親鸞聖人のみ教えとは?【第10問】法の深信について
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- เผยแพร่เมื่อ 6 ก.พ. 2025
- 今回は第10番目の機の深信についてです。
9番目と10番目は、「二種深信」として、
親鸞会でも、信心獲得の重要事項とされています!!
法の深信とは、何が知らされるのでしょうか?
信心獲得の瞬間に、衝撃的なハッキリ体験が有る事なのでしょうか?
間違いやすい論題ですので、じっくりご覧頂きたいと存じます。
キチっとお聖教をよりどころとして、学んで参りましょう。
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#親鸞会 #菊谷 #添谷 #カルト #浄土真宗 #本願寺
渡部さんへの反論をブログに書きました。
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やっと渡部さんが反論してきました。反論しない宣言は反故にされたということです
ね。
喜ばしいことですので、次以降も反論をお願いしますよ。
金剛心についてですが、すでに添谷さんに反論済みですが内容を御存知ないみたいで
すので、まとめておきます。
信巻
しかれば願成就の「一念」はすなはちこれ専心なり。専心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ深信なり。深信はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ決定心なり。決定心はすなはちこれ無上上心なり。無上上心はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ相続心なり。相続心はすなはちこれ淳心なり。淳心はすなはちこれ憶念なり。憶念はすなはちこれ真実の一心なり。真実の一心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなはちこれ大菩提心なり。この心すなはちこれ大慈悲心なり。
『唯信鈔文意』
この一心は横超の信心なり。横はよこさまといふ、超はこえてといふ、よろづの法にすぐれて、すみやかに疾く生死海をこえて仏果にいたるがゆゑに超と申すなり。これすなはち大悲誓願力なるがゆゑなり。この信心は摂取のゆゑに金剛心となれり。これは『大経』の本願の三信心なり。この真実信心を世親菩薩は、「願作仏心」とのたまへり。この信楽は仏にならんとねがふと申すこころなり。この願作仏心はすなはち度衆生心なり。この度衆生心と申すは、すなはち衆生をして生死の大海をわたすこころなり。この信楽は衆生をして無上涅槃にいたらしむる心なり。この心すなはち大菩提心なり、大慈大悲心なり。この信心すなはち仏性なり、すなはち如来なり。この信心をうるを慶喜といふなり。
この中でわかりやすいものをピックアップして
真実信心
=金剛心
=大慶喜心
=大慈悲心
=仏性
です。
つまり
信心を獲る
=金剛心を獲る
=大慶喜心を獲る
=大慈悲心を獲る
=仏性を獲る
ですので、現世で金剛心を獲るのです。
問題は金剛心になるのかということです。
金剛心とイコールである大慈悲心がわかりやすいですが、現世で大慈悲心にはなれま
せん。でも「大慈悲心を獲る」なのです。
ということは、現世で大慈悲心を獲ても大慈悲心になれず、大慈悲心になるのは来世
仏になってからです。
同じことで、
現世で金剛心を獲ても金剛心になれず、金剛心になるのは来世仏になってからです。
この単純な理屈が、親鸞会では理解できないようです。
その根拠が真仏土巻の
惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。『経』には、「われ十住の菩薩、少分、仏性を見ると説く」とのたまへり。ゆゑに知んぬ、安楽仏国に到れば、すなはちかならず仏性を顕す。本願力の回向によるがゆゑに。また『経』には「衆生未来に清浄の身を具足し荘厳して、仏性を見ることを得」とのたまへり。
です。
金剛心
=大慶喜心
=大慈悲心
=仏性
ですから言葉を入れ替えると
衆生未来に「金剛心、大慶喜心、大慈悲心」を具足するから、現世に「金剛心、大慶喜心、大慈悲心」を獲ると親鸞聖人は仰っているが、現世に「金剛心、大慶喜心、大慈悲心」を具足するのではないので、見ることができない。
これは眼見と聞見で教えられます。同じく真仏土巻
善男子、見に二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり。
諸仏世尊は眼に仏性を見そなはす、掌のうちにおいて阿摩勒菓を観ずるがごとし。十住の菩薩、仏性を聞見すれども、ことさらに了々ならず。十住の菩薩、ただよくみづからさだめて阿耨多羅三藐三菩提を得ることを知りて、一切衆生はことごとく仏性ありと知ることあたはず。善男子、また眼見あり。諸仏如来なり。十住の菩薩は、仏性を眼見し、また聞見することあり。一切衆生乃至九地までに、仏性を聞見す。菩薩、もし一切衆生ことごとく仏性ありと聞けども、心に信を生ぜざれば、聞見と名づけず〉。
自らの眼で見て明らかに認知することを眼見、聞いて理解し信知することを聞見といいます。
要するに
現世で
金剛心を獲る
=大慶喜心を獲る
=大慈悲心を獲る
=仏性を獲る
は聞見、
来世で
金剛心になる
=大慶喜心になる
=大慈悲心になる
=仏性になる
が眼見です。
なお、金剛心は『唯信鈔文意』にあるように
この信心は摂取のゆゑに金剛心となれり
ですから。摂取不捨だから金剛心と言われるのであって、現世で衆生の心が金剛心になることではないです。衆生の側の話ではなく、阿弥陀仏の側で語られるのです。
信心を獲たと公言する渡部さんに簡単な質問です。
渡部さんは、現在、大慈悲心になっていますか?
渡部さんは、現在、仏性を眼見していますか?
Yesなら渡部さんはすでに仏です。
Noなら大慈悲心、仏性の言い換えである金剛心、大慶喜心にもなっていません。
それとも、大慈悲心になっておらず、仏性を眼見していないが、金剛心と大慶喜心にはなっているのですか?
添谷さんが代わりに答えてもらっても構いません。
続き)
次に異名とは、光明を例に説明したように、お徳の面を表現されたものなので、金剛というお徳、大慶喜というお徳、大慈悲というお徳、願作仏心というお徳があります。
わかりやすいのが、大慈悲というお徳が信心にはありますが、では現世で大慈悲心になれるのかと言えばなれません。
同じことで、金剛というお徳が信心にはありますが、現世では金剛心にはなれません。
もし、現世で金剛心になれるのなら、現世で大慈悲心になれることになります。
一番最初から私が言っていることが、未だに理解できないというより、誤魔化しているだけです。
渡部さんへの質問と同じ質問をしておきます。
添谷さんは、現在、大慈悲心になっていますか?
添谷さんは、現在、仏性を眼見していますか?
Yesなら添谷さんはすでに仏です。
Noなら大慈悲心、仏性の言い換えである金剛心、大慶喜心にもなっていません。
それとも、大慈悲心になっておらず、仏性を眼見していないが、金剛心と大慶喜心にはなっているのですか?
最後に暁は救われた瞬間だけか、その後は暁で無くなるのか、救われた瞬間に喜びの心はないが、その後喜びの心が出てくるのかについての答えとして出したのが、2つの体験談です。
体験が同じかどうかとは尋ねていません。よろこびの心が救われた後にこのように出てくることが、あなたと同じか違うかと訊ねています。
求めつつ、ややもすればこの解答をなし得ざるを自身の偉きが如く考え、人をも迷わし、自分も迷いながら、実に毎日仮夢をやっていたのであります。はからずも夏休み数日前に、増井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。
南無阿弥陀仏々々々々々々
これも諸兄の方々のお骨折りによるものと、さらに大悲の無限の方便摂化に、ただ感泣するのみであります。毎日毎夜、念仏は楽しい時に苦しい時に、無造作に口より出づる蓄音機にさせていただいて、有難き弥陀の呼び声を聞かせていただけます・・・ただただうれしさで一杯なのであります。
【華光会発行『華光』第5巻第5号「私の信仰体験」】
・・・挨拶も忘れて、今あった不思議な出来事をありのまま顕徹君に語った。一同は我がことのように喜んでくださる。だが、私自身は何がなんだかさっぱり分からぬ。本当だろうか・・・。これが獲信したというものであろうか?
まだまだ疑いの晴れぬまま、種々ご馳走に預かる。こんな、うまく食事したことが近頃にあったろうか。やがて、顕徹君の話に薄紙を、はぐが如く、光明は輝きを増し、歓喜は胸に張り裂けるのであった。
「如来を求めて、いくら追っかけても、人間は到底追いつけるものではない。また自分でとらえられる位なら、他力信心なんか必要もない。弥陀は十万億土の彼方におられるものだと思っていられたか知らぬが、何のことは無い、アンタの腹の中にいて、しかもこの宇宙を包んでいる絶対者なんだ。その懐に入っていながら、それを追っかけ、とらえようなんて、問題ではない。追いつけないことが分かって 初めて振り返ってみると、何のことは無い。総てが包まれていたことに気がつくのだ。この様に包まれていながら、何を悩みますかね。」
不思議だ!そう聞けば悩もうにも悩む種が無いではないか。そして顕徹君の語るどの話も皆、素直に肯定出来るからおかしい。弥陀が智慧や才覚で分からんでもよいのだ。このままでよいんだなあ。ああ、このままだった、このままだった。
【高森顕徹編著「獲信の記録」華光社】
ありがとうございます!
@@uro9000 さん
いつも有難うございます🙏😊🌸🌸🌸❣️
救われたら絶対の幸福だ、浄土往生ハッキリ。
念仏者は無碍の一道なり、の歎異抄のお言葉は、高森会長にとっては格好の材料に見えたはずです。昔から、とにかくすごい人間になれるんだと思わせる話しぶりでした。
今回の動画で正しい解釈がよく分かりました。高森会長の誤り、これまでにどれだけ出てきたのか、げんなりですね。
@@ゴン-g7n さん
間違いなのか、故意にずらしたのか、分かりませんが、
信じて迷う人が気の毒ですよね💦。南無阿弥陀仏...
梯和上の愛弟子とはどなたでしょうかね?梯和上は、本当にすごい方でしたね。あれほどの人は、今後出て来ないように思います。桜嵐坊様、動画ありがとうございました。
@@花田福一 さん
楽しみにしていてくださいね🙏😊🌸。
渡部さんが、反論動画を出しました。内容は笑えますが、以下のコメントをしておきました。
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反論しないと言いながら反論動画を出したのが笑えます。
嘘八百をよくも平気で言えるものだと感心しました。さすがはハッタリの渡部さんです。
金剛心について、ブログでまとめて、桜嵐坊さんに動画で反論してもらいますから、今度こそ逃げずに反論しましょうね。
渡部さん、悔しくて悔しくて、俺が人を騙して、金儲けしているんだから、邪魔するなと言ったんですね。
続き)
『安心論題』を理解できていないようなので、ポイントだけ紹介します。
字訓釈には、信楽のことを「歓喜賀慶之心」とあり、正信偈には「能発一念喜愛心」とあり、曇鸞讃には「一念歓喜するひとをかならず滅度にいたらしむ」とある。これらの歓喜は信心の異名だが、信心正因をいいかえて歓喜正因とはいわない。
「一念喜愛心」「一念歓喜」も信心の異名
信心を獲た瞬間によろこぶの意味ではない。
信心を獲て後によろこぶ
この簡単な現代文の意味がわからないでしょうか?
すると予想される反論
一念慶喜
慶喜一念
とあるのは、信心を獲た一念によろこぶことだろう、日本語が読めないのか?
でしょう。
親鸞会でも有名な和讃
若不生者のちかひゆゑ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ
ここに「一念慶喜」とあり、親鸞会のHPでは
www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20221015kyouki.htm
「若不生者のちかい」とは、「全人類を必ず救う。若しできずば命を捨てる」という弥陀の熱願です。それは一言でいえば「信楽」にしてみせるという誓いだと、聖人は徹見されました。だから「信楽まことにときいたり」、弥陀の命を懸けられた本願があるから、信楽という心になる時が必ず来ると言い切られています。
では「信楽」とは何でしょうか。「信」は死んだらどうなるかハッキリした後生明るい心、「楽」は「人間に生まれてよかった」と大満足した心です。
先のご和讃では、「信楽」という無上の幸福に救われたら「一念慶喜する」と続けられています。弥陀の救いは決して、いつとはなしではありません。「一念」という何兆分の1秒よりも短い時間で、晴れて信楽に生まれる。同時に、天に舞い地に躍る喜びが起きるから、「一念慶喜」と言われているのです。
そうなった人は「往生かならずさだまりぬ」、間違いなく浄土に往ける身になるのです。それだけではありません。
関係する部分だけ取り出すと
「一念」という何兆分の1秒よりも短い時間で、晴れて信楽に生まれる。同時に、天に舞い地に躍る喜びが起きるから、「一念慶喜」と言われているのです。
当然添谷さんも同じことをいうでしょうが、明確な間違いです。
親鸞聖人は「慶喜」の左訓に
「信をえてのちによろこぶとなり」
とされています。
つまり「一念慶喜するひと」とは
一念の信心を獲て後によろこぶ人
です。
親鸞会の
「一念」という何兆分の1秒よりも短い時間で、晴れて信楽に生まれる。同時に、天に舞い地に躍る喜びが起きるから、「一念慶喜」と言われているのです。
全く違います。
また『浄土真要鈔』に
「正信偈」の文にいはく、「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」といへり。この文のこころは、「よく一念歓喜の信心を発せば、煩悩を断ぜざる具縛の凡夫ながらすなはち涅槃の分を得。凡夫も聖人も五逆も謗法もひとしく生る。たとへばもろもろの水の海に入りぬれば、ひとつ潮の味はひとなるがごとく、善悪さらにへだてなし」といふこころなり。ただ一念の信心定まるとき、竪に貪・瞋・痴・慢の煩悩を断ぜずといへども、横に三界六道輪廻の果報をとづる義あり。
しかりといへども、いまだ凡身をすてず、なほ具縛の穢体なるほどは、摂取の光明のわが身を照らしたまふをもしらず、化仏・菩薩のまなこのまへにましますをもみたてまつらず。しかるに一期のいのちすでに尽きて、息たえ、まなことづるとき、かねて証得しつる往生のことわりここにあらはれて、仏・菩薩の相好をも拝し、浄土の荘厳をもみるなり。
とあります。
注目は
いまだ凡身をすてず、なほ具縛の穢体なるほどは、摂取の光明のわが身を照らしたまふをもしらず、化仏・菩薩のまなこのまへにましますをもみたてまつらず。
摂取の光明も仏も菩薩も目の前にましましても見ることができない
これで現生十種の益がどう実感できるのですか?
添谷さんの獲得した信心は真実の信心とは違うということです。
親鸞会の大好きな
この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。
を当て嵌めるなら、
一念の信心を獲て後によろこぶ人を否定する添谷さんらは、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。
また
それ、越中の国にひろまるところの添谷さんらの秘事法門といへることは、さらに仏法にてはなし、あさましき外道の法なり。これを信ずるものはながく無間地獄に沈むべき業にて、いたづらごとなり。
ですよ。これでもまだ親鸞会を信じますか?それとも親鸞会の言っていることは、お聖教と同じという超論理を展開しますか?
本願寺派の正統な教義を学ぶ絶好の機会ですから、添谷さんは対論すべきです。まあ、自分が正統と思ってきた教義が邪道だったよ知らされて、逆ギレするのがオチでしょうけど。
@@栄-s4r さん
今の配信で、先生と対論する方向の様です🌸。
既読をつけずに読むことが出来るソフトあるらしいですね?爺には無縁です。
@@Azu-vf8sy さん
そ〜なんですか⁉️
ただ
添谷さんも僕も、無縁チームだと思います〜🙏😅💦🌸。
とり君・添谷君観ているよね。高森さんが貴方たちの阿弥陀様のご縁を導いてくれましたよね。ただ、高森教デタラメなんだよね・・・・・・・・高森さん事態は、デタラメと思っていないんだよね。・・・・とり君も添谷君もデタラメと思っていないんだよね、異安心と言うんだよ、聴聞真剣に勉強し、木に枝を付け、実をつけて下さいね、実が熟したら解るよ。