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父は昭和2年樺太生まれでした。暖房はストーブ(薪か石炭かは不明)や火鉢、夜は囲炉裏の周りに布団を敷いて寝たそうです。アザラシの毛皮の防寒着を着たような話をしていました。私は青森で生まれましたが、私も小さい頃とても暖かい何かの毛皮のちゃんちゃんこ?のようなものを着せられていました。樺太時代のリメイクだったかもしれません。
ちなみに貴方の年齢はお幾つですか?
@@ユートピア-w7n 私は昭和35年生まれ64歳です。毛皮のちゃんちゃんこは私が持っていたもの以外見たことがありませんので、私の育った時代や地域のものではないと思います。
僕は来年還暦で神奈川出身。今は旭川に来て三年目ですが、こちらでは未だに薪ストーブ使ってる家ありますよ。家の外に薪が積んであるのを見かけます。
私の父も樺太·真岡出身で同じような話を聞いております。
@@アイキング-y5h薪ストーブ、暖炉があるお家は一軒家なのかな?
昔の暮らしは冬期のストレスが物凄かったでしょうね。現代の暮らしに本当に感謝しないと。
昔は手にしもやけ、あかぎれが当たり前でしたね。鼻水たらしてる子供も珍しくなかった。
季語に「夏痩せ」はあるのに、「冬太り」っていう言葉は最近まで無かったらしい。昔の人は発熱代謝を上げて冬の寒さを乗り切っていたので、昔の冬の食事を今の空調の効いた生活で行うから「冬太り」という言葉ができたって聞いた。人の摂取カロリーの殆どは体温維持に使われるからね。
「着膨れ」って言わない?
@@foxgod_knows着膨れと冬太りは全然関係なくない?
@@foxgod_knows着膨れは重ね着しすぎで太ってるように見えるヤツではなかったですかね?
そうか!
くまさんみたいに沢山食べておかないとね
ここのコメント欄は見ているだけでも感慨深い・・・
なんか知ってるコメント欄と違うw
平均年齢高め⤴️
40代から農業に携る者です。多くの方々の自然と共に暮らして来た貴重な体験談を拝読出来ますこと心より感謝申し上げます!配信者様、本当に有難うございます。
石油ストーブの上にやかんで湯を沸かしてお茶を淹れて、アルミホイルで包んだ焼き芋を食べるのが子供の頃の日常でした。
私は食パン焼いてトースト日曜日して食べてました。
今でもやってますw
エネルギー利用が超効率いい。現代、そこらじゅうでエネルギー使いまくり。ある意味豊かである
御先祖様が御苦労されて生活して私たちか存在する、先人に感謝の念を、そして今の便利な暮らしに感謝するのを再認識するにもこういう動画は良いですね😊
24時間エアコンフル稼働で毎日マックデリバリーで過ごすの快適過ぎてもう、、、先人たちには感謝しかない。。。
世界中の先人に感謝だね😊
育った仙台では寝巻きと言っていたが、いわゆるかい巻きと古い軍用毛布と掛け布団を重ねて寝ていた。ずっしりとした重さを今でも覚えている。家の中でも息が白くなるのが当たり前の生活だった。
済みません、僕の家は無暖房で室内でもジャンパーで厚着、リビングで吐く息が白くなるのでこのコメントで令和の自分の貧乏さに泪。ちなみに眠るときにはダウンの上下外着を着て丸くなって寝ます。キャンプ用のダウンの靴下を履いて眠るときも。
マイナス10℃になるくらいまで、同じような感じです。あとは温かい食事、足湯と湯たんぽで暖をとります。それより寒くなればストーブをつけますが、最小限にしています。冬は寒いものです。
@@mandamnippon1 「日本万歳」僕の部屋にエアコンは無い、8年前に壊れた・・・16年前の石油ファンヒーターは有るけれど灯油代が無くて使えない。真夏もうちわで過ごし20年てる・・・冬は電気炬燵が命綱、潜って震え眠るだけ、発火が怖く手動オンオフ。レトルトカレー袋に少し水入れ残りをゼロに、食べた容器に茶を飲む。20年・・・夏にスイカを食べた事無い、5年間・・・ナシを食べて無い。メロン・・・30年以上・・・もはや記憶に無い。
おじいちゃんがそちらの県でした。子供の頃お正月に乗り物を1日以上かけて乗り継ぎ泊まりに行ったら重たい寝具や掘り炬燵だった思い出が蘇りました。茅葺き屋根の昔の作りで,広い茶の間には掘り炬燵が2箇所あり背中は反射式の小さなストーブをつけても寒かったです。お米農家だったので父から聞いた話では戦争中に食べ物に困ったことはなく,その代わり分家や子供の労力まで動員して農作業にあたったので食べ物を大切にするように躾けられました。叔父たちが健在の頃まで毎年美味しい新米が大きな袋で届いて市販のお米よりおいしかったものです。
私も仙台出身で、同じようにして寝ていました。私はことに寒がりで、これでも寒くて寝られないことがあって、ある夜そばにあったこたつの布団を全部はいで自分の布団に重ねてようやく寝られたことがあったんですが、翌朝目覚めた時の第一声が、「ああ疲れた」でした。
昭和30年代生まれの東京育ちですけど、家の構造や暖房装置に服と、昔は寒かったですね。蛇口捻るとお湯なんて出ないから、朝は湯たんぽの残り湯で顔を洗ってましたよ
😂同じ経験が有ります😂寒冷地だから水道の蛇口その物が凍結するんですうよお😭😭😭😭😭😭🤣😂
練炭掘り炬燵は記憶にある。その頃の我が家はストーブは無かったと思う。昭和40年代後半なのだが、貧しかったから世間とは一時代遅れた生活してた。朝起きると布団に雪が積もってたりした。毎年冬はあかぎれが当たり前だった。でもそんな我が家でも夜、炬燵で家族全員で夕飯を食べて楽しかった。
雪国出身でしたが、生前の祖母(大正13年生まれ)からの話と、祖母の行動をよく見てましたが、とにかくコタツが嫌いで石油ストーブの前にいつも居たような。。。ストーブの上で、酒粕を焼いて砂糖つけて食べたり、スルメ、モチ、焼き芋などいろいろ食べました。祖母の話では昔は囲炉裏が最強に暖かったみたいで、寝るまで囲炉裏前でワラ仕事や裁縫してたみたいです。あと冬前に畑に手伝い行ったときは必ず焚き火してましたね。畑は燃やすものいろいろありますから。
僕は神奈川出身で、三年前に旭川に来ました。来て先ず驚いたのがアパートにすら「煙突」がある事と大きなタンクがある事。旭川には、北海道出身の連れ合いと来たんですが、北海道ではストーブは外のタンクから灯油が直結と言うのが当たり前で、そのストーブの排気を煙突を使って出すんだとか。で、家の中ではほぼ下着一枚で過ごすのが当たり前で、こたつ使ってる人なんていないと言う事でした。
@アイキング-y5h FF式石油ストーブですね。換気が必要ないストーブでしたよね。北海道みたいに1日中寒い地域では凄く良いみたいですね😆北陸では流石にそこまでの暖房設備はありませんが、自宅を新築する時に蓄熱暖房機を勧められたりはしました。電気代が高くつくと聞いたので辞めましたけど😖
@yuubox9891 へーっ、でも、旭川ではほぼ全ての建物に煙突ついてますよ。
この動画を見ながら祖母(昭和十二年生まれ)に質問をした。「ばあちゃんが子供の頃は冬の寒さはどうやって乗り越えたの?」…と。その答えを以下会話形式を交えてお伝えします。「朝仕事に行こうとしたお父さん(以下曽祖父)が扉が開かずに驚いて頑張って開けたら…真っ白い壁だったの。福島の海沿いの温かい地域で育ったから雪を見たのはその時が初めて。なので寒さには滅法弱かった。藁布団を作って寝たものだけど…凄く温かいのよ。それでも寒いときは四角い陶器の火鉢を足元に置いて寝たけど危ないからやめたの。それ以来は、お父さんとお母さんに挟まれて寝たのが一番暖かく眠れたわね。戦争が終わると湯たんぽとか使えたけど、寝相の悪さで布からはみ出るくらい足蹴にしたら湯たんぽの逆襲が待ち受けていたのよ。…何度足を火傷しかけていた事か…。」「藁のお布団は暖かそうだけど、湯たんぽは私なら毎回火傷するね。曾祖母ちゃん曾祖父ちゃんの方が暖かくて良いね。」「親に甘えて眠れたのが幸せかな…。けれども…今は殿様暮らしだね。コンセントと毛布が合体してぬくぬく眠れる寝具だなんて贅沢な物を孫娘の貴女に買ってもらえたし。」「それどころか洋服や身体に貼れるホッカイロもあるからね。…子宮内膜症と冷え症の私はこの時代に産まれて運が良かったな。」「婦人科系の病気は身体を冷やして良いことは先ず無いからね。熱が出れば別だけど。…温かい下履きはきちんと履きなさい。救急車の御迎えは嫌よね?」落ち着いて来たとはいえ…婦人科の病が進みチョコレート嚢胞から子宮内膜症迄悪化して、炎症を抑えるために出された薬を飲み落ち着いたので仕事に行こうとしたら…その炎症を抑えるために処方された薬の副作用が原因の虚血性大腸炎&其れが原因の胃腸炎に似た症状による体調不良&子宮内膜症を抑えるための薬の副作用&重度の偏頭痛が原因で電車内で倒れてしまい救急搬送…と言った散々な10日間を過ごした私に祖母のお説教は沁みた。モフモフで可愛い上に痛みを抑えてくれたり温めてくれるアザラシのぬいぐるみやらホッカイロだの電気毛布や好きなタイミングで入れるお風呂だのが身の回りにある事は…感謝するべき。此等が無かった時代に生きていた曾祖母&高祖母と曾祖母の祖母にあたる御先祖様はさぞかし過酷だったろう。曾祖母は神経痛と冷え症で苦しんだ人だったから…想像したら悲しくなる。温かいお布団と電気毛布の中へ一緒に入れて差し上げたい。
チョコレート膿疱 食材の4毒除去して回復した人達が沢山いるようです、吉野敏明チャンネルご覧下さい。私も家族も体調改善しています。
長い
一生懸命したためた人の文章を、「長い」の二文字で否定して楽しいですか?読まなければいいし、あなたに宛てて書いた文章ではありませんよ。いつ頃からか、人の話や文章を長いと言って茶化す人間が増えましたね。あなたがそれを言われたらどう思うのでしょうか?どうか、このような投稿を気にされないでください。私の母も、東北の貧しい田舎育ちでしたが、子供時代は本当に真冬に裸足だったと言っておりました。寒いのも空腹も、無いから我慢するしかない、私も含めて今の日本人には到底耐えられないでしょうね。
藁の布団って、動画にある筵というものとは違うんでしょうか?サバイバル知識として持っておきたいです。
@@yokoph 長い
阪神大震災の後、子供の頃使っていた、豆炭アンカを買い求めました。遠赤外線が出てとても温かいです。
私とこも豆炭あんか、ずっと使っていました、懐かしいです😂。
家では今も使ってる
昔小さい頃使ってて、電気の暖房具より好きです。探してるのですが、アンカや豆炭、まだどこかに売ってるでしょうか?
本当に今考えると寒かったですよ寒冷地では無かった、が寒かったー幼いキッチンが外井戸の近くにあり、ゆきが降っていても外の流しで、あの重い釜で米研ぎかわいそうでした、その他上げれば切りがありません、今では考えられない生活ですよ。
戦前でも、絨毯やガスストーブはあったけど、やはり裕福な家の話し。絨毯をしいても専用の掃除用具や、男での多い家とかでなければ清潔は保てず、ガスストーブも長時間付けておくと、すきま風の入る日本家屋でも一酸化炭素中毒のせいか頭痛がしてきたそうです。煙突があるために、他の部屋を暖めると言うことはなかったそうです。火鉢は、一般家庭でも広く普及しておいましたが、思いの外手入れも大変だし、炭の保管にも気を遣ったそうです。炭は夏場になると需要も減り安く買え節約主婦は夏場にある程度買いだめをしたそうですが、保管場所によっては湿気を帯びてしまい、当時あちらこちらにいた鼠の排泄物がかかったりと、冬場に必要なだけあがなう方が良いと言う人も結構いたとの事です。山村では木材に不自由はないように思えますが、太平洋戦争も末期になると農家は男手を取られ「三ちゃん農業」で供出物資を作らねばならず、薪を伐りにいける余裕を中々作れるものではなかったそうで、地主や本百姓でも無い限り、暖房の火に余裕のある生活ではなかった、小作だったと舅は話してくれました。終戦直後の、40才の頃の親戚の男性の写真は、今の,70代と言っても差し支えがないほど老けて見えました。体を酷使し無ければならないのに、十分な栄養も取れなければそのようになるのだなと思いましたが、今の80代の放が若々しく見えます。良くドラマやアニメで、薪を割るシーンがありますが、あのままで燃えるものではなく、十分に乾燥させなければならないので、不足の事態のも備え常にローリングストックを欠かさないため毎日の薪割りをしていたそうです。少なくとも毎日遣う分を補充しなければならないため、常に薪割りはしていたと言うことでした。今では想像も付かないでしょうが、昭和47年頃はまだ青い鼻水を垂らして遊ぶ子が多くいて。冬になると地表には霜柱が立ち、50年代でも足や手の込んだ霜焼けが冬の定番でした。白金カイロは古くからありましたが、子供が持つものではなく、使い捨てカイロが発売されたのは、石油ストーブが発売されたより嬉しかったと祖母が話していました。なおカイロに代わるものとして、温石(おんじゃく)と言って、手頃な石を暖めて布で包み暖を取ることもあったそうです。布団は、真綿なのでへたってしまい、何年かに1℃は打ち直しと言って、綿を洗い足りない分を足してフカフカにしたのを、新しい布で布団を作り直すのも、戦前の主婦は一通りやったと言うので驚きです。職人さんに頼む人もいましたが、その程度をは頼むのは主婦の恥と言われたとの事。家庭によっては毎年打ち直しをしていたそうですよ。着るものも、分厚いウール製品を中心に重ね着は当たり前の時代でした。学校の教室には、木炭ストーブやガスストーブがあり、煙突掃除を先生達が生徒と共に行い組み立て設置は業者でした。濡れた手袋や靴下を回りの柵で乾かし、アルマイトのお弁当箱ばかりでしたので、suto-bude蒸してもらって、ほかほかのご飯を食べられたのは懐かしい思い出です。
誤字ひどすぎて草
長文にマジレスしててくさ😂
懐かしいお話でした。両親の田舎が東北地方で,父方の本家は日本昔ばなしのアニメに出てきそうな茅葺き屋根の大きな家で、それだけに茶の間は広すぎてこたつが2箇所あっても背中は寒くて道産子の私はまるで外にいるような感覚でした。そのためか自宅は小さくても石炭ストーブで充分暖かく,祖父宅に泊まりに行く時はガウンを新調してくれてパジャマの上に着てこたつで足を温めたあとはガウン着たままで重たい布団に入った記憶があります。おっしゃるように薪は1年以上乾かさないと臭いや煤の元なので,竈門にくべる薪をよく割っている姿を見たものです。もう半世紀以上前のことですがつましく暮らしていた祖父母の生活に動画で紹介されている世界観がつい最近まで続いていたのだなぁとしみじみ考えさせられました。ちなみ祖父のお葬式は自宅で営まれ,成人した私は更年期障害の母とともに叔母たちや近所の方とひたすら食事の準備と後片付けで初七日まで明け暮れたのですが、さすがに電気や灯油の暖房器具が使われました。
いいお話をしてくださり、ありがとうござります
学校のストーブの様子を思い出しました💖✨懐かしいです😊💖
私は農家で昭和の冬を体験しました。朝はまず雨戸を開ける。外気の方が温かいから。それで囲炉裏ですね。囲炉裏に火を入れ鍋をかけて味噌汁を作りながら暖をとる。かまどで炊いたご飯をおひつに入れてきて、家族一同囲炉裏を囲み朝御飯で体を温めるのですよ!
気温下がったタイミングでこれ勧めてくるAIにも驚き
私の親は戦後生まれですが、幼少期は焼いた石を布で包み、カイロにしていたそうです。また、寒い農村の祖父の布団は分厚く重く、この動画の暮らしと共通するものを感じます。いい動画をありがとう
江戸時代からあったらしいね、懐に忍ばせる炉だから懐炉。
温石(おんじゃく)ですね。今も使えそうです。
僕が子供の頃、実家は商売をやっていて暖房は火鉢だけだった。僕が寝ていた部屋は、真冬は息が白くなっていた。なので風呂からあがり、体が温かいうちに寝たもんだ。学生服のズボンは布団の下に牽いて暖めて、朝に備えた。今考えると、過酷な生活だったと思う。また、今より寒かったし雪も多かった。しかし当時はそれが当たり前だったので、そんなに大変だとは思わなかった。まあ、若い時は寒さには強いし。年取った今、 とても昔の生活には過酷すぎて戻れない。昔は厳しい生活環境だったけど、懐かしい思い出です。
昭和11年生まれ、戦時中は宮城県に疎開してました。冬は囲炉裏の周りで暖を取ってました、懐かしい思い出です。石油ストーブが普及したのは戦後だいぶ経ってからでしたね。それまでは電気炬燵だったと思いますが、体が寒さに慣れていたためかあまり寒いとは思いませんでした。最近の暑さの方が身体にこたえます。エアコン付けっぱなしでも暑さは苦手です。
半世紀前だと、まだ母の実家では練炭の火鉢と豆炭の炬燵でしのいでいたけど、温暖な西日本太平洋側だから別に雪が積もるわけでもないし、普通に暮らせてた。風呂焚きの薪は近くの商店街からリンゴ箱貰って燃やしてた。雪国の冬は別次元の厳しさだったろうな。交通も途絶しかねないし。
父方の祖父母は凄い山の中に住んでいて何十年も昔、自分がまだ小学生だった頃冬休みに帰省したら玄関あけてすぐ土間、土間から上がり口に火鉢、台所に火鉢、家族が集まる部屋に囲炉裏、五右衛門風呂、寝る時は身動き取れない位重ねた布団の中に石炭を入れた陶器製の湯たんぽ…いつの時代の話だと言われそうな暖房器具がまた普段と違って楽しかったのは良い思い出。
昭和40年代の初め、体育冬でも素足にされました。先生はスニーカー履いていたのに。
裸足教育でしたっけ、、近くの小学校は平成の頃もやっていましたが、地震による避難を考えて辞めてしまいました。足が痛くなる気温でも裸足の生徒に比べ先生たちはしっかり靴下にスニーカーとか履いててムカついたのを覚えてます。
1980年後半〜1990年ごろの記憶ですが、北関東の農家の祖母宅では練炭こたつでした。懐かしいなぁ。背中が寒いからみんなではんてんを着ていました。
子供の頃、祖父母の家にあった掘り炬燵や火鉢を懐かしく思い出しました😢
私の幼い頃、煉炭火鉢前に座り、灰掻きで均すのが好きでした、なついな〜!夜は親父が友人と御茶、タクアン、2人してシンセイのタバコで煙ボーボーだわ😊煉炭の前は薪だったそうで、ダイオキシンと副流煙で今じゃ考えられませんね!なついわ〜😊😊
祖父の農家の納屋に、真鍮製金色の三つ足がついた水桶みたいなモノがあり、それが何と火鉢だったと最近知りました。関西や関東では箱型の火鉢だったそうですが、そのどちらでもないです。70年前頃には現役だったんだろうなあ。
ウチの祖父母の家にあったのは陶器製の丸型でした
火鉢と湯たんぽは今も現役ですね。隙間風がビュービュー入り込む我が家ではエアコンは一切役に立たないので欄間まで可能な限りぴっちり塞いで石油ストーブと火鉢焚いて寒さをしのいでます。
1970年代の高校受験生でしたが、東京も寒かったです。夜、勉強する際は「頭寒足熱、ずかんそくねつ」と言って、足元には大きなスリッパ風の電熱器に足を入れて、ガウンのようなオシャレ風だがぼったりしたカイマキ風なのを着て、部屋はストーブ無し。こうすると勉強ははかどる、とかの風潮がありました。
1970年はじめに生まれたものです。幼い頃ありました~足元にアンカみたいなのがはいっていて~ガウンみたいなドテラ?みたいなの~きっと父が使っていたのでしょうね!
昭和25年生まれですが10才ころ反射式の石油ストーブを買ってからありがたいなと思いました。それまで火鉢にくつついて時々炭を足してましたから手の霜焼け痛かったです。
古来から日本人は、懐に入れる『懐中あんか』とか、寝る時に足を温める『煉炭あんか』『豆炭あんか』も…。持ってたんですよ🎉『懐中あんか』は、日本軍の戦闘中も持ってましたよ😊
うp主が足りないから仕方がない、、、泣
豆炭あんか最近買いましたよキャンプの時に使ってます便利ですね
@@cup77jp 終戦近くになるとアルコールを入れて着火するカイロも出てきたそうです。
@@葵葉aoi戦前は普通に白金懐炉があったんでは?皆が使っていたかは分からないが。
@@葵葉aoiベンジンカイロ(ハクキンカイロ)のことかな?毎年使ってます
冬はエアコンなかった幼少期に、寒くなるとよくちゃんちゃんこ着てた今も電気代浮かしたくて、昼間は祖母や伯母のお下がりちゃんちゃんこ着てる破れたら縫ってる。追加のちゃんちゃんこ5年前に買って見たけれど、やはり便利家電暖房のない昭和に作られたやつの方が温かいから手放せない
手作りのものは中の綿が違いますね。暖かいです。
田舎で今でも囲炉裏を使っている家に行ったことがあります囲炉裏に向かっている面は暖かいけど、背中は隙間風が寒くて室内でもコートが脱げませんでした炭ではなく薪をくべているので煙が目にしみて、火花が飛んでコートに小さな穴が開いてしまいました囲炉裏が暖房として廃れた理由がよくわかりました
寒くなってきたから助かります。私は風呂上がり寒いから一味唐辛子を風呂に入れて股間の激痛に耐えながら風呂上がりに寒くならないようにしてます。
体の張り方が凄すぎる。肛門の方は大丈夫なんでしょうか?
こんにちは😄柔らかいところは強い炎症になりませんか❓️昔、八甲田山の冬の戦いで軍人さんが赤唐辛子を👢敷いていたとか‼️🫚方が生姜焼きとか生姜茶も良いですね‼️風呂に入れるとかね‼️🫚大好きです💕。😊
@ 1ヶ月くらいで痛みになれます。灯油ストーブNGの賃貸でファンヒーターはエアコンの暖房より電気代がかかるし一味3振り湯船にいれるだけなら安上がりです。
鏡泊湖『痛い🥺。』漫湖『痛い🥺。』
エアコンと電気毛布でよくね?風呂入る前にエアコンと電気毛布つけといて、風呂上がって身体拭いたらすぐに包まればおkあとはそのままドライヤーしてればドライヤーの熱もあるから暖かくなるやろ
いざとなったら色々無くても何とかなるってのを知っておくだけでも全然ちゃうな。良い動画や。
明治生まれの祖父の記憶、生活の仕方が甦るような良い動画です。子供のころは多分1日2食か3食でよく食べる子だったのでご飯5杯食べてたそうで、お漬物やみそ汁に雑炊やカレーライス(は初めて食べてから気に入ってた)やおでんやうどんやそうめんも好きで、するする入る食べ物が好きなようでした。肉はあまり好きじゃないようでハンバーグやステーキなどでもほぼ食べないか少ししか食べなかった。雑炊が好きなのは夜お粥を食べていたからか?冷や飯になるのもあるけど、寝る前に胃を休めるのに消化の良いものを食べるのは理に適ってそうと今思いました。記憶の中にあるのは、着物で作られた布団、行火(あんか)や外出時のカイロは好んでた、自分で手編みした毛糸の腹巻きや靴下を愛用、あとジーパンを初めて見た時に触って気に入って買って好んで着た、スライスした餅を乾かして揚げ(冷水につけては今もやるけど)、半纏どてらは着用もするし買ってもくれました。確かになぜか朝5時に起床していた!夏ならわかるけど冬でも早いし外で何かしてる。木で小屋でも椅子でも何でも色々作るし、竹細工の籠や竹馬とか作ったり余生を楽しんでた。外でよく焚火をしてもいたかな。昔ではあるけど、現代人の記憶の中の懐かしさにもつながる体験しているからわかるこういう企画大好きです。記憶って思い出せる機会は、今の現代で大昔の事なんてなかなかないので。
築百年の古民家を購入したら掘り炬燵があったので何とかして使いたいと思っています。不便な生活になるかもしれませんが日当たり良く広い庭のある家でワクワクしています。昔の暖の取り方勉強になりました!
マメタンや炭を使った掘りごたつでは寝てはいけないと母に注意されました。肩まで潜る時もです。掘りごたつの中の隅の足おきの陣地取りで兄に足の指でつねられた事を思い出しました。😂
一酸化炭素中毒で猫が…と言う話を聞いたことあります。あれは危険なこたつです。
二十歳で終戦を迎えた大伯母、子供の頃は真綿の入った褞袍を友人から羨ましがられたようです。みんなが十分な綿を確保できていた訳ではないみたいでしたね。そんな経験があったからか、何十年ものの真綿を亡くなるまで保管していました。いつか使うかもしれないからと。(ダニがすごいことになってて使えなかったよ。。。)
褞袍(どてら)ですね❤
うちの祖母も母もそうでした!真綿をずっと保管してました😵綿の布団も使わなくなり、布団の打ち直しもできないから結局使えませんでしたが💦よく晴れた日に布団を解いて広げて、洗った?足した綿を広げて置いていた風景が懐かしいです。
祖父の実家が鳥取の山奥窓や襖が二重で畳も若干分厚かったような気がします真冬はすごい雪になる地域で囲炉裏の火は落とさない寝るときは火鉢で常に暖を取っていました大寒波のときは皆で集まり囲炉裏の周りに布団を並べたり、コークスのストーブを使っていたと思いますなにぶん30年前の記憶になりますから曖昧ですが、、、今はガンガンエアコン使います文明の力はすごいです
昭和後期生まれだけど、寒餅やってた。実家で水にためたバケツを外に置いて保管してたわ。当時は冬になるとバケツに氷が張って、畑に霜柱ができるくらいの寒さだったけど、今は無くなってきてるから今はできなくなってきちゃってるね。暖房器具はエアコンよりファンヒーターの方が安くてすぐ部屋が温まった時代。今は灯油代が2倍になっちゃったから、昔は家の断熱が悪くてもそこそこあったかい暮らしができた。今は断熱住宅だけどエアコンだと足元までなかなか温まらないから床暖房が欲しくなる。
子供の頃を思い出しました😂 良い比較をされていて素晴らしいと私は思います😂😊
エアコンの普及を妨げていたのが物品税。贅沢品だと考えられていて、エアコン(クーラー)は購入以外に税金がかかっていたんです。80年代になってようやく普及しだすのは、コレの存在も理由の一つでしょう。
俺の家では七輪が現役です。というかホームセンターで買ってきた。暖房に使え、調理器具にも使える。特に炭火で焼いた魚はガスよりも美味い。残り火はスジ肉を煮たり、ブフブルギニョンを作ります。
一酸化炭素中毒に気をつけで下さい❗️ 室内で七輪は危険⚠️ですよっ😰
平成元年産まれだが家が五右衛門風呂でな毎日学校から帰ってきて風呂を沸かしてから宿題してた五右衛門風呂はマジでガス風呂に比べて身体の芯まで温まるから、いつまでも身体が温かい。布団には母ちゃんが湯たんぽ入れてくれてたから、親父と風呂のヘリに触らないように風呂に入って温まったらすぐ布団に入ってたな。実家は今も薪で風呂を沸かすとても良い体験をして育った
昔の生活の知恵は本当の知恵。便利に馴れすぎた現代人は学ぶべき事ばかり。
100年前はフトンがなかったってのが衝撃。ムシロでどうやって寒さをしのぐんだよ
下は蓆を敷くとして上はどうしたのだろう上も蓆じゃ寒くて寝られない
綿入って言って綿の入った着物を掛け布団の代わりにしてましたそのまま防寒着としても使用します
10年前の中国農村とかは大布団無しでジャンパー着て寝てるの見た事がある日本人は寝る時にわざわざ寒い格好するのがよくわからんと言われた
二階の窓まで屋根雪が積もってしまう県庁所在地の豪雪都市に住んでるけど、冬になると何故かしら太る10kg太りましたが春になると自然と痩せて行く。ちなみに部屋の気温は14度ぐらいで寒い
意外と雪の上の裸足は行ける。小さい頃普通だった。今は嫌だけど。中学まで雪が降っても半ズボンで体育やっていたなぁ。忘れ物多くてさ。
八甲田山の事件は寒さではないんで寒波での事故ではないんですよ。語弊があるからその見解は…あれは日本陸軍の安易な見解での訓練で地元民も危ないって言われてて強行突破で訓練をした結果の事故なんで間違った情報は😢
現場を知らない「エリート」の弊害。今にも通ずる話。
雪や寒さ、防寒にたいする認識不足と気象状態認識の甘さは遠因で、直接の原因は寒さによる疲労凍死だろ。
低体温症で亡くなっているので上の人も言っている通り寒さが原因ですよ。解説している動画もいくつかあるので見てみたら分かると思いますよ。
@@ジェット55-i4y 防寒用毛皮(犬)のテストとかで強行した訓練って聞いた。
水の確保の件が最重要ですよ!庭に井戸を個別にあるのはお金持ち、共同井戸と共同洗濯場が一般的😮母は神戸で裕福に育ったが結婚してからは水運びが大変だったそうだ!母が亡くなる1年前、信仰心の厚かった母、、言った事は、「私の夢は叶った!蛇口を開くとお湯が出るのが夢だった」そうです😮私、、「唖然」[良いテーマの動画、ありがとうございます、感謝❤]
💩
クソガキの頃小さな木のコタツで寝てました、普通の赤外線コタツの部分に注射器で水をかけたら『パンッ』と言って見事に割れました、母親にぶん殴られたの思い出しました。
今は亡くなった明治37年生まれのおじいちゃんの1日。朝3時起床リンゴ畑に行く7時飯 8時田んぼ昼は帰ってこない夕方4時半飯 夜8時就寝。因みに津軽で冬は囲炉裏と湯たんぽ 綿の重い布団2枚重ね 外にあるトイレはうんこタワーが出来上がってました。おやつは米粉を水でといて焼いて砂糖をつけて食べていた。 これは美味しかった記憶、多分餅米の米粉だったと思う。
明治生まれの祖父は冬になると小屋で火鉢に当たりながら注連縄を作っていたのを思い出す。懐にオイルを射して使うタイプの金属製のカイロを入れていた。そのまま使うと火傷するので祖母が縫った専用の巾着がありました。小学校に近隣のお爺さん達が集まって児童に注連縄作りを教えいました。自宅は掘り炬燵で風呂焚きの残った熱い薪を使っていて、敷き布団の足に当たる部分だけ炬燵に入れていたので暖かかった😊
うちの亡くなったおばあちゃんは大正14年生まれでした。関東地方だったので雪国ほど寒いわけではなく、冬は囲炉裏端でおいもやお餅焼いたり温かいすいとんを食べたよぉと子どもの頃色々教えてくれました。あと農家やっていたので冬前に冬の備えの準備を結構万全にやっていたみたいですね。
80年前父は満州で暮らし部屋には暖炉があったそうです。
毎日お風呂は入れないので徒歩で近くの銭湯♨️帰りは湯冷めしないよう半纏を着て足早に自宅に銭湯♨️は海🌊に近いので塩湯 これが結構温まる記憶が夏は蚊帳で窓開けて海の寄せ返す音が子守歌🧑🍼 今では実に懐かしいキラキラした切ない記憶🤔🤔🤔
昔の人には知恵があったのよ一日中震えてた訳ではない
家で閉じこもって生活できるほど暇でも裕福でもなかったしね
東北出身。子供の頃は掘りごたつに練炭と反射式石油ストーブ今は電気こたつと石油ファンヒーター(丸ダクトをこたつにつっこんでファンヒーターの熱で室内とこたつ内を暖めるやつ)室内寒くなければ電気こたつのみ。昔の練炭こたつと反射式灯油ストーブのほうが暖かった(熱かった😅)寒い朝に白い息吐きながらの練炭火おこしが大変だったな。
冬場は家でも外でもスキーウェアを着ると快適ですよ。もはや、エアコンもストーブも必要ないくらいに暖かいです。部屋の空気も汚れないですし、電気代も掛かりません。災害時やキャンプでも優秀です。丈夫で長持ちする上に汚れにくい。デザインも、ボード向けまで広げれば外着でいけるものもあります。
関西在住ですが暖房器具や分厚い服があっても冬は死にそうなくらい寒がりで…昔の、それも東北地方などの人はどう暮らしていたのかな〜と思っていました。おしん見て、画面の前で凍えます…🥶
雪国の農村部出身の父母が今70代中盤なんですけど、戦後直後の時期では都心部ではどうか知りませんが田舎生活で使っていた暖房設備はやはり囲炉裏ですね。硝子戸と言うものが田舎には流通していなかったので、窓ガラスは無く、障子を開けると雪景色です。なので布団は三枚四枚重ねで寝ます。冬季には農作業が無かったので祖父は汽車に揺られて都心に単身出稼ぎに行っていました。田中角栄の列島改造政策で高速道路や一般道路の整備拡張が実現したおかげで物流が隅々まで行き届く様になり、ようやく都心部と田舎の生活水準格差が埋まり今に至ります。それまでは地方の田舎は江戸時代と大差無い暮らしだったようです。電気設備と言えば唯一町役場に交換手に取り次いで貰うタイプの面倒臭い電話機があったくらいでしょうか。
親父が子供の頃、都内から地方の本家に疎開した際「目の前に米や芋が沢山あるのに疎開一家には一切分けてもらえないイジメを受けた」って言ってたな。死ぬまでその恨みは忘れてなかった。食い物の恨みは恐ろしい。あと、寒さ対策って平成初期までは昭和中期と変わらなかった印象。学校も家も石油ストーブのみ。よくきゅぽきゅぽしてたわ。エアコンは金持ちの家しかない。布団に湯たんぽも入れてた。
温故知新、ありがとうございます❣️
昔の家はすきま風あり せんべい綿ふとん 寝るときには夫婦でくっついて暖めあう。でまあ、盛り上がり 結果 子沢山になりますわな。
火鉢や炬燵の炭火は遠赤外線でかなり暖かい。現代のガスや電気の暖房よりも火力が強いと思う。
昔はエアコンなかったのですが今ほど寒いとは思はなかったです、主に炭のこたつ、豆炭練炭、カラ消し、 でもぐっすり眠れた。夏もやはり暑かったね、子供はランニングシャツ、井戸で冷やしたトマト、アイスキャンディ、冷やしたわらび餅屋が自転車で売りに来た、大病院にはスチーム暖房あったけど夜は切られるので湯たんぽして病院生活でした。昭和の戦後貧しかったけど団塊世代が続いたので都会も田舎も活気であふれていた。おんぼろ路線バスも必ず車掌さんがいて、バス停はお店があり白熱電球が照らしていていろんなものを売っていた、あの時代が忘れられない規則正しい生活、学校の先生も厳しかったけど、年々日本が発展して物が安くあふれるようだった、その後東海道新幹線が開通した、意外と人々は純粋,フレンドリー外来生物も少なく日本の固有種が多く本当に美しい日本だった気がします、学校は薪ストーブ、都会ではそれさえないところがあったでもほとんど耐えて今まで生きてきた。落とし便所はごく最近の地方の駅にも残っていた、今は見ないねぇ、人糞も大切な有機肥料だったんですよ、田舎の香水として何と蝶々や昆虫がその糞尿を飲みに来てたアゲハ蝶は必ず訪れていた。栄養になったのかも、
我が家では、冬は湯たんぽと厚着で過ごします。夏はうちわ一つです。
冬はいいけど…夏は気をつけてね
私の子供の頃は電気コタツはなくて豆炭のコタツでした。日中はコタツはなくて、岩手の漁港育ちですけど、窓が広くて日光がたくさん入るようになっていたし、作りも日光がよく入るように南を向いて窓が多かったように思います。ビルも何もないのでどの家もよく日光が入りました。二月でも晴れの日はこたつなしでいましたね。セーターにアノラックという防寒着で、車社会ではなかったのでとにかく歩きました。子供ながら猫車やリヤカーを引いて牛の糞を貰っては畑のところに持っていくとか、ワカメとか工場に持っていったり。動いていたんでしょうね。辛いのは冬の朝のトイレの寒さでした。
北国でも暖房は地域によって差があります普通は薪が多いが石炭の採れる地域では小学校でも石炭ストーブでしたからね一般家庭での囲炉裏は昭和30年代には薪ストーブになり、その後昭和40年代には石炭ストーブになり、40年代後半には石油ストーブになっていきました照明もランプから電球、蛍光灯へと変わっていった最近はボイラーで床暖房或いは全室空調システムにLED照明但し停電になると最悪です
東北地方の昔は農民は地べたにむしろの上で眠っていたそうで、胸を憑かれました。
0:49 昭和24年産まれの東京下町育ちですが、当時は本当に寒かった。しかし、子供ですからこんなものだと思っていました。今は当時のような暮らしはできませんね。ともかく家は四畳半一間の木造二階建てのアパートに家族4人暮らし、台所の流しとトイレは共用で臭かった。暖房はコタツと七輪練炭が一般的でしたね。洗濯は冷たい水を張ったタライに洗濯板に手洗いですよ。それでも家にテレビもラジオもないので雨の日以外は真冬でも素足に下駄で外で遊び回っていましたね。足シモヤケ手はアカギレだらけ、小学校に上がる頃に靴と靴下を買ってもらいました。当時シッケが多く朝もやの中を学校に通いました。焚き火もあちこちでしてました。霜は毎日ありました。今の人達はシモヤケ、アカギレなんて知らんでしょう。田舎は人糞撒くものだからどこも臭くて息もしたくなかった。都会の道路はゴミだらけ、イヌのクソを踏んづけることは当たり前、都会の河はヘドロのニオイで近づけもしなかった。持ち家に風呂のある家はほとんど無かった。だけど都会は当時から便利だった。歩いて五分ぐらいのところに銭湯も商店街もあった。だから冷蔵庫のない時代に生鮮魚も生肉も買えました。田舎では不味いものしか食えなかった。都会の繁華街ではガムの吐き捨てた後が路面にたくさんあって汚かった。20歳ぐらいの時は横浜に住居が変わり、銭湯から出て2〜3分で湯上げタオルが逆立ちするほど凍りましたね。どういうわけか50年くらい前から街も道路も河もキレイになってきました。50歳以下の人達は知らないことです。
ほ
死んだ父親も昭和22年生まれ北千住育ちでした、若い頃横浜に住んだ事もあったって言ってました。どこかでニアミスしてたかも銭湯は大黒湯に入ったそうです
見るだけで寒くなる😶🌫️
高度成長の時代、山あいの田舎で、私の小さい頃は掘りごたつに炭みたいなのを入れていたかな。50年前くらい。うちの親は冬の夜に暖房入れなかったから、寝るときは布団をたくさんかけられてくるしかったし、それでも寒かった。もうその時の家は無いけど、あんな寒い家には帰りたくないです。😔
祖母から聞いたのですが昔は帰宅の30分前アレクサにお願いして、家とお風呂を適温に準備してもらうのが面倒だったそうです。
いつ何時も手に入る生活・・・、数年前までは。今は菓子パン生活が増えており、しかも人口の割に農家が少なく農業がかなりしづらい。しかもこれからガソリン価格が爆上がり予測されているようなので、第2回目を超える悲惨な状況になりそう。
うちの父親は戦後生まれですが実は日本も1960年前後半までは山間部は布団が藁で網戸も藁で網戸代わりに使われていたそうです都市部、地方都市部は綿は使えても田舎や山間部は藁で布団代わりでわらじも普通に使われていて実際1964年まで国際ユニセフが日本に毛布を支給するなど実は日本が本当に皆が今のように暖房は1970年代から全国に普及したものと年寄り集団から教わりましたそれまでは田舎と地方都市でも差が激しいため、煉炭や七輪は手放せなかったらしいです
掘り炬燵懐かしい。入った猫が酸素不足でフラフラで出てきた時は笑ったなw
おしるこも人気だっただろうなあ亡くなった祖母がよくお汁粉や団子汁を冬に作ってくれてたなあ
私の子供の頃、平成初期ですが、家でまだ、味噌と梅干しを作っていました。
1975年頃、北海道の鉱山町にいました。指折りの豪雪地帯でしたが、作り付けの大きな石油ストーブがごうごう燃えていて室内は割と暖かかったです。あの頃の鉱山は儲かっていました。
母親(80代)に聞いてみたら二人に一人の割合で手火鉢という手を温める物があったそうです。母親の実家は掘り炬燵なのを思いだしました。
餅を自然乾燥させるのが寒餅水餅がついた餅が水に入れても溶けなくなる位の硬さになったら、水に漬けこんで保存する餅
冬でも,ほとんど暖房は使っていません😅
【暖房・採暖】 日本で暖房が可能になったのは住宅の気密性が高くなってからですね。 石炭を焚く達磨ストーブや灯油ストーブが暖房の走りでしょうか。 それまでは火鉢などの採暖器具で暖を採っていたのでしょう。※注意 暖房器具とは字の通り部屋を暖めるもので、火鉢や炬燵、それに懐炉などは部屋を暖めませんので暖房器具ではなく採暖器具です。
明治生まれの祖父が小さい頃は一升瓶にお湯を入れて(お湯が漏れないようにビニール袋に入れてから)毛布で包み布団の中に入れて暖を取ったらしい。その後石炭アンカが主流になったとのこと。
外の気温が氷点下になっていなかったつい先週まで、簡易的な火鉢を2週間ほど使ってみたんだけれども、毎日炭を100gくらい使っても部屋の気温は全然上がらず、最終的に20℃超え(外気温は一桁前半)たら上等って感じだったな。CO濃度は100ppm以下を保つために炭は灰の中に埋める形で運用しました。燃焼時間はだいたい5時間ってトコでした。なかなか良い感じに不便なシロモノです。
暖房が嫌いな親家では毛布を体に巻き寒さをしのぐ。くしゃみをすると怒られるので寝る時は歯を食いしばる。バスや電車の温かさは天国。
子供の頃 練炭で掘り炬燵してました。こたつの中に入って練炭の火を見つめていると綺麗で眠たいなってくる。 体だるくてきもち良いー一酸化炭素中毒に何回もなりかけました。
先人さん達の知恵は今でも使えますよ😊なんなら今うるさいSDGなんたらにもね
昭和47年の3歳頃の古い記憶では、私の家では火鉢を使っていましたね。それから1年後に初めて石油ストーブを使い始めた記憶があります。石油ストーブの周りに設置するゲージ(?)に、乾燥しきれなかった肌着や靴下を「助かるわ〜😄」と言いながら干していた記憶があります。懐かしいわ〜😊あとはコタツと夜眠る時に湯たんぽか豆炭あんかを布団に入れて暖を取っていた位しか、身体を温める設備が無かったですね。
講義料として
綿の替わりにワラを入れた綿布団が昭和の時代まで使われていました。囲炉裏は薪を燃やすので、煙がひどく、そのため目の病気が多かったそうです。暖房には火鉢、猫炬燵が使われて、炭を燃やしていました。湯たんぽもありました。
窓やサッシが無かったから熱が逃げにくかったでしょう間取りを工夫すれば隙間風も軽減できたのでは?
戦後直後になりますが親父の大学生時代でアパートに住む同学生が寒いので自室から火鉢を持ち込んで便所でしていたので当時の住宅防寒は現在よりも劣るので想像は出来ます
いきなり平均気温を語りだしたからどこの事かと思って調べたけど、「東京の」平均気温ですね。 平均気温1.6度だと現代だと仙台に住んでるような気温ですね。
東西南北に長い日本なので、地域差を細かく考察すると尺が足りませんね。
戦前からある火鉢やストーブ(薪や石炭)は暖房器具じゃないとでも??
ボクの記憶で一番最初は ガスストーブですね。 煮炊きに竈は大きなのが有りましたがいちいち薪くべてばかりはさすがに なのでガスが一番身近だった訳です。囲炉裏はすでに床板で塞がれていましたので時々オコタが出てきました。途中の動画に出てくる物が近いですが3~40cm四方の木製の真四角な木の箱形状炭をうける鉢は中に有って 燃料は豆炭(マメタン) 炭を出荷するのに残ったカスを更に砕いて固めた物オコタに布団を掛けて足先から膝くらいは入れる感じですかね。 布団に潜り込もうとすると「中毒でタヒぬぞ!」とよく怒られましたよ。
大変だったんすねー〜ふっとんから出たくないミノムシ君〜
昔から暖房器具がありました。エアコンも同様にありました。そうでないと夏冬生きていけないからです。
まず灯りがなかった。灯りをつけるには火を起こさなければ灯りはつかなかった。そして灯りは贅沢なものだった。だから早く起きても空が明けないうちは真っ暗だった。
父は昭和2年樺太生まれでした。暖房はストーブ(薪か石炭かは不明)や火鉢、夜は囲炉裏の周りに布団を敷いて寝たそうです。アザラシの毛皮の防寒着を着たような話をしていました。私は青森で生まれましたが、私も小さい頃とても暖かい何かの毛皮のちゃんちゃんこ?のようなものを着せられていました。樺太時代のリメイクだったかもしれません。
ちなみに貴方の年齢はお幾つですか?
@@ユートピア-w7n 私は昭和35年生まれ64歳です。毛皮のちゃんちゃんこは私が持っていたもの以外見たことがありませんので、私の育った時代や地域のものではないと思います。
僕は来年還暦で神奈川出身。今は旭川に来て三年目ですが、こちらでは未だに薪ストーブ使ってる家ありますよ。家の外に薪が積んであるのを見かけます。
私の父も樺太·真岡出身で同じような話を聞いております。
@@アイキング-y5h薪ストーブ、暖炉があるお家は一軒家なのかな?
昔の暮らしは冬期のストレスが物凄かったでしょうね。
現代の暮らしに本当に感謝しないと。
昔は手にしもやけ、あかぎれが当たり前でしたね。鼻水たらしてる子供も珍しくなかった。
季語に「夏痩せ」はあるのに、「冬太り」っていう言葉は最近まで無かったらしい。
昔の人は発熱代謝を上げて冬の寒さを乗り切っていたので、昔の冬の食事を今の空調の効いた生活で行うから「冬太り」という言葉ができたって聞いた。
人の摂取カロリーの殆どは体温維持に使われるからね。
「着膨れ」って言わない?
@@foxgod_knows着膨れと冬太りは全然関係なくない?
@@foxgod_knows着膨れは重ね着しすぎで太ってるように見えるヤツではなかったですかね?
そうか!
くまさんみたいに沢山食べておかないとね
ここのコメント欄は見ているだけでも感慨深い・・・
なんか知ってるコメント欄と違うw
平均年齢高め⤴️
40代から農業に携る者です。
多くの方々の自然と共に暮らして来た貴重な体験談を拝読出来ますこと心より感謝申し上げます!
配信者様、本当に有難うございます。
石油ストーブの上にやかんで湯を沸かしてお茶を淹れて、アルミホイルで包んだ焼き芋を食べるのが子供の頃の日常でした。
私は食パン焼いてトースト日曜日して食べてました。
今でもやってますw
エネルギー利用が超効率いい。現代、そこらじゅうでエネルギー使いまくり。ある意味豊かである
御先祖様が御苦労されて生活して私たちか存在する、先人に感謝の念を、そして今の便利な暮らしに感謝するのを再認識するにもこういう動画は良いですね😊
24時間エアコンフル稼働で毎日マックデリバリーで過ごすの快適過ぎてもう、、、先人たちには感謝しかない。。。
世界中の先人に感謝だね😊
育った仙台では寝巻きと言っていたが、いわゆるかい巻きと古い軍用毛布と掛け布団を重ねて寝ていた。ずっしりとした重さを今でも覚えている。家の中でも息が白くなるのが当たり前の生活だった。
済みません、僕の家は無暖房で室内でもジャンパーで厚着、リビングで吐く息が白くなるのでこのコメントで令和の自分の貧乏さに泪。ちなみに眠るときにはダウンの上下外着を着て丸くなって寝ます。キャンプ用のダウンの靴下を履いて眠るときも。
マイナス10℃になるくらいまで、同じような感じです。あとは温かい食事、足湯と湯たんぽで暖をとります。それより寒くなればストーブをつけますが、最小限にしています。
冬は寒いものです。
@@mandamnippon1 「日本万歳」
僕の部屋にエアコンは無い、8年前に壊れた・・・
16年前の石油ファンヒーターは有るけれど灯油代が無くて使えない。
真夏もうちわで過ごし20年てる・・・
冬は電気炬燵が命綱、潜って震え眠るだけ、発火が怖く手動オンオフ。
レトルトカレー袋に少し水入れ残りをゼロに、食べた容器に茶を飲む。
20年・・・夏にスイカを食べた事無い、5年間・・・ナシを食べて無い。
メロン・・・30年以上・・・もはや記憶に無い。
おじいちゃんがそちらの県でした。
子供の頃お正月に乗り物を1日以上かけて乗り継ぎ泊まりに行ったら重たい寝具や掘り炬燵だった思い出が蘇りました。
茅葺き屋根の昔の作りで,広い茶の間には掘り炬燵が2箇所あり背中は反射式の小さなストーブをつけても寒かったです。
お米農家だったので父から聞いた話では戦争中に食べ物に困ったことはなく,その代わり分家や子供の労力まで動員して農作業にあたったので食べ物を大切にするように躾けられました。
叔父たちが健在の頃まで毎年美味しい新米が大きな袋で届いて市販のお米よりおいしかったものです。
私も仙台出身で、同じようにして寝ていました。私はことに寒がりで、これでも寒くて寝られないことがあって、ある夜そばにあったこたつの布団を全部はいで自分の布団に重ねてようやく寝られたことがあったんですが、翌朝目覚めた時の第一声が、「ああ疲れた」でした。
昭和30年代生まれの東京育ちですけど、家の構造や暖房装置に服と、昔は寒かったですね。蛇口捻るとお湯なんて出ないから、朝は湯たんぽの残り湯で顔を洗ってましたよ
😂同じ経験が有ります😂寒冷地だから水道の蛇口その物が凍結するんですうよお😭😭😭😭😭😭🤣😂
練炭掘り炬燵は記憶にある。その頃の我が家はストーブは無かったと思う。昭和40年代後半なのだが、貧しかったから世間とは一時代遅れた生活してた。朝起きると布団に雪が積もってたりした。毎年冬はあかぎれが当たり前だった。でもそんな我が家でも夜、炬燵で家族全員で夕飯を食べて楽しかった。
雪国出身でしたが、生前の祖母(大正13年生まれ)からの話と、祖母の行動をよく見てましたが、とにかくコタツが嫌いで石油ストーブの前にいつも居たような。。。ストーブの上で、酒粕を焼いて砂糖つけて食べたり、スルメ、モチ、焼き芋などいろいろ食べました。祖母の話では昔は囲炉裏が最強に暖かったみたいで、寝るまで囲炉裏前でワラ仕事や裁縫してたみたいです。あと冬前に畑に手伝い行ったときは必ず焚き火してましたね。畑は燃やすものいろいろありますから。
僕は神奈川出身で、三年前に旭川に来ました。
来て先ず驚いたのがアパートにすら「煙突」がある事と大きなタンクがある事。旭川には、北海道出身の連れ合いと来たんですが、北海道ではストーブは外のタンクから灯油が直結と言うのが当たり前で、そのストーブの排気を煙突を使って出すんだとか。で、家の中ではほぼ下着一枚で過ごすのが当たり前で、こたつ使ってる人なんていないと言う事でした。
@アイキング-y5h
FF式石油ストーブですね。換気が必要ないストーブでしたよね。北海道みたいに1日中寒い地域では凄く良いみたいですね😆北陸では流石にそこまでの暖房設備はありませんが、自宅を新築する時に蓄熱暖房機を勧められたりはしました。電気代が高くつくと聞いたので辞めましたけど😖
@yuubox9891 へーっ、でも、旭川ではほぼ全ての建物に煙突ついてますよ。
この動画を見ながら祖母(昭和十二年生まれ)に質問をした。
「ばあちゃんが子供の頃は冬の寒さはどうやって乗り越えたの?」…と。
その答えを以下会話形式を交えてお伝えします。
「朝仕事に行こうとしたお父さん(以下曽祖父)が扉が開かずに驚いて頑張って開けたら…真っ白い壁だったの。
福島の海沿いの温かい地域で育ったから雪を見たのはその時が初めて。
なので寒さには滅法弱かった。
藁布団を作って寝たものだけど…凄く温かいのよ。
それでも寒いときは四角い陶器の火鉢を足元に置いて寝たけど危ないからやめたの。
それ以来は、お父さんとお母さんに挟まれて寝たのが一番暖かく眠れたわね。
戦争が終わると湯たんぽとか使えたけど、寝相の悪さで布からはみ出るくらい足蹴にしたら湯たんぽの逆襲が待ち受けていたのよ。
…何度足を火傷しかけていた事か…。」
「藁のお布団は暖かそうだけど、湯たんぽは私なら毎回火傷するね。
曾祖母ちゃん曾祖父ちゃんの方が暖かくて良いね。」
「親に甘えて眠れたのが幸せかな…。けれども…今は殿様暮らしだね。
コンセントと毛布が合体してぬくぬく眠れる寝具だなんて贅沢な物を孫娘の貴女に買ってもらえたし。」
「それどころか洋服や身体に貼れるホッカイロもあるからね。
…子宮内膜症と冷え症の私はこの時代に産まれて運が良かったな。」
「婦人科系の病気は身体を冷やして良いことは先ず無いからね。
熱が出れば別だけど。
…温かい下履きはきちんと履きなさい。
救急車の御迎えは嫌よね?」
落ち着いて来たとはいえ…
婦人科の病が進みチョコレート嚢胞から子宮内膜症迄悪化して、炎症を抑えるために出された薬を飲み落ち着いたので仕事に行こうとしたら…その炎症を抑えるために処方された薬の副作用が原因の虚血性大腸炎&其れが原因の胃腸炎に似た症状による体調不良&子宮内膜症を抑えるための薬の副作用&重度の偏頭痛が原因で電車内で倒れてしまい救急搬送…と言った散々な10日間を過ごした私に祖母のお説教は沁みた。
モフモフで可愛い上に痛みを抑えてくれたり温めてくれるアザラシのぬいぐるみやらホッカイロだの電気毛布や好きなタイミングで入れるお風呂だのが身の回りにある事は…感謝するべき。
此等が無かった時代に生きていた曾祖母&高祖母と曾祖母の祖母にあたる御先祖様はさぞかし過酷だったろう。
曾祖母は神経痛と冷え症で苦しんだ人だったから…想像したら悲しくなる。
温かいお布団と電気毛布の中へ一緒に入れて差し上げたい。
チョコレート膿疱 食材の4毒除去して回復した人達が沢山いるようです、
吉野敏明チャンネルご覧下さい。
私も家族も体調改善しています。
長い
一生懸命したためた人の文章を、「長い」の二文字で否定して楽しいですか?読まなければいいし、あなたに宛てて書いた文章ではありませんよ。いつ頃からか、人の話や文章を長いと言って茶化す人間が増えましたね。あなたがそれを言われたらどう思うのでしょうか?
どうか、このような投稿を気にされないでください。
私の母も、東北の貧しい田舎育ちでしたが、子供時代は本当に真冬に裸足だったと言っておりました。
寒いのも空腹も、無いから我慢するしかない、私も含めて今の日本人には到底耐えられないでしょうね。
藁の布団って、動画にある筵というものとは違うんでしょうか?
サバイバル知識として持っておきたいです。
@@yokoph 長い
阪神大震災の後、子供の頃使っていた、豆炭アンカを買い求めました。遠赤外線が出てとても温かいです。
私とこも豆炭あんか、ずっと使っていました、懐かしいです😂。
家では今も使ってる
昔小さい頃使ってて、電気の暖房具より好きです。
探してるのですが、アンカや豆炭、まだどこかに売ってるでしょうか?
本当に今考えると寒かったですよ寒冷地では無かった、が寒かったー幼いキッチンが外井戸の近くにあり、ゆきが降っていても外の流しで、あの重い釜で米研ぎかわいそうでした、その他上げれば切りがありません、今では考えられない生活ですよ。
戦前でも、絨毯やガスストーブはあったけど、やはり裕福な家の話し。
絨毯をしいても専用の掃除用具や、男での多い家とかでなければ清潔は保てず、ガスストーブも長時間付けておくと、すきま風の入る日本家屋でも一酸化炭素中毒のせいか頭痛がしてきたそうです。
煙突があるために、他の部屋を暖めると言うことはなかったそうです。
火鉢は、一般家庭でも広く普及しておいましたが、思いの外手入れも大変だし、炭の保管にも気を遣ったそうです。炭は夏場になると需要も減り安く買え節約主婦は夏場にある程度買いだめをしたそうですが、保管場所によっては湿気を帯びてしまい、当時あちらこちらにいた鼠の排泄物がかかったりと、冬場に必要なだけあがなう方が良いと言う人も結構いたとの事です。
山村では木材に不自由はないように思えますが、太平洋戦争も末期になると農家は男手を取られ「三ちゃん農業」で供出物資を作らねばならず、薪を伐りにいける余裕を中々作れるものではなかったそうで、地主や本百姓でも無い限り、暖房の火に余裕のある生活ではなかった、小作だったと舅は話してくれました。
終戦直後の、40才の頃の親戚の男性の写真は、今の,70代と言っても差し支えがないほど老けて見えました。
体を酷使し無ければならないのに、十分な栄養も取れなければそのようになるのだなと思いましたが、今の80代の放が若々しく見えます。
良くドラマやアニメで、薪を割るシーンがありますが、あのままで燃えるものではなく、十分に乾燥させなければならないので、不足の事態のも備え常にローリングストックを欠かさないため毎日の薪割りをしていたそうです。少なくとも毎日遣う分を補充しなければならないため、常に薪割りはしていたと言うことでした。
今では想像も付かないでしょうが、昭和47年頃はまだ青い鼻水を垂らして遊ぶ子が多くいて。冬になると地表には霜柱が立ち、50年代でも足や手の込んだ霜焼けが冬の定番でした。
白金カイロは古くからありましたが、子供が持つものではなく、使い捨てカイロが発売されたのは、石油ストーブが発売されたより嬉しかったと祖母が話していました。
なおカイロに代わるものとして、温石(おんじゃく)と言って、手頃な石を暖めて布で包み暖を取ることもあったそうです。
布団は、真綿なのでへたってしまい、何年かに1℃は打ち直しと言って、綿を洗い足りない分を足してフカフカにしたのを、新しい布で布団を作り直すのも、戦前の主婦は一通りやったと言うので驚きです。職人さんに頼む人もいましたが、その程度をは頼むのは主婦の恥と言われたとの事。
家庭によっては毎年打ち直しをしていたそうですよ。
着るものも、分厚いウール製品を中心に重ね着は当たり前の時代でした。
学校の教室には、木炭ストーブやガスストーブがあり、煙突掃除を先生達が生徒と共に行い組み立て設置は業者でした。濡れた手袋や靴下を回りの柵で乾かし、アルマイトのお弁当箱ばかりでしたので、suto-bude蒸してもらって、ほかほかのご飯を食べられたのは懐かしい思い出です。
誤字ひどすぎて草
長文にマジレスしててくさ😂
懐かしいお話でした。
両親の田舎が東北地方で,父方の本家は日本昔ばなしのアニメに出てきそうな茅葺き屋根の大きな家で、それだけに茶の間は広すぎてこたつが2箇所あっても背中は寒くて道産子の私はまるで外にいるような感覚でした。
そのためか自宅は小さくても石炭ストーブで充分暖かく,祖父宅に泊まりに行く時はガウンを新調してくれてパジャマの上に着てこたつで足を温めたあとはガウン着たままで重たい布団に入った記憶があります。
おっしゃるように薪は1年以上乾かさないと臭いや煤の元なので,竈門にくべる薪をよく割っている姿を見たものです。
もう半世紀以上前のことですがつましく暮らしていた祖父母の生活に動画で紹介されている世界観がつい最近まで続いていたのだなぁとしみじみ考えさせられました。
ちなみ祖父のお葬式は自宅で営まれ,成人した私は更年期障害の母とともに叔母たちや近所の方とひたすら食事の準備と後片付けで初七日まで明け暮れたのですが、さすがに電気や灯油の暖房器具が使われました。
いいお話をしてくださり、ありがとうござります
学校のストーブの様子を思い出しました💖✨
懐かしいです😊💖
私は農家で昭和の冬を体験しました。朝はまず雨戸を開ける。外気の方が温かいから。それで囲炉裏ですね。囲炉裏に火を入れ鍋をかけて味噌汁を作りながら暖をとる。かまどで炊いたご飯をおひつに入れてきて、家族一同囲炉裏を囲み朝御飯で体を温めるのですよ!
気温下がったタイミングでこれ勧めてくるAIにも驚き
私の親は戦後生まれですが、幼少期は焼いた石を布で包み、カイロにしていたそうです。
また、寒い農村の祖父の布団は分厚く重く、この動画の暮らしと共通するものを感じます。
いい動画をありがとう
江戸時代からあったらしいね、懐に忍ばせる炉だから懐炉。
温石(おんじゃく)ですね。今も使えそうです。
僕が子供の頃、実家は商売をやっていて暖房は火鉢だけだった。僕が寝ていた部屋は、真冬は息が白くなっていた。
なので風呂からあがり、体が温かいうちに寝たもんだ。学生服のズボンは布団の下に牽いて暖めて、朝に備えた。今考えると、過酷な生活だったと思う。また、今より寒かったし雪も多かった。
しかし当時はそれが当たり前だったので、そんなに大変だとは思わなかった。まあ、若い時は寒さには強いし。年取った今、 とても昔の生活には過酷すぎて戻れない。昔は厳しい生活環境だったけど、懐かしい思い出です。
昭和11年生まれ、戦時中は宮城県に疎開してました。冬は囲炉裏の周りで暖を取ってました、懐かしい思い出です。石油ストーブが普及したのは戦後だいぶ経ってからでしたね。それまでは電気炬燵だったと思いますが、体が寒さに慣れていたためかあまり寒いとは思いませんでした。最近の暑さの方が身体にこたえます。エアコン付けっぱなしでも暑さは苦手です。
半世紀前だと、まだ母の実家では練炭の火鉢と豆炭の炬燵でしのいでいたけど、温暖な西日本太平洋側だから別に雪が積もるわけでもないし、普通に暮らせてた。風呂焚きの薪は近くの商店街からリンゴ箱貰って燃やしてた。雪国の冬は別次元の厳しさだったろうな。交通も途絶しかねないし。
父方の祖父母は凄い山の中に住んでいて何十年も昔、自分がまだ小学生だった頃冬休みに帰省したら玄関あけてすぐ土間、土間から上がり口に火鉢、台所に火鉢、家族が集まる部屋に囲炉裏、五右衛門風呂、寝る時は身動き取れない位重ねた布団の中に石炭を入れた陶器製の湯たんぽ…いつの時代の話だと言われそうな暖房器具がまた普段と違って楽しかったのは良い思い出。
昭和40年代の初め、体育冬でも素足にされました。先生はスニーカー履いていたのに。
裸足教育でしたっけ、、近くの小学校は平成の頃もやっていましたが、地震による避難を考えて辞めてしまいました。足が痛くなる気温でも裸足の生徒に比べ先生たちはしっかり靴下にスニーカーとか履いててムカついたのを覚えてます。
1980年後半〜1990年ごろの記憶ですが、北関東の農家の祖母宅では練炭こたつでした。懐かしいなぁ。背中が寒いからみんなではんてんを着ていました。
子供の頃、祖父母の家にあった掘り炬燵や火鉢を懐かしく思い出しました😢
私の幼い頃、煉炭火鉢前に座り、灰掻きで均すのが好きでした、なついな〜!
夜は親父が友人と御茶、タクアン、2人してシンセイのタバコで煙ボーボーだわ😊
煉炭の前は薪だったそうで、ダイオキシンと副流煙で今じゃ考えられませんね!なついわ〜😊😊
祖父の農家の納屋に、真鍮製金色の三つ足がついた水桶みたいなモノがあり、
それが何と火鉢だったと最近知りました。
関西や関東では箱型の火鉢だったそうですが、そのどちらでもないです。
70年前頃には現役だったんだろうなあ。
ウチの祖父母の家にあったのは陶器製の丸型でした
火鉢と湯たんぽは今も現役ですね。
隙間風がビュービュー入り込む我が家ではエアコンは一切役に立たないので欄間まで可能な限りぴっちり塞いで石油ストーブと火鉢焚いて寒さをしのいでます。
1970年代の高校受験生でしたが、東京も寒かったです。
夜、勉強する際は「頭寒足熱、ずかんそくねつ」と言って、足元には大きなスリッパ風の電熱器に足を入れて、ガウンのようなオシャレ風だがぼったりしたカイマキ風なのを着て、部屋はストーブ無し。
こうすると勉強ははかどる、とかの風潮がありました。
1970年はじめに生まれたものです。幼い頃ありました~足元にアンカみたいなのがはいっていて~ガウンみたいなドテラ?みたいなの~きっと父が使っていたのでしょうね!
昭和25年生まれですが10才ころ反射式の石油ストーブを買ってからありがたいなと思いました。それまで火鉢にくつついて時々炭を足してましたから手の霜焼け痛かったです。
古来から日本人は、懐に入れる『懐中あんか』とか、寝る時に足を温める『煉炭あんか』『豆炭あんか』も…。持ってたんですよ🎉『懐中あんか』は、日本軍の戦闘中も持ってましたよ😊
うp主が足りないから仕方がない、、、泣
豆炭あんか最近買いましたよ
キャンプの時に使ってます
便利ですね
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終戦近くになるとアルコールを入れて着火するカイロも出てきたそうです。
@@葵葉aoi
戦前は普通に白金懐炉があったんでは?皆が使っていたかは分からないが。
@@葵葉aoiベンジンカイロ(ハクキンカイロ)のことかな?毎年使ってます
冬はエアコンなかった幼少期に、寒くなるとよくちゃんちゃんこ着てた
今も電気代浮かしたくて、昼間は祖母や伯母のお下がりちゃんちゃんこ着てる
破れたら縫ってる。追加のちゃんちゃんこ5年前に買って見たけれど、やはり便利家電暖房のない昭和に作られたやつの方が温かいから手放せない
手作りのものは中の綿が違いますね。暖かいです。
田舎で今でも囲炉裏を使っている家に行ったことがあります
囲炉裏に向かっている面は暖かいけど、背中は隙間風が寒くて室内でもコートが脱げませんでした
炭ではなく薪をくべているので煙が目にしみて、火花が飛んでコートに小さな穴が開いてしまいました
囲炉裏が暖房として廃れた理由がよくわかりました
寒くなってきたから助かります。私は風呂上がり寒いから一味唐辛子を風呂に入れて股間の激痛に耐えながら風呂上がりに寒くならないようにしてます。
体の張り方が凄すぎる。肛門の方は大丈夫なんでしょうか?
こんにちは😄柔らかいところは強い炎症になりませんか❓️昔、八甲田山の冬の戦いで軍人さんが赤唐辛子を👢敷いていたとか‼️🫚方が生姜焼きとか生姜茶も良いですね‼️風呂に入れるとかね‼️🫚大好きです💕。😊
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1ヶ月くらいで痛みになれます。
灯油ストーブNGの賃貸でファンヒーターはエアコンの暖房より電気代がかかるし一味3振り湯船にいれるだけなら安上がりです。
鏡泊湖
『痛い🥺。』
漫湖
『痛い🥺。』
エアコンと電気毛布でよくね?
風呂入る前にエアコンと電気毛布つけといて、風呂上がって身体拭いたらすぐに包まればおk
あとはそのままドライヤーしてればドライヤーの熱もあるから暖かくなるやろ
いざとなったら色々無くても何とかなるってのを知っておくだけでも全然ちゃうな。
良い動画や。
明治生まれの祖父の記憶、生活の仕方が甦るような良い動画です。子供のころは多分1日2食か3食でよく食べる子だったのでご飯5杯食べてたそうで、お漬物やみそ汁に雑炊やカレーライス(は初めて食べてから気に入ってた)やおでんやうどんやそうめんも好きで、するする入る食べ物が好きなようでした。肉はあまり好きじゃないようでハンバーグやステーキなどでもほぼ食べないか少ししか食べなかった。雑炊が好きなのは夜お粥を食べていたからか?冷や飯になるのもあるけど、寝る前に胃を休めるのに消化の良いものを食べるのは理に適ってそうと今思いました。記憶の中にあるのは、着物で作られた布団、行火(あんか)や外出時のカイロは好んでた、自分で手編みした毛糸の腹巻きや靴下を愛用、あとジーパンを初めて見た時に触って気に入って買って好んで着た、スライスした餅を乾かして揚げ(冷水につけては今もやるけど)、半纏どてらは着用もするし買ってもくれました。確かになぜか朝5時に起床していた!夏ならわかるけど冬でも早いし外で何かしてる。木で小屋でも椅子でも何でも色々作るし、竹細工の籠や竹馬とか作ったり余生を楽しんでた。外でよく焚火をしてもいたかな。昔ではあるけど、現代人の記憶の中の懐かしさにもつながる体験しているからわかるこういう企画大好きです。記憶って思い出せる機会は、今の現代で大昔の事なんてなかなかないので。
築百年の古民家を購入したら掘り炬燵があったので何とかして使いたいと思っています。不便な生活になるかもしれませんが日当たり良く広い庭のある家でワクワクしています。昔の暖の取り方勉強になりました!
マメタンや炭を使った掘りごたつでは寝てはいけないと母に注意されました。肩まで潜る時もです。
掘りごたつの中の隅の足おきの陣地取りで兄に足の指でつねられた事を思い出しました。😂
一酸化炭素中毒で猫が…と言う話を聞いたことあります。あれは危険なこたつです。
二十歳で終戦を迎えた大伯母、子供の頃は真綿の入った褞袍を友人から羨ましがられたようです。みんなが十分な綿を確保できていた訳ではないみたいでしたね。
そんな経験があったからか、何十年ものの真綿を亡くなるまで保管していました。いつか使うかもしれないからと。(ダニがすごいことになってて使えなかったよ。。。)
褞袍(どてら)ですね❤
うちの祖母も母もそうでした!真綿をずっと保管してました😵綿の布団も使わなくなり、布団の打ち直しもできないから結局使えませんでしたが💦
よく晴れた日に布団を解いて広げて、洗った?足した綿を広げて置いていた風景が懐かしいです。
祖父の実家が鳥取の山奥
窓や襖が二重で畳も若干分厚かったような気がします
真冬はすごい雪になる地域で
囲炉裏の火は落とさない
寝るときは火鉢で常に暖を取っていました
大寒波のときは皆で集まり囲炉裏の周りに布団を並べたり、コークスのストーブを使っていたと思います
なにぶん30年前の記憶になりますから曖昧ですが、、、
今はガンガンエアコン使います
文明の力はすごいです
昭和後期生まれだけど、寒餅やってた。実家で水にためたバケツを外に置いて保管してたわ。当時は冬になるとバケツに氷が張って、畑に霜柱ができるくらいの寒さだったけど、今は無くなってきてるから今はできなくなってきちゃってるね。
暖房器具はエアコンよりファンヒーターの方が安くてすぐ部屋が温まった時代。今は灯油代が2倍になっちゃったから、昔は家の断熱が悪くてもそこそこあったかい暮らしができた。今は断熱住宅だけどエアコンだと足元までなかなか温まらないから床暖房が欲しくなる。
子供の頃を思い出しました😂 良い比較をされていて素晴らしいと私は思います😂😊
エアコンの普及を妨げていたのが物品税。贅沢品だと考えられていて、エアコン(クーラー)は購入以外に税金がかかっていたんです。80年代になってようやく普及しだすのは、コレの存在も理由の一つでしょう。
俺の家では七輪が現役です。
というかホームセンターで買ってきた。
暖房に使え、調理器具にも使える。特に炭火で焼いた魚はガスよりも美味い。残り火はスジ肉を煮たり、ブフブルギニョンを作ります。
一酸化炭素中毒に気をつけで下さい❗️ 室内で七輪は危険⚠️ですよっ😰
平成元年産まれだが
家が五右衛門風呂でな
毎日学校から帰ってきて
風呂を沸かしてから宿題してた
五右衛門風呂はマジでガス風呂に比べて身体の芯まで温まるから、いつまでも身体が温かい。
布団には母ちゃんが湯たんぽ入れてくれてたから、親父と風呂のヘリに触らないように風呂に入って温まったらすぐ布団に入ってたな。
実家は今も薪で風呂を沸かす
とても良い体験をして育った
昔の生活の知恵は本当の知恵。便利に馴れすぎた現代人は学ぶべき事ばかり。
100年前はフトンがなかったってのが衝撃。ムシロでどうやって寒さをしのぐんだよ
下は蓆を敷くとして上はどうしたのだろう
上も蓆じゃ寒くて寝られない
綿入って言って綿の入った着物を掛け布団の代わりにしてました
そのまま防寒着としても使用します
10年前の中国農村とかは大布団無しでジャンパー着て寝てるの見た事がある
日本人は寝る時にわざわざ寒い格好するのがよくわからんと言われた
二階の窓まで屋根雪が積もってしまう県庁所在地の豪雪都市に住んでるけど、冬になると何故かしら太る10kg太りましたが春になると自然と痩せて行く。ちなみに部屋の気温は14度ぐらいで寒い
意外と雪の上の裸足は行ける。小さい頃普通だった。今は嫌だけど。中学まで雪が降っても半ズボンで体育やっていたなぁ。忘れ物多くてさ。
八甲田山の事件は寒さではないんで寒波での事故ではないんですよ。
語弊があるからその見解は…
あれは日本陸軍の安易な見解での訓練で地元民も危ないって言われてて強行突破で訓練をした結果の事故なんで間違った情報は😢
現場を知らない「エリート」の弊害。今にも通ずる話。
雪や寒さ、防寒にたいする認識不足と気象状態認識の甘さは遠因で、直接の原因は寒さによる疲労凍死だろ。
低体温症で亡くなっているので上の人も言っている通り寒さが原因ですよ。
解説している動画もいくつかあるので見てみたら分かると思いますよ。
@@ジェット55-i4y 防寒用毛皮(犬)のテストとかで強行した訓練って聞いた。
水の確保の件が最重要ですよ!庭に井戸を個別にあるのはお金持ち、共同井戸と共同洗濯場が一般的😮母は神戸で裕福に育ったが結婚してからは水運びが大変だったそうだ!母が亡くなる1年前、信仰心の厚かった母、、言った事は、「私の夢は叶った!蛇口を開くとお湯が出るのが夢だった」そうです😮
私、、「唖然」
[良いテーマの動画、ありがとうございます、感謝❤]
💩
クソガキの頃小さな木のコタツで寝てました、普通の赤外線コタツの部分に注射器で水をかけたら『パンッ』と言って見事に割れました、母親にぶん殴られたの思い出しました。
今は亡くなった明治37年生まれのおじいちゃんの1日。
朝3時起床リンゴ畑に行く7時飯 8時田んぼ昼は帰ってこない夕方4時半飯 夜8時就寝。
因みに津軽で冬は囲炉裏と湯たんぽ 綿の重い布団2枚重ね 外にあるトイレはうんこタワーが出来上がってました。
おやつは米粉を水でといて焼いて砂糖をつけて食べていた。 これは美味しかった記憶、多分餅米の米粉だったと思う。
明治生まれの祖父は冬になると小屋で火鉢に当たりながら注連縄を作っていたのを思い出す。懐にオイルを射して使うタイプの金属製のカイロを入れていた。そのまま使うと火傷するので祖母が縫った専用の巾着がありました。小学校に近隣のお爺さん達が集まって児童に注連縄作りを教えいました。自宅は掘り炬燵で風呂焚きの残った熱い薪を使っていて、敷き布団の足に当たる部分だけ炬燵に入れていたので暖かかった😊
うちの亡くなったおばあちゃんは大正14年生まれでした。
関東地方だったので雪国ほど寒いわけではなく、冬は囲炉裏端でおいもやお餅焼いたり温かいすいとんを食べたよぉと子どもの頃色々教えてくれました。
あと農家やっていたので冬前に冬の備えの準備を結構万全にやっていたみたいですね。
80年前父は満州で暮らし部屋には暖炉があったそうです。
毎日お風呂は入れないので徒歩で近くの銭湯♨️帰りは湯冷めしないよう半纏を着て足早に自宅に銭湯♨️は海🌊に近いので塩湯 これが結構温まる記憶が夏は蚊帳で窓開けて海の寄せ返す音が子守歌🧑🍼 今では実に懐かしいキラキラした切ない記憶🤔🤔🤔
昔の人には知恵があったのよ
一日中震えてた訳ではない
家で閉じこもって生活できるほど暇でも裕福でもなかったしね
東北出身。
子供の頃は掘りごたつに練炭と反射式石油ストーブ
今は電気こたつと石油ファンヒーター(丸ダクトをこたつにつっこんでファンヒーターの熱で室内とこたつ内を暖めるやつ)室内寒くなければ電気こたつのみ。
昔の練炭こたつと反射式灯油ストーブのほうが暖かった(熱かった😅)
寒い朝に白い息吐きながらの練炭火おこしが大変だったな。
冬場は家でも外でもスキーウェアを着ると快適ですよ。
もはや、エアコンもストーブも必要ないくらいに暖かいです。
部屋の空気も汚れないですし、電気代も掛かりません。
災害時やキャンプでも優秀です。
丈夫で長持ちする上に汚れにくい。
デザインも、ボード向けまで広げれば外着でいけるものもあります。
関西在住ですが暖房器具や分厚い服があっても冬は死にそうなくらい寒がりで…
昔の、それも東北地方などの人はどう暮らしていたのかな〜と思っていました。
おしん見て、画面の前で凍えます…🥶
雪国の農村部出身の父母が今70代中盤なんですけど、戦後直後の時期では都心部ではどうか知りませんが田舎生活で使っていた暖房設備はやはり囲炉裏ですね。硝子戸と言うものが田舎には流通していなかったので、窓ガラスは無く、障子を開けると雪景色です。なので布団は三枚四枚重ねで寝ます。冬季には農作業が無かったので祖父は汽車に揺られて都心に単身出稼ぎに行っていました。田中角栄の列島改造政策で高速道路や一般道路の整備拡張が実現したおかげで物流が隅々まで行き届く様になり、ようやく都心部と田舎の生活水準格差が埋まり今に至ります。それまでは地方の田舎は江戸時代と大差無い暮らしだったようです。電気設備と言えば唯一町役場に交換手に取り次いで貰うタイプの面倒臭い電話機があったくらいでしょうか。
親父が子供の頃、都内から地方の本家に疎開した際「目の前に米や芋が沢山あるのに疎開一家には一切分けてもらえないイジメを受けた」って言ってたな。
死ぬまでその恨みは忘れてなかった。食い物の恨みは恐ろしい。
あと、寒さ対策って平成初期までは昭和中期と変わらなかった印象。
学校も家も石油ストーブのみ。よくきゅぽきゅぽしてたわ。
エアコンは金持ちの家しかない。布団に湯たんぽも入れてた。
温故知新、ありがとうございます❣️
昔の家はすきま風あり せんべい綿ふとん 寝るときには夫婦でくっついて暖めあう。でまあ、盛り上がり 結果 子沢山になりますわな。
火鉢や炬燵の炭火は遠赤外線でかなり暖かい。現代のガスや電気の暖房よりも火力が強いと思う。
昔はエアコンなかったのですが今ほど寒いとは思はなかったです、主に炭のこたつ、豆炭練炭、カラ消し、 でもぐっすり眠れた。夏もやはり暑かったね、子供はランニングシャツ、井戸で冷やしたトマト、アイスキャンディ、冷やしたわらび餅屋が自転車で売りに来た、大病院にはスチーム暖房あったけど夜は切られるので湯たんぽして病院生活でした。昭和の戦後貧しかったけど団塊世代が続いたので都会も田舎も活気であふれていた。おんぼろ路線バスも必ず車掌さんがいて、バス停はお店があり白熱電球が照らしていていろんなものを売っていた、あの時代が忘れられない規則正しい生活、学校の先生も厳しかったけど、年々日本が発展して物が安くあふれるようだった、その後東海道新幹線が開通した、意外と人々は純粋,フレンドリー外来生物も少なく日本の固有種が多く本当に美しい日本だった気がします、学校は薪ストーブ、都会ではそれさえないところがあったでもほとんど耐えて今まで生きてきた。落とし便所はごく最近の地方の駅にも残っていた、今は見ないねぇ、人糞も大切な有機肥料だったんですよ、田舎の香水として何と蝶々や昆虫がその糞尿を飲みに来てたアゲハ蝶は必ず訪れていた。栄養になったのかも、
我が家では、冬は湯たんぽと厚着で過ごします。夏はうちわ一つです。
冬はいいけど…夏は気をつけてね
私の子供の頃は電気コタツはなくて豆炭のコタツでした。日中はコタツはなくて、岩手の漁港育ちですけど、窓が広くて日光がたくさん入るようになっていたし、作りも日光がよく入るように南を向いて窓が多かったように思います。ビルも何もないのでどの家もよく日光が入りました。二月でも晴れの日はこたつなしでいましたね。セーターにアノラックという防寒着で、車社会ではなかったのでとにかく歩きました。子供ながら猫車やリヤカーを引いて牛の糞を貰っては畑のところに持っていくとか、ワカメとか工場に持っていったり。動いていたんでしょうね。辛いのは冬の朝のトイレの寒さでした。
北国でも暖房は地域によって差があります
普通は薪が多いが石炭の採れる地域では小学校でも石炭ストーブでしたからね
一般家庭での囲炉裏は昭和30年代には薪ストーブになり、その後昭和40年代には石炭ストーブになり、40年代後半には石油ストーブになっていきました
照明もランプから電球、蛍光灯へと変わっていった
最近はボイラーで床暖房或いは全室空調システムにLED照明
但し停電になると最悪です
東北地方の昔は農民は地べたにむしろの上で眠っていたそうで、胸を憑かれました。
0:49 昭和24年産まれの東京下町育ちですが、当時は本当に寒かった。しかし、子供ですからこんなものだと思っていました。今は当時のような暮らしはできませんね。ともかく家は四畳半一間の木造二階建てのアパートに家族4人暮らし、台所の流しとトイレは共用で臭かった。暖房はコタツと七輪練炭が一般的でしたね。洗濯は冷たい水を張ったタライに洗濯板に手洗いですよ。それでも家にテレビもラジオもないので雨の日以外は真冬でも素足に下駄で外で遊び回っていましたね。足シモヤケ手はアカギレだらけ、小学校に上がる頃に靴と靴下を買ってもらいました。当時シッケが多く朝もやの中を学校に通いました。焚き火もあちこちでしてました。霜は毎日ありました。今の人達
はシモヤケ、アカギレなんて知らんでしょう。田舎は人糞撒くものだからどこも臭くて息もしたくなかった。都会の道路はゴミだらけ、イヌのクソを踏んづけることは当たり前、都会の河はヘドロのニオイで近づけもしなかった。持ち家に風呂のある家はほとんど無かった。だけど都会は当時から便利だった。歩いて五分ぐらいのところに銭湯も商店街もあった。だから冷蔵庫のない時代に生鮮魚も生肉も買えました。田舎では不味いものしか食えなかった。都会の繁華街ではガムの吐き捨てた後が路面にたくさんあって汚かった。20歳ぐらいの時は横浜に住居が変わり、銭湯から出て2〜3分で湯上げタオルが逆立ちするほど凍りましたね。どういうわけか50年くらい前から街も道路も河もキレイになってきました。50歳以下の人達は知らないことです。
ほ
死んだ父親も昭和22年生まれ北千住育ちでした、若い頃横浜に住んだ事もあったって言ってました。どこかでニアミスしてたかも
銭湯は大黒湯に入ったそうです
見るだけで寒くなる😶🌫️
高度成長の時代、山あいの田舎で、私の小さい頃は掘りごたつに炭みたいなのを入れていたかな。50年前くらい。うちの親は冬の夜に暖房入れなかったから、寝るときは布団をたくさんかけられてくるしかったし、それでも寒かった。もうその時の家は無いけど、あんな寒い家には帰りたくないです。😔
祖母から聞いたのですが昔は帰宅の30分前アレクサにお願いして、家とお風呂を適温に準備してもらうのが面倒だったそうです。
いつ何時も手に入る生活・・・、数年前までは。
今は菓子パン生活が増えており、しかも人口の割に農家が少なく農業がかなりしづらい。
しかもこれからガソリン価格が爆上がり予測されているようなので、第2回目を超える悲惨な状況になりそう。
うちの父親は戦後生まれですが実は日本も1960年前後半までは山間部は布団が藁で網戸も藁で網戸代わりに使われていたそうです
都市部、地方都市部は綿は使えても田舎や山間部は藁で布団代わりでわらじも普通に使われていて実際1964年まで国際ユニセフが日本に毛布を支給するなど実は日本が本当に皆が今のように暖房は1970年代から全国に普及したものと年寄り集団から教わりました
それまでは田舎と地方都市でも差が激しいため、煉炭や七輪は手放せなかったらしいです
掘り炬燵懐かしい。入った猫が酸素不足でフラフラで出てきた時は笑ったなw
おしるこも人気だっただろうなあ
亡くなった祖母がよくお汁粉や団子汁を冬に作ってくれてたなあ
私の子供の頃、平成初期ですが、家でまだ、味噌と梅干しを作っていました。
1975年頃、北海道の鉱山町にいました。指折りの豪雪地帯でしたが、作り付けの大きな石油ストーブがごうごう燃えていて室内は割と暖かかったです。あの頃の鉱山は儲かっていました。
母親(80代)に聞いてみたら二人に一人の割合で手火鉢という手を温める物があったそうです。母親の実家は掘り炬燵なのを思いだしました。
餅を自然乾燥させるのが寒餅
水餅がついた餅が水に入れても溶けなくなる位の硬さになったら、水に漬けこんで保存する餅
冬でも,ほとんど暖房は使っていません😅
【暖房・採暖】
日本で暖房が可能になったのは住宅の気密性が高くなってからですね。
石炭を焚く達磨ストーブや灯油ストーブが暖房の走りでしょうか。
それまでは火鉢などの採暖器具で暖を採っていたのでしょう。
※注意
暖房器具とは字の通り部屋を暖めるもので、火鉢や炬燵、それに懐炉などは部屋を暖めませんので暖房器具ではなく採暖器具です。
明治生まれの祖父が小さい頃は一升瓶にお湯を入れて(お湯が漏れないようにビニール袋に入れてから)毛布で包み布団の中に入れて暖を取ったらしい。その後石炭アンカが主流になったとのこと。
外の気温が氷点下になっていなかったつい先週まで、簡易的な火鉢を2週間ほど使ってみたんだけれども、毎日炭を100gくらい使っても部屋の気温は全然上がらず、最終的に20℃超え(外気温は一桁前半)たら上等って感じだったな。
CO濃度は100ppm以下を保つために炭は灰の中に埋める形で運用しました。燃焼時間はだいたい5時間ってトコでした。なかなか良い感じに不便なシロモノです。
暖房が嫌いな親
家では毛布を体に巻き寒さをしのぐ。くしゃみをすると怒られるので寝る時は歯を食いしばる。バスや電車の温かさは天国。
子供の頃 練炭で掘り炬燵してました。
こたつの中に入って練炭の火を見つめていると綺麗で眠たいなってくる。 体だるくてきもち良いー一酸化炭素中毒に何回もなりかけました。
先人さん達の知恵は今でも使えますよ😊
なんなら今うるさいSDGなんたらにもね
昭和47年の3歳頃の古い記憶では、私の家では火鉢を使っていましたね。それから1年後に初めて石油ストーブを使い始めた記憶があります。石油ストーブの周りに設置するゲージ(?)に、乾燥しきれなかった肌着や靴下を「助かるわ〜😄」と言いながら干していた記憶があります。懐かしいわ〜😊
あとはコタツと夜眠る時に湯たんぽか豆炭あんかを布団に入れて暖を取っていた位しか、身体を温める設備が無かったですね。
講義料として
綿の替わりにワラを入れた綿布団が昭和の時代まで使われていました。囲炉裏は薪を燃やすので、煙がひどく、そのため目の病気が多かったそうです。暖房には火鉢、猫炬燵が使われて、炭を燃やしていました。湯たんぽもありました。
窓やサッシが無かったから熱が逃げにくかったでしょう
間取りを工夫すれば隙間風も軽減できたのでは?
戦後直後になりますが親父の大学生時代でアパートに住む同学生が寒いので自室から火鉢を持ち込んで便所でしていたので
当時の住宅防寒は現在よりも劣るので想像は出来ます
いきなり平均気温を語りだしたからどこの事かと思って調べたけど、「東京の」平均気温ですね。 平均気温1.6度だと現代だと仙台に住んでるような気温ですね。
東西南北に長い日本なので、地域差を細かく考察すると尺が足りませんね。
戦前からある火鉢やストーブ(薪や石炭)は暖房器具じゃないとでも??
ボクの記憶で一番最初は ガスストーブですね。 煮炊きに竈は大きなのが有りましたがいちいち薪くべてばかりはさすがに なのでガスが一番身近だった訳です。
囲炉裏はすでに床板で塞がれていましたので時々オコタが出てきました。途中の動画に出てくる物が近いですが3~40cm四方の木製の真四角な木の箱形状
炭をうける鉢は中に有って 燃料は豆炭(マメタン) 炭を出荷するのに残ったカスを更に砕いて固めた物
オコタに布団を掛けて足先から膝くらいは入れる感じですかね。 布団に潜り込もうとすると「中毒でタヒぬぞ!」とよく怒られましたよ。
大変だったんすねー
〜ふっとんから出たくないミノムシ君〜
昔から暖房器具がありました。エアコンも同様にありました。そうでないと夏冬生きていけないからです。
まず灯りがなかった。灯りをつけるには火を起こさなければ灯りはつかなかった。そして灯りは贅沢なものだった。だから早く起きても空が明けないうちは真っ暗だった。