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約半世紀前に南海ファンになった名古屋人です。どうしても大阪球場 生選手見たさに15歳で近鉄電車乗って行きました。初めて見た球場 動く選手感動で鳥肌が立ちました。良い思い出です。
南海ホークスのユニフォーム好き
コロナ前、大阪の新世界で呑んだ時現地在住の老夫婦と仲良くなりお二人とも野球が大好きということで飲みながら野球の話をしたのですが「大阪の野球チームといえば南海!」とずっと熱く語っておいででした。2003年の日本シリーズの際は旧南海応援団が八方手を尽くしてダイエー応援団のチケットとその近くのビジター席の切符を手配し皆でホークスの応援に行った。甲子園では全部負けちゃったけど福岡では全部勝って日本一になった。あれで「ホークスは福岡のチームになってしまったんや」と改めて実感した、とも。難波というか、ミナミ周辺在住の年配の方達にとって、南海ホークスは特別な存在のようですね。
1964年鶴岡一人監督,先発投手ジョー・スタンカ,皆川睦雄,杉浦忠,新山隆史,打者野村克也,広瀬叔功🎉🎉🎉🎉
ホークスファンですが南海時代は地元の福岡の番組でもなかなか特集しないのでこうして動画で分かりやすく解説してくれるのは本当に助かります。こう言うのは知りたかったので
なんばパークスのホークス記念館絶対立寄ってまうくらい好き
何年か前に僕が行った時は、ノムさんが南海ホークスでプレーしていなかった事になっていたのですが(ノムさんの奥様と球団フロントが大喧嘩したからか)、今はノムさん関連の写真などが飾られているようですね。今度、行ってみようかな。
野村がなかったのは沙知代のせい
阪神が巨人に勝てないから、南海が巨人を倒して当時の関西人はさぞ嬉しかったでしょうね。
この頃を調べるたび、初期ホークスは良くも悪くも鶴岡一人そのものだったと思います。「この人のために頑張る」組織というのはモチベーションを保ちやすい反面、その人がいなくなったら組織がガタガタになる典型例だったかと。
うぽつです!
皆川睦雄さんは絶対に外せない‼️生え抜き投手では史上最多の通算221勝をあげています。(1968年に史上13人目の通算200勝を33歳3ヶ月で達成しています。シーズン30勝目が通算200勝、サブマリン投手では史上初の200勝到達者)
皆川は日本で初のカットボールを投げ、日本最後の30勝投手です。いい投手でした。
良くも悪くも鶴岡監督のチームだけど、鶴岡監督の辞任した後、監督となった蔭山監督が急逝し無ければ、長い暗黒期にはならなかったかもなぁ。
鶴岡監督の力が大きすぎた故に蔭山ヘッドコーチは既にホークスの崩壊を予見していた感じです。鶴岡監督は非常に優秀な監督である一方そのカリスマ性と実力に球団も依存していました。前任が優秀すぎるといつの時代も後任は苦労しますね。
杉浦さんや広瀬さんは名前だけは聞いたことがあっても、球界にどんな影響を与えた選手なのかは知らなかったのですが、こんなに歴史を変えた選手だったとは目の付け所が唯一無二すぎて本当に勉強になります。次回も楽しみにしてます!
80敗以上は過去8回ある。
かなり昔のゲーセンで置いてた、野球ゲームで緑のチームがやたら強かったのは、これのせいか
緑のチームが強かったのは、おそらく初代ファミスタで「レイルウェイズ」というチームがあったからと思われます。このチームは当時のパ・リーグの阪急・南海・近鉄3チームの混成いいとこどりのチームだったためと思われます。しかし、この措置はパ・リーグが不人気かつソフトの容量不足のため取られた措置であり、ゲーセンが街に登場した時代には、既に南海は弱小チームに落ちぶれていました……。南海が強豪だったのは、ゲーセンが街にできるよりずっと前、家庭にカラーテレビが普及し始めた頃になります。
どっちかと言うとファミコンのベースボールみたいなゲームでCOM側が緑を使うと強い補正が掛かる感じのゲームなんですよねかなり古いから、思い出補正も有るかな初代ファミスタはレイルウェイズとフーズフーズが強かった印象ですね🥸
昔のゲーセンの野球ゲームで緑色のチームとなると水島新司さんのドカベン絡みのアーケードゲームではないでしょうか?主役の明訓高校のユニフォームは緑基調のデザインがされているようです。(水島さんは南海ファンなので影響を強く受けていると思われる)アーケード初期の作品ですから記録があまり残っていない様ですが…
長嶋が南海に入団してたら歴史も替っていたでしょうね~!杉浦、野村、長嶋と!人気チームになり今でも健在だったかもな!
自分がリアルタイムで知っているのは、もう暗黒時代だった。野村監督兼四番捕手で話題に取り上げられても暗いキャラクターの感じで後のヤクルトでの明るい感じとは全然違っていたのが印象的。
ヤクルト監督時代も、漫画などでは暗いキャラで描かれていた。
お茶の間のイメージが明るい雰囲気になったのは楽天監督時代からなあ
紳士と言ってる巨人、昔から江川事件並みの事やってたんだな。
別所さんの場合は、野球協約や統一契約書が無かったため、契約切れたら移籍出来た。(現在のサッカーの移籍と同様な考えだった)江川の場合は、野球協約の不備を突いたもので、倫理的問題はあるが合法ではあった。 桑田の場合は、ドラフトに掛けており、何ら問題ない。
紳士たれ=悪人たれだな
最初に別所さんを巨人から奪ったのは南海だぞ❗( ;`Д´)
「大阪に南海かや(返)さんかい。」とボヤくおっさんは、絶滅しない❗️
私は晩期しか知らない世代だがやっぱ門田さんがすごかったしかし故人となり悲しい
悲喜こもごものホークスの歴史。見ていて楽しいです。それにしても杉浦さん素晴らしい成績ですよね。今じゃ考えられませんけど、杉浦さんがいなかったらホークスの日本一はなかったんじゃないでしょうか?今のソフトバンクホークスにも杉浦さんのような素晴らしい投手がいてくれたら・・・そう思ってしまいます。
1959年 ホークス🆚読売 ホークスの4連勝ストレート勝ち その60年後 再現した 福岡ホークス🆚読売またしても 読売を👊ノックアウト
南海末期を知ってますが、打線はよくてもピッチャーが酷かった!山内両投手が10勝しても15敗以上したとか・・・・・。
帽子のロゴが違う。「Y」ではなく「N」だろう。(笑)後、川上さんの場合は、巨人入りが決まった後、南海からオファーが来たという。(川上さん本人が書き残している。「巨人軍の鬼と呼ばれて」)
あえてロゴマークはロゴの一部のどこかをYに変えたりしています。当初は著作権のトラブルを避ける意図がありましたが、現在ではこのチャンネルの個性づけのような意味合いでやってます☻川上さんの件はそうだったのですね、南海側の資料しか見てなかったの気づけませんでした。ありがとうございます。
電鉄球団の本拠地球場は、一等地ではなく、郊外に作るべきでしたね(苦笑)。南海ホークスの本拠地球場なら堺辺りか。その電車に乗って貰わないと意味が無い。
帽子のマークYじゃなくてNやで。
あえてロゴマークはロゴの一部のどこかをYに変えたりしています。当初は著作権のトラブルを避ける意図がありましたが、現在ではこのチャンネルの個性づけのような意味合いでやってます☻
パ・リーグに関西の球団が3つもあったのはあまりに多過ぎた。しかも阪神がいるから人気の面では逆立しても勝てない。これでは身売りも止むを得ない。結果的に福岡に行ってよかった。
現在はフランチャイズ保護規定で、同地区に2チームは存在出来ないが、規定成立以前に存在した球団については適用されなかった為に、関東に巨人、西武、日ハム、ロッテ、ヤクルト、横浜、近畿に阪神、阪急、南海、近鉄と1地区に球団が集中する状態が2000年代まで続いた。
@@あほ拳コッチー 今ほど交通網が発達してなかったのもあったんでしょうね。昔は飛行機で移動なんて概念がほとんどなかったし、関東と関西が主だったらほぼ新幹線だけで事足りるし、広島と中日は当然として、その後に出来たダイエーも同じ東海道線ですからね。
@@kato31142 80年代バブル期の好景気の波に乗り、北海道に新球団を作ろうというプロジェクトがあり、札幌ドームの原型ともいえる球場建設の青写真も描かれるほどの熱の入れようだったが、人材不足やスポンサーの協力が受けられなかった事による資金不足などで計画自体は実現せず、やがて忘れ去られ、20年後に日韓ワールドカップ開催による札幌ドーム建設を機に、日ハムの札幌移転が実現した事で計画は半分だけ実現する形となったが、球団が地方に分散するのは時代の流れ的に既定路線だったと思う。関西は移転と合併により阪神とオリックスと2球団に整理されたが、いずれ関東も二球団ないし3球団に整理される時がくるのではないかと予想している。
阪神は懇意のマスコミが付いたけど南海はなぁ…(迂闊に放送権料の釣り上げなんかしたから…)
阪神も人気が出たのは40年代の終わり頃からで、それでも巨人戦以外の観客動員は悪かったと記憶しています。また、今と違い当時は親会社も小さく、ファンからすると市民球団的な垣根の低さがあって親しみやすかったのでしょうね。南海の場合は、テレビ放映権を高く買わそうとしてテレビ局にそっぽを向かれたのが最大の誤算でしょう。
鶴岡さんの下で強くなったのは八百長選手を片っ端から追放したから‼️_(^^;)ゞ
江川の件といい今回の回と言い巨人って昔から意地汚かったんだな。そしてホークスは川上も長嶋も取れなかったけど数十年の時を経て巨人から王貞治を獲得し黄金期を築いた。
長嶋さんの場合は、担当スカウトの凡ミス。川上さんの場合は、巨人入りが決まった後の謂わば後出しジャンケン。
川上さんの場合は、南海の提示額が巨人より高かった事を後から聞いて、「しまった!」と後悔したそうですね。
帽子のロゴマークがヘンテコリンやで(^-^)。NHを組み合わせた形か、鷹をイメージした鳥(🦅の形なら正解。NとYなんてあり得ない。ニューヨーク ヤンキースやんか(爆笑)。
ごめん。HYやったね。余計に無いわ。
@@枝豆とビール-o4h著作権対策とチャンネルの独自性を出すためとのことです
堀内時代の巨人が低迷した要因は色々ありますが泉さんは何が一番大きかったと思いますか?コメント欄には清原に対して球団とは関係ない長嶋一茂を通して構想外という大切なことを伝えるなど選手への扱いが酷かったり、ポジションの被る長距離砲を獲得しては捨てることを繰り返すなど雑な編成をしていたフロントが悪いという意見や、堀内が無能だったなど色々な意見がありましたがお考えが気になったのでお伺いしました。また他のチャンネルの巨人暗黒期を語る動画では清原が悪いと批判しているものがありますが、彼も軽薄な言動があったけど、フロントの杜撰な球団運営に巻き込まれた被害者だったのではと感じていますが泉さんは清原の言動についてどう感じてますか?彼の立場をサラリーマンに置き換えて考えても会社を辞めた先輩からクビを宣告されたら、会社に行って事実を確認するだろうし、なぜ直接伝えてくれないんだろうと会社に不信感を抱くと思うので私は清原がフロントと揉めたのは球団側に落ち度があったのかなと感じています。
堀内巨人が低迷した理由について→大きいのは投手陣の補強・育成が上手くいかなかったことだと思います。巨人は90年代後半以降、自由枠で投手を取った割には上原さん以外はあまり成長していないませんでした。これが00年代中盤の先発陣の不安定さに繋がったと言えます。 リリーフについても河原純一、岡島秀樹らの不調等でストッパーが決まらず、苦しい状況となりました。藤田・長嶋監督時代は外国人や先発を一時的にストッパーに転向させてその場しのぎのように対応することが多かったためか、当時の巨人フロントや首脳陣にリリーフ軽視?の風潮があったようにも感じられました。(原監督は河原のリリーフ転向など、重視しているように感じました)そのため、03年に河原が不調になって以降は年単位で守護神を固定できなかったことも大きな低迷の要因になったと考えます。 巨人と清原の対立について→かなりフロント側の落ち度はあると思います。そもそもこの時代の巨人は一場事件等でフロントも辞任・新任が多く混乱しており、一貫した対応がとれているとはいえない状況でした。(これは清武氏の著書からも伺えます)監督にしても堀内監督と清原が対立していたかどうかはあまり定かではありませんが、あまりコミュニケーションがとれていないように感じました。(一方的に清原氏が敵視していたようにも感じます)令和の現在の価値観で見れば、フロント・監督側がもっと清原に対して配慮があってしかるべきだと感じました こうしたことに涙を飲む選手が多い中、逆に清原というビッグネームだからこそここまで大きな話題にすることができ、かつ戦力外を一度覆して残留するという(覚書があったとはいえ)力技に持っていけたとも言えます。 一方で、2005年シーズンに最後のチャンスをもらったのにも関わらず、チーム成績・自身の結果ともに振るわなかったことは、プロ選手としては言い訳できないことで、彼が納得しなかろうが懇願しようが06年以降の巨人残留は叶わない結果に終わったでしょう。それが巨人という結果が求められる球団なら尚更だったでしょう。 個人的には原監督が03年以降も続投していたら、清原氏を戦力外にしなければならなくなった際、どのような対応をするのか気になるところです。
約半世紀前に南海ファンになった名古屋人です。どうしても大阪球場 生選手見たさに15歳で近鉄電車乗って行きました。初めて見た球場 動く選手感動で鳥肌が立ちました。良い思い出です。
南海ホークスのユニフォーム好き
コロナ前、大阪の新世界で呑んだ時
現地在住の老夫婦と仲良くなり
お二人とも野球が大好きということで
飲みながら野球の話をしたのですが
「大阪の野球チームといえば南海!」
とずっと熱く語っておいででした。
2003年の日本シリーズの際は
旧南海応援団が八方手を尽くして
ダイエー応援団のチケットと
その近くのビジター席の切符を手配し
皆でホークスの応援に行った。
甲子園では全部負けちゃったけど
福岡では全部勝って日本一になった。
あれで「ホークスは福岡のチームに
なってしまったんや」と
改めて実感した、とも。
難波というか、ミナミ周辺在住の
年配の方達にとって、南海ホークスは
特別な存在のようですね。
1964年鶴岡一人監督,先発投手ジョー・スタンカ,皆川睦雄,杉浦忠,新山隆史,打者野村克也,広瀬叔功🎉🎉🎉🎉
ホークスファンですが南海時代は地元の福岡の番組でもなかなか特集しないのでこうして動画で分かりやすく解説してくれるのは本当に助かります。こう言うのは知りたかったので
なんばパークスのホークス記念館絶対立寄ってまうくらい好き
何年か前に僕が行った時は、ノムさんが南海ホークスでプレーしていなかった事になっていたのですが(ノムさんの奥様と球団フロントが大喧嘩したからか)、今はノムさん関連の写真などが飾られているようですね。
今度、行ってみようかな。
野村がなかったのは沙知代のせい
阪神が巨人に勝てないから、南海が巨人を倒して当時の関西人はさぞ嬉しかったでしょうね。
この頃を調べるたび、初期ホークスは良くも悪くも鶴岡一人そのものだったと思います。
「この人のために頑張る」組織というのはモチベーションを保ちやすい反面、その人がいなくなったら組織がガタガタになる典型例だったかと。
うぽつです!
皆川睦雄さんは絶対に外せない‼️生え抜き投手では史上最多の通算221勝をあげています。(1968年に史上13人目の通算200勝を33歳3ヶ月で達成しています。シーズン30勝目が通算200勝、サブマリン投手では史上初の200勝到達者)
皆川は日本で初のカットボールを投げ、日本最後の30勝投手です。いい投手でした。
良くも悪くも鶴岡監督のチームだけど、鶴岡監督の辞任した後、監督となった蔭山監督が急逝し無ければ、長い暗黒期にはならなかったかもなぁ。
鶴岡監督の力が大きすぎた故に蔭山ヘッドコーチは既にホークスの崩壊を予見していた感じです。
鶴岡監督は非常に優秀な監督である一方そのカリスマ性と実力に球団も依存していました。
前任が優秀すぎるといつの時代も後任は苦労しますね。
杉浦さんや広瀬さんは名前だけは聞いたことがあっても、球界にどんな影響を与えた選手なのかは知らなかったのですが、こんなに歴史を変えた選手だったとは
目の付け所が唯一無二すぎて本当に勉強になります。次回も楽しみにしてます!
80敗以上は過去8回ある。
かなり昔のゲーセンで置いてた、野球ゲームで緑のチームがやたら強かったのは、これのせいか
緑のチームが強かったのは、おそらく初代ファミスタで「レイルウェイズ」というチームがあったからと思われます。このチームは当時のパ・リーグの阪急・南海・近鉄3チームの混成いいとこどりのチームだったためと思われます。
しかし、この措置はパ・リーグが不人気かつソフトの容量不足のため取られた措置であり、ゲーセンが街に登場した時代には、既に南海は弱小チームに落ちぶれていました……。南海が強豪だったのは、ゲーセンが街にできるよりずっと前、家庭にカラーテレビが普及し始めた頃になります。
どっちかと言うとファミコンのベースボールみたいなゲームで
COM側が緑を使うと強い補正が掛かる感じのゲームなんですよね
かなり古いから、思い出補正も有るかな
初代ファミスタはレイルウェイズとフーズフーズが強かった印象ですね🥸
昔のゲーセンの野球ゲームで
緑色のチームとなると
水島新司さんのドカベン絡みの
アーケードゲームではないでしょうか?
主役の明訓高校のユニフォームは
緑基調のデザインがされているようです。
(水島さんは南海ファンなので
影響を強く受けていると思われる)
アーケード初期の作品ですから
記録があまり残っていない様ですが…
長嶋が南海に入団してたら歴史も替っていたでしょうね~!杉浦、野村、長嶋と!人気チームになり今でも健在だったかもな!
自分がリアルタイムで知っているのは、もう暗黒時代だった。野村監督兼四番捕手で話題に取り上げられても暗いキャラクターの感じで後のヤクルトでの明るい感じとは全然違っていたのが印象的。
ヤクルト監督時代も、漫画などでは暗いキャラで描かれていた。
お茶の間のイメージが明るい雰囲気になったのは楽天監督時代からなあ
紳士と言ってる巨人、昔から江川事件並みの事やってたんだな。
別所さんの場合は、野球協約や統一契約書が無かったため、契約切れたら移籍出来た。(現在のサッカーの移籍と同様な考えだった)
江川の場合は、野球協約の不備を突いたもので、倫理的問題はあるが合法ではあった。
桑田の場合は、ドラフトに掛けており、何ら問題ない。
紳士たれ=悪人たれだな
最初に別所さんを巨人から奪ったのは南海だぞ❗( ;`Д´)
「大阪に南海かや(返)さんかい。」とボヤくおっさんは、絶滅しない❗️
私は晩期しか知らない世代だがやっぱ門田さんがすごかった
しかし故人となり悲しい
悲喜こもごものホークスの歴史。
見ていて楽しいです。
それにしても杉浦さん素晴らしい成績ですよね。
今じゃ考えられませんけど、杉浦さんがいなかったらホークスの日本一はなかったんじゃないでしょうか?
今のソフトバンクホークスにも杉浦さんのような素晴らしい投手がいてくれたら・・・
そう思ってしまいます。
1959年 ホークス🆚読売 ホークスの4連勝ストレート勝ち
その60年後 再現した 福岡ホークス🆚読売
またしても 読売を👊ノックアウト
南海末期を知ってますが、打線はよくてもピッチャーが酷かった!
山内両投手が10勝しても15敗以上したとか・・・・・。
帽子のロゴが違う。「Y」ではなく「N」だろう。(笑)
後、川上さんの場合は、巨人入りが決まった後、南海からオファーが来たという。(川上さん本人が書き残している。「巨人軍の鬼と呼ばれて」)
あえてロゴマークはロゴの一部のどこかをYに変えたりしています。
当初は著作権のトラブルを避ける意図がありましたが、現在ではこのチャンネルの個性づけのような意味合いでやってます☻
川上さんの件はそうだったのですね、南海側の資料しか見てなかったの気づけませんでした。ありがとうございます。
電鉄球団の本拠地球場は、一等地ではなく、郊外に作るべきでしたね(苦笑)。南海ホークスの本拠地球場なら堺辺りか。
その電車に乗って貰わないと意味が無い。
帽子のマークYじゃなくてNやで。
あえてロゴマークはロゴの一部のどこかをYに変えたりしています。
当初は著作権のトラブルを避ける意図がありましたが、現在ではこのチャンネルの個性づけのような意味合いでやってます☻
パ・リーグに関西の球団が3つもあったのはあまりに多過ぎた。
しかも阪神がいるから人気の面では逆立しても勝てない。
これでは身売りも止むを得ない。
結果的に福岡に行ってよかった。
現在はフランチャイズ保護規定で、同地区に2チームは存在出来ないが、規定成立以前に存在した球団については適用されなかった為に、関東に巨人、西武、日ハム、ロッテ、ヤクルト、横浜、近畿に阪神、阪急、南海、近鉄と1地区に球団が集中する状態が2000年代まで続いた。
@@あほ拳コッチー 今ほど交通網が発達してなかったのもあったんでしょうね。
昔は飛行機で移動なんて概念がほとんどなかったし、関東と関西が主だったらほぼ新幹線だけで事足りるし、広島と中日は当然として、その後に出来たダイエーも同じ東海道線ですからね。
@@kato31142 80年代バブル期の好景気の波に乗り、北海道に新球団を作ろうというプロジェクトがあり、札幌ドームの原型ともいえる球場建設の青写真も描かれるほどの熱の入れようだったが、人材不足やスポンサーの協力が受けられなかった事による資金不足などで計画自体は実現せず、やがて忘れ去られ、20年後に日韓ワールドカップ開催による札幌ドーム建設を機に、日ハムの札幌移転が実現した事で計画は半分だけ実現する形となったが、球団が地方に分散するのは時代の流れ的に既定路線だったと思う。関西は移転と合併により阪神とオリックスと2球団に整理されたが、いずれ関東も二球団ないし3球団に整理される時がくるのではないかと予想している。
阪神は懇意のマスコミが付いたけど南海はなぁ…(迂闊に放送権料の釣り上げなんかしたから…)
阪神も人気が出たのは40年代の終わり頃からで、それでも巨人戦以外の観客動員は悪かったと記憶しています。また、今と違い当時は親会社も小さく、ファンからすると市民球団的な垣根の低さがあって親しみやすかったのでしょうね。南海の場合は、テレビ放映権を高く買わそうとしてテレビ局にそっぽを向かれたのが最大の誤算でしょう。
鶴岡さんの下で強くなったのは八百長選手を片っ端から追放したから‼️_(^^;)ゞ
江川の件といい今回の回と言い巨人って昔から意地汚かったんだな。
そしてホークスは川上も長嶋も取れなかったけど数十年の時を経て巨人から王貞治を獲得し黄金期を築いた。
長嶋さんの場合は、担当スカウトの凡ミス。
川上さんの場合は、巨人入りが決まった後の謂わば後出しジャンケン。
川上さんの場合は、南海の提示額が巨人より高かった事を後から聞いて、「しまった!」と後悔したそうですね。
帽子のロゴマークがヘンテコリンやで(^-^)。NHを組み合わせた形か、鷹をイメージした鳥(🦅の形なら正解。NとYなんてあり得ない。ニューヨーク ヤンキースやんか(爆笑)。
ごめん。HYやったね。余計に無いわ。
@@枝豆とビール-o4h著作権対策とチャンネルの独自性を出すためとのことです
堀内時代の巨人が低迷した要因は色々ありますが泉さんは何が一番大きかったと思いますか?コメント欄には清原に対して球団とは関係ない長嶋一茂を通して構想外という大切なことを伝えるなど選手への扱いが酷かったり、ポジションの被る長距離砲を獲得しては捨てることを繰り返すなど雑な編成をしていたフロントが悪いという意見や、堀内が無能だったなど色々な意見がありましたがお考えが気になったのでお伺いしました。また他のチャンネルの巨人暗黒期を語る動画では清原が悪いと批判しているものがありますが、彼も軽薄な言動があったけど、フロントの杜撰な球団運営に巻き込まれた被害者だったのではと感じていますが泉さんは清原の言動についてどう感じてますか?彼の立場をサラリーマンに置き換えて考えても会社を辞めた先輩からクビを宣告されたら、会社に行って事実を確認するだろうし、なぜ直接伝えてくれないんだろうと会社に不信感を抱くと思うので私は清原がフロントと揉めたのは球団側に落ち度があったのかなと感じています。
堀内巨人が低迷した理由について
→大きいのは投手陣の補強・育成が上手くいかなかったことだと思います。
巨人は90年代後半以降、自由枠で投手を取った割には上原さん以外はあまり成長していないませんでした。これが00年代中盤の先発陣の不安定さに繋がったと言えます。
リリーフについても河原純一、岡島秀樹らの不調等でストッパーが決まらず、苦しい状況となりました。藤田・長嶋監督時代は外国人や先発を一時的にストッパーに転向させてその場しのぎのように対応することが多かったためか、当時の巨人フロントや首脳陣にリリーフ軽視?の風潮があったようにも感じられました。(原監督は河原のリリーフ転向など、重視しているように感じました)
そのため、03年に河原が不調になって以降は年単位で守護神を固定できなかったことも大きな低迷の要因になったと考えます。
巨人と清原の対立について
→かなりフロント側の落ち度はあると思います。そもそもこの時代の巨人は一場事件等でフロントも辞任・新任が多く混乱しており、一貫した対応がとれているとはいえない状況でした。(これは清武氏の著書からも伺えます)監督にしても堀内監督と清原が対立していたかどうかはあまり定かではありませんが、あまりコミュニケーションがとれていないように感じました。(一方的に清原氏が敵視していたようにも感じます)令和の現在の価値観で見れば、フロント・監督側がもっと清原に対して配慮があってしかるべきだと感じました
こうしたことに涙を飲む選手が多い中、逆に清原というビッグネームだからこそここまで大きな話題にすることができ、かつ戦力外を一度覆して残留するという(覚書があったとはいえ)力技に持っていけたとも言えます。
一方で、2005年シーズンに最後のチャンスをもらったのにも関わらず、チーム成績・自身の結果ともに振るわなかったことは、プロ選手としては言い訳できないことで、彼が納得しなかろうが懇願しようが06年以降の巨人残留は叶わない結果に終わったでしょう。それが巨人という結果が求められる球団なら尚更だったでしょう。
個人的には原監督が03年以降も続投していたら、清原氏を戦力外にしなければならなくなった際、どのような対応をするのか気になるところです。