ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
見所の多い映像ばかりですが、特に凄いのが焼岳の姿。1915年の焼岳噴火の10年後、まだ火山灰も多く残っており、噴火口には噴火の勢いを感じさせる岩壁の痕、火山活動も活発なこの時期の焼岳の動画というのは本当に良く残してくれたなぁと思います。そして最後にはできて間もない大正池の姿。今はもう立ち枯れた木々は少なくなりましたが、当時はまさに森林だったんだと気づかせてくれます。そういう今とは違う変化を見せてくれる一方で、アルプスの山々は今も変わらない悠久の姿という対比も素晴らしく、本当に素晴らしい映像でした。
100年の時を超えた素晴らしい映像に感謝。
日本の山の歴史を知る上で 大変 貴重ですね、 この映像から学べることは とても膨大です このような貴重な動画を見せていただき誠にありがとうございます 励みになります
良い動画を見た。良いモノ多い「国立映画アーカイブ」chで特に良い。1925年、約百年前の近代登山の黎明期を、動画で見れて感動だ。 今迄は新田次郎の山岳小説か、加藤文太郎の「新編・単独行」など昔の登山家の山行記録の書籍化か、大町山岳博物館の展示と、静的な情報のみで、動画は当時を窺い知る上で有難い。 後、百年前の映画撮影機材を抱えての高山を行く大変さも想像し、この撮影山行自体にも興味が湧く。刺激を多く受ける映像だ。良い。
大変貴重な映像ですねありがとうございます♪
貴重な映像をありがとうございます!。今の登山とは比べ物にならないくらい大変だったであろう昔の登山。今ならロープで懸垂下降するであろう小槍からもクライムダウンしてますね?。装備的には未熟だったでしょうが、登山者の力量・度胸は間違いなく今以上ですね!😊👍
強力さん方々の苦労が偲ばれます。地形図も怪しいお金持ち?でないと登山できなかった時代。貴重な映像です。
白黒無声映画なのに、山々は色付いて見え、音も聞こえるような気がしました。素晴らしい資料のアップありがとうございます!
100年前の裏銀座+焼岳の映像。登山装備は今と全く違うが、山の姿は全く変わらないね。釜トンネルが出来て観光地化される前の上高地一帯が牧場だったって聞いたことあったけど、映像で見たのは初めてだ。
素晴らしい映像ですよ
貴重な映像ありがとうございました。今よりもやはり雪多いですね
體の使い方が半端ない股関節を畳んで登り降りしてる理想的な足運び尊敬します
なんといふ、きてうなゑいぞう。ありがたき。
鎖などなかったときの縦走路の困難さは想像を超える。
まあ、そうは言えど現在と当時では地形や形状も違えば(地震や天災などにより)状態も異なる。一概に当時の方が過酷とは言えずむしろ、手入れの放置された現在の方が(車道を除き)登りにくくなっているとも言えます。
@@芋煮-z3cアルプス登ったことある?あるんやったらその思考ならんと思うけどなあ。ヘッドランプやザック、シューズ、テント、食事などギアは全てが大きく進化して山の天気予報もあって、鎖や梯子で岩場を登れる。それはマジでないぞ。
雪渓で転んでますね😂しかし、いまと比較にならないほど大変な縦走だったでしょうね
何と貴重な映像。超R級の登山家がたですね。この時代、この装備で歩いた道が半端ない。赤嶽とはどこだろう?赤牛の方かな?だとしたらすごい寄り道山行。しかも小槍にまで登るとは。降りてからまた焼岳に登り返し。景色壮麗。「孤峯頂上の人 亦ついに孤峻なるべからず」文学的だブラボー乾杯❣
当たり前なことだけど…100年前の町並み映像ってなると、とにかく時代と古さを感じるばかりだけどこうした山岳記録映像となると、映っている人物がいなければモノクロなだけで今とほぼ変わらない光景。そこに大自然の素晴らしさや雄大さを改めて感じますね。1925年で北アルプスというと…槍ヶ岳山荘が完成する前年かぁ…
植生と雷鳥と森に放牧された馬と普通に凄い映像だった
21:56 「富士に次ぐ高峰槍」という字幕も興味深い。
貴重な映像ですね。人夫さんを雇い。撮影機材に野営用具一式を背負ってもらって登ったのでしょうか。ピッケルではなく鳶口を使っていたのですね。
つい先日、水晶岳に登りましたが色がないとあの辺りの光景の美しさは半分も伝わらないですね。山によって岩の色が赤っぽかったり白っぽかったり黒っぽかったりカラフルですから。あと出来立てほやほやの大正池すごい
今より当時の方が自然に人の手が入っていなくて、山の景色も違っていますよね
雷鳥はひなも親鳥もかわいい💕
nice content, new friend here from the philippines
夏にこれほど雪があったのか。驚きだわ。画像が硬いのは今のように明るいレンズがないから、基本的に絞りの効いた撮影なので、被写界深度が広いためなんだろうか。今の映像ではない手前にも奥の山にもピントが合って面白い。角閃玢岩???!!!!
杖?が万能過ぎる。岩に引っかけて手すりにしたり、斜面を掘って足場にしたり。大正池はもう出来た後なんですね。
途中で野営テント場面が映りますが皆さん雑魚寝だったんですよね。個人装備軽量化が進んだ現代の目から見ると興味深いシーンの連続。ピンポイント撮影位置も特定可能でしょう。←登山ブロガーさん、もしくは山岳雑誌にてNFAJ 協賛記事企画してほしい。
大正中半から昭和10年代まで登山、キャンプが大流行し、アルプス題材の流行歌、山岳雑誌が多数出版された、一例で名古屋、朝日レコードから登山家の歌改題アルプス想えば、大阪、日東レコードから招く山々が有名
上高地に馬がいたのか…💦
双六無名の桜「スゴロクザクラ」は高嶺桜のことなんでしょうか?貴重な映像ありがとうございます。
「→」も「〇」も鎖も鉄製のはしごも無い時代に、槍の壁面を杖(?)を引っかけて登頂、驚異・・・。
信号交差に素掘り狭路の旧釜トンネル時代もすごかったけどこれもすごい
これは貴重だわ ザックの大きさも見ても、今とは考えられない山行されたんでしょうね今風の浮き石のヤラセなど良いですね
撮影機材も相当重い時代ですし
100年前で音もなく白黒だけど普通に興味深く見れる。国立公園内で普通に火を焚いて食事を作っているのも時代を感じる。
1931年に国立公園法が制定、1934年に瀬戸内海・雲仙・霧島が最初の国立公園に指定となっているので1925年では国立公園は日本にはまだないですね。それから当時の登山幕営の食料は味噌醤油等調味料や米以外は現地調達が一般的で雷鳥など狩られ具材としていて古い山岳本には調理の仕方とかレシピが紹介されているそうですのであの鍋は雷鳥鍋かもね。
こんな山深い場所に重かっただろう撮影機材をどうやって持ち込んだんだろう?
当時なら人跡未踏の地とまではいかなくても、秘境だったのかな?
"る" の字甚だ読みづらし。100年まへのキャプション読破せしこの達成感たるや。あゝ只落涙す。鉄梯子のない槍をどうやって登ったのか? まさに "あの" 《点の記》さながらの苦労があったはずの記録映画だと感心しました。いいの撮れましたねぇ~🏔
何月の映像だろ?
貴重映像。この調子で当時の尾瀬の映像もお願い致します。浮島に乗って遊ぶ女性たちの動画が見たいです。
この時代でこの装備だとしたら今のギアに置き換えたらとんでもなく軽くできそうやな
100年前の登山って、いまの麓のキャンプ場の装備より貧しい装備、これで3000m少し切る山行って、少し天候がかわるだけで命に係わる大問題がしばしばおきただろうね。
テントはどんな生地なんだろう
帆布だと思う
@@sunami808 重―い
さすがに穂高連峰は踏まないか、往時の装備では
多分この人たち真砂らへんから尾根降りて硫黄尾根方面から槍に行ってるでしょ赤岳ってどこだ?って思ったら硫黄尾根にあった一般ルートでは無いからピンとこないわけだ
蓮華とは白馬岳のことですねこの呼び名は越後側からの呼び名で、ウェストンはオオレンゲと表記したとのこと今は信州の呼び名で白馬岳シロウマダケって呼ぶ地元の人は信州も越後もハクバってずっと呼んでいたけれど今はハクバって呼ぶ人も少なくなったかな半世紀前に山を始めた家族は、この背負子スタイルだったけれどアルミの背負子やっと処分したけれど、ピッケルだけは家にある青木湖辺りで荷物を背負っていた人たちは歩荷さんたちでしょう塩の道で最後に荷物を運んでいた人たちかな申し訳ありません三俣蓮華岳のことでした🙇♀️
位置的に三俣蓮華岳のことだと思いますよ。
@@みるふぃーゆ-z2p 蓮華喰いの岳と呼ばれたそうなのでそうですね明治初期は鷲羽岳だそうですね60年間の間に名前が変わったのですね
@@くiikoneko 鷲羽岳が鷲羽山って言われるのすごいよくわかります。三俣山荘から見た鷲羽岳が高原にある数百mの山であるかのように思いました。
@@みるふぃーゆ-z2p ごめんなさい🙇♀️三俣蓮華岳が鷲羽岳と呼ばれたので、現在の鷲羽岳は東鷲羽岳とか呼ばれていたようです越中の前田藩はここら辺が三国境と思っていたようですまあ、国境は結構変わりましたから
@@くiikoneko 面白いですね!ありがとうございます😀
th-cam.com/video/e4cUryidAU4/w-d-xo.html の牧場は、現在の徳沢園周辺ですね。道中の幕営での直火には「おいおい..やりたい放題か」と、嫌悪を感じながらも、現代にも繋がれた動植物の命にも目を向けている映像は貴重ですね。なにより、圧倒的に積雪量が多い。100年後の未来人にも見てもらいたいアーカイブでした。
直火に嫌悪感を感じてしまうのは現代人ならでは。
100年前の状況で如何にせよと申されるか? 昔の常識を今の基準で云々はナンセンス。
100年前の映像にも噛み付く直火警察
見所の多い映像ばかりですが、特に凄いのが焼岳の姿。1915年の焼岳噴火の10年後、まだ火山灰も多く残っており、噴火口には噴火の勢いを感じさせる岩壁の痕、火山活動も活発なこの時期の焼岳の動画というのは本当に良く残してくれたなぁと思います。
そして最後にはできて間もない大正池の姿。今はもう立ち枯れた木々は少なくなりましたが、当時はまさに森林だったんだと気づかせてくれます。
そういう今とは違う変化を見せてくれる一方で、アルプスの山々は今も変わらない悠久の姿という対比も素晴らしく、本当に素晴らしい映像でした。
100年の時を超えた素晴らしい映像に感謝。
日本の山の歴史を知る上で 大変 貴重ですね、 この映像から学べることは とても膨大です
このような貴重な動画を見せていただき誠にありがとうございます 励みになります
良い動画を見た。良いモノ多い「国立映画アーカイブ」chで特に良い。1925年、約百年前の近代登山の黎明期を、動画で見れて感動だ。
今迄は新田次郎の山岳小説か、加藤文太郎の「新編・単独行」など昔の登山家の山行記録の書籍化か、大町山岳博物館の展示と、静的な情報のみで、動画は当時を窺い知る上で有難い。
後、百年前の映画撮影機材を抱えての高山を行く大変さも想像し、この撮影山行自体にも興味が湧く。刺激を多く受ける映像だ。良い。
大変貴重な映像ですね
ありがとうございます♪
貴重な映像をありがとうございます!。今の登山とは比べ物にならないくらい大変だったであろう昔の登山。
今ならロープで懸垂下降するであろう小槍からもクライムダウンしてますね?。装備的には未熟だったでしょうが、
登山者の力量・度胸は間違いなく今以上ですね!😊👍
強力さん方々の苦労が偲ばれます。地形図も怪しいお金持ち?でないと登山できなかった時代。貴重な映像です。
白黒無声映画なのに、山々は色付いて見え、音も聞こえるような気がしました。
素晴らしい資料のアップありがとうございます!
100年前の裏銀座+焼岳の映像。登山装備は今と全く違うが、山の姿は全く変わらないね。
釜トンネルが出来て観光地化される前の上高地一帯が牧場だったって聞いたことあったけど、映像で見たのは初めてだ。
素晴らしい映像ですよ
貴重な映像ありがとうございました。今よりもやはり雪多いですね
體の使い方が半端ない
股関節を畳んで登り降りしてる
理想的な足運び
尊敬します
なんといふ、きてうなゑいぞう。ありがたき。
鎖などなかったときの縦走路の困難さは想像を超える。
まあ、そうは言えど現在と当時では地形や形状も違えば(地震や天災などにより)状態も異なる。一概に当時の方が過酷とは言えずむしろ、手入れの放置された現在の方が(車道を除き)登りにくくなっているとも言えます。
@@芋煮-z3cアルプス登ったことある?あるんやったらその思考ならんと思うけどなあ。
ヘッドランプやザック、シューズ、テント、食事などギアは全てが大きく進化して山の天気予報もあって、鎖や梯子で岩場を登れる。それはマジでないぞ。
雪渓で転んでますね😂
しかし、いまと比較にならないほど大変な縦走だったでしょうね
何と貴重な映像。超R級の登山家がたですね。この時代、この装備で歩いた道が半端ない。赤嶽とはどこだろう?赤牛の方かな?だとしたらすごい寄り道山行。しかも小槍にまで登るとは。降りてからまた焼岳に登り返し。景色壮麗。「孤峯頂上の人 亦ついに孤峻なるべからず」文学的だブラボー乾杯❣
当たり前なことだけど…100年前の町並み映像ってなると、とにかく時代と古さを感じるばかりだけど
こうした山岳記録映像となると、映っている人物がいなければモノクロなだけで今とほぼ変わらない光景。
そこに大自然の素晴らしさや雄大さを改めて感じますね。
1925年で北アルプスというと…槍ヶ岳山荘が完成する前年かぁ…
植生と雷鳥と森に放牧された馬と普通に凄い映像だった
21:56 「富士に次ぐ高峰槍」という字幕も興味深い。
貴重な映像ですね。人夫さんを雇い。撮影機材に野営用具一式を背負ってもらって登ったのでしょうか。
ピッケルではなく鳶口を使っていたのですね。
つい先日、水晶岳に登りましたが色がないとあの辺りの光景の美しさは半分も伝わらないですね。
山によって岩の色が赤っぽかったり白っぽかったり黒っぽかったりカラフルですから。
あと出来立てほやほやの大正池すごい
今より当時の方が自然に人の手が入っていなくて、山の景色も違っていますよね
雷鳥はひなも親鳥もかわいい💕
nice content, new friend here from the philippines
夏にこれほど雪があったのか。驚きだわ。
画像が硬いのは今のように明るいレンズがないから、基本的に絞りの効いた撮影なので、被写界深度が広いためなんだろうか。今の映像ではない手前にも奥の山にもピントが合って面白い。
角閃玢岩???!!!!
杖?が万能過ぎる。岩に引っかけて手すりにしたり、斜面を掘って足場にしたり。
大正池はもう出来た後なんですね。
途中で野営テント場面が映りますが皆さん雑魚寝だったんですよね。個人装備軽量化が進んだ現代の目から見ると興味深いシーンの連続。ピンポイント撮影位置も特定可能でしょう。←登山ブロガーさん、もしくは山岳雑誌にてNFAJ 協賛記事企画してほしい。
大正中半から昭和10年代まで登山、キャンプが大流行し、アルプス題材の流行歌、山岳雑誌が多数出版された、一例で名古屋、朝日レコードから登山家の歌改題アルプス想えば、大阪、日東レコードから招く山々が有名
上高地に馬がいたのか…💦
双六無名の桜「スゴロクザクラ」は高嶺桜のことなんでしょうか?貴重な映像ありがとうございます。
「→」も「〇」も鎖も鉄製のはしごも無い時代に、槍の壁面を杖(?)を引っかけて登頂、驚異・・・。
信号交差に素掘り狭路の旧釜トンネル時代もすごかったけどこれもすごい
これは貴重だわ ザックの大きさも見ても、今とは考えられない山行されたんでしょうね
今風の浮き石のヤラセなど良いですね
撮影機材も相当重い時代ですし
100年前で音もなく白黒だけど普通に興味深く見れる。国立公園内で普通に火を焚いて食事を作っているのも時代を感じる。
1931年に国立公園法が制定、1934年に瀬戸内海・雲仙・霧島が最初の国立公園に指定となっているので1925年では国立公園は日本にはまだないですね。
それから当時の登山幕営の食料は味噌醤油等調味料や米以外は現地調達が一般的で雷鳥など狩られ具材としていて古い山岳本には調理の仕方とかレシピが紹介されているそうですのであの鍋は雷鳥鍋かもね。
こんな山深い場所に重かっただろう撮影機材をどうやって持ち込んだんだろう?
当時なら人跡未踏の地とまではいかなくても、秘境だったのかな?
"る" の字甚だ読みづらし。100年まへのキャプション読破せしこの達成感たるや。あゝ只落涙す。
鉄梯子のない槍をどうやって登ったのか? まさに "あの" 《点の記》さながらの苦労があったはずの記録映画だと感心しました。
いいの撮れましたねぇ~🏔
何月の映像だろ?
貴重映像。この調子で当時の尾瀬の映像もお願い致します。浮島に乗って遊ぶ女性たちの動画が見たいです。
この時代でこの装備だとしたら
今のギアに置き換えたらとんでもなく軽くできそうやな
100年前の登山って、いまの麓のキャンプ場の装備より貧しい装備、これで3000m少し切る山行って、少し天候がかわるだけで命に係わる大問題がしばしばおきただろうね。
テントはどんな生地なんだろう
帆布だと思う
@@sunami808 重―い
さすがに穂高連峰は踏まないか、往時の装備では
多分この人たち真砂らへんから尾根降りて硫黄尾根方面から槍に行ってるでしょ
赤岳ってどこだ?って思ったら硫黄尾根にあった
一般ルートでは無いからピンとこないわけだ
蓮華とは白馬岳のことですね
この呼び名は越後側からの呼び名で、ウェストンはオオレンゲと表記したとのこと
今は信州の呼び名で白馬岳シロウマダケって呼ぶ
地元の人は信州も越後もハクバってずっと呼んでいたけれど今はハクバって呼ぶ人も少なくなったかな
半世紀前に山を始めた家族は、この背負子スタイルだったけれどアルミの背負子やっと処分したけれど、ピッケルだけは家にある
青木湖辺りで荷物を背負っていた人たちは歩荷さんたちでしょう
塩の道で最後に荷物を運んでいた人たちかな
申し訳ありません
三俣蓮華岳のことでした🙇♀️
位置的に三俣蓮華岳のことだと思いますよ。
@@みるふぃーゆ-z2p
蓮華喰いの岳と呼ばれたそうなのでそうですね
明治初期は鷲羽岳だそうですね
60年間の間に名前が変わったのですね
@@くiikoneko 鷲羽岳が鷲羽山って言われるのすごいよくわかります。三俣山荘から見た鷲羽岳が高原にある数百mの山であるかのように思いました。
@@みるふぃーゆ-z2p
ごめんなさい🙇♀️
三俣蓮華岳が鷲羽岳と呼ばれたので、現在の鷲羽岳は東鷲羽岳とか呼ばれていたようです
越中の前田藩はここら辺が三国境と思っていたようです
まあ、国境は結構変わりましたから
@@くiikoneko 面白いですね!ありがとうございます😀
th-cam.com/video/e4cUryidAU4/w-d-xo.html の牧場は、現在の徳沢園周辺ですね。
道中の幕営での直火には「おいおい..やりたい放題か」と、嫌悪を感じながらも、現代にも繋がれた動植物の命にも目を向けている映像は貴重ですね。なにより、圧倒的に積雪量が多い。
100年後の未来人にも見てもらいたいアーカイブでした。
直火に嫌悪感を感じてしまうのは現代人ならでは。
100年前の状況で如何にせよと申されるか? 昔の常識を今の基準で云々はナンセンス。
100年前の映像にも噛み付く直火警察