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この動画を見ながら祖母(昭和十二年生まれ)に質問をした。「ばあちゃんが子供の頃は冬の寒さはどうやって乗り越えたの?」…と。その答えを以下会話形式を交えてお伝えします。「朝仕事に行こうとしたお父さん(以下曽祖父)が扉が開かずに驚いて頑張って開けたら…真っ白い壁だったの。福島の海沿いの温かい地域で育ったから雪を見たのはその時が初めて。なので寒さには滅法弱かった。藁布団を作って寝たものだけど…凄く温かいのよ。それでも寒いときは四角い陶器の火鉢を足元に置いて寝たけど危ないからやめたの。それ以来は、お父さんとお母さんに挟まれて寝たのが一番暖かく眠れたわね。戦争が終わると湯たんぽとか使えたけど、寝相の悪さで布からはみ出るくらい足蹴にしたら湯たんぽの逆襲が待ち受けていたのよ。…何度足を火傷しかけていた事か…。」「藁のお布団は暖かそうだけど、湯たんぽは私なら毎回火傷するね。曾祖母ちゃん曾祖父ちゃんの方が暖かくて良いね。」「親に甘えて眠れたのが幸せかな…。けれども…今は殿様暮らしだね。コンセントと毛布が合体してぬくぬく眠れる寝具だなんて贅沢な物を孫娘の貴女に買ってもらえたし。」「それどころか洋服や身体に貼れるホッカイロもあるからね。…子宮内膜症と冷え症の私はこの時代に産まれて運が良かったな。」「婦人科系の病気は身体を冷やして良いことは先ず無いからね。熱が出れば別だけど。…温かい下履きはきちんと履きなさい。救急車の御迎えは嫌よね?」落ち着いて来たとはいえ…婦人科の病が進みチョコレート嚢胞から子宮内膜症迄悪化して、炎症を抑えるために出された薬を飲み落ち着いたので仕事に行こうとしたら…その炎症を抑えるために処方された薬の副作用が原因の虚血性大腸炎&其れが原因の胃腸炎に似た症状による体調不良&子宮内膜症を抑えるための薬の副作用&重度の偏頭痛が原因で電車内で倒れてしまい救急搬送…と言った散々な10日間を過ごした私に祖母のお説教は沁みた。モフモフで可愛い上に痛みを抑えてくれたり温めてくれるアザラシのぬいぐるみやらホッカイロだの電気毛布や好きなタイミングで入れるお風呂だのが身の回りにある事は…感謝するべき。此等が無かった時代に生きていた曾祖母&高祖母と曾祖母の祖母にあたる御先祖様はさぞかし過酷だったろう。曾祖母は神経痛と冷え症で苦しんだ人だったから…想像したら悲しくなる。温かいお布団と電気毛布の中へ一緒に入れて差し上げたい。
季語に「夏痩せ」はあるのに、「冬太り」っていう言葉は最近まで無かったらしい。昔の人は発熱代謝を上げて冬の寒さを乗り切っていたので、昔の冬の食事を今の空調の効いた生活で行うから「冬太り」という言葉ができたって聞いた。人の摂取カロリーの殆どは体温維持に使われるからね。
育った仙台では寝巻きと言っていたが、いわゆるかい巻きと古い軍用毛布と掛け布団を重ねて寝ていた。ずっしりとした重さを今でも覚えている。家の中でも息が白くなるのが当たり前の生活だった。
済みません、僕の家は無暖房で室内でもジャンパーで厚着、リビングで吐く息が白くなるのでこのコメントで令和の自分の貧乏さに泪。ちなみに眠るときにはダウンの上下外着を着て丸くなって寝ます。キャンプ用のダウンの靴下を履いて眠るときも。
マイナス10℃になるくらいまで、同じような感じです。あとは温かい食事、足湯と湯たんぽで暖をとります。それより寒くなればストーブをつけますが、最小限にしています。冬は寒いものです。
@@mandamnippon1 「日本万歳」僕の部屋にエアコンは無い、8年前に壊れた・・・16年前の石油ファンヒーターは有るけれど灯油代が無くて使えない。真夏もうちわで過ごし20年てる・・・冬は電気炬燵が命綱、潜って震え眠るだけ、発火が怖く手動オンオフ。レトルトカレー袋に少し水入れ残りをゼロに、食べた容器に茶を飲む。20年・・・夏にスイカを食べた事無い、5年間・・・ナシを食べて無い。メロン・・・30年以上・・・もはや記憶に無い。
おじいちゃんがそちらの県でした。子供の頃お正月に乗り物を1日以上かけて乗り継ぎ泊まりに行ったら重たい寝具や掘り炬燵だった思い出が蘇りました。茅葺き屋根の昔の作りで,広い茶の間には掘り炬燵が2箇所あり背中は反射式の小さなストーブをつけても寒かったです。お米農家だったので父から聞いた話では戦争中に食べ物に困ったことはなく,その代わり分家や子供の労力まで動員して農作業にあたったので食べ物を大切にするように躾けられました。叔父たちが健在の頃まで毎年美味しい新米が大きな袋で届いて市販のお米よりおいしかったものです。
私も仙台出身で、同じようにして寝ていました。私はことに寒がりで、これでも寒くて寝られないことがあって、ある夜そばにあったこたつの布団を全部はいで自分の布団に重ねてようやく寝られたことがあったんですが、翌朝目覚めた時の第一声が、「ああ疲れた」でした。
古来から日本人は、懐に入れる『懐中あんか』とか、寝る時に足を温める『煉炭あんか』『豆炭あんか』も…。持ってたんですよ🎉『懐中あんか』は、日本軍の戦闘中も持ってましたよ😊
うp主が足りないから仕方がない、、、泣
豆炭あんか最近買いましたよキャンプの時に使ってます便利ですね
@@cup77jp 終戦近くになるとアルコールを入れて着火するカイロも出てきたそうです。
石油ストーブの上にやかんで湯を沸かしてお茶を淹れて、アルミホイルで包んだ焼き芋を食べるのが子供の頃の日常でした。
雪国出身でしたが、生前の祖母(大正13年生まれ)からの話と、祖母の行動をよく見てましたが、とにかくコタツが嫌いで石油ストーブの前にいつも居たような。。。ストーブの上で、酒粕を焼いて砂糖つけて食べたり、スルメ、モチ、焼き芋などいろいろ食べました。祖母の話では昔は囲炉裏が最強に暖かったみたいで、寝るまで囲炉裏前でワラ仕事や裁縫してたみたいです。あと冬前に畑に手伝い行ったときは必ず焚き火してましたね。畑は燃やすものいろいろありますから。
昭和30年代生まれの東京育ちですけど、家の構造や暖房装置に服と、昔は寒かったですね。蛇口捻るとお湯なんて出ないから、朝は湯たんぽの残り湯で顔を洗ってましたよ
父は昭和2年樺太生まれでした。暖房はストーブ(薪か石炭かは不明)や火鉢、夜は囲炉裏の周りに布団を敷いて寝たそうです。アザラシの毛皮の防寒着を着たような話をしていました。私は青森で生まれましたが、私も小さい頃とても暖かい何かの毛皮のちゃんちゃんこ?のようなものを着せられていました。樺太時代のリメイクだったかもしれません。
ちなみに貴方の年齢はお幾つですか?
@@ユートピア-w7n 私は昭和35年生まれ64歳です。毛皮のちゃんちゃんこは私が持っていたもの以外見たことがありませんので、私の育った時代や地域のものではないと思います。
俺の家では七輪が現役です。というかホームセンターで買ってきた。暖房に使え、調理器具にも使える。特に炭火で焼いた魚はガスよりも美味い。残り火はスジ肉を煮たり、ブフブルギニョンを作ります。
昔は手にしもやけ、あかぎれが当たり前でしたね。鼻水たらしてる子供も珍しくなかった。
0:49 昭和24年産まれの東京下町育ちですが、当時は本当に寒かった。しかし、子供ですからこんなものだと思っていました。今は当時のような暮らしはできませんね。ともかく家は四畳半一間の木造二階建てのアパートに家族4人暮らし、台所の流しとトイレは共用で臭かった。暖房はコタツと七輪練炭が一般的でしたね。洗濯は冷たい水を張ったタライに洗濯板に手洗いですよ。それでも家にテレビもラジオもないので雨の日以外は真冬でも素足に下駄で外で遊び回っていましたね。足シモヤケ手はアカギレだらけ、小学校に上がる頃に靴と靴下を買ってもらいました。当時シッケが多く朝もやの中を学校に通いました。焚き火もあちこちでしてました。霜は毎日ありました。今の人達はシモヤケ、アカギレなんて知らんでしょう。田舎は人糞撒くものだからどこも臭くて息もしたくなかった。都会の道路はゴミだらけ、イヌのクソを踏んづけることは当たり前、都会の河はヘドロのニオイで近づけもしなかった。持ち家に風呂のある家はほとんど無かった。だけど都会は当時から便利だった。歩いて五分ぐらいのところに銭湯も商店街もあった。だから冷蔵庫のない時代に生鮮魚も生肉も買えました。田舎では不味いものしか食えなかった。都会の繁華街ではガムの吐き捨てた後が路面にたくさんあって汚かった。20歳ぐらいの時は横浜に住居が変わり、銭湯から出て2〜3分で湯上げタオルが逆立ちするほど凍りましたね。どういうわけか50年くらい前から街も道路も河もキレイになってきました。50歳以下の人達は知らないことです。
ほ
八甲田山の事件は寒さではないんで寒波での事故ではないんですよ。語弊があるからその見解は…あれは日本陸軍の安易な見解での訓練で地元民も危ないって言われてて強行突破で訓練をした結果の事故なんで間違った情報は😢
現場を知らない「エリート」の弊害。今にも通ずる話。
雪や寒さ、防寒にたいする認識不足と気象状態認識の甘さは遠因で、直接の原因は寒さによる疲労凍死だろ。
子供の頃、祖父母の家にあった掘り炬燵や火鉢を懐かしく思い出しました😢
私の幼い頃、煉炭火鉢前に座り、灰掻きで均すのが好きでした、なついな〜!夜は親父が友人と御茶、タクアン、2人してシンセイのタバコで煙ボーボーだわ😊煉炭の前は薪だったそうで、ダイオキシンと副流煙で今じゃ考えられませんね!なついわ〜😊😊
昔の人には知恵があったのよ一日中震えてた訳ではない
二十歳で終戦を迎えた大伯母、子供の頃は真綿の入った褞袍を友人から羨ましがられたようです。みんなが十分な綿を確保できていた訳ではないみたいでしたね。そんな経験があったからか、何十年ものの真綿を亡くなるまで保管していました。いつか使うかもしれないからと。(ダニがすごいことになってて使えなかったよ。。。)
褞袍(どてら)ですね❤
半世紀前だと、まだ母の実家では練炭の火鉢と豆炭の炬燵でしのいでいたけど、温暖な西日本太平洋側だから別に雪が積もるわけでもないし、普通に暮らせてた。風呂焚きの薪は近くの商店街からリンゴ箱貰って燃やしてた。雪国の冬は別次元の厳しさだったろうな。交通も途絶しかねないし。
火鉢と湯たんぽは今も現役ですね。隙間風がビュービュー入り込む我が家ではエアコンは一切役に立たないので欄間まで可能な限りぴっちり塞いで石油ストーブと火鉢焚いて寒さをしのいでます。
戦前でも、絨毯やガスストーブはあったけど、やはり裕福な家の話し。絨毯をしいても専用の掃除用具や、男での多い家とかでなければ清潔は保てず、ガスストーブも長時間付けておくと、すきま風の入る日本家屋でも一酸化炭素中毒のせいか頭痛がしてきたそうです。煙突があるために、他の部屋を暖めると言うことはなかったそうです。火鉢は、一般家庭でも広く普及しておいましたが、思いの外手入れも大変だし、炭の保管にも気を遣ったそうです。炭は夏場になると需要も減り安く買え節約主婦は夏場にある程度買いだめをしたそうですが、保管場所によっては湿気を帯びてしまい、当時あちらこちらにいた鼠の排泄物がかかったりと、冬場に必要なだけあがなう方が良いと言う人も結構いたとの事です。山村では木材に不自由はないように思えますが、太平洋戦争も末期になると農家は男手を取られ「三ちゃん農業」で供出物資を作らねばならず、薪を伐りにいける余裕を中々作れるものではなかったそうで、地主や本百姓でも無い限り、暖房の火に余裕のある生活ではなかった、小作だったと舅は話してくれました。終戦直後の、40才の頃の親戚の男性の写真は、今の,70代と言っても差し支えがないほど老けて見えました。体を酷使し無ければならないのに、十分な栄養も取れなければそのようになるのだなと思いましたが、今の80代の放が若々しく見えます。良くドラマやアニメで、薪を割るシーンがありますが、あのままで燃えるものではなく、十分に乾燥させなければならないので、不足の事態のも備え常にローリングストックを欠かさないため毎日の薪割りをしていたそうです。少なくとも毎日遣う分を補充しなければならないため、常に薪割りはしていたと言うことでした。今では想像も付かないでしょうが、昭和47年頃はまだ青い鼻水を垂らして遊ぶ子が多くいて。冬になると地表には霜柱が立ち、50年代でも足や手の込んだ霜焼けが冬の定番でした。白金カイロは古くからありましたが、子供が持つものではなく、使い捨てカイロが発売されたのは、石油ストーブが発売されたより嬉しかったと祖母が話していました。なおカイロに代わるものとして、温石(おんじゃく)と言って、手頃な石を暖めて布で包み暖を取ることもあったそうです。布団は、真綿なのでへたってしまい、何年かに1℃は打ち直しと言って、綿を洗い足りない分を足してフカフカにしたのを、新しい布で布団を作り直すのも、戦前の主婦は一通りやったと言うので驚きです。職人さんに頼む人もいましたが、その程度をは頼むのは主婦の恥と言われたとの事。家庭によっては毎年打ち直しをしていたそうですよ。着るものも、分厚いウール製品を中心に重ね着は当たり前の時代でした。学校の教室には、木炭ストーブやガスストーブがあり、煙突掃除を先生達が生徒と共に行い組み立て設置は業者でした。濡れた手袋や靴下を回りの柵で乾かし、アルマイトのお弁当箱ばかりでしたので、suto-bude蒸してもらって、ほかほかのご飯を食べられたのは懐かしい思い出です。
誤字ひどすぎて草
長文にマジレスしててくさ😂
懐かしいお話でした。両親の田舎が東北地方で,父方の本家は日本昔ばなしのアニメに出てきそうな茅葺き屋根の大きな家で、それだけに茶の間は広すぎてこたつが2箇所あっても背中は寒くて道産子の私はまるで外にいるような感覚でした。そのためか自宅は小さくても石炭ストーブで充分暖かく,祖父宅に泊まりに行く時はガウンを新調してくれてパジャマの上に着てこたつで足を温めたあとはガウン着たままで重たい布団に入った記憶があります。おっしゃるように薪は1年以上乾かさないと臭いや煤の元なので,竈門にくべる薪をよく割っている姿を見たものです。もう半世紀以上前のことですがつましく暮らしていた祖父母の生活に動画で紹介されている世界観がつい最近まで続いていたのだなぁとしみじみ考えさせられました。ちなみ祖父のお葬式は自宅で営まれ,成人した私は更年期障害の母とともに叔母たちや近所の方とひたすら食事の準備と後片付けで初七日まで明け暮れたのですが、さすがに電気や灯油の暖房器具が使われました。
いいお話をしてくださり、ありがとうござります
田舎で今でも囲炉裏を使っている家に行ったことがあります囲炉裏に向かっている面は暖かいけど、背中は隙間風が寒くて室内でもコートが脱げませんでした炭ではなく薪をくべているので煙が目にしみて、火花が飛んでコートに小さな穴が開いてしまいました囲炉裏が暖房として廃れた理由がよくわかりました
エアコンの普及を妨げていたのが物品税。贅沢品だと考えられていて、エアコン(クーラー)は購入以外に税金がかかっていたんです。80年代になってようやく普及しだすのは、コレの存在も理由の一つでしょう。
寒くなってきたから助かります。私は風呂上がり寒いから一味唐辛子を風呂に入れて股間の激痛に耐えながら風呂上がりに寒くならないようにしてます。
体の張り方が凄すぎる。肛門の方は大丈夫なんでしょうか?
こんにちは😄柔らかいところは強い炎症になりませんか❓️昔、八甲田山の冬の戦いで軍人さんが赤唐辛子を👢敷いていたとか‼️🫚方が生姜焼きとか生姜茶も良いですね‼️風呂に入れるとかね‼️🫚大好きです💕。😊
@ 1ヶ月くらいで痛みになれます。灯油ストーブNGの賃貸でファンヒーターはエアコンの暖房より電気代がかかるし一味3振り湯船にいれるだけなら安上がりです。
鏡泊湖『痛い🥺。』漫湖『痛い🥺。』
エアコンと電気毛布でよくね?風呂入る前にエアコンと電気毛布つけといて、風呂上がって身体拭いたらすぐに包まればおkあとはそのままドライヤーしてればドライヤーの熱もあるから暖かくなるやろ
水の確保の件が最重要ですよ!庭に井戸を個別にあるのはお金持ち、共同井戸と共同洗濯場が一般的😮母は神戸で裕福に育ったが結婚してからは水運びが大変だったそうだ!母が亡くなる1年前、信仰心の厚かった母、、言った事は、「私の夢は叶った!蛇口を開くとお湯が出るのが夢だった」そうです😮私、、「唖然」[良いテーマの動画、ありがとうございます、感謝❤]
💩
暖房機器がいろいろ有る時代だけど、電気代含む燃料費の高騰、ストーブやエアコン自体が高くて買えないので、今の時代でも毎年、冬は震えながら生活してるので、全然、昔と変わらない。ガス代も怖くて、お風呂にもお湯を張って浸かれない。
昭和11年生まれ、戦時中は宮城県に疎開してました。冬は囲炉裏の周りで暖を取ってました、懐かしい思い出です。石油ストーブが普及したのは戦後だいぶ経ってからでしたね。それまでは電気炬燵だったと思いますが、体が寒さに慣れていたためかあまり寒いとは思いませんでした。最近の暑さの方が身体にこたえます。エアコン付けっぱなしでも暑さは苦手です。
クソガキの頃小さな木のコタツで寝てました、普通の赤外線コタツの部分に注射器で水をかけたら『パンッ』と言って見事に割れました、母親にぶん殴られたの思い出しました。
我が家では、冬は湯たんぽと厚着で過ごします。夏はうちわ一つです。
明治生まれの祖父の記憶、生活の仕方が甦るような良い動画です。子供のころは多分1日2食か3食でよく食べる子だったのでご飯5杯食べてたそうで、お漬物やみそ汁に雑炊やカレーライス(は初めて食べてから気に入ってた)やおでんやうどんやそうめんも好きで、するする入る食べ物が好きなようでした。肉はあまり好きじゃないようでハンバーグやステーキなどでもほぼ食べないか少ししか食べなかった。雑炊が好きなのは夜お粥を食べていたからか?冷や飯になるのもあるけど、寝る前に胃を休めるのに消化の良いものを食べるのは理に適ってそうと今思いました。記憶の中にあるのは、着物で作られた布団、行火(あんか)や外出時のカイロは好んでた、自分で手編みした毛糸の腹巻きや靴下を愛用、あとジーパンを初めて見た時に触って気に入って買って好んで着た、スライスした餅を乾かして揚げ(冷水につけては今もやるけど)、半纏どてらは着用もするし買ってもくれました。確かになぜか朝5時に起床していた!夏ならわかるけど冬でも早いし外で何かしてる。木で小屋でも椅子でも何でも色々作るし、竹細工の籠や竹馬とか作ったり余生を楽しんでた。外でよく焚火をしてもいたかな。昔ではあるけど、現代人の記憶の中の懐かしさにもつながる体験しているからわかるこういう企画大好きです。記憶って思い出せる機会は、今の現代で大昔の事なんてなかなかないので。
綿の替わりにワラを入れた綿布団が昭和の時代まで使われていました。囲炉裏は薪を燃やすので、煙がひどく、そのため目の病気が多かったそうです。暖房には火鉢、猫炬燵が使われて、炭を燃やしていました。湯たんぽもありました。
100年前はフトンがなかったってのが衝撃。ムシロでどうやって寒さをしのぐんだよ
下は蓆を敷くとして上はどうしたのだろう上も蓆じゃ寒くて寝られない
綿入って言って綿の入った着物を掛け布団の代わりにしてましたそのまま防寒着としても使用します
10年前の中国農村とかは大布団無しでジャンパー着て寝てるの見た事がある日本人は寝る時にわざわざ寒い格好するのがよくわからんと言われた
東西南北に長い日本なので、地域差を細かく考察すると尺が足りませんね。
昔の家はすきま風あり せんべい綿ふとん 寝るときには夫婦でくっついて暖めあう。でまあ、盛り上がり 結果 子沢山になりますわな。
1970年代の高校受験生でしたが、東京も寒かったです。夜、勉強する際は「頭寒足熱、ずかんそくねつ」と言って、足元には大きなスリッパ風の電熱器に足を入れて、ガウンのようなオシャレ風だがぼったりしたカイマキ風なのを着て、部屋はストーブ無し。こうすると勉強ははかどる、とかの風潮がありました。
関西在住ですが暖房器具や分厚い服があっても冬は死にそうなくらい寒がりで…昔の、それも東北地方などの人はどう暮らしていたのかな〜と思っていました。おしん見て、画面の前で凍えます…🥶
ボクの記憶で一番最初は ガスストーブですね。 煮炊きに竈は大きなのが有りましたがいちいち薪くべてばかりはさすがに なのでガスが一番身近だった訳です。囲炉裏はすでに床板で塞がれていましたので時々オコタが出てきました。途中の動画に出てくる物が近いですが3~40cm四方の木製の真四角な木の箱形状炭をうける鉢は中に有って 燃料は豆炭(マメタン) 炭を出荷するのに残ったカスを更に砕いて固めた物オコタに布団を掛けて足先から膝くらいは入れる感じですかね。 布団に潜り込もうとすると「中毒でタヒぬぞ!」とよく怒られましたよ。
100年前、布団ありました。田舎でも農家でもありました。綿のブ厚さの違いがあるけどw【マンガ日本むかし話】見ろwよっぽど貧乏でなかったらあった。
昭和後期生まれだけど、寒餅やってた。実家で水にためたバケツを外に置いて保管してたわ。当時は冬になるとバケツに氷が張って、畑に霜柱ができるくらいの寒さだったけど、今は無くなってきてるから今はできなくなってきちゃってるね。暖房器具はエアコンよりファンヒーターの方が安くてすぐ部屋が温まった時代。今は灯油代が2倍になっちゃったから、昔は家の断熱が悪くてもそこそこあったかい暮らしができた。今は断熱住宅だけどエアコンだと足元までなかなか温まらないから床暖房が欲しくなる。
春の訪れの嬉しさは現代とは比較にならなかっただろうな
おじいさんは、渋谷の方に住んでいて女中さんとかいて豪華な生活をしていたみたい。外国人が住んでいた家を買い取って地下室にボイラーがあって家全体が暖まる設計になっていたと聞きました
【1960年】 郡部では 1960年頃にやっとガスを使い始めました。 市部でもガスは高価で、我が家でも七輪を併用していました。 電気は比較的に早かったですね。
【暖房・採暖】 日本で暖房が可能になったのは住宅の気密性が高くなってからですね。 石炭を焚く達磨ストーブや灯油ストーブが暖房の走りでしょうか。 それまでは火鉢などの採暖器具で暖を採っていたのでしょう。※注意 暖房器具とは字の通り部屋を暖めるもので、火鉢や炬燵、それに懐炉などは部屋を暖めませんので暖房器具ではなく採暖器具です。
意外と雪の上の裸足は行ける。小さい頃普通だった。今は嫌だけど。中学まで雪が降っても半ズボンで体育やっていたなぁ。忘れ物多くてさ。
火鉢に練炭こたつ、せんべい布団とかはんてんきてたやな。冬場は蚕仕事してたと聞いた。正月にはサガンボが贅沢品だったそうな。
冬の暖房はと灯油ストーブが最強。暖も取れるし調理器具としても使えヤカンを置いておけば加湿器にもなって一つで三役をこなせて災害時にも使える。😂
爺さん、ベンジンカイロを愛用してたな
100年前の日本の家庭でも「暖房器具」は使われていましたよ?ストーブやこたつも暖房器具です。エアコンだけが暖房器具ではありません。100年前ってけっこう最近なんですよね。あまり馬鹿にしないほうがいいと思います。
気温下がったタイミングでこれ勧めてくるAIにも驚き
今は亡くなった明治37年生まれのおじいちゃんの1日。朝3時起床リンゴ畑に行く7時飯 8時田んぼ昼は帰ってこない夕方4時半飯 夜8時就寝。因みに津軽で冬は囲炉裏と湯たんぽ 綿の重い布団2枚重ね 外にあるトイレはうんこタワーが出来上がってました。おやつは米粉を水でといて焼いて砂糖をつけて食べていた。 これは美味しかった記憶、多分餅米の米粉だったと思う。
子供の頃暖房は火鉢のみだった
おもちゃの太鼓のバチで火鉢を叩いてヒビ入れてしまい、こっ酷く怒られた記憶。
還暦の私は子どもの頃は四国の平坦な地の田舎に住んでいて、家は紙障子と通気性良すぎる木製雨戸が外気を隔てる家でした。冬、重い布団で寝ていた記憶今だあり。転げるほどの厚着、春になっても、テレビで見た都会の子は半ズボンやスカートにハイソックス姿でしたが田舎者はズボンで、風邪ひくからと言ってスカートは夏しかはかせてもらえませんでした。手や耳たぶがしもやけで腫れて血が出てる子、青っパナたらしてる子、←普通の光景。つららや庭の水が氷になる状態常時ありました。豆炭炬燵を足元に置いて寝ていて、よく足を火傷しました。居間では火鉢で暖を取っていて、寝間の暖は豆炭炬燵のみ。ホーム炬燵(やぐらこたつ)の豆炭を入れるタイプは、しもやけが治るほど暖かかった。
エアコン使わないコタツ一択だからめっちゃ厚着してる。よほど汚れない限り風呂は湯冷めするし冬は汗をかきづらいから入らない。そんな感じ?
100年前にヒートテックと桐灰カイロを持ち出したらワンチャン無双できる?
いつ何時も手に入る生活・・・、数年前までは。今は菓子パン生活が増えており、しかも人口の割に農家が少なく農業がかなりしづらい。しかもこれからガソリン価格が爆上がり予測されているようなので、第2回目を超える悲惨な状況になりそう。
ワシは子供の頃ドテラ持ってた❤
最近もz世代に人気だよ!
アタシのじいちゃんは戦時中も地主だったから毎日3食たべれてたらしいわよバブルの頃は月500万円も稼いでたってアタシの母ちゃんが言ってた
平安時代の貴族らの屋敷は夏仕立てなので冬はさぞ大変であっただろう京都文化財の建物は火気はあかんかった、と母は行ってた、だから寒いの大嫌いだった
寒さもそうだが今の人間は贅沢言い過ぎと思う、この頃は誰もが医療を受けれるわけでもなくご飯も3食食べれない今は3割で医療を受けれて低額無料医療制度もあり最低限の医療が受けれる、人間医食住有れば簡単には死ねんのです今年の冬は一段と寒くなりそう😂
そんな早く起きても暗いから危ないような…
「日本万歳」外は一面の雪・・・月の光を反射して意外に明るい、です。
雪が積もって周りが雪化粧になると月明かりで周りが意外と明るいですよ。
囲炉裏が有ったろう 火鉢も有った
暖房器具がなかったわけじゃない
家事さえなけりゃ、布団かぶってりゃどうにでもなる
まあ満州まで行ってたくらいだからな、今の暖房器具でさえちと寒すぎたりしないか?😆
現代でも雪国はムリ
当家はセントラルヒーティングもある家でしたが母が暖房を使うと風邪を引くと強く信じてる人で暖房無しで育ちました😅ま、風邪は引かなかったんだけどさ〜
ん?囲炉裏はあるやろ。囲炉裏は立派な暖房器具では…??暖房機器はないけど器具(道具)はあったと思う揚げ足取りかな。ごめん。でも気になった
100年後の人たちは現在の暮らしを見て『エアコンなんて使ってたんだ・・・』と思うかもしれん。
どこかの総理さんが貧乏人は 麦を食えと 言われてたような、、、あと祖母が聞いたのには昔の人は 麦どころか ヒエやアワを食べてたとか、、、ああっこれって 小鳥の食べ物では‼️‼️‼️❓❓❓
エアコン無い時代は炭だろう
乾布摩擦とかえぐいと思う。どうせやってたやろ、知らんけど。
火鉢は昔の家みたいに隙間風が入る構造ならまだしも、今の密閉された家で使うのは自●行為。憶えている昭和のニュースでは、火事で焼け出された家庭が暖房用に前の家から火鉢を持って来て使ったら、その日の内に一酸化炭素中毒で一家全滅という悲しいニュースがありました。
私の家の玄関の上がり間口(縁側の下)は工夫が有って、ネズミは通れないが隙間があり、縁の下に続いて居る。昔の茶室も同じです。昔の家は隙間が多いのは、誤解です(貧乏家屋は別)キチンと一酸化炭素対策は古来よりして居ました。
目覚まし無いのにどうやって起きてたんだろう?
寒さでとびおきるんだろ😂
習慣付くと時間が来ると目が覚める。不規則な生活をしていると無理かもしれないな。
@@Tech-um3ur自然に同じ時間に起きてしまいます体内時計なのか不思議
「日本万歳」山奥の村だけど寺の鐘で時を知りました・・・鶏も鳴いた。
柱時計が1時間ごとに鳴りました
ガキの頃、ストーブの上に鍋を置き、おでんやアラ煮を入れてほったらかしにしたもんだ。そしてそれをしこたま食った結果クソ肥満になったぜへへへ
これは「昔の話」としてはいけないよこのご時世、いつ「冷暖房無し」に逆戻りするか分からないよ地球のエネルギー事情は、政治的にも、物理的にも実に不安定になっている皆さんも真剣に「脱エネルギー」の生活を考えておくべきだよ温暖化なんていっているが、単に人類が無駄にエネルギーを消費しているからだよエネルギー危機になれば、本来の「厳しい冬」になるのだよまずは「脱冷房」次に「脱暖房」の順番だな「寒さで死ぬ」人は多いが、「高熱で死ぬ」のは年寄りぐらいだからね冷房の無い生活から始めることだ
使い捨てカイロはごみが出るんで、ハクキンカイロ使っとるわ。
久しぶりに見たら地声じゃなくなってる😅 残念
耐えられるに決まっとるだろ!着りゃ良いがや!笑暖房なんて要らんわ!贅沢過ぎてアホになっとんだわ今が
まめたん 炭団 レンタン 桐灰カイロ 褞袍 女房? 子沢山
もう少し地球温暖化が進めばいいですね。まあ、都会の暑さは何らかの手を打つ必要は有りますが。
電気代高騰ダイエット
こんな戦前戦後苦労してきた人達を何故🇯🇵は当たり前にころせるのか。お金が人間狂わせる。
戦前は世界一のア◯ン大国のはずですが…
分からない人だな〜満州経営の事です。しったかさん
いや、こたつや火鉢位はあったやろ
この動画を見ながら祖母(昭和十二年生まれ)に質問をした。
「ばあちゃんが子供の頃は冬の寒さはどうやって乗り越えたの?」…と。
その答えを以下会話形式を交えてお伝えします。
「朝仕事に行こうとしたお父さん(以下曽祖父)が扉が開かずに驚いて頑張って開けたら…真っ白い壁だったの。
福島の海沿いの温かい地域で育ったから雪を見たのはその時が初めて。
なので寒さには滅法弱かった。
藁布団を作って寝たものだけど…凄く温かいのよ。
それでも寒いときは四角い陶器の火鉢を足元に置いて寝たけど危ないからやめたの。
それ以来は、お父さんとお母さんに挟まれて寝たのが一番暖かく眠れたわね。
戦争が終わると湯たんぽとか使えたけど、寝相の悪さで布からはみ出るくらい足蹴にしたら湯たんぽの逆襲が待ち受けていたのよ。
…何度足を火傷しかけていた事か…。」
「藁のお布団は暖かそうだけど、湯たんぽは私なら毎回火傷するね。
曾祖母ちゃん曾祖父ちゃんの方が暖かくて良いね。」
「親に甘えて眠れたのが幸せかな…。けれども…今は殿様暮らしだね。
コンセントと毛布が合体してぬくぬく眠れる寝具だなんて贅沢な物を孫娘の貴女に買ってもらえたし。」
「それどころか洋服や身体に貼れるホッカイロもあるからね。
…子宮内膜症と冷え症の私はこの時代に産まれて運が良かったな。」
「婦人科系の病気は身体を冷やして良いことは先ず無いからね。
熱が出れば別だけど。
…温かい下履きはきちんと履きなさい。
救急車の御迎えは嫌よね?」
落ち着いて来たとはいえ…
婦人科の病が進みチョコレート嚢胞から子宮内膜症迄悪化して、炎症を抑えるために出された薬を飲み落ち着いたので仕事に行こうとしたら…その炎症を抑えるために処方された薬の副作用が原因の虚血性大腸炎&其れが原因の胃腸炎に似た症状による体調不良&子宮内膜症を抑えるための薬の副作用&重度の偏頭痛が原因で電車内で倒れてしまい救急搬送…と言った散々な10日間を過ごした私に祖母のお説教は沁みた。
モフモフで可愛い上に痛みを抑えてくれたり温めてくれるアザラシのぬいぐるみやらホッカイロだの電気毛布や好きなタイミングで入れるお風呂だのが身の回りにある事は…感謝するべき。
此等が無かった時代に生きていた曾祖母&高祖母と曾祖母の祖母にあたる御先祖様はさぞかし過酷だったろう。
曾祖母は神経痛と冷え症で苦しんだ人だったから…想像したら悲しくなる。
温かいお布団と電気毛布の中へ一緒に入れて差し上げたい。
季語に「夏痩せ」はあるのに、「冬太り」っていう言葉は最近まで無かったらしい。
昔の人は発熱代謝を上げて冬の寒さを乗り切っていたので、昔の冬の食事を今の空調の効いた生活で行うから「冬太り」という言葉ができたって聞いた。
人の摂取カロリーの殆どは体温維持に使われるからね。
育った仙台では寝巻きと言っていたが、いわゆるかい巻きと古い軍用毛布と掛け布団を重ねて寝ていた。ずっしりとした重さを今でも覚えている。家の中でも息が白くなるのが当たり前の生活だった。
済みません、僕の家は無暖房で室内でもジャンパーで厚着、リビングで吐く息が白くなるのでこのコメントで令和の自分の貧乏さに泪。ちなみに眠るときにはダウンの上下外着を着て丸くなって寝ます。キャンプ用のダウンの靴下を履いて眠るときも。
マイナス10℃になるくらいまで、同じような感じです。あとは温かい食事、足湯と湯たんぽで暖をとります。それより寒くなればストーブをつけますが、最小限にしています。
冬は寒いものです。
@@mandamnippon1 「日本万歳」
僕の部屋にエアコンは無い、8年前に壊れた・・・
16年前の石油ファンヒーターは有るけれど灯油代が無くて使えない。
真夏もうちわで過ごし20年てる・・・
冬は電気炬燵が命綱、潜って震え眠るだけ、発火が怖く手動オンオフ。
レトルトカレー袋に少し水入れ残りをゼロに、食べた容器に茶を飲む。
20年・・・夏にスイカを食べた事無い、5年間・・・ナシを食べて無い。
メロン・・・30年以上・・・もはや記憶に無い。
おじいちゃんがそちらの県でした。
子供の頃お正月に乗り物を1日以上かけて乗り継ぎ泊まりに行ったら重たい寝具や掘り炬燵だった思い出が蘇りました。
茅葺き屋根の昔の作りで,広い茶の間には掘り炬燵が2箇所あり背中は反射式の小さなストーブをつけても寒かったです。
お米農家だったので父から聞いた話では戦争中に食べ物に困ったことはなく,その代わり分家や子供の労力まで動員して農作業にあたったので食べ物を大切にするように躾けられました。
叔父たちが健在の頃まで毎年美味しい新米が大きな袋で届いて市販のお米よりおいしかったものです。
私も仙台出身で、同じようにして寝ていました。私はことに寒がりで、これでも寒くて寝られないことがあって、ある夜そばにあったこたつの布団を全部はいで自分の布団に重ねてようやく寝られたことがあったんですが、翌朝目覚めた時の第一声が、「ああ疲れた」でした。
古来から日本人は、懐に入れる『懐中あんか』とか、寝る時に足を温める『煉炭あんか』『豆炭あんか』も…。持ってたんですよ🎉『懐中あんか』は、日本軍の戦闘中も持ってましたよ😊
うp主が足りないから仕方がない、、、泣
豆炭あんか最近買いましたよ
キャンプの時に使ってます
便利ですね
@@cup77jp
終戦近くになるとアルコールを入れて着火するカイロも出てきたそうです。
石油ストーブの上にやかんで湯を沸かしてお茶を淹れて、アルミホイルで包んだ焼き芋を食べるのが子供の頃の日常でした。
雪国出身でしたが、生前の祖母(大正13年生まれ)からの話と、祖母の行動をよく見てましたが、とにかくコタツが嫌いで石油ストーブの前にいつも居たような。。。ストーブの上で、酒粕を焼いて砂糖つけて食べたり、スルメ、モチ、焼き芋などいろいろ食べました。祖母の話では昔は囲炉裏が最強に暖かったみたいで、寝るまで囲炉裏前でワラ仕事や裁縫してたみたいです。あと冬前に畑に手伝い行ったときは必ず焚き火してましたね。畑は燃やすものいろいろありますから。
昭和30年代生まれの東京育ちですけど、家の構造や暖房装置に服と、昔は寒かったですね。蛇口捻るとお湯なんて出ないから、朝は湯たんぽの残り湯で顔を洗ってましたよ
父は昭和2年樺太生まれでした。暖房はストーブ(薪か石炭かは不明)や火鉢、夜は囲炉裏の周りに布団を敷いて寝たそうです。アザラシの毛皮の防寒着を着たような話をしていました。私は青森で生まれましたが、私も小さい頃とても暖かい何かの毛皮のちゃんちゃんこ?のようなものを着せられていました。樺太時代のリメイクだったかもしれません。
ちなみに貴方の年齢はお幾つですか?
@@ユートピア-w7n 私は昭和35年生まれ64歳です。毛皮のちゃんちゃんこは私が持っていたもの以外見たことがありませんので、私の育った時代や地域のものではないと思います。
俺の家では七輪が現役です。
というかホームセンターで買ってきた。
暖房に使え、調理器具にも使える。特に炭火で焼いた魚はガスよりも美味い。残り火はスジ肉を煮たり、ブフブルギニョンを作ります。
昔は手にしもやけ、あかぎれが当たり前でしたね。鼻水たらしてる子供も珍しくなかった。
0:49 昭和24年産まれの東京下町育ちですが、当時は本当に寒かった。しかし、子供ですからこんなものだと思っていました。今は当時のような暮らしはできませんね。ともかく家は四畳半一間の木造二階建てのアパートに家族4人暮らし、台所の流しとトイレは共用で臭かった。暖房はコタツと七輪練炭が一般的でしたね。洗濯は冷たい水を張ったタライに洗濯板に手洗いですよ。それでも家にテレビもラジオもないので雨の日以外は真冬でも素足に下駄で外で遊び回っていましたね。足シモヤケ手はアカギレだらけ、小学校に上がる頃に靴と靴下を買ってもらいました。当時シッケが多く朝もやの中を学校に通いました。焚き火もあちこちでしてました。霜は毎日ありました。今の人達
はシモヤケ、アカギレなんて知らんでしょう。田舎は人糞撒くものだからどこも臭くて息もしたくなかった。都会の道路はゴミだらけ、イヌのクソを踏んづけることは当たり前、都会の河はヘドロのニオイで近づけもしなかった。持ち家に風呂のある家はほとんど無かった。だけど都会は当時から便利だった。歩いて五分ぐらいのところに銭湯も商店街もあった。だから冷蔵庫のない時代に生鮮魚も生肉も買えました。田舎では不味いものしか食えなかった。都会の繁華街ではガムの吐き捨てた後が路面にたくさんあって汚かった。20歳ぐらいの時は横浜に住居が変わり、銭湯から出て2〜3分で湯上げタオルが逆立ちするほど凍りましたね。どういうわけか50年くらい前から街も道路も河もキレイになってきました。50歳以下の人達は知らないことです。
ほ
八甲田山の事件は寒さではないんで寒波での事故ではないんですよ。
語弊があるからその見解は…
あれは日本陸軍の安易な見解での訓練で地元民も危ないって言われてて強行突破で訓練をした結果の事故なんで間違った情報は😢
現場を知らない「エリート」の弊害。今にも通ずる話。
雪や寒さ、防寒にたいする認識不足と気象状態認識の甘さは遠因で、直接の原因は寒さによる疲労凍死だろ。
子供の頃、祖父母の家にあった掘り炬燵や火鉢を懐かしく思い出しました😢
私の幼い頃、煉炭火鉢前に座り、灰掻きで均すのが好きでした、なついな〜!
夜は親父が友人と御茶、タクアン、2人してシンセイのタバコで煙ボーボーだわ😊
煉炭の前は薪だったそうで、ダイオキシンと副流煙で今じゃ考えられませんね!なついわ〜😊😊
昔の人には知恵があったのよ
一日中震えてた訳ではない
二十歳で終戦を迎えた大伯母、子供の頃は真綿の入った褞袍を友人から羨ましがられたようです。みんなが十分な綿を確保できていた訳ではないみたいでしたね。
そんな経験があったからか、何十年ものの真綿を亡くなるまで保管していました。いつか使うかもしれないからと。(ダニがすごいことになってて使えなかったよ。。。)
褞袍(どてら)ですね❤
半世紀前だと、まだ母の実家では練炭の火鉢と豆炭の炬燵でしのいでいたけど、温暖な西日本太平洋側だから別に雪が積もるわけでもないし、普通に暮らせてた。風呂焚きの薪は近くの商店街からリンゴ箱貰って燃やしてた。雪国の冬は別次元の厳しさだったろうな。交通も途絶しかねないし。
火鉢と湯たんぽは今も現役ですね。
隙間風がビュービュー入り込む我が家ではエアコンは一切役に立たないので欄間まで可能な限りぴっちり塞いで石油ストーブと火鉢焚いて寒さをしのいでます。
戦前でも、絨毯やガスストーブはあったけど、やはり裕福な家の話し。
絨毯をしいても専用の掃除用具や、男での多い家とかでなければ清潔は保てず、ガスストーブも長時間付けておくと、すきま風の入る日本家屋でも一酸化炭素中毒のせいか頭痛がしてきたそうです。
煙突があるために、他の部屋を暖めると言うことはなかったそうです。
火鉢は、一般家庭でも広く普及しておいましたが、思いの外手入れも大変だし、炭の保管にも気を遣ったそうです。炭は夏場になると需要も減り安く買え節約主婦は夏場にある程度買いだめをしたそうですが、保管場所によっては湿気を帯びてしまい、当時あちらこちらにいた鼠の排泄物がかかったりと、冬場に必要なだけあがなう方が良いと言う人も結構いたとの事です。
山村では木材に不自由はないように思えますが、太平洋戦争も末期になると農家は男手を取られ「三ちゃん農業」で供出物資を作らねばならず、薪を伐りにいける余裕を中々作れるものではなかったそうで、地主や本百姓でも無い限り、暖房の火に余裕のある生活ではなかった、小作だったと舅は話してくれました。
終戦直後の、40才の頃の親戚の男性の写真は、今の,70代と言っても差し支えがないほど老けて見えました。
体を酷使し無ければならないのに、十分な栄養も取れなければそのようになるのだなと思いましたが、今の80代の放が若々しく見えます。
良くドラマやアニメで、薪を割るシーンがありますが、あのままで燃えるものではなく、十分に乾燥させなければならないので、不足の事態のも備え常にローリングストックを欠かさないため毎日の薪割りをしていたそうです。少なくとも毎日遣う分を補充しなければならないため、常に薪割りはしていたと言うことでした。
今では想像も付かないでしょうが、昭和47年頃はまだ青い鼻水を垂らして遊ぶ子が多くいて。冬になると地表には霜柱が立ち、50年代でも足や手の込んだ霜焼けが冬の定番でした。
白金カイロは古くからありましたが、子供が持つものではなく、使い捨てカイロが発売されたのは、石油ストーブが発売されたより嬉しかったと祖母が話していました。
なおカイロに代わるものとして、温石(おんじゃく)と言って、手頃な石を暖めて布で包み暖を取ることもあったそうです。
布団は、真綿なのでへたってしまい、何年かに1℃は打ち直しと言って、綿を洗い足りない分を足してフカフカにしたのを、新しい布で布団を作り直すのも、戦前の主婦は一通りやったと言うので驚きです。職人さんに頼む人もいましたが、その程度をは頼むのは主婦の恥と言われたとの事。
家庭によっては毎年打ち直しをしていたそうですよ。
着るものも、分厚いウール製品を中心に重ね着は当たり前の時代でした。
学校の教室には、木炭ストーブやガスストーブがあり、煙突掃除を先生達が生徒と共に行い組み立て設置は業者でした。濡れた手袋や靴下を回りの柵で乾かし、アルマイトのお弁当箱ばかりでしたので、suto-bude蒸してもらって、ほかほかのご飯を食べられたのは懐かしい思い出です。
誤字ひどすぎて草
長文にマジレスしててくさ😂
懐かしいお話でした。
両親の田舎が東北地方で,父方の本家は日本昔ばなしのアニメに出てきそうな茅葺き屋根の大きな家で、それだけに茶の間は広すぎてこたつが2箇所あっても背中は寒くて道産子の私はまるで外にいるような感覚でした。
そのためか自宅は小さくても石炭ストーブで充分暖かく,祖父宅に泊まりに行く時はガウンを新調してくれてパジャマの上に着てこたつで足を温めたあとはガウン着たままで重たい布団に入った記憶があります。
おっしゃるように薪は1年以上乾かさないと臭いや煤の元なので,竈門にくべる薪をよく割っている姿を見たものです。
もう半世紀以上前のことですがつましく暮らしていた祖父母の生活に動画で紹介されている世界観がつい最近まで続いていたのだなぁとしみじみ考えさせられました。
ちなみ祖父のお葬式は自宅で営まれ,成人した私は更年期障害の母とともに叔母たちや近所の方とひたすら食事の準備と後片付けで初七日まで明け暮れたのですが、さすがに電気や灯油の暖房器具が使われました。
いいお話をしてくださり、ありがとうござります
田舎で今でも囲炉裏を使っている家に行ったことがあります
囲炉裏に向かっている面は暖かいけど、背中は隙間風が寒くて室内でもコートが脱げませんでした
炭ではなく薪をくべているので煙が目にしみて、火花が飛んでコートに小さな穴が開いてしまいました
囲炉裏が暖房として廃れた理由がよくわかりました
エアコンの普及を妨げていたのが物品税。贅沢品だと考えられていて、エアコン(クーラー)は購入以外に税金がかかっていたんです。80年代になってようやく普及しだすのは、コレの存在も理由の一つでしょう。
寒くなってきたから助かります。私は風呂上がり寒いから一味唐辛子を風呂に入れて股間の激痛に耐えながら風呂上がりに寒くならないようにしてます。
体の張り方が凄すぎる。肛門の方は大丈夫なんでしょうか?
こんにちは😄柔らかいところは強い炎症になりませんか❓️昔、八甲田山の冬の戦いで軍人さんが赤唐辛子を👢敷いていたとか‼️🫚方が生姜焼きとか生姜茶も良いですね‼️風呂に入れるとかね‼️🫚大好きです💕。😊
@
1ヶ月くらいで痛みになれます。
灯油ストーブNGの賃貸でファンヒーターはエアコンの暖房より電気代がかかるし一味3振り湯船にいれるだけなら安上がりです。
鏡泊湖
『痛い🥺。』
漫湖
『痛い🥺。』
エアコンと電気毛布でよくね?
風呂入る前にエアコンと電気毛布つけといて、風呂上がって身体拭いたらすぐに包まればおk
あとはそのままドライヤーしてればドライヤーの熱もあるから暖かくなるやろ
水の確保の件が最重要ですよ!庭に井戸を個別にあるのはお金持ち、共同井戸と共同洗濯場が一般的😮母は神戸で裕福に育ったが結婚してからは水運びが大変だったそうだ!母が亡くなる1年前、信仰心の厚かった母、、言った事は、「私の夢は叶った!蛇口を開くとお湯が出るのが夢だった」そうです😮
私、、「唖然」
[良いテーマの動画、ありがとうございます、感謝❤]
💩
暖房機器がいろいろ有る時代だけど、電気代含む燃料費の高騰、
ストーブやエアコン自体が高くて買えないので、今の時代でも
毎年、冬は震えながら生活してるので、全然、昔と変わらない。
ガス代も怖くて、お風呂にもお湯を張って浸かれない。
昭和11年生まれ、戦時中は宮城県に疎開してました。冬は囲炉裏の周りで暖を取ってました、懐かしい思い出です。石油ストーブが普及したのは戦後だいぶ経ってからでしたね。それまでは電気炬燵だったと思いますが、体が寒さに慣れていたためかあまり寒いとは思いませんでした。最近の暑さの方が身体にこたえます。エアコン付けっぱなしでも暑さは苦手です。
クソガキの頃小さな木のコタツで寝てました、普通の赤外線コタツの部分に注射器で水をかけたら『パンッ』と言って見事に割れました、母親にぶん殴られたの思い出しました。
我が家では、冬は湯たんぽと厚着で過ごします。夏はうちわ一つです。
明治生まれの祖父の記憶、生活の仕方が甦るような良い動画です。子供のころは多分1日2食か3食でよく食べる子だったのでご飯5杯食べてたそうで、お漬物やみそ汁に雑炊やカレーライス(は初めて食べてから気に入ってた)やおでんやうどんやそうめんも好きで、するする入る食べ物が好きなようでした。肉はあまり好きじゃないようでハンバーグやステーキなどでもほぼ食べないか少ししか食べなかった。雑炊が好きなのは夜お粥を食べていたからか?冷や飯になるのもあるけど、寝る前に胃を休めるのに消化の良いものを食べるのは理に適ってそうと今思いました。記憶の中にあるのは、着物で作られた布団、行火(あんか)や外出時のカイロは好んでた、自分で手編みした毛糸の腹巻きや靴下を愛用、あとジーパンを初めて見た時に触って気に入って買って好んで着た、スライスした餅を乾かして揚げ(冷水につけては今もやるけど)、半纏どてらは着用もするし買ってもくれました。確かになぜか朝5時に起床していた!夏ならわかるけど冬でも早いし外で何かしてる。木で小屋でも椅子でも何でも色々作るし、竹細工の籠や竹馬とか作ったり余生を楽しんでた。外でよく焚火をしてもいたかな。昔ではあるけど、現代人の記憶の中の懐かしさにもつながる体験しているからわかるこういう企画大好きです。記憶って思い出せる機会は、今の現代で大昔の事なんてなかなかないので。
綿の替わりにワラを入れた綿布団が昭和の時代まで使われていました。囲炉裏は薪を燃やすので、煙がひどく、そのため目の病気が多かったそうです。暖房には火鉢、猫炬燵が使われて、炭を燃やしていました。湯たんぽもありました。
100年前はフトンがなかったってのが衝撃。ムシロでどうやって寒さをしのぐんだよ
下は蓆を敷くとして上はどうしたのだろう
上も蓆じゃ寒くて寝られない
綿入って言って綿の入った着物を掛け布団の代わりにしてました
そのまま防寒着としても使用します
10年前の中国農村とかは大布団無しでジャンパー着て寝てるの見た事がある
日本人は寝る時にわざわざ寒い格好するのがよくわからんと言われた
東西南北に長い日本なので、地域差を細かく考察すると尺が足りませんね。
昔の家はすきま風あり せんべい綿ふとん 寝るときには夫婦でくっついて暖めあう。でまあ、盛り上がり 結果 子沢山になりますわな。
1970年代の高校受験生でしたが、東京も寒かったです。
夜、勉強する際は「頭寒足熱、ずかんそくねつ」と言って、足元には大きなスリッパ風の電熱器に足を入れて、ガウンのようなオシャレ風だがぼったりしたカイマキ風なのを着て、部屋はストーブ無し。
こうすると勉強ははかどる、とかの風潮がありました。
関西在住ですが暖房器具や分厚い服があっても冬は死にそうなくらい寒がりで…
昔の、それも東北地方などの人はどう暮らしていたのかな〜と思っていました。
おしん見て、画面の前で凍えます…🥶
ボクの記憶で一番最初は ガスストーブですね。 煮炊きに竈は大きなのが有りましたがいちいち薪くべてばかりはさすがに なのでガスが一番身近だった訳です。
囲炉裏はすでに床板で塞がれていましたので時々オコタが出てきました。途中の動画に出てくる物が近いですが3~40cm四方の木製の真四角な木の箱形状
炭をうける鉢は中に有って 燃料は豆炭(マメタン) 炭を出荷するのに残ったカスを更に砕いて固めた物
オコタに布団を掛けて足先から膝くらいは入れる感じですかね。 布団に潜り込もうとすると「中毒でタヒぬぞ!」とよく怒られましたよ。
100年前、布団ありました。
田舎でも農家でもありました。
綿のブ厚さの違いがあるけどw
【マンガ日本むかし話】見ろw
よっぽど貧乏でなかったらあった。
昭和後期生まれだけど、寒餅やってた。実家で水にためたバケツを外に置いて保管してたわ。当時は冬になるとバケツに氷が張って、畑に霜柱ができるくらいの寒さだったけど、今は無くなってきてるから今はできなくなってきちゃってるね。
暖房器具はエアコンよりファンヒーターの方が安くてすぐ部屋が温まった時代。今は灯油代が2倍になっちゃったから、昔は家の断熱が悪くてもそこそこあったかい暮らしができた。今は断熱住宅だけどエアコンだと足元までなかなか温まらないから床暖房が欲しくなる。
春の訪れの嬉しさは現代とは比較にならなかっただろうな
おじいさんは、渋谷の方に住んでいて女中さんとかいて豪華な生活をしていたみたい。
外国人が住んでいた家を買い取って
地下室にボイラーがあって家全体が暖まる設計になっていたと聞きました
【1960年】
郡部では 1960年頃にやっとガスを使い始めました。
市部でもガスは高価で、我が家でも七輪を併用していました。
電気は比較的に早かったですね。
【暖房・採暖】
日本で暖房が可能になったのは住宅の気密性が高くなってからですね。
石炭を焚く達磨ストーブや灯油ストーブが暖房の走りでしょうか。
それまでは火鉢などの採暖器具で暖を採っていたのでしょう。
※注意
暖房器具とは字の通り部屋を暖めるもので、火鉢や炬燵、それに懐炉などは部屋を暖めませんので暖房器具ではなく採暖器具です。
意外と雪の上の裸足は行ける。小さい頃普通だった。今は嫌だけど。中学まで雪が降っても半ズボンで体育やっていたなぁ。忘れ物多くてさ。
火鉢に練炭こたつ、せんべい布団とかはんてんきてたやな。冬場は蚕仕事してたと聞いた。正月にはサガンボが贅沢品だったそうな。
冬の暖房はと灯油ストーブが最強。暖も取れるし調理器具としても使えヤカンを置いておけば加湿器にもなって一つで三役をこなせて災害時にも使える。😂
爺さん、ベンジンカイロを愛用してたな
100年前の日本の家庭でも「暖房器具」は使われていましたよ?ストーブやこたつも暖房器具です。
エアコンだけが暖房器具ではありません。100年前ってけっこう最近なんですよね。あまり馬鹿にしないほうがいいと思います。
気温下がったタイミングでこれ勧めてくるAIにも驚き
今は亡くなった明治37年生まれのおじいちゃんの1日。
朝3時起床リンゴ畑に行く7時飯 8時田んぼ昼は帰ってこない夕方4時半飯 夜8時就寝。
因みに津軽で冬は囲炉裏と湯たんぽ 綿の重い布団2枚重ね 外にあるトイレはうんこタワーが出来上がってました。
おやつは米粉を水でといて焼いて砂糖をつけて食べていた。 これは美味しかった記憶、多分餅米の米粉だったと思う。
子供の頃暖房は火鉢のみだった
おもちゃの太鼓のバチで火鉢を叩いてヒビ入れてしまい、こっ酷く怒られた記憶。
還暦の私は子どもの頃は四国の平坦な地の田舎に住んでいて、家は紙障子と通気性良すぎる木製雨戸が外気を隔てる家でした。冬、重い布団で寝ていた記憶今だあり。転げるほどの厚着、春になっても、テレビで見た都会の子は半ズボンやスカートにハイソックス姿でしたが田舎者はズボンで、風邪ひくからと言ってスカートは夏しかはかせてもらえませんでした。
手や耳たぶがしもやけで腫れて血が出てる子、青っパナたらしてる子、←普通の光景。
つららや庭の水が氷になる状態常時ありました。
豆炭炬燵を足元に置いて寝ていて、よく足を火傷しました。
居間では火鉢で暖を取っていて、寝間の暖は豆炭炬燵のみ。
ホーム炬燵(やぐらこたつ)の豆炭を入れるタイプは、しもやけが治るほど暖かかった。
エアコン使わない
コタツ一択だからめっちゃ厚着してる。
よほど汚れない限り風呂は湯冷めするし
冬は汗をかきづらいから入らない。
そんな感じ?
100年前にヒートテックと桐灰カイロを持ち出したらワンチャン無双できる?
いつ何時も手に入る生活・・・、数年前までは。
今は菓子パン生活が増えており、しかも人口の割に農家が少なく農業がかなりしづらい。
しかもこれからガソリン価格が爆上がり予測されているようなので、第2回目を超える悲惨な状況になりそう。
ワシは子供の頃ドテラ持ってた❤
最近もz世代に人気だよ!
アタシのじいちゃんは
戦時中も地主だったから毎日
3食たべれてたらしいわよ
バブルの頃は月500万円も
稼いでたってアタシの
母ちゃんが言ってた
平安時代の貴族らの屋敷は夏仕立てなので冬はさぞ大変であっただろう
京都文化財の建物は火気はあかんかった、と母は行ってた、だから寒いの大嫌いだった
寒さもそうだが今の人間は贅沢言い過ぎと思う、この頃は誰もが医療を受けれるわけでもなくご飯も3食食べれない
今は3割で医療を受けれて低額無料医療制度もあり最低限の医療が受けれる、人間医食住有れば簡単には死ねんのです
今年の冬は一段と寒くなりそう😂
そんな早く起きても暗いから危ないような…
「日本万歳」
外は一面の雪・・・月の光を反射して意外に明るい、です。
雪が積もって周りが雪化粧になると月明かりで周りが意外と明るいですよ。
囲炉裏が有ったろう 火鉢も有った
暖房器具がなかったわけじゃない
家事さえなけりゃ、布団かぶってりゃどうにでもなる
まあ満州まで行ってたくらいだからな、今の暖房器具でさえちと寒すぎたりしないか?😆
現代でも雪国はムリ
当家はセントラルヒーティングもある家でしたが母が暖房を使うと風邪を引くと強く信じてる人で暖房無しで育ちました😅
ま、風邪は引かなかったんだけどさ〜
ん?
囲炉裏はあるやろ。囲炉裏は立派な暖房器具では…??
暖房機器はないけど器具(道具)はあったと思う
揚げ足取りかな。ごめん。でも気になった
100年後の人たちは現在の暮らしを見て『エアコンなんて使ってたんだ・・・』と思うかもしれん。
どこかの総理さんが
貧乏人は 麦を食え
と 言われてたような、、、
あと
祖母が聞いたのには
昔の人は 麦どころか ヒエやアワを食べてたとか、、、
ああっ
これって 小鳥の食べ物では‼️‼️‼️❓❓❓
エアコン無い時代は炭だろう
乾布摩擦とかえぐいと思う。どうせやってたやろ、知らんけど。
火鉢は昔の家みたいに隙間風が入る構造ならまだしも、今の密閉された家で使うのは自●行為。憶えている昭和のニュースでは、火事で焼け出された家庭が暖房用に前の家から火鉢を持って来て使ったら、その日の内に一酸化炭素中毒で一家全滅という悲しいニュースがありました。
私の家の玄関の上がり間口(縁側の下)は工夫が有って、ネズミは通れないが隙間があり、縁の下に続いて居る。
昔の茶室も同じです。
昔の家は隙間が多いのは、誤解です(貧乏家屋は別)
キチンと一酸化炭素対策は古来よりして居ました。
目覚まし無いのにどうやって起きてたんだろう?
寒さでとびおきるんだろ😂
習慣付くと時間が来ると目が覚める。不規則な生活をしていると無理かもしれないな。
@@Tech-um3ur
自然に同じ時間に起きてしまいます
体内時計なのか不思議
「日本万歳」
山奥の村だけど寺の鐘で時を知りました・・・鶏も鳴いた。
柱時計が1時間ごとに鳴りました
ガキの頃、ストーブの上に鍋を置き、おでんやアラ煮を入れてほったらかしにしたもんだ。そしてそれをしこたま食った結果クソ肥満になったぜへへへ
これは「昔の話」としてはいけないよ
このご時世、いつ「冷暖房無し」に逆戻りするか分からないよ
地球のエネルギー事情は、政治的にも、物理的にも実に不安定になっている
皆さんも真剣に「脱エネルギー」の生活を考えておくべきだよ
温暖化なんていっているが、単に人類が無駄にエネルギーを消費しているからだよ
エネルギー危機になれば、本来の「厳しい冬」になるのだよ
まずは「脱冷房」次に「脱暖房」の順番だな
「寒さで死ぬ」人は多いが、「高熱で死ぬ」のは年寄りぐらいだからね
冷房の無い生活から始めることだ
使い捨てカイロはごみが出るんで、ハクキンカイロ使っとるわ。
久しぶりに見たら地声じゃなくなってる😅 残念
耐えられるに決まっとるだろ!
着りゃ良いがや!笑
暖房なんて要らんわ!
贅沢過ぎてアホになっとんだわ今が
まめたん 炭団 レンタン 桐灰カイロ 褞袍 女房? 子沢山
もう少し地球温暖化が進めばいいですね。まあ、都会の暑さは何らかの手を打つ必要は有りますが。
電気代高騰ダイエット
こんな戦前戦後苦労してきた人達を何故🇯🇵は
当たり前に
ころせるのか。
お金が人間狂わせる。
戦前は世界一のア◯ン大国のはずですが…
分からない人だな〜満州経営の事です。しったかさん
いや、こたつや火鉢位はあったやろ