【ゆっくり解説】ヨーロッパはなぜ征服されなかった?モンゴル帝国ヨーロッパ撤退の謎【歴史超深掘り】
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- เผยแพร่เมื่อ 18 ก.ย. 2024
- 今回の動画はモンゴルのヨーロッパからの撤退理由についてです。
モヒの戦いでハンガリーを、ワールシュタットの戦いでポーランド軍を粉砕しウィーン近郊にまで迫ったモンゴル軍は突如として全面撤退しました。
一般的にはオゴデイ崩御を要因としてあげられてるのですが実は違うのではという研究もありまして…
今回はそのあたり解説していきます。
ご意見・ご感想・ご要望があればぜひコメントしてください。
内容の都合上かなり端折ってますがご了承ください。
前回→ • 【ゆっくり解説】教科書から消えた!ワールシュ...
【ワールシュタットの戦い大したことなかった説】
ついったー
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どんな説や話にも言えるけど歴史の実際の所は100か0かとかではなく、色々な因子と現実が絡み合って形成されていることが多い。早急すぎる結論ではなく議論を重ね検証を積むのが歴史の楽しさ。
人類学者デビッドグレーバーは遺作の万物の黎明で「平等社会と階級社会になる原因は結局分からない」と言いました。賢い人ほど決めつけない傾向があるのは同意です。
複数の理由があったことは前提として、個人的にはオゴデイ崩御など政治的理由が一番大きかったと思います。オゴデイ家のグユクやチャガタイ家との確執、後にはフレグ・ハーン国との国境摩擦など、東に注力せざるを得なかったのではないかと。
20万5920頭の馬しか扶養できない←10頭単位まで管理されててすごい!遊牧民には資産だからきちんとしてるんですね。反芻動物の牛は馬が摂取できない飼料もいけるので牛が扶養できるから馬も扶養できるにはならないかも??
歴史深掘りシリーズ好き。もっと増やして
やっぱりモンゴル軍は限界に達していたんじゃないかな?ハンガリーから更に西方のヨーロッパはモンゴル軍にとっては異世界に等しい。世間一般的には「モヒの戦い」は圧勝の体を保ったけど、モンゴル軍の指揮官にはどのように見えていたかのか?個々のモンゴル兵も人間であり無敵の超人では無いから、遠征により戦闘以外でも疫病等で消耗し兵力の質と量を維持できず、何れは大敗を蒙るリスクに直面すると判断したかも知れない。
第一目標は懲罰戦争
第二目標が占領支配
第一は達成したが第二が手古摺りそうだし皇帝の具合も良くなさそうなので帰ったのかな
(決して負けて帰った訳じゃない事の証明に蹴散らしながら帰って行った)
モンゴル軍の欧州撤退に関しての考察、興味深かったです!
複合的な要因が考えられそうですね。
当時の西欧は十字軍の開始から150年ぐらい経っていたし、それによって戦闘能力も鍛えられていて、攻め込むとなるとなんやかんや厳しい戦いを強いられたかもしれませんね。
馬や家畜も移動していただろうし、軍団規模の需要を満たす牧草が手に入る東欧辺りが限界だったのかも…。あとはその他の説との合せ技で撤退を決めたのかもしれない。
それ考えたら長江流域の河南地域も牧草手に入らないし山多いし風土病あるのに
大元ウルスは南宋をゴリ押しで征服したしな。
朝鮮半島も魅力ない土地だし
1942年…独ソ戦に参加してるやんけ 3:33
歴史において単一要因は稀である。大規模気候変動とか大火山噴火とか巨大隕石落下とかぐらいでしょう。
実はこの時代の欧州圏は、東側の世界から見るとあまり魅力がなかったらしいですね。
ビザンツ帝国等、中東~地中海周辺は結構文明が発展していますけど、ハンガリーよりさらに西になると侵略価値があまりないと思った可能性も?
元々モンゴル帝国の方向性って、遊牧民の基本方針である交易がメインですし。
この時代じゃ中華世界やオリエントと比べたら辺境もいいところですからね
それは日本列島もだけど…
@@user-jw5vz9mu7v さん
文明レベルがどれくらい違うのかの指標は難しいので何とも言えませんが、この30年ほど後に元寇が発生しているんですよね。
ここではあっさり撤退したのに、後にわざわざ海を渡ってまで日本に侵攻した辺り、相応の価値は見出していたのかもしれません。
ウィキ List of regions by past GDP (PPP) の1000年と1500年の間を採ると各地域のGDPは
アジア12 ヨーロッパ3 アフリカ1 新大陸1
くらいの比率。日本は0.5くらいなので世界の3~4%の生産性があったと仮定します。番人が納得出来る指標なんか存在し得ないので異論はすべて認めます。認めずエゴと曖昧な根拠をぶつけ合えばぶつけ合うだけ不毛。次に戦争なりケンカする理由には
・動画にあるように周囲の空白地化、戦略上の都合
・集団内での権威や権力争争い
・単に憎いから、あるいは単なる野心
・外集団スケープゴート化による内集団社会の秩序維持
・内外集団の人口間引きによる食料などの富の分配率上昇上
日本を侵略支配する事でどれだけ実利があるなんて日本自身が主観的に思ってるほどの意味は無いかも知れません。日本人として無意識な国家ナショナリズムから日本に過剰な価値を持たせてモンゴルはそれを熱望したかのように決めつけるのも、反対に日本列島そのものには全く価値が無かったと考えるのも思考停止状態になります。子供のケンカの原因だって複数あるように原因を一つ二つの分かり易い物事に決めつけるべきではありません。原因を吟味するのはとして考えられる事を皆で100も挙げてからで遅くありません。
国家間の戦争という大規模な話にいきなり着手するとどんな妄想でもありの荒唐無稽で中身に乏しい思い付きの書き殴り大会になってしまいます。まずはもっと小規模な社会で、例えば霊長類学でサルの群れ同士は何が切欠で戦争したり分裂するのか、人類学的に人口数百人から数千人の小規模離島でどんな戦略が繰り広げられ続けていたかから地道に辿るのがおすすめです。この手の戦争話になるとそういうミクロ視点に着目する人は皆無な証拠に「内集団の口減らし、人口調整」という動機が書かれてるのを一度も見た事がありません。
@@muramasa9582 当時の中国国内では硫黄が採集できないから火薬調合ができないけど日本、特に九州では硫黄が特産物なのでそこに魅力を感じたのかな…?
日宋貿易によって南宋に流れてた日本のヒノキや硫黄といった軍事物資供給ルートを潰す為に元軍が攻めて来たんじゃないか説もありますね
戦国時代の日本も硝石は取れないが明では産出される相互関係になってポルトガル商人は仲介業を営んでましたので
九大の服部英雄教授はモンゴルは火薬兵器の材料として日本の硫黄を狙ってたとも著書の「蒙古襲来」に書いておられましたね。あと木材も。日本は大陸と違って火山列島で硫黄が取れる上、温暖湿潤で木材が豊富に取れますから。
3:33 1942...独ソ戦?
ソ連はモンゴル軍の唯一の後継だからね、しょうがないね
3月ってまだ始まってなくね?って思ったけど忘れた
@@さく-q2x 独ソ戦開戦は1941年の6月だったはず
3:26 1942年は草。ドイツ軍が迫って来てるやん😂
取引相手である中国や中東の商人が支持しなかった可能性もあるな
この時期のヨーロッパ自体が支配維持するコストに対して魅力的な土地に見えなかったのかな
毎度興味深い動画をありがとうございます🙇♂️
得られる戦利品が少なかったのではないかと思います。撤退の理由をオゴデイ崩御以外にも求めるなら、その方面でも考えてみてはどうでしょうか?当時の豊かさで考えると、ホラズムなどと比べるとヨーロッパで得られる物資の質や量は見劣りしたのではないか。モンゴル軍は兵士への給与を戦利品から賄っていました。広大な領土を得るに至ったことも兵士を養うための戦利品を獲得するためというのが主要因だったと言えるではないでしょうか。さもなくば兵士は反乱を起こします。兵を率いる将としてはオゴデイ崩御の報は彼らは後継者争いに加わる必要があったため撤退理由としては十分です。率いられる兵にも撤退に動く理由があるとしたら戦利品でしょう。そうであるなら、欧州侵攻が後に再開されなかったことも説明がつきます。戦利品の獲得量の追跡データが得られれば何かわかるかもしれません
他の事例として、アッティラのイタリアからの撤退、ティムールのアナトリアからの撤退、こういった事例も同じ方向で考察すると面白いと考えています
文禄・慶長の役と同じで、前線の武将たちは、もう嫌気が差して、やめて帰りたいと思っていた。でも帝国全体の領土拡張の方針があってお互いに競っていたから、「もう止めたい。」と大っぴらには言えなかった。
そこにオゴダイの訃報が来たから、内心ホッとして、それを口実に戦いを止めた。
という可能性は十分ありますよね。
とれもオゴタイの死が原因説をとにかく否定しようとする結論ありきで構築された説感があるな
複合的な要因はあれとやっばり主要因はオゴタイの死による後継者争いから波及する内側のもめごとに注力しなきゃいけたかったからと
ヨーロッパ的にモンゴルに負けてないんだってバイアスをかけてなんとか説を立ててる感
3:33
モンゴル帝国は独ソ戦に参加していた???
馬は泥道に対しては文字通り死ぬほど弱い。
まずぬかるんだ道を歩くのは馬にとっては非常にストレスがかかり、ただでさえ繊細なので体調不良を起こしやすい。
次に蹄に最近が侵入して、水虫に感染してしまう。蹄が腐ったら歩けなくなり、死ぬしかない。
最後に、泥道は蹄鉄を剥がしやすい。蹄鉄が剥がれれば、上記のように水虫に感染して廃馬になる。そのため馬の付添人は蹄鉄が剥がれて無いか確認するため、常に馬に寄り添って歩かなければならない。西南戦争の際、同じことを日本軍がやったら、泥道の行軍で底なし沼に落ちたり、疲労困憊で倒れて泥の中で溺れ死ぬ輜重兵が多数出た。
中世ヨーロッパは森の海のなかに都市がポツンポツンとある感じなので、遮蔽が多すぎて弓騎兵不利なのでは?
北イタリアのポー川流域の平原は馬産地ですよ。フランスも平たいですし、仰るようにシュバルツバルトを抱えるドイツへの侵攻を忌避した可能性はありますが。
@@ねおぞえ 西欧には馬乗ってパン食べる都合に合わせて土地を開墾し灌漑してきた歴史があるということです。中世は殆ど開発が進んでなくて今のようではなかったということですね。現在のポー平原が開発されて牧畜が進んだのは中世終わって大分たってからですよ。
それなら5世紀末に騎馬民族であった(遊牧民ではないですよ)東ゴート族がそのあたりに定着した理由がわからないんですよね。あとポー川流域はオクタヴィアヌスの時代にローマ本国に編入されてるぐらいの地域ですよ、開発度で言えばゲルマニアやガリアとは段違いです。
帝政後期には木材不足が問題になっていましたし中世のヴェネツィアも木材不足に苦しんでいました。あの辺りはモンゴル襲来の13世紀には森はかなり消失していたと思われます。
@@ねおぞえ 農耕民じゃなければ小規模の耕地で十分だからでは?欧州はローマ以後衰退して中世前期には人口が半減してます。ローマ街道が森に呑まれて村が孤立するぐらいには。モンゴル侵攻の頃だとまだ開墾の途上で14世紀ごろまで大規模な開墾が続きます。ポー平原の開発が18世紀ごろというのは周知の事実なので先ずはお調べになった方がいいかと。
了解、調べてみます。
蒙古軍は当時の自動車化部隊のようなものでしょうか
泥濘に機動が損なわれ兵站にも不安があったのかも?
普通にヨーロッパいらないんじゃないかな。イスラム圏みたいに科学が発展してない宗教観ゴリ押し地域とかいらんだろ。
でもハンガリーやポーランドの平原はモンゴルにとってキプチャク平原には劣るものの、ある程度有用な草原地帯だから維持してても良かったのではないかと思う。その理由を唱えるのであれば、それこそルーシ諸国だって手放していても良かったはず
東欧は行けても重装備の西欧だとモンゴルの戦術では勝てなかったんじゃないかな
騎馬隊による速攻、弓主体の部隊編成では
重装備を突破出来んだろう
知らない我々は必死に理由を考えるけど実際は何となく勘でとかだっりするかもなあ
一番の理由は外側ではなく内側のモンゴル側ではないかな
チンギスハンが外側に軍勢を振り向けられたのはチンギスハンが生きている間は内側はガッチリ固まって心配無かったから
チンギスハンが亡くなる前には既に勢力が四分されて内側の後背の方が不安があったので、主力を外側に長期間回す事が出来なかった
チンギスハンなら神聖ローマ帝国まで攻め込んでいただろうからね、東欧辺りがどうあれ
チンギスハンが亡くなる情報が伝わってなくても、そろそろ弱まってというのは察せられ、亡くなれば後継者問題もあり、内側の方に不安が
特にジョチはチンギスハンの実子ではないと見られていたからね
気付かなかったけど、そうだったかも…
そもそも、騎馬民族は戦に強いけど
バラバラで小規模の集団でしかなかった
大きな集合体(国)になったのは
テムジン(後のチンギス)以降の話だしね
一言で言うと
『占領する価値が無かったから。』
もう少し後の時代に西アジアを席巻したフレグも、結果的にはクビライとアリクブケが対立した際のクリルタイを目指して遠征途次で帰国した。それ程跡目決定の合議とこれに参加する事は重要だったのだと考える。
フレグは以降自立するが、この時期とて恒久的な政権をモンゴル本国から隔絶した地で成立させるのは難しいかった筈。しかも残留軍はマムルーク朝に一敗地にまみれている。
バトゥの時代なら尚更、本国から切り離されての遠征~征服~政権樹立・・・は無理だったのでは?
日本は鎌倉武士団のバーサーカー的戦闘力で撃退…神風というのはおまけ的な要素でしかなかったと某動画で学びました
ハンガリー騎士団も(鎌倉武士団に勝るのか劣るのかは不明ですが)モンゴル軍に撤退の一因を与えるほどの抵抗を見せた…のは意外というかすごいと思えたし初耳
もし…モンゴルが西欧まで攻め込んでフランスやイングランドと戦闘になっていたら…勝敗は?そして歴史はどうなってたのか?
超難問😢でも面白い😊
モンゴルはどちらかというと中華文化圏のため、兵士の望郷願望が強かった気がします♪
モンゴルと言うと駅伝と覚えさせられましたが、機能していなかったのかな。
ジャガイモがあったら征服されてたかもしれない
こんばん🥔野郎です
うぃ