滅亡した大名家が転機を迎えた瞬間とは?いつ詰んでいたのかを考察!2chスレ民の見解が面白い!【ゆっくり歴史解説】
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- เผยแพร่เมื่อ 21 ก.ย. 2024
- 多くの大名家が戦国時代を通じて繁栄し、その後消えていきました。その中には今川家、武田家、北条家、浅井家など、数々の有名な大名家が含まれています。彼らが滅びることとなった理由は様々ですが、その転機はいったいどこだったのでしょうか。
本動画では、これらの大名家がいつから運命の道を歩み始めたのか、その詳細な歴史と一緒にご紹介します。さらに、歴史の裏話や意外な事実も明らかにします。
さあ、今川家が桶狭間で、武田家が長篠で、そして織田家が本能寺でどのように詰んでいたのかを一緒に見ていきましょう。また、それぞれの大名家の最終的な運命やその影響についても考察します。
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それでは、歴史の舞台に足を踏み入れ、滅亡した大名家が詰んでいた時点を一緒に探していきましょう。
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織田が本当に詰んだのは家督を継いでいた信忠まで光秀に討たれたとこでしょ
信忠さえ生きていればまだ織田が主導権握れた
同意ですわぁ…。
信忠なら信長亡き後の織田家でも、上手くまとめられたんじゃないかなと思う。
武田滅亡の実績もあるし。そもそも家督継いでるし。
二条城で死んだ信忠およびその側近衆がそのまま生きていれば織田政権は存続していたでしょうね。秀吉が独立しようにも羽柴家関係以外の幹部級武将はついてこないでしょうし。
秀吉はなんだかんだ信忠が生きてたら信忠に忠誠を誓いそうな気がする
秀吉有利なのに信長に援軍要請を出したのも信長の手柄にする保身のためとか言われてるから、織田家を裏切らずに筆頭家老を狙いそう
でもどっちにしろ羽柴松平で対立になっていただろうなぁ…。
@@greatnamegn9602多分このルートなら豊臣の敵=織田の敵になるんだし、織田と徳川では圧倒的に織田の方が強いから簡単に潰せる。から賢い徳川は家臣になる方を選ぶのでは?だから仲は良くないにしても同じ主君に仕える同士敵対することはないんじゃね?
武田:義信事件はまだ早いが、信長と対立した時点で結構決まっていた 致命傷は御館の乱
織田:本能寺そのものというより、信忠が二条城で死んだ時点
豊臣:1585年の時点で実子がいなかった時点で結構詰んでるが、秀次事件が最後の致命傷
真田:詰んでない(犬伏のおかげで明治まで生き残った)
豊臣は徳川にへこへこしてたらワンチャン
情勢読まずに意地張ったからなぁ・・・
武田に至ってはそもそも土地の痩せた甲斐国が本拠地の時点でスタートから実は終わってた説あるぞ
織田は主力が本願寺を包囲してて片手間で武田と戦ってたんだから本願寺が降伏して主力が転用出来るようになった時点で武田終了です
織田は信雄が下手に有能でなかったのが逆に良かった
繋いだことで家が存続したし信長の血が皇族に入ることにもなった
真田は確かに「詰んでない」けど、あれだけの実力がありながら小藩で終わった点がね・・・あまりに優れすぎてて警戒されたんでしょうね。
長宗我部は信親死んだ時点で詰みじゃね?
仙石と戦わされた時点だろ。あいつに大将とか無理やぞ
大抵の戦国大名は成人した嫡男粛清した時点で死亡フラグが立ち詰みやすい。
信康粛清しても生き残った徳川家康は運が良かったが
秀康 秀忠の戦経験少ないハンディに晩年悩まされた
関ヶ原で前の陣の奴らが弁当食い出した時点で詰み
盛親が兄貴殺さんかったら存続くらいはできたと思うで
元親が戸次川の戦いの総大将なら島津の釣り野伏せを見切って対処していた可能性は高いからな。
四国内だったとはいえ百戦練磨の戦上手は伊達では無い。
長宗我部家:仙石秀久
十河家:仙石秀久
大友家:仙石秀久
本人は最終的に大名復帰してるのがおもろい
豊臣を追加で
センゴクで好きにはなるけどwiki見てやっぱ嫌いになる男
昌幸は個人としてならまだしも大名家としては詰んでないだろ
信長は尊王だったはずだけど
後勝頼が詰んだのは御館の乱で景勝側に味方したからでは
あれで北条が完全に武田を見限り織田徳川北条の武田包囲網が完成した
同感です。勝頼が景虎側に付けば北条が信長の臣下になる事は無かったと思います。
とはいえ武田が沼田城を取ったのってその頃じゃなかった?北条が敵に回ったのはそこまで影響ない気がしなくもない
織田は信忠がさっさと諦めて自刃したのが詰み。本能寺の時には既に家督は信長→信忠になってたので、信忠さえ生き延びていれば秀吉の台頭を許すことなく、織田家による天下統一事業は続けられていたと思う
でも跡継ぎの三法師があの様子ではなぁ😅
有楽斎逃げれてんだし、絶対信忠も逃げれたわ。三法師はそもそもどんだけ有能とかすらも分からんうちに消えてるから
信忠が長生きしてたら名家から嫁貰って子供作って三法師が跡継ぎになることも無かった、三法師が有能だろうが無能だろうが関係無い
@@syuzredsyuzred8507
三法師って実は足利義輝の外孫らしいから、血筋で言えば、信忠の正妻予定だった信玄の娘との子供の間に産まれたかもしれない子より実は格上。
今川は太原雪斎が亡くなった時点で詰み
信長が朝廷ないがしろにしてたって意見未だにいう人おるんやね。当時信長ほど朝廷を大事にした大名は他にいないぞ。信長の前に京を抑えてた三好、細川、大内なんかと比べれば歴然としてる。
やっぱ北条は満場一致で上洛拒否のタイミングだよな
ちゃんと長男嫡男に継承してお家騒動無く団結してる強みはあったけどね。
でも個人的には九州征伐が終わった辺りで豊臣秀吉の関東征伐の構想が既にまとまっていた様な気がする
小牧・長久手の戦いの時点で秀吉に佐竹が着き家康に北条が着いた
その時点で秀吉は佐竹を味方として認識しその佐竹と敵対し自分の敵である家康に着いた北条を敵と認識していたはず
あの交渉も結局は秀吉の関東征伐がほぼ確定していたから北条は交渉の姿勢を見せつつ関東征伐を引き延ばしその間に同盟を組んだ伊達と一緒に佐竹を滅ぼし伊達と合流し秀吉に徹底抗戦するつもりだった
それを秀吉は見抜いていたから無理難題を押し付け無理矢理交渉を決裂させ北条征伐を始めた
その後北条を治めた地を家康に与える事で家康が先祖代々長く治めていた三河や浜松から遠ざけて戦火で傷つき北条恩顧が多い土地に配置する事で家康の力を削ぎ
逆に佐竹には与力をつけ家康の抑えにしようとしていたのが秀吉の真意だと思う
だから北条の詰みは小牧・長久手の戦いで佐竹が秀吉に着いてしまった&北条が家康に着いてしまった所だと思う
飯に掛ける汁の話でも解るが、氏政の家督継承時点で詰んでたわ
なんで昌幸だけ個人なんだよw
大友は宗麟がキリシタンになった時点で詰んでる気がする。
なったのは隠居して権限大きく縮小してからだからあんまり関係ない 潜伏してた龍造寺隆信と秋月種実が蜂起して筑後国人を糾合した+家臣の田原親貫が義統に付いていけんわで離反してグダグダだから家臣団らは「宗麟様また戻ってきてくださいorz」で現役復帰を余儀なくされてる
尼子みたいに領土広いのに国人任せすぎる構造のまま戦国終期まで来てしまった構造の方が大きい(国人に安堵ばっかりでそのせいで直臣の恩賞に出せる所領が無い→比叡山並みにデカい面してる寺社領を恩賞に使わないと繋ぎ止められない)
豊臣は、秀吉にもともと子種がなかった時点で詰み
女好きでたくさん側室がいたのに、3人しか子供がいないのはおかしい。多分当時の誰もがそう思ってたろ
俺もそう思う
ゆーて秀頼が情勢よんでへこへこしてたらワンチャンあったぞ
情勢読まずに意地張ったからなぁ・・・
@@チャンマンライス 当時の人がだれも秀頼を秀吉の子だと思ってないなら、
秀頼は事実上浅井か、秀頼の本当の父の子。本当の父は今更名乗れないので、やっぱり浅井の子。
豊臣は秀吉の死で滅亡したと考えるのが自然
秀頼が大阪城を明け渡して徳川に服従したとしても、江戸時代初期の大名の取り潰され具合を見ると存続できたかは怪しいと思う。
@@むらむら-j4l
秀頼は豊臣家じゃないので、秀頼の末路はどうあれ、
秀吉死んだ時点で豊臣家は終わったと考える。
秀頼が何家の子なのかは、淀君と本当の父のみぞ知るぬへへ
浅井は、東海と北陸と畿内と琵琶湖の水運を結ぶ重要地点が本拠地だったという時点で詰み。
所詮国人衆に毛が生えた
村上、真田、宇喜多、辺りで元がな。
浅井亮正 浅井久政 浅井長政
織田:信忠死亡
豊臣:秀次死亡もしくは秀長死亡もしくは加藤清正死亡
武田:今川と手を結んだ時点
北条:徳川が豊臣についた時点
長宗我部:信親死亡
こんな感じだと思う
島津義久と義弘の実質2頭政治状態で「弟が勝手にやった事なので関ヶ原はノーカン」という島津リスクヘッジうまいよなぁ
それ、動画でも言われてるけど
真田も似てるな。
島津好き❤❤
島津は政治チート(島津4兄弟全員有能)と軍事チート(言わずもがな)と経済チート(琉球交易)合わせ持ってたので……あと中央から遠かったお陰で割と好き勝手出来た。それが後々の維新に効いてくるんですが……
それは疑問、実際は島津義久は「関ケ原では島津は中立を守り絶対に家康に頭を下げない」と薩摩で頑なな態度をとり、
それを見かねた義弘の子供で義久の養子の島津忠恒が上洛して家康に謁見して島津家を救った。
それを聞いた島津義久は忠恒を「親不孝の極み」と激怒したとか。
@@中井太一-j6h
すみません。それってどの史料に載ってる情報ですか?私の記憶では、手紙で追認の形ではあるものの忠恒の家康への謁見を許してたと思うのですが、それ以外にも記述があるのでしょうか?後学のために教えていただきたいです
逆に関ヶ原で西軍側だったのに家名を存続出来た家の政治力が凄いと思う。
その中には、今の政治倫理的にはアウトな事も混じってる気が。
でもそういうのも含めて当時はなりふり構って居られなかったのは想像に難くない。
武田勝頼は御館の乱が尾を引いてる気もする
個人的に今川は上杉の関東越山が始まったから詰んだと思ってる
それが始まったのは桶狭間で今川が弱体化したから
武田の上がり目は実はかなり難しいわな
石高が無さすぎるから戦で勝っても焼畑されるとどうしようもない
景虎が越後にいた時点で厳しかったかもね。
武田は信繁が死んでなくて信玄死んだ後も10年くらい生きてれば何とかなった気もする信繁生きてれば信繁が当主になるか勝頼が当主になったとしても信繁がいることによって重臣との不和が無くなったかなと思う。
11:26 この顔だとほんとに言ってそうで草
大友氏の詰みはキリシタン改宗と耳川の戦いの敗北で詰みから
九州平定で助かったけど結局改易だし。
武田→甲斐が本拠地の時点で詰み
むしろ、あそこまで勢力拡大できた事の方が奇跡だよな。
平成まで続くやべえ住血吸虫おったのによくあそこまで勢力伸ばせたよね
内ヶ島「正月に皆でお祝いしたら何故か詰みました」
信長が朝廷蔑ろって言ってる時点もうこのスレ終わってる
朝廷とは凄く良好な関係だった証拠はいくらも残っているのになぁ
歴史板に居る人らって、古い歴史観からアップデートされてない半端な歴史オタのおっさんが大多数だからなぁ
2012年のスレだからなぁ
我々も十年後からしたら古い歴史観で語ってる半端なおっさんになり得るよ
石山本願寺の詰んだタイミングは天王寺の戦いで負けたとこだと思うわ 九鬼嘉隆の海上封鎖と雑賀衆の敗北自体は避けられなかった
宇喜田秀家は家臣分断よりも小早川秀秋の隣になっちゃった時点で詰んだ
明智光秀は毛利に本能寺の変を伝える使者を、秀吉に捕らえられた時点で詰みじゃないかな
それさえなければ毛利の士気は上がってすんなり講和できず、秀吉は大返しできなかった可能性が出てくる
そのせいで秀吉は大返しを決断
武田や蘆名みたいな国衆の離反が相次いで滅亡するパターンが多いと思う。
蘆名はアル中の盛興に家督を継がせた時点で先行きが見えなかったと思います。
上杉(長尾)と武田は川中島でごちゃごちゃやりあっていた時点で詰みに近い。もし両者が早期に手打ちして北信濃の領土境界を確定させていたら織田は危なかった。
それやったら裏切られたと感じた北条が武田の敵に回る。あちらを立てればこちらが立たずってこと。
村上義清は若いとはいえ武田信玄にもかったし
その後、越後に逃れたとはいえ
謙信の軍の編成などにも影響を及ぼしたからもっと評価されてもいい人
村上義清(1501年生まれ)武田信玄(1521年生まれ)
村上義清は「若い武田信玄」に勝ったってことでしょ。
武田は御館の乱でしょう。
真田10倍以上余裕その強さで詰み、尼子経久が生きているうちに毛利を滅ぼさな無かった時点で詰み、毛利は隆元死亡で詰み。黒田頭良すぎて詰み。 12:13
毛利は石高減っただけで存続したから詰みじゃないやろ。輝元はまあ戦略は悪いけど人望はあったし内政もうまかったよう。
@@yaizudamashii
黒田も残ったし、毛利は明治維新に大きく貢献した尼子は一部毛利の家臣、真田は長男は残ったが、あくまで戦国から安土桃山時代の話し。
尼子は新宮党(身内)を粛清した後の中央集権化で尼子晴久が急死したからここで詰み
晴久生きてる頃は尼子家最盛期の領土だったそうだし晴久は有能だ
武田→信玄が負の遺産を残してからでしょ
織田が蔑ろにしたのは幕府であって朝廷は保護してた
そのとおり
みんな勘違いしてるバカばかりだよな
北条は神流川で詰みなきがする…
信長死後の掌返しみたら秀吉は絶対に目をつけてるでしょ。
家康はその後に抜けた空白地帯を狙っただけだし、言い逃れできそうだし。
武田義信健在ならばその後の武田の駿河侵攻もなかったということ。となれば今川は生き延びるか、滅亡はずっと後に延びた。そうなれば家康は今川武田連合軍と遠江を廻って争うことになり、それはかなり不利。
朝倉は宗滴が死んだ時点でほぼ詰み
佐竹はひよって秋田に飛ばれたが、一応20万石以上の大藩として江戸時代も家名を繋いで、今も秋田で知事やってるから勝ち組(笑)
それな
子孫の1人がスーパークリークの生みの親
水戸に美人が少ない文句は佐竹知事まで
確かに佐竹や細川は県知事や総理大臣になったけど、彼らはあくまで「公僕」であって、封建領主とは違いますからね。
武田→三方ヶ原でしょ。あそこで信玄亡くなってなかったらそのまま信長と対峙してそれに呼応して毛利が勢いづくし、長宗我部、三好が同盟組んで信長に対して反旗翻してるわな。そうなれば信長倒せてた。
明智はそもそも本能寺の変を同盟無い状況で起こした時点で積みなんだよな。
例えば上の武田信玄生きていれば本能寺も明智、織田で攻めようと本能寺で休んでる時ならその前に武田信玄と同盟組んでたら最早武田が天下取って、明智は2番手になってたんだよな。
浅井は朝倉についたのが積みなんだよな。そもそも朝倉、浅井2国でも織田には勝てないわけだし、朝倉弱腰(総大将動かない)だし。
秀吉は秀次斬首したときが積みだよな。ただでさえ跡継ぎ出来て無いのに、秀次斬首して家康、利家に頼ったのが積みだわ。
結論、同盟、他人を頼れば積み。自力で切り開ける武田、島津、伊達、織田は天下取れたよ。
織田を天下取っていますよ。伊達、島津、武田は京から遠いですし、拠点も移さないので天下を取るのは難しいと思います。
光秀に関しては安土城で資金獲得→大阪城 兵力獲得→以後拡大で諸将も従わざるを得ない形に持っていけたと思うけど
秀吉が神がかり的だったな
武田は、海に出たかった事を考えれば、上杉と北条は難しい。
今川しかない。
逆に桶狭間の後直ぐに攻めてれば
勝ちゲームだった。
織田家以外の大名は濃尾、伊勢、近江を織田が抑えた段階で天下取りレースから脱落
本能寺で信長が死んで織田家が詰んだ
豊臣は大坂冬の陣での和睦だと思う。もう半年、1年踏ん張れば徳川が詰んでた
造反に対する和平は無いと言って蹴とばせばよかっただけ
豊臣秀頼なんか
徳川秀忠で充分料理出来そうだわな
秀忠は折れた権威に対する対処をしないとならなくなる
毛利、伊達、上杉、自分の兄弟たちに対する対処を迫られる
腐っても旧宗主で、家康相手に和平を蹴ることが出来た相手という位置に秀頼が来るからな
関ケ原の時点まで後退することもありえる
間違ってはいないと思いますがそれは家康が1年後(1616)に死に事がわかっていればですよね
家康が死のうが生きようが折れた権威を立て直すのは尋常じゃ無理
秀頼は家康が全国から動員かけたにもかかわらず倒せなかったという勲章を得ることになる
家康も頑張ればいいというかもしれないが、兵站が続かない
意外にも少なくとも徳川家康は豊臣家存続に熱心だったんですよね。
関ケ原後に豊臣家が直轄領から年貢を取る能力が欠如したと知った家康は豊臣家を手助けして年貢を年貢を豊臣に渡していたほどですから。
豊臣宗家が滅んだのは淀君、秀頼の自滅みたいなもの。
あと、意外にも豊臣家は傍流が江戸時代にもおねの嘆願と家康のはからいで存続してます。
江戸時代に豊臣を姓とした木下家は備中足守、豊後日出、そして旗本寄合近江木下家の三家があります。
それぞれ藩祖は豊臣秀吉正室のおねの兄、木下家定の子供からです。
信長が朝廷を蔑ろにしてたとか未だに言ってるヤツに草
むしろ朝廷にめっちゃ気を遣ってて正親町天皇からも気に入られてたみたいな文献たくさんあるんだが
豊臣は秀長の死亡で詰み。
豊臣は秀長亡くなった時点で詰み説、三好は義興亡くなった時点で詰み説をおします
石田三成は忍城攻略に失敗した時点かな
信長が土下座でも何でも出来たのは弾正忠家て下っ端だったから
守護大名(武田)、守護代(朝倉)が信長に頭下げられる分けが無い
島津(分家出身ですが守護)は信長の指示による大友との停戦プラス大友と共闘して毛利を攻めることに同意していますが?(信長に頭を下げて)
斯波家(尾張国守護)
↓
織田伊勢守家(守護代)
↓
織田大和守家(守護又代)
↓
織田弾正忠家
斯波からすれば陪臣の家臣の家格ですからね
地元の大名は島津との宴会でのしょーもない喧嘩して島津敵に回した時点で終わった
おお!俺と同じ地元民がいた
てかあの立地なら遅かれ早かれ島津に因縁付けられて滅ぼされてただろ
真田は詰んでない。長宗我部は嫡男の信親が戦死した時点で詰み。武田は晴信が国人領主を統制下に置こうとしていた父親の信虎を追放して、有力国人領主達の傀儡になった時点で詰み。あとは皆さんとほぼ同じ意見かな。
確かに「詰んでない」けど、あれだけの実力がありながら小藩で終わった点がね・・・あまりに優れすぎてて警戒されたんでしょうね。
信雄は小牧長久手の戦いで秀吉と和睦しなければかな。仮に小牧長久手の戦いで勝ったとしても、今度は家康と対立して滅亡になりそうだが。
氏真は、頑張って幕臣の旗本の高家筆頭になってて、孫が東照大権現の神号を朝廷から貰ってるんだけど、滅んだじゃねえよ。明治まで続いてるんだよ。
大名としては滅亡
偉大な父を持つ息子は苦労する
武田の場合川中島の戦いかな
信濃統一・越後も取りたかったんだろうけど
川中島の戦いのせいで多くの時・兵・将(武田 信繁・山本勘助)など失ってしまった
もし武田 信繁が生きていたら勝頼も重臣たちとうまくいって信玄も勝頼の副将として信繫を任命して
自分の死後相談して積極的に軍事行動をとるという選択肢もでき、織田が朝倉・浅井を攻めようとしても
武田が攻めることで朝倉・浅井の滅亡が伸びその間に武田家中の体制を整えてもう1度西上作戦を実施できたと思う。
もし長篠の戦いになっても正面から攻撃はしないと思う。
義信は信繁がいっても無理だと思う。(信玄は海を欲しがっていたため)
第四次川中島の戦い(武田軍の侵攻)が無ければ、小田原城が落ちていたので越後から伊豆まで上杉領国になっていた。その方が詰んでいる。
小田原城の戦いがありましたね
でも、小田原城の包囲の時は関東で飢饉が続出して上杉軍内部においても長期に渡る出兵を維持できないとして一部諸将が無断で陣を引き払ったりしたから結局結果は変わらないと思う。
(その後は膠着状態)
それに川中島の戦いが無いから今川攻めが早まったり、今川家の了承を得て三河を攻めそのまま今日を目指したかもしれない
個人的に武田の詰みポイントは長篠城包囲戦
野戦の長篠の戦いじゃなく長篠城攻城戦の方
長篠城さえ落とせていれば織田の援軍が来ても
そう簡単には抜かれないだろうしどうなったかわからない
日向伊東は良く復活できたな
それな
16:59 伊達を勝手に滅ぼすな。サンドウィッチマンに繋がってお笑い界でまで繁栄してるぞ
真田昌幸:沼田城を家康からの明け渡し要求を断った時点で詰み(第一次上田決戦の理由)
明智光秀:信長の首を見つけられない時点で詰み
いや昌幸は関ヶ原で東軍ついてりゃ大丈夫やったろ。息子を徳川と繋いでんだし、だからこそどっちでも家残せる選択できたんじゃん。光秀に関してはあまりにも秀吉が戻るの早すぎた。実際丹羽や信孝の畿内勢や北陸勢は結構出遅れてたし、家康も戻るの時間かかってるし
このスレ皆あの時違ってれば結果は違ってたっていう結果ろんばかりで詰みとは違う気がする。
詰みの定義次第だね〜。
光秀って確か細川親子とか筒井とかに根回ししようとしたけど断られてどうしようとあたふたしてたら秀吉来て\(^o^)/の記憶
豊富は、
①秀次を秀頼が成人するまでの代打ということを本人に約束させ、家中に周知する
②秀次娘を秀頼の正室として婚姻させ、2人の間の男子を豊富宗家の嫡流とする
③秀次の男子は秀長の大和豊富家を引き継ぐ形で、豊富家の筆頭家老家として政権ナンバー2の家格を保証する
ここら辺が出来れば、あと何代かは続いたかな
武田は武田信玄が死んだ時やろ。
それか信玄が息子殺した時。息子殺して安定する前に自分が死んだらそりゃあかんやろ。
秀吉とか安定してるのに、世継ぎの継承問題作って死ぬバカとかもいる。
武田と豊臣は家督相続がスムーズに出来なかったのが痛いですね。
石田の将来確定で暗くて草
しかししっかり子孫は皆生き延びてるんだよな
宇喜多は直家が死んだ時点で秀家が若年だったことが詰みの始まりだと思う。政治のせも理解できていない状態で後継にされた上、秀吉と言う心強いバックにいるので多少無茶言っても家臣は従わざるを得ない。
そして、秀吉と義父の前田利家が死んだ事で本格的に詰んだと思う。
家の詰みと人の詰みをごっちゃにしてるのはおかしい
上杉景勝は神余親綱の言い分を認めなかった時点で詰み。御館の乱はこれが大元。
言いたいことは分かるが上杉は詰んでない
本能寺の変の頃は、まだ大坂城は存在しないのでは?
大阪城は一向一揆本拠の跡地だからあることはある
普通の感覚では行かないし、行っても秀吉にあっさり撃破されてるだろう
そして何故安土城に向かわなかったのかと言われるだろう
跡地どころかある程度矢倉とか設備は整ってるし、織田信澄が入ってた。本能寺の変後に殺されたけど
でも今川氏真や織田信雄は脅威でなかったとか色々あって徳川時代まで残ったからまだマシか? 北条氏康以前ですら危機を乗り越えるのに何度も苦労してるのに氏政は秀吉に抗ったのは駄目だろう。 信玄が病に倒れていなければとは言うが信長に勝てたのかな?
三成は詰んでない説
同感です。三成と光秀は天が味方しなかっただけだと思います。
織田信長→秀吉を拾ったとき
大内のターニングポイントは何処だったんやろ
養嗣子の大内晴持が戦死した時じゃね?
@@歴史ばっかり見ているので運命を つまりやっぱ月山富田か
@@matukawatositane だろうなぁあの時を境に大内の政治が当主参加じゃなく完全に部下任せになってるし、それじゃあ陶晴賢が文治派にぶちぎれるのは仕方ない気がする
@@歴史ばっかり見ているので運命を 月山富田以降、義隆がどうも遷都考えてたから大内氏の守護分国に重税を課して、陶がそれに対して反対しててみたいのは聞いたなぁ
尼子氏のターニングポイントは何処だったか。
尼子経久から尼子晴久の継承と新宮党
粛清かな。
陶晴賢は謀叛は明智光秀よりは成功して
3年間持ち堪えたが毛利元就の離反かな。
北条はご飯粒を食い切るのにかけた汁が足りなかった時点で終わった。
滅亡せずに幕末まで残ったなら詰んではいない❗(* ̄∇ ̄)ノ
北条が秀吉に降伏してたら家康ここまで来れなかったんじゃないかな😢
これ子供が言い合っているのか?
長宗我部は国親が四国に生まれてしまった時点で詰み
真田昌幸とか言う神なお西軍がクソ雑魚過ぎた
氏真君は、無能とまでは言えないが、周りが凄すぎた、それでも天寿を真っ当し、家名を伝えただけでもですね。
内ヶ島氏…
朝倉 義景のやる気のなさ&上洛命令に従わなかった。
浅井 信長ではなく朝倉を選んだ時点。
武田 信玄の死
上杉 謙信の死&御館の乱
豊臣 秀長の死&秀次事件
真田別に滅んでないんだが
昌幸個人の話でしょ
武田は上杉と争ってる時点で詰みだよな
さっさと美濃尾張攻めれば良かったんや
秀吉に関しては掘れば有象無象でしょう
関ケ原後に東軍の武闘派は30万石とか50万石とか加増されてたけど、10万石以上は権力争いやお家騒動等が起きて滅びる元凶なのを誰も認識していなかったのは、何でも与える秀吉自身が知らなくて教わってなかったから詰んでいたと
秀吉は小一郎が死んだとこ
光秀は藤孝さんに捨てられたとこかな
ぱわわ(龍造寺隆信):デブった時点で積み(沖田畷で泥濘に籠手達が足を取られて籠から落下した所を島津軍の川上忠堅に討ち取られる。痩せとけw😅)
光秀は本能寺でしっかり信長の首を取っていたらワンチャン詰んでなかったかもしれない
万が一信長が逃げ延びている可能性があったらと思うと光秀の味方に付くのはリスクがでかすぎる
元スレ見たいんだが
未だに『信長が朝廷を蔑ろにした』なんて阿呆な説を出す奴がいるとはねぇ。
令和の現在有名な楽市楽座も言うほど画期的な施策では無かった事や、『信長=保守派』って説も有力になってきているのにね。
今川は太原雪斎が死んだ時点で詰んでた