ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
素晴らしい解釈だと思いますし、私も同じように感じました。この解釈に“明らかに違う”というようなコメントもありましたが、映画というのはどのように解釈するのも自由であり、特にこのような“余白の多い映画”では観客によってすべて違う受け取り方であってもおかしくありません。もし監督が“末路”を意図した演出をしていたとしても主演のKブランシェットが演技する時に“希望や再生”をかすかにでも心に持って演技したならば、そこから敏感な観客はそれを受け取ると思います。とにかく、“末路”とも“再生”ともとれる『TAR』のラストは見事だったのではないでしょうか。考察を深めて脚本にまで行き着いたこと、素晴らしいですし、とっても参考になりました。マッサージ店でのシーン、今回語られなかったことで私が感じたことを一つだけ。ガラスの向こうでまるでオーケストラみたいに並んだ女の子達、そして“5番の女の子”と目が合う…。そして走り出て嘔吐する。オーケストラであの位置にいるのはチェロで、前にいるのは主席など優秀な演奏家です。あのこちらを見た目の力、それでベルリンで自分がときめいたチェリスト・オメガを想起したのだと思います。過去の自分過ちが甦り嘔吐したのではないでしょうか?私は35年以上前、アメリカ横断旅行している時LAで新聞を買うとバーンスタインの演奏会があることを発見。この時はベルリン・フィルではなくウィーン・フィルでしたが曲目はマーラー交響曲5番! マーラーといったらバーンスタインと言われる時代だったので“これは聞き逃すと後悔する”とキャンセル待ちをして生で聴くことが出来ました。あの演奏は決して忘れることが出来ません。その後この組み合わせのライブがCD化もされています。(この時の前半でのカップリング曲はモーツァルトのクラリネット協奏曲でした。これも素晴らしかった!)また、リディア・ターが師と仰ぐバーンスタイン、ベルリンで一度だけマーラーの演奏をしています(交響曲第9番)が、それを聴いたカラヤンが“こんな演奏をされては自分のベルリン・フィルが疲弊してしまう”と、それ以降、客演指揮者としても二度とバーンスタインは招聘しませんでした。(カラヤンは長期に渡ってベルリンの音楽監督をして世界最高のオーケストラとして磨き上げてきた背景があります。)そのバーンスタインとカラヤン、両方の弟子となり愛されたのが小澤征爾で、その小澤征爾はベルリンと天下を二分するウィーン・フィル(ウィーン国立歌劇場)の総監督になるのですから、運命とは面白いものです。アジア軽視…との批判がありますが、それは監督の意図したことではないと私も思います。が、クラシックのオーケストラでは明らかにアジアの実力が劣るのは間違いなく、それは西洋音楽の歴史や楽器のクオリティー、演奏者の実力から来るもので仕方がないもの。(アメリカの一流オーケストラからベルリン・フィルに移ったターがいかに優れた指揮者だったかも表していますね、各国オーケストラの序列の問題です)しかし最後、ターは自分のルーツでもある“民族音楽”の観点からもアジア等を軽視せず純粋に“音楽として”本気で真剣に向き合うように、バーンスタインの教えを実践しているのだと思います。(小澤征爾は中国のオーケストラに何度と行き演奏していますが、これも同じ精神だと感じます。)大変長くなり失礼いたしました。今後も素晴らしい考察を続けてください。
コメントありがとうございます!クラシックの歴史について、大変勉強になります。この映画の受け取り方についても全く同意です。マッサージ店のシーンについては、仰る通り5番の女性の配置は間違いなくオルガと意図的に重ねられています。ターの嘔吐に関して、僕は「自分の過ちが甦ったから」だけではなく「自分は気を抜くとまた同じ過ちを繰り返す状態であると気づいたから」もあると思っています。実家でも反省してた彼女でしたが、"心を入れ替える"とはどういうことか?自分はどれくらい重症なのか?を5番の女性と目が合った時に、真に理解したのではないでしょうか。「あれ、私いま無意識に、また人を思い通りに動かそうとしていた...?」僕の深読みかもしれません笑ただ、彼女があの5番の女性と目が合ったことによって、過ちが甦ったことは間違いないと思います。
続編希望😂😂😂😂❤❤❤❤❤❤❤❤
ありがとうございます、私も同じように思います。大賛成です。バッハも知らないなんてと長い説教をした彼女とは違うのです。音楽を愛するという原点に立ち返ったように思います。2回目を観てきますね、ありがとうございます。
コメントありがとうございます!バッハの説教の件に関してはターのほうに筋があると僕は思っていますが、現代音楽に対して見下すような目線もあの時の彼女にはあったと思います。最後に青少年たちと例の曲について「作曲者の意図を一緒に考えましょう」と言っていたことから、彼女は本当に変わったんだと解釈しました。
前回コメントから考えていました。追加です。川を舟で上って滝にたどり着く旅の時間を 観客も共にして 以前のように若くはないが原点にたどり着いた。偶然とはいえ、室内楽団の形で並んだ少女たちに向けて右手を挙げた時に、楽団員も演奏の時間さえも自由に動かしてきた、権力を使ってきた右手を意識したのでは。ガラス面が薄汚れてぼんやりしているので、余計に自分の内面を見たのでは、嘔吐したのは 生まれ変わり始めているのでは。パラパラの拍手でも、彼女には誇らしく聞こえているのではないでしょうか。以上です。
町山さんの解説含めすでに映画の時間以上いろんな解説動画みてます。ケイトブランシェットの最高傑作・後世に残る映画だと思います。
コメントありがとうございます!同意です。間違いなくこの作品は、今後もあらゆる映画に影響を与えていく傑作だと思います。
ありがとうございます。TARにまったく共感できず、サスペンスというよりドキュメンタリー的に見てしまいました。あるいみ現代ならそうなるよな(告発やSNS)なぜそうおもわないのだろうと。。ロシアの娘がTARと真逆に生きる姿。(権威主義無しただ好きだけで動く姿等)との対比。まあ彼女も男性社会と戦って来た先駆者あったわけで音楽も素晴らしいのですが。結局時代という大潮流で活きてきた彼女。最後の覚悟を決めて演奏したゲーム音楽のシーンが一番かっこいい気がしました。彼女は時代が変わっても生き残れると思います。
コメントありがとうございます!現代ならこうなるというのは仰る通りです。ターは旧時代のルールでのし上がってきましたが、のし上がった後もその態度を変えず、新時代の到来に気づいていませんでした。そこが、滝の裏のシーンに表れていると思います。「わたし、こんなにおばさんになってたの...」
クラシック音楽の序列からは放り出されたけど、音楽ってクラシックだけじゃないよねってところへ戻ったのだと思う
自分というモンスターを倒すためにモンハン、、、。うーん。町山智浩の解説では、ターの実家がある島から察するにターは労働者階級の生まれで、そこで彼女は青少年にクラシックの素晴らしさを啓蒙していたバースタイン(実は彼もまた同性愛者)の番組を観てクラシックに目覚め、貧しかったけど必死に努力して今の地位までのし上がった。つまり実家に帰って涙したのは、自分の原点に帰ったため。その復活の場に選んだのがフィリピンで、モンハンの指揮を若者たちに向けてやったのは、自分もバーンステインと同じように労働者階級や素人の人たちに音楽を啓蒙するため。それが彼女の再生と復活を意味していた。実際に東南アジアではモンハンのオーケストラからクラシックに興味を持つ若者はとても多いそう。
2回目を観てきました。changoさんのお陰で 脚本をダウンロード出来て、お婆ちゃんなので、紙でしか読めず、印刷したら、なんと94ページもありました。一人で感動しています。物語の後半は88ページのTONY のセリフに現れています。どこから来たのか、どこへ行くのか?分からないようだな。TARは 楽譜を手渡されて嬉しいと感じ、若い演奏者と共に作曲者の意図を読み取ろうとし、出番の前に薬を飲むのを止めて、でも舞台の袖で緊張して大きく息をして出ていく。もう彼女は再出発をしているようにみえます。小さな拍手のほうが幸せなんですかね、満場の拍手をもらうと、万能感に囚われて何でもやりたい放題になる ということでしょうか。 長くなりました。脚本を見つけてくださってありがとうございます。
おっしゃる通りだと思います。薬の描写については忘れていました!手に取って結局飲まなかったんでしたね。素晴らしい読み解きだと思います。
何かモンハン使われるのやだな
さっぱりわかりません。ラストは笑うしかない。セクハラのレズが落ちぶれてタイに行ってコスプレ音楽会を開いたとさ。めでたしめでたし。タッタタッター期待外れだっター。
ラストシーンの解釈についてはこういったコンサートに出演するアーティストについて無知すぎるかと思いました。基本的にサブカル系のコンサートに駆り出されるオーケストラなどは、もちろん例外はありますが、前線では活躍できない人々の行き着く先です。偏見ではなく事実。そういったところでしか雇ってもらえない状況だとわかります。またお金の問題ではないんですよ。リディアはずっと音楽だけを追求してきたので、それ以外に何もできない、それをしていかなければ生きていけない。だから仕方なくやりたくない仕事をやる。ただ、やるからには適当にはできない、それは音楽家であるからです。そして観客も明らかに音楽を知らなそうなオタクたちが映し出されているので、これを良いものと捉えるには無理があります。心情としては一度底に落ちて這い上がることで自分を見つめ直すなどの要素も含まれているかもしれませんが、「末路」が全く違うとおっしゃられているので、それは違うと言っておきます。画として見せているのは間違いなく「末路」です。これを良いものと捉えるのはおかしいです。それなら小さいオーケストラでもいいわけで、あえてモンハンにする必要はありません。モンハンにしているということは間違いなく悪い方の意味です。
コメントありがとうございます。彼女は原点であるヤングピープルズコンサートを見て涙していました。その後青少年オーケストラを指導しています。この流れから「仕方なくやりたくない仕事」をやっているわけではなく、進んで青少年オーケストラに関わる仕事を選んだのではないでしょうか。また、モンスターハンターは彼女にとって最も避けたい曲のはずです。「そういったところでしか雇ってもらえない状況」で「音楽以外に何もできない、それをしていかなければ生きていけない」のだとしても、さすがに他の曲を扱う仕事を探すはずです。それでも彼女があの場に立っているのは「あえてモンハンにする必要」があったからです。ここは一致していますね。ただ、あえてモンハンを選んだのは、作り手の意地悪さからではありません。物語の流れにおいては、彼女が第一線から遠ざかっているのは確かです。ですが、あのモンハンは「末路」の象徴として描かれているのではなく、「リディア・ター」を倒すための儀式として描かれていると解釈しました。彼女は自分の傲慢さを葬るために、自らモンハンを選んだのです。「悪い方の意味」ではなく、前に進むためです。「明らかに音楽を知らなそうなオタクたち」と仰っていますが、バーンスタインは「音楽の素晴らしさを感じるために、シャープやフラットなんて知る必要はない」と言っていました。それを思い出した彼女が、モンハンファンの観客を音楽によってモンハンの世界に連れていってあげているなら、それは彼女にとって「末路」ではなく「再生」ではないでしょうか。
映画には観客の予想を裏切る展開がつきもので、何が起こるかわかりません。ストーリーは作家のさじ加減次第ですので、この映画のラストがターの末路であるか、それともこれが再出発となって再起を果たすのか、それが描かれていない以上、結論づけるのは難しいのではないでしょうか。しかしながら、もしもこの映画がターの末路=転落や絶望のみを描くのであれば、彼女が第5番の指揮権を奪われ、腹いせとして舞台上で乱暴をはたらき、楽譜に「十字架=墓標」が記された時点で彼女の音楽家人生に終止符が打たれた、という結末にしてもよいはずです。しかしこの映画はその後の彼女の再起/再挑戦を時間をかけて描いています。たしかに彼女は転落し、明らかに格落ちした舞台で、やりたい音楽(格調高い音楽)に取り組むこともできていませんが、転落後の再起の場面で、彼女の「絶望」の表情や、絶望を表象/象徴するような決定的な演出は出てきていません。ですから、ヨーロッパ芸術界の舞台における彼女の転落が決定づけられたあと、アジアでの場面は、彼女の再出発として比較的ポジティブに捉えてもいいはずです。もちろん、再挑戦がうまくいくか、それとも失敗する=彼女は永遠に格落ちした舞台で演じつづけるのかは、描かれることはないのですが。
彼女の人生はまだ続きますから、この再挑戦が成功するか失敗するか、それは観客が彼女をどう裁くか、彼女という人間をどう判断するか、何を願うかというところに議論が委ねられるのではないでしょうか。あるいは、同様の事案が発生した場合に、芸術家の人格と作品を切り離すか否かに関してなど、現実世界における判断基準について議論することが、映画鑑賞後の作品のつづき、となるように思えます。
ヘッドホンをする意味。メトロノームのような音が聴こえてくる。時間をコントロールできない。最後のシーンはショックでしかない。
素晴らしい解釈だと思いますし、私も同じように感じました。
この解釈に“明らかに違う”というようなコメントもありましたが、映画というのはどのように解釈するのも自由であり、特にこのような“余白の多い映画”では観客によってすべて違う受け取り方であってもおかしくありません。
もし監督が“末路”を意図した演出をしていたとしても主演のKブランシェットが演技する時に“希望や再生”をかすかにでも心に持って演技したならば、そこから敏感な観客はそれを受け取ると思います。
とにかく、“末路”とも“再生”ともとれる『TAR』のラストは見事だったのではないでしょうか。
考察を深めて脚本にまで行き着いたこと、素晴らしいですし、とっても参考になりました。
マッサージ店でのシーン、今回語られなかったことで私が感じたことを一つだけ。
ガラスの向こうでまるでオーケストラみたいに並んだ女の子達、そして“5番の女の子”と目が合う…。そして走り出て嘔吐する。
オーケストラであの位置にいるのはチェロで、前にいるのは主席など優秀な演奏家です。あのこちらを見た目の力、それでベルリンで自分がときめいたチェリスト・オメガを想起したのだと思います。
過去の自分過ちが甦り嘔吐したのではないでしょうか?
私は35年以上前、アメリカ横断旅行している時LAで新聞を買うとバーンスタインの演奏会があることを発見。この時はベルリン・フィルではなくウィーン・フィルでしたが曲目はマーラー交響曲5番! マーラーといったらバーンスタインと言われる時代だったので“これは聞き逃すと後悔する”とキャンセル待ちをして生で聴くことが出来ました。あの演奏は決して忘れることが出来ません。その後この組み合わせのライブがCD化もされています。(この時の前半でのカップリング曲はモーツァルトのクラリネット協奏曲でした。これも素晴らしかった!)
また、リディア・ターが師と仰ぐバーンスタイン、ベルリンで一度だけマーラーの演奏をしています(交響曲第9番)が、それを聴いたカラヤンが“こんな演奏をされては自分のベルリン・フィルが疲弊してしまう”と、それ以降、客演指揮者としても二度とバーンスタインは招聘しませんでした。(カラヤンは長期に渡ってベルリンの音楽監督をして世界最高のオーケストラとして磨き上げてきた背景があります。)
そのバーンスタインとカラヤン、両方の弟子となり愛されたのが小澤征爾で、その小澤征爾はベルリンと天下を二分するウィーン・フィル(ウィーン国立歌劇場)の総監督になるのですから、運命とは面白いものです。
アジア軽視…との批判がありますが、それは監督の意図したことではないと私も思います。が、クラシックのオーケストラでは明らかにアジアの実力が劣るのは間違いなく、それは西洋音楽の歴史や楽器のクオリティー、演奏者の実力から来るもので仕方がないもの。(アメリカの一流オーケストラからベルリン・フィルに移ったターがいかに優れた指揮者だったかも表していますね、各国オーケストラの序列の問題です)
しかし最後、ターは自分のルーツでもある“民族音楽”の観点からもアジア等を軽視せず純粋に“音楽として”本気で真剣に向き合うように、バーンスタインの教えを実践しているのだと思います。
(小澤征爾は中国のオーケストラに何度と行き演奏していますが、これも同じ精神だと感じます。)
大変長くなり失礼いたしました。
今後も素晴らしい考察を続けてください。
コメントありがとうございます!
クラシックの歴史について、大変勉強になります。この映画の受け取り方についても全く同意です。
マッサージ店のシーンについては、仰る通り5番の女性の配置は間違いなくオルガと意図的に重ねられています。ターの嘔吐に関して、僕は「自分の過ちが甦ったから」だけではなく「自分は気を抜くとまた同じ過ちを繰り返す状態であると気づいたから」もあると思っています。実家でも反省してた彼女でしたが、"心を入れ替える"とはどういうことか?自分はどれくらい重症なのか?を5番の女性と目が合った時に、真に理解したのではないでしょうか。
「あれ、私いま無意識に、また人を思い通りに動かそうとしていた...?」
僕の深読みかもしれません笑
ただ、彼女があの5番の女性と目が合ったことによって、過ちが甦ったことは間違いないと思います。
続編希望😂😂😂😂❤❤❤❤❤❤❤❤
ありがとうございます、私も同じように思います。大賛成です。
バッハも知らないなんてと長い説教をした彼女とは違うのです。音楽を愛するという原点に立ち返ったように思います。
2回目を観てきますね、ありがとうございます。
コメントありがとうございます!
バッハの説教の件に関してはターのほうに筋があると僕は思っていますが、現代音楽に対して見下すような目線もあの時の彼女にはあったと思います。
最後に青少年たちと例の曲について「作曲者の意図を一緒に考えましょう」と言っていたことから、彼女は本当に変わったんだと解釈しました。
前回コメントから考えていました。追加です。
川を舟で上って滝にたどり着く旅の時間を 観客も共にして 以前のように若くはないが原点にたどり着いた。
偶然とはいえ、室内楽団の形で並んだ少女たちに向けて右手を挙げた時に、楽団員も演奏の時間さえも自由に動かしてきた、権力を使ってきた右手を意識したのでは。
ガラス面が薄汚れてぼんやりしているので、余計に自分の内面を見たのでは、嘔吐したのは 生まれ変わり始めているのでは。
パラパラの拍手でも、彼女には誇らしく聞こえているのではないでしょうか。以上です。
町山さんの解説含めすでに映画の時間以上いろんな解説動画みてます。ケイトブランシェットの最高傑作・後世に残る映画だと思います。
コメントありがとうございます!
同意です。間違いなくこの作品は、今後もあらゆる映画に影響を与えていく傑作だと思います。
ありがとうございます。TARにまったく共感できず、サスペンスというよりドキュメンタリー的に見てしまいました。あるいみ現代ならそうなるよな(告発やSNS)なぜそうおもわないのだろうと。。
ロシアの娘がTARと真逆に生きる姿。(権威主義無しただ好きだけで動く姿等)との対比。
まあ彼女も男性社会と戦って来た先駆者あったわけで音楽も素晴らしいのですが。結局時代という大潮流で活きてきた彼女。最後の覚悟を決めて演奏したゲーム音楽のシーンが一番かっこいい気がしました。彼女は時代が変わっても生き残れると思います。
コメントありがとうございます!
現代ならこうなるというのは仰る通りです。ターは旧時代のルールでのし上がってきましたが、のし上がった後もその態度を変えず、新時代の到来に気づいていませんでした。
そこが、滝の裏のシーンに表れていると思います。「わたし、こんなにおばさんになってたの...」
クラシック音楽の序列からは放り出されたけど、音楽ってクラシックだけじゃないよねってところへ戻ったのだと思う
自分というモンスターを倒すためにモンハン、、、。うーん。
町山智浩の解説では、ターの実家がある島から察するにターは労働者階級の生まれで、そこで彼女は青少年にクラシックの素晴らしさを啓蒙していたバースタイン(実は彼もまた同性愛者)の番組を観てクラシックに目覚め、貧しかったけど必死に努力して今の地位までのし上がった。つまり実家に帰って涙したのは、自分の原点に帰ったため。その復活の場に選んだのがフィリピンで、モンハンの指揮を若者たちに向けてやったのは、自分もバーンステインと同じように労働者階級や素人の人たちに音楽を啓蒙するため。それが彼女の再生と復活を意味していた。実際に東南アジアではモンハンのオーケストラからクラシックに興味を持つ若者はとても多いそう。
2回目を観てきました。
changoさんのお陰で 脚本をダウンロード出来て、お婆ちゃんなので、紙でしか読めず、印刷したら、なんと94ページもありました。一人で感動しています。
物語の後半は88ページのTONY のセリフに現れています。
どこから来たのか、どこへ行くのか?分からないようだな。
TARは 楽譜を手渡されて嬉しいと感じ、若い演奏者と共に作曲者の意図を読み取ろうとし、出番の前に薬を飲むのを止めて、でも舞台の袖で緊張して大きく息をして出ていく。
もう彼女は再出発をしているようにみえます。
小さな拍手のほうが幸せなんですかね、
満場の拍手をもらうと、万能感に囚われて何でもやりたい放題になる ということでしょうか。 長くなりました。脚本を見つけてくださってありがとうございます。
おっしゃる通りだと思います。
薬の描写については忘れていました!手に取って結局飲まなかったんでしたね。素晴らしい読み解きだと思います。
何かモンハン使われるのやだな
さっぱりわかりません。ラストは笑うしかない。セクハラのレズが落ちぶれてタイに行ってコスプレ音楽会を開いたとさ。めでたしめでたし。タッタタッター期待外れだっター。
ラストシーンの解釈についてはこういったコンサートに出演するアーティストについて無知すぎるかと思いました。基本的にサブカル系のコンサートに駆り出されるオーケストラなどは、もちろん例外はありますが、前線では活躍できない人々の行き着く先です。偏見ではなく事実。そういったところでしか雇ってもらえない状況だとわかります。またお金の問題ではないんですよ。リディアはずっと音楽だけを追求してきたので、それ以外に何もできない、それをしていかなければ生きていけない。だから仕方なくやりたくない仕事をやる。ただ、やるからには適当にはできない、それは音楽家であるからです。そして観客も明らかに音楽を知らなそうなオタクたちが映し出されているので、これを良いものと捉えるには無理があります。心情としては一度底に落ちて這い上がることで自分を見つめ直すなどの要素も含まれているかもしれませんが、「末路」が全く違うとおっしゃられているので、それは違うと言っておきます。画として見せているのは間違いなく「末路」です。これを良いものと捉えるのはおかしいです。それなら小さいオーケストラでもいいわけで、あえてモンハンにする必要はありません。モンハンにしているということは間違いなく悪い方の意味です。
コメントありがとうございます。
彼女は原点であるヤングピープルズコンサートを見て涙していました。その後青少年オーケストラを指導しています。この流れから「仕方なくやりたくない仕事」をやっているわけではなく、進んで青少年オーケストラに関わる仕事を選んだのではないでしょうか。
また、モンスターハンターは彼女にとって最も避けたい曲のはずです。「そういったところでしか雇ってもらえない状況」で「音楽以外に何もできない、それをしていかなければ生きていけない」のだとしても、さすがに他の曲を扱う仕事を探すはずです。それでも彼女があの場に立っているのは「あえてモンハンにする必要」があったからです。ここは一致していますね。ただ、あえてモンハンを選んだのは、作り手の意地悪さからではありません。
物語の流れにおいては、彼女が第一線から遠ざかっているのは確かです。ですが、あのモンハンは「末路」の象徴として描かれているのではなく、「リディア・ター」を倒すための儀式として描かれていると解釈しました。彼女は自分の傲慢さを葬るために、自らモンハンを選んだのです。「悪い方の意味」ではなく、前に進むためです。
「明らかに音楽を知らなそうなオタクたち」と仰っていますが、バーンスタインは「音楽の素晴らしさを感じるために、シャープやフラットなんて知る必要はない」と言っていました。
それを思い出した彼女が、モンハンファンの観客を音楽によってモンハンの世界に連れていってあげているなら、それは彼女にとって「末路」ではなく「再生」ではないでしょうか。
映画には観客の予想を裏切る展開がつきもので、何が起こるかわかりません。ストーリーは作家のさじ加減次第ですので、この映画のラストがターの末路であるか、それともこれが再出発となって再起を果たすのか、それが描かれていない以上、結論づけるのは難しいのではないでしょうか。
しかしながら、もしもこの映画がターの末路=転落や絶望のみを描くのであれば、彼女が第5番の指揮権を奪われ、腹いせとして舞台上で乱暴をはたらき、楽譜に「十字架=墓標」が記された時点で彼女の音楽家人生に終止符が打たれた、という結末にしてもよいはずです。
しかしこの映画はその後の彼女の再起/再挑戦を時間をかけて描いています。たしかに彼女は転落し、明らかに格落ちした舞台で、やりたい音楽(格調高い音楽)に取り組むこともできていませんが、転落後の再起の場面で、彼女の「絶望」の表情や、絶望を表象/象徴するような決定的な演出は出てきていません。
ですから、ヨーロッパ芸術界の舞台における彼女の転落が決定づけられたあと、アジアでの場面は、彼女の再出発として比較的ポジティブに捉えてもいいはずです。
もちろん、再挑戦がうまくいくか、それとも失敗する=彼女は永遠に格落ちした舞台で演じつづけるのかは、描かれることはないのですが。
彼女の人生はまだ続きますから、この再挑戦が成功するか失敗するか、それは観客が彼女をどう裁くか、彼女という人間をどう判断するか、何を願うかというところに議論が委ねられるのではないでしょうか。あるいは、同様の事案が発生した場合に、芸術家の人格と作品を切り離すか否かに関してなど、現実世界における判断基準について議論することが、映画鑑賞後の作品のつづき、となるように思えます。
ヘッドホンをする意味。メトロノームのような音が聴こえてくる。時間をコントロールできない。最後のシーンはショックでしかない。