海に身を投げるシーンです)
だから房総半島は南が上総(かずさ)で北が下総(しもうさ)と呼びます。 個人的には西から鹿島に向かうルート上で、今の東京湾を渡った後にある拠点として栄えたのでは無いでしょうか?
阿波はもっと南なのでこの遺跡とは直接は関係ないかも?忌部氏の影響はありそうですが。
市原住んでて知らなかった、70キロチャリで来たことにびっくりお疲れ様でした
鴨川シーワールドで有名な地域は今でも「安房鴨川」(あわかもがわ)って言います。
千葉県の南側は通称「安房国」(あわのくに)中腹は上総(かずさ)、北部は下総(しもうさ)
全く隠されていなかったのに、今まで阿波と安房鴨川が「あわ」で共通してるって気が付きませんでしたw
上総下総は昔から住んでいた縄文弥生人たちが、安房国は他所から来た人たちが治めていた、って言うのは有り得そうですね。
安房郡は安房神社の神郡として上總から分離されたんですよね。安房神社ってかなり古くて香取神宮より古い言い伝えも有るらしいです。格式も神郡なのでかなり高いようで、阿波の忌部氏が移住、開拓から始まったとか言われてますね。阿波と安房、そう言う関係ですね。紀伊と合わせて地名も似てるのも、黒潮にのって行き来した人達が多かったからだと思います。
しかし、我が房総半島に神郡が2つもあるとか、やっぱり只の土地じゃ無さそうですね。
しかもついでにいうと第六天魔王の総本山もあります。香取市山倉の山倉大神です。千葉県パネー
アップ有難う御座います。関東方面には気軽に遠征とはいきませんので、貴重な映像有難うございます。関東で出現期から前方後円形というのは、それだけで貴重ですね!宝物庫というのも纏向と共通していたんですね。それにしてもチャリとは。。。安全にはくれぐれもご注意ください!
東征といえば鹿島と香取 というか印旛沼、東京は江戸時代の前頃まで干潟だったことを考えるとなんかいろいろ認識が間違っていることが有るかもしれない。東日本で銅鐸はすごいね。
昔、江戸は湿地帯、とても通行できるような所でなかったので、相模から海路で安房、上總に渡って下總、常陸へ行っていた。都に近い方が上、遠い方が下となり、地図で下が上總、上が下總がとなっている。印旛沼は今の利根川東側、手賀沼、霞ヶ浦含め、香取海という内海だった。香取と鹿島の両神宮は香取海の畔に建ってたらしい。
めっちゃ興味が有りますもっと千葉の歴史についてやってほしいです。
上総国ってのは延喜式からNo.1の大国だから土地がとても肥えていたんだよ。これは茂原周辺にガスが涌いてその副産物として古来から沃土と言われる(ヨード)ものが土地を肥沃にしていた為。そして海産物も豊富な上平地が多かったので人が住むのに適していた。
古代にこの周辺に文化圏があっても不思議では無いと思う。そう考えると日本の古代史は思っているより深いのかも知れない。
そう言う大国なので、3つしかない親王任国の一つなんですよね。そして桓武平氏発祥の地でもありますしね。
天富命が上陸した地が館山で湾内を辿って養老渓谷沿いに行ったのかもしれませんね。
上総の国の一宮に祀られてるのは玉依毘売、阿波忌部氏が上陸した安房の国の一宮は天太玉命ですね。
養老渓谷より上に行かなかったのは、下総には香取神宮や鹿島神宮を祀る氏族がいたからだと思います。
意外と知られていませんが、千葉県北東部~糸魚川に至る交易ルートがあったようですね。
千葉県には他にもだいぶ削られてしまって、言われなければ気が付かないくらいになってしまってますが、八千代市の東葉高速線村上駅近くに六世紀終わり頃〜7世紀初め頃の最後の前方後円墳と言われている印旛郡栄町の浅間山古墳と似た特徴があることからその頃のものと思われる、全長50m・後円部径35m・高さ3.5m、前方部幅32m・高さ2.5mの前方後円墳が存在してるんですよね。しかも現在その古墳の上には丁度前方と後円の中間当たりに社殿を構える根上神社があることから、古来から神事の場だったのでは?と思われるものが存在しているので、本当に謎が多い県なんです。
八千代市民なのに古墳あるの知らなかったil|li orz il|li
@@neo8697 郷土博物館に足を運ぶか、実際にその場所に行くか、超マイナーな市や県の出してる観光ガイドマップ的なのを見ないとわからないくらいにドマイナーなので、仕方ないですよ(^_^;)
因みに根上神社古墳から車で5分もしない距離にある七百余所神社という神社にも、ぱっと見盛り上がってる小山程度にしか見えないのに直径20m・高さ3mの円墳が鳥居の前の広場にあったりするので、やっぱり村上は神社があるところに古墳ありって感じで、なにか密接な繋がりがある気がしてロマン溢れた土地なんじゃないかと思ってます!
すごく古い時代の古墳ですね。千葉県在住ですが初めて知りました。
前方後円墳が鍵穴のような形になる経緯がわかる貴重な古墳なんですね。
君津に亜久留王の胴塚がありますが、亜久留王は日本武尊の東征で滅ぼされた地元の豪族の長だと聞いたことがあります。だとすると2世紀頃の人物かもしれません。なので、3世紀頃の人物の古墳が市原にあっても納得できます。
チバニアンも市原市ですね。チバニアンの地層は比較的新しいですが、銚子市には白亜紀の地層がありますね。
地形がどこも低い千葉県なのに地層は違うから面白いです。
茂原にある橘樹(たちばな)神社はオトタチバナヒメをお祀りしてますが、昔は本殿がなく古墳をそのまま拝んでいたそうです。千葉県各地の歴史の痕跡は面白いですね。
前に白山神社巡りをしていた時に、君津の白山神社古墳という場所に行ってきました。
千葉にも古墳があるんだぁ〜なんて思いながら散策しました。
やはり高台の様になっていて、背の高い木がたくさんあって静寂に包まれた良い場所でした。
各地から集まった人達が喧嘩せず住んでたっていうのはのんびりしてて人懐っこい現代の千葉県の県民性にもつながってる感じで良いですね。
千葉県はこれまでほとんど餓死者を出した記録がないと聞いたことがあります。
縄文時代から現代まで海の幸山の幸に恵まれた良いところです😊
大筋賛同ですが、やはり大阪に出張にいくと明石家さんまさんとか研ナオコさん似の弥生顔の人が多く殆ど半島やシナとの見分けは付かない気もします。なので🟰では無いもののかなりの人数が移住してきたと思います。
三方が海なので海産物が豊富、平地も台地もあるので農業、畜産、酪農に向いてて、気候もそれなりに温暖。空港があり貿易港があり、工業があり、天然ガスは出てくるわ、温泉(熱くない)は出るわ、有形文化財?の小湊鐵道はあるわで最高!独立出来んじゃないの?って感じですね。
あと、平氏が基盤を造った土地ですし、将門さまの子孫でもある房総平氏が土地を守ってたからなのもありますね。なので民から搾取して私腹を肥やす腐った朝廷の役人に頭来て成敗する乱か起こった土地でもあります。その時に朝廷軍が現地で乱取りを働き、民が困窮し荒廃したようです(どちらが正規軍がわからない)。その後室町に入り、関東はいち早く戦乱に巻き込まれるも、小田原の北條氏がまともな民政をしながら拡大していったので房総平氏も同盟して南関東一体にパラダイスが形成。だけども大坂を拠点にして民から重税をとり贅沢三昧な剥げネズミが発生、関東にも押し寄せて、遂に小田原攻めをされ、北條と共にしていた房総平氏は改易になってしまい、小田原共々、南関東のパラダイスが消滅。そして江戸時代は徳川譜代の血も涙もない年貢の取り立てが酷かったとか。結局、平安で朝廷軍が来たときと享保の乱で鎌倉公方と将軍が敵対して大混乱になって千葉氏も宗家が滅亡した時、江戸幕府時代の徳川の譜代が統治したときが餓死者が出たかもしれませんね。
すばらごい!うちの近所にも古墳が公園になっている場所などがあります。千葉県です。
関東は古墳が実はかなり多くて、多摩川河川に巨大な古墳(関東最大級)が多くあります。
田園調布古墳群なども見に行かれてはどうかな?と思います。
また荒川河川には氷川神社が多く、そこには富士塚も多くあります。この富士塚も古墳時代前期の有力者の円墳ではないか?と言われてます。富士山が見えないのに富士塚、富士信仰なら浅間神社が普通は立ってます。
南側は宅地開発で壊されてしまい残ってる古墳も少ないですが、東に行けば大型古墳が開発を免れて残ってる場所もあります。
北関東は榛名山の噴火で壊滅的打撃を受けてて、その資料館もあります。
もしかすると関東は物凄い勢力があったかもしれません。
芝公園にも丸山前方後円墳、円墳遺跡群があります。円墳遺跡群は、プリンスタワー建設で壊されましたが。
うわぁ、なんて面白そうなんだ・・・。
二千年近くも前の海路。ロマンだなぁ。
日本の歴史は掘れば掘るほど深くなる。
芝山仁王尊に埴輪ミュージアムがありますが 古墳時代から仏教が伝来し 仏教を受け入れていく過程が垣間見え 当時の中央からすると千葉は地方なのに情報伝達がスムーズだった事を想像するととてもすごい事だなぁと感心してます
興味深いですね。
チョッと離れますが千葉県には伊勢神宮と同格とされた香取神宮と少し先の茨城県には鹿島神宮がありますが、それとの関連が気になります。
ロケハンお疲れ様でした。
千葉一之宮の「安房神社」の社伝には、阿波国(徳島)から来た忌部族たちによって神社が創建された旨が記されているようですので、
香取・鹿島神宮についても同様の経緯で創建されたのではないでしょうか?
都川周辺の台地のそこら中掘ると住居跡とか貝塚とか出てきます。今よりさらにより温暖で定住が多かったんだと思います。支流の坂月川には日本最大の加曾利貝塚がありますし。と言うことは、それなりに古くから文化も発展していたとも考えられますし、昔から伊勢の皇大神宮以外に神宮と呼ばれた2社が下總と常陸にあるのも昔から何かがあるのかなぁ?って何時も思ってます。
@@tmotchy93
その貝塚で暮らしておりますw
少し前に話題となったチバニアンや最近知った大多喜城下町の開発など面白い動きがありますね。
@@user-uy2bx7dy8q さん
あら?結構近いかも知れませんね。その貝塚近くに友人結構います。
考古学的な発見や、歴史的なターニングポイントで上總、下總が絡んでくるのはワクワクしますね。
ご近所さんいて嬉しいです。私は滑橋貝塚の近所です。加曽利貝塚、坂月川は散歩運動スポットです。
とても面白かったです、フォローしました。次のコンテンツもおまちしてます、学業も頑張ってください!
記紀には富士山が登場しない、これこそが、
古代に於いて東海・関東地方への主要ルートが海路であったことを暗に示している様に思います。
日本武尊と弟橘媛の物語を読んでください
「袖ヶ浦」の地名の経緯をさがしてください
面白いですよ!
大学生かあ~今後の活躍が楽しみです。
小学生時代は市原市民だったので、学校の授業でこの辺りの古墳と国分寺跡に見学に行きました。
この古墳群の近所に市役所があるのは、この辺りが国府だった名残とか。
近くには養老川という大きな川があり、海も近いので、
ずっと昔から人や物が集まりやすい場所だったのだと思います。
高熱出しながらの編集お疲れ様です。今まで西日本から纏向の方への東征という価値観一辺倒でしたが、こういう捉え方もあるんだと思って大変面白く拝見いたしました。
マニアックな動画でびっくりしました 笑 分かりやすくて素晴らしいです、ありがとうございました👍
安房と上総は別の国なので(安房には古墳が無い)阿波忌部の筋はちょっと薄いかなと思いました、5号墳の直下の層には、円形周溝墓の遺構が大量にありますし、動画でおっしゃる通り阿波地域の相似墳と呼ばれる弥生墳丘墓とは連続性がないと考えるのが自然かと…独立棟持柱の遺構は国分寺跡の下に埋まっているので今後周辺都市遺構が発掘される可能性は低そうです。この地域は弥生環濠集落の最東端でもあって、紀元前の加治遺構も同じ海上国(当時の上総 下総 常陸を合わせた地域)にあるので魏志倭人伝っぽい地方都市があったかといえばあったのでしょうね。 中世に千葉の先住を主張する氏族は忌部だけではなく大伴氏などもいますので、この辺を研究している学者の方は比較的多い様な気がします。僕は、この地域の支配権は概ね大王家が一歩リードしていたと思います。古墳時代の出土物からそう思わせる事が多いです。
大変面白かったです。どうぞお大事にお過ごしください😢
千葉って日本で古墳の数が上位になる位だから、少し田舎に行くと、そこら中に古墳がある気がする。
畑や田んぼの中に、ちょっとこんもりしてて、人手が入ってなかったりすると、大体古墳だったりします。
中央政権から遠い関東に旧官幣大社正一位勲一等の2社があるのが不思議で、何かあったんだろうなぁと思っていたので楽しい探索ですね。
ほんとに不思議ですよね。それも日本書紀に出てくる天照皇大神より古い、武神2柱がそれぞれ奉られてるのも、やはりこの辺の地に何かが有ったのかって思っちゃいますよね。
『神門』と書いて、『ごど』と読むんだよな。
佐倉市内、国道51号線に、『神門』十字路がある。
そう言えば、市原の国分台に、色々と、遺跡あるんだよな。
更級日記出発点ですから
神門の読みは「ごど」ではなく「ごうど」です。英語表記では「GODO」になりますが。
千葉県生まれで千葉育ち、今でも千葉で仕事してるけど、千葉って古墳とか遺跡やらがメチャクチャあるからな~(^^;)
00:40 上総を「かみつふさ」と呼んでいたのは大昔、現在は「かずさ」なので紹介動画としては「かずさ」が適切と思います。
それにしてもここはほぼ地元(車で10分)なので初めて知ってちょっと驚いています。
かみつふさが時間と共になまってかづさ、かずさになったんですけどね。しもうさも、しもつふさからしもふさ、で、しもうさになった。
千葉は結構古墳あるよね
外房にも結構ある
うちの近所にもある
千葉に住んでいます。今度、ご指摘のあった市原の古墳に行ってみます。
古代の人々の、東西南北に移動するモチベとエネルギーってすごいなと最近になって思う。
駅の階段すらつらいのに。
味美春日井市古墳もたしか
前方後方墳だった記憶があるが。この同じ東海西部に該当し
同じ勢力圏ということなのか。
ありがとうこざいます。
ようやく神門古墳群に陽の目が…
阿波忌部とは逆に、千波足尼(ちはのすくね)が総(麻)国から粟国の国造に赴任したという話もありますね。
市原市の弥生時代の遺跡からは東海地方との結びつきの強さを表す出土品が多く、また無数の環濠集落が密集して並び立つのが特徴なんでしょうかね。
3世紀後半と見られる製鉄遺跡(沖塚遺跡)も北の八千代市にあり、弥生時代末期の千葉県は何か特殊な地域だった可能性があるかも知れません。
以前から行きたいと思っていた古墳群でした。凄く勉強になりました。こういった入植者たちが四道将軍のモデルになっていくのかも。
すばらしい動画です。
最後のほうのゴホウラ貝製腕輪の写真に、自分の修士論文のテーマの帯状銅釧がチラッと映って、おってなった。
草刈遺跡も紹介してほしかったな〜
千葉県の調査映像ありがとうございました。市原と千葉市を調べて見たいと思っていたので参考になりました🙏
千葉県住んでたけど前方後円墳あるの知らなかった。
おぉ、現地取材は良いですなぁ。机上の空論よりも出土事実の積み上げこそが正解だってはっきりわかんだね。
しかし、不思議だよなぁ。
故語拾遺に書いてあることも「考慮」すると阿波から来たってのはあるんじゃないのかなぁ。
忌部氏かどうか、はともかく地名には痕跡あるもんな。
前回の動画の流れかと思ってたら考察動画だった。アレはあれで良いけれど「5ch日本史板住人さん」ぽいのはこっちだよなぁ。
コロナで亡くなったTH-camrもいらっしゃるのであまり無理はなさいませんようご自愛ください。これからも興味高い動画楽しみにしています。
縄文期に九州で大きな噴火がありその影響で西日本全体は食糧がとれなくなり、生き残った人々は東に移動したはず。で、1000年くらいして九州も落ち着いて、今度は東から西に移動した。その他に東北の気候が寒くなったのも原因で関東や西にも移動したと思う。で、九州や西日本の生活が安定して色んな人と交わって発展して神武東征とかとにかく東に行ったのかなぁと。
そこから養老川挟んだ反対側にも前方後円墳が有るけど、この辺では前方後円墳が珍しいなんて知らなかった
東海道は大井川など大河や、箱根の険しい山道があるため、海路が望まれた。
「亞久留王」の系統じゃね?鬼泪山も近そうだし。
15:01風土記には大きなクスノキが生えてて倒れた房の方を上総、幹の方を下総としたとあります。
市内南部の姉崎在住です。
散歩で行ける範囲にも古墳が3箇所ありますが、市内にそんな貴重な古墳があったとは勉強になりました😊
一番新しい前方後円墳も千葉県にありますね
ムッちゃん古墳
修学旅行で京都も良いけど、
地元の歴史を知らな過ぎた…
相模国橘吾衛跡廻りなんて削りに削られたどう見ても巨大古墳が2つもあって天辺にはちゃんとつまんない鳥居が乗ってる
延喜式から漏れたからこの扱い
動画の千葉県だけど太平洋側R128沿いの東金〜成東区間にはこれまた巨大などう見ても前方後円墳跡があるけど、これも延喜式から漏れて放ったらかし
(5:40)陸なのに「海道」と呼ぶ理由。おもしろい指摘ですね。
ちはら台の古墳公園とか身近にあるので興味深く拝見しました。昔、大学で江戸時代の牧場調査をしましたが、地名を良く見るようになりました。市原市の地名が関西地方に多くあることから、そこからの氏族が来ていると思っています。
市原には伯父が死ぬまで住んでたので古墳見に行こうかしら。70kmも自転車踏んで腰痛めたくないし今は我が家から70kmじゃ到達出来ないので電車で行きます。因みに高校は千葉県で私の住まいは同級生から「ちばらきけん」と揶揄されてた場所です。はい、茨城県のものすごく南で川越えると千葉という千葉ナイズされてる茨城という意味です。でも、方言が全然違う……
小貝川より西で、旧利根川より東側は元々下總です。もしその辺の方だったらほぼ千葉ですね。
知らなかったこといっぱいで、興味深かったです、古墳内の木製神殿?伊勢神宮に見られる棟を支える柱の構造が有ると知り、木造建築の技術が海洋の船に有ると話しを知ってから、古代の建築の成り立ちに興味がわきます。
古墳の上に寺社施設を設けている実例は他にもありますよ。
独立楝特柱建物は古墳群にあったのではなく、中台遺跡で見つかったんですよ。料理かもせんの近くです。
千葉について、古墳時代(紀元後250年前後)を中心に掘り下げる前に、紀元前40,000年前の旧石器時代から「綿々と続く千葉の歴史」を見たほうが良いと思います☺
youtubeチャンネル: 千葉テレビ放送(チバテレ)
動画: 『ちば見聞録』#005&#006
貝塚と古墳群が語る房総の古代(前編および後編)
th-cam.com/video/BALzciEywII/w-d-xo.htmlsi=aALq5VTSH2gWawYL
th-cam.com/video/1dNwdt7T8h4/w-d-xo.htmlsi=xCcDSicyj7l9F4B8
正にそうですね❗️加曽利貝塚(千葉市)の展示館にある年表を見て余りの古さに驚きました❗️こちらでは学芸員のようなボランティアの方に案内してもらってお話を伺えます♪
古墳時代の房総半島と西国の行き来は 船での東京湾横断のみでした
日本武尊猛と弟橘媛が三浦半島で何をしたかご存知では?
千葉県に「袖ヶ浦」の地名が2か所に有り そのいきさつを聞いたことがありませんか?
古代の大手町ビル群が千葉にあったと
お疲れ様でございます🤣✨
このシリーズで現地の動画はめずらしいですね。ありがとうこざいます。前方後円墳でも初期の
ものは少々形が違うということですね。
尾張西から千葉までが似た形の
古墳ということですね。
勢力圏が同じということですかね。
千葉って日本最大の方墳もあるし、太古には実はすごい場所だったのかしら?
千葉は日本で一番、古墳の数が多いですね。走っていると丸い丘や山があると思うと、大体は古墳です。あと、忌部では川崎市の麻生区も彼ら由来の土地です。200年代の日本の人口推定が50万人から70万人前後だとすると、よく、これだけのもを作り上げられた感嘆します。
チャリで千葉まで来てくれた主に感謝😂❤
阿波 阿波 阿波 もう いいよ。
阿波忌部が千葉に行って開拓したのはわかるけどさぁー。その土地の人々がいたからなんだけどなぁー。忌部行かなくても 古墳作ってあったと思うけど 権力者いたよ。
奪ったんじゃない?いい土地は 我々のものだと…よくある話
畿内・東海西部ということは尾張氏が作ったのでは
圏央道がなかなか進まないぐらい遺跡だらけの北総大地^ ^
房総半島南部には、諏訪神社と浅間神社が多いんですよね。私はこの神社は黒曜石と関係があると想像しています。
神津島の黒曜石も房総半島に直接運ばれたかもしれません。神津島から伊豆半島へ運ぶより、房総本島の方が黒潮の流れに乗れば運び易かったでしょうね。
市原象の国もひょとして…はないか。成田に風土記の丘てとこにも資料館と円形古墳はあったかな。小学生の時行ったがその場で線状もようの弥生土器のカケラ拾ったから、ポッケ入れちゃったよ。💦
主、かわいいな笑
この先も投稿楽しみにしてるよ
主もお身体ご自愛くださいー
新しい動画待ってる!
富津にも青堀駅~市役所のあたりにかけて保存状態の良い古墳群がありますよね
航空写真で見てもハッキリわかります😊
トンデモ説動画かと思いきや、しっかり学術的でたまげたなぁ🤗
千葉県には大きなものから小さなものまであちこちに貝塚があり、縄文時代から集落が多数あったと思われます。
古墳もかなりありますね。千葉の他の場所…例えばいすみ市にも前方後円墳があるようです。
千葉って陸路が遮断されていたのに凄いですね。
👍. 楽しめました。 日本って、史跡が「あれ?」と思うようなところに、ひっそり(?)と確かにあるから思いを馳せずにはいられない ✨.
阿波忌部氏の影響なのかな?全国の阿波忌部氏が集まってきたのかな?全部の場所に阿波忌部いたからね
ちょっと前、阿波という地名を千葉ではない関東で見つけた。
ご近所すぎて唖然とした。
ちょっと行ってくるわ。
今の市原市から利根川の方まで勢力範囲としていた一族がいたのかもしれません。延喜式神名帳による三神宮は伊勢神宮・香取神宮・鹿島神宮だけで香取・鹿島の御祭神はともに国譲りのときに活躍した神となっています。奈良の鹿が崇められるのも鹿島神宮から白い鹿に乗って武甕槌命が鹿島神宮からやってきたことによります。その一族は中央に従うだけではなく中央にも相当な力を持っていたのでしょう。
チバニアンもあるし、市原市すごい
戦前まで日本では偉い人があの世に行ったらすぐ神様です。古代では首長や王さまはみんな神様です。銅鐸が出たということは4世紀ごろまで畿内中心に分布していた銅鐸文化を持ったなぞの一族の末裔ですね。ヤマト勢力が畿内に及ぶにともない、逃げて移り住んだのかもしれませんね。
最古の古墳とか、チバニアンとか、
市原市、アツいなぁ
なんで、ここに古い前方後円墳があるのか。もっと、成り立ちに迫りたいね。
これ逆だったりしない?
元々千葉に3種類の土器と古墳を持つ村があって
その人らがそれぞれ西に散らばっていってそれらを伝えたとか
「神門」古墳群はとても興味深いです。美濃に神戸、合渡という地名があり、また、出雲口伝が西出雲王家名を「神門」臣家と伝えていますから、銅鐸も出土しているし、それら相互の関係性を追求してみたいですね。
古墳は気にした事ないですが役所関連等施設など土地を開拓する時は必ず土器探ししてから始めますので。そうゆう事でしたか。
最初期の形状から存在してるのが面白い。また、同じ様に形状が変化しているのも。畿内からの移住者が居て、暫くは畿内との交流、交易があり、古墳の進化もその影響があったんでしょうか。
古代には関東地域に“日本国”というとても発展した国があったそうでは?その情報があれば教えてください!
美濃の養老町周辺は、出雲色が濃厚に漂います。
天富尊は 忌部の三代目。 父は天日鷲尊(経津主尊・斎主尊) その父が太玉尊。
日向武将 三神の一人。
タケミカズチ アメノコヤネ で、大和朝を 広めたのでしょうね?
そういえば袖ケ浦の伝説もあったしねぇ
畿内方面から黒潮に乗って流れ着いた人々が集落を造ったんだろう
これ、夜中にどこからか聞こえる謎の声の動画をあげているYamaQさんの家のそばの古墳ですよ。何か関係があるのか。
この古墳の変遷を見ると、「前方」後円墳の認識がおかしいことが分かりますね。
日本の古墳の中心部分は、円墳部なんですよね
だから5号墳であるのであれば、帆立貝型墳丘墓となると思われます。
何故か下野型前方後圓墳は主體部が前方部にあります
千葉に学生時代4年間住んでたが、当時は古墳とか地名の由来に関して興味が無かった。最近、小湊鐡道・いすみ鉄道で房総半島横断鉄道旅したけど、古墳情報は知らなかった。残念。佐倉の国立歴史民俗博物館も、この年になってから訪れると面白い。
市原市の神門古墳群の近くに、惣社戸隠神社があります。この戸隠神社の境内には、本郷1号墳、本郷2号墳、本郷3号墳と古墳が三基あり、中台遺跡の首長の墓ではないか?とも言われており、まだ未発掘ですが、神門古墳群より、もっと古い古墳群ではないかと言われてます。中台遺跡の独立楝特柱建物が在った場所は、戸隠神社の近くです。
千葉県の内房は、日本武尊命が上陸した地でもあり、姉崎神社には日本武尊命も祀られている。それを考えると、中台遺跡の独立楝特柱建物は、日本武尊命を祀っていたのかな?
ちなみに昔、戸隠神社の裏手で、麻を栽培していたそうです。
余談ですが、会津若松市の大塚山古墳(前方後円墳)では、三角縁神獣鏡(通称、卑弥呼の鏡)が出土してます。
西広民です😊